GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

旅の景観・話題

4/27(火)は、岡山県矢掛町の「西方院」&「伽藍山」を散策でした(^.-)☆(5)

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 ほぼ一直線の真っ直ぐな上り道ですからキツさは少々ありますけど、「七合目」を通過し「八合目」にと到着です。暫し、ここで休憩となりました。
 周辺を見廻しますと、「嵐山公園までは通り抜けできません」とか「十二天散策コース」の案内表示が…
 「嵐山公園」は、伽藍山から北方の小田川近くの公園で、サクラの名所のようであります。以前、どなたかのホームページを拝見しておりましたら、嵐山公園~伽藍山間の縦走を記載しておられます方が…
 ですから、嵐山公園まで行けるのでしょうけど、手入れがなく荒れ放題で危険なのかも分かりませんネ(^-^)
 「十二天散策コース」ですか…どの方向に進めば良いのか道順が不明。散策ルートが記載してありましたら廻ってみたい気持ちも生じますけど、進入路不明で今回はパス。伽藍山頂上に向かいます。
 「九合目」に到着しますと、樹木の間から少し視界が開けて矢掛町東部方向が…ズッと樹木の間を上がって来ましたから、下界が視野に入りますと、チョッとホッとします気持ちにも(^-^)//"

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4/27(火)は、岡山県矢掛町の「西方院」&「伽藍山」を散策でした(^.-)☆(4)

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 暫く登山道を進んで行きますけど、仲々整備されました歩き易いイィ登山道であります。ですが、樹木に囲まれました中を黙々と歩くのみ。きっと、多分、頂上に出ますまで開けた場所はありませんのかも…
 そぅしていますと、「五合目」の標識が…ここまでは、別段キツい歩きでもなくスンナリと到達です。
 この調子でスンナリと山頂に…と思っておりましたら、「六合目」を過ぎた辺りで「←まわり道→」の標識が(^-^)
 でも、「← →」の矢印は、何を意味しますのでしょう?…
 左方向に向かいますと「まわり道」なのでしょうけど、今まで登って来た道を直進しましても「まわり道」とは…う~ん、意味不明(^-^)
 まぁとにかく、今まで進んで来た道を直進します事に。
 後で分かりましたのですけど、「まわり道」を進みます方が遠廻りでも楽でしたのかも…直進の登山道は、ひたすら真っ直ぐの上り道ですから、多少のキツさがありましたネ(^-^)//"

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4/27(火)は、岡山県矢掛町の「西方院」&「伽藍山」を散策でした(^.-)☆(3)

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 西方院への参詣を終えますと、いよいよ伽藍山への登山がスタートです。が、伽藍山登山口には、ごらんのような「侵入防止柵」が設置されております(^-^)
 これには、『猪の出没により侵入防止柵を設置しております。出入りの際は、柵の上部を外して下さい。なお、出入りの後、必ず元に戻して下さい。--- 西方院総代会 ---』と注意書きが(^.-)☆
 他にも、『登山者の安全及び登山道保護のためバイク乗入禁止』の注意書きも(^-^)

 ◆伽藍山について

 一、標高292メートルの山で三角点が設置されている。矢掛町の中央にあり、全町が見え、遠くは川辺・美星・井原が見える。
 一、古代の条里制の基準となった山
 一、行基菩薩の開基と言われる真言宗伽楞山極楽寺の本堂並びに十二坊(西の坊・大光坊・西明坊・辻の坊・塔善坊・宇根坊・坂の坊・大坊・新蔵坊・。阿賀井坊・仁王坊・金剛坊)があった。寛永年間に本堂を残し江良と里山田に降りたと伝えられている。今でも頂上には地蔵様や手洗い鉢があり昔が偲ばれる。
 一、十二天(帝釈天・熖魔天・水天・毘沙門天・伊舎那天・火天・梵天・風天・羅殺天・日天・月天・地天)が発見されている。信仰の厚い山である。
 一、頂上まで、三十分で登れて気軽に楽しめる山です。

 …と、こんな案内表示板も(^.-)☆

 ◆伽藍山 山歩きガイド
 -- 歴史深い古道をゆっくり散策 --
 パンフレットをご自由にお持ち帰り下さい。

 との記載もありましたけど、う~ん、残念。在庫切れで、パンフレットは一枚もありませんでしたネ(^-^;
 それでは、侵入防止柵上部のロックを外し、登山道の中に入ってみます事に(^-^)//"

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4/27(火)は、岡山県矢掛町の「西方院」&「伽藍山」を散策でした(^.-)☆(2)

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 WEB上で「伽楞山 西方院 矢掛町」を検索してみますと、こんな記載がありました(^.-)☆

 ◆伽楞山 西方院

 --- http://minihenro.main.jp/s88/oda/oda88_img_garanyama.htm ---

 ・伽楞山(がりょうざん)西極楽寺西方院(真言宗)

 西極楽寺としての本尊は阿弥陀如来、西方院としての本尊は不動明王。合祀仏は十一面千手観世音菩薩、弘法大師。
 「江良の史跡めぐり(p.18、p.20)」に阿弥陀如来坐像、不動明王立像、毘沙門天立像、十一面千手観世音菩薩立像、弘法大師坐像の写真が掲載されている。
 『おん あみりた ていせい から うん』
 『のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん』
 『おん ばざら たらま きりく』『南無大師遍照金剛』『南無毘沙門天王』『おん べい しらまんだや そわか』

 ・高野山真言宗備中霊場第99番

 備中国(小田郡・後月郡・浅口郡)三十三所観世音菩薩霊場第19番札所
 「月見れば まづごくらくぞ おもわるる 入りかたたちか ふじの山の葉」

 寛永年間(1624-1645年)の頃、伽藍山の山頂にあった伽楞山極楽寺(一山十二坊)は本堂を残して麓へ下った。江良へ下った七坊(西の坊、辻の坊、大光坊、金剛坊、新蔵坊、西明坊、大坊)が西極楽寺、里山田へ下った五坊(塔善坊、坂の坊、阿賀井坊、仁王坊、宇根坊)が東極楽寺となる。
 現在では伽楞山西極楽寺西方院(西の坊)、伽楞山大光院(大光坊)、伽楞山西明院(西明坊)、伽楞山極楽寺(東極楽寺)以外は廃寺となっている。
 金剛院(金剛坊)は昭和8年に妙覚寺と合併して西岡山四王寺(しおうじ)となっている。

 詳細は「矢掛町史(pp.991-992)」を参照
 「御登極記念 小田郡誌(p.163 大正13年)」に「西方院の本尊は不動明王なり。西方院の境内には仁王門・鐘樓・本堂・庫裡あり。」と記されている。

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4/27(火)は、岡山県矢掛町の「西方院」&「伽藍山」を散策でした(^.-)☆(1)

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 いつでしたか…WEB上に、「伽藍山」についてのこんな記載を眼にしておりました。で、いつの日か機会があれば一度登ってみたいと思っておりましたGONsanです。
 が、いつまでもそのような機会なんぞ訪れませんから、陽気な時候にと入りましたので、4/27(日)は運動も兼ねまして出掛けてみます事に(^.-)☆

 ◆岡山県矢掛 晩秋の伽藍山

 --- https://www.kojitusanso.jp/tozan-report/detail/?fm=21321 ---

 車に乗りながら気になっていた矢掛町の伽藍山に初めて登りました。
 伽藍山は里山の中でもさほど知られていませんが、コースによっては登山道がきちんと整備されており、江戸時代には山城があった山です。山頂にあった登山ノートを読むと、小学生から外国人、山城巡りの方などさまざまな人達が登っていました。
 今回は北にある嵐山公園から五頂山、伽藍山への縦走コースを歩きました。出発地点の嵐山公園はイロハモミジなどが紅葉が見ごろで快適に歩けるのですが、登山道に入ると木につけられたテープを頼りに歩くようになります。景色が変わらず、登山道が分かりにくい箇所もありますので、縦走コースは初心者だけの登山はおすすめできません。初心者や家族連れの方は伽藍山の西側の西方院コースが歩きやすそうです。
 縦走コースはほとんど展望が開けないのでやや単調な景色の中を歩きますが、伽藍山山頂は開けていて、小田川沿いに井原や矢掛の町が良く見え、なかなか感動しました。
 帰路は江良峠コースで極楽寺を経て嵐山公園に戻りましたが、地元の農家の人と話をしていたら、栽培しているみかんをいただきました。里山登山ならではのうれしい出来事でした。
 伽藍山は標高が低い里山なので、夏場は暑くて大変ですが、この時期なら虫も少なく快適に歩けますので、お近くの方は是非一度登って下さいね。井原線の矢掛駅からもアクセスできます。

