GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

広島県外の話題・景観

11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(14)

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 ふ~ん、〝さぬき市歴史民俗資料館〟は、最初に入りました建物の後方にも資料館がありまして、こちらに入館は有料でありました(^.-)☆
 が、公営ですから入館料は、『一般100円、大・高校生70円、小・中学生50円』と低料金ではあります(^_^)v

 ◆史跡(国指定)富田茶臼山古墳

 茶臼山古墳は、大和朝廷ができる前、5世紀頃に、大和連合からの規制のゆるんだ時期に造られてもので、この地方では勢力の最も強い豪族の古墳である。
 古墳は、西向きで全長約139m、三段に築かれ、高さは約16m、後円部直径約87mの規模を持つ四国最大の古墳である。平成元年8月に行われた確認調査の結果、周囲に幅5~20m、深さ1~2mの濠左右対称に盾形でめぐらされていたことがわかった。
 古墳の墳丘や濠から、円筒埴輪・家型埴輪や葺石(ふきいし)などが発見されているが、服飾品は不明。埋葬施設は竪穴式石室であろうと推測される。
 前方後円墳としてのこの古墳の規模は大きく、ほぼ完全な形で保存され、5世紀の謎を解く鍵を秘めているところに特徴があり、今後の調査が期待される。

 ◆明治維新後の理平焼

 10代理兵衛は1864年から1866年京都の3代高橋道八の元で修業し、乾山写しの色絵手法を習得した。明治3年に藩の保護が無くなると、名を理兵衛から理平に改名し、色んな道を模索し始める。
 明治27年から香川県監獄署にて呉須で絵付けされた半磁器に特徴ある茶器など、また敷瓦や土瓶等の技術指導を行う。その後、煉瓦生産にも手がけた。明治33年には理兵衛焼の古地である栗林公園北口に登窯を再興した。
 11代理平は大正5年には陶器組合「讃陶舎」を設立して、新たな時代に合った伝統技術の再生に尽力した。
 12代理平福寿は、昭和19年32歳の若さで中国で戦死、その子克美は2歳だった。克美(13代紀太理平)は京都工芸所で久保駒太郎に2年間師事、さらに、粟田口の伊東陶山のもとで4年間修行した。

 ◆富田焼

 (1)陶郷としての富田

 讃岐の「焼きもの」は、理兵衛と源内焼の二系統に大別することができる。そのいずれもが「富田」に関連して発展している。
 約三百年前、京の陶工森島作兵衛は、讃岐高松に招かれて、理平焼を興すがこの時、富田丸山の陶土を用いて作陶している。また、その後、五代目理兵衛弥助が一時期高松から富田吉金に窯を移して作陶した。これが、富田焼の始まりである。
 天明年間には、平賀源内の弟子赤松松山が吉金で製陶し、この時は異国風の陶器のほか「南京染付」と呼ばれる「磁器」を焼いていることが注目される。
 この後を受けて富永助三郎を総帥とする多くの焼物師が、茶碗から土管まで多種多様な日曜雑器を焼き、更に享保年間には斎藤要助が南川横井に斎藤焼を興した。
 天保年間には、富永庸八が美術工芸品として富田焼を焼き、その作風は尚八に継がされている。また吉金窯が廃窯となったのち一部の陶工達は、その技術を生かして土瓶の製造を始めている。これが「吉金どびん」となった。
 大正期には、地元で茶碗会社と呼ばれた、香川県製陶会社が創立されて日用器としての富田焼俄作られ、その後は同社に関係していた藤田広一・向井南洋などが個人窯を築いて富田焼を焼いている。
 戦後は田中富八から紀太理光を経て現在に至っている。
 製陶には、よい陶土、豊富な燃料、水車のあめの水、そして優れた陶工達などの条件に恵まれなければならず、大川町富田は、これらの製陶条件に恵まれた讃岐の陶郷であった。

 (2)窯跡と陶片

 古くから焼き物が盛んであった大川町内には大小の窯跡が各所に残っている。なかでも次の三つの窯跡は代表的なものである。

 ①吉金窯跡=この窯跡は、JR神前駅近くの三次山東面にあり、富田焼を代表する大規模なもので、長い間、多くの陶工達によって数多くの作品が焼成されている。昭和43年3月の発掘調査によって判明した窯は、八房の焼成室を持つ全長40m、高低差9mの登り窯である。現在県指定の史跡となっている。
 ②斎藤窯跡=南川横井の滝の宮神社の参道南側にあったが現在は木材搬出道になり残っていない。窯の大きさは、未調査のため不明であるが吉金窯の半分程度と推定される。この窯も吉金窯と同じものを焼いておりその分窯である。
 なお、この窯が注目されるのは操窯に関する詳細な記録が代々、斎藤家に保存されていることである。
 ③平尾窯跡=筒野の五井池西岸の平尾家の前庭にも登り窯跡がある。昭和47年大川町教委による発掘調査で三房の焼成室が確認されるとともに刻銘のあるものなど多くの陶片が出土している。

 ・陶片
 窯跡の近くに「物原」とか「灰原」とかと呼ばれるところがあって、ここには不備な製品や窯道具、灰などが捨てられている。ここから出土する陶片によって作風、年代などを知る事が出来ることから焼きもの研究上重要である。
 例えば展示の陶片を参照して頂けば解るように、吉金窯跡出土の陶片は、各種の日用雑器や染付磁器、源内焼との関係を示す異国風の素焼片などがあり、更に記録のあるものとして理兵焼の印や「富田」「氏山」などがあり、窯道具には、○○、岩、などがあり共同窯の性格がうかがわれる。

 ◆富田焼きの由来

 --- http://www.rikoukita.com/profile.html ---

 四国高松から東へ約五里、阿讃山麓の丘陵地帯に位置する大川町富田は良質の陶土を産し、江戸時代、焼きものの里として栄えたところであった。
 もともと讃岐は、古くから製陶の盛んな国として知られ、正倉院の記録によれば、すでに奈良時代から特産物として、朝廷に焼きものが納められている。
 江戸時代には、讃岐お国焼として、理兵衛焼、源内焼、冨田焼、屋島焼、讃窯などが名声を高めた。
 なかでも理兵衛焼は、高松藩祖 松平頼重公が京都より招いた森島作兵衛が、慶安二年、紀太理平衛と改名し創窯。富田の陶土を用いて、優美な色絵陶器を焼成した。
 吉金3享保三年、四代目理兵衛 が富田に窯を持ち、富田印の美しい色絵陶を残した。
 天明、寛政年間に、このあとを受けて、平賀源内高弟の赤松松山が、南京染付を中心とした富田焼を焼成し、ついで化政期から天保年間にかけて、富永助三郎が多くの焼物師たちを指導しながら日用雑器を大規模に焼いている。
 県指定史跡「冨田焼吉金窯跡」は、この時期のものである。
 昭和五十一年春、理平焼十三代の実弟・紀太理光が、始祖ゆかりの富田の地に陶房を築き、富田焼吉金窯を再興した。

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11/20(日)は、「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域行きでした(^.-)☆(13)

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 それでは、〝さぬき市歴史民俗資料館〟へ入館です。
 入るとスグに大川町の模型図が…

 ◆水利土木功労者・軒原庄蔵

 文政11年、富田中村に生まれる。当時の庄屋・軒原庄蔵は漏水甚だしい「みろく大掛井」の惨状に苦慮し、玄光谷より三ツ石に至る山底の掘り抜き導水を企画、安政2年ようやく許可を得て、東西双方より昼夜3年の掘り抜き工事を実施。庄蔵の卓越せる技術によって安政4年、105年間に及ぶ石穴が完通した。
 この偉業により富田中村の田は永久に水利の便益をうける事となった。文政5年、弥勒池普請成就の功により郷侍格(ごうふかく)を申しつけられた。なお、工事監督した田面村の多田信蔵(画家霞岳)、更に地勢の高低を測定して両穴の連結を方向付けた富田中村の算数学者、萩原栄次郎があった事を忘れてはならない。
 その後、明治2年8月、高松藩より満濃池穿さく工事御用を任命され明治3年3月、30間5尺余の穿さく工事に成功した。その土木技術のすばらしさは、さぬき溜池史にさん然と輝いている。明治23年、63歳で逝去された。

 ◆『弥勒石穴』

 --- 木学会四国支部 土木紀行 No.84 ---
 (http://doboku7.sakura.ne.jp/kikou/dobokukikou84.pdf)

 ・弥勒石穴

 土木学会がまとめた「日本の近代土木遺産」(改訂版)には、日本各地に散在する重要な土木構造物が、2,800件まとめられています。
 香川県の項を開くと50件あまりの構造物等が記載されていますが、その分布を見ると高松市より西(西讃地域)がほとんどで、東部(東讃地域、ここでは小豆島を除く)にあるものは、口船隧道(東かがわ市)、津田川橋(さぬき市)、鴨部川水系の砂防堰堤群(さぬき市)の3件しかありません。
 これは西讃地域の人口が多く、道路や鉄道などの社会基盤整備や渇水対策が早くから進んだことが影響していると思われます。しかし東讃にも近代土木遺産からは漏れているものの、地域社会の発展に寄与した歴史的土木構造物はあります。
 ここではその1つ「弥勒石穴」を紹介したいと思います。石穴とは隧道(ずいどう)、トンネルの事です。なお弥勒石穴が「日本の近代土木遺産」から漏れているのは築造期が江戸時代末期であるためだと思われます。

