GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

旅の景観・話題

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(07)

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 〝佐渡日蓮聖人大銅像〟の拝観を終えますと、観光バスに乗り込みまして、次は「塚原山 根本寺」に向かいます。
 バスの車窓から、今一度、〝佐渡日蓮聖人大銅像〟に眼を向けながらスマホで検索しておりますと、こんな記事もありました。

 ◆佐渡に日蓮聖人の大銅像完成

 --- 日蓮宗新聞 2003年6月10日号 ---

 日蓮聖人が遺されたお題目の教えを、銅像を通して広く社会に伝えたい―。青年僧の呼びかけに賛同した全国の有志僧侶と檀信徒の発願が実を結び、日蓮聖人ご霊跡の地・佐渡に聖人の大銅像が完成し、その開眼落慶法要が5月13日、全国から僧侶檀信徒や大銅像周辺地域の住民など約2千人が参列し盛大に営まれた。大銅像が太陽の光を浴びて金色に輝く会場では、全国から集まった檀信徒が合掌する中、西身延青年会が先頭にたって新緑豊かな田園風景の中を進み、万灯を奉納。全日青の僧侶、導師の浅井圓道師(長崎県長照寺住職)、式衆が後に続き、御本尊、御神体、御経が大銅像内部に納められた。
 午前10時、法要が厳修され、僧侶と檀信徒の読経が響き渡った。法要中、佐野代表を導師に修法が営まれ、全日青の会員が檀信徒を囲んで修法を行った。
 銅像完成に至るまでの経緯や数々の苦難を声をつまらせながら敬白文を言上する佐野代表を前に、目頭を抑える檀信徒の姿も数多く見られた。続いて参列者全員で唱題し、お題目が会場全体にこだました。
 その後、浅井師、本山根本寺の竹中錬浄貫首、川口徳一両津市長、菅野啓淳身延山久遠寺布教部長が祝辞。竹中貫首は挨拶の中で「大銅像は日蓮宗だけのものではありません。生きとし生けるもの全ての方が、大聖人の銅像を目にした時、人間らしい心を養って、人を敬う心をもって頂きたい。これからは根本寺が責任を持って護持いたします」と話した。続いて土地を寄進した土屋辰治さん、斉藤一夫さんはじめ地権者、両津市長、建設関係者など16人に佐野代表から感謝状が手渡され、最後に、若松宏泉師(北海道妙心寺住職)が竹中貫首に委託状を授与した。
 法要終了後、豊田慈證師(愛知県法華寺住職)が大銅像の前で高座説教を行った。また、地元の民謡や、佐渡おけさ、新野大野鬼太鼓などの清興が行われた。
 清興の最後に、佐野代表が挨拶に立ち、万歳三唱を行って終了した。

 -- 大きな銅像にびっくり --
 落慶式会場には檀信徒以外にも多くの人が足を運んだ。
 地元両津高校の生徒約80人も体育の課外授業の一環として訪れた。銅像建立地は生徒の通学路にもあたり、工事中から関心を集めていた。「このお像はだれ?」といった疑問を生徒たちは学校や家庭などで話題にしていたという。
 引率の体育教諭の和田紀明さんは「銅像が完成した時も生徒と一緒に来ました。記念の式典に参加することによって、島外とのつながりを感じ、同時に郷土の歴史を知ってもらえれば」と話した。女子生徒の1人は「こんなに大きなお像が出来てびっくり!これから私たちを守ってくれそうでとてもうれしい」と銅像を見上げていた。
 また近所に住む他宗の女性は「作り始めた頃から見ているが、すごく立派。うらやましいというのが素直な気持ちです」と話した。
 土地を寄進した土屋さんは「今後この銅像が信仰の拠点となって、全国から信者がきて下されば」と銅像の完成を喜んだ。

 -- 金色に輝く大銅像 --
 日蓮聖人の大銅像は像高13メートル、台座13メートル(総高26メートル)。台座には浅井圓道師が書いた「開目」の字が刻まれ、お釈迦さまの生まれたインドの方角を向いて立つ。
 銅像は両津市加茂歌代地区にあり、周りには田園風景が広がる。晴れの日には金色に輝き、両津港へ入港する船からもはっきり見ることが出来る。

 -- 建立きっかけは全日青の佐渡結集 --
 「法華経布教のため、お祖師さまのために、是非役立てて頂きたい」と、土地を寄進したひとりの檀徒の思いに答え、佐渡に日蓮聖人の大銅像が建立された。
 きっかけは平成10年、全国日蓮宗青年会(佐野前延委員長=当時)が佐渡結集を行い、唱題行脚してお題目を響き渡らせた時のこと。それに感銘を受けた本山根本寺檀徒の土屋辰治さんが、全日青に土地を寄進した。
 その後、全日青執行部は協議を重ね、佐渡は日蓮聖人ゆかりの島であることを象徴するために日蓮聖人の大銅像建立を発起した。しかし、翌年の結集で青年会員に銅像建立を提案したが賛否両論があり、全日青としての取り組みは断念した。
 大銅像の建立が心残りのまま、平成12年に全日青委員長を退いた佐野師は、一僧侶としてあらためて佐渡に日蓮聖人の大銅像を建立することを発願し、佐渡銅像建立委員会を結成した。土地を無駄にしたくない、何もできないと言われがちな自分たち青年僧にも何か“できる”ことをしたい、との思いもあった。その心が通じ、有志の僧侶342人から賛同を得た。
 建立委員会では、寄進された土地周辺の確保に乗り出した。新たに地権者の斎藤一夫さん(両津市妙法寺檀徒)からの寄進も加わり、最終的な建立予定地は約3千㎡になった。
 さらに全国にも勧募を拡大し、銅像建立に賛同した全国の檀信徒や寺院から、たくさんの浄財が寄せられた。
 完成を迎えるまでには様々な困難があったが、全国の檀信徒からの励ましの手紙などに助けられた、と佐野代表は言う。大銅像には、支えてくれた檀信徒の熱い思いと、完成までお導き下さった日蓮聖人に感謝し、先師上人や先輩を敬う青年僧の気持ちが込められている。
 さらに佐野代表は「今の人々は、“しないことをおそれないで、することをおそれる”、行動を起こさなくては何も変わらない。この銅像建立が、動機になって行動を起こしてくれれば」と語っていた。

 …と、日蓮聖人の大銅像完成を迎えるまでには、関係者の皆様の大変なご苦労がお有りだったようですネ。
 さて、佐渡島滞在の3日間お世話になりますのは、〝新潟信栄バス〟sanであります。画像に写っていますのが、信栄バス(SHIN-EI BUS)の貸切バスであります。
 スマホで検索しましたら、「信栄バスは新潟県佐渡市に本拠地を置く貸切バス会社です。主にロケバス手配や観光旅行の企画・実施などを行っています。行き先は顧客の要望に応じて自由に設定できます。」と、こんな会社説明がありましたネ(^.-)☆
 ここから根本寺間は、距離にしまして13km程度ですから、20分程度で到着となりました。
 根本寺入り口前には、バス数台が駐車可能な大きな駐車場が(^-^)現在は、どぅか分かりませんけど、年間を通じ多くの参詣客がヤッて来られますのでしょうねぇ~

 ◆根本寺について

 --- ごあいさつ https://temple.nichiren.or.jp/4031001-konponji/ ---

 当山は山号を塚原山といい、昔、佐渡の国仲地区一円の死人の捨て場所として、古墳累々たる塚原なりと云い伝えられています。
 全国の日蓮宗十大聖跡の一に列せられています。
 今を遡る七百有余年前、日蓮聖人御年五十歳佐渡法難の砌、文永八年(1271)十一月一日より、翌九年四月半に至る迄、秘かに阿仏房夫妻の御供養を受け、辺り一帯は屍陀林にして鬼火明滅し、身の丈ほどに積る雪中の三昧堂に請居された聖跡であり、日蓮聖人は此処に総ゆる難難を克服し、正月十六日には越後、越中、出羽、奥州、信濃の諸国より集まった他宗の法師等数百人と問答し「利剣を以て瓜を切り、大風の草を座かすが如し」と御述懐遊ばされし程の大勝利を占められた。
 又二月半には六十一年の御生涯中の形見とも言われ、また、一大事とも言うべき『開目紗』上下二巻を御著作なされ、本佛輝尊の予言になる「末法の大導師本化上行菩薩とはこの日蓮なり」と、御自身の本地を開顕されたのも塚原三昧堂であります。

 我れ日本の柱とならん
  我れ日本の眼目とならん
    我れ日本の大船とならん

 この「開目紗」に認められた三大誓願であり、当山の別名を「開通顕本の霊場」とも言われています。
 当山の境内地は約二万七千坪で、本堂、祖師堂、三昧堂、千仏堂、妙見堂、七面堂、二王門、二天門、太鼓堂、鐘堂、宝蔵、経蔵、戒壇塚、庫裡、等凡そ二十九棟が鯵蒼とした杉や松に囲まれ、佐渡が島の中で聖人請居を偲ぶ聖蹟として多勢の参拝をいただいています。

 ◆根本寺(佐渡市)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 根本寺(こんぽんじ)は、新潟県佐渡市新穂大野にある日蓮宗の本山(霊蹟寺院)。山号は塚原山。

  -- 沿革 --
 文永 8年(1271年) - 寺伝によれば日蓮が三昧堂を開創。
 永禄年間に日成が三昧堂を正教寺とする。
 天正15年(1587年) - 京都妙覚寺日典が根本寺を開基し、京都妙覚寺の末寺となる。
 元和元年(1615年) - 日衍、独立本山となす。
 寛文11年(1671年) - 身延、池上、中山の三ヶ寺輪番所になる。
 現住は51世竹中智英貫首(佐渡市妙満寺より晋山)。潮師法縁。

 -- 主な伽藍 --
 本 堂:寛文12年(1672年)建立
 祖師堂:宝暦11年(1761年)建立
 庫 裡:延宝 7年(1679年)建立

 -- 旧末寺 --
 日蓮宗は1941年(昭和16年)に本末を解体したため、現在では、旧本山、旧末寺と呼びならわしている。

 ◆根本寺 由緒 山号 塚原山

 --- http://www.sado-konponji.com/map.htm ---

 当山は山号を塚原山とし、全国日蓮宗十大霊跡に列す。
 昔佐渡国仲村一円の死人の捨て場であったと伝う(大凡七百年前)
 日蓮聖人、御歳五十歳、最後の法難が佐渡であり、文永八年(127年)
 十一月一日より翌九年四月半ばに到る迄、住まわれたる聖跡にして、同九年二月には聖人生涯中の一大事と申すべき開目鈔を御著書なされた霊跡である。

 …と、こんな〝塚原山 根本寺〟でありますけど、早速、入口から入りまして拝観です(^.-)☆
 入口から進みますと、間もなく〝三昧堂〟が…そして〝三昧堂〟の左手奥方向に〝戒壇塚〟が存在です。

 〝三昧堂〟
 五間四間のお堂。
 天保年間徳川第十一代将軍家斎の侍女にして、紀州御守殿の萓堂阿美代の方がおり、将軍還暦を祝し併せて除厄の為、祖像一躯を彫刻して、当山に安置の祈願あり、天保四年尊像着佐され、時に妙感尼なるもの三昧堂を建立して、尊像を安置しています。

 〝戒壇塚〟
 当地は文永八年十一月一日より宗祖謫居の地であり、壇上の塔は味方氏の建設にして、その石材は摂津よりの花崗岩なりと伝えられます。
 当山は祖師堂移転の後、土を築きて戒壇塚又は経塚と称しています。
 文永九年佛誕日の夜半、最蓮房日淨上人此の地に於て、親しく本門大戒を受戒されたるを以てなりと伝えられます。

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(06)

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 初めて乗船しました〝ジェットフォイル〟の乗り心地、あいにくの3メートルの高波で大変でしたけど、とにかく、一応、無事に、佐渡島に上陸です。
 両津港佐渡汽船ターミナルから貸切バスに乗り込みますと、ガイドsanの明るい、なめらかなお話しで、船酔い状態も多少緩和されて行きましたような(^_^)v
 今から向かいます佐渡島最初の訪問地は、両津港佐渡汽船ターミナルから北西方向に存在し、距離にしまして2.6km程度の「佐渡日蓮聖人大銅像」であります。

 ◆佐渡日蓮聖人大銅像(さどにちれんしょうにんだいどうぞう)

 --- https://www.visitsado.com/spot/detail0061/ ---

 世界一大きい日蓮像
 「日蓮宗開宗750年慶讃事業」として、全国3,000人を超える僧侶・信徒の協力で建てられた銅像です。両津湾を背に、釈迦の生まれたインドの方角に向かって建つ姿は、高さ約13m、台座を含むと26m。ゆかりの地・佐渡にふさわしい威厳に満ちた姿でそびえ立ちます。