 …と、こんな「伽藍山」でありますが、「西側の西方院コースが歩きやすそうです」との事ですから、迷わずGONsanは「西方院コース」を選択です(^.-)☆
 西方院にヤッて来ますと、駐車場は「伽藍山」に登ります方達も駐車可能のようですので、お言葉に甘え西方院の駐車場に駐めさせて頂きます事に。
 ですから、登ります前に、まずは「西方院」に参詣です。西方院は、矢掛町にある高野山真言宗の寺院であります。

 ◆伽楞山(がりょうやま)西方院(さいほういん)駐車場

 当院は、備中霊場第九十九番札所です。
 お時間がありましたら、本堂前にてお参りいただき本尊様のご加護をお受けいただきたいと存じます。ご参拝の皆々様に当山、不動明王のご加護を賜らんことをお祈りし、ご家族皆様のご健勝とお幸せを心よりご祈念申し上げます。
 -- 伽楞山 西方院 住職 合掌
 駐車場での事故等につきましては一切の責任は負いません。

 ◆登山者のみなさんへ

 西方院の駐車場及び「P」が利用できます。
 西方院のご厚意により駐車場及びトイレが利用できます。登山前に本堂を参拝、賽銭を入れて登山安全を祈願することをお勧めします。
 ※ 駐車場内の事件事故については、地権者及び本会は責任を負いません。
 ※ トイレを汚した場合は、自ら清掃をお願いします。
 --- 江良元気会 ---

 それでは、早速、「伽楞山 西方院」に参詣です。
 山門脇には「木像金剛力士像 二躯」のこんな案内表示板が設置されておりました。

 ◆木像金剛力士像 二躯

 町指定重要文化財(彫刻)
 指定年月 平成14年6月19日
 所 在 地 矢掛町江良1705
 所 有 者 宗教法人 西方院

 この西方院の仁王門の金剛力士像・二躯は室町時代の典型的な寄木像の極彩色の仁王様である。右側が口を開いた阿形(あぎょう)像で、高さ159センチ、左側が口を閉じた吽形(うんぎょう)像で、高さ153センチである。
 なお、西方院は室町時代に、この伽藍山の頂上で栄えた極楽寺一山十二坊のうち、江戸時代の初めに、西麓の江良寺谷に下りた西極楽寺七坊の一つが、寛永11(1671)年に西方院と公称するようになった寺院である。

 --- 矢掛町教育委員会 ---

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1/25(月)、笠岡市甲弩「甲弩神社」散策(^.-)☆(9)

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 脇参道をノンビリとキョロキョロ見廻しながら下っておりますと、心字池まで戻って来ました。
 永い歴史を感じます立派な「心字池」に、これまた立派な「甲弩神社」…氏子の皆様も後世まで維持・管理して行かれますのも、何かと大変でしょうねぇ~
 また、いつの日か、再訪の機会がありましたら、「甲弩宮山古墳群」を散策してみたい気持ちも生じます…と、言いますより、この甲弩神社のスグ近くに「神護寺」が存在しますので、そちらの方を訪れてみたいものであります(^-^)//"

 ◆長尾山神護寺(ながおさんじんごじ)

 市指定 史跡
 所在地:笠岡市甲弩/所有者:神護寺
 指定年月日:昭和35年12月26日

 甲弩にある来迎院神護寺は、真言宗大覚寺派に属し、もとは神宮寺と称していた。開基は行基菩薩と伝えており、本尊は阿弥陀如来である。近接する甲弩神社の別当寺として創建されたともいわれる。
 神宮寺は、古くは大坊・中坊・般若坊・正円坊・長福坊・上学坊の6坊を有した大寺であった。うち2坊は山口に移され、上学坊は山伏寺となったが廃滅し、長福坊は長福寺となっている。また、長尾山では大坊のみが残って今日の神護寺となった。室町時代には小田氏の庇護を受けて、本堂(県指定重要文化財)を再建している。

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1/25(月)、笠岡市甲弩「甲弩神社」散策(^.-)☆(8)

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 境内を見廻してみますと、甲弩神社拝殿の左側には鳥居がありまして、その左に「甲弩神社境内社殿配置略図」が設けられています。これを拝見しますと各社殿がよく分かります。
 この社殿配置略図の、そのまた左側には「木山賢治宮司頌徳碑」が…「頌徳碑(しょうとくひ)」は、偉人や先覚者などの徳をほめたたえる文章を刻んだ碑なんでしょうけど、WEB上で「木山賢治宮司」を検索してみましても、何にも出ては来ませんでしたネ。どんな方でしたのでしょうねぇ~
 この甲弩神社から比較的近くには、小説家・木山捷平sanの生家がありますけど、「木山賢治宮司」sanと「木山捷平」sanは、ご親戚なのかも…GONsanの勝手な想像ですけど(^-^;

 そして、社殿配置略図で「神楽舎」と記されたコンクリートで固められた場所なんですけど、神楽舎ですから、
 ①宮中、賢所(かしこどころ)の前庭の神楽を行なう御殿。
 ②皇大神宮の神楽を奏する御殿。また、神社で神楽を奉納する御殿。…なのでしょうけど、四方に缶ビールの空き缶を潰して、逆さに適当な間隔で置いてありましたけど、これは何で?…
 確認はしてみませんでしたけど、この箇所には釘か何かが有りますのかも…

 この「神楽舎」前の脇参道を挟み山側には、こんな遊歩道が上に向かって続いています。社殿配置略図にも「遊歩道」として記載。
 この遊歩道を進みますと、「甲弩宮山古墳群」にと向かいますのかも…
 WEB上で「甲弩宮山古墳群」を検索してみますと、A~Eまで5基の古墳が存在しますようです。が、近年は整備されていませんようですから、知識無く出掛けましても、どの部分が古墳なのか分かりませんかも(^-^)
 …と言う訳で、勿論、GONsanは向かいません(^-^)

 それではこの辺で、甲弩神社境内からお別れです(^-^)//"

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1/25(月)、笠岡市甲弩「甲弩神社」散策(^.-)☆(7)

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1/25(月)、笠岡市甲弩「甲弩神社」散策(^.-)☆(6)

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 拝殿前から南側方向に存在するのが「阿部山」である。
 阿部山は、平安時代の陰陽師の安倍晴明が、この山頂で天体観測をしたことからこの名がついたという。

 ◆安倍 晴明

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 安倍 晴明(あべ の せいめい/はるあき/はるあきら、延喜21年1月11日(921年2月21日) - 寛弘2年9月26日(1005年10月31日))は、平安時代の陰陽師。「晴明」を「せいめい」と読むことが多いが、これは音読みであり、諱本来の読み方は確定していない。鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏流土御門家の祖。官位は従四位下・播磨守。

 ★史実上の人物像

 ・出自

 晴明の系譜は明らかでないが、大膳大夫・安倍益材(あべのますき)あるいは淡路守・安倍春材の子とされる。
 各種史書では『竹取物語』にもその名が登場する右大臣阿倍御主人の子孫とする。ほかに、阿倍仲麻呂の子孫とする説話、あるいは、一部の古文書では安倍朝臣晴明ではなく安倍宿禰晴明と記載されるものが散見されること、また当時は「朝臣」を「宿禰」の上位に厳格に位置づけており、朝臣姓の子孫が宿禰姓となることは考えにくいことから、阿倍御主人の子孫である安倍朝臣姓の家系ではなく、同じく阿倍氏の一族である難波氏(難波吉士、のち忌寸、宿禰)の末裔ではないかとする説もある。