 ・香川のため池と川の問題

 「弥勒石穴」は、香川県さぬき市内の「みろく自然公園」内にあるため池の1つ、弥勒池の最上流端、香川県さぬき市大川町富田中3519-1地先にあります。
 香川県は雨が少ないので、ため池が各所にありますが、谷部を利用したため池は背後の集水域が狭いため、水がなかなか貯まりません。弥勒池もそのようなため池です。
 そこで対策として近隣の河川から掛井(導水路)を作って河川水を貯める工夫をするのですが、ここに香川県特有の地形・地質的障害が立ちはだかります。
 香川県の川を観察すると面白いことに気づきます。それは平野部では河道に水がほとんど流れていないのに山間部では水が豊富に流れているということです。例えば高松市街西部を流れる香東川下流の河道は砂漠とも言えるような光景が多く、普段、表流水はほとんどありません。しかし並行する国道193号を南下して塩江温泉付近の山間部まで来ると、これが同じ香東川なのか、と水量の豊富さに驚きます。
 普通の川は下流の水量が上流より多いのですが、香川県を流れる川の多くは下流よりも上流の水量が多いのです。これは讃岐平野、特に山間部出口が透水性の高い砂で覆われていることが主な原因です。山間
部では川底は岩盤が露出していることから分かるように、表流水は川底をしみ込まずに流れることができますが、山間部を出ると川底が浸透性の高い砂地になるため、表流水はあっという間に漏水(浸透)して地下水になってしまいます。

 ・大掛井工事と石穴工事

 弥勒池の東を流れる津田川は讃岐の典型的な川の1つで、表流水の多くが山間部出口で地下水になるような川です。1828(文政12)年に有馬胤滋によって津田川・砕石(われいし)から弥勒池まで全長2.6kmの大掛井(導水路)が完成しても、漏水が多く十分な水が弥勒池に届かなかったことも多かったようです。弥勒池、津田川、砕石の位置関係は末尾の図1を参照して下さい。現在であればコンクリート等を使って水が地中に浸透しないようにもできますが、昔はそのような材料はありません。また掛井の高低差にも問題があったようで、水が池にうまく入らなかったこともあったようです。
 大掛井が完成してから20年間ほどの弥勒池は『器あれど盛る水なし』と言われる状態でした。こうした有様を憂慮した富田中村の庄屋である軒原庄蔵は、弥勒池と津田川を隔てる尾根の地下に石穴(隧道、トンネル)を通して導水すれば水不足が解消できるのではないかと考えました。尾根部の地下は固い岩盤なので大掛井のように漏水する心配が殆どなくなるほか、水路の距離が短くなるので、水路の勾配を大きくとることができて水が通りやすくなるという利点もあったようです。
 1855(安政2)年に高松藩に願い出たところ「石穴掘抜方御用掛」に任命され、弥勒池南にある三つ石山の岩盤を東西双方から掘り進めました。この大工事では“数学者”萩原栄次郎が地勢の高低を測量して両穴の連結を方向付け、“画家”多田信蔵が工事監督を務めたそうで、高い技術を持つ2人の協力なくては実現できませんでした。
 実際の堀作業は金右衛門と奥次の2人の石工が請け負い、昼夜12人交代で進めたそうです。手ノミ一つで掘り抜く大工事でしたが、1857(安政4)年に長さ百五間(約190m)の石穴が無事貫通し、ようやく水不
足から脱しました。
 この弥勒石穴は平成12年2月に国指定登録有形文化財(建造物)に指定されています。軒原庄蔵は1890(明治23)年に63歳で逝去されました。
 「弥勒石穴」は「みろく自然公園内」のキャンプ場脇にあります。公園内の案内板にも示されていますので迷うことなくたどり着けます。実際の石穴を見ると断面がとても小さいことに驚き、窮屈な姿勢での
掘り抜き工事は大変な重労働であったことが推察されます。

 ◆据風呂

 -- へそ風呂と鉄砲風呂 --

 据風呂は移動可能で、玄関左の縁側などによく見られたそうです。現在のように各家庭に風呂場と浴槽が普及する以前には、もらい風呂の習慣を経験する人も多かった。
 家庭用の風呂のはしりであるヘソブロは、燃焼施設を桶の下側にはめ込んだ据風呂で、燃焼部に触れてよく子供が火傷をした。
 江戸後期以降には結い桶の下部に筒型の焚き口通風穴を、上部に煙突を出し、湯船に格子を設けた鉄砲風呂が江戸を中心に広がった。
 江戸では担い風呂といって、風呂桶を移動しながら入浴させる銭湯もあった。

 ◆行火(あんか)
 行火は、一人用の置き炬燵で、持ち動かせる暖房器具の一つです。火入れにおこした炭か豆炭を入れ、粘土でできた素焼きの器の中に入れます。そのまま手や足をあてたり、行火に布団をかけ、布団に入れ温まりました。

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 〝道の駅「みろく」〟とお別れしますと、次に向かいますのが「さぬき市歴史民俗資料館」です。

 ◆さぬき市歴史民俗資料館

 みろく自然公園の中にあるこの資料館は、四国最大の富田茶臼山古墳、ため池を造り守った人達、昔の生活について等、周辺地域の特色ある考古や歴史、民俗資料をわかりやすく系統的に展示しています。

 ・基本情報
 住所 -- 〒761-0902 香川県さぬき市大川町富田中3286
 電話番号 -- 0879-43-6401
 営業時間 -- 9:00~16:30(閉館17:00)
 定休日 -- 毎週水曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
 料金 -- 一般100円、大学・高校生70円、小中学生50円 (※団体割引あり)
 ※ 当ページ記載の料金は、令和元年10月1日時点の料金です。
 駐車場 -- みろく自然公園内
 ウェブサイト -- 公式サイトを見る(http://ew.sanuki.ne.jp/rekimin/index.html)

 ◆さぬき市歴史民俗資料館の魅力に迫る!!

 --- https://www.city.sanuki.kagawa.jp/eetoko/shiryo-kan/ ---

 みろく自然公園内にあるさぬき市歴史民俗資料館には、さぬき市にある四国最大規模を誇る富田茶臼山古墳をはじめとする古墳からの出土品やふる里の貴重な歴史民俗資料が収集・整理され、見る人にわかりやすく系統的に展示されています。 管理人の豊田さんに案内していただきました。

 ・全国でも22個しか出土されていない巴形銅器が8個も!
 ふる里の今昔がわかる江戸末期の庄屋宅を復元した「伝習館」。 弥生・古墳文化時代や奈良、平安時代の出土物など資料を展示した「考古」。 中世山城、雨滝城跡発掘調査出土資料などの「歴史」。 近世以降の伝統的な生活用具・生産用具などを収集し、展示した「民俗」。 寺小屋以降の教育資料がある「教育」。 以上の5つのテーマで常設展示されています。

 ・体験者より一言
 *体験した松木さん
 さぬき市内には四国最大級の前方後円墳・茶臼山古墳をはじめ多くの古墳があります。 歴史民俗資料館では多くの出土品、昔の農耕具が展示されています。資料館の奥にはオート三輪K-360もあり、昭和の古き良き時代に浸ることができますよ。
 *体験した土岐さん
 映画でしか見たことがないような生活道具に囲まれて、タイムスリップ! 実際に手に取って体験することもでき、歴史の勉強にも最適です。

 …と、こんな〝さぬき市歴史民俗資料館〟であります(^-^)//"

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 周辺の田園風景に眼を向けながら、ノンビリと道の駅に向かいます。見廻しておりますと、紅葉が大変キレイです(^_^)v
 ヤッと〝みろくふれあい市場〟まで戻って来ました。
 市場には、『がんばって営業中!』の看板が…でも、これは、どぅいぅ意味なんでしょうねぇ~「コロナに負けず頑張っています」と言う意味なんでしょうか…それとも、「諸物価高騰の中、低価格で頑張っています」と言う意味なのかも…
 それを確認する間もなく、皆さんトイレに急行です。行ける時に行っておきませんと(^-^)//"

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 〝弥勒菩薩〟とお別れしますと、〝みろく通池公園〟の周囲を廻るようなルートで〝道の駅「みろく」〟へと戻ります。
 〝みろく通池公園〟の一角には、こんな竣工記念碑の碑文が…

 ◆竣工記念碑

 --- 県営ほ場整備事業 大川地区 ---

 本地区は、大川町のほぼ中央部に位置し二級河川津田川と爛川に囲まれた平坦な水田地帯と、津田川より北側の山麓地帯、及び本村川両岸に広がる棚田地帯から成っている。
 耕地は狭小で不整形、耕作道路も狭く、大型機械の搬入が困難で耕作に多大な労力を必要としていた。また、地区の用水系統は九つの井椻と四十余のため池で、これらが入り混じり複雑な水利慣行を形成し、水路は用排兼用の土水路が主で、用水管理に多くの労力を必要としていた。
 そこで受益者各位の熱意と関係機関の協力によりほ場の区画形状を整備し、安定的な補給水を香川用水で確保するとともに、パイプラインにより水利を統合し、水管理の合理化、土地利用の効率化、労働生産性の向上を図るため、県営ほ場整備事業に昭和六十三年度着手し、十年余の工事期間を経て竣工するに至った。
 ここに、後世この地に住む者がこの碑の前に立つ時、この事業の意義を慮るとともに、更に地域の向上発展に寄与せられんことを願い碑文とする。