 ◆日蓮宗立教開宗七五〇年慶讃事業 -- 「佐渡ヶ島 日蓮聖人大銅像建立」にあたって --

 --- https://www.ne.jp/asahi/nichiren/nishiminobu/sado.html ---

 この事業は、全国の日蓮宗宗徒の思いを集結し、霊跡佐渡の地に日蓮聖人の大銅像を、立教開宗記念として建立することを決意致したことから始まりました。
 去る平成十年十月二十七日、二十八日、全国日蓮宗青年会委員長として「佐渡伝道」の名の下に佐渡島内にて会員と共に唱題行脚を展開しました。その後、なんと新潟県佐渡郡の本宗信徒より土地寄進の申し出があったのです。
 土地の広さは約二八〇平方メートルで、両津港に面する山の中腹(新潟県両津市加茂歌代字百成)に所在。現在の道路(大形バス通行可)から土地までは三〇メートル前後で両津港からは車で約十分の所にあります。
 寄進者としては「法華経の布教そして日蓮聖人のためにこの土地を活用して頂きたい」ということでした。
 日蓮聖人は文永八年(一二七一)九月十二日の龍口法難によって佐渡の地に配流となられました。そして二年余りに及ぶ佐渡での過酷な生活の中で、今日の日蓮宗の御本尊となっている大曼荼羅の始顕をはじめ開目抄や本尊抄といった多くの著述をなされました。即ち、佐渡の地は立教開宗以来培われた日蓮聖人の大いなる思いが溢れだした聖地であり、その魂魄が留まっているのです。是非ともこの地に日蓮聖人を象徴するものを建立したいという思いが日に日に強くなって参りまして、この佐渡銅像建立委員会を平成十二年七月十二日に立ち上げた次第です。
 その後、周辺地を寄付される方も現れ、隣地の地権者も賛同され、また全国の日蓮宗寺院のご住職や僧籍を持つ方々の暖かいご支援を賜り(信徒含め約二千名)ここに世界一大きな日蓮聖人銅像がお姿を顕現しました。
 さて、いよいよ落慶の日が近づいて参りました。多くのご参拝をお待ち申し上げ、さらなる建立の趣旨へのご理解をお願い致します。

 -- 参考:日蓮聖人ご霊跡の地・佐渡に聖人の大銅像が完成し、その開眼落慶法要が2003年5月13日、全国から僧侶檀信徒や大銅像周辺地域の住民など約2千人が参列し盛大に営まれました。--

 …と、WEB上で「佐渡日蓮聖人大銅像」を検索しますと、こんな記載がありました。

 ◆日蓮

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 日蓮(にちれん、承久4年(1222年)2月16日 - 弘安5年(1282年)10月13日)は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖。

 ・概要

 文応元年(1260年)7月16日に「立正安国論」を鎌倉幕府に提出して国主諫暁を行う。立正安国論において数多くの経典を引用し、法然らに帰依した日本から日本を守護する天照大神、八幡大菩薩等の諸天善神が去り、代わりに悪鬼が入り、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)により日本は滅亡すると予言した。天照大神、八幡大菩薩等は正法によってその威光勢力を増すとし、正法を建てるよう進言した。立正安国論の内容は、国内外の状況を鑑み、経典を根拠としたものと考えられる。日蓮の時代はモンゴル帝国が各方面に侵攻し、モンゴル・南宋戦争、モンゴルの高麗侵攻など日本の隣国を繰り返し侵略し、前年の正元元年(1259年)には高麗が降伏していた時期であり、日蓮も南宋出身の蘭渓道隆等の渡来僧と交流もあり、民間でも貿易船等の交流もあった。国内の内乱も多く発生していた。国内の宗教対立を扇動し武装を強化する過激な日蓮は、元寇に対処するために貴族、武士、僧、神社、庶民の一致団結を掲げる幕府に危険視された。
 『難を忍び慈悲のすぐれたる事は をそれをも(恐れをも) いだきぬべし』(開目抄)『日蓮が慈悲広大ならば(中略)万年の外未来までもながるべし』(報恩抄)等、その教えは理屈よりも情を重んじる傾向が強い。他宗を激しく批判・否定し「建長寺も極楽寺も寿福寺も鎌倉の寺は焼き祓い、建長寺の蘭渓道隆も、極楽寺の良観房忍性も、首を刎ねて由比ヶ浜にさらせ」等の過激な発言を行い、良観(当時、数々の慈善事業を行い「持戒第一の聖人」「生き仏」として尊崇され、幕府からの信頼も厚かった人物)により幕府に訴えられ、御成敗式目第12条「悪口(あっこう)の咎」の最高刑となる佐渡流罪となった。その直前に幕府は御成敗式目により自ら下した判決に反して、日蓮を龍の口で斬首しようとしたが、奇瑞が起きた為かなわなかった。文永八年九月、刑場に同行した四条金吾に宛てた書簡には「光物とあらわれて竜の口の頸をたすけ」とその際の様子を振り返っている。(但し、御成敗式目に反してまで鎌倉幕府が日蓮を斬首をしようとしたエピソード、及び光り物により斬首を免れたとするエビソードについては、創作とする説があり、注意が必要である。)
 文永8年(1271年)に佐渡へ流罪となった後、文永11年(1274年)に佐渡流罪を赦免され鎌倉に戻った折、幕府から寺社の寄進等帰依の申し出があった。
 だが、それは元寇に対処するため他宗と肩を並べて敵国調伏の祈祷をしてほしいというものだった為、日蓮は「他宗への帰依を止めることが自身の教えである」とそれを一蹴し、山梨県の身延山に移った。
 文永11年(1274年)・弘安4年(1281年)の元寇により他国侵逼難の予言を的中させるが、日本側が勝利し真言亡国の予言が外れ、弘安5年(1282年)10月13日に胃腸系の病により入滅。滅後の延文3年(1358年)、日蓮宗の僧である大覚が雨乞い祈祷によって雨を降らした功績により、後光厳天皇から日蓮大菩薩の位を授けられた。(日蓮正宗富士大石寺では、日蓮を釈迦よりも根源的な本仏と位置付けており、日蓮宗とは全く異なる立場をとっている)大正11年(1922年)には日蓮主義者の本多日生らの嘆願により、大正天皇から立正大師の諡号を追贈された。(以下 略)

 …と、こんな日蓮聖人であります。
 バスで近くまでヤッて来ますと、大きな銅像ですから、スグに眼に入りましたネ(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(05)

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 佐渡島へのジェットフォイル出航時間〝13:35〟までの約1時間、3階の〝新潟港ターミナル〟で時間を潰しますのも結構、苦痛ではあります。
 「瑞鳥(ずいちょう)」「佐渡彩景(さどさいけい)」の作品の他には特に見るべきモノも無さそうですから、仲々時間が過ぎ去りません。15分おきくらいに時間を確認しておりまして、13:20頃でしたか…皆さんに動きが(^-^)
 ジェットフォイル改札口方向へ向かわれますから、後方に付いてGONsanも。
 ふん、ふん、改札口手前にも待合室がありましたか…ただ、狭いですから、空席はありませんでしたネ(^-^)
 出航10分前頃から改札スタート。ジェットフォイル乗り場へ向かっていますと、眼の前にジェットフォイルが(^_^)v
 GONsanは、ジェットフォイルへの乗船は初めてですから、WEB上で検索してみますと、こんな記載がありました(^.-)☆

 ◆ボーイング929

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 ボーイング929ジェットフォイル(Boeing 929 Jetfoil)は、ボーイング社が設計製造した旅客用の水中翼船の名称である。
 当初は軍事用船舶として開発された。1974年に旅客用が開発され、1977年に日本でこの旅客用が初導入された。日本国内ではジェットフォイル((Jetfoil)という愛称を持つ。
 「ジェット」は本船がジェットエンジンとウォータージェット推進機によって駆動されることからきており、「フォイル」とは、「鋭い薄い翼」を表わす英語に由来する。
 ボーイング社の設計製造であるが、現在はライセンスを引き継いだ川崎重工業の登録商標となっており、現在は「川崎ジェットフォイル929-117型」として、製造・販売を行なっている。

 ・構造

 水中翼船としては全没翼型に属し、翼が全て水中にある。ガスタービンを動力としたウォータージェット推進である。
 停止時および低速では通常の船と同様、船体の浮力で浮いて航行し、「艇走」と呼ばれる。速度が上がると水中翼に揚力が発生し、しだいに船体が浮上し「離水」、最終的には水中翼だけで航行する「翼走」という状態になる。
 船体の安定は、自動姿勢制御装置(ACS、Automatic Control System)により制御された水中翼の動翼により行われる。進行方向を変える場合も動翼を使うため、航空機さながらに船体を内側に傾けながら旋回する。翼走状態では水面の波の影響を受けにくく、かつ高速でも半没翼式水中翼船に比べ船体動揺が少なく乗り心地がよい。
 水中翼は前後ともに跳ね上げ式になっており、停泊・低速航海時の吃水を抑えることができる。また、半没翼型と異なり、船体左右への翼の張り出しもないため、最低限の防舷材等を除いて、特別な港湾設備なしに港に着岸することができる。また水中翼にはショックアブソーバーが付いており、材木など多少の海上障害物、浮遊物への衝突に耐えることができる。
 翼走航海中の船体姿勢制御はACSと油圧アクチュエータに依存するので、推進用のガスタービンと併せて、航空機なみのメンテナンスが必要である。
 燃油は軽油を使用する。

 ・歴史

 航空機メーカーであるボーイングがその技術を水上に対して適用する研究を始めたのは1962年頃で、当初は軍事目的であった。1967年にパトロール用の小型艇トゥーカムカリが実用化された。これがベトナム戦争で有用であったため、その後NATOの依頼によりミサイル艇(後のペガサス級ミサイル艇)が開発された。
 1974年に、その軍事用船舶を基にして旅客用が開発された。ボーイング社は、航空機には700番台の番号を、船舶には900番台を使用していたため、型番は929-100型となり、ジェットフォイルの名前もこのとき付けられた。ボーイングとしては初期型929-100型を10隻、前方フォイル及び乗船口付近の改良を施した929-115/117型を13隻、軍用の929-320、929-119、929-120型5隻の合計28隻を製造した。1977年に、日本に初導入された佐渡汽船のジェットフォイル「おけさ」も、このボーイング製(100型)だった。
 その後、ライセンスを川崎重工業に提供し、1989年に日本製1号艇が就航した。現在は川崎重工業(神戸工場)に全面的に移管されており同社で製造されている。川崎重工業では1989年から1995年までに15隻が製造された。ボーイング、川崎重工業の両社で旅客型として製造されたジェットフォイル(軍用-320型からの改造1隻含む)は29隻にのぼる。
 1995年以降、新規造船はなかったが2020年に25年ぶりに新造船が竣工した。東海汽船の「セブンアイランド結」である。(川崎重工業製16番船)
 また同じくボーイングのライセンスを基にイタリアのフィンカンティエーリ社が建造して1983年に就役したイタリア海軍のスパルヴィエロ級ミサイル艇は海上自衛隊の目を引き、住友重機械工業がライセンスを受けて1993年-1995年に1号型ミサイル艇を3隻建造している。(2010年までに退役)
 日本でのジェットフォイル初就航は1977年5月で、カーフェリーのみだった佐渡汽船の新潟港 - 佐渡両津港間の定期航路に「おけさ」(100型)の名称で投入された。自社で整備・メンテナンスを行うため、佐渡汽船の整備担当者はボーイングで長期研修を受けてメンテナンスのノウハウを学んだ。現在も、佐渡汽船は国内運航会社で唯一ジェットフォイル専用ドックを保有し、定期メンテナンスから事故修繕まで全ての整備を自社で行っている。
 その後、川崎重工業がジェットフォイルのライセンスをボーイングから得た際には、佐渡汽船からもメンテナンス・ノウハウの提供を受けている。また、新潟-佐渡航路の運航開始当初、新潟港が信濃川の河口部にあるため、水と共にごみなどの異物・浮遊物を吸入して運航不能となるトラブルが頻発したことから、ボーイングは急遽社内に対策チームを設け、吸入口に特殊な構造のグリル(通称『ニイガタグリル』)を設置する対策を講じた。これが奏功して異物吸入のトラブルは減少し、その後製造されたジェットフォイルの設計にも反映された。

 …と、こんな歴史を持ちます〝ジェットフォイル〟でありました(^-^)/
 〝ジェットフォイル〟の最高時速は80kmのようですけど、この日の最高速度は、あいにく3mの荒波もありまして〝76km〟止まりでしたネ。
 「翼走状態では水面の波の影響を受けにくく、かつ高速でも半没翼式水中翼船に比べ船体動揺が少なく乗り心地が良い」との事ですけど、この日は波が高く、出航して30分ばかり経ました頃でしたか…船酔いでゲボが出そうになりまして、急いでトイレに駆け込みです。
 暫しトイレを覗き込み、ゲボ出し態勢を取りましたけど、これが、出そうで仲々出なくて実に苦しい(^-^;
 15分ばかりゲボ出し態勢にありましたけど、やっぱり出ませんで、とりあえずトイレからは退室です。トイレから出ますと、トイレ待ちの方が何名かおられ、非常にバツの悪いGONsanなのでありました。
 自席に戻りましてからも、ゲボは出そうで出ない状態が続きます。自席でビニール袋で顔を覆い、苦しい状態を継続でした。
 結局、佐渡島の両津港に到着しましても、船酔い状態で気分がすぐれませんGONsanなのでありました。後で知りましたけど、この日の乗客の半数近い方々が、GONsan同様に船酔い状態でありましたようです(^-^;
 乗船時間は、1時間程度でしたけど、この内の半分は苦しい時間を強いられてしまいましたネ(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(04)