 ・経歴

 921年(延喜21年)に摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれたとされる。また、生地については、奈良県桜井市安倍とする伝承もある。幼少の頃については確かな記録がないが、陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授されたという。加茂氏の門下生であり、のちに両家は二大陰陽家となる。
 948年(天暦2年)大舎人。960年(天徳4年)40歳で天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)であった晴明は村上天皇に占いを命ぜられており、出世は遅れていたが占いの才能は既に貴族社会で認められていたことが伺える。50歳頃、天文博士に任ぜられる。貞元2年(977年)、保憲が没した頃から陰陽道内で頭角を現す。陰陽寮を束ねる陰陽頭に就任することは無かったが、位階はその頭よりも上位にあった。

 979年(天元2年)、59歳の晴明は当時の皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で那智山の天狗を封ずる儀式を行う。
 このころから花山天皇の信頼を受けるようになったらしく、記録にしばしば晴明が占いや陰陽道の儀式を行った様子が見られるようになる。花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めるようになったことが、道長の日記『御堂関白記』などの当時の貴族の日記から覗える。そのほか、『小右記』によると、正暦4年(993年)2月、一条天皇が急な病に伏せった折、晴明が禊(みそぎ)を奉仕したところ、たちまち病は回復したため正五位上に叙された。また、『御堂関白記』によると、寛弘元年(1004年)7月には深刻な干魃が続いたため晴明に雨乞いの五龍祭を行わせたところ雨が降り、一条天皇は晴明の力によるものと認め被物(かずけもの)を与えたことなどが記されている。
 陰陽師として名声を極めた晴明は、天文道で培った計算能力をかわれて主計寮に異動し主計権助を務めた。その後、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官職を歴任し、位階は従四位下に昇った。さらに晴明の2人の息子安倍吉昌と安倍吉平が天文博士や陰陽助に任ぜられるなど、安倍氏は晴明一代の間に師である忠行の賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立した。

 ・末裔

 系譜上安倍晴明の後裔とされる家柄としては、堂上家では、安倍氏嫡流の土御門家と、江戸時代にそこから分家した庶流倉橋家があり、明治以降は共に子爵に列せられ、子孫が現存する。また、地下家の幸徳井家も、系譜上は賀茂氏であるが、家祖友幸が安倍氏出身であり、安土桃山時代の当主・友豊まで晴明の男系血脈が続いた。
 しかし、土御門・倉橋両家に関すると、安倍晴明の男系血脈は、宇多源氏綾小路家の子で倉橋家の養子となった倉橋有儀(1738年 - 1784年)と、その息子で土御門家の養子となった土御門泰栄(1758年 - 1806年)の代で断絶しており、現在の土御門家・倉橋家当主はいずれも更に養子相続を繰り返した結果、戦国時代の安倍氏当主土御門有脩から数えて共に4回の女系を経ることで存続している。
 一方、土御門有脩の娘が勧修寺晴豊の妻、土御門泰福の娘が倉橋泰章(土御門久脩から5代目の男系子孫)の妻、さらにその泰章の娘が萩原員領の妻になり、みな子を残しているため、勧修寺家・萩原家をはじめとする幾つかの堂上公家・華族の子孫、および現皇室に、女系を経て安倍晴明の血脈が受け継がれている。
 詳細は「土御門有脩#末裔」および「土御門久脩#末裔」を参照。

 ・奉祀

 墓所は京都嵯峨にあり、渡月橋の近くにひっそりと眠っている。
 安倍晴明を祀る神社は、屋敷跡に建てられたという一条戻橋近くの晴明神社や、生誕地とされる大阪市阿倍野区に建てられた安倍晴明神社、東国では数少ない晴明ゆかりの社立石熊野神社、尾張で毒蛇退治をした際に居住していた屋敷跡の名古屋晴明神社など全国各地に存在する。
 後世の陰陽師が、晴明にあやかろうと信仰したため、日本各地に晴明塚といわれる塚を建立し、祀った。
 詳細は「安倍晴明の所縁」を参照。

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1/25(月)、笠岡市甲弩「甲弩神社」散策(^.-)☆(4)

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 暫く「誠形苑公園」内の池(心字池)の景観を楽しんでおりましたけど、大変立派な池でありました(^.-)☆

 ◆心字池
 甲弩神社にある池「心字池」。中央の参道・二つの中島などで漢字の「心」という文字を形成しています。

 公園内には、『誠形苑』と刻まれました立派な石碑も存在しましたけど、この「誠形苑」とは何なんでしょうねぇ~WEB上で『誠形苑』とか『誠形苑公園』で検索してみましたけど、何らの記述も出て来ませんでしたネ(^-^;
 『誠形苑』の石碑…何なのでしょうねぇ~

 それでは、甲弩神社拝殿に向かおう…と石段を上がろうとして、再度、池を振り返りますと、何度眼にしましても本当に立派な池であります(^_^)v
 池の縁には二つの石灯籠(常夜灯)が存在しますけど、この石灯籠には、右側の石灯籠には4段の石段が…そして、左側の石灯籠には5段の石段が設けられておりました。石灯籠にこのような石段が設けられていますのも、仲々珍しくはありますネ。
 そぅ言えば、この石灯籠の対面側の鳥居脇に「百度石」がありました。
 この百度石にも、ちょっとした工夫が(^_^)v
 お参りされます方が、回数を間違われないようにと、百度石の中に何枚かの木の札が…きっと、10回お参りしたら1枚札を移動してカウントしておられましたのかも…確か10枚程度の木札でしたように思いますから(^-^)
 こぅして考えますと、この「甲弩神社」を創設されました方は、きっと大変心配りの有ります方でしたのかも分かりませんねぇ~

 拝殿への石段の上り口には、「甲弩神社拝殿」の由緒が記されました案内板が…

 ◆市指定 重要文化財 (建造物)
 甲弩神社の拝殿

 甲弩宮山の中腹に鎮座する甲弩神社は、若建吉備津彦命をまつり、古くは甲弩郷の郷社であったと伝えられる。明治以前は艮(うしとら)宮などと呼ばれていた。
 幣殿は笠岡市内でも最古級の拝殿建築として知られる。桁行三間、梁間二間、屋根は入母屋造。 向拝は一間で唐破風造。
 屋根改修の際に、破風内側に残る墨書が発見され、宝永七年(1710年)の再建であることが確認された。棟札も残っている。大工棟梁は塩田長右衛門安次。
 また、寛永十四年(1637年)以降の棟札が大切に伝えられており、境内の建物建立、屋根葺替えの履歴をたどることができる。(境内説明文)

 --- 昭和38年2月20日 指定 笠岡市教育委員会 ---

 拝殿には猿田彦命のお面が奉納されています。
 隋神門の中には、弓を手にされました二体の人物が…これが、どなたなのかは、哀しいかなGONsanには分かりません(^-^)//"

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1/25(月)、笠岡市甲弩「甲弩神社」散策(^.-)☆(3)

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 高越城址の散策を終えましてからの帰路には、比較的近くに存在します「甲弩神社(コウヌジンジャ)」に立ち寄り参拝となりました(^.-)☆
 今回、何故、甲弩神社に立ち寄りましたかと言いますと、GONsanの職場の同僚に笠岡市甲弩のご出身の方がおられまして、以前に、歴史を感じさせる「甲弩神社」と言う立派な神社がある旨、聴いておりました事と、町内の知人の奥様が笠岡市甲弩のご出身で、本年のお正月に新年祈願で参詣された旨お聴きし、GONsanも参拝となりました(^.-)☆
 とは言いましても、決して信心深いGONsanではありませんから、参拝といいますよりも散策と言いました方が適切なのかも分かりません(^-^)

 池の畔に駐車スペースがありましたので、そこに駐車。
 車から降りますと、丁度、正面に『白狐塚』が…ところで、甲弩神社は、「コウヌジンジャ」…「コウノジンジャ」…のいずれが正しいのでしょうねぇ~それに『白狐塚』には、どんな由来が?…
 WEB上に「白狐塚」を検索してみましたら、こんな記載がありました(^.-)☆

 ◆白狐塚 甲弩神社

 甲弩神社境内に狐の塚がある。
 甲弩の山に生息していた白狐を弔って慶応2年(1866)に建立された。

 ◆甲弩宮山の中腹に甲弩神社が鎮座され、手前に白狐塚がありました。

 甲奴村山崎有祠曰艮宮。
 其山有狐毛如皓霊●為霊異会●疾困●村老吉岡孫一行年八十余●
 而●之壬申秋八月十二日遂●蓋命●以其為霊狐請。
 ●●●長松田君建此石実慶応二年丙寅秋九月也。 (碑文)

