GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

広島県内の話題・景観

11/21(日)備陽史探訪の会『備北の王墓と帝釈峡を訪ねて』に参加(15)

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 時悠館内の展示物を拝見後には館外に出まして、館長sanのご案内で、「鬼橋野路古墳(おんばしのろこふん)」を見学です。
 時悠館を出ますと壁面に「帝釈峡まほろばの里」の案内図が…ふ~ん、ここには、野外ステージ・炊事棟も整備されましたオートキャンプ場のようですねぇ~
 時悠館から5~10分程度歩きまして、「鬼橋野路古墳」に到着です。付近に設置されました説明板に眼を通しますと、

 ◆鬼橋野路古墳(おんばしのろこふん)

 --- 庄原市史跡 指定年月日 平成21年3月26日 ---

 遺跡名:鬼橋野路古墳(復原)
 所在地:広島県比婆郡東城町大字帝釈未渡字鬼橋野路1207
 建築年代:古墳時代(6世紀末頃)
 古墳の規模:北東側に周溝を有する。直径約15m。墳高は石室入口から約2m。東側の同溝底から0.8mの円墳である。
 出土遺物:須恵器の短頚壺および蓋、長頚壺、平瓶、蓋の破片、土師器の皿、坏、鉄釘、及び多量のスラグ。
 調査:遺跡整備による現状復原を目的とし平成6(1994)年10月11日から平成7(1995)年3月24日迄発掘、学術調査を実施。

 ---【鬼橋野路古墳発掘調査報告書(1996東城町教育委員会)抜粋】---

 ◆庄原市史跡 鬼橋野路古墳(おんばしのろこふん)

 指定年月 -- 平成21年3月26日
 所 在 地 -- 庄原市東城町帝釈未渡字鬼橋野路1207番

 帝釈川と名越川に挟まれた鬼橋野路の東側の台地、標高501.6mに位置しむ、台地の南向き緩斜面を利用し構築されている。主体部は、南に開口した横穴式石室である。墳丘盛土は、地山を削平した土砂や周溝を掘り下げた土砂で構築したものと思われる。
 北東側に周溝を有する直径約15m、墳高は石室入口から約2m、東側周溝底から0.8mの円墳である。周溝は、北側の尾根を掘り下げ、幅0.8m~1.0m、深さ約0.2m、断面はU形である。主体部の内部全体は、凡て石灰岩で構築された横穴式石室であり、地山をL型に削平した平坦面に構築されている。全長7m、幅は奥壁0.8m・入口付近1.2m、高さ1.2mである。
 出土遺物は、須恵器の短頸壺・平瓶・壺の破片、土師器の皿・坏、鉄釘及び多量のスラグが出土した。

 --- 平成22年3月 庄原市教育委員会 ---

 …と、こんな記載がありました(^-^)//"

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11/21(日)備陽史探訪の会『備北の王墓と帝釈峡を訪ねて』に参加(14)

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11/21(日)備陽史探訪の会『備北の王墓と帝釈峡を訪ねて』に参加(12)

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11/21(日)備陽史探訪の会『備北の王墓と帝釈峡を訪ねて』に参加(11)

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11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(17)

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 御許神社社殿に上がって来ましたけど、どなたもおられません。まぁ、いかにも訪れます方は少なそうな神社ではあります(^-^)
 どなたもおられませんのをいぃ事に、暫し、ここで一服のGONsanなのでありました。
 勿論、「残り少ない2021年を、どぅか無事に過ごせますように…」との祈願も忘れずに(^-^)
 では、帰ろう…と、上がって来ました参道を振り返りますと、1組のご夫婦がご参拝。いゃあ、お詣りされます方も、おられますようです(^.-)☆
 木橋まで下りて来まして、橋の上流に眼を向けますと、水の流れはありませんけど、上流の見えなくなります辺りまでズラッと岩が…久井の岩海の小型版…と言ったところでしょうか(^-^)
 この景観を、ゆっくりと楽しんでおりましたら、先ほどのご夫婦が参拝を終え、お帰りです。このご夫婦をパチリです。
 そて、川沿いの参道に下りて来ますと、駐車場に向かいます。
 GONsanが駐めています駐車場の入口に眼を向けますと、今から佛通寺の紅葉を楽しまれます方々の車の列が…
 佛通寺には、何ヶ所かの駐車場が設けられていますけど、ふ~ん、この時間帯には凡ての駐車場が満車状態なのでしょうねぇ~ここで、一旦、停止して貰い、空きが生じるまで待機となりますようです。
 時間を見ますと、A.M.11:34でありました。
 それでは、佛通寺sanとお別れです。大変キレイな紅葉でありました(^-^)//"

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11/21(日)備陽史探訪の会『備北の王墓と帝釈峡を訪ねて』に参加(10)

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 「佐田谷・佐田峠墳墓群」とお別れしますと、次の訪問地は『時悠館』であります。時間を確認しますと、P.M.1:00少し前。時悠館に到着しますと、昼食ですネ。
 時悠館には食堂もありませんから、到着しますと、駐車場というか広場で、皆さん思い思いに散らばりまして、持参の弁当を広げる事となりました(^.-)☆
 GONsanは、段差のあります駐車場の土手部分に座ってランチタイムであります(^-^)
 こぅいぅ時のGONsanの手持ち弁当は、大概、コンビニで求めましたお茶・おにぎりです(^.-)☆
 おにぎりの銘柄は、
 ・コンビニおにぎりの人気第1位「ファミマの手巻 シーチキンマヨネーズ!」
 ・コンビニおにぎりの人気第6位「明太子とマヨネーズを合わせて包んだファミマのおにぎり」
 ・コンビニおにぎりの人気第13位「北海道産大納言小豆を入れて炊き上げたファミマの赤飯おにぎり」…の3種類。店頭に品切れの場合は、同じモノを3~4個求めます。
 嫁さんは、セブンイレブンのおにぎりが美味しい…と言いますけど、何故かGONsanはファミマのおにぎりが好きなんですねぇ(^.-)☆

 各自、昼食を終えますと、またバス付近に集合で、時悠館に入館となりました。
 「時悠館」をWEB上で検索しますと、こんな「帝釈峡博物展示施設」のようであります。

 ◆帝釈峡博物展示施設時悠館

 --- http://www.city.shobara.hiroshima.jp/main/education/shisetsu/cat01/cat/post_818.html ---

 ・帝釈峡遺跡群発見から60年!

 昭和36(1961)年に、林道工事で帝釈馬渡岩陰遺跡がみつかって以来、全国に知られた帝釈峡遺跡群学術調査が、長年つづけられてきました。
 帝釈峡遺跡群からの膨大ぼうだいな出土品のうち、国史跡しせき「帝釈寄倉よせくら岩陰いわかげ遺跡」、広島県史跡「帝釈馬渡まわたり岩陰遺跡」「帝釈名越なごえ岩陰遺跡」など、とくに重要な旧石器きゅうせっき・縄文じょうもん時代遺跡の出土品を、この時悠館でみることができます。
 帝釈馬渡岩陰遺跡は令和3年9月10日(金)、発見から60年という節目を迎えました。

 ・ようこそ時悠館へ

 ○時悠館とは
 「時悠」とは、「悠(はる)かに限りなく遠い時」を意味します。
 中国山地の石灰岩台地に形成された帝釈峡(たいしゃくきょう)のフィールドは、古生代のサンゴ礁に始まる地史や、石灰岩地域固有の動植物の進化、そして人々が洞窟・岩陰を巧みに活かして暮らした縄文時代の帝釈峡遺跡群など、悠久の時間を詰め込んだ「タイムカプセル」です。私たちが歩んできた「悠かに限りなく遠い時」の流れに、想いを馳(は)せてみてください。

 ○時悠館の歩み
 昭和42(1967)年設立の「帝釈郷土館」を前身とする現地型博物館です。帝釈峡遺跡群をはじめ、帝釈峡および周辺の自然や歴史文化を紹介しています。
 比婆郡東城町によって整備され、平成15年10月17日に開館。平成17年3月31日の庄原市合併を経て、同年9月9日、博物館法にもとづき登録。

 ○施設の概要
 名称:庄原市帝釈峡博物展示施設時悠館
 位置:東城町帝釈未渡1909番地
 開設:平成15(2003)年
 建物:敷地面積1,396m2、鉄筋コンクリート造地上1階地下2階建、延床面積1,566m2
 常設展示室(1~3)313m2、映像展示室36m2、企画展示室118m2、研修室131m2、収蔵庫150m2

 特徴
 ・標高約600mの石灰岩台地の体験交流施設「帝釈峡まほろばの里」にあります。
 ・建物は円形原理の設計で、周囲に多い侵食地形「ドリーネ」を模しています。

 ○主な展示
 史跡「寄倉岩陰遺跡」、県史跡「帝釈峡馬渡遺跡」「帝釈名越岩陰遺跡」など、50年以上も続く帝釈峡遺跡群の発掘調査による出土品のうち、初源期の土器の一群に属す帝釈峡馬渡遺跡出土の無文平底土器(縄文草創期)などの重要遺物があります。
 石灰岩の岩陰を高度に利用した帝釈名越岩陰遺跡の縄文後期の暮らしの場を復元し、同岩陰で検出した縄文人女性の埋葬状況を実資料で再現しています。
 また、たたら製鉄を中心とする各種資料、石灰岩地域固有の動植物、重要無形民俗文化財「比婆荒神神楽」「塩原の大山供養田植」等の民俗文化財を紹介しています。

 …と、こんな『時悠館』であります(^-^)//"

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11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(16)

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 鮮やかな紅葉に眼を奪われながら歩いておりましたけど、山門に渡る木橋まで戻って来ました(^.-)☆
 ここまでの参道が紅葉を楽しみますのには最高のスポットでありました(^_^)v
 それでは、この辺で仏通寺とお別れです。が、最後に、往路で眼にしました「御許神社」の石標に従って、「御許権現社」にも足を向けてみたいと思います。
 でも、「御許神社」は、どんな神社なんでしょうネ…WEB上で検索しますと、こんな記載がありました(^-^)