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 〝港食堂〟での昼食を終え外に出ますと、依然として小雨がぱらついておりました。
 皆さん、暫しの間、〝ピアBandai〟内の〝万代島鮮魚センター〟を見廻しながら散策です。GONsanは、小雨の中を樹齢150年の〝オリーブの樹〟を求めて探索です。が、最初、何処にありますのか分かりませんで、〝ピーカンテラス〟の軒先で雨宿りしておりましたら、なんと眼の前に〝オリーブの樹〟が存在です。
 真ん前にGONsanは居たのですけど、何故か、全く気付きませんでしたネ(^-^;
 我が家の畑にもオリーブを1本植えておりますけど、未だ樹齢23年程度ですから、こんなに幹は太くありませんで実にスマート。〝樹〟と言うよりも〝木〟の状態です(^-^)
 ただ、オリーブの実は毎年沢山付けますけど、別に利用する訳でもなく廃棄処分。せっかく実を付けていますのに、勿体無いと言えば勿体無いのですけど…
 樹齢150年の〝オリーブの樹〟を画像に納めますと、GONsanも〝万代島鮮魚センター〟内へ。
 暫し見て廻りましたけど、別に求めますモノも無く、バス車内へと向かいます。バスには未だどなたも戻っておられませんで、GONsanのみでありました。
 ノンビリと眼を瞑りリラックスしておりますと、いつの間にか皆さんお揃いで、バスは〝佐渡汽船FT〟へと向かいます。到着し、時間を見ますと〝12:30〟でありました。佐渡島・両津港へのジェットフォイルの出航は〝13:35〟ですから、ここでも1時間ばかり過ごす事になりそうですネ(^-^)
 〝佐渡汽船FT〟のロビーを見廻しますと、まず眼に入りましたのが「瑞鳥(ずいちょう)」の作品です。

 ◆「瑞鳥(ずいちょう)」
 佐渡出身の人間国宝、佐々木象堂(1882-1961/ろう型鋳金家)の代表的作品。幸運を招くと言われる『鳳凰』をデザインした作品で、昭和33年の日本工芸展で最高賞を受賞しています。皇居新営殿の造営にあたり棟飾りのデザインに採用された作品です。
 皇居の他には、佐渡市にある佐渡歴史伝説館と、このターミナルで見ることができます。

 …と、こんな説明板がありましたけど、作品の台座部分には、こんな説明も刻まれてありました。

 ◆瑞鳥(ずいちょう)
  人間国宝 佐々木象堂(1882-1961)

 蝋型鋳銅『瑞鳥』(高さ39cm、横31.8cm)は、1958年、日本伝統工芸展において最高賞を受賞した作品である。
 会場では多くの人がこの作品の前に立ちつくしたといわれ、開会即日から買約申し込みが殺到したが、結局文部省買上げとなった。
 後年、皇居新宮殿造営にあたり正殿の棟飾りとしてこのデザインが採用され、その偉容は今も宮殿のシンボルとして空高くそびえている。
 ちなみに宮殿のものは高さ2.3メートル、重さ1トンである。
 鋳金60年、不朽の名作を次々と天下に示した佐渡の偉大な芸術家佐々木象堂氏の功績を末永くたたえるため『瑞鳥』を拡大しここに展示する。
 -- 1990年4月29日 佐渡汽船株式会社 代表取締役会長 古川長四郎 協力 佐渡歴史伝説館 --

 ターミナルの待合室には、こんな作品も…

 ◆佐渡汽船 新潟港万代島ターミナル「佐渡彩景(さどさいけい)」
  -- 金属、陶板レリーフ --

 金属・陶板レリーフ「佐渡彩景」原画・監修・制作:宮田亮平
 佐渡汽船 新潟港万代島ターミナル 3階待合室 2020年3月24日完成
 ※ この作品は、宝くじの社会貢献広報事業として助成を受け整備されたものです。(https://jptca.org/publicart543/)

 ・作家より 宮田亮平 -- 金工作家、東京藝術大学名誉教授、日展理事長 --
 美しくも厳しい自然や人・物の交流がもたらした豊穣な文化が生み出す佐渡の風景は、
 いつでも、あなたの旅への思いを包み込んでくれるでしょう。
 悠々と泳ぐイルカの群れに誘われて、佐渡の魅力を探しに、ぶらり足を伸ばしてみませんか。

 ・制作ノート
 佐渡出身の金工作家・宮田亮平先生が原画・監修を務めた金属、陶板レリーフです。
 本作品は、佐渡と本島を結ぶ唯一の航路である佐渡汽船新潟港万代島ターミナルに設置されています。
 金属製のイルカは宮田先生が自ら手がけており、背景には伝統芸能の鬼太鼓や観光客らに人気のたらい舟、海運業の中心となった北前船、歴史的価値の高い佐渡金山、日本を象徴する鳥と称されるトキや美しい自然風景など、佐渡の文化、歴史そして自然が陶板によって立体的に表現されています。
 「藝大受験のため佐渡汽船に乗り、佐渡島から新潟に向かうときに見たイルカの姿に魅かれたことが芸術家としての『原点』」と語る宮田先生が表現したイルカは佐渡へ訪れた人々を温かく出迎え、旅立つ人々に元気や勇気を与える。まるで応援団かのように佐渡の島、そして島とつながる人々を見守りながら泳ぎ続けています。

 ・作品によせて -- 新潟県知事 花角英世 --
 本県佐渡島の出身で、東京藝術大学前学長である金工作家・宮田亮平先生が陶板の原画・監修を務め、金属製のイルカを自ら制作した作品「佐渡彩景」が、公益財団法人日本交通文化協会のご支援により、新潟港万代島ターミナルに設置されることとなりました。宮田先生をはじめ関係者の皆様方に対し心から感謝申し上げます。
 越佐海峡を思わせる神秘的な青色の陶板には、佐渡にしかない伝統芸能の鬼太鼓をはじめ、例年6月上旬に見頃を迎えるトビシマカンゾウ、外国人観光客にも人気のたらい舟、日本海交易を担った北前船、世界遺産登録を目指している佐渡金銀山のシンボル・道遊の割戸、そして、大空を舞う朱鷺の姿といった佐渡を代表する歴史文化や豊かな自然が描かれており、そこに宮田先生の代表作「シュプリンゲン」シリーズでモチーフとなっているイルカが、これから始まる船旅を歓迎するように楽しげに泳いでいます。
 佐渡の魅力が詰まった本作品が新潟港万代島ターミナルに設置されることは大変喜ばしく、島民や佐渡を訪れる方々に末永く愛され、親しまれることを心から願っております。

 ・公益財団法人日本交通文化協会 理事長 滝久雄
 このたび佐渡島ご出身の東京藝術大学前学長である宮田亮平先生のパブリックアート作品「佐渡彩景」が佐渡汽船の新潟港万代島ターミナルに設置されることになりました。心からお喜び申し上げます。
 宮田先生は東京藝大受験のため佐渡島から新潟に向かう船の上からイルカが泳ぐ姿を目にし、その時の感動が金工作家としてやられていく上で、作品のモチーフとなったと聞いております。
 今回の作品は宮田先生が原画・監修を務められ、イルカも先生が手がけられました。佐渡島ゆかりの鬼太鼓、北前船、金山・銀山などの模様の陶板レリーフはクレアーレ熱海ゆがわら工房が制作しました。日本海を想像させる青味がかった陶板の上を躍動するイルカは、かつて先生が目撃した光景でもあるのでしょう。異素材の共鳴は、作品をより魅力的なものにしていると思います。
 「人々が行き交い、集まる場所を、アートでもって心豊かな空間にしたい」と、私は長年、駅や空港、学校などの公共空間にアートを設置してきました。543作品目となる今回の作品は、先生をはじめ一般財団法人日本宝くじ協会様のご支援、佐渡汽船株式会社様など関係者のご協力で実現しました。改めて皆様に感謝申し上げるとともに、この作品が末永く愛されることを祈っております。

 ◆宮田 亮平

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 宮田 亮平(みやた りょうへい、1945年6月8日 - )は、日本の金属工芸家。勲等は瑞宝重光章。第22代文化庁長官、第9代東京藝術大学学長。同名誉教授。パチンコ・パチスロ社会貢献機構代表理事。パソナグループ社外取締役。公益社団法人日展理事長。文化功労者、日本芸術院会員。

 ・来歴

 新潟県佐渡市出身。佐渡に伝わる金属工芸「蝋型鋳金」技術保持者の二代目宮田藍堂(みやた らんどう)の三男。初代藍堂は祖父、三代目藍堂は長兄で元・東京藝大工芸科教授の宮田宏平(1926年 - 2007年)、次兄はデザイナーで三重大学名誉教授の宮田修平。兄二人、姉四人を持ち、家族全員芸術家の一家に育つ。長女は金属工芸家の宮田琴(東京藝大工芸科卒)。金属工芸家の山下恒雄(やました つねお、東京藝大工芸科名誉教授)の指導を受けた。
 東京藝大工芸科教授として鍛金技法研究の指導に当たる一方、金属工芸家としても世界的に活動。東京藝大学長選挙時には、同郷の佐渡出身であった三浦小平次(人間国宝)を中心とした新潟県人や身内で学内を統制し、学長となる。日本のみならずドイツ・イスラエル・韓国・中国などで展覧会が催されている。
 代表作にイルカをモチーフにした「シュプリンゲン(Springen)」シリーズがある。故郷の佐渡島から上京する際、フェリー船上から見たイルカの群れをモチーフとしたシリーズで、世界各地で展覧会が開催されている。シュプリンゲンは三越日本橋本店新館エンブレムにも採用されている。
 かつてはカーデザイナーに憧れがあり、後に江戸開府400年記念コンセプトカーのトップマークのデザインもした。
 2016年から文化庁長官に就任。2019年に「あいちトリエンナーレ2019」への補助金不交付問題が発生し、前任の文化庁長官だった青柳正規は、不交付を求められれば「自分だったらもちろん辞めてます」と宮田の姿勢を批判した。
 2019年、太刀安綱(庄内藩酒井氏伝来)の重要美術品認定を取り消し。日本国外に移出。
 2010年3月から横綱審議委員会委員を務めた。2019年1月場所を途中休場した白鵬について「白鵬は本当にケガをしたのかね?そういう負け方に見えましたか?負けが込んだから休むというのは、どうなのか」と仮病を疑うような発言をした。2020年1月27日、5期10年の任期を満了し、横綱審議委員を退任した。
 2021年3月、文化庁長官退任。6月パチンコ・パチスロ社会貢献機構代表理事。8月パソナグループ取締役。
 2022年4月、美術館連絡協議会会長に就任。7月、国立工芸館顧問に就任。
 2023年3月、日本芸術院会員。
 2023年11月、文化功労者。
 2025年秋の叙勲で瑞宝重光章を受章。

 …と、〝佐渡彩景(さどさいけい)〟をWEB上に検索しますと、こんな記載がありました。
 GONsanは、この〝佐渡彩景〟の後方から枠の中に立ち、嫁さんに画像を撮って貰ったのですけど、いつまで経ってもくれません。削除されましたのかも(^-^;

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(03)

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 〝ピアBandai〟に到着しますと、〝ピアBandai〟内の〝万代島鮮魚センター〟を通り抜け、敷地内の片隅にあります〝港食堂〟に向かいます。
 戴きました〝ピアBandai〟のパンフレットに眼を通しますと、

 ◇日本海最大級の旬鮮市場 ピアBandai
 ピアBandaiは萬代橋、朱鷲(とき)メッセ、佐渡汽船など、新潟の名所に囲まれた観光拠点地。海鮮、お肉、青果、お酒、そしてスイーツまで、新潟が誇る美味しい食がぎゅっと詰まった旬鮮市場です。新潟の食や観光に関連するさまざまなイベントも開催中。新潟の旬な情報の発信とにぎわいを創出する『みなとのマルシェ〝ピアBandai〟』で、お食事やお買い物をお楽しみ下さい。

 ◇万代島鮮魚センター
 新潟市で最大級の鮮魚専門店!新潟港で水揚げされた、日本海の獲れたて海の幸を直売。魚市場から、毎日新鮮なお魚を入荷します。地魚はもとより、特性生寿司や刺身、茹でガニ、魚卵、塩鮭、海産乾物など多数品揃え。季節限定の浜焼き、岩カキはその場でお召し上がりいただけます。買ってよし、食べてまた良し。新潟ならではの荒海の恵みを、精一杯ご堪能下さい。

 ◇新潟鮮魚問屋 港食堂
 本場の新鮮な魚料理を味わえる、万代島鮮魚センター直営の食堂です。新潟県の地酒、伝統の美味しさをご提供いたします。
 電 話 025-248-8655
 平 日 11:00-15:00、17:00-21:00。
 土日祝 11:00-21:00(休憩なし)
 休 日 なし