 苔むしており読めない字が多いのですが、かなりおおまかに言って、甲奴村の艮宮(甲弩神社)に白い狐がいたが、死んだので慶応二年に碑を建てた…ということのようです。
 --- https://ameblo.jp/fudasyosanpai/entry-12481553087.html ---

 ◆甲弩神社(コウヌジンジャ)

 ・由緒

 甲弩の名は承平4年(934)の和名鈔に見える。当社は甲弩郷7ヶ村の大氏神であったと伝えられているところから、その創建は甲弩郷の置かれた奈良時代まで遡る。神護景雲元年(767)とも言われる。
 社名は艮明神(丑寅)また単に大明神とも呼ばれる。源平戦乱の兵火のため社殿が焼失したが、中世に小田氏の尊信を受け多くの社領が寄進された。小田氏は室町幕府の家臣床上小松。これが後に小田清秀と改まる。正平2年(1369)小田の地に入封。小田、甲弩、山口、新賀の4ヶ村を領した。
 小田氏転封の後衰微したが、江戸時代に池田領になって再興。寛永14年(1637)備中松山城主池田出雲守長常によって再建。本殿は降って宝永7年(1710)代官万年七郎右衛門尉の崇敬によって再建。明治5年小田県当時村社に列格。明治40年神饌幣帛料供進神社の指定を受ける。
 拝殿は3間×2間の単層入母屋造。本瓦葺、正面に唐破風の向拝をつける。数度の修理を経ながら昔の様式を残している。昭和33年笠岡市重要文化財指定。
 氏子は領家地頭の二種あり、各約1反の田を有し、宮山は良材と豊富な松茸を産し富裕であったが、明治以降また戦後悉く没収改廃せられ、専任の神職なく衰微したが現在は氏子の協力により鋭意復興中である。

 ・基本情報

 神社コード:09042
 神社名:甲弩神社(コウヌジンジャ)
 通称名:艮宮
 旧社格:村社
 鎮座地:〒714-0002 笠岡市甲弩789

 ◆甲弩神社の拝殿(こうのじんじゃのはいでん)

 --- 市指定 重要文化財(建造物) ---

 員数:1棟/所在地:笠岡市甲弩 甲弩神社/所有者:甲弩神社 指定年月日:昭和38年2月20日
 甲弩(こうの)の宮山にある甲弩神社は、古くは甲努郷(古代、笠岡市北部をこう呼んだ。)の郷社であったと伝えられている。
 明治以前は艮(うしとら)宮などと呼ばれていた。拝殿は、笠岡市内で最古の拝殿建築といわれている。
 平成19年に、屋根の内部で墨書が見つかり、宝永7年(1710)の建築であることが明らかとなった。建てた大工は塩田長衛門安次である。社の周りにはヒノキ、スギ、カヤなど大木が茂って荘厳な雰囲気をかもし出しており、岡山県の郷土自然保護地区として指定されている。

 ◆甲弩神社地域(こうのじんじゃちいき)

 ・ガイド
 甲弩神社は、祭神として稚武吉備津彦命(わかたけきびつひこのみこと)を祀り、もと甲弩郷7ヶ村の大氏神であったと伝えられています。拝殿は、寛永14年(1637)に建立されたもので、市の重要文化財に指定されています。
 参道の石段両側には、ヒノキ、スギ、カヤなどの大木が茂り社叢としての風格を備えています。社殿の背後には、アベマキ、アラカシ、アカマツ、ナナメノキ、コバノミツバツツジなどにより構成される郷土を代表する二次林となっています。

 ・見どころ イベント
 甲弩神社 -- 明治以前は艮(うしとら)宮などと呼ばれていました。拝殿は、笠岡市内で最古の拝殿建築といわれています。

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1/25(月)、岡山県井原市東江原町「高越城址」散策(^.-)☆(9)

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 誰も訪れておられません「高越城址」を、タップリと拝見しましたので、この辺で退散です。
 一の郭(早雲ひろば)から眺望の際に、「← 猿掛城・矢掛方面」の案内標識がありましたけど、次回、この近辺を訪れます機会に恵まれましたら「猿掛城」を散策してみたいものであります。
 それに、眼下に「甲弩神社」方向も…距離的に近そうですから、高越城址から下山しました帰路に、立ち寄ってみます事に。
 それでは、「高越城址」とバイバイです(^-^)//"

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1/25(月)、岡山県井原市東江原町「高越城址」散策(^.-)☆(8)

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1/25(月)、岡山県井原市東江原町「高越城址」散策(^.-)☆(7)

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 石碑下には、「高越城址公園総合案内」版が…これには、こんな記載がありました(^.-)☆

 ◆高越城と北条早雲

 高越城は、鎌倉時代末、蒙古襲来に備えて幕府が宇都宮定綱に命じて作らせたと伝えています。
 戦国時代には、京都伊勢氏の一族の備中伊勢氏が那須氏に代わって荏原の庄を治め、この高越城を居城にしていました。
 伊勢新九郎盛時(後の北条早雲は)、この備中伊勢氏出身で、永享4年(1432)父伊勢盛定の子としてこの地に生まれました。新九郎は、青年時代までこの城で過ごし、西江原の法泉寺で学んだと言われています。
 その後、30代で京都伊勢氏の養子となり、京都に上り幕府に仕え、応仁の乱の後、妹の嫁ぎ先の駿河国(現在の静岡県)の守護今川家に身を寄せました。新九郎は、この今川家の家督争いを治め、56歳にして初めて駿河国の興国寺城の城主となりました。その後、伊豆の国(現在の伊豆半島)、相模国(現在の神奈川県)を治め、88歳で亡くなるまで、北条5代100年の関東支配の基礎をつくり、戦国大名の魁となりました。
 現在も高越城は、山陽道、小田川を眼下に、本丸を含めて5段の郭で構成されており、当時の状況をよくとどめています。

 --- 平成12年3月 井原市・井原市教育委員会 ---

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1/25(月)、岡山県井原市東江原町「高越城址」散策(^.-)☆(6)

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 ◆石碑「高越城址」横書き

 伊勢新九郎盛時 後の北条早雲は高越山城主伊勢盛貞の二男として此の地に生れ 後年駿府に下り関東征覇の偉業を成した (石碑「高越城址」横書きより)

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1/25(月)、岡山県井原市東江原町「高越城址」散策(^.-)☆(5)

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 「北条早雲生誕の地」の石碑を中心にぐるっと廻れまして、それぞれ『← 山上山(高越城出城)』等の案内標識も設置され、暫し、これらの標識に従って眺望を楽しむ事となりました(^.-)☆

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1/25(月)、岡山県井原市東江原町「高越城址」散策(^.-)☆(4)

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 山頂にと上がって来ますと、中央部に「北条早雲生誕の地」の石碑が存在です。
 そして、休憩所には『北条早雲』の足跡を記しましたパンフレットが置かれてありました。

 ◆高越城

 高越城は小田原北条氏の祖、伊勢新九郎盛時(のちの北条早雲)が青年期まで過ごした城として知られています。伊勢氏没落後は宍戸隆家の持城となりましたが、毛利氏の転封にともない廃城となりました。現在は高越城址公園として整備されており、山頂には「北条早雲生誕の地」の石碑が建てられています。また毎年4月には高越城址顕彰会を中心に「北条早雲まつり」が開催されます。

