ふ~ん、〝さぬき市歴史民俗資料館〟は、最初に入りました建物の後方にも資料館がありまして、こちらに入館は有料でありました(^.-)☆
が、公営ですから入館料は、『一般100円、大・高校生70円、小・中学生50円』と低料金ではあります(^_^)v
◆史跡(国指定)富田茶臼山古墳
茶臼山古墳は、大和朝廷ができる前、5世紀頃に、大和連合からの規制のゆるんだ時期に造られてもので、この地方では勢力の最も強い豪族の古墳である。
古墳は、西向きで全長約139m、三段に築かれ、高さは約16m、後円部直径約87mの規模を持つ四国最大の古墳である。平成元年8月に行われた確認調査の結果、周囲に幅5~20m、深さ1~2mの濠左右対称に盾形でめぐらされていたことがわかった。
古墳の墳丘や濠から、円筒埴輪・家型埴輪や葺石(ふきいし)などが発見されているが、服飾品は不明。埋葬施設は竪穴式石室であろうと推測される。
前方後円墳としてのこの古墳の規模は大きく、ほぼ完全な形で保存され、5世紀の謎を解く鍵を秘めているところに特徴があり、今後の調査が期待される。
◆明治維新後の理平焼
10代理兵衛は1864年から1866年京都の3代高橋道八の元で修業し、乾山写しの色絵手法を習得した。明治3年に藩の保護が無くなると、名を理兵衛から理平に改名し、色んな道を模索し始める。
明治27年から香川県監獄署にて呉須で絵付けされた半磁器に特徴ある茶器など、また敷瓦や土瓶等の技術指導を行う。その後、煉瓦生産にも手がけた。明治33年には理兵衛焼の古地である栗林公園北口に登窯を再興した。
11代理平は大正5年には陶器組合「讃陶舎」を設立して、新たな時代に合った伝統技術の再生に尽力した。
12代理平福寿は、昭和19年32歳の若さで中国で戦死、その子克美は2歳だった。克美(13代紀太理平)は京都工芸所で久保駒太郎に2年間師事、さらに、粟田口の伊東陶山のもとで4年間修行した。
◆富田焼
(1)陶郷としての富田
讃岐の「焼きもの」は、理兵衛と源内焼の二系統に大別することができる。そのいずれもが「富田」に関連して発展している。
約三百年前、京の陶工森島作兵衛は、讃岐高松に招かれて、理平焼を興すがこの時、富田丸山の陶土を用いて作陶している。また、その後、五代目理兵衛弥助が一時期高松から富田吉金に窯を移して作陶した。これが、富田焼の始まりである。
天明年間には、平賀源内の弟子赤松松山が吉金で製陶し、この時は異国風の陶器のほか「南京染付」と呼ばれる「磁器」を焼いていることが注目される。
この後を受けて富永助三郎を総帥とする多くの焼物師が、茶碗から土管まで多種多様な日曜雑器を焼き、更に享保年間には斎藤要助が南川横井に斎藤焼を興した。
天保年間には、富永庸八が美術工芸品として富田焼を焼き、その作風は尚八に継がされている。また吉金窯が廃窯となったのち一部の陶工達は、その技術を生かして土瓶の製造を始めている。これが「吉金どびん」となった。
大正期には、地元で茶碗会社と呼ばれた、香川県製陶会社が創立されて日用器としての富田焼俄作られ、その後は同社に関係していた藤田広一・向井南洋などが個人窯を築いて富田焼を焼いている。
戦後は田中富八から紀太理光を経て現在に至っている。
製陶には、よい陶土、豊富な燃料、水車のあめの水、そして優れた陶工達などの条件に恵まれなければならず、大川町富田は、これらの製陶条件に恵まれた讃岐の陶郷であった。
(2)窯跡と陶片
古くから焼き物が盛んであった大川町内には大小の窯跡が各所に残っている。なかでも次の三つの窯跡は代表的なものである。
①吉金窯跡=この窯跡は、JR神前駅近くの三次山東面にあり、富田焼を代表する大規模なもので、長い間、多くの陶工達によって数多くの作品が焼成されている。昭和43年3月の発掘調査によって判明した窯は、八房の焼成室を持つ全長40m、高低差9mの登り窯である。現在県指定の史跡となっている。
②斎藤窯跡=南川横井の滝の宮神社の参道南側にあったが現在は木材搬出道になり残っていない。窯の大きさは、未調査のため不明であるが吉金窯の半分程度と推定される。この窯も吉金窯と同じものを焼いておりその分窯である。
なお、この窯が注目されるのは操窯に関する詳細な記録が代々、斎藤家に保存されていることである。
③平尾窯跡=筒野の五井池西岸の平尾家の前庭にも登り窯跡がある。昭和47年大川町教委による発掘調査で三房の焼成室が確認されるとともに刻銘のあるものなど多くの陶片が出土している。
・陶片
窯跡の近くに「物原」とか「灰原」とかと呼ばれるところがあって、ここには不備な製品や窯道具、灰などが捨てられている。ここから出土する陶片によって作風、年代などを知る事が出来ることから焼きもの研究上重要である。
例えば展示の陶片を参照して頂けば解るように、吉金窯跡出土の陶片は、各種の日用雑器や染付磁器、源内焼との関係を示す異国風の素焼片などがあり、更に記録のあるものとして理兵焼の印や「富田」「氏山」などがあり、窯道具には、○○、岩、などがあり共同窯の性格がうかがわれる。
◆富田焼きの由来
--- http://www.rikoukita.com/profile.html ---
四国高松から東へ約五里、阿讃山麓の丘陵地帯に位置する大川町富田は良質の陶土を産し、江戸時代、焼きものの里として栄えたところであった。
もともと讃岐は、古くから製陶の盛んな国として知られ、正倉院の記録によれば、すでに奈良時代から特産物として、朝廷に焼きものが納められている。
江戸時代には、讃岐お国焼として、理兵衛焼、源内焼、冨田焼、屋島焼、讃窯などが名声を高めた。
なかでも理兵衛焼は、高松藩祖 松平頼重公が京都より招いた森島作兵衛が、慶安二年、紀太理平衛と改名し創窯。富田の陶土を用いて、優美な色絵陶器を焼成した。
吉金3享保三年、四代目理兵衛 が富田に窯を持ち、富田印の美しい色絵陶を残した。
天明、寛政年間に、このあとを受けて、平賀源内高弟の赤松松山が、南京染付を中心とした富田焼を焼成し、ついで化政期から天保年間にかけて、富永助三郎が多くの焼物師たちを指導しながら日用雑器を大規模に焼いている。
県指定史跡「冨田焼吉金窯跡」は、この時期のものである。
昭和五十一年春、理平焼十三代の実弟・紀太理光が、始祖ゆかりの富田の地に陶房を築き、富田焼吉金窯を再興した。
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