 …と、こんな記載がありました(^.-)☆
 それと、港食堂店内には、こんな案内板も…

 ◇樹齢約150年 オリーブの樹(花言葉・平和)
 新潟開港150周年を記念し、平和、発展、成長を祈って植樹しました。-- 令和3年2月 --

 〝樹齢150年のオリーブの樹〟に関しましては、パンフレットにもこんな記載がありましたネ。

 ◇樹齢150年!ビアBandaiのオリーブの樹
 ピーカンテラスの隣にあるオリーブの樹は樹齢約150年。新潟開港150周年を記念し、ピアBandaiのシンボリックツリーとして、令和3年2月に植樹しました。フォトスポットや待ち合わせ場所として親しまれています。

 小雨がぱらついていますあいにくの天候ではありますけど、食事が終わりまして時間が許せば拝見してみましょうか(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(02)

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 伊丹空港~新潟空港間は、約1時間のフライトで、予定通り新潟空港着はA.M.10:50でありました。
 新潟空港からは貸切バスに乗車し、時間的に新潟港近くの昼食場所にと向かいますのでしょうねぇ~
 添乗員sanが、ピアBandai内の〝新潟鮮魚問屋「港し食堂」〟と言っておられましたけど、スマホで確認しますと、新潟港近くに「ピアBandai」がありましたネ(^.-)☆

 ・ピアBandai内の〝新潟鮮魚問屋「港食堂」〟http://www.sakana-bandai.com/

 昼食は、魚料理なのかも…
 GONsanは、麺類でも食べたい気持ちでしたけど…適度に空腹感も生じておりましたから、まぁ何でもイィのですけどネ(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(01)

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 10/20(月)~10/22(水)の3日間は、玉泉寺san主催の「佐渡島三ヶ寺〝根本寺・妙照寺・妙宣寺〟」参詣旅行に、嫁さんと参加のGONsanなのでありました(^.-)☆
 信心深さには多少欠けますGONsanですから、こぅいぅ機会でもありませんと、仲々お寺参りも出来ませんから(^-^)
 初日の10/20(月)は、A.M.06:00に福山駅に集合し、一路、新大阪へ。
 そして、伊丹空港にと向かい、伊丹からは格安航空で佐渡島空港へフライトかと思いましたら、向かう先は新潟空港でありました(^-^)
 改めて今回の参詣旅行の行程表を確認してみますと、うん、うん、新潟空港からスグ近くの新潟港に向かい、ジェットフォイルで佐渡島(両津港)に渡ります行程でありました。
 後で、どなたかが話しておられまして知りましたけど、コロナ禍で佐渡島への観光客が激減し、その影響で佐渡島空港利用客も当然激減。で、空港運営が難しくなり、現在、佐渡島空港は閉鎖されていますとか…
 〝ジェットフォイル〟に乗船した事はありませんから、まぁ、それでもイィのですけどネ(^-^)//"

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(31)

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 P.M.5:00前に無事〝不二ホテル〟へと到着です。
 〝ホテル〟と名前が付いていますけど、外観は〝純和風旅館〟です。中に入りますと〝洋風ホテル〟の感じがしない事も(^-^)
 WEB上に、〝不二ホテル〟に関してこんな記載もありました。

 >下部、相当凄いんだね!ということで、到着した今回の宿泊先、『不二ホテル』。
 >「ホテル」と名前がつくのは、大阪万博をきっかけに日本中に起こった旅行ブーム時代の名残り。
 >温泉地や観光地の宿泊施設は、軒並みホテルと名を変えたそう。
 >古い宿ほど「ホテル」と言う名前が残っていることを知っているから慌てないけど、知らないひとは、「え?これがホテル?」と驚くでしょうね…。

 …と。ふ~ん、そぅでありましたか(^-^)
 先代から引き継がれ、現在は、ご夫婦お二人で営業しておられますご様子。多分、この日の宿泊客はGONsan夫婦のみと思われます。
 が、夕食を終えロビーを通りますと、数名の若者の女性が入浴を終えくつろいで談笑中。んっ!?…他にも宿泊客がおられるのか…と一瞬思いましたけど、そぅでも無さそうでしたネ。
 とにかく、GONsanも入浴です。
 浴場に向かいますと、4~5名の男性が入浴中。その中のお一人の背中には、昔懐かしい彫り物が(^-^)
 一瞬、身構えましたGONsanですけど、お辞儀しますと愛想のイィ笑顔が返ってきましたので、とりあえずは一安心。
 七面山登山の疲れを癒やし部屋に戻り、改めて〝湯沢温泉 不二ホテル〟をWEB上で調べてみますと、こんな記載がありました(^.-)☆

 ◆湯沢温泉 不二ホテル

 --- https://1onsen.com/yuzawaonsen_fujihotel.html ---

 2019年2月、日本の温泉文化を探るツアーと銘打って目指したのは山梨県にある鄙びた温泉地『湯沢温泉』。今からこの温泉地にある二軒の湯宿を梯子湯で満喫することに。
 ここは下部温泉から少し離れた常葉川のほとりにある湯沢温泉郷。二軒の温泉宿があって最奥にあるのが『長生館』手前にあるが『不二ホテル』。
 平屋で和風の温泉旅館で落ち着いた面持ち。早速玄関入り口をオープン。
 館内は太い梁が丸見えの吹き抜けの天井に、ツヤのある板張りのフローリングが印象的だ。フロントで入湯料金を支払って奥にある浴室へと向かいます。
 簡素な雰囲気の浴室入り口には休憩用の長椅子が設置されチョッと一服できる空間があります。冬場の日差しが差し込むあたたかい空間です。
 共同浴場を彷彿とさせる脱衣場には鍵付き木製ロッカーが壁際にあって、内湯との仕切りのガラスドアからは浴室内が見渡せる。
 大小二つの湯船がある内湯空間は、大きなガラス窓から差し込む陽射しでとても明るくて気持ち良い。先ずは奥にある大きな湯船から入湯します。
 かなりぬるめの湯船の温度は実測34.4度。源泉温度が28度なので若干加温されたお湯で滅菌剤の匂いもわずかに感じます。アルカリ性といわれる湯だがそこまでのツルスベ感はないように思いました。
 ちなみに小さい方の湯船は、同じく循環加温された同源泉で実測温度は42.2度。冷温交互浴がコチラ温泉のおススメ入浴法だ。
 ガラスの扉を開けると綺麗な庭園内に露天岩風呂があります。混浴の岩風呂は温泉療養者の介助のためと条件付きですが…。
 実質的に、男女自由に入湯できる露天風呂は源泉かけ流し。
 だがしかし、岩風呂の湯の温度は実測14.6度の完全水風呂状態で、冬場の2月にこの水風呂に入泉する者はなし。鯉が泳いでいないか確認しましたが、ここは人が入る露天風呂で間違なさそうだ。
 湯船の底には白くて大きめの湯の花が堆積しているのが分かります。試しに入湯してみれば、一瞬にして鳥肌が総立ちの寒中水泳状態。
 すぐに内湯に戻ってあたたかい湯船にドボンです。
 源泉かけ流しの露天風呂は夏場に入泉をお勧めしたい。ふたたび内湯で冷温交互浴を繰り返し、簡単に身体を洗って内湯を後にします。
 湯上り後ソファーでゆったり寛げるスペースもあります。入湯後はお肌のスベスベ感がすこぶる良い感じがしました。
 夏場にのんびり宿泊したい温泉ホテルですね。

 2019年2月、日本の温泉文化を探るツアーと銘打って目指したのは山梨県にある鄙びた温泉地『湯澤温泉』。
 今からこの温泉地にある二軒の湯宿を梯子湯で満喫することに。
 二軒ある温泉宿の一軒『不二ホテル』前を通り過ぎ、細長い路地を突き当たって看板通り左に進むと静かに佇む温泉旅館『長生館』前に到着です。
 『長生館』の看板を除けばほぼ民家のような外見ですが、玄関扉を開いて声をかけてみます。奥から女将さんが対応していただいた。-- 以下 略 --

 …と、こんな記載でありました。
 この日の宿泊客はGONsan達のみでありましたが、昼間・夜間に拘わらず〝温泉入浴〟で利用客は多そうでありました(^.-)☆
 翌朝の朝食時には、女将さんが「今日は団体さんが来られますから、忙しいのですよ(^-^)」と言っておられましたネ。
 〝温泉療養〟を兼ね、老若男女、色んな方がヤッて来られるのかも分かりませんネ。納得(^_^)v
 〝不二ホテル〟に隣接というか奥側に「湯沢温泉 長生館」もありましたけど、何だろう?…と思いましたら、古くからの温泉旅館でありました(^.-)☆

 翌朝、〝不二ホテル〟のチェックアウトは、A.M.9:00少し前。
 不二ホテルを後にしますと、後は、福山にひたすら帰るのみ。
 途中、「道の駅なんぶ」に、またまた立ち寄りです。3度目の立ち寄りとなりましたが、賑わっています〝道の駅〟も、この時間帯にはノンビリと過ごせましたネ。
 それでは、山梨県とお別れです(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(30)

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 〝神通坊〟境内に辿り着きますと、もぅ歩く元気もありませんで、本堂の縁側前のベンチに腰をおろし一休み。
 本来ですと、本堂で参拝の上、行衣に御朱印も戴きたいところですけど、GONsanの足の状態では、本堂に上がります三段の階段を進むのが難しそう(^-^)
 例え、本堂に入れましても、とても正座なんぞ出来ません。暫く両足が曲がりそうにありませんから…
 奥の院で、ペットボトルにお茶を補充していたのですけど、飲もうとしますと丁度空。で、申し訳ないけど、一休みしている間に、嫁さんにお寺近辺の自販機の冷たいモノを依頼です。
 暫く経まして、嫁さんが買って来てくれました炭酸飲料のうまい事。生き返ったようでしたネ(^.-)☆
 ベンチに座り、今回の表参道で上り、裏参道での下山コースを振り返り、暫し嫁さんと談笑です。GONsanの両足の引きつりさえありませんでしたら、「七面山〝敬慎院・奥の院〟」参詣のいぃコースでありました。
 また、次回、七面山を訪れます機会がありましたら、迷わずこのルートでの参詣を選択ですネ(^_^)v
 こんな会話をしていますところへ、坊守がヤッて来られまして、「お茶でもお持ちしましょう」ですから、慌てて「本堂にも参拝せず、失礼しますので、結構ですよ。有難うございます…」と謝辞。
 これをキッカケに、「どちらから来られました?」に「広島県の福山市からです」と返しますと、「そぅなんですか…私も今年の初めに、知人がいますので福山に出掛けたのですよ…」ですから、う~ん、これまた奇遇ですネ(^-^)
 スグに、〝安住坊〟で出会いました千葉の若者との会話が蘇って来ましたネ(^.-)☆
 坊守のお話しの中に〝芦田川近辺〟に知人がおられるように感じられましたけど、草戸町?…明王台?…辺りなのかも。場所は特定出来ませんでしたけど、大変親密なご関係の知人のようでありました(^.-)☆
 坊守もご多忙のご様子で、暫しの会話後、庫裡に戻られましたネ。
 時間を確認しますと、13:20過ぎ。
 〝神通坊〟とお別れし車道に出ますと、ここに〝七面山登山道案内図〟。そして、その後方に車を駐めています〝ひのや旅館〟san。
 失礼します前にご挨拶を…と、立ち寄りますと、玄関には入れますけど、どなたもご不在。「お帰りの際には、留守にしていますかも分かりません」と言っておられました通り、お留守でしたネ(^-^)/
 この日の宿は、〝下部温泉〟近くの〝不二ホテル〟ですけど、チェックインまで未だ充分時間がありますので、とりあえずランチタイムとしなくては…
 で、身延町へと車を走らせますが、食事出来るような店が見当たりません。
 嫁さんが、「ロウソク・線香を求めたいし、久遠寺に行こう」ですから、食事も久遠寺の門前町で取ります事に。
 久遠寺三門前の観光協会で〝門前町散策マップ〟を貰いノンビリと散策ですけど、う~ん、食堂は色々有るのですけど、どちらも閉店中。ロウソク・線香を求めました店で営業中の食堂を尋ねますと、「この時間には、何処も開いてないですよ…」ですから、〝んっ!?〟のGONsan。
 時間を見ますと、14:30でありました。ふ~ん、なるほど、こんな時間帯には食事する観光客はいない…と言う事なんですねぇ~
 嫁さんもGONsanもお腹は空いていませんから、まぁ、別に構いませんけど(^-^)
 一通り門前町を散策しましたので、久遠寺からは退散で、身延町を訪れる際に立ち寄りました〝道の駅なんぶ〟に向かってみます事に(^-^)
 最初から〝道の駅なんぶ〟に向かえばレストランもありましたが、今更食事しますと夕食が入らなくなりますから、皆さんが順番待ちしていますソフトクリームを食べてみます事に。
 GONsanは〝抹茶ソフト〟を求めましたけど、何故か、ヤケに美味しかったですネ(^_^)v
 孫達への土産物を求めながら道の駅でノンビリ過ごしておりましたけど、そぅそぅ、車に給油しなくては。時間を確認しますと、16:05。身延町に二ヶ所ばかりガソリンスタンドがありましたので、向かいます。
 給油を終える頃でしたか…スマホに電話。誰だろう?…と出ますと、今夜の宿〝不二ホテル〟sanでありました。仲々来ないので心配されましたのかも…
 「17:00までには到着出来ると思います」とお伝えし、給油を終えますとナビ任せで走行です。が、不二ホテル近くで「迂回路を走行しますか」と尋ねてきますナビ。意味不明で無視しておりましたら、走行ルートを外れましたので逆戻りです。
 それでも、当初のルートを走りたがらないナビですから、暫し思案のGONsanです。
 ふん、ふん、JR身延線の狭いガード下を走行しますのを嫌がるナビでありました。ガード下を潜りますと、後はスムーズに、無事〝不二ホテル〟に到着となりました(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(29)