 ◆三原編(60) 佛通寺12/御許神社 <2012年10月28日>

 --- 戦国ジジィ・りりのブログ https://plaza.rakuten.co.jp/sengokulily/diary/201210280000/ ---

 名残惜しいけど、巨蟒橋(きょもうきょう)を渡って本寺域を出る。
 案内図には、そう離れてないところに「鎮守社」と描いてあったので、最後に探しに行った。仏通寺川に沿って奥へ進むと、すぐに案内の碑があった。
 ちょっと写真がないんだけど、奥の谷から細い川が流れていて、ちと心細い橋を渡るようになっていた。ここから聖域なんだな。
 たぶん、この奥の谷にもかつては堂宇があって、そこに雪舟さんが居候したんじゃないかと思う。
 いかにも人の来なさそうな神社だよな…ホント私って、こーゆーとこばっかり泣き笑いでも、社殿は思ってたより立派~。
 おお、小早川の幕が懸かってるし黄ハート。

 【御許(おもと)神社】
 当山鎮守社、応永11(1404)年、九州の一僧、豊前の国、宇佐八幡宮の本山(もとやま。許山)に由来する八幡大菩薩の石像を持参。開山禅師と小早川則平公 神廟を創建し、佛の権現としてこれを祀る。山中の野鹿をもって神の使いとした。社殿を感夢殿と称す。祭日は8月15日。(現地解説板より)

 帰ってから「大本山佛通寺誌」を読んでたら、もう少し詳しい伝承が書かれていた。

 【鎮守(御許権現)】
 応永11年異僧が豊前の御許山から石像を持参し開山禅師に呈して、「この石像は八幡大菩薩陰地(因地、修業中)の時、自刻されたところの本地弥陀の尊容で霊感により持参しました。どうぞ祀ってください」と申出て、鎮守廟を建て御許山権現と号した。
 遷宮の時に野鹿が群り鳴いたので、地方民は鹿をこの神の使いとしたという。寺で飼っていたものを放つときは角にお経を書いたから、猟師も決して捕らぬという。

 う~ん、縄文時代じゃあるまいし、猟ってそんな接近戦じゃないから、果たして角にお経が書かれてるかどうかなんて、遠くから見わけがつくものだろうか…
 なんてツッコミをすかさず入れた後で、自分がイヤになりました。いやでも、鹿で人生が狂った人もいるしさ(笑)。(「三原編(6)」をご参照ください)
 佛通寺近辺では、鹿は獲らない方が無難だよね。
 中には小さな本殿がある。まだ新しくてキレイ。小さな本殿の中にはさらに厨子があり、ご神体らしきものが鎮座していた。
 正面からじゃ撮れないので、脇からムリムリに撮ったんだけど、写真を見て「やっぱり撮っちゃいけないモノかもな…」と思い直して、すぐ削除した。
 そーゆーことって、あるでしょ?
 ちなみにここのは、石像というほどのものじゃなく、なんとな~く人っぽいかな~?って感じの、ちっちゃくて素朴なもの。素朴な造りだけに、なんだか迫力があった。

 …と、こんな記載がありました。
 これを参考に、橋を渡って「御許権現社」に向かってみます事に致します(^-^)//"

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11/21(日)備陽史探訪の会『備北の王墓と帝釈峡を訪ねて』に参加(9)

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 佐田峠1~2号墓の次は、佐田峠3~5号墓を見学です。
 手前から奥側に向かって、5号・4号・3号墓と存在します。ここも、平成22年に「広島大学文学部考古学研究室」により発掘調査が実施され、土器等が発掘されていますようであります。
 調査後は、また埋め戻しされ、ご覧の現在の状況です(^-^)
 「佐田峠3~5号墓」をWEB上で検索しましたら、こんな記載がありました。

 ◆「佐田峠(さただお)墳丘墓群発掘調査」現地説明会の報告

 --- 2009年09月07日/発掘調査情報 https://blog.goo.ne.jp/numabunken/e/4a02f4c1602441fb2adc4a354c573cd6 ---

 広島県庄原市宮内町佐田峠(さただお)にある墳丘墓群の発掘調査現地説明会がありました。
 日時:平成21<2009>年9月6日(日)10:00~12:00
 場所:庄原市宮内町佐田峠(さただお)
 調査主体:広島大学大学院文学研究科考古学研究室・庄原市教育委員会

 広島県北部には、四隅突出墓が多数存在しその調査が進んでいる。
 以前調査された、佐田谷1号墳では、四隅が突出する墳墓として注目されていたが、今回、特に注目されるのは、弥生時代中期以降に四隅が突出する過程となる遡源が一地域で解明できる墳墓群が調査された。
 今回の調査で、方形周溝墓(5号墓)から方形周溝墓(4号墓:列石・貼石を持つもの)、そして四隅突出型墳丘墓(3号墓:貼石・列石を持つ)へと変遷が辿れる墳丘墓が一括して検出されたことが大きな成果と言える。
 また、弥生中期にこの地域特有な「塩町式土器」も出土し、出雲地域が遡源とされていた四隅突出墳丘墓の遡源がこの地域に出現している点も見逃せない。
 概略以上。(文責:椿庵遍照)

 ◆庄原の佐田谷・佐田峠墳墓群、国史跡へ 調査研究・住民の協力結実、新たな魅力づくりに期待

 --- 2021/6/18 21:19 中国新聞 ---

 18日の文化審議会の答申を受け、国の史跡に指定される見通しとなった庄原市宮内町と高町にまたがる佐田谷・佐田峠(だお)墳墓群。遺構の一部発見から約35年を経て、広島県、市教委、広島大(東広島市)の調査研究と地元住民の協力が実を結んだ。
 関係者からは喜びの声が上がり、地域の新たな魅力づくりへの期待が高まる。

 …と、こんな記載が(^.-)☆
 それでは、この辺で「佐田谷・佐田峠墳墓群」とお別れです(^-^)//"

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11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(15)

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 駐車場付近の参道と小川の間の散策スペース…ここの紅葉は実に鮮やかで、大変キレイ(^_^)v
 多くの方々がカメラを向けておられます。
 あいにく、薄曇りの曇天でしたけど、晴天でしたら日差しに映えた紅葉が、一層キレイでしたのでしょうけど…チョッと残念(^-^)//"

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 佐田谷1~3号墓を見学しますと、次は、佐田峠1~2号墓に向かいます。ここも発掘調査後には埋め戻されておりますようです。

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11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(14)

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 多宝塔からは、佛通寺本堂も見下ろせます。そして、佛通寺の裏山の山頂方向に眼を向けますと、展望台が…ここには、どんなルートで上れますのでしょうネ…
 ですが、この展望台からですと多宝塔くらいしか眺められませんのかも(^-^)
 GONsanも、この展望台に上がってみたいのですけど、登山道が分かりませんから(^-^;
 でも、またいつか訪れます機会がありましたら、展望台まで足を延ばしてみたい気持ちにも(^.-)☆
 開山堂・地蔵堂・多宝塔へは、皆さん密にならない程度に適当な間隔でヤッて来られます。別に人数調整をしています訳でもありませんのに…
 それでは、下山です。開山堂上り口まで下りましたら、川沿いの参道を下の駐車場まで紅葉を楽しみながら散策してみます事に(^-^)//"

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 まず、佐田谷1~3号墓に向かいます。
 ここは、昭和61年頃に発掘調査が行われましたようですけど、現在は、元通りに埋め戻されております。当時の発掘調査時の写真で説明して頂きました(^.-)☆

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11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(13)

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 地蔵堂の脇と言うか山際には、地蔵と言うか五輪塔・石仏がズラッと並んでおりましたネ(^.-)☆
 それでは、多宝塔に向かってみます。
 多宝塔への上がり口には、「佛通寺多宝塔」の説明板が…眼を通しますと、こんな記載でありました。

 ◆国登録有形文化財 佛通寺多宝塔

 --- 登録:平成23年1月26日 所在:三原市高坂町許山30番地1 ---

 昭和2年、尾道市出身の実業家山口玄洞氏が資金を提供し、元京都府古社寺修理技手の安井楢次郎氏の設計・監理で建築。初重平面が方形、二重平面が円形の二層塔で、間口、奥行きとも4.2m、建築面積18.23平方メートルの木造三間多宝塔。伝統的な意匠のなか、蟇股(かえるまた)や木鼻(きばな)など細部に流麗な彫刻を施し、近代的な感覚が盛り込まれており、軒廻り部材に反りをもたせるなど整った塔婆をもつ近代の多宝塔です。

 --- 三原市教育委員会 ---

 WEB上でも検索してみますと、

 ◆広島県の文化財 -- 佛通寺多宝塔

 【解説】
 境内の高台に建ち、間口、奥行とも4.3m、三間多宝塔、銅板葺で、縁高欄をめぐらす。軸部は和様を基調とし,組物は下層出組,上層四手先とする。蟇股等の細部に流麗な彫刻を施し、軒まわり部材に反りをもたせるなど整った塔姿をもつ近代の多宝塔。
 昭和2年建設。

 ◆佛通寺多宝塔(ぶっつうじたほうとう)

 広島県 昭和前/1927
 木造多宝塔、銅板葺、建築面積18㎡ 1棟
 広島県三原市高坂町許山30-1
 登録年月日:2011/01/26
 宗教法人佛通寺
 登録有形文化財(建造物)
 境内の高台に建ち、間口、奥行とも四・三メートル、三間多宝塔、銅板葺で、縁高欄をめぐらす。軸部は和様を基調とし、組物は下層出組、上層四手先とする。蟇股等の細部に流麗な彫刻を施し、軒まわり部材に反りをもたせるなど整った塔姿をもつ近代の多宝塔。