 ◆北条早雲の名言です

 少しでも暇があらば、物の本を見、文字のある物を懐に入れて、常に人目を忍んで見るようにせよ。

 後北条氏の祖で、戦国大名の先駆けとも言われる北条早雲(伊勢盛時)の名言です。早雲は大器晩成タイプの武将で人生五十年が当たり前だった時代に、五十七歳で一城の主となりました。六十四歳のときに小田原城を手に入れ、相模一国を掌握したのは八十五歳になってからでした。
 内政に優れ減税政策などを行い、小田原北条家の基礎を作りました。八十七歳にして、ようやく、嫡男・氏綱に家督を譲ります。最終的に北条氏は、秀吉台頭まで関東一円を百年にわたって治めています。
 早雲は晩年、家臣の心がけを『早雲寺殿廿一箇条』として記しました。その中で早雲は少しでも暇があらば、物の本を見、文字のある物を懐に入れて、常に人目を忍んで見るようにせよ。と、読書の必要性を説きました。また同時に手紙を書くことも促しています。
 これは、優れた書物を読むことで己の教養を高めると共に文字を忘れないようにするためでした。
 使い慣れた文字でも使わないでいると忘れてしまいますが、頭も鍛えることを怠らなかった早雲は、八十八歳まで現役を続けたといいます。
 (早雲の年齢関して享年六十四歳説もありますが、どちらにしても当時としては長く現役を続けている武将です)
 目標を立てて努力を怠らなければ実現できる。老いの壁を越えるお手本だと思います。
 八十歳でエベレストの頂に立った三浦雄一郎さんの「八十歳は四度目の二十歳。限界まで頑張ってみたい」と登頂前に語った言葉。自らを奮い立たせ、自らの限界に挑戦できる、若々しい心に頭が下がります。

 文武弓馬の事については、武士たる以上、常の道であるから、とくに書き記すまでもない次第である。
 文を左にし武を右にするのは、古から伝わっている武士の道であって、文武はともに兼ねそなえなくてはならぬものである。

 ◆北条早雲の格言・名言

 室町時代中後期の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖。伊勢宗瑞(いせそうずい)とも呼ばれる。兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、重い税制を廃すなどの内政に優れ小田原北条家の基礎を作った。

 生 永享4年(1432年)又は康正2年(1456年)
 死 永正16年8月15日(1519年9月8日)

 ・自己の才能のある点をほのめかして申しのべたりしてはならぬ。事柄によって自分一人では計りかねるような御返事は、分別ある人に相談した上で(上司に)申しあげるようにするがよい。どこまでも自己というものを念頭に置いてはならぬ。
 ・神仏を礼拝することは、身の行ないというものである。神仏に対して拝む気持ちがあるならば、ただひたすらに心を正しくおだやかに持ち、正直一途に暮らし、上なる人を敬い、下なる者を燐み、包み隠しなく、有るをば有るとし、無きをば無いとして、ありのままの心持ちで生活することが、天意にも仏意にも叶うというものである。このような心持ちでいるならば、たとえ祈らなくとも神明の御加護はあるものであり、たとえ祈ったとしても心が曲がっていたならば、天道からも見はなされるものであることを、肝に銘じて、深く慎まなくてはならないのである。
 ・主人の所へ御出仕申し上げるときは無論のことだが、その他の場合、あるいは少々の用事があって今日は出仕せず宿所にいるのだがと思っても、とにかく髪を早く結わなくてはならぬ。ふしだらな格好をして人の面前へ出ることは、不作法で嗜みのない態度といわなくてはならない。もしもそのように、わが身に油断がちであるならば、使用している召使いまでがすぐにそれを見習って、他家の人たちが訪問してきた場合など、一家中でうろたえ騒いで、非常に見苦しいものである。
 ・言葉について常に慎んでいなくてはならない。一言聞かれても、その人の心は他に知られるものだから、注意せねばならぬ。
 ・刀や衣装は他人のように、ことに立派なのをつけようとしてはならぬ。見苦しくない程度で満足し、決して華美に流れるようなことがあってはならぬ。もしそれを無い物まで他人から借り求めたりなどして、無力な奴だと思われるようになったならば、世間の人から嘲笑を買うばかりである。
 ・たとえたくさんの者を召使っていても、すべての事柄をそれらの人に申し付けるのが当り前だと考えないで、自分自身でまず万事をやってみて、十分に様子を知り抜いた上で、それから人にやらせてもよいものである、と考えなくてはならぬ。
 ・文武弓馬の事については、武士たる以上、常の道であるから、とくに書き記すまでもない次第である。文を左にし武を右にするのは、古から伝わっている武士の道であって、文武はともに兼ねそなえなくてはならぬものである。
 ・わずかの時間でも暇があるならば、何かの本で文字の書き記されているのを懐中に入れておいて、人目を遠慮しながら読めばよいのである。文字というものは、寝ても覚めても常に手慣れるようにせねば、すぐに忘れてしまうものだからである。読むだけでなく、書く点においては、なおさらのことである。
 ・夕刻には、台所や茶の間その他の火の置いてある場所を自分で見回って、火の用心を家人に対してかたく申し付けておかなくてはならぬ。また、よそから火が出た場合、類火にならぬようにつねに注意して警戒することを毎夜のように申し付けて、習慣にさせなくてはならぬ。女房というものは、いかように育ってきたものであっても、そのような注意は少しもなくて、家財道具や衣裳などを取り散らかして油断しがちなものである。
 ・朝は常に早く起きるように心がけねばならない。遅く起きるならば、下の者までが気持ちを緩めてしまって、公務の大切な用事にも事欠くようになる。その結果は必ず主君からも見離されてしまうものと思って、深く慎まなくてはならない。
 ・古語に、「子の刻(午前0時)に寝て寅の刻(午前4時)には起きよ」と言っているが、そのようなことは、人によって当てはまるのである。つねに寅の刻に起きるのがよろしく、辰巳(八時から十時まで)の刻までも寝ていたのでは、主人への出仕も叶わず、御奉公にも事欠くことになるのみならず、また、自分の用事をもすることができず、全くつまらない次第であって、毎日暮らしているのも無駄なことである。
 ・「多人数の者と交わっては、差出がましくして事を起こすようなことがあってはならぬ」という言葉があるが、何事もしなくてよいことは、他人に任せればよい。
 ・上下万民すべての人々に対して、言半句たりとも嘘を言うようなことがあってはならない。いかなる場合でも、ありのままに申しのべることが大切である。嘘を言っていると、それが習慣となって、ついには信用をも失ってしまい、物笑いの種となるのである。己れが言った言葉について信が置けず、他人から聞きただされるようになっては、一生の恥と考えて、かりそめにも嘘は言わぬように心掛けなくてはならぬ。
 ・御奉公申し上げる用事の間には、乗馬の練習をするがよい。乗り歩く基礎を十分練習して、手綱のさばき具合や、その他の妙技について、稽古を積んで習得すべきである。
 ・友を選ぶ場合、良友として求むべきは、手習いや学問の友である。悪友として除くべきは、碁・将棋・笛・尺八などの遊び友だちである。これらの遊びは、知らぬといって決して恥にはならぬものであり、また、たとえ習ったからといっても悪事とまでは呼はれぬものである。これは、他になす事のない連中が、空しい時間をいかにしてすごそうかと考えて行なうものといえよう。
 ・夕方になったならば、六ツ時(午後六時)には門をぴったりと閉ざしてしまって、人が出入りをする場合だけ開くようにさせるがよい。そのようにさせなくては、やがては必ず何かの悪事がひき起こってくるものである。

 …と、早雲は晩年、家臣の心がけを『早雲寺殿廿一箇条』として、事細かく記しておられますけど、最終的に北条氏は、秀吉台頭まで関東一円を百年にわたって治めています。早雲の教えは、ごく普通の当たり前の事ではあるのですけど、代々の北条氏の皆様も大変優れていましたのでしょうねぇ~

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1/25(月)、岡山県井原市東江原町「高越城址」散策(^.-)☆(2)

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 それでは、早速、「高越城址」散策スタートです。
 南方向に向かってノンビリと歩いておりますと、程なく高越城址への案内表示が…そして、その先に登城門が。
 コロナ禍の状況より、最近は何処に出掛けましても、新型コロナウイルス感染拡大防止の注意喚起のご案内が(^-^)//"

 ◆公園利用のお願い(新型コロナウイルス感染拡大の防止)

 ・人との間に適切な距離をとってください。
 ・咳エチケットに心がけてください。
 ・発熱や風邪の症状がある人は、利用を控えてください。

 --- 井原市定住観光課 ---

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1/25(月)、岡山県井原市東江原町「高越城址」散策(^.-)☆(1)

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 金魚岩とお別れしますと、井原ゴルフ倶楽部の真ん中を抜けます市道を走行し「高越城址」にと向かいます。
 ナビに眼を移しますと、高越城址への途中には「マリア観音像」の表示が…「マリア観音像」の案内表示板が有りましたけど、駐まることはなく、「マリア観音像」を横目に通過となりました(^.-)☆
 後で、WEB上で調べてみますと、こんな『マリア観音像』でありました。