 …と、こんな記載でありました。
 富田茶臼山公園の東側に位置しますこの〝みろく通池公園〟も、それなりにイィ公園なんでしょうけど、立地的に利用度は今一の感も…ですが、整備は行き届いておりましたネ(^-^)//"

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 後円部の墳頂の東側には石段がありまして、これを下って行きますと、降りたところの左側に祠が存在し、中には弥勒菩薩が祀られておりました。

 ◆西岡の弥勒菩薩

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 さぬき市指定有形文化財(彫刻)。
 富田茶臼山古墳の後円部東側に祀られる弥勒菩薩の石仏。鎌倉時代後期から南北朝時代の間の作と推定される。かつて古墳そばの池から出土し、のち現在地に移し祀られたという。昭和47年8月22日指定。

 ◆西岡の弥勒菩薩(みろくぼさつ) --さぬき市指定文化財--

 --- 祠内の説明板より ---

 この石仏は弥勒菩薩と言い伝えられ、石材は火山の凝灰岩(ぎょうかいがん)が使用されています。頭部が欠落しているため別のものが置かれ、膝も二つに割れていますが大型であること、法衣(ほうえ)が表現されていることから鎌倉時代後期~南北朝(約700年前)にかけて作られたと考えられています。
 言い伝えによると約300年前、この下にある「通り池」(現在は通池公園になっています)を掘った際、この本尊の石仏が出たのでおまつりされるようになりました。現在の場所に移される前は、通り池の西に庵がありそこに安置されていました。その後、現在地に移され地元の方が毎日交代でお世話をされ、今も大切に守られている貴重な石造物です。(さぬき市教育委員会/さぬき市文化財保護協会)

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 それでは、前方部から後円部に向かいます。
 後円部の墳頂に有りますのが〝妙見神社〟ですネ。
 後円部の傍らに説明板が設けられていますので、眼を通してみますと、

 ◆史跡 富田茶臼山古墳(とみだちゃうすやまこふん)

 --- 平成5年7月26日指定 ---

 富田茶臼山古墳は、5世紀前半に造られた四国最大の前方後円墳です。
 平成元年に行われた確認調査によって、全長は139m、後円部の直径91m・高さ15.7m、前方部の長さ48m・幅77m・高さ11.8mの大きさであり、四国最大の古墳であることが改めて分かりました。また、墳丘は三段に築かれ、古墳の周囲に周濠が巡らされていることも分かりました。さらに、墳丘や周濠から円筒埴輪や形象埴輪などが発見されました。
 この古墳の西側も平成5~8年にかけて調査が行われ、三基の陪塚(ばいちょう)が確認されました。陪塚とは、大型の古墳を主墳とし、それに従属するように同じ時期に計画的にその周囲や隣接地にある小型の古墳です。陪塚の大きさは一辺14~24mあり、三基とも四角い形をした方墳です。
 これらのことから富田茶臼山古墳は、四国を代表する首長墓であることが分かります。

 --- さぬき市教育委員会 さぬき市文化財保護教会 ---

 …と、こんな記載がありました。この説明板の左下には、富田茶臼山古墳平面図と3基の陪塚位置図の記載も。
 富田茶臼山古墳の後で〝さぬき市「歴史民俗資料館」〟向かいましたけど、そこで貰いましたパンフに眼を通しますと、

 ◆四国最大の富田茶臼山古墳の謎

 《ミステリーⅠ》大川町に、なぜ巨大古墳がつくられたのだろうか…?
 ①前方後円墳とは…
 古墳には、前方後円・前方後方・円・方などいろいろの形があります。このような形のちがいや、古墳の大きさによって豪族の地位や、力の大きさをあらわしていました。
 これらのうち、前方後円墳はもっとも力の強い豪族にあたえられたものです。
 ②中国・四国・九州地方の各県ナンバーワン前方後円墳の大きさくらべ
 造山(岡山)--全長360m、女狭穂塚(宮崎)--全長174m、富田茶臼山(香川)--全長139m、岩戸山(福岡)--全長138m、大塚(鹿児島)--全長137m、亀塚(大分)--全長120m、北山(鳥取)--全長110m、渋野丸山(徳島)--全長90m、三ツ城(広島)--全長84m、相の谷1号(愛媛)--全長82m
 ③東讃地方の古墳時代
 4世紀の東讃地方には、小豪族がたくさんいました。5世紀になると、これらの勢力は消えてしまい、かわって巨大な富田茶臼山古墳がつくられました。ほうむられた人は、大川郡を治めていた大豪族であったと考えられています。

 《ミステリーⅡ》どのようにして巨大古墳が造られたのだろうか…?
 ①古墳の場所を決める
 民衆に力を見せつけるために、むらに近い小高い丘の上に場所が決められました。
 ②古墳を設計する
 完全に左右対称にの形につくるため、正確に設計し測量していました。
 墳丘に盛った土がくずれないように、斜面の角度も計算されていました。
 ③つくる人を集める
 測量、天文、土木技術など高度の知識を持った少数の人々と、実際に土を掘ったり運んだりする、肉体労働にあたるたくさんの人々が集められました。
 ④いよいよ工事にかかる
 設計図通りに正確に巨大な古墳を造るためには、高度な土木技術が必要でした。
 また、工事に使われた人々の苦労はたいへんなものだったと思われます。
 ・盛られた土の量--約4万㎡(11tダンプカーで約7千台分)
 ・使われた埴輪の本数--まわりにぐるっとめぐらしたので、しめて約2千本。
 ・工事にかかわった延べ人数--約10万人(当時大川郡の人口は、約千人~2千人と推定)
 ・工事に要した費用--およそ5億円~10億円。
 ・第一次発掘調査で(1990年8月)で分かったこと
  *古墳の形・造り方--墳丘も、堀も左右対称。3段に造られている。
  *古墳の大きさ--長さ139m、高さ15m。
  *古墳が造られた時期--5世紀前半。
  *埴輪の立て方--格段の平坦なところに、ぐるっとめぐらされている。

 《ミステリーⅢ》ますます古代のロマンが広がる、富田茶臼山古墳…
 ①前方部を真西に向け、正確に3段筑成されている。
 ②円筒埴輪がきちんとならべられている--第一次発掘調査による埴輪列の発見。
 ③復元整備すると…
 元の姿に整備された兵庫県神戸市にある「五色塚古墳」。

 …と、こんな説明が記載されておりました(^-^)//"

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 富田茶臼山古墳の南側に到着し、まずは前方部に向かいます。
 この古墳は東西に主軸で、前方部が西側に、後円部が東側に位置します。

 ◆富田茶臼山古墳

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 富田茶臼山古墳(とみだちゃうすやまこふん/とみたちゃうすやまこふん)は、香川県さぬき市大川町富田中(とみだなか)にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。
 四国地方では最大規模の古墳で、5世紀前半(古墳時代中期前半)頃の築造と推定される。

 ・概要

 香川県東部、長尾平野東縁の低丘陵縁部に築造された大型前方後円墳である。地元では墳丘上の埴輪に由来して「千壺山」とも称される。現在は墳頂に妙見神社が、後円部東側に弥勒菩薩が祀られている。墳丘北側の一部は県道10号線の建設のため削られているほか、墳丘の一部では開墾・住宅建設による改変を受けているが、その他の部分では概ね良好に遺存する。これまでに1989年度(平成元年度)に古墳域の、1993-1996年度(平成5-8年度)に周辺域の発掘調査が実施されている。

 墳形は前方後円形で、前方部を西方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は139メートルを測るが、これは四国地方で最大規模になり、第2位の規模の渋野丸山古墳(徳島県徳島市、105メートル)に比べても大きく傑出する。墳丘表面では埴輪(円筒埴輪・朝顔形埴輪・蓋形埴輪・家形埴輪、推計3,000本)のほか、葺石(2段目・3段目のみ)が検出されている。墳丘周囲には盾形の周濠が巡らされているほか、南側・北側には周庭帯も有し、周濠を含めた古墳の全長は163メートルにも及ぶ。埋葬施設は不明であるが、明治期に後円部墳頂で土俵を設置しようとした際に石室の天井石が掘り当てられたと伝えられ、竪穴式石室の存在が推測される。なお、前方部側では陪塚として方墳3基も認められている。

 この富田茶臼山古墳は、古墳時代中期前半の5世紀前半頃(一説に5世紀初頭頃)の築造と推定される。讃岐地方の古墳の主丘(円部)の大きさは、古墳時代前期中頃までで直径30-40メートル程度(高松茶臼山古墳・猫塚古墳)であったが、前期後半の快天山古墳(丸亀市)で直径60メートル程度、中期前半の本古墳で直径90メートル程度と大きく飛躍する。同時に、本古墳に至ると前期古墳の地域色も薄れて畿内色を強めており、ヤマト王権から支援を受けた一方で王権への系列化が進んだ様相を示す。東讃地域に限ると、古墳時代前期には津田湾周辺における津田古墳群の営造が知られるが、それら古墳群の消滅と呼応して富田茶臼山古墳が出現しており、ヤマト王権と強く結び付いた富田茶臼山古墳の被葬者が東讃地域を基盤として強い勢力を有したことを示唆する。合わせて、当地は古墳の北側に古代南海道が推定される交通上の要衝になることから、沿岸部の海路(津田湾)から内陸部の陸路(南海道)への意識の移行を見る説も挙げられる。