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 〝安住坊〟も無人ですけど、ベンチが有りますので〝大トチノキ〟に眼を向けながら休息タイムとなりました。
 〝大トチノキ〟の廻りを、依然として若者らしき方が、色んなアングルでカメラを向けておられます(^.-)☆
 ベンチにリュックを置いておられますから、その内に下りて来られるだろう…と眺めておりますと、満足行くまで撮られましたのでしょうネ、ベンチに戻って来られました。
 で、「どちらから来られました?」とお尋ねしますと「千葉からです、あなた達は?」。
 「福山からです」と返しますと、「えっ、福山からですか。奇遇ですネ、私はGWに福山に行ったばかりですよ…」ですから、つぃ長話に(^.-)☆
 なんでも、この方は、全国のこぅした〝天然記念物〟を訪れ画像に納めておられますとの事。それで、GWには福山市金江町の〝福山市天然記念物「金江の大ムロノキ」〟を訪れたとの事でありました。
 哀しいかなGONsanは〝金江の大ムロノキ〟なんぞ知りませんから、場所を尋ねましてWEB上で捜してみますと、うん、うん、〝金江の大ムロノキ〟が出て来ましたネ(^_^)v
 樹齢がどの位なのか分かりませんけど、わざわざ千葉から福山まで出掛けられるとは…感心してしまいます。
 「全国の〝天然記念物〟を、どんな方法で調べているのですか?」には、「WEB上で…」ですから、まぁ納得のGONsanなのでありました(^-^)
 こんな会話を交わし、GONsan達は先に進みます事に。未だ中間点ですから、相変わらず足取りの重いGONsanなのであります。
 暫く黙々と下っておりますと、先ほどの若者が下りて来られまして先行です。今回は〝大トチノキ〟のみと言っておられました通り、充分〝大トチノキ〟を撮られましてお帰りのようでありました。
 それから90分ばかり下って来ました所で、下から上がって来られます3人目の男性に遭遇です。
 「もぅ少しで1丁目ですから、頑張って!!もぅスグですから!」と励ましのお言葉を。
 この方は、今から奥の院に向かわれますのでしょうけど、軽快な足取りから、七面山には何度も上っておられますようにお見受け致しました。羨ましい(^-^)
 この方を見送り下っておりますと、ヤッと「一丁目」に到達です。〝1丁〟の距離は、以前、何かのテレビ番組で〝110m〟と言っておりましたような…
 ですが、ここから〝裏参道入口〟は見えませんから、「あと、どのくらい歩くのだろう…」と進んでおりますと、ヤッと前方に赤い鳥居が\(^o^)/
 勿論、嫁さんの方は先にゴールですけど、どぅにかこぅにか〝神通坊〟に辿り着きました時には、安堵と同時に嬉しさが(^-^)//"

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(28)

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 〝明浄坊〟は無人で何にもありませんから、暫し休憩…と言う訳にもいかずスルーし、先に進みます。
 GONsanの両足の状態は依然として芳しくありませんから、依然として淡々と黙々と歩みます。ただ救われますのは、参道の周辺はズッと新緑に覆われ、この景観には大変癒やされます(^_^)v
 この景観が、足取り重いGONsanを元気づけてくれますから嬉しいですネ。
 こんな景観の中、下って行きますと前方にベンチが(^.-)☆
 またまた、ベンチを眼にします度に一休みです。そして、また前進が続きます。
 暫く下っておりましたら、大木と、その下に建物が…大木の脇には説明板が…説明板には『七面山の大トチノキ』と記載ですから、ヤッと、〝安住坊(19丁目)〟に到着です(^_^)v
 でも、〝19丁目〟ですから、奥の院~裏参道入口間のほぼ中間点に到達した程度。未だ未だ先が長いです(^-^;
 〝大トチノキ〟脇には人影が…色んな角度から〝大トチノキ〟を撮りまくっておられますようであります。奥の院から下山して来まして、ヤッと二人目の方に遭遇ですから嬉しいのなんの(^.-)☆

 ◆安住坊(19丁目)に到着
 --- https://www.yamarepo.com/200/shichimenzan.html ---
 表参道同様に道は単調で、作業道のような登山道を延々と歩く。しかも歩いている登山者が皆無で、表参道に比べて利用者は極端に少ない。
 【15:05】安住坊に到着。
 安住坊は19丁目なので、ちょうど中間地点。明浄坊同様に建物の扉は閉じられていた。安住坊には樹齢700年、山梨県指定天然記念物の「大トチノキ」がある。写真では伝わりにくいが、結構迫力がある。

 …と、WEB上には、〝安住坊〟までの行程を、このように綴っておられます方も(^-^)
 嫁さんも、ここで一休みの態勢ですから嬉しい。タップリと休息しなくては(^-^)/
 休息前に〝説明板〟に眼を向けますと、こんな記載が…

 ◆山梨県指定天然記念物〝七面山の大トチノキ〟

 昭和34年2月9日指定
 南巨摩郡早川町高住字栃原山835 安住坊境内
 久遠寺 所有

 本県におけるトチノキの巨樹として代表的なものである。
 伝説によれば、この木は、日蓮上人の高弟である日朗上人(1243年~1320年)が手植えしたものだという。
 樹幹は空洞になっているが、樹勢は旺盛である。その規模は、次のとおりである。
 根廻り幹囲       8メートル
 地上1メートルの幹囲  7メートル
 枝張り東西      20メートル
 枝張り南北      24メートル
 樹高         25メートル

 -- 昭和49年12月1日 山梨県教育委員会・早川町教育委員会 --

 WEB上で検索しますと、こんな記載もありました(^-^)//"

 ◆七面山の大トチノキ(しちめんざんのおおとちのき)
 --- https://rekishinomichi-yamanashi.jp/ja/spot/5-41.html ---
 ・日朗上人お手植えと伝わる老木
 七面山敬慎院の北参道19丁目、安住坊の庭にあるトチノキの巨木は、六老僧(日蓮聖人がの臨終の際に指名した6人の弟子)の一人である日朗上人のお手植えと伝えられており、1959(昭和34)年に山梨県指定天然記念物に登録されています。根元の周囲は8m10㎝、幹の周囲は6m80㎝、樹高は25mほどで、四方に枝を張り出す堂々とした姿は神々しさを感じさせます。

 ◆七面山の大トチノキ
 -- 県指定天然記念物(指定日S34.2.9) --
 -- https://www.town.hayakawa.yamanashi.jp/tour/spot/cultural/tochinoki.html --
 トチノキ科のトチノキ、安住坊の庭の西方、一段と高い所に立っている。ここは七面山裏参道19丁目、標高1,000mの所である。根元の周囲8.10m、目通り幹囲6.80m、太い幹は地上約9mで折れ、地上3mから上方で枝を四方に出し、枝張り東方13m、西方9.5m、南方8m、北方10m、樹高約25m、外見ではわからないが、幹の中は空洞になっている。樹勢盛んで、5月下旬沢山の花をつける。
 七面山の開創は日蓮上人の高弟の日朗上人と南部実長公といわれているが、このトチノキはその日朗上人お手植と伝えられている。もしこれが真であるとすれば樹齢は700年近いことになる。トチノキの巨樹として県下の代表的なものである。

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(27)

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 〝御神木(大イチイ)〟への参詣を終えますと、また〝敬慎院・奥の院〟の参道にと上がらなければなりません。これが結構、憂鬱で(^-^;
 随分下って来ましたから、またその距離を上がって行かなければならないとは、考えただけでも苦痛に。
 で、〝影響石〟脇に上がりますルートを見廻しますけど、よく分かりません。嫁さんは、サッサと来た道を戻っていますし、仕方なく〝影響石〟へのルートを探しますのは断念。やむなく往路をそのまま引き返しとなりました。
 〝大イチイ〟に向かいます時には、「何処まで下れば辿り着くのだろう…」でしたけど、参道に戻ります時には「あと、どの位上がれば参道に出るのだろう…」と、行きも帰りも「また足が引きつるかも…」と危惧し通し。
 「大イチイの案内標識」まで戻って来ました時には、ヤレヤレでありました(^_^)v
 参拝客の皆さんのお姿も消え静寂な〝影響石〟前の展望広場まで戻って来ますと、3匹のシカがノンビリと過ごしておりました。
 この3匹のシカを横目に、奥の院本堂横を通り抜け、いよいよ〝北参道(裏参道)〟で下山開始です。
 下山を始めまして間もなく、足が止まりましたのが〝自然記念物 七面山のゴヨウツツジ〟の案内板(^.-)☆
 この案内板には、 こんな記載が…

 ◆自然記念物 七面山のゴヨウツツジ

 ゴヨウツツジは、白いツツジ型の花を着け、春先には車輪状の五枚の葉を着けるのでこの名が付けられた。
 その生育地分布は、東北地方から近畿地方にかけての太平洋側と四国におよび、内陸部にはまれに生育しています。
 県内での分布は少なく七面山では、ブナ、ヒメシャラ、スズタケなどと混生し、本県の代表的生育地として貴重な植生であるため、自然記念物に指定しています。
 この貴重な自然をみんなで守り育て、後世に伝えていきましょう。

 -- 山梨県 --

 …と、こんな説明がありました。
 ふ~ん、で、こんな赤い実も付けますようですネ。この赤い実に、朝モヤに包まれ水滴が(^.-)☆
 仲々イィ景観でありました(^_^)v
 それにしましても、この裏参道を利用されます方は誰一人おられませんようであります。下山していますのは、GONsan達のみ。上がって来られる方もおられません。
 参道は、整備され、なだらかな歩き易い道でしたけど、進んで行くにつれまして歩きにくさも出て来ました。急な下りもあれば石ころが散在しゴツゴツした箇所も(^-^)
 それでも、ただひたすら黙々と淡々と進むのみであります。が、そぅして進んでいますと、ヤッと男性がお一人上がって来られまして擦れ違いです。「こんにちは(^-^)/」と挨拶を交わしましたけど、お顔は少々お疲れ気味。表参道・裏参道共に〝敬慎院・奥の院〟への行程は決して楽では無さそうですネ。
 そぅしていますと、途端に、また両足に引きつりが発生のGONsan。たまらず先を見据えますと、もぅ少し下った場所にベンチが…
 痛さをガマンしながらベンチまでどぅにか到達。暫し休息となりました。
 先行する嫁さんも、GONsanの姿が現れませんから心配で戻って来ましたネ。
 暫しの休息後、下山再開。ですが、この後にもベンチを見つける度に腰を下ろすGONsanなのでありました。この調子では下りもまた四苦八苦しながらの下山となりそぅですねぇ~
 進んでは休み、また進み…を繰り返していましたら、前方に建物が(^-^)〝明浄坊 三十丁目〟まで下りて来ましたようであります。
 〝七面山 敬慎院 奥之院〟が「四十丁目」ですから、まだまだ先が長いです。近年は〝裏参道〟の利用者が少ないせいか、ここは無人でありました。
 WEB上で「明浄坊 三十丁目」を検索してみますと、こんな記載がありました(^-^)//"