 ◆井原のマリア観音像 -- 井原市指定重要文化財 --

 この観音像は、石で組まれた高さ1.2m、幅0.7mの箱に安置されています像自体は座像で、右手に持つ花枝が右肩上にのびています。頭上には、下にのびる線が短い十字架を刻んでいます。また、台石には、「聖母マリア東江原 田中忠蔵」の銘があります。
 田中忠蔵は、明治42年(1909)に亡くなった人物で、洗礼を受けていた熱心なキリシタンであったと伝えられています。
 時代は、明治時代と思われますが、この地域のキリスト教信仰を知る上での貴重な資料です。

 ◆マリア観音像(まりあかんのんぞう)

 市指定 有形文化財【指定年1975年】分類/石造美術

 ・解説 -- 石で組まれた高さ120.0cm、幅70.0cmの祠(ほこら)に安置されている。像自体は坐像(ざそう)で、高さ60.0cm、幅32.0cmの木の葉状の花崗岩(かこうがん)に彫られている。頭上には、下に伸びる線が短い十字架を刻んでおり、台石には、「東江原 聖母マリア 立田中忠蔵(たりゅうなかちゅうぞう)」の銘がある。
 ・所有者 -- 個人
 ・所在地 -- 井原市東江原町

 …と、こんな「マリア観音像」でありました。
 ナビに従い走行しておりますと、難なく「高越城址」駐車場にと到着です。

 ◆高越城址(たかこしじょうし)

 高越山城は北条早雲の出自と備中伊勢氏の盛衰を見、後に毛利氏による支配を伝える戦国の山城です。
 備中における山陽道の要害地としては、猿掛山城(矢掛町)に次ぐ要害地です。
 城は山陽道と小田川を足下に見下ろす高越山(172m)に築かれ、東は山陽道を矢掛から猿掛山城辺りまで、南は毛利氏の軍港であった笠岡から矢掛方面に北上する人馬の行き来が山陽道に合流する地点を俯瞰することができます。
 高越山城は山陽道を東上する軍勢だけでなく、瀬戸内海を船で下り笠岡の港へ上陸した毛利勢が、備中・備前の境界地点に展開する上で重要な補給基地でした。

 ◆高越城

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 高越城(たかこしじょう)は備中国荏原荘、現在の岡山県井原市に存在した日本の城。戦国時代には備中伊勢氏の城で、北条早雲こと伊勢盛時の出生地である。井原市指定史跡。

 ・概要
 高越城から井原市(荏原荘)を望む、手前の山には出丸があった

 ・城跡碑と宇垣一成揮毫の忠魂碑
 旧山陽道を見下ろす標高172メートルの高越山山頂に築かれた山城で、山頂の主郭を中心に5つ程度の郭を配置し、南側の尾根にも出丸を備え、主郭背部には堀切を設けて防御設備として利用した階郭式の縄張りとなっている。この地は旧山陽道と南側の笠岡の港が合流する要地であった。

 ・沿革
 弘安4年(1281年)、弘安の役に際して、幕府軍の総大将として九州に出陣した宇都宮貞綱が築いたとされる。その後、備中国荏原郷を得た那須氏の城となる。室町時代になると備中国荏原郷や井原荘、笠岡村等を領した伊勢氏の持城となり、伊勢盛綱の四男である盛定が所領分割で荏原荘を得たため、その居城となった。
 盛定は庶流ではあったが申次衆として、同じく申次衆で備中伊勢氏惣領であった兄の伊勢盛富とともに京都に在住しており、所領は嫡男に任せていた(嘉吉3年(1443年)5月12日「伊勢盛経寺領寄進状」)。この嫡男が後に北条早雲と称される伊勢新九郎盛時である。
 盛時は後に京都伊勢氏の伊勢貞道(伊勢貞高?)の養子となり京都へと向かい、最終的には今川氏の後継者問題に絡んで伊豆国に所領を得て、北条五代の礎を築くことになった。
 その後の高越城は引き続き備中伊勢氏によって維持されるが、伊勢貞勝の頃に毛利氏に臣従し、高越城は宍戸隆家の持城となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長移封となると、高越城も廃城となったと推測される。

 ◆北条早雲(ほうじょうそううん)

 戦国時代には京都伊勢氏の一族の備中伊勢氏が那須氏に代わって荏原庄を治め、この高越山城を居城にしていました。伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)は、この備中伊勢氏出身で、永享(えいきょう)4年(1432)父伊勢盛定の子としてこの地に生まれました。
 新九郎は、青年時代までこの城で過ごし、西江原の法泉寺(ほうせんじ)で学んだといわれています。
 その後、30代で京都伊勢氏の養子となり、京都に上り幕府に仕えました。
 応仁の乱の後、妹の嫁ぎ先の駿河国(現在の静岡県)の守護今川家に身を寄せました。
 新九郎はこの今川家の家督争いを治め、56歳にして初めて駿河国の興国寺城の城主となりました。
 その後、伊豆国(現在の伊豆半島)、相模国(現在の神奈川県)を治め、88歳で亡くなるまで、後北条氏5代100年の関東支配の基礎を作り、戦国大名の魁(さきがけ)となりました。

 …と、こんな歴史があります「高越城址」。

 駐車場の一角には、『夏草の 中に起すや 古石仏 - 杜天』と刻まれました句碑が…
 残念ながら、この句がどなたの作なのか、「杜天」がどなたなのか、分かりませんでしたねぇ~
 ここには遺跡も有りますようで、こんな『高越遺跡』の説明板もありました(^-^)//"

 ◆高越遺跡

 この遺跡は、高越城址の北側丘陵にある標高約150メートルの丘陵上に位置します。この場所に高越城址整備事業が計画されたため、工事予定区域内に所在する高越遺跡の発掘調査を実施しました。
 調査の結果、弥生時代後期から終末期(今から約1700年~1800年前)にかけてつくられた竪穴住居16軒以上及び貯蔵穴80基以上が確認され、集落跡であることが明らかになりました。竪穴住居のうち、2軒は、焼失住居でこの時期の住居の構造を考える上で貴重な資料となりました。また、南東斜面に出土した住居は、この集落最大のもので、直径10メートル以上を測り、県内でも大型の住居とされ、この集落の首長が居住していたと考えられます。
 今回の調査によって、井原市内において初めての弥生時代の集落を確認しました。井原の弥生時代を知る上で貴重な資料となりました。今回確認された集落は、標高約150メートルで、平野との比高差は約100メートルを測り、非常に高い所に集落を営んでいたことが分かりました。この時期(弥生時代後期)、ほとんどの集落が平野におりて集落を形成しており、このような高い所で集落を形成しているのは非常に珍しいと言えます。丘陵上に形成される集落は一般的に高地性集落と呼ばれ、県南部では、弥生時代中期後半から後期前半に瀬戸内沿岸を中心に営まれています。この高地性集落は、見張りの役割と防御の役割があり、当時の情勢が緊張していたことが伺える軍事的な集落で、弥生時代後期後半になり、緊張がなくなると平地におりていったといわれています。その頃の村によく似た高地性集落であるこの高越遺跡は、やはり見張りと防御の役割を備えた軍事的な村との想定ができます。
 出土品については、豊富な弥生土器と鉄器が注目されます。この時期の鉄器は、市内では初めての出土になります。鉄器は弥生時代に大陸から伝わってきますが、当時貴重品であった鉄器は再利用され、一般的にはほとんど残りません。しかしながら、この高越遺跡で、鎌2点、鉇(やりがんな)数点、鉄鏃(てつぞく)数10点と数多く出土しています。中でも弥生時代の鉄鎌は、県内において出土例がわずか8例しかなく、そのほとんどが県北部であり、破損品が多い。今回発見された鉄鎌は、2点ともほぼ完全な形で発見されており、時期も弥生時代後期後半と確定できる貴重な発見といえます。

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1/25(月)、岡山県井原市野上町「浪形岩子安観音・金魚岩」散策(^.-)☆(10)

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 この金魚岩…こぅして見れば見るほど確かに金魚に見えますネ(^.-)☆
 金魚岩の眼の辺りには、100円・10円・5円等の硬貨のお供えが…地元の方…訪れました方…どなたか分かりませんけど、心ある方のお供えなのでしょうネ。
 充分、金魚岩を拝見致しましたので、それではこの辺で退散です(^-^)//"