 古墳域は1993年(平成5年)に国の史跡に指定されている。

 ・来歴

 延享2年(1745年)の『三代物語』に、「茶臼山」として日本武尊の墓に比定する説の記載。
 文政11年(1828年)の『全讃史』に、「仁徳帝陵」や「茶臼山」として、「茶臼山城」として記載。
 明治期、後円部墳頂での土俵設置の際に石室天井石を確認。
 1989年度(平成元年度)、発掘調査(旧大川町教育委員会)。
 1993年(平成5年)7月26日、国の史跡に指定。
 12月18日、県営圃場整備事業に伴う試掘調査(旧大川町教育委員会)。
 1994年度・1996年度(平成6年度・8年度)、個人住宅建設に先立つ発掘調査(旧大川町教育委員会)。

 ・陪塚

 富田茶臼山古墳の陪塚(陪冢)としては、次の方墳3基が知られる。いずれも後世に削平を受けて現在は地面にほぼ表出しないが、1993-1996年度(平成5-8年度)の発掘調査で確認された。
 1号陪塚(北緯34度15分37.11秒 東経134度14分32.76秒)-- 長方形で、長辺16メートル×短辺14メートル。葺石・円筒埴輪が検出されている。
 2号陪塚(北緯34度15分34.41秒 東経134度14分33.65秒)-- 長方形で、長辺24メートル×短辺20メートル。墳丘は2段築成。葺石・円筒埴輪が検出されている。
 3号陪塚(北緯34度15分33.18秒 東経134度14分34.37秒)-- 方形(推定)で、一辺20-24メートル。円筒埴輪が検出されている。葺石は不明。
 これら古墳3基の築造企画には富田茶臼山古墳本体の築造企画との一致が見られ、富田茶臼山古墳の築造当初からの計画的配置が推測される。

 ※ 陪塚

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 陪塚(ばいちょう・ばいづか、陪冢とも)は、日本の古墳時代に築造された古墳の様式。
 大型の古墳とともに古墳群をなす小型の古墳であり、なおかつ大型の古墳と同一の時代に、その周囲に計画的に付随するように築造されたとみなされるものを指す。中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するもののほか、大型の古墳の埋葬者のための副葬品を埋納するために築造されたものもあると考えられている。

 …と、こんな「富田茶臼山古墳」であります(^.-)☆

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 〝道の駅「みろく」〟に到着しますと、ここでバスから下車。歩いて「富田茶臼山古墳」へと向かいます。

 ◆道の駅「みろく」

 ・駐車場 -- 大型4台、普通50台、身障者用2台
 ・問い合わせ先 -- 0879-43-0550
 ・営業時間 -- ベーカリー、乳製品等(物産館) 9:00~17:00
 ・定休日 -- 水曜日

 道の駅「みろく」は、さぬき市大川町のほぼ中心に位置し高松と徳島を結ぶ主要幹線道路〝高松長尾大内線(県道10号線)さぬき東街道〟沿いにあります。緑地公園、情報室などがあり、人々に憩いの場としてご利用いただけるよう誕生しました。観光インフォメーションで、市内のみどころ・物産品などの情報を提供しています。

 …と、こんな道の駅ではありますけど、時間の関係で、ここはバス駐車場として利用するのみのようでした(^.-)☆
 〝高松長尾大内線(県道10号線)さぬき東街道〟を跨ぎます歩道橋を進んで行きますと、前方の正面方向に、こんもりとした山が…ここが「富田茶臼山古墳」のようであります(^-^)//"

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 四国最古級という事が分かって来ています「うのべ山古墳」ですけど、この古墳の発掘はまだされておりませんとの事。
 未発掘とは予算の関係も有るのかもわかりませんけど、盗掘もされていませんでしょうから、将来の発掘調査が楽しみではありますねぇ~でも、いつまでも未発掘のままなのかも(^-^)
 そもそも古墳は、時の権力者のお墓ですから、見栄えも随分考慮し造られているでしょうし、この「うのべ山古墳」も、海辺から見える方向部分だけ大きく造られており、後円部の裾も広げてあるようですからチョッと笑えます(^-^)
 そもそも、「前方後円墳」の〝向き〟は特に無いようですから、後円部が東西南北のいずれに向こうと構わないのだと思うのですけど…
 古墳ド素人のGONsanが勝手にそぅ思っているだけかも分かりませんので、チョッとWEB上で確認です。
 うん、うん、こんな記述がありましたネ(^.-)☆

 ◆Yahoo! JAPAN 知恵袋
 --- https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1275376312 ---

 ・2011/11/13 17:57
 前方後円墳の向きってありますか?写真だと円の部分が大体北から西にかけて向いてるのですが…
 出来るだけ詳しくお願いします

 ・ベストアンサー
 -- オニイサンさん 2011/11/13 19:13 --
 日本の墳墓の中で、前方後円墳の場合は特に固有の方角を向いているのが特徴です。従って「向きってあります」。固有の方角が其処に葬られた故人の命日をメモリアルしていました。従って、固有の方角が決め手になります。
 ところが、ニュースや観光ガイドとか歴史書では、有名な古墳を写真にします。しかしそのような写真を見れば、形だけで肝心の方角が殆ど明示されていません。
 写真を撮る場合は、円の部分を軸にしたほうが「様になる」と即断しての事です。従って其れを見た私たちは、一般市販の地図の上が北なので、写真の場合も「上が北だろう」と想像する事になります。しかし実際に各地の古墳を調べて行けば、決して「円の部分が大体北から西にかけて向いてる」ケースだけでは有りません。
 実際は各々が360度の方角の中の特定の方角を黙示しています。
 更に詳しく云えば、1年が366日ありますから366度の角度で固有の命日を地形に築きあげて黙示したのが古来太陽信仰の日本の葬法であり、墳墓の様式でした。
 ただ現在の日本の考古学は西洋史観による埋蔵文化財と云う見方が基本の為、太陽の位置や角度については無関心であり、特に現在の物質万能科学信仰の人たちは、「方位は迷信であり非科学的だ」と誤信しているために此の回答も無視される事でしょう。
 でも古墳には各々個別の方位が有った事実を知れば、埋葬された被葬者が誰かが明確に判明するのですから面白いですよ!!

 …と、こんな記述が。
 分かったような分からないような〝アンサー〟ですけど、要するに『向き』は自由と言う事なんでしょうねぇ~
 この後で向かいます「富田茶臼山古墳」も、東西南北に関係なく、当時の街道から眼にして見栄えの良い感じで造られていますようであります(^.-)☆
 それでは、この辺で〝うのべ山古墳〟とお別れで、次は〝富田茶臼山古墳〟に向かいます(^-^)//"

 ◆富田茶臼山古墳

 古墳時代前期後半になると、津田湾沿岸部における首長墓の築造活動は終焉します。入れ替わるように、中期初頭に内陸部に出現したのが、富田茶臼山古墳です。全長139m。四国最大の古墳です。
 津田古墳群においては、前期中ごろから徐々に畿内地域の影響が強くなり、そして、富田茶臼山古墳ではさらに発展します。畿内の巨大古墳とは以下の共通点が指摘されています。
 ①三段に築造された墳丘。②周庭帯と周濠の存在。③陪塚(三基の方墳)の存在です。墳丘からは円筒埴輪、朝顔型埴輪、形象埴輪等が発見されています。埋葬施設については未調査です。
 富田茶臼山古墳は南部から下ってくる尾根の先端を利用して墳丘を築造しています。通常は尾根の主軸を墳丘の主軸として築造するのですが、この古墳は尾根の主軸と墳丘の主軸が直交しています。古墳の側面(北側)を意識した造りになっています。これは三基の陪塚の位置関係からも伺えます。
 なお、後円部登り口横に、弥勒菩薩の石仏が祀られています(西岡の弥勒菩薩)。かって古墳そばの池から出土し、のち現在地に移し祀られたそうです。鎌倉時代後期から南北朝時代の間の作と推定されています。さぬき市指定有形文化財(彫刻)に指定されています。

 -- 当日貰った〝備陽史探訪の会〟資料より --

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 〝後円部〟の裾には説明板が…説明板には、こんな記載がありました(^.-)☆

 ◆四国最古級の前方後円墳 うのべ山古墳

 「うのべ山古墳」は、今から約1750年前の3世紀後半につくられた四国最古級・津田湾最古の前方後円墳です。
 この古墳の特徴は、土の代わりに石を積んでつくられた「積石塚」と呼ばれる珍しい古墳で、全長は37mあります。
 積石塚の古墳は、古墳時代前期と呼ばれる古い時期につくられた古墳としては、香川県と徳島県の一部にしかない珍しい特徴をしています。
 その中でも「うのべ山古墳」は香川県の東の端にあり、一番低い所につくられています。他の積石塚古墳の中でも最も特徴があり、津田湾古墳群では最古の前方後円墳です。

 --- さぬき市教育委員会 さぬき市文化財保護協会 ---

 それでは、古墳に上がってみます。
 〝前方部〟にはロープが張られ進入禁止。かなり墳丘が痩せ細っています。
 〝後円部〟には葺き石がゴロゴロで、まさに積石塚であります。〝後円部墳頂〟に立ちますと、ここも石だらけ(^-^)
 WEB上に「うのべ山古墳」を検索してみますと、こんな記載がありました(^-^)//"

 ◆松田先生と行く!!さぬき市古墳巡りツァー

 --- さぬき市再発見ブログ 遊びの達人  ---
 (http://sanuki-asobinin.seesaa.net/article/343511638.html)