 …と、こんな「佛通寺多宝塔」であります(^.-)☆

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11/21(日)備陽史探訪の会『備北の王墓と帝釈峡を訪ねて』に参加(6)

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 唐櫃古墳とお別れしますと、次に向かいますのは、「佐田谷・佐田峠墳墓群」であります。
 国道183号線バイパス工事を施工に伴い発見されましたようで、令和3年10月11日付け官報告示により、国史跡に指定されましたとの事であります(^.-)☆

 ◆佐田谷・佐田峠墳墓群」が国史跡に指定されました -- 庄原市

 --- http://www.city.shobara.hiroshima.jp/main/education/shogaigakushu/cat02/post_1472.html ---

 佐田谷・佐田峠墳墓群は、庄原市高町・宮内町に所在する弥生時代中期末から後期前葉に(紀元前1世紀~1世紀頃)にかけての墳墓群です。
 西城川左岸の標高300mの低丘陵の頂部に築造された四隅突出型墳(よすみとっしゅつがたふん)丘墓3基、方形台状墓4基、方形周溝墓1基の8基からなる墳墓群です。
 おおよそ東西250mの範囲に、佐田谷1~3号墓、佐田峠1・2号墓、佐田峠3~5号墓の3群にまとまる形で造られています。
 現在、国道183号線と国道183号線バイパス(高道路)が、墳墓群の間に通っており3群がそれぞれ陸橋で繋がっています。

 弥生中期末には、古層の四隅突出型墳丘墓が中心に多様な形態の墳墓が、墓穴の掘削・埋葬・墳丘盛土を繰返して行くことで徐々に墳墓を構築していることがわかりました。
 墓穴は並列に配置され、在地系の土器が周溝に据えられていました。
 弥生後期初頭以降は方形台状墓が主となり、墳丘構築後に墳頂部から墓穴が掘り込まれる墳丘構築法に変化して行くことが分かりました。
 また、弥生中期までの墓穴とは異なり、明らかに大規模墓穴を中心に周囲に他の墓穴が配されるなど、明確な中心埋葬がみられるようになることがわかりました。それに加え、吉備系土器が使用され、墓穴上に土器が供献されるように変化しています。
 このように、首長墓(傑出した個人のための墓)が出現する、弥生時代中期から後期にかけて、墳丘築造方法と埋葬の関係、埋葬施設の配置、墳墓での祭祀さいしの変遷が一つの丘陵上の墳墓群の中であきらかとなった事例として注目されています。
 当時の、地域間の交流や関係の展開、有力者集団内の構造の変化を知ることができる重要な遺跡となりました。

 ◆「佐田谷・佐田峠墳墓群」が国史跡に指定されました

 --- http://www.city.shobara.hiroshima.jp/info/post_535.html ---

 ・令和3年10月11日に国史跡に指定されました
 令和3年10月11日付け官報告示により、国史跡に指定されました。
 庄原市では、寄倉岩陰遺跡(昭和44年史跡指定)に次いで、2例目の国史跡となります。
 ※ 国指定史跡とは、我が国にとって歴史上または学術上価値が高く、継続的な保護・活用が必要な遺跡等をさし、国の文化財審議会の答申を経て、文部科学大臣が指定するものです。

 【概要】
 佐田谷・佐田峠墳墓群は、庄原市高町・宮内町にまたがる丘陵に所在する弥生時代中期末から後期前葉にかけての墳墓群です。
 四隅突出型墳丘墓3基、方形台状墓4基、方形周溝墓1基の8基からなる遺跡です。
 弥生時代における墳丘築造と埋葬関係、埋葬施設の配置、墳墓祭祀の変遷を知ることができる重要な遺跡として国史跡となります。

 ◆広島県の文化財 -- 佐田谷・佐田峠墳墓群

 --- https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-20211011.html ---

 【解説】
 佐田谷・佐田峠墳墓群は、弥生時代中期末から後期前葉(紀元前1世紀~1世紀頃)にかけて築造された、四隅突出型墳丘墓3基、方形台状墓4基、方形周溝墓1基の8基からなる墳墓群である。西城川左岸の標高約300mの低丘陵頂部、おおよそ東西250mの範囲に3群にまとまる形で造られている。
 弥生時代中期末には古相の四隅突出型墳丘墓を含む多様な形態の墳墓が、墓坑の掘削・埋葬と墳丘の盛土を繰り返すことで徐々に構築されている。また、墓坑は並列に配置され、主に在地系の土器が周溝に据えられる。その後、弥生時代後期初頭以降には墳形は方形台状墓が主となり、墳丘の構築後に墳頂部から墓坑が掘り込まれるようになる。また、大型墓坑を中心に、周囲に他の墓坑が配される墳墓が現れるなど、明確な中心埋葬がみられるようになる。それに加えて吉備系の土器が使用され、墓坑上に土器が供献されるようになる。
 日本列島において首長墓が出現する弥生時代中期から後期にかけて、墳丘築造と埋葬の関係、埋葬施設の配置、墳墓祭祀の変遷が同一の墳墓群の中で明らかになった事例であり、地域間関係の展開と有力者集団内の構造の変化の実態を知る上で重要である。

 …と、こんな重要な墳墓群でありますようです(^-^)//"

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11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(12)

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 石仏を眺めながら上がって来まして、「佛通寺含暉院開山堂」にと到着です。手前が開山堂で、その隣りが「佛通寺含暉院地蔵堂」ですネ。
 開山堂・地蔵堂の前には、説明板が設置してありますので、眼を通してみますと、こんな記載でありました(^.-)☆

 ◆国重要美術品 石造宝篋印塔

 --- 昭和24年4月13日指定 所在:三原市高坂町許山 ---

 佛通寺含暉院開山堂の内陣の片隅に、大通禅師像と並んで建てられている。堂内にあるため、風雨の被害を受けていないので保存は良好である。
 塔身はやや細く月輪と蓮華を彫り、月輪中に梵字が彫り込まれている。
 総高156.7cm、室町時代の作である。

 --- 三原市教育委員会 ---

 ◆三原市重要文化財
  木造佛通禅師 一軀・木造大通禅師 一軀

 --- 昭和37年5月28日指定 所在:三原市高坂町許山 ---

 佛通寺含暉院開山堂の内陣の中央に安置してある。いずれも玉眼入りで法衣を着け、両脚を前にたれ、台座に腰をかけている。向かって右が佛通禅師(即休)、左が大通禅師(周及)で、肖像彫刻として特異な個性的表現があり、面相の写真は特に優れており、室町時代の特色をよく表している。
 坐高は、いずれも50cmで、寄木造りである。室町期の京都作で、福知山天寧寺の像と同一である。
 佛通寺の名は、開山の大通禅師が中国(元)留学中の師、佛通禅師の徳をしたって師の名を寺名としたものである。

 --- 三原市教育委員会 ---

 ◆国重要文化財
  佛通寺含暉院地蔵堂 一棟・付 須弥壇 一基

 --- 昭和24年4月18日指定 所在:三原市高坂町許山 ---

 佛通寺は、応永4年(1397)、小早川春平が愚中周及を迎えて開いた臨済宗の大寺である。その後、火災によって創建当時の建物は、今では禅師の塔頭含暉院の堂だけである。
 この地蔵堂は、応永13年(1406)の建築である。(「佛通禅寺住持記」による。)
 様式は折衷様で、けた三間、はり間三間、一重、宝形造り、本瓦葺き(もとはかやぶき)で均整のとれた美しい室町時代の建物である。
 含暉院地蔵堂の中央億よりに縦2m、横11m、高さ1mの須弥壇(唐様)がある。

 --- 三原市教育委員会 ---

 残念ながら、記念行事等の開催がありませんと、堂内の見学は不能です(^-^;

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11/21(日)備陽史探訪の会『備北の王墓と帝釈峡を訪ねて』に参加(5)


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、古墳の中に入ってみます事に…
 入ってみますと、うん、うん、結構広いです。確かに、「県内有数の大型横穴式石室の古墳として、県内でも最大規模であることが確認されました…」と言うのも、頷けますネ(^.-)☆
 羨道入口付近の天井石は新しそうですから、古墳調査時に修復されましたのでしょうねぇ~
 墳丘に上がりますと祟りでもありそうですけど、今までも各地の墳丘に上がっておりますから、今更躊躇もなんですから、構わず墳丘から眺望です(^-^)
 充分に古墳を拝見しましたので、ソロソロ退散です。
 帰路では民家の庭先にひょうたん型のカボチャが6個ばかり無造作に置かれてありました。
 それを、熱心に画像に納めておりましたら、農作業の手を休め年配の女性が、「食べてでしたら差し上げますよ(^-^)」とおっしゃるので、有難く、遠慮無く1個頂きます事に(^_^)v
 GONsanの周辺に数人おられましたから、この方々も遠慮無く貰っておられました(^.-)☆
 我が家の畑のカボチャは普通の形ですけど、どぅしたら、こんな瓢箪型のカボチャが出来ますのでしょうねぇ~種類が違うのでしょうけど…

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11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(11)

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 ノンビリと上がりながら、途中で振り返ってみますと、一人、二人…と、適当な間隔を開け開山堂に向かっておられます(^.-)☆
 暫く進み、もぅ少しで石段ともお別れの所で、分岐路が…右に進めばスンナリと開山堂に…左に進み石橋を渡れば斜面に設置されました石仏を眺めながら、少しだけ遠廻りで開山堂へ…
 GONsanは、迷わず左方向へ(^-^)

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11/21(日)備陽史探訪の会『備北の王墓と帝釈峡を訪ねて』に参加(4)

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 石段の上り口から50mの表示でしたから、難なく唐櫃古墳に到着です。
 古墳の前には、説明表示板が…眼を通しますと、こんな記載でありました(^.-)☆

 ◆広島県史跡 唐櫃古墳(からびつこふん)