 ◆七面山案内紀行〝其の二十四「明浄坊」〟

 --- 2011-08-22 22:01:26 https://ameblo.jp/nitishou/entry-10994599542.html ---

 影嚮石より、三十丁目の明浄坊まで凡そ十二丁。
 道はけわしくなる。所によっては表参道よりけわしい。というのは七面山の山形が、東西より南北に長く、北面の尾根幅が削ぎ立ったように狭くなっているため、表参道のように道を曲折・蛇行する余地がないからである。
 また、表参道に比べれば、杉並木や巨木の林立は見られず、一丁ごとに立てられている道標にしても風雅な石燈籠ではなく、宗教的な神秘性や森厳な雰囲気には乏しい。然し、それだけに却って辺りは明るく、また雄大な展望を楽しむことが出来る。
 右前方には、遠く富士山麓の本栖湖や河口湖が、鏡のように光って見え、左前方には、北より鳳凰の峰・北岳・間岳・農鳥岳・ザル岳等々の雄峯が、赤石岳の連峯に連なっており、また近くには武田信玄が掘ったという金山の崖が望まれる。
 時折、カッコウやコマドリの声がする。季節によってはホトトギスやウグイスの声も聞こえるという。
 やがて明浄坊につく、坊は近年出来たばかりの休憩所。ここより真東に当たって身延の峯と富士の霊峰が仰がれる。この景観を背景に、数名の信徒が一服しながら、七面信仰について体験談やら御利益談を語り合っていた。
 その中に、皆の話しを熱心に聞いている一人の御爺さんがいた。年の頃なら、六十前後、髪はもう真っ白になっていた。服装は皆と同じく行衣・手甲・御絆に力杖といった七面山では見慣れた姿であったが、ただ一つ変わっていたのは、白布に包んだ四角の木箱を頸からさげてしっかりと胸に抱いていたことである。
 「失礼ですが、御遺骨ですか…」と尋ねると、お爺さんは大きくうなづいて、
 「そうです。家内の遺骨です。家内は熱心な法華経信者でした。然し日頃病弱であったため、“一度お参りしたい”と口癖のように言っておりながら、とうとう死ぬまでお参りは出来ませんでした。その頃、私に信仰心があったならば、代参でもしたものをと、今では悔やまれてなりません。
 せめて遺骨と一緒にお参りをしようと思っていた折、幸い此処におられる人達が七面山へ登られるというので、早速娘に行衣を縫ってもらって、皆さんにつれられてお参りに来たのです。昨日は身延山で追善の法要を営んでもらいました。今日は夫婦して初めて七面山へお参りさせて頂いております。
 これも家内の霊の導きでしょう。これからは亡くなった家内と共に、一生懸命、法華経信仰を励んで行きたいと思っています」と答えられた。傍にいた一行の先達の人も、
 「宿に泊まった時は、必ず二人前のお膳を取って、一つは御遺骨に供えられていた」と付け加えられた。居合わせた人々はすべて深い感動に打たれた。そして一行と共に、御遺骨を胸に抱いて一歩一歩力強く登っていくお爺さんの後ろ姿は、余りにも印象的であった。

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(26)

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 ご親切なご夫婦とお別れし、GONsan達は〝県指定天然記念物 七面山の大イチイ これより約400m→〟の標識があります所から〝御神木(大イチイ)〟に向かいます。
 市街地での〝400m〟と言いますと、普通に歩きましても5分も要しませんけど、山の中での〝400m〟の長い事(^-^;
 下っても下っても辿り着きません。下れば下るほど、また戻って来ませんとイケませんから、次第に憂鬱感が…モヤが掛かり周囲の景観は幻想的な雰囲気も醸し、写真を撮りますには最高なんでしょうけど、そんな元気も何処へやら。黙々と下るのみのGONsanです。
 嫁さんはサッサと先行で、モヤの先に消えてしまいましたネ。「未だかなぁ~」とウンザリしておりますと、「んっ!?…着いたかも(^_^)v」。嫁さんの姿と、なんとなく〝大イチイ〟らしき樹木が前方に(^_^)v
 ヤッと到着です。御神木(大イチイ)の脇には、こんな説明板が(^-^)/

 ◆県指定天然記念物「七面山の大イチイ」

 このイチイの規模は、根囲り12.0m、周囲6.0m(地上1.5m)高さ23.0mに達する。
 中央の幹は調査時(昭和34年)には枯れていたが、幹の下部は空洞にもかかわらず樹勢は衰えてはいない。
 県下におけるイチイの巨木の一つとして、また学問上価値あるものとして、県指定の天然記念物とされたものである。
 イチイという日本名は、一位からきたものと言われている。昔からこの枝を使って神職の用いる「シャク」を作ったもので、尊く位の高い木である。別の名も多く「アララギ」ともいい、北海道ではアイヌ語で「ナンコ」とも呼んでいる。本県の富士山麓にもこのイチイは多いが、土地の人は「ヘダ」と呼び、家のまわりに青垣としていることが多い。ここ七面山ではこの巨木を御神木として信仰におとずれる人が多い。イチイの分布は北海道を含む日本全土で、日本特産の植物であり、県指定の天然記念物として昭和34年2月9日指定され、保護されている。

 -- 昭和61年11月1日 山梨県教育委員会・早川町教育委員会 --

 …との事であります。
 WEB上でも「七面山の大イチイ」を検索してみますと、

 ◆七面山の大イチイ

 --- 県指定天然記念物(指定日S34.2.9) ---
 --- https://www.town.hayakawa.yamanashi.jp/tour/spot/cultural/ichii.html ---

 イチイ科のイチイで、別名をアララギといい、方言名は北海道ではオンコ、長野・山梨ではミネゾウ、山梨県の富士山麓ではへダという。
 七面山裏参道40丁目の奥之院、影響石(ようごせき)から東へ約400m、春木川の谷に面した斜面の少し平らになった所に立っている。ここの標高は約1,500mである。根元の周囲8.50m、目通り幹囲5.90m、地上約5mで、南北2支幹に分かれ、枝は地上約3mから上で分かれ、特に上部でよく分かれている。
 幹の内部はすっかり空洞となり、幹の東側と西側は枯れ、下幹部の東と西は大きく欠けて穴があいている。支幹の下部も痛んでいる。
 枝張り東方7m、西方7m、南方8.5m、北方6.7m、樹高約21.5mである。イチイの果実は鳥に食われ、その種子は糞とともに散布されるといわれている。
 その昔、椎が伐り倒そうとして、この木に斧を入れたところ、血がほとばしったので、それ以来これを七面山の御神木として尊崇していると伝えられている。
 この木は本県におけるイチイの巨樹の代表的なものである。幹にはオシャグジデンダ、ミヤマノキシノブがわずかに着生し、樹下にはマイヅルソウが生えている。木の周囲はブナ、カエデ、サワグルミなどの落葉広葉樹に、トウヒ、マツハダなどの針葉樹を交じえた林で、林下にはフタバアオイ、シラネワラビ、オシダ、ミヤマエンレイソウ、ヤマタイミンガサなどが生えている。
 現在のイチイは指定当時よりも、幹はいっそう朽ちた部分が目立ってきているが、今なお樹勢を保っている。イチイは木の中では樹齢の高い木であるので、本樹の樹齢はおそらく1,000年をはるかに超えるものと思われる。

 ふ~ん、〝本樹の樹齢はおそらく1,000年をはるかに超えるものと思われる。〟…とは、凄い老木ではありますねぇ~
 〝大イチイ〟の裏側に廻ってみますと、確かに中はスッカリ空洞です。この状態で倒れませんで、今なお樹勢を保っているのですから〝御神木〟として信仰されますのも分かるような気が致します。
 それに、この〝大イチイ〟が存在します場所のみが「平坦地」と言うのも面白いですネ(^-^)//"
 とにかく、この〝大イチイ〟にあやかって、GONsanも100歳まで元気に生きて行けますようシッカリ手を合わせておきました(^-^)//"

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(24)

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 ふん、ふん、本堂の左の建物が社務所ですネ。嫁さんは、まず社務所で挨拶し、社務所から中に入り本堂に向かい参拝しましたとか…
 つぅ事は、GONsanが勝手に本堂に上がり参拝を終え出て来ました時、3名のお上人がGONsanに合掌しておられましたのは、ひょっとしたら、〝勝手に本堂に上がらず社務所から参拝せよ〟と言う事でしたのかも…でも、本堂の入口は開いていましたのですけどネ(^-^)
 まぁそれは良しとして、引き続き境内を拝観です。
 ふ~ん、GONsanは鐘楼から左折し〝御来光遥拝所〟に向かいましたけど、鐘楼の右側を進みますと「記念植樹御神木一位 身延七面山百七世別当 堀日勇代」と刻まれました石碑が存在します境内に出て来ましたようですネ(^-^)
 行衣姿の男性が、この石碑の後方の建物の奥に向かっておられますから、この建物の後ろに宿坊がありますのかも…
 境内では、ご親切なご夫婦のお姿が見えませんでしたから、鐘楼の右側を進まれ宿坊に向かわれましたのでしょうネ(^-^)
 この日の宿泊は〝敬慎院〟と言っておられましたから…
 そぅそぅ、随分前に町内の知人が言っておりましたけど、敬慎院の宿坊には〝敬慎院名物の「巻布団」〟なるものが有りますようです。朝起きたら布団が無かったとか(^-^)
 WEB上に〝敬慎院名物の「巻布団」〟で検索しましたら、こんな記載が出て来ました(^-^)

 ◆敬慎院(宿坊情報)
 ・登山靴は玄関口にご収納
 ・宿坊なのでペットボトル、菓子類の販売はありません。
 ・寝室に関しては敬慎院名物の「巻布団」対応がほとんど。→1枚のロール状の布団に4-5名が横並びで就寝する形です。
 ・アメニティ関連も宿坊なので貸出などは一切なし!
 ・浴室はありますが石鹸類は使用不可。ドライヤー無し。→男性は3名程度。女性は10名程度が利用出来るスペースです。
 ・洗面所は飲水可能。お湯はポットで部屋毎に支給あり。
 ・携帯電話の電波はdocomo以外圏外の可能性が高いです!→但し、宿坊内には無料Wi-fiがありましたので有難い。
 ・コンセントは利用可能。ケーブル等は各自持参となります。

 …と、こんな内容で〝敬慎院名物の「巻布団」〟の記載もシッカリありましたネ(^.-)☆
 GONsan達は〝奥の院〟に宿泊ですけど、ここは家族毎に1部屋ですから〝巻布団〟の心配は無さそうですけど、それ意外は似たようなものなんでしょうねぇ~
 ところで、時刻を確認しますと16:30ですから、チェックイン17:00までには到着しなければ…それでは、〝敬慎院〟境内とお別れで〝奥の院〟に向かいます。
 敬慎院~奥の院間の参道は、ほぼ平らですから、もぅ足の引きつりは無さそうですから助かります。ですが、この参道、何故か〝轍(わだち)〟がありますネ。どぅみても車が走行していますようであります。
 でも、どんな方法で敬慎院まで車を運びましたのでしょう?ヘリコプターでの搬送も考えられない事もないですネ。
 そぅそぅ、七面山表参道上り口付近には、「七面山敬慎院 荷揚げ用ロープウェイ」がありましたネ。ひょっとしましたら、この荷揚げ用ロープウェイで敬慎院まで上げましたのかも…
 〝二ノ池〟を横目にノンビリとした歩行でしたけど、敬慎院境内から20分足らずで〝奥の院〟にと到着です。正面に見えますのが〝影嚮石(ようごうせき)〟ですネ。その手前にはナンバープレートのありません計四車が二台駐車です。
 敬慎院~奥の院間をノンビリ歩きまして所要時間20分弱ですから、荷揚げ用ロープウェイで敬慎院に届きました荷物を、その都度、敬慎院~奥の院間を往復しますには、車が無いとなると大変不便です。この間の参道の〝轍(わだち)〟には充分納得のGONsanなのでありました(^-^)//"

 ◆七面大明神顕現の場所 七面山奥之院

 --- https://www.yamanashi-kankou.jp/special/2020_shichimensan2.html ---

 敬慎院からさらに裏参道方面に15分程歩くと、「七面山奥之院」があります。
 日蓮聖人ご入滅後、長年日蓮聖人の願いであった七面大明神をお祀りするため、弟子たちが七面山に登り、山頂付近の大きな岩の前に到着した時に七面大明神がお姿を現しになられたと言います。この岩は「影嚮石(ようごうせき)」と名付けられ、ここに七面大明神が祀られたのが「七面山奥之院」の始まりだと言われています。

 ・七面山奥之院「影嚮石(ようごうせき)」
 この影嚮石の周りを7周すると願いが叶うと言われています。七面山奥之院でも参籠(宿泊)をすることが出来ます。詳細は電話で問合せください。
 今年は新型コロナウィルスの影響で七面山への登詣者数も減っており、いつもより静かな夏を迎えています。ここは徒歩でしか辿り着けない聖地です。(実は私も3度目の正直でやっと登ることが出来ました。過去2回は台風で断念…)ここに来られる方々も何らかの強い思いがある方ばかりではないかと思います。
 新型コロナウィルスがもたらした大きな時代の転換期の中で、この七面山での時間は、「自分と向き合う」「自然と向き合う」「神仏と向き合う」ということを密度濃く出来る場だと思います。『激しく回転する駒ほど、その中心部分はより安定している』と言います。今まさに世界は激動の時代の渦の中にいますが、その流れに振り回されるより、より安定したものを自分の内側に見つけ出すため、簡単には辿り着けない聖地である七面山を訪れてみてはいかがでしょうか。

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日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(23)

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 せっかく訪れましたのですから、〝御来光遥拝所〟から〝七面山山頂〟を目指しますと、スグに〝世界平和誓塔〟が存在し、先に進み勾配がなだらかな雰囲気の良い林の中を歩きますと、大崩落の〝ナナイタガレ〟の縁を沿うように登った先に〝七面山山頂〟が存在しますようであります。
 七面山から、また先に進みますと〝希望峰〟に到着しますとか…
 凡て自分の眼で見てみたい…こんな衝動に駆られますが、GONsanの足の引きつり状態ではとても無理(^-^;
 富士山をボンヤリと見つめておりましたが、ハッと我に返り、背後の随身門(四十九丁目)に向かいます。随身門右側の塔の廻りでは、霊友会の皆様が参拝しておられました。
 GONsanは、この塔が何であるのかも分かりませんので、Googleで画像検索しますと、こんな記載が…