 ★始まりました---!!松田先生と行く!!さぬき市古墳巡りツアー

 さぬき市を一緒に走りまわるうち…そこそこで目にするたくさんの古墳の看板に洗脳されてきた〝あそ達メンバー〟
 「さぬき市の古墳って…そんなに面白いの…?」
  面白いですっっ!
 「じゃ~行こ--!」
 そして決まった、この古墳ツアー。
 案内して下さるのは、松田朝由先生(大川広域行政組合)。
 数々の古墳や遺跡、埋蔵物などを研究されてきた松田先生は、さぬき市出身。小さい頃からとにかく石が好きで…今では石の町【牟礼町】に住んじゃうくらいの石博士でもあります。

 そんな松田先生と行く・・まず1か所目の古墳は…ココ!「うのべ山古墳」。
 津田古墳群のなかでも一番最初に造られたと言われる、この古墳は様々な石を積み重ねて造られた積石塚と呼ばれるもの・・・一見、角が丸い大きな石が目立ちますが、これは、海の波などで削られ、丸くなった石だそうです。
 古墳の周辺は「塩出」と呼ばれる地名。古墳時代当時は、このうのべ山古墳の近くまで海水が入っていたと想像されます。なので、古墳周辺から持ってきた石だということが分かりますね。
 香川の石と言えば・・・何と!昔から超有名・ブランド石だったそうです!!!
 「香川県の石は、権力の中心であった畿内や、九州の方の古墳造りにも使われているんですよ」
 「しかも、その古墳を造る時期も畿内に遅れる事なく!!!」「それって・・・もしかしたら、香川がトレンドの先を行ってたかもしれないって事?!」
 やるね!!香川、うどん以外にブランド石!

 そして・・・古墳全体を見渡してみると・・・
 こんな感じ!!前方の方は木に覆われていて、ほとんど見る事ができませんが・・・それでも、後円部に立って見渡すと・・・小っちゃい、しっぽのような前方部を感じることができます。しかも・・・かなり低い!!!
 …ということは、古墳時代前期・・・しかも、古墳出現期!!!
 四国最古級という事が分かって来ています。そして・・・この古墳の発掘はまだされておりません。
 「海辺に建てられる墓は、女帝の墓が多い」とも言われてますが・・一説には、渡来人の墓の可能性も・・・?
 また、この「うのべ山古墳」は、海辺から見える方向部分だけ、大きく作られており、後円部の裾も広げてあるんです。
 海からくる来客に、より大きな印象を与える為では?…と考えられています。
 う~ん・・・ますます発掘してみたくなる神秘の場所です。

 この古墳を守ってきている方々にお話しを伺いました。
 【うのべ会の代表を務める川渕さんご夫婦と、同じくうのべ会の宮崎さん】
 この、うのべ山古墳の魅力に惹きつけられ、古墳を綺麗に守っていこうと活動されて7年目のみなさん。寒川町にお住まいの皆さんは、もっともっと地元、津田の方にも、うのべ山古墳を知ってもらいたいと言います。その為に、古墳まつりを開催したり、地元小学生を招いて分かりやすく説明するなどの活動を続けて来られました。
 そして今・・・想いが一つとなり始め、みんなで古墳を守ろうと、地元の方の協力が増えてきたという事。
 古代より・・・想いがつながってきているんですね!!!

 古墳まつりの様子はここ(http://sanuki-asobinin.seesaa.net/article/298412338.html)をクリック。
 毎年10月に行われている「うのべ山古墳まつり」は、今年は5月19日の第3日曜日に開催される予定だとか。今年はご家族揃って、この古墳まつりに参加されてみては、いかがですか。

 …と、こんな記載が(^-^)/"

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 「うのべ山古墳」近くの広場というか駐車場で、バスから下車し、ここからは徒歩で「うのべ山古墳」へ。
 当日貰った〝備陽史探訪の会〟の資料によりますと、こんな古墳であります。

 ◆津田古墳群&うのべ山古墳

 香川県さぬき市にある津田古墳群は、津田湾沿岸部を中心に古墳時代前期初頭から中期初頭にかけて築造されまして。当初は、当地域の強い特徴が認められましたが、前期中ごろから、畿内地域の影響が認められるようになりました。成立期に独自性のあった古墳が畿内地域の影響を受けた古墳に変わっていく過程がわかる貴重な古墳群です。また、戦前からの発掘調査の記録等が残されており、学史的にも重要な古墳群です。2013、14年に、前方後円墳6基と円墳3基が国史跡に指定されました。
 うのべ山古墳は津田古墳群を構成する、全長37mの前方後円墳です。その特徴は、①前方部は撥(バチ)型に広がり、後円部より低い。②四国東部の前期古墳でよくみられる積石塚である。③墳丘から発見された土器(壺型土器)は前期初頭のものである。(弥生時代の集落遺跡(森広遺跡)からも発見されている)
 これらの事から、うのべ山古墳は前期初頭(3世紀末)に築造され、地元色の強い、香川県下でも最古級の古墳と考えられています。埋葬施設は未調査ですが、その地元色の強さから南北方向の主軸と直交する、東西南北の竪穴式石室と考えられています。

 「うのべ山古墳」に到着しますと、まず眼に入りますのが〝後円部〟です。葺き石がゴロゴロしており、いかにも積石塚らしい感じであります。
 後円部墳頂を見上げますと、ここも石だらけ。墳頂には小さな祠が存在しますけど、これは江戸時代のモノでありますとか(^-^)//"

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 バスは、与島を通過です。その際に、車窓から与島と道路で繫がりました鍋島灯台をパチリです。
 穏やかな瀬戸内に浮かびます鍋島…イィ景観です。そして、そのズッと後方の三角の島が大槌島ですネ(^.-)☆
 瀬戸大橋を渡りますと坂出に到着で、坂出JCTから高松自動車道を〝さぬき市〟方向へ。〝さぬき市〟に入りますと〝津田の松原SA〟で二回目のトイレ休憩となりました。
 この間を利用しまして、GONsanは、「津田の松原(県立琴林公園)」、今から向かいます「うのべ山古墳」方向を眺望です。
 「うのべ山古墳」周辺には「けぼ山古墳」とか「一つ山古墳」も有るのですけど、近くまでバスでの走行は難しいようで、今回は「うのべ山古墳」のみを訪れますとの事であります(^-^)//"

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 11/20(日)は、『香川県東讃地域の古代山城と古墳を尋ねる』備陽史探訪の会バス例会に参加となりましたGONsanです(^.-)☆
 集合時間少し前に福山駅南口アイネス前に向かいますと、バスは既に待機しておりまして、10数名の皆様が乗車しておられましたネ。
 今回の「香川県東讃地域の古代山城と古墳を尋ねる」資料に眼を通しますと、本日の行程は、次のようであります。

 ◆行程
 <08:00>福山駅南口アイネス前集合&出発・福山東ICから瀬戸大橋を経由して香川県東讃地域へ・途中、鴻ノ池SA、津田の松原SAでトイレ休憩
 <10:30>うのべ山古墳(さぬき市、①)見学
 <11:20>富田茶臼山古墳(さぬき市、②)見学
 <12:20>さぬき市歴史民俗資料館(さぬき市みろく自然公園内、③)見学&昼食
 <14:00>久本古墳(高松市、④)見学
 <14:55>屋嶋城跡(高松市、⑤)見学
 <15:45>高松出発
 <16:45>鴻ノ池SA(お買い物&トイレ休憩)
 <18:15>福山駅南口到着予定

 …と、こんな行程でありました。
 定刻にバスは出発で、スケジュール通り、最初のトイレ休憩が瀬戸中央自動車道・鴻ノ池SAでしたけど、ここに立ち寄りますのは何年振りでしょう…久しく瀬戸大橋を渡っておりませんから(^-^)
 暫しの休憩後、またバスは走行。退屈凌ぎに、瀬戸大橋上から数枚パチリとなりました(^-^)/

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1/18(火)は、笠岡市笠岡「応神山」を散策でした(^.-)☆(10)

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 足の進むまま下っておりますと、林道と接します場所へと戻って来ました。ここから、駐車しています所までは上り道。そして、スタート地点へと到着です。
 この駐車スペースから、先ほど登りました応神山山頂方向を暫し眺望。
石鎚神社笠岡遥拝所・頂上社」方向も眺望可能です。
 それでは、この辺で応神山から退散し、我が家にと帰る事に致します(^-^)//"


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1/18(火)は、笠岡市笠岡「応神山」を散策でした(^.-)☆(9)

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 六畳岩の周りを一巡し、改めて六畳岩に眼を向けてみますと、傍らの案内標識には「六畳岩(夫婦岩)岩の廻りが一周できます」と記載。
 六畳岩は縦に大きく割れていますから「夫婦岩」とも言いますのかも…
 六畳岩にはロープが渡され、岩の上に上がりますのも可能なんですけど、一段目ならまだしも二段目の高さを考えますと、短足のGONsanではチト厳しい(^-^;
 う~ん、熟考のあげく断念でしたネ(^-^)
 六畳岩から下山道に戻り、また少し下って行きますと、展望広場まで戻って来ました。またまた、ここで暫し眺望です。
 正面には、笠岡十一番町緑道方向、その向こうに笠岡湾干拓地…そして、そのまた向こうに仙酔島・沼南アルプス・JFEが…
 それでは、下山続行です。
 少し進みますと、ロープが張られました箇所に…往路では、地肌・落ち葉で足が滑りましたので、ジジィのGONsan、迷わずロープの助けを借ります事に(^.-)☆
 昨年の12月に、鞆町の古道(山田街道)歩きでは、積み重なりました落ち葉に足を滑らせ見事に転倒。思いっきり尾てい骨を強打しましたので(^-^)//"