 --- 平成5(1993)年2月25日指定 所在地:庄原市川西町唐櫃 ---

 唐櫃古墳は6世紀後半の前方後円墳で、県内有数の大型横穴式石室の古墳として、平成5(1993)年に広島県史跡に指定されました。墳丘の規模は全長41.4m、後円部の高さは5.4mを計り、古墳の範囲には周溝と呼ばれる溝が巡っています。
 石室は、全長13.1m、玄室(遺体を埋葬する部屋)長7.2m、羨道(玄室への入口)部5.9m、幅2.4m、高さ2.6mと県内でも最大規模であることが確認されました。
 石室内や墳丘から須恵器などのほか、鉄製馬具、鉄鏃、耳環(耳飾り)3対や、銀製山梔形空玉(くちなしがたうつろだま)、金銅製鈴などが出土しています。中でも銀製山梔形空玉は、全国で4例目の出土となり、近畿地方以外での出土は初めてとなりました。古墳の埋葬は、耳環が3対出土したことや、須恵器などの出土遺物から少なくとも3回の埋葬が行われたと考えられています。

 --- 平成22年9月 庄原市教育委員会 ---

 …と、こんな「唐櫃古墳」であります。
 そのほか、WEB上には、色んな方々が「唐櫃古墳」について綴っておられますようですネ。

 ◆唐櫃古墳

 ・本古墳は丘陵の先端に近い緩傾斜面に平行して築成された前方後円墳で、古墳時代後期(6世紀後半)のものである。
 ・主軸を東北東-西南西に置き、丘陵先端側に前方部を作る。主体は後円部に作られた横穴式石室で、北-南に主軸をとり、南に開口する。
 ・広島県における前方後円墳のなかで、横穴式石室を内部主体にするものはきわめて少ない。庄原地域に限っても約30基の前方後円墳のうち、本古墳と投石古墳(全長約17m)の2基にすぎない。本古墳の横穴式石室も全長10mをこえる大型の部類に入り、貴重である。

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11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(10)

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 木橋を渡り参道に戻ってきますと、「開山堂 →」の案内表示が眼に入りましたので、開山堂に上がってみます事に。
 上り口から石段を見上げますと、女性がお一人先行です。ふ~ん、意外と、開山堂に向かわれます方は少ないようですネ。

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11/21(日)備陽史探訪の会『備北の王墓と帝釈峡を訪ねて』に参加(3)

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 庄原田園文化センター・庄原市歴史民俗資料館を後にしますと、次は、唐櫃古墳に向かいます。
 西城川沿いの市道脇にバスを駐め、ここからは田園風景を横目に歩行です(^.-)☆
 途中、民家の庭園に大きなキレイなカボチャが2個、無造作に置いてありました。随分昔に、因島の万田酵素で、この数倍のジャンボカボチャを眼にしました事がありますけど、このカボチャも仲々立派です(^_^)v
 唐櫃古墳からの帰路に、「このカボチャは食用ですか?」とお尋ねしましたら、「家畜用…」と言っておられましたような(^.-)☆
 唐櫃古墳への上り口には、大型の有害鳥獣捕獲箱が設置されておりまして、箱の上には許可証が(^-^)
 近付いて眼を通しますと、「鳥獣捕獲許可証」で、鳥獣等の種類及び数量欄には『ツキノワグマ 1頭』の記載。目的欄には『有害鳥獣捕獲』と記載がありました。
 いゃぁ、イノシシの捕獲器かと思いましたら、なんと『ツキノワグマ』ですから、チョッとビックリでありました。
 いゃいゃ、この辺りには、ツキノワグマが出没しますのですねぇ…
 それにしましても、この有害鳥獣捕獲箱は実に立派です。イノシシ用が10数万程度ですから、これですと30万円程度はしますかも(^-^)

 ◆有害鳥獣捕獲許可について

 野生鳥獣は、鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律により保護されており、狩猟制度に基づき狩猟鳥獣を捕獲する場合を除き、原則として野生鳥獣を捕獲することは禁止されています。
 ただし、生態系や農林水産業に対して、鳥獣による被害等が生じている場合や学術研究上の必要性が認められる場合などには、許可を受けて、野生鳥獣を捕獲することが認められています。
 この許可の権限は、環境大臣や都道府県知事にあります。

 との事ですけど、広島県においても、許可権限の一部が市町村に移譲されており、一部の鳥獣の捕獲については庄原市長sanが許可しておられますようですネ(^-^)//"

 ◆広島県の文化財 -- 唐櫃古墳

 --- https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-206121200.html ---

 この古墳は庄原市を東から西に貫流する西城川が、旧高村の低平な河谷平地から峡谷にかかる地点にあり、西城川右岸にむけて張り出す低丘陵上に造られている。本古墳は、丘陵先端にちかい緩傾斜面に平行して築成された前方後円墳で、古墳時代後期(6世紀後半)のものである。主軸を東北東~西南西におき、丘陵先端側に前方部をつくる。全長48.6m、後円部の直径28.8m、高さは南側で約6mである。主体は後円部につくられた横穴式石室で、北~南に主軸をとり、南に開口する。
 広島県における前方後円墳のなかで、横穴式石室を内部主体するものは、きわめて少ない。庄原市域に限っても約30基の前方後円墳のうち、本古墳と投石古墳(全長約17m)の2基にすぎない。本古墳の横穴式石室も全長10mをこえる大形の部類に入り、貴重である。

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11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(9)

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 この、枯山水の庭園ですけど、和尚さんは学童の皆様に、こんな説明をしておられました(^.-)☆

 枯山水(かれさんすい)の庭園を観賞したことはありますか?枯山水は、石や砂などを用いて水が流れる風景を表現した庭園です。
 枯山水は、水がない場所で石や砂、植物、地形を利用して水の流れを表現した日本の代表的な庭園の形式です。枯山水は「かれせんすい」や「かれせんずい」、「こせんすい」とも読み、平安時代の書物では「こせんずい」と説明しています。他に乾泉水(あらせんすい)、涸山水(かれさんすい)、仮山水(かさんすい)、故山水(ふるさんすい)などの呼び名もあります。
 庭園の要素で分類するときは「枯山水庭園」と呼び、池をメインとする「池泉(ちせん)庭園」、池や林、茶室などを設けた「築山林泉(つきやまりんせん)庭園」と区別します。
 枯山水は時代や造園の方法によって異なり、植物と石が織りなす色の対比や、石や砂だけの静かな佇まいを楽しむことができます。
 白い砂に描かれた線は、「砂紋(さもん)」と呼ばれる模様です。砂紋は穏やかな流れだけでなく、大波やうねり、市松模様や「井」の模様のほか、悟りや心理、世界観や宇宙観も表す渦巻きもあります。
 この庭園には、時たまイノシシが出没して来て大変な状態に陥ることがあります。
 砂の細やかな表現は日本人の繊細な感性によるもので、質素と静寂、清らかで澄み渡った侘び・寂びの美意識が伝わります。砂紋を清掃することは心を清めることに通じるとされ、禅を学ぶ僧侶(そうりょ)が、毎朝、ホウキやレーキで美しく整えています。

 …と言うような事を、分かり易い言葉で学童の皆様に(^.-)☆
 …と言う事は、僧侶の皆様も美意識は各人各様ですから、僧侶が交代しましたら、砂紋も日々異なりますのでしょうねぇ~
 時間的にヒマでしたら、この「砂紋」を同じアングルで、毎日、撮り続けてみたい…こんな衝動に駆られますGONsanなのでありました(^-^)//"

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11/21(日)備陽史探訪の会『備北の王墓と帝釈峡を訪ねて』に参加(2)

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 庄原市立庄原保育所近くの駐車場にバスは停止。ここからは歩いて庄原田園文化センター内の「庄原市歴史民俗資料館」に向かいます。
 庄原市歴史民俗資料館では、「写真撮ってもぃぃですか?」とお尋ねしますと、う~ん、残念。写真撮影は凡て不可でありました(^-^;

 ◆庄原市歴史民俗資料館

 --- https://loco.yahoo.co.jp/place/g-9-bl11gmf-o/ ---

 「庄原市歴史民俗資料館」は、庄原市(旧制)の資料を主として、古代から近世までの資料と民俗資料を展示した施設です。古代の資料としては「陽内遺跡出土土器(県重要文化財)」、中世は「獅子頭(市重要文化財)」、そして近世では「雨乞い祈祷の図(市重要文化財)」などが代表的な展示物です。民俗資料としては、現代では使われなくなった貴重な農耕器具類が展示されています。また、庄原市は昭和の戦前・戦後に活躍した作家「火野葦平(ひのあしへい)」の母「マン」の出身地であり、葦平の作品とマンについての資料を見ることができます。

 ◆庄原市歴史民俗資料館

 --- http://www.city.shobara.hiroshima.jp/main/education/shisetsu/cat01/post_213.html ---

 【開館のお知らせ】
 新型コロナウイルス感染拡大防止のため、臨時休館としておりましたが、10月1日(金)から開館いたします。
 ご来館の際には、新型コロナウイルス感染症対策にご協力のうえ、ご利用ください。

 庄原市歴史民俗資料館は、旧庄原市内の資料を中心に、古代・中世・近世・民俗資料を展示しています。
 一角には、小説家「火野葦平」資料室を設置し、葦平の作品と、庄原市出身の葦平の母「マン」に関する資料を展示しています。

 ・展示品
 古代から近世にかけての考古・歴史資料を展示しています。
 古代では広島県重要文化財の「陽内遺跡出土遺物」、中世では庄原市重要文化財「獅子頭」、近世では庄原市重要文化財「測量図」などを展示しています。
 民俗資料 -- 現在はほとんど使用されることのない昔の道具類を、用途別に展示しています。