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1/25(月)、岡山県井原市野上町「浪形岩子安観音・金魚岩」散策(^.-)☆(9)

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 案内表示に従って上がって行きましたら、スグに「金魚岩」が存在します山頂の広場にと到着です。
 広場中央部の奥側に岩が…
 近付いて行きますと、うん、うん、これが『金魚岩』ですねぇ(^.-)☆
 金魚岩の傍には、ベンチと資料箱が…早速、資料を一部頂きです(^_^)v
 この資料には、こんな記載がありました。

 ◆金魚岩(きんぎょいわ)
 -- 2千万年の時代を経て山頂に現れた自然の造形 --

 金魚岩は、この近辺に産出する「浪形岩」(なみがたいわ)と同じ貝殻石灰岩(かいがらせっかいがん)でできています。そして、この岩には次のような歴史があります。

 1.堆積と凝結
 今から約2千万年前、このあたりが「古瀬戸内海」(こせとないかい)と呼ばれる暖かく浅い多島海であった頃に、ハネガイなどの生物の死骸が海流の働きによって特定の場所に集められました。その後、地殻の強い圧力により固められて団塊(だんかい)状の貝殻石灰岩となりました。

 2.浸食による造形
 長い年月の間に、あるときには海岸での波浪(はろう)や風雨、また、あるところでは地下水などにより、貝殻石灰岩の塊はさまざまな形に浸食されていきました。この付近にある貝殻石灰岩が今日「浪形岩」と呼ばれているのは、このことに由来しています。

 3.隆起と露出
 200万年前ごろの土地の隆起によって、「浪形岩」は、現在の標高約250メートルの場所に押し上げられました。その後、表土が風雨の浸食を受けたことにより、浪形岩の一部は地表に露出しました。戦前、金魚岩の周辺には同じような岩の露出が数十ヶ所見られ、大きなものは十畳(じゅうじょう)ほどもあったと言われています。

 4.破砕の危機
 昭和になってからは「浪形岩」が飼料などの原料として使われるようになり、この地にあった数十の岩の群れも昭和の半ば頃に破砕され工業用に用いられましたが、金魚に大変よく似たこの岩だけは、その珍しさから大切に守られてきました。
 この敷地内には少なくとも3ヶ所の採掘跡のくぼみが確認出来ます。

 5.整備
 近年、「干し柿の里」として山の上地区に多くの人が訪れるようになったことから、この地域周辺の散策等をいっそう楽しんでもらえるように、町内の方々の協力も得て、あらためて整備したものです。
 
 ※ お知らせとお願い
 ・ここは私有地ですので、環境の保全と美化にご協力下さい。
 ・「金魚岩」は欠けやすいので、硬いもので力を加えたり衝撃を与えたりしないで下さい。
 ・冬季の落葉時には、南西方向に鞆の浦(とものうら)付近の瀬戸内海が眺望できます。
 -- 平成28年8月 地権者 --

 ◆参考年表
 -- 小田地区の歴史に関するおもなことがら(奈良時代~江戸時代) --

 ・奈良時代
 口分田(くぶんでん)を割り当てるための条里制(じょうりせい)の区画が日置谷から中小田にかけて整備される。(7世紀後半)

 ・室町時代
 この地の南朝勢力を駆逐した北朝(室町幕府)方は1369年、幕臣小松秀清(のち小田と改姓)を地頭職(じとうしき)に任命。秀清は神戸山城(こうどやまじょう)を築城し、武荅(むとう)神社を整備する。以後226年間、小田氏が小田を治める。
 秀清の次男信清は、京都に戻って仏門に入り「正徹」(しょうてつ)と名乗る。東福寺などに仕え、当代きっての臨済宗の歌僧として名を馳せる。のちには足利幕府において「源氏物語」の講義を担うまでになる。(15世紀前~中頃)
 小田政清は、高越城の伊勢氏、猿掛城の穂田氏に援軍を頼み、吉田方面から山口地区へ進入してきた村上氏の軍勢を中の才の戦いで破る。(16世紀中頃)

 ・安土桃山時代
 毛利氏による三村氏討伐(備中兵乱)では、吉川(きっかわ)元春、小早川隆景など毛利勢の主力が小田の岩屋山城や田鶴山(たづやま)城に布陣。(1574)
 羽柴秀吉による備中高松城水攻めに対して小田氏は毛利方として参戦。(1582)
 豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)に参戦。釜山の守備を担う。(1952)

 ・江戸時代
 江戸時代の期間を通じて天領(幕府直轄地)と庭瀬藩領を繰り返す。
 宿場町である矢掛を補助する「間宿」(あいのしゅく)としての役割(助郷役:すけごうやく)を堀越(ほりこし)地区が担う。(人や馬の手配、休憩場所の提供など)
 高瀬舟が小田まで運航されるようになる。(17世紀前半)
 岩屋山城の千手(せんじゅ)観音をまつる大市の最中に堀越で大火が発生。数十戸の家が焼失する。(1720)以後、小田の大市は中止される。
 庭瀬藩の圧政に対する「小田郡14ヶ村強訴」に小田からも参加する。(1823)

 (参考にした文献)
 ・『小田郡誌(上・下)』(小田郡教育会 1972年)
 ・『矢掛町史』(矢掛町史編纂委員会 1982年)

 ふ~ん、そぅでしたか…
 「昭和になってからは「浪形岩」が飼料などの原料として使われるようになり、この地にあった数十の岩の群れも昭和の半ば頃に破砕され工業用に用いられましたが、金魚に大変よく似たこの岩だけは、その珍しさから大切に守られてきました。」との事。金魚岩の存在しますこの土地は、個人所有の私有地との事ですけど、この金魚岩だけは大切に保護して来られましたのですねぇ~
 当初から何ら手も加えられてはなく、自然のままなんでしょうけど、うん、うん、まさに『金魚岩』ですネ\(^o^)/

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1/25(月)、岡山県井原市野上町「浪形岩子安観音・金魚岩」散策(^.-)☆(8)

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 「浪形岩子安観音」横の市道を少し(100~150m)下って行きますと、市道左側の斜面に「金魚岩」の案内表示が…この案内表示板手前の路傍に車を駐め、ここから歩いて「金魚岩」へ(^.-)☆

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1/25(月)、岡山県井原市野上町「浪形岩子安観音・金魚岩」散策(^.-)☆(7)

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 今回は、『金魚岩』を訪れます際に、たまたまスグ近くを通りますので立ち寄りました「浪形岩子安観音」でしたけど、前回訪問時とは違い随分手入れされておりましたので、落ち着いた気持ちでの再訪となりました(^_^)v
 それでは、この辺で「浪形岩子安観音」とお別れし、これまたスグ近くの『金魚岩』に向かってみます事に(^-^)/"

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1/25(月)、岡山県井原市野上町「浪形岩子安観音・金魚岩」散策(^.-)☆(6)

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1/25(月)、岡山県井原市野上町「浪形岩子安観音・金魚岩」散策(^.-)☆(4)

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1/25(月)、岡山県井原市野上町「浪形岩子安観音・金魚岩」散策(^.-)☆(3)

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 岡山県井原市野上町は、浪形岩発祥の地だ。頂見山の畑の中にドンと大岩があり、その頂上に石で造られた祠のようなものがあり、中を覗いてみると、石仏が祀られていた。浪形岩は、中新世(約2,500万年前)の貝類の化石でできた石灰岩層で、当時このあたりが浅い海であったことを表すものだ。この岩は、古墳時代に多く利用され、こうもり塚古墳、王墓山古墳、牟佐大塚古墳などの石棺に利用されている。
 --- https://kibikoseki.koojin.com/koseki-namikatakoyasu.htm ---

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1/25(月)、岡山県井原市野上町「浪形岩子安観音・金魚岩」散策(^.-)☆(2)

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 この「浪形コミュニティ広場(浪形岩子安観音)」は、昨年10月に訪れていますけど、その際とは随分異なり、雑草が刈り取られ大変歩き易い状況です。
 再訪でもありますし、次から次に画像に撮りまくりとなりました(^.-)☆

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1/25(月)、岡山県井原市野上町「浪形岩子安観音・金魚岩」散策(^.-)☆(1)