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1/18(火)は、笠岡市笠岡「応神山」を散策でした(^.-)☆(8)

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 八畳岩を拝見しますと、また
「航空路標識跡」まで戻って来まして、そこから少し下りますと、「←応神岩」の案内標識が…うん、うん、やはり、「応神岩」も「八畳岩」も同一場所ですネ(^.-)☆
 それでは、下山続行です。また暫く下って行きますと、展望が開けました場所に…ここでは、往路で眺望を楽しみましたのでスルーです。
 また暫く下山しますと、今度は「六畳岩」の案内標識が…この標識に従い「六畳岩」へと向かいますと、ここもまたスグに到着です。
 六畳岩の廻りを一周出来ますようですから、早速、一巡りとなりました(^-^)//"


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1/18(火)は、笠岡市笠岡「応神山」を散策でした(^.-)☆(7)

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「航空路標識跡」まで下りて来まして、「八畳岩→」の標識に従って右折です。結構歩くのかな…と思いましたら、スグに八畳岩にと到着でした(^.-)☆
 早速、八畳岩に上がってみますと、平らではありませんでデコボコしておりまして、先端に向かうのは危なっかしくてチト躊躇。
 八畳岩の左側には、樹木にロープが結ばれて下り道が…ロープを助けに下りてみますと、八畳岩の壁面と言うか石面には「應神山」と刻まれてありました。応神山山頂に向かいます往路で、「←八畳岩」「←応神岩」の案内標識を眼にしましたけど、ふん、ふん、「八畳岩」と「応神岩」は、同一場所でしたのですねぇ~
 応神岩を拝見して、下りて来ましたロープ道を上に上がろうとしますと、んっ!?…こっちにもロープ道が…う~ん、多分、こちらは、「
←応神岩」の案内標識が設置地点にと出ますのでしょうねぇ~
 どちらに上がろうか暫し思案の後で、下りたロープ道を逆戻りし、先ほど躊躇しました八畳岩の上に上がってみます事に(^-^)
 八畳岩の手前に岩があるのですけど、この岩との間に隙間がありますので、跳び移らなくては(^-^;
 チョッと怖さもありまして先ほどは躊躇したのですけど、とにかく八畳岩の上に立たなくては…で、意を強くし跳び移り、そして、成功(^_^)v
 八畳岩からは、正面に
石鎚山遥拝所が…そして、石鎚山上り口の石鎚神社も眼に入ります。それなりにイィ景観であります(^-^)//"

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1/18(火)は、笠岡市笠岡「応神山」を散策でした(^.-)☆(6)

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 ボックス内には、
『登山ノート・ルート図』のほかにも「吉備路の山全山縦走大会」の案内パンフレットも…
 ふ~ん、こんな大会もあるのですねぇ~全山縦走コースを選択しますと、『35km』ですか…これは、仲々過酷なレースですねぇ~GONsanが、もっと若ければ考えますけど、この歳ではとてもムリ(^-^;
 とは言いましても、徳山に暮らしていました時ですから、40歳前頃でしたか…当時、「周陽ジョギングクラブ」に所属しておりまして、徳山都心部の周南緑地公園~願成就温泉間を走った事がありました。
 周南緑地公園をスタートし、国道315号線をひたすら北上し山登り。そして、国道9号線に出ますと、津和野方向へ…
 津和野の少し手前がゴールの
願成就温泉ですから、確か、距離は「33km」でしたような(^-^)
 
周南緑地公園からゴールまで、ズッと山登りですから、もぅ過酷と言うか死ぬ想いで走りましたような…あれから既に30余年…当時を想い出しましても恐ろしさが蘇ってしまいます(^-^;
 こんな経験がありますだけに、「
吉備路の山全山縦走大会(35km)」のパンフレットを眼にしましただけで、身震いしてしまいます。
 山登りとは言いましても、整備された国道を33km走りますだけで死ぬ思いでしたのに、デコボコの山道を35kmとは、もっと若くてもとてもムリ(^-^;
 ですが、こんな環境下でも、楽々走られます方は多いのでしょうねぇ~
 過酷な走りと言いますと、「しまなみ海道」が全通して間もない頃、因島の生口橋下~大島の来島海峡大橋下まで走った事がありますけど、この時も死ぬ想いの過酷な走りで、
来島海峡大橋下(現在は、道の駅があるのでしょうけど…)に辿り着いた時には、くったくた(^-^;
 帰ります元気も無く、帰路は、福山通運sanのトラックにお願いして瀬戸田まで乗せて貰いました。なんでも、瀬戸田の内海造船sanに向かわれるので、気持ちよく同乗させて頂きましたが、この時のドライバーsanが天使に見えましたネ(^.-)☆
 しまなみ海道を結びます各橋は、結構、高さがありますので、橋までの上がり下りは、そりゃぁもぅ大変過酷でありましたネ。
 まぁ、そのような経緯のありますGONsanなのでありますけど、
吉備路の山全山縦走大会(35km)」のパンフレットを手にしまして、思わず震えてしまいましたよ(^.-)☆

 それではこの辺で、応神山山頂から退散です。
 往路で「八畳岩」の案内板が眼に入りましたので、帰路は、「八畳岩」「応神岩」等に立ち寄りながら戻りたいと思います(^-^)//"


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1/18(火)は、笠岡市笠岡「応神山」を散策でした(^.-)☆(5)

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 山頂に到着しますと、チョッとした広場で、片隅に三角点が…『応神山 四等三角点「笠岡」218.87m』の表示板が設置されておりました。

 ◆日本の三角点

 ・一等三角点
 設置間隔は約40km、必要に応じて約25km間隔の補点が設置される。全国に約1,000点。柱石の一辺は18cm、破壊や破損に備えて、柱石の直下には2枚の盤石も埋設されている。
 ・二等三角点
 設置間隔は約8km。全国に約5,000点。柱石の一辺は15cm、破壊や破損に備えて、柱石の直下には盤石も埋設されている。
 ・三等三角点
 設置間隔は約4km。全国に約3万2,000点。柱石の一辺は15cm、破壊や破損に備えて、柱石の直下には盤石も埋設されている。現在の技術水準では、2万5千分1地形図を作成するための位置の基準は3等以上の三角点で充足される。
 ・四等三角点
 設置間隔は約2km。全国に約6万9,000点。柱石の一辺は12cm、破壊や破損に備えて、柱石の直下には盤石も埋設されている。地籍調査又はこれに相当する調査の測量の基準点として、国土交通省土地・水資源局国土調査課の委任を受け、国土地理院が設置する。
 ・五等三角点
 1899年(明治22年)に国土地理院の前身である陸地測量部が「海中の小岩礁の最高頂を観測し、其の概略位置及高程を算定し、之を五等三角点と称すること、尋て市街地の高塔等亦之に準することに定めたり」とあり、三角点標石を設置するのが困難な小岩礁はその最高点を五等三角点とし、火の見櫓や煙突等の市街地の高塔もこれに準じた。長らく五等三角点の新設は行われておらず、四等三角点以上への切り替えや廃止が行われたため、現在は下記の沖縄県の小島の2か所が残存しているのみである。
 神山島--北緯26度15分45.47秒 東経127度35分03.77秒
 ハテ島--北緯26度14分24.33秒 東経127度27分22.08秒

 三角点の後方には、『登山ノート・ルート図』と記されましたボックスが…登頂記念に戴きます事に(^-^)
 WEB上で、2012年3月に応神山に登られました方の画像を拝見してみますと、当時は、ここに「
NTTの反射板が設置されており、金網の周囲には休憩用のベンチ」が置かれていましたようであります。が、今では更地で、何にもありません(^-^)
 温かい時期ですと、ここで弁当広げますと、ユックリと過ごせますかも(^-^)//"


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1/18(火)は、笠岡市笠岡「応神山」を散策でした(^.-)☆(4)

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 しばらく進んで行きますと、「↑山頂・八畳岩」の案内標識が…そして、また進みますと「←応神岩」の標識も…
 応神岩への進入路に眼を向けてみますと、樹木にロープが設置されています。と言う事は、応神岩へのこの下り道は、結構、急なのかも分かりません。今は山頂へと急ぎ、帰路に立ち寄ってみます事に(^-^)
 ここから少し山頂方向に進んで行きますと、前方に、石積みの上に白い筒のような構築物が…う~ん、これは、何なんでしょう?
 この石積みから左折しますと、「八畳岩」に向かうのでしょうけど、これも、帰路に立ち寄ってみます事に。
 それにしましても気になりますのが、この石積みと、白い筒のような構築物です。
 後日、WEB上で検索してみましたら、こんな記載がありました(^.-)☆

 >何やらケルンのようなものに出会う。
 >しっかりとした石積みに「航空路標識跡」と記されたロープが結ばれていた。
 >(http://marchan.e5.valueserver.jp/cabin/mntn/okay/oujinyama/oujinyama1.html)
と、こんな記載が…
 この構築物は、入念にGONsanも確認はしましたけど、「
航空路標識跡」の表示は無かったような…見落としたのかもわかりませんねぇ~
 でも、「ケルン」って何!?
 またまた、WEB上で検索です。

 ◆登山用語を教えて!ケルンってなに?