 …と、こんな「庄原市歴史民俗資料館」でありまして、貴重な展示品が結構ありましたけど、写真に撮れないのが哀しかったですねぇ~
 どなたか、撮影禁止にも構わず写真を撮っておられまして、その様子を羨ましく眼にしておりましたけど、GONsanはこぅして画像に納めましたモノは凡て公開しますから、やっぱり禁じられています所では撮れません(^-^;
 とにかく、写真撮影不可は残念(^-^;

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11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(8)

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 研修道場入口には、使いこなされた年期を感じさせます「板木」が…大概、右手で打ちますから右半分が窪んでおりますネ(^.-)☆
 この板は何と言いますのかWEB上で調べてみますと、「板木」と言うようですねぇ~

 ◆板木

 板木(ばんぎ)は、玄関脇や露地腰掛に吊り下げ、到着や連客の揃ったことを知らせるための木製の板です。
 板木は、「版木」とも書き、「はんぎ」ともいい、「木板」(もくはん)、単に「板」(版)などともいいます。
 板木は、厚い堅い材質の木製の板の上辺を隅切りした長方形のもので、上辺二ヵ所に紐を通して吊り、左手で支えつつ丁字形の木槌で中央を打ちます。
 板木は、本来は寺院で用いる鳴物(ならしもの)の一種で、ふつう僧侶の日常的な諸作法の合図として用いられます。

 GONsanも30歳前後の時でしたか…ここで、座禅を組んだ事がありますけど、既に40年余り昔の事となりますが、チョッと懐かしさが(^-^)//"

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11/21(日)備陽史探訪の会『備北の王墓と帝釈峡を訪ねて』に参加(1)

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 11/21(日)は、備陽史探訪の会が主催の『備北の王墓と帝釈峡を訪ねて』に参加のGONsanでした(^.-)☆
 今回は、今年、史跡指定の答申を受けた佐田谷・佐田峠墳墓群、発見から60周年を迎える帝釈峡遺跡群のある庄原市を訪ねます。
 主な見学場所は、「庄原市歴史民俗資料館」「佐田谷・佐田峠墳墓群」「唐櫃古墳」「庄原市帝釈峡博物展示施設時悠館」「帝釈寄倉岩陰遺跡」であります。
 集合場所は、福山駅北口にA.M.8:00。
 コロナ禍で色んな行事が中止されておりまして、備陽史探訪の会のバス例会への参加は、久し振りとなりましたGONsanです。
 今回のバスは、ニコニコ観光㈱sanを利用です。参加者は、確か28名でしたような…
 定刻に、福山駅北口をバスはスタートとなりました(^.-)☆
 ニコニコ観光㈱sanより、『やっぱ広島じゃ割・地域観光支援割クーポン』のクーポン券が、一人当たり2枚(2,000円)配布され、ラッキー\(^o^)/
 当日限り使用可のクーポンですから、帰りにはお土産買わなくちゃぁ(^.-)☆

 やまなみ街道を尾道から三次に向かってバスは走行。
 「道の駅・世羅」近くに車窓から外に眼を向けますと、霧が掛かってキレイでしたネ(^_^)v
 「道の駅・世羅」で、まずは1回目のトイレ休憩。何か欲しいモノがありましたのでしょうねぇ~早速、クーポン2枚を使用しておられます方が(^_^)v
 中国自動車道に入り「七塚原SA」で、2回目のトイレ休憩。庄原ICを降り庄原市内に入りますと、まず向かいますのが「庄原市歴史民俗資料館」でありました(^-^)//"

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11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(7)

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 境内の「順路 →」の案内表示に従って、次は、「禅堂」に向かってみます。
 禅堂に関しましては、こんな説明文が…

 ◆禅堂(ぜんどう)

 昭和初期、尾道出身の資産家で篤信家の山口玄洞氏の寄進によって建てられた。台湾檜の良材を使った堅牢な建築で、簡素ながら細部の意匠も精緻である。
 この禅堂は「獅子窟(ししくつ)」と称し、佛通寺第三代管長山崎益洲老師筆の扁額が前門に掛けられている。

 …との事で、「尾道出身の資産家で篤信家の山口玄洞」sanとは、どんな方なのだろう…と、WEB上で検索してみましたら、こんな方でありました。

 ◆山口 玄洞

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 山口 玄洞(やまぐち げんどう、文久3年10月10日(1863年11月20日) - 1937年(昭和12年)1月10日)は、日本の実業家、帝国議会議員。広島県尾道市出身。大阪府平民[3]。大阪府多額納税者。㈱山口玄創業者。尾道市名誉市民。

 ・来歴

 文久3年(1863年)、備後国尾道久保町(現広島県尾道市久保2丁目)で医業を営んでいた山口寿安の長男として生まれる。幼名は謙一郎。山口家は尾道に土着して以降代々医業と副業で醤油販売業を行なっていた。
 明治4年(1871年)9歳の時に父により愛媛岩城島にあった漢学塾「知新館」に学びに出されるも、在塾中の明治10年(1877年)15歳の時に父が急死したため退塾し尾道へ戻る。そこからは学業を諦め、家計を支えるため尾道で行商を始めることになる。
 明治11年(1878年)、大阪心斎橋筋にあった洋反物店「土居善」へ丁稚奉公に出る。呼び名は清助。その仕事ぶりから店主に信頼を受けたものの、明治14年(1881年)土居善は倒産し閉店することになった。そこで取引先との縁で一旦鳥取を拠点に商いを始める。
 明治15年(1882年)、大阪伏見町(現中央区)で洋反物仲買「山口商店」を独立開業する。次第に経営を軌道に乗せると、尾道から母と弟妹4人を大阪に呼び寄せる。当初は輸入織物のモスリンを扱っていなかったが、苦労と幸運が重なり神戸のイリス商館の輸入モスリンを独占販売できることとなり、更に営業規模を拡大していく。日清戦争では軍需品として洋反物は更に売れた。
 明治29年(1896年)34歳の時、山口家四代目として正式に家名を継ぐこととなり「玄洞」の名を襲名した。
 明治37年(1904年)、多額納税者となったことから同年9月貴族院多額納税者議員に互選、明治39年(1906年)9月に辞任した。

 日露戦争以降には国内製織の海外への輸出もするようになると、更に業績を伸ばす。また三十四銀行取締役、大阪織物同業組合初代組長、共同火災監査役、など歴任し、泉尾土地会社・尼崎紡績および大日本紡績(現ユニチカ)・毛斯倫紡績・大阪商事などで重役としても活躍した。大正元年(1912年)、業務拡大に伴い現在の大阪備後町に店舗を新築する。業務拡大したことにより時々不眠症にもなってしまったため、大正6年(1917年)56歳で実業家としては引退し、店を株式会社化し社業を幹部に一任するようになった。
 引退後は時折助言はするものの社業にタッチすることなく京都の本邸で静養生活に入り、また信仰に没頭し後述のように資産の多くを寄付に使う。数寄者としても過ごし表千家後援者としても活躍した。
 昭和12年(1937年)死去。墓は大徳寺塔頭龍翔寺と、死の数カ月後に分骨された故郷尾道の西國寺。遺誡は「人間は努力次第で何事も成就しないことはない。怒れる竜の口中の玉でも容易にとることができる」であった。昭和42年(1967年)『尾道市名誉市民条例』が定められた時、尾道市上水道に対する多大な寄与が主な理由で、平山角左衛門、三木半左衛門と共に名誉市民に選ばれた(後に小林和作が加わる)。

 ・寄付

 玄洞は大阪で財をなしたころから、その多くを関西や尾道の公共事業や慈善事業、寺社に寄付した。大正・昭和における寄付金王とまで言われている。記録に残る主なものだけでも147件の寄付・寄進をしている。建設には安井楢次郎技師を顧問に迎え、新築だけでも100件ほどある。
 初期は特に教育関係、ついで病院・水道などの社会事業関係、そして災害の義捐関係が目につき、その他軍関係にも僅かながら寄付をしている。その後京都に隠居し、仏教を篤く信仰するようになると、次第に寺社への寄進にのめり込んでいく。ひと度伽藍寄進の評判がたつと、玄洞のもとには伝手を辿って嘆願が殺到した。そこで玄洞は、寄進するにあたってその寺が、由緒正しい寺である事、景勝の地にある事、住職の人品が優れている事、の3つを条件にしたという。景勝地が条件に挙げられているのは、玄洞が大衆を教化する一つの方法として、悪人でも襟を正すような聖地に美しい伽藍を作り境地説法するのが効果的だと考えていたためである。
 その金額は、育英・慈善関係で二百数十万、寺社関係では三百万を優に超えることから、総額は五百数十万円にものぼる。玄洞のこうした常軌を逸した寄付をする精神的背景には、『碧巌録』にある「無功徳の精神」があったとも言われる。世間では富豪の道楽と見る向きも少なくなかったが、玄洞はこれを聞くと、「人は脂汗をしぼって資産を作ったが、自分は血の汗をしぼったのであるから、よもや道楽や名利のために寄附することはできない。ただ、信仰の道に入って、寺院の前途を考えるとき、やむにやまれぬ気持ちから寄進するのだ」と語ったという。

 …と、こんな人物でありました。
 ついでに、「山崎益洲」sanも検索です(^-^)

 ◆山崎 益洲(読み)ヤマサキ エキジュウ

 明治~昭和期の僧侶 臨済宗仏通寺派管長。
 生年:明治15(1882)年11月3日
 没年:昭和36(1961)年12月31日
 出生地:京都府
 本名:山崎 大耕
 旧姓(旧名):中川
 経歴明治21年6歳で得度。のち兵庫県常光般若林に学び、京都天竜寺で高木台岳について修禅20余年。大正12年臨済宗天竜寺僧堂師家となり、次いで同宗仏通寺派専門道場師家、昭和4年仏通寺派管長となった。
 仏通寺住職。20年10月~21年4月同宗十三派管長。のち仏通寺を退山、広誠院に住んだ。著書に「般若心経解説」「大道を行く」など。

 …と、こんな方でありました(^-^)//"