 七面山(しちめんさん)の敬慎院(けいしんいん)の随身門の右側にある塔は、〝七面大明神を祀る「七面大明神社」または「七面大明神塔」〟です。
 この塔は、日蓮宗の守護神である七面大明神(七面天女)を祀るもので、参拝者が本堂へ向かう際にまず目にする重要な建築物の一つです。随身門(仁王門)をくぐってすぐ右手に位置し、荘厳な佇まいで信仰の対象となっています。

 …との事でありました(^-^)
 もっと検索しておりましたら、こんな記載も…

 ◆七面山霊友会宝塔
 出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年1月2日(木)
 宝塔は山梨県南巨摩郡身延町の七面山にある霊友会の宝塔。恩師御宝塔、世界平和記念塔などと呼ばれる。

 この方々を横目に随身門を潜り石段を下りて行きますと、正面に敬慎院の本堂です。まずは、本堂前で参拝し、どなたもおられませんけど本堂に上がらせて頂きます事に。
 ヤッとの想いで、どぅにか五十丁目の〝敬慎院〟に辿り着きましたネ。
 本堂での参詣を終え外に出ますと、社務所の前で3名のお上人がGONsanに合掌ですから、慌ててGONsanも拝礼です。
 そして、境内を拝観ですけど、そぅそぅ、先に上がって来ましたハズの嫁さんの姿が見当たりません。
 何処にいるのだろう…と、〝一の池〟を覗いてみようか…と思っていますと、背後から嫁さんの声でビックリ(^-^;
 いゃいゃ、お互いが「何処にいるのだろう」と捜していましたようですネ(^-^)//"

 ◆七面山

 --- http://yamatabi.info/7mensan.htm ---

 見るからに険しい海抜六千尺を越える人跡まれな深山の頂上近くに突如現れた天上の楽園のような平坦地。その一角には碧水を湛えた神秘の池がある。池の東の高みに覗く気高い台形は何だろう。その高みへとひと登り、徐々に姿を現すのはやはり霊峰富士、天子山塊を圧してあまりにも大きくそびえ立つ。
 時あたかも彼岸の中日、さながらダイヤモンドの絢爛たる輝きのような旭光が、いみじくも富士の頂点からこぼれ落ち、その一条がこの天上の水面へと射し込むのである。池にはもちろん龍が住んでいる。
 池から南へ登ると、崩れゆく針の山に出くわす。地獄の底まで果てなくなだれ落ちた山腹。遠くからでも一目でこの山をそれと判らせる「ナナイタガレ」である。
 この世とあの世、天国と地獄、奇しくも春秋の彼岸に霊峰富士の頂点から放たれる旭光。何たる絶妙の配置だろう。むべなるかな、古くから修行に訪れる修験者があったという。
 波木井実長の加護により身延の地に庵を構えた日蓮聖人が、麓からいやでも目立つこの修験の山にまつわる話を土地の者から聞いたとき、はたと膝を打ち、かの地に堂宇を建てねばなるまいぞと考えたに違いない。かの池に住まうという龍は法華宗の守護神七面天女の化身でなくて何だろう。
 だがあまりに険しい山である。聖人存命中、その志は果たされなかった。それでも没後わずか、衣鉢をついだ高弟日朗上人によって池のほとりに七面大明神が祀られ、今にいたる七面山信仰が始まった。一三世紀末、鎌倉時代のことである。
 現在、一の池と呼ばれる池のほとりにはよくぞこの深山に造ったと思える敬愼院の本殿や千人が泊まれるという宿坊が建ち並ぶ。本殿前から石段を登って随身門をくぐると、何百人もの信者が一同に会してお題目を唱える富士山遥拝所がある。富士山頂と随身門と本殿は一直線上にあり、春秋の彼岸の中日には富士の頂点から洩れ出た旭光が随身門を通って本殿に御座すご本尊七面大明神を照らしだすという。
 私が七面山に登ったのは、白装束の信者の行き交う姿もない師走始めだった。表参道が敬愼院で尽きると、それまでと打って変わってか細くなった山道が凄まじい崩壊を見せるナナイタガレの淵に続き、木立に囲まれた頂上へと導かれた。木の間越しに寒々しく雪をまとった南アルプスの俊峰が眺められた。あまりの寒さにすぐ下山にかかる。敬愼院の境内を歩いている分にはまるで深山を感じない。しかし、角瀬に下る北参道の長さに、あらためて山の奥深さと、そしてそこにこれだけの建築を成し遂げた信仰とは大したものだと思った。

 ・ガイド
 JR身延線身延駅からバスで早川町角瀬の七面山登山口下車。タクシーで表参道の始まる羽衣まで入る。敬愼院まで五十丁標高差1,200メートルは相当なものだが、さすがに歩きやすく道は整備されている。信者の道のりは敬愼院までだが、登山としての七面山頂上は、ナナイタガレの淵を通ってさらに三百メートル近く登らねばならない。健脚なら日帰りも可能だが、敬愼院に一泊させてもらうのが順当だろう。山全体が宗教上の聖地なので、登山者といえども配慮は必要である。全行程9時間。
 身延町産業観光課(0556)62-1111
 早川町産業観光課(0556)45-2511
 敬愼院(0556)45-2551

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(22)

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 〝和光門〟を潜り、上りきった〝鐘楼〟までのこの長い上り坂。ヤッとの想いで〝和光門〟に辿り着きましたGONsanには最後の難関ですねぇ~
 先行されます親切なご夫婦との間隔が少しずつ広がって来まして、ついにはお姿が見えなくなってしまいましたネ。
 とにかく、最後のこの難関が辛くて長いこと(^-^;
 何とか上りきりまして〝鐘楼〟前に到着です。ここを左折し〝敬慎院・随身門〟へと、もう少し上り坂が続きますけど、俄然、おぼつかない両足に力が入ります(^_^)v
 〝随身門〟に到着しますと、その真ん前が〝御来光遥拝所〟です。登山途中に降り始めた小雨も、いつの間にか、とっくに止んではおりましたが、富士山山頂が見えますかどぅか…
 まずは〝御来光遥拝所〟に向かいますとラッキー、ラッキー(^_^)v
 どぅにか富士山が眺望出来ました(^.-)☆

 ◆御来光遥拝所
 七面山は富士山のほぼ真西にあるため、春分、秋分の日には富士山の頂上から上る御来光を拝むことが出来ます。 ただし、敬慎院は宿泊所であると同時にお寺であるため、肉、魚などの生臭物の持ち込みは厳禁です。加工品も禁止です。 お登りの際は、気をつけてください。お寺であるため、食事は質素です。 登山道は、1丁目から50丁目まで別れていて、それぞれに石灯籠が立てられています。

 …と、こんな記載がWEB上にありましたけど、ふ~ん、春分、秋分の日には富士山の頂上から上る御来光を拝むことが出来ますとはイィですねぇ(^.-)☆
 それでは、暫し〝御来光遥拝所〟からの眺望を楽しみたいと思います(^-^)//"

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(21)

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 ご親切なご夫婦の随分後方を、歩調を合わせて歩んでおりましたけど、四十三丁目までヤッて来ましてまたまた両足が引きつりです。少し先にベンチが見えましたので、GONsanはそこで一休みです。
 嫁さんには、一足先に〝敬慎院〟に向かって貰います事に。
 暫し一息入れておりますと、ヤッと、霊友会の方・親切なご夫婦に頂き服用のサプリメントが効き始めましたのでしょうか…少しの休息で引きつりが納まりましたような(^.-)☆
 遅れを取り戻そうと早足気味になりましたけど、いゃいゃ、また引きつりそう(^-^;
 やっぱり、無理せずユックリ歩まざるを得ないようであります。
 黙々・淡々と歩行が続きましたけど、前方に山門が見えて来ました。〝四十六丁目〟の〝和光門〟ですネ。〝和光門〟では、ご親切なご夫婦が手を合わせておられます。
 GONsanもどうにか〝和光門〟に到着で、まずは拝礼となりました。見上げますと、これは何と記載されていますのでしょうネ。「和光関(?)和光閣(?)」と記載してありますのかも…
 ご夫婦が上っておられます上り坂の長そうな事。かなり距離がありそうです(^-^;
 この長い坂を登り切りました所に〝鐘楼〟が有りますようです。
 嫁さんの姿は見当たりませんから、既に〝敬慎院〟にお参りしていますのかも…とにかく、もう少しの辛抱で「敬慎院」に到着です(^-^)//"

 ◆和光門・46丁目
 つづら折れの道を曲がりますと、目の前に和光関と書かれた扁額のある門があらわれますが、これが和光門です。山頂の入り口で、このすぐ先が七面山本社のあるところです。

 ◆鐘楼
 和光門をくぐって坂を登りつめたところにあります。この梵鐘は登詣した人が自由に撞けます。仏と法(妙法)と僧に感謝の心をこめて撞きましょう。鐘は延宝3年(1675)の鋳造です。

 ◆和光門(わこうもん)

 --- https://rekishinomichi-yamanashi.jp/ja/spot/5-33.html ---

 七面山山頂の入口に立つ門
 表参道の46丁目、七面山山頂の入口に立つのが和光門です。どっしりと重厚な門の屋根には七面大明神の紋章が施され、扁額には和光閣と記されています。この門のすぐ先に七面山敬慎院があり、和光門から山頂にかけては、七面大明神の神域とされています。

 ◆七面山敬慎院・50丁目
 御来光遥拝所から随身門をくぐって石段を下ると真正面にあります。身延山久遠寺に属し、法主に任命された「別当」が運営しています。敬慎院の伽藍は七面大明神をまつる七面山本社を中心に、池大神宮、願満社、参籠殿からなっています。
 その中心となるのは七面山本社で、東向きに富士山に向かって建てられており、七面造りといわれる独特の様式です。静まりかえる一の池を背にしてたてられているこの本殿は、周囲を圧するような荘重な景観をみせています。

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(20)

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 「見晴らし」で暫しの眺望を終えますと、両足の痛みに耐えながら、また歩行続行です。GONsanの様子を気遣いながらも、少し先を元気に歩きます嫁さんが羨ましく感じられてしまいます。未だ小雨が続いていますから、手には傘。
 GONsanは雨合羽着用ですけど、無くても良さそうな、心地良い小雨ではあります。
 何にも考えずに淡々と進んでおりますと、36丁目の〝晴雲坊〟にと到着です。
 嫁さんが暫しの休息を取っています間に、GONsanはスルーで先を急ぎます事に(^-^)
 〝晴雲坊〟の写真も撮らずにスルーとなりましたけど、そぅそぅ、この「晴雲坊」は〝ポツンと一軒家〟の番組で取り上げられておりましたネ。多分、既に5~6年も前の事でしたように思います。
 WEB上で「七面山のポツンと一軒家」で検索してみましたら、うん、うん、お二人ばかり〝晴雲坊〟が〝ポツンと一軒家〟に取り上げられました事について綴っておられました(^.-)☆
 2019年8月18日に放送との事ですから、ふ~ん、既に6年前の事となるようですネ。

 ◆「ポツンと一軒家」で紹介された山に登ってくるよ

 --- https://e-mediabanks.com/2019/08/24/---

 本日はこれから山梨県・七面山に登る予定だ。泊りがけで行く程の山ではないが、頂上付近の奥之院というところに一泊し、翌朝下山する。明日の夕方には戻る予定なので旅行記及び写真や動画は、それから公開しよう。
 標高1,989m。日本二百名山の一つに数えられる。
 テレビ朝日の人気番組「ポツンと一軒家」(2019年8月18日放送)で、途中にある休憩所(昔の宿坊)が一軒家として紹介されていた。
 まず附近の住民に一軒家の情報を聞き、ディレクターとカメラマンが少ない情報を頼りに車で訪ね、ポツンと暮らす理由を尋ねるとそこにドラマがあるという構成だ。
 そこは頂上までに4つある休憩所の一つで「晴雲坊」という。ふだんは悪路を車で訪ねる番組だが、歩いて登ることになる。自然をなめてはいけないが、その程度の山である。日蓮宗の信仰の山ということで、子供から年寄りまでみんな普通に登っている。
 ふだん岩を手でつかんで登るような山を経験している私としては、手を使わず足だけで登れるこの山は、まあ楽勝と言っていい。ただ、日常的に運動をしていない人にとってはきついかもしれない。

 番組の話しである。
 テレビはすべてやらせである。やらせが不適切だと言うなら演出である。だからダメだというのではなく、そういうものなのだ。
 私はかれこれ20年、毎年この山に登っている。しかし、テレビで見る風景、というか光景は見たことがないものばかりだ。
 いやいや、それ普段やってないでしょう。と、何度ツッコミを入れたことか。
 まあ、面白ければいいのかな。感動できればいいのかな。私もまったく番組制作と関係ない世界に生きているわけじゃないから、作り手の気持ちは分かる。というわけだから、「嘘言ってんじゃないよ」と、笑って突っ込んでいるのである。
 ちなみに今回の登山は13人のグループ。中に体力のない人もいるということで、頂上までヤマト運輸が車で荷物を運んでくれるサービスをあるので、それを使わないかと聞かれたが、10キロや20キロの荷物は担いで登るからと断った。