 --- https://chouseisan.com/l/post-16311/ ---

 みなさんは登山をする際、ピラミッド型に積み上げられた石を見たことはありますか。その山頂によく見かけられるピラミッド型の石ですが、「ケルン」と言います。登山をする際、服装や食料など登る際の準備はもちろん登山用語も勉強しておくとなにかと役立ちます。
 今回は、登山を行うに当たって覚えておきたい用語の1つである「ケルン」について学びたいと思います。

 ・ケルンとは
 ケルンとは、山頂や登山道などの道標となるように、石を円錐状(ピラミッド型)に積み上げたものです。自然になったものでなく、人口で作られたものをケルンと呼んでいます。
 綴りは“cairn”なので、「ケアン」、「ケアーン」などとも読む人もいます。登山道の道標を示す場合は、登山道と並行になるように積み上げます。尾根などの迷いやすい登山道に設置されています。
 特殊なケースとしては、遭難地点に供養のための慰霊碑として作られる場合が挙げられます。

 ・ケルンにおける注意点
 山頂や登山道には、道標や登山者の慰霊の意味で積み上げられているケルン以外に、まったく関係の無いケルンが積み上げられていることがあります。遊び半分の興味本位で積み上げられているケルンもあります。
 このような意味で、積み上げられたケルンを道標として認識をせずに注意することが大切です。興味本位で積み上げられたケルンは本来の意味で作られたケルンの邪魔をすることにもなりかねないため、しないようにしましょう。

 ・ケルンをつくるに当たっての問題点
 ケルンを作るためには、積み上げる石が必要となります。その為に、周りの石を過度に動かすと、その石があった 箇所の砂や小石などが雨などで他の箇所に流出してしまい、地面が侵食されてしまいます。
 その積み重なりにより、山の自然環境の汚染・破壊に繋がることになり、その山本来の動植物などの生態系を破壊・破滅する結果となります。最近では、山の自然環境・生態系を守るために山の関係者が、ケルン本来の意味を満たさないケルンを発見次第、ケルンを崩し元の箇所に石を戻す活動をしています。

 ・まとめ
 目的によってケルンは、とても助けになり必要なものだと思います。しかし、遊び半分のケルンは登山者を迷わす道具となり、環境を破壊する道具となりますので、しっかりと考えてケルンを作りましょう。
 その他にも登山時に役立つ、日常生活では聞かない用語はたくさんあります。スムーズに登山をするためにも、ぜひ調べてみて下さいね。

 ふん、ふん、「ケルン」は理解出来ましたけど、「
航空路標識跡」とは、何なんでしょう?
 面倒ですからWEB上での検索は止めときますけど、まぁとにかく、これは、以前には、「
航空路標識」として活用されていましたのでしょうねぇ~
 この
航空路標識跡」を過ぎますと、前方が開けて来ました。山頂に到達しましたのかも…手前の樹木の枝に、ホウキが吊して有りましたから、やはり山頂なんでしょうネ(^.-)☆

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1/18(火)は、笠岡市笠岡「応神山」を散策でした(^.-)☆(3)

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 ノンビリと進んで行きますと、展望台らしき地点にと到着です。
 ここからは、眼下の笠岡市街地、正面に神島、そして、右後方に仙酔島…を、眺望です(^.-)☆
 曇天の天候で、眺望は今一ですけど、イィ景観であります(^_^)v
 それでは、また、山頂への前進を再開です。要所要所に案内表示板が設置されていますので、歩き易いイィ登山道であります(^-^)//"


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1/18(火)は、笠岡市笠岡「応神山」を散策でした(^.-)☆(1)

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石鎚神社から岡山県道60号線(倉敷笠岡線)に下りて来ますと、正面が「特別養護老人ホーム三愛園」ですから、その右側の林道を上って行きます。
 車一台でしたら余裕で走行可能ですけど、上から車がヤッて来ますと、離合は容易でありません箇所も…下山して来ます車が有りません事を祈りながらユックリと走行して行きますと、難なく2~3台の車なら駐車可能な行き止まりのスペースに到着となりました。
 幸いに、駐めておられます車はありませんけど、一応、向きを変え邪魔になりません程度に、隅っこへの駐車となりました。
 「応神山」をWEB上で検索して見ましたら、こんな記載がありましたネ(^.-)☆

 ◆
応神山(おうじんやま)

 --- https://www.city.kasaoka.okayama.jp/soshiki/39/2475.html ---

 ・国指定 名勝
 所在地:笠岡市笠岡/所有者:民有地・市有地
 指定年月日:昭和18年8月27日

 笠岡市街地の東方にある標高219メートルの名山。番町の市街からみると北側に見える山。山上には応神岩(八畳岩)や六畳岩など花崗岩の巨岩・奇岩が露出しており、そこまでの遊歩道も整備されている。
 山上のひらけた場所に立つと、市街地や笠岡湾干拓地、さらには沖合に点在する瀬戸内海の島々を一望できる。
 応神岩の側面には、「應神天皇御史蹟 應神山」と刻んであり、応神山のシンボル的存在となっている。山麓には、応神天皇を祭神とする笠神社がある。
 この山に関して、次のような伝説が伝わっている。「昔、応神天皇が吉備の国へ行幸され、この『笠目山(加佐米山)』で狩りをされたとき、風がふいて天皇の笠を飛ばした。お供をしていた鴨別命が、『この山の神が天皇に奉ろうとしているのです。』と進言した。はたして天皇がこの山で狩りをされたところ、獲物が多かった。
 天皇はたいへんお慶びになって、鴨別命に「笠」の名を与えられたという。」また、飛ばされた天皇の笠がかかったといわれる「笠懸の松」が、笠神社参道の脇に残っていたが、明治7年(1874)に枯死したそうである。

 ◆応神山登山口

 --- https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1740730.html ---

 応神山にはいくつもの登山口がある。下の地図以外にもあるようだ(問い合わせ笠岡市役所産業振興課 0865-69-2147)。もっとも一般的なのは笠神社ルート。R2、笠岡市街地に入り五番町信号で南折、R60に入る。次の信号を右折、廻ってR2を越える。
 笠神社の鳥居を右に見て次の信号で右折。笠神社の標識に従う。入口はとても狭くて急坂。無断駐車禁止と書いてあるが、「登る前に参拝してお賽銭を上げてください」ということで駐車させてもらう。駐車場入口に案内図(応神山コース図もある)。後は道標に従う。

 …と、こんな応神山であります(^.-)☆
 駐車スペースには、いくつか案内標識が設置されております通り、応神山への登山ルートは、色んなコースがありますようですネ。
 最も
一般的なコースは「笠神社ルート」のようですけど、GONsanは、手っ取り早い車道(林道)を走行します「三愛園ルート」でありました(^_^)v
 では、早速、標識に従い、応神山山頂に向かって散策スタートです。
 暫く進んで行きますと、程なく、山頂ルートと車道が接します地点に…そぅでしたネ、車で上がって来ます時に、この場所に眼が止まりました。三愛園から歩いて上がって来られます方は、駐車スペースまで行かず、ここから山頂ルートに入られますのでしょうねぇ(^-^)//"


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女子団体パシュートの決勝…ご本人には生涯忘れられない想い出に…

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 五輪
スピードスケート・女子団体パシュートの決勝…GONsanもテレビの前で観戦となりましたけど、最終コーナーで高木菜那選手の予期しません転倒…
 このまま、転倒しないでゴール出来ましても、カナダチームに勝てましたのか否かは分かりませんけど、残念でしたネ。
 
高木菜那選手ご本人にとりましては、大変悔やまれる結果となってしまいましたネ。
 この様子は、
日テレNEWSsanが、こんな記事で…

 ◆
女子団体パシュートは2大会連続金メダル獲得ならず 銀メダルに「まだ整理できていない」

 --- 2/15(火) 23:27配信 日テレNEWS ---

 ◇北京五輪・大会12日目(2月15日)、スピードスケート・女子団体パシュート決勝

 スピードスケート・女子団体パシュートの決勝が行われ、日本代表(高木美帆選手、高木菜那選手、佐藤綾乃選手、押切美沙紀選手)が出場しました。
 日本チームは平昌五輪で金メダルを獲得したときと同じ、高木姉妹と佐藤選手の3人が滑走。日本はレース終盤までリードを守っていましたが、最終コーナーで菜那選手が転倒。カナダに敗れ、惜しくも2大会連続の金メダル獲得とはなりませんでした。
 レース後、美帆選手は「2人と押切さんとコーチたちがいたから、予選のあのレースができたこと、そして最後まで戦えたってことが私はすごく誇りに思いますし、このチームで滑ることができてこのチームメートに出会えてよかったなって思っています」と、レース後の取材で感謝の気持ちを述べました。
 決勝のレースについては、「言葉にするほどまだ自分の中で整理できていないところもある」と言葉を選びながら答えました。
 また、佐藤選手も「私たちができることは予選含め、もう100%出し切ることができたと思うので、もう悔いはないとはいえないんですけど、でもよくがんばったなと思います」とコメントしています。
 転倒した菜那選手は、言葉に詰まり、なかなか取材に応じることができませんでした。そんな姉に妹の美帆選手は、肩に手を回しフォロー。涙ぐみながら「ちょっと難しいですね、言葉に出すのは…」と声を振り絞りました。
 予想外の結末となった女子団体パシュートですが、日本女子は2大会連続でメダル獲得。金から銀に色はかわったものの、この4年間でつみあげてきた美しい隊列は健在でした。
 姉に気遣いを見せた妹の美帆選手は、今大会4つめのメダルを目指して次は女子1000m(17日)に出場する予定です。