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11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(6)

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 本堂から境内に出まして、再度、境内の景観を見直しです。
 そぅしておりましたら、地元の小学生の皆様でしょうか…少人数で来訪で、和尚さんから順番に説明を受けておりました。この方達の後方に付いて、GONsanも説明を聴講です(^.-)☆

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11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(5)

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 佛通寺のホームページを覗いてみますと、こんな記載が…

 ◆大方丈

 佛通寺の本堂。儀式法要、法話説法の場。
 方丈とは、もともと一丈四方(3m×3m)の居室の意で、住持の居間であったものが、後に大伽藍として建てられるようになった。維摩居士(ゆいまこじ)が毘耶離(びやり)城中の一丈四方の居室に三万二千の大衆を入れた故事を併せて考えたい。
 この建物は「降魔殿(ごうまでん)」と呼ばれ、第三代管長山崎益洲老師筆の「降魔」の扁額が掛かっている。初めは毘沙門像が祀られていたが、現在は十一面観世音菩薩像が本尊である。

 ◆童子観音像(どうじかんのんぞう)

 大方丈に祀られる本尊、十一面観世音菩薩立像。頭部に十の小さな顔をもち、東西南北四維上下の十方をあらわす。本体のお顔とを合わせて、十一面となり、宇宙世界のすべてを隅々まで見透す慈顔である。
 観音様の慈悲のお力は、世界のどことして及ばないところはない、その広大無辺の姿を象徴。
 もともと開山堂前に建つ朱塗りの多宝塔の本尊として安座されていたが、大方丈内に遷座された。
 童子の顔を写したというこの童子観音像は、高村光雲工房の門派による作である。

 …との事であります。
 本堂を後にしますと、次は佛殿に向かいます。

 ◆佛殿

 佛通寺の中心の伽藍。須彌壇上には釈迦三尊像を祀る。公式的な説法問答の場である法堂(はっとう)を兼ねる。
 寛政の回禄(1796)の後、広島藩主浅野家の外護で文化6年(1809)に再建。
 天井の雲龍図は文化7年備中松山の画工、菅南山筆。龍は仏法の守護神であり、また雲を呼び雨を降らせるところから火難除けの意もある。

 うん、うん、天井には「雲龍図」が描かれておりました。龍は仏法の守護神であり、また雲を呼び雨を降らせるところから火難除けの意もあるんですねぇ(^.-)☆

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11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(4)

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 それでは、中に入って本堂を拝観です。
 本堂には数名の方が訪れておられましたけど、駐車場の車両数・参道で紅葉を楽しんでおられます大勢の方々の景観から勘案しますと、拝観料を払って境内に入られます方々は意外に少ない感じがしない事も…
 本堂内での写真撮影は「OK」との事でしたから、順番に画像に納めていきましょうか(^-^)//"

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11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(3)

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 それでは、自販機で拝観券を求めて、本堂・境内に向かってみます事に。
 木橋を渡りますと、山門横に佛通寺の説明案内板が…これには、こんな記載がありました。

 ◆佛通寺

 --- 三原市史跡・名称 昭和38年12月17日指定 ---

 佛通寺は、1397年(応永4)小早川春平が愚中周及禅師を迎えて建立した臨済宗の禅刹である。小早川一族の帰依を受けてまたたくまに寺勢は隆昌し、最盛期には山内の塔頭88ヶ寺、西日本に松寺約3千ヶ寺を数えるに至った。しかし応仁の乱(1467~1477)ののち荒廃にむかい、小早川隆景の治勢になってやや再興したものの、福島・浅野と時移り、しだいに往時の面影を失ったのである。
 近代に入ると一転して法灯はおおいに挽回され、1905年(明治38)、臨済宗佛通寺派として独立復旧し、参禅道場をもつ西日本唯一の大本山として今日に至っている。境内全体の規模や堂宇跡の配置などには見るべきものがあり、貴重な文化財も数多く保存されている。特に含暉院の開山堂および地蔵堂は、佛通寺創建当初のたたずまいを偲ばせる現存最古の建物である。

 WEB上で、佛通寺を検索しますと、こんな記載も…

 ◆佛通寺

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 佛通寺(ぶっつうじ)は、広島県三原市にある寺院で、臨済宗佛通寺派の本山。山号は御許山。本尊は釈迦如来。中国三十三観音霊場第十二番札所、山陽花の寺二十四か寺第二十一番札所。
 紅葉時期の景観はすばらしく、県内屈指の紅葉の名所として多くの参拝者や観光客が訪れている。
 御詠歌:わがつみを お許しうけて 今日よりは 仏にかよう こころうれしき

 ・歴史

 佛通寺は、1397年(応永4年)小早川春平の開基、愚中周及の開山により創建された。春平は奉公衆として京都で足利将軍家に仕えており、同僚の那珂宗泰と親しかった。春平は宗泰から、那珂氏の所領にある天寧寺にいる愚中の名声を聞き及び、彼を招いて氏寺を建立することで、南北朝時代の動乱のさなか自立性を強めた一族内の結束を図ろうとした。佛通寺の名は、愚中周及の師である即休契了を勧請開山とし、その諡号「仏通禅師」から取られており、場所は佳き山水の地を選んで建立された。1409年(応永16年)には後小松天皇から紫衣の着用が許されたが、同年愚中は示寂、以後弟子たちは愚中派として臨済宗の中で一派を形成した。1441年(嘉吉元年)足利将軍家の祈願所となり、小早川氏のほか毛利氏の保護も受けの帰依を受けて、最盛期には塔頭88、西日本に末寺約3,000寺に上ったという。しかし、応仁の乱以降寺勢は衰え、小早川隆景の代でやや盛り返すも、その後の権力者の変転の中で取り残されていった。明治維新後は、上地により寺領を失い、諸堂は荒廃していった。1876年(明治9年)に臨済宗各派が独立すると天龍寺派に属したが、浅野氏の外護により、同年に含暉院が再興されその後は地蔵堂が改修され三門が建てられた。そして1905年(明治38年)には天龍寺から独立して臨済宗佛通寺派を称し、その本山となった。

 ・伽藍

 法堂:仏殿を兼ねる。寛政8年(1796年)の火災の後、広島藩主浅野氏の外護によって文化文政年間(1804-1830)に建立された。本尊は宝冠釈迦坐像、脇侍に文殊菩薩・普賢菩薩が祀られている。天井には菅南山筆の雲龍図が描かれている。
 大方丈「降魔殿」:本尊は十一面観音像で、中国三十三観音霊場第十二番札所となっている。
 庫裡、小方丈、禅堂、鐘楼、宝蔵、経蔵。
 開山堂:内部には佛通禅師と大通禅師の木像と石造宝きょう印塔が安置されている。
 地蔵堂(重要文化財):開山堂に並んで建っている。応永13年(1406年)建立で、開創当時のまま残る建物である。桁行き3間、梁間3間、一重宝形造り本瓦葺き。内部には地蔵菩薩坐像を安置する。
 茶室、大書院。

 ・文化財

 重要文化財(国指定)
 佛通寺含暉院地蔵堂 附:須弥壇 - 応永13年(1406年)建立。含暉院の仏殿として建立。様式は折衷様で、桁行3間、梁行3間の一重宝形造、本瓦葺(元は茅葺)。
 絹本著色大通禅師像 附:紙本墨書大通禅師墨蹟(1407年(応永14年))、紙本墨書大通禅師消息(1408年(応永15年)) - 大通禅師像は14-15世紀の作。愚中周及自身の賛によると、「前作州太守天心順公居士」こと小早川春平のために着算された。図様は、右手で自身の頭頂部を撫でるという、「頂相としては極めて特異な姿で描かれている。姿も黒衣に褐色の袈裟、節だらけの自然木の曲彔(椅子)に座し、像主の質素な暮らしぶりを思い起こさせる。墨跡は示寂する2年前に書かれ、同じ内容のものが他にもある。消息は寺の政所宛で、京都を離れたらそのうち佛通寺に帰ろうと思うのだが、足利義持の意を受けた小早川則平(春平の子)の策略で叶いそうもない、寺のことは覚隠真知に申し付けるので諸事相談するよう述べる。義持は愚中を極力京都近郊に留めようとしており、愚中はこの後佛通寺には帰れなかった。
 広島県重要文化財
 木造佛通禅師坐像
 木造大通禅師坐像
 紺紙金泥細字法華経 附:木製漆塗六角経幢
 佛通寺文書
 佛通寺正法院文書
 金剛般若波羅蜜経版木
 延命地蔵菩薩経版木
 登録有形文化財
 多宝塔 - 開山堂脇に立つ。昭和初期の建築で、軒周辺の材料に反りをもたせせ、整った塔姿が特徴の近代の多宝塔。
 広島県天然記念物
 仏通寺のイヌマキ(ぶっつうじのいぬまき)は広島県指定天然記念物(1961年11月1日指定)。参道正面左側、県道50号線と佛通寺川に架かる巨蟒橋の間にある。樹高約20m、胸高幹囲3.52mのイヌマキ(犬槇、学:Podocarpus macrophyllus)の巨木。雌株。仏通寺開山の愚中周及禅師のお手植と伝わる。

 …と、こんな「佛通寺」であります(^-^)//"

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11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(1)