 ◆「ポツンと一軒家」を見て思い出す、懐かしい「七面山からのダイヤモンド富士」

 --- 2019年08月19日 22時52分54秒/Weblog https://blog.goo.ne.jp/green2466/e/5a1c01d1e88a684615f7ae61be78f702 ---

 8月18日放送のテレビ朝日系「ポツンと一軒家」(日曜後7:58)を見ていたら、山梨県の七面山が出てきました。今回の「ポツンと一軒家」は七面山の三十六丁目の宿坊青雲坊のことでした。
 七面山には過去、何度も登ったことがあり、とても懐かしくなりました。七面山に登るのは大変です。日蓮宗の信仰の山なので、登山道はよくできていますが、体力がいります。
 私が登ると、4時間以上かかっていたと思います。
 テレビでは三十六丁目の宿坊青雲坊が目的地でしたが、そこには94歳のおばあさんと68歳の娘さんが坊守をしていました。94歳のおばあさんはとてもお元気でした。
 宿坊に何十年も住んでいて、下に降りるのは半年に一度だそうです。歩いて登り降りするのだそうですが、私にはとても考えられませんでした。
 私たち夫婦は2001年の(春分の日)に七面山にダイヤモンド富士を撮影に行きました。「ポツンと一軒家」を見てとても懐かしくなり、その時のブログをもう一度載せたいと思います。

 〝そこには94歳のおばあさんと68歳の娘さん〟が暮らしておられましたようですけど、今でもご健在なのでしょうか…
 〝晴雲坊〟から少し上がった辺りでは、先行の若者が斜面方向にカメラを向けておられます。何を撮っておられるのだろう…と、同じ方向に視線を移しますと、野生のシカが…〝ニホンカモシカ〟なのかも…
 ノンビリとGONsanもカメラを向けておりますと、いつの間にか嫁さんが追い付いて来ました。前方にはご親切なご夫婦がユックリと歩んでおられます。
 その後方を、GONsanもユックリと。
 そぅしていますと、〝四十一丁目〟の石灯籠が…少しずつではありますけど、〝敬慎院〟に近付いていますのが嬉しいですネ(^-^)//"

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(19)

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 〝神力坊〟にと到着しますと、丁度、休憩を終えられました先客がお一人上って行かれました。
 GONsan達もチョッとだけ休憩です。ノンビリと休んでおりますと、上の方から「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経…」と、時たま聞こえて来ます。早朝からピストン輸送して貰っておられました方々なんでしょうけど、どの辺りにおられますのでしょうねぇ~
 近くのようにも聞こえますし、随分上の方から聞こえて来ますようにも(^-^)
 暫しの休憩を終えますと、また山登りが続行です。淡々と黙々と上って行きますと、〝南無妙法蓮華経〟と唱えます声が次第に近付いていますような…
 これに歩調を合わせて上っておりますと、行衣姿の団体の皆様のお姿が上方に見えて来ましたネ。
 この方々の少し後方を歩調を合わせて上っておりますと、十三丁目の〝肝心坊〟に到着です。ここで皆さんが休憩を取られますようですから、〝肝心坊〟周辺の景観を画像に納めようと思いましたけどスルーし、先を急ぎます事に。
 そして、〝十六丁目〟まで上って来ましたら、また〝南無妙法蓮華経…〟の声が近付いて来ました。上方を見上げますと、杉並木の間から行衣姿の団体さんが…
 で、またまた歩調を合わせて上っておりますと、GONsanの足が引きつって来ました(^-^;
 時たまペットボトルのお茶で水分補給をしているのですけど、塩分不足なのかも…
 たまらず、少し先にベンチがありましたので、痛いのをガマンして歩行続行。ヤッとの思いでベンチの場所まで到着ですけど、ベンチに腰掛けようにも両足が引きつって曲がりませんから、座るに座れない(^-^;
 嫁さんに支えて貰っても、足が曲がらないからやっぱり座れない(^-^;
 で、暫く、腰を曲げ両膝に両手を置き中途半端な姿勢で休息。
 そぅしていますと、〝肝心坊〟で休憩しておられました方々が上がって来られまして、ベンチに座るに座れないGONsanの状況を把握され、数名の方が支えて下さり、ヤッと座れました状況です。
 この方々の団体旗には〝霊友会第二十七支部〟と記載がありましたような…
 この方達、大変ご親切な方々ばかりで、何かと気遣って頂き、足が引きつりました時用のサプリメントまで頂いてしまいましたよ(^-^;
 早速、服用させて貰いました。「暫く休んで行きますから、もう気遣いなさらないで下さい…」と、この方達とはお別れです。別れ際に、「敬慎院は〝五十丁目〟ですから、未だ先が長いけど頑張って…」と言われました時には、ガクッのGONsanでありました。未だ半分も上っていないのですから…
 まぁとにかく、痛くても先を急がなくては…
 で、辛抱しながら上って行きましたけど、二十三丁目の〝中適坊〟手前辺りで、またまた両足が引きつりです(^-^;
 この時には、後方から上がって来られましたご夫婦に助けて貰い、かろうじてベンチに座る事が出来ました。
 このご夫婦も大変ご親切な方で、この時は丁度小雨がパラついておりましたので、躰が冷えるからと〝フード付き簡易ポンチョ〟〝レインポンチョ〟の2種類を頂き恐縮してしまいました。おまけに、よく効くからと〝シャクヤクカンソウトウ〟〝アミノ酸サプリメント〟の2種類も。
 とにかく、よく効くのなら何でも…と、急いでまたまた服用です。「ポンチョは百均で求めたものですから、気にされなくて良いですよ」には、雨合羽持参のGONsanですけど、お言葉に甘えます事に。
 このご夫婦、東京から来られましたようで、毎年〝七面山〟に参詣しておられますとの事。
 あんな、こんな…で、助けて頂きながら、どぅにか二十三丁目の〝中適坊〟に辿り着きましたネ。
 嫁さんの方は、毎日2時間ウォーキングしていますので、何とも無いようですけど、〝中適坊〟では充分休息タイム。雨合羽を着用し、その上に戴いたポンチョも身につけ重装備。そして、再スタート。
 〝中適坊〟を後にしまして、また淡々・黙々と山上り続行です。そして、気が付けば、三十丁目の「見晴らし」と呼ばれる展望台にと到着です。
 ここからの眺望も、雲がありませんでしたら素晴らしい眺めなのでしょうけど…
 両足の引きつりも芳しくなく、とても眼の前の景観を画像に納めます余裕なんぞありませんけど、どぅにか数枚パチリです(^.-)☆
 よく分かりませんけど、方角的には北方向を眺望していますようで、遠方に見えていますのが甲府盆地なのかも分かりませんねぇ~
 数枚画像に納め、また上り続行です。前方に眼を向けますと、東京から来られましたご親切なご夫婦のお姿が…同じように三十丁目の「見晴らし」で、暫し眺望を楽しまれましたのかも(^-^)//"

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(18)

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 〝弁天堂・勇姿の滝〟とお別れし〝羽衣白糸の滝・お萬様の像〟まで戻って来まして、〝羽衣橋〟を渡りますと、表参道入口です。
 「七面山参詣路案内図」の傍らには「七面山敬慎院からのお知らせ」が…参詣者が登山中に落とされたモノも掲示です(^-^)
 それではいよいよGONsan達も、〝敬慎院〟〝奥の院〟に向かって山登りがスタートです。参道入口右側の駐車スペースには、7~8台の車が…時間を確認しますと、A.M.9:50。この方々は、何時頃スタートされましたのでしょうねぇ~今朝?…それとも昨日上られましたのかも…
 参道入口の灯籠には〝元丁目〟と記載。七面山は、表参道入口の「元丁目」から、敬慎院の「五十丁目」まで一丁ごとに灯篭が設置されていますようであります。この時点では知りませんでしたけど(^-^)
 一歩ずつノンビリと上がって行きますと、程なく二丁目の「神力坊」に到着です(^-^)/"

 ◆神力坊
 表参道の二丁目にあり、参拝者が道中安全を祈念して出発する場所。神力坊の本堂には日蓮聖人(にちれんしょうにん)の木造とともにお萬の方の木像が安置されている。また、七面山の守護神でもある伽藍坊大善神の木像が登山道をはさんだ向かいの堂に祀られている。

 …との事であります。

 ◆七面山参詣案内

 --- https://www.kuonji.jp/shichimenzan/shichi-tokei.htm ---

 法華経の聖地として名高い七面山は、南アルプスをめぐる山々のうちのひとつですが、山岳信仰をもって広く知られている標高1,982メートルの美しい霊山です。
 七面山が身延山とともに法華経信仰の聖地となったのは、文永11年(1274)日蓮聖人が身延山に入山されて以来のことです。日蓮聖人は身延山に草庵をかまえ、法華経読誦の日々を送りましたが、その草庵をとりかこむ山々のうち西方にひときわ高く屏風のようにそびえたっていたのが七面山です。
 現在の七面山は、山頂に近い平坦地に身延山久遠寺に属する敬慎院があり、登詣する人々で賑わっています。この敬慎院には、身延山を守護する鎮守神として七面大明神がまつられています。
 そして霊山の大自然は、登詣者の苦行にこたえるかのように、眼前に一大パノラマを展開します。七面山への登詣は、険しい山坂を越えて行くものでたいへんな苦行を伴いますが、その道程が修行の道であり、祈りの道です。七面山の麓から山頂に行くには、表参道と裏参道のいずれかを利用しなければ登っていくことはできません。
 所要時間は個人差がありますので一概には言えませんが、登拝口から山頂までの片道を大人で4~5時間が目安でしょう。

 ◆七面山

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 七面山(しちめんさん)は山梨県南巨摩郡にある1,989mの山。三角点は1,982.4m。日本二百名山の一つに選定されている。

 ・地理
 東側は身延山、富士川を隔てて天子山地と対峙し、西側には笊ヶ岳、青薙山など、赤石山脈南部、白峰南嶺の山々が連なる。
 山頂東北部の約73haが歴史的に久遠寺の寺領であり、現在も周囲を早川町に囲まれた身延町の飛地となっている。そのため、身延山支院の住職たちが交代で別当を務め、七面山別当と呼ばれている。

 ・信仰の山
 文永11年(1274年)に日蓮が開いた身延山久遠寺、また法華経を守護するとされる七面大明神(七面天女)を祀る信仰の山で、日蓮書状(「日蓮上人遺文」)にも記されており、日蓮の高弟である日朗が開いたといわれる。
 各所に崩落が見られるため「ナナイタガレ」「オオガレ」とも呼ばれ、日蓮書状にも崩落の様子が記されている。
 春木川にかかる羽衣橋の西詰めが登山道となる表参道の入口となっており、杉木立の中を50丁に区切られたジグザグに続く遙拝路を徒歩で登る。所要時間は約4~5時間。時折、白装束の信者たちと行き交う。
 途中、2丁目に神力坊、13丁目に肝心坊、23丁目に中適坊、36丁目に晴雲坊があり、参拝登山者に湯茶を振る舞う休憩所となっている。
 山頂近くの標高1,700m付近には敬慎院があり、多くの人が宿坊に宿泊する。敬慎院から山頂付近にかけては富士山の好展望地として知られる。敬慎院には名物とも言える非常に長い敷布団があり、宿泊者はその布団に並んで寝る。なおその敷布団を収納する際はロール状に丸めていく。
 奥の院には影嚮石(ようごうせき)という七面天女由来の磐座があり、その周りを回りながら願い事をするとよいという。
 頂上には一の池、二の池、三の池等、池がある。一の池正面の祠には水晶玉が祀られている。富士山のほぼ真西にあるため、春分・秋分の日には、富士山山頂からのご来光が望める。

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(17)

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 春木川沿いの参道を進みますと、4~5分程度で〝弁天堂・勇姿の滝〟下に到着です。
 石段を上がりますと〝弁天堂〟に到着です。建物の入口には「日蓮宗 日朗雄滝 日教協会」と記載の看板が…
 WEB上で「日蓮宗 日朗雄滝 日教協会」と検索してみますと、こんな記載がありました。

 ◆山梨県早川町 雄瀧弁天堂が「日教教会」に

 --- https://news-nichiren.jp/2009/03/10/3472/ 日蓮宗新聞 2009年3月10日号 ---

 山梨県早川町の雄瀧弁天堂が「日教教会」として日蓮宗に所属することになり、辞令伝達式が2月17日、東京都大田区の日蓮宗宗務院で行われた。
 霊場七面山の麓、羽衣登山口の集落を流れる春木川沿いにある日教教会。本堂裏手にある雄瀧には古くから多くの行者が修行に訪れていた。しかしあまりにも危険な瀧であったため行を成し得た者がなく、正中山法華経寺奥之院の住職をしていた東日教上人が昭和15年頃、誰