 …と、こんな記事でしたけど、銀メダルで終わりましてガッカリされました方は大変多かったものと思います。
 と言う事は、この日本チームが、銀メダルではとても納得できない、世界に誇れます素晴らしいチームである事の裏返しでもある…と言う事なんですねぇ~
 五輪
女子団体パシュート2連覇こそ叶いませんでしたけど、前回の金に続いての銀メダル。勝負の世界ですから、こぅいぅ負け方もあるでしょうし、今回の「銀メダル」獲得を糧に、今まで同様に前を見つめて頑張って歩んで貰いたいものであります。
 選手の皆様、銀メダル獲得、おめでとう\(^o^)/

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1/18(火)は、笠岡市笠岡「石鎚神社笠岡遥拝所・頂上社」を散策でした(^.-)☆(9)

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 暫く頂上社からの景観に眼を向けておりましたけど、風もあり、冷たくもありますので、そろそろこの辺で下山です。
 再度、隣接の少し低い山にも眼が向きまして、ついでに向かってみようか…との想いも生じましたが、これはまた次の機会ですネ(^-^)
 では、下りよう。
 入口まで戻って来ますと、またまた暫し思案のGONsan。時間を確認しますと、P.M.0:40。せっかくですから、ついでに応神山を散策して帰る事にしましょうか(^-^)//"


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1/18(火)は、笠岡市笠岡「石鎚神社笠岡遥拝所・頂上社」を散策でした(^.-)☆(8)

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 立派な
石祠ですけど、中央の祠には石鎚蔵王大権現に石鎚大神、右側の祠の中には役行者…なのでしょうけど、信心深くありませんGONsanには、よくは分かりません。
 ただただ、画像に納めますのみなのであります(^-^;
 JFEの後方には、かろうじて芦田川大橋斜張橋の主塔が臨めます(^_^)v
 再度、
鎖行場」の終点から下を見下ろしてみますけど、やっぱり怖くて落っこちそう(^-^;
 下から眺めました時には、なだらかな斜面に感じましたけど、いざ上から見下ろしますと、う~ん、急ですねぇ~


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1/18(火)は、笠岡市笠岡「石鎚神社笠岡遥拝所・頂上社」を散策でした(^.-)☆(7)

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 頂上社に立ち周辺を見廻してみますと、ふ~ん、ここが
鎖行場」の終点ですネ。下から見上げました時には、さほど、急な難所とも感じませんでしたけど、上から下を見下ろしますと、さすがに足が竦みます(^-^;
 真下を画像に納めたいのですけど、落っこちそうですから止めときます(^-^)
 東方に眼を向けますと、対面に少し低い山が…この山の斜面にも石仏が並んでおります。ここから下って隣接の山に向かえそうですけど、また上がって来ませんとなりませんから、向かうのは、またの機会に(^-^)//"


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1/18(火)は、笠岡市笠岡「石鎚神社笠岡遥拝所・頂上社」を散策でした(^.-)☆(6)

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 色んな石仏に眼を向けながら、ノンビリと上がって来ましたけど、ヤッと
頂上社に到着です(^.-)☆
 頂上社は、凡て、
南西向きに設けられていますから、その方向が石鎚山なんでしょうねぇ~ここまでの参道は、それなりに整備されておりまして、大変歩き易い登山道で、散策には最適なコースでありましたネ(^-^)//"


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1/18(火)は、笠岡市笠岡「石鎚神社笠岡遥拝所・頂上社」を散策でした(^.-)☆(5)

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「鎖行場」に向かって斜面を下って行きますと、前方の眼下に建物が…この建物は、「特別養護老人ホーム三愛園」のようですネ。そして、その後方が「応神山」。
 本日の予定は、
石鎚神社笠岡遥拝所・頂上社」までですけど、う~ん、せっかく応神山近くまで来たのですから、ついでに応神山を歩いてみたい気持ちにも…
 
石鎚神社頂上社から下山し、時間があれば散策してみたい想いも…
 もぅ少しで「
鎖行場」で、岩肌に鎖が見えて来ましたネ。ですが、「鎖行場」の上り口に向かおうにも樹木・雑草に覆われて進路が妨げられて…
 暫し思案のGONsanで、別に鎖を使用して
頂上社に上がる訳でもありませんから、鎖行場」のスタート地点に向かいますのは、残念ながら断念となりました。
 
「鎖行場」の案内板の場所まで戻りますと、通常の参道を歩行続行となりました(^-^)//"

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1/18(火)は、笠岡市笠岡「石鎚神社笠岡遥拝所・頂上社」を散策でした(^.-)☆(4)

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 風も無く、適当な日差しの下、ノンビリと頂上社近くまで上って来ますと、少々汗ばんで来ました。が、頂上近くはさすがに風が(^-^)
 風がありますと、やはり寒くはありますネ。
 暫し立ち止まり、周辺の石仏群に眼を向けておりましたら、足元に倒れかけた「鎖行場」の案内板が…そぅですネ、頂上に向かいます前に「
鎖行場」に向かってみましょうか…

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1/18(火)は、笠岡市笠岡「石鎚神社笠岡遥拝所・頂上社」を散策でした(^.-)☆(1)

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吉田大塚一号墳とお別れし、笠岡市の都心部近くに戻って来ますと、次は「石鎚神社笠岡遥拝所・頂上社」を訪れます事に(^.-)☆
 特別養護老人ホーム「三愛園」近くから佛恵寺に向かいます道に入りますと、ほどなく
石鎚神社笠岡遥拝所の入口が…ここには、数台駐車可能なスペースが有りますので適当に駐車。
 入口には、門柱のような
「石」マークの石柱。これを潜り進みますと、神殿が…中には入れませんけど、上段に石鎚山御神像が入っていると思われます木箱が3つ。掛け軸は、左側に役行者、右側に石鎚蔵王大権現…そのまた右に不動明王なんでしょうネ(^-^)//"


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1/18(火)は、笠岡市吉田「吉田大塚一号墳」を散策でした(^.-)☆(7)

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 駐車場にと戻って来ますと、墓参りでヤッて来られました女性の車は、既にありませんでしたネ。
 コペン号の両側のスポーツタイプの車2台は、最初から止まっておりますから、う~ん、やっぱり、この駐車場は地元の方の月極駐車場なのかも(^-^)
 このまま退散しますと何にも無く去れますから、良かった、良かった(^_^)v
 それでは、JR笠岡駅方向に戻り、
佛恵寺近くの石鎚神社に立ち寄り、石鎚神社山頂に上ってみたいと思います。
 そぅそぅ、「
佛恵寺は「ぶっけいじ」と言いそうですけど、「ほとけけいじ」と読むようですねぇ~これは、地元の方でありませんと読めませんかも(^-^)//"

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1/18(火)は、笠岡市吉田「吉田大塚一号墳」を散策でした(^.-)☆(6)

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 石室内は、それなりに広く立派でありました(^.-)☆
 どんな方が葬られたのか分かりませんけど、今では何にも残っておりませんで、実にお気の毒。かく言うGONsanも、石室に土足で入り込んでいますのですから、何とも…
 
「吉田大塚一号墳」を充分拝見しましたので、そろそろ退散です。「一号墳」と呼ばれていますのですから、この近辺に「二号墳」も存在しますのでしょうけど、神社周辺・古墳周辺には、何にも案内表示がありませんから分かりません。
 でも、この近辺の何処かに存在しますのでしょうねぇ~
 古墳から退散しますと、畦道を抜け、駐車場方向へ下りて行きますけど、うん、うん、駐車場から山側に上がりますと、大塚古墳はスグに眼に入りましたのかも…先に、神社へ向かい、神社から畑方向に向かいましたから分かりにくかったようですねぇ(^-^)//"


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1/18(火)は、笠岡市吉田「吉田大塚一号墳」を散策でした(^.-)☆(5)

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 この古墳の
石室の入口が少し壊れて短くなっています…との事ですから、長い年月の間に盗掘に遭っていますのでしょうねぇ~
 古墳の説明板には、出土品の記載は何にもありませんから…
 古墳に隣接し、「西山家祖宗霊碑」と刻まれました立派な石碑が…
古墳時代後期、六世紀後半の頃の有力者の古墳なのでしょうけど、「西山家」と何らかの繋がりが有りますのか否か、知る由もありません。
 どぅなんでしょうねぇ~
 古墳の周辺をグルッと廻りながら、画像に撮りまくりです(^-^)
 それでは、石室の中に入ってみたいと思います(^-^)//"


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1/18(火)は、笠岡市吉田「吉田大塚一号墳」を散策でした(^.-)☆(3)

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 このご本尊の信仰の対象は、何なのでしょうネ。とりあえず、手を合わせますGONsanなのであります(^.-)☆
 社から退出し、周辺を見廻してみますと、右側の斜面に小さな小屋が…何なんだろう?…と、中を覗いてみますと、ここには水が溜めてありました。
 それでは、下山です。鳥居近くまで下りて来まして、次は、
大塚一号墳に向かってみます。
 来た道をそのまま戻り、駐車場から向かえばいぃのでしょうけど、この神社から古墳に続く道がありますのかも…チョッと周辺を探索です(^-^)//"


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