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 いつでしたか、TVニュースで「佛通寺の紅葉の見頃は、11/15~11/25頃…」と言っておりましたので、11/16(火)は紅葉を求めて仏通寺を散策となりました(^.-)☆
 嫁さんにも声は掛けたのですけど、あいにく所用でダメとかで、GONsan独りでの佛通寺行きとなりました。
 平日とは言え、遅くなりますと参道は渋滞するかも…と、我が家を出ましたのは、A.M.9:00過ぎでありました。
 早く出掛けた積もりですけど、それでも、仏通寺到着は、ほぼ1時間後のA.M.10:05となりました(^-^)
 幸いに、渋滞も無く駐車場にはスンナリと入場。
 佛通寺の駐車場は何ヶ所かありますけど、平日のこの時間帯には、凡ての駐車場に余裕で駐められたものと思います。駐車料金は、500円でありました(^.-)☆
 佛通寺の本堂に渡る木橋の上流に設けられました駐車場から、ノンビリと歩いて本堂入り口方向へ…
 途中、「御許神社」の石標がありましたので、帰路に立ち寄ってみます事に(^-^)
 本堂入り口の木橋辺りまでヤッて来ますと、参道の紅葉が大変キレイ(^_^)v
 本堂に渡る木橋付近には、大木のラカンマキが…スグ傍らには、こんな説明書きがありました(^-^)//"

 ◆佛通寺のイヌマキ

 --- 広島県天然記念物 昭和36年11月1日指定 ---

 佛通寺の本堂に渡る木橋の手前左手にある大木で、通常ラカンマキと呼ばれている。
 根回り周囲4.50m、胸高範囲3.52m、眼通り幹囲3.56mで、地上約4.00mのところで、東西の二大支幹にわかれる。約5.00mの高さで、東方の支幹は更に四大枝に、西方のものは五大枝にわかれる。更に上方35mで、両支幹は多数の小枝をわけてほうき状に展開し、短だ円状の樹冠をつくっている。
 イヌマキは、本州中部以南の暖地に生育する喬木で、五~六十年前には幹囲3.00m以上の大木は諸所に生育していたようであるが現在ではきわめて少ない。また雄雌異株の樹種であるが、佛通寺のこれは雄株である。
 イヌマキ科・学名 Podocarpus macrophylla D.Don
 佛通寺の開山・愚中禅師が植えたものであると伝えられ、県下有数のイヌマキの巨木である。

 --- 三原市教育委員会 ---

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衆院選公示で、いよいよ12日間の選挙戦に突入ですネ(^.-)☆

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 本日、衆院選公示で、広島第7区では4名の方が立候補。早速、各候補とも福山市内各地で街頭演説会を行われたものと思います。
 今回の衆院選では、中国地方の20小選挙区で57人の方々が立候補届け出をされましたとか…
 WEB上では、中国新聞sanがこんな記事で伝えておられました。

 ◆衆院選公示 中国地方の20小選挙区で57人立候補届け出

 --- 2021/10/19 10:55 中国新聞デジタル ---

 19日公示の衆院選で、中国地方の全20小選挙区には午前10時現在、計57人が立候補を届け出た。2017年10月の前回選(68人)と比べて11人少ない。安倍晋三元首相から菅義偉前首相を経て岸田文雄首相へと引き継がれた政権を支える与党に対し、野党が共闘を進めて挑む構図となる。投開票日は今月31日。
 5県別の小選挙区の立候補者は、広島(7小選挙区)24人▽山口(4小選挙区)9人▽岡山(5小選挙区)15人▽島根(2小選挙区)5人▽鳥取(2小選挙区)4人。
 57人の党派別は、自民党19人▽立憲民主党16人▽共産党8人▽日本維新の会2人▽公明党、れいわ新選組、社民党、「NHKと裁判してる党弁護士法72条違反で」、諸派各1人。残る7人は無所属となる。前元新別は、比例代表中国ブロックを含めて前職が22人、元職が3人、新人が32人となる。女性は10人。
 自民党は20小選挙区のうち19小選挙区に立てる。党分裂の可能性があった山口3区は前職が引退し、新人が立った。岡山3区は分裂した前回選に無所属で立って勝利した前職が今回は公認を得た。公認がいない広島3区では公明党比例代表中国ブロック前職を推薦し、与党で全勝を目指す。
 野党側は、第一党の立憲民主党が16小選挙区で立候補者をそろえた。前回選は民進党が分裂して当時の希望の党や立憲民主党、無所属に分かれたが、20年9月に今の立憲民主党へ再編。今回、共産党が広島2区と岡山4区で擁立を取り下げるなどし、野党が共闘して与党との一騎打ちに持ち込む構図を増やした。
 衆院選は4年ぶりで、19年7月の参院選広島選挙区を巡る大規模買収事件発生後では初めて。公選法違反罪に問われた広島3区選出の元自民党衆院議員、河井克行被告(一審実刑判決、控訴)と妻の案里元参院議員(有罪確定、当選無効)の党支部に党本部が提供した1億5千万円を巡って、党の姿勢や説明ぶりへの評価が問われる。
 今月4日に就任した岸田首相を信任するかどうかだけでなく、菅前首相、安倍元首相の政権運営の是非が焦点となる。新型コロナウイルスの感染防止策や経済対策、地方創生などの視点で、有権者が審判を下す機会となる。

 …と、こんな速報記事でありました。
 本日は、我が町内でも小林史明副大臣の演説会が開催されましたので、GONsanも参加。
 衆院選は、政権選択選挙ではありますけど、新内閣誕生直後の解散ですから、岸田首相を信任するかどうかだけでなく、菅前首相、安倍元首相の政権運営の是非が焦点となるようですネ。
 毎回の選挙での投票率は、県内ワースト1の福山市。
 そろそろこの辺で、ワースト1の汚名からお別れしたいものですけど、10/31(日)の投票率は、どぅなりますか…
 候補者の皆様も大変気になられますでしょうけど、GONsanも気になります。どぅなんでしょうねぇ(^-^)//"

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9/7(火)は、「大佐山白塚古墳・尾市古墳」を散策となりました(^.-)☆(18)

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 尾市古墳からお別れしますと、せっかく、ここまでヤッて来ましたのですから…と、GONsanが社会人となりまして間もない頃にお世話になりました先輩を訪れます事に(^.-)☆
 GONsanより一廻り先輩ですけど、もし、ご健在・ご在宅で、お会い出来ましたら、35~6年振りの再会となりますのかも…
 ご自宅は、福山市立常金丸小学校のスグ近くと記憶しておりますけど、間違ってもイケませんので、メモして来ました住所をナビに登録です(^-^)
 そして、ナビに従い走行となりました(^.-)☆

 そぅしますと、来た道を戻り、広島県道26号線に出ましてから北上かと思いましたら、途中で右折し山越えのルートをナビは指示。うん、うん、確かに、このルートの方が距離的には短いですねぇ~
 で、逆らわずに山越えルートを走行しておりましたら、途中、『屋敷荒神古墳』の大きな案内板が…
 ふ~ん、こんなところにも古墳が存在です。勿論、この案内板の傍らに車を駐め、立ち寄る事となりました(^.-)☆
 早速、案内板に眼を通してみますと、こんな記載が(^_^)v

 ◆屋敷荒神古墳

 1988年(昭和63年)2月14日、神社建て替えのために敷地を拡幅していたところ、神社裏側から横穴式石室が発見された。
 発掘調査の結果、現存する石室は、西側壁二枚と奥壁一枚の計三枚のみである。石室内からは、ほぼ完全なふた付きの須恵器九点と刀身の一部や飾り金具などが出土し、六世紀末から七世紀初(古墳時代後期)にかけての地方豪族の古墳である。
 新市町内では、石室内が手付かずのままで保存されていた例の発見は珍しく、確実に時代がおえるものとして貴重な資料である。

 --- 新市商工会 青年部 ---

 …と、こんな記載がありました。
 拝見してみますと、案内板に記載の通り、『現存する石室は、西側壁二枚と奥壁一枚の計三枚のみ』でありました(^-^)
 「石室内が手付かずのままで保存されていた」との事ですから、もっとチャンとした石室を期待していたのですけど、う~ん、残念(^-^;
 WEB上で、もっと「屋敷荒神古墳」を検索してみましたら、こんな記載も…

 ◆新市町遺跡巡り⑥どうも解せない… ~「屋敷荒神古墳」(新市町常)~

 --- 2014年02月02日 07:10 http://blog.livedoor.jp/geibi/archives/36785196.html ---

 1月15日夕方、新市町常の「尾市古墳」(十字塚)見学を終え、日暮れまでもう少しあるので、同じく新市町常にある市指定史跡の「常権現1号古墳」に向かうことに。すると途中でこんな看板が目に入り、寄ってみることに。
 後で看板をよく読むと、「壁2枚と奥壁1枚」って書いてありましたが、つい「古墳じゃー!」と先走ってしまい、期待はずれの現状にテンション。
 しかし、光くんは「古墳っておもしれーな」って、思わぬ発言。(・_・;)この前に見学した十字塚なら子供でも楽しめるとは思いますが、ここでこの反応は…、何か光くんの中に古墳巡りの楽しみ方が芽生えたのでしょうか。
 それにしても解せないのが、説明板に「発掘調査の結果、現存する石室は、西側壁2枚と奥壁1枚の計3枚のみである。…新市町内では、石室内が手つかずのままで保存されていた例の発見はめずらしく」とあるのは、どういうことなのでしょう?
 境内拡幅工事で発見された際、未盗掘であったのに、石室の石は3枚だけ?工事の際に壊れた、あるいは「発掘調査の結果」壊れた、それで3枚だけでも現状保存したということなのでしょうか?
 それとも、発見時に石室は既に3枚の石のみになっていたのに、盗掘はされていなかったということなのでしょうか?そうだとすると不思議なことですね。
 何にしても、未盗掘古墳との出会いって、ロマンを感じますね。一生に1回でもそんな現場に立ち会ってみたいものです。( ̄∀ ̄)ノ
 結局、この古墳と辻堂で道草したために、「常権現1号古墳」に行く時間が無くなってしまいました。またの機会を楽しみにしたいと思います。

 …と、こんな記載で、GONsan同様に期待外れでしたようですネ(^.-)☆
 それでは、「屋敷荒神古墳」とお別れで、先輩のお宅に向かいます事に(^-^)//"

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9/7(火)は、「大佐山白塚古墳・尾市古墳」を散策となりました(^.-)☆(17)