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 小笹丸城跡からの帰路には、井原市神代町の「高越城址」に立ち寄ってみます事に…帰り道でもありますから(^-^)
 で、井原ゴルフ倶楽部方向に向かっておりまして、これも突然ですけど、以前に近くまで来ましたけど立ち寄らずに帰りました『金魚岩』も訪れてみます事に。
 昨年10月に訪れました「浪形コミュニティ広場(浪形岩子安観音)」の近くですから、ここを通過していますと、前回訪れました時には雑草が生い茂っておりましたけど、キレイに手入れしてありますから、再度、「浪形コミュニティ広場(浪形岩子安観音)」に立ち寄りとなりました(^_^)v

 ◆浪形岩子安観音

 この辺りは、浪形岩発祥の地であり、古墳時代文化の華やなりし頃には、この岩が石塔や石棺として多く使用された。その出土品の中でも有名なものに、吉備路のこうもり塚古墳(国指定史跡)の家形石棺がある。その他にも岡山市の牟佐大塚古墳(国指定史跡)の石棺、倉敷市庄の王墓山古墳(県指定し席)の石棺、総社市秦の金子石塔塚古墳の石棺等が発掘されている。
 当地(井原市野上町)頂見山一帯は、聖武天皇の天平9年(737)名僧行基により開山された頂見寺を中心に全山72坊を数え仏教文化の栄えた所である。鎌倉時代には那須氏により再興され、その後、尼子と毛利の戦(1560-1570前後)で廃墟となるなど、幾多の盛衰を経て今日に至った。
 昭和46年、この土地の老人有志が発起し、8年の歳月をかけて発掘した浪形岩の洞窟は、まことに見事なものである。奥の洞窟へは奥之院子安観音を、中ほどには慈母観音を安置して、古くから安産や長寿にご利益が多いとして信仰された観音本殿、明治四国の札所などとともに、この山地一帯を「ふれあいの広場」として開発、整備したものである。

 --- 井原市観光協会 ---

 …と、設置されました案内表示板によりますと、こんな「浪形コミュニティ広場(浪形岩子安観音)」であります。
 (http://gon.mbsrv.net/2020namigataiwa01.html)

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1/25(月)は、岡山県井原市美星町「小笹丸城跡」を散策でした(^.-)☆(5)

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 暫く下って来まして振り返りますと、小笹丸城跡が正面に…
 そして、足元に眼を向けますと、うん、うん、美星町ですから「空気弁」と「仕切弁」の絵柄には「美星天文台」が(^.-)☆
 ところで、よく見掛けますこの「空気弁・仕切弁」なんですけど、これにはどんな機能・役割がありますのでしょうねぇ…

 ◆仕切弁

 仕切弁とは給水装置の制水に使用するバルブのことを言います。給水管の配管途中に設置してあります。また、トイレなど各種機器類の手前に設置してあるような一部の給水装置を制水するものと、給水装置全部を制水するためのものがあります。

 ・仕切弁と止水栓の違いについて
 仕切弁は道路に埋設等されている配水管に使用されている弁のことです。
 一般的に配水管はアミダクジのように配水タンクから各個々の地域に配水されるよう配管してありますが、ある1箇所が漏水や破損しても他のルートを通っていつでも水がご家庭に行き届くようにしてあります。そこで、給水ルートを変えたりする時に水を仕切る弁を仕切弁です。止水栓は文字通り水を止める弁です。片方が開放になる可能性がある場合に使います。仕切弁やボール式止水栓は、構造的に流量調整ができないことはないのですが、長期間、流量調整したまま放って置くと弁が傷みやすいのでお勧めしていません。

 ◆空気弁

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 空気弁(くうきべん)とは、水道などの配管内にあって、空気を抜く、または空気を入れる役目を果たす弁である。「空気抜弁」などとも呼ばれる。水と空気の組み合わせが最も一般的であるが、他の液体用配管でも同様である。

 ・機能、仕組み
 1つの空気弁で排気と吸気の両方の機能を果たす。
 ・排気
 配管内の水に含まれる空気が少量ずつ分離し、やがて管内に溜まると円滑な流通が阻害されるようになる。配管内の凸部として空気弁を設け、この部分から空気を逃がす働きがある。また一旦水が抜かれたり新設された管路内に充水する場合、空気の逃げ道が必要となり、そのための空気の出口となる。通常時は空気弁の内部が水で充たされており、弁座とフロートが密着することで密封されている。
 空気弁の内部に空気がある程度溜まると、フロートが水に浮きながら水面位置まで下がるため、弁座とフロートの接触が解かれて外部に空気が流出する。空気の流出によって水面が上がるとフロートも上昇し、やがて弁座とフロートが密着することで再び気密が保たれる。空気流出過程のいずれにおいても内部の加圧状態が失われることはない。
 ・吸気
 工事等で管路から水を抜くには、どこかから空気を流入させねばならず、そのための空気の入口となる。空気弁の内部が負圧となることで外部から空気が流入する。

 …と、WEB上にはこんな記載がありました。
 普段何気なく眼にしてはおりますけど、ふ~ん、そんな役割がありましたか(^-^)//"

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1/25(月)は、岡山県井原市美星町「小笹丸城跡」を散策でした(^.-)☆(4)

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 周りを見廻してもご覧の通りで、どちらに進んで行けばイィものやらサッパリ分かりません(^-^;
 手入れが行き届き、雑木も刈り取られましたら、この画像のような平坦地で散策も楽しめますのでしょうけど、現状ではとても無理。あえなく早々の退散となりました(^-^)
 往路では気付きませんでしたけど、復路では、雑木林の中にテレビのアンテナが…周辺の受信状況が悪いお宅が設置しておられますのでしょうけど、このアンテナも雑木で囲まれておりましたネ(^.-)☆

 せっかく訪れましたのですけど、この状況では散策もとても無理。
 訪れます時期が悪かったようであります(^-^)//"

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1/25(月)は、岡山県井原市美星町「小笹丸城跡」を散策でした(^.-)☆(3)

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 教えて貰いました小笹丸城への上り道、比較的手入れもされておりまして歩き易いので進んで行きますと、スグに主郭(江戸時代の用語で本丸)下にと到着です。
 ここには、「小笹丸城縄張り図」と「小説家・遠藤周作氏直筆の石碑」が設置されておりましたけど、GONsanの背丈ほどあります雑草・笹・雑木に覆われて、主郭部分、城道がとりつく北と尾根つづきの東側に土塁、主郭から一段下の曲輪等は、とても見て廻ります事は出来ませんでしたネ。
 年に一度程度は、地元住民の皆様が手入れをされますのでしょうけど、それも春頃なのかも…この時期が一番雑木類が生い茂っています時期なのでしょうねぇ~
 う~ん、残念。せっかく訪れましたのですけど、とても散策は不能です。

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1/25(月)は、岡山県井原市美星町「小笹丸城跡」を散策でした(^.-)☆(2)

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 暫く小笹丸城跡に向かって進んでおりましたら、道端と言うか民家の進入路付近に犬小屋風のモノがブロックの上に…これは、何なんだろう?…と、よくよく見ますと、うん、うん、新聞受けでありました。
 ここが進入路の入口とは言いましても、玄関までは随分距離がありますから、新聞配達員さんへのご配慮で、ここに設けておられますのでしょうねぇ~
 そしてまた進んで行きますと、この正面の山が「小笹丸城跡」なんだと思われます。
 何にも案内標識がありませんから、そのまま進んで行きますと、前方に土壁が崩れかけました老朽著しい建物が…そして、その先に民家が存在しまして行き止まりなのかも…

 小笹丸城跡には、何処から入るのだろう…と困惑しておりましたら、前方から車が下りて来ました。
 これ幸いと、車を運転しておられますご高齢の女性に「小笹丸城跡には、何処から上がりましたら宜しいのでしょう?」…とお尋ねしますと、後方を指差され「昔は標識があったのに今は無いけど、あそこから入ったらイィですよ。ただ、荒れてるから、どぅかな…」との事でありました。
 GONsanの後方を振り返りますと、うん、うん、確かに山への登り口が…

 見た感じでは手入れもされ歩けそうですから、上らなくては(^-^)//"

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 ・星座 牡牛座


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