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 それでは、この辺で「尾市古墳」とお別れです。
 落ち葉が重なり滑りやすい下山道ですから、慎重に、ユックリと(^-^)
 下山開始間もなく、下の方から話し声?…叫び声?…らしき声が、微かに…
 うん、うん、スッカリ忘れ去っておりましたけど、尾市古墳上り口の路傍に車を駐めておりました。上下のいずれからか分かりませんけど、車がヤッて来ましたのでしょうねぇ~
 少し急いで降りて行きますと、「おぉ~い!!」と叫んでおられるような声が何となく(^.-)☆
 で、「はぁ~い、今、急いで降りてますぅ~~~!!」と、GONsanも叫びますと、きっと、届きましたのでしょうネ…以降は、何も聞こえなくなりましたから…

 ヤッとの想いで降りて来ましたら、ふ~ん、森林組合の方達の車輌でありました。ラッキーにも、上から降りて来られましたから助かりましたネ。もし、下からの車でしたら、どちらかがバックしなければなりません。バックしますとなると、きっとコペン号のGONsanなのかも…ですが、農地側は崖ですから、C級ライセンスのGONsanなんぞは崖下に落っこちてしまいます。危ないところでしたネ(^_^)v

 森林組合のトラックには、3名の方が乗車です。
 「済みません、このまま下山しますから、チョッと待って下さいねぇ~」と、詫びますと、「あぁ、えぇよ、えぇよ(^-^)」と、優しいお三人。
 それをイィ事に、「もぅ2枚ばかり写真を撮らせ下さい」と、またパチリ。
 そぅして下山して行きますと、集落の三叉路にと出ましたので、GONsanはここに停車で、森林組合の皆様を丁重なお辞儀でお見送りとなりました(^.-)☆
 次回、いつの日かまた「尾市古墳」を訪れます機会がありますかどぅか分かりませんけど、次回来訪時には、この三叉路の路傍に駐車しますとイィのかも…
 とにかく、上から降りて来られました車で、本当に助かりましたネ\(^o^)/

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9/7(火)は、「大佐山白塚古墳・尾市古墳」を散策となりました(^.-)☆(16)

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 石室内をジックリ見廻しました後で墳丘の上に立ってみますと、うん、うん、最初から墳丘に上がっておりましたら、古墳の入口はスグに分かったのですけど、古墳廻りを確認しておりましたから、分かりづらかったようですねぇ~
 古墳からは地元の集落が…見下ろしておりますと、畑の一角から白煙が…実にのどかな光景でありました(^-^)//"

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9/7(火)は、「大佐山白塚古墳・尾市古墳」を散策となりました(^.-)☆(15)

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 路傍への駐車を気に掛けながらの歩行ですから、足取りも重く、仲々頂上には進みませんが、その内に前方が開けて来ましたようにも(^.-)☆
 ヤッと辿り着きますと、墳丘らしき、こんもりと盛り上がった箇所全体が、黒ビニールに包まれました土嚢に覆われておりました。多分、これが尾市古墳と思われます。
 石室の入口を捜して、周辺をグルッと廻ってみますけど、入口が見当たりません(^-^;
 んっ!?…これは、尾市古墳ではないのかも…
 この場所から更に少し進んでみましたけど、古墳らしきモノは見当たりませんから、やはりこれが「尾市古墳」なんだろう…と、暫し、休憩。
 そして、さらに周辺を廻ってみますけど、入口らしきモノはありません(^-^;
 仕方なく、南側から土嚢を上がって行きますと、うん、うん、下からは見えませんでした石室への入口が(^_^)v
 やはり、これが『尾市古墳』でありました\(^o^)/

 WEB上で「尾市古墳」を検索してみますと、こんな記載がありました。

 ◆尾市1号墳

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 尾市1号墳(おいちいちごうふん、尾市古墳)は、広島県福山市新市町常にある古墳。形状は八角墳。尾市古墳群を構成する古墳の1つ。史跡指定はされていない。

 ・概要

 広島県東部、芦田川支流の神谷川に流れ込む芦浦川をさかのぼった、芦浦谷の最奥部の丘陵尾根先端部に築造された古墳である。1984年(昭和59年)・2002-2007年度(平成14-19年度)に発掘調査が実施されている。
 墳形は八角形で、直径約10.5メートル、高さ1.95メートルを測る。墳丘周囲には外護列石と見られる石列が巡らされる。主体部の埋葬施設は横口式石槨で、南西方向に開口する。三方向に石槨を配置して平面が十字形を呈するという、全国でも類例のない構造の石槨になる。副葬品のほとんどは失われており、調査では若干の鉄器・須恵器のみが検出されている。
 この尾市1号墳は、古墳時代終末期の7世紀後半頃の築造と推定される。横口式石槨古墳の多くは畿内に限られるが、備後地方は本古墳のほか猪ノ子古墳(福山市加茂町下加茂)・曽根田白塚古墳(福山市芦田町下有地)でも横口式石槨を採用する点で特異性を示しており、その中でも本古墳の場合には畿内にも類例の少ない八角墳である点・複室構造の横口式石槨を有する点で、畿内ヤマト王権との極めて強い結びつきを示唆するとして注目される古墳になる。

 ・埋葬施設

 主体部の埋葬施設としては横口式石槨が構築されており、南西方向に開口する。三方向に石槨を配置して平面が十字形を呈するという全国唯一の構造になる。石槨の規模は次の通り。
 *石室全長:主軸6.68メートル、東西4.6メートル
 *中央槨:長さ1.61-1.68メートル、奥壁幅1.16メートル、高さ1.15メートル
 *西槨:長さ1.71-1.75メートル、奥壁幅0.95メートル、高さ1.06メートル
 *東槨:長さ1.71-1.79メートル、奥壁幅1.01メートル、高さ1.12メートル
 *羨道:長さ4.06メートル
 石槨は花崗岩の切石を組み合わせることにより、天井・奥壁・側壁・床面は基本的に各1枚で構築される。石槨内には全面に漆喰が塗布されており、石材の接合部には特に丁寧に施される。
 3石槨のうち中央槨は幅広で短く、西槨・東槨は幅狭で長い構造になる。石槨部・羨道部の境では西槨・東槨の南側石端が弧状に面取りされることから、扉石が存在したと推測される。また羨道部敷石の外には、礼拝石と見られる敷石が据えられる。
 横口式石槨は単葬が基本であり、3人の合葬を前提として築造された本古墳は異例のものとして評価される。

 ◆尾市古墳
 新市町常の芦浦地区にあり、十字塚とも呼ばれる7世紀後半の終末期古墳で、一辺約12mの八角形墳です。花崗岩切石で構築された羨室が十字になっており国内では他に例のない珍しい古墳で、石室に入ることもできます。

 ◆尾市古墳(十字塚)

 --- https://www.k-shinichi.com/spot?id=21 ---

 全国でも、ここにしかない横穴式十字石室を持つ古墳です。
 巡らせてある列石から近畿を除く西日本では、唯一の八角墳の可能性が高い古墳です。対角長15m、墳丘の裾から少し上側に対角長12mの列石がめぐる箇所があり、全体として8角形西なっています。
 一説には石川王の墓とも言われています。
 石川王は敏達天皇皇子の難波皇子の子とする系図があり、天武天皇の治下で吉備大宰を務めたとされています。八角墳は古墳時代の終わり頃(7世紀中頃~8世紀)、近畿地方で大王の墓として採用されており、石川王の墓陵であるとすると八角墳であることも自然です。
 八角墳は八角形をした古墳で、全国でも十基程度しか発見されていません。近畿以外では関東地方で小規模の八角墳が数例確認されているだけです。
 付近は道が狭く、古墳に駐車場も整備されていないので、大きな車だと奥深くまで入ると、バックでしか出れなくなる可能性もありますので注意してください。
 内部の羨室は十字形に設けられ、南側に開いた部分が羨道となっており、北・東・西の石室が埋葬施設と考えられています。
 3方に設けられた羨室は各面全て綺麗に磨かれた一枚石で構成されており、石の継ぎ目には漆喰が残っています月、元々は石面全体に塗られていたとみられています。
 十字の羨室を持つ古墳は全国でも、ここ尾市古墳のみとなっています。
 対角長15m、墳丘の裾から少し上側に対角長12mの列石がめぐる箇所があり、列石の形がほぼ8角形となっています。
 羨道の奥にの三方向に、それぞれ羨室を配置した横口式石槨で石室の全体の平面形が十字形となっており、羨道を含めた南北の長さが6.68m、東西の石槨を合わせた長さがが4.6mとなり、石槨は長さ1.68m・奥壁1.16m・高さ1.15mので三室とも、ほぼ同じ大きさになります。
 石槨部と羨道部の境は、両壁とも弧状の加工がなされており、扉石があったと考えられています。

 ◆尾市第1号古墳(広島県福山市新市町常)

 --- https://iko-yo.net/facilities/39201 ---

 ・尾市第1号古墳の施設紹介
 国内で他に例のない古墳。
 尾市第1号古墳は十字塚とも呼ばれている人角形墳で7世紀後半の終末期古墳で大王の墳丘形式として見られています。南西方向に開口しており石室内部を見学することができます。主体部には, 花崗岩の切石を組合わせた横口式石槨を3基配置しています。国内で他に例のない古墳です。羨道を含めた平面形が十字形を呈していて、石材の接合部、窪みなどに漆喰が残っています。出土遺物は、須恵器杯蓋片,鉄製品(鉄釘など)が発掘されています。

 …と、こんな「尾市古墳」なんであります。
 では、早速、石室の内部へと入ってみます。と、いきなりコウモリが飛び出て来ましてビックリ(^-^;
 石室内部は、そぅですネ、奥の石室の手前に左右に石室で、羨道を含めた平面形が十字形を呈しておりますねぇ~ふ~ん、これが、全国でも、ここにしかない横穴式十字石室なんですネ(^_^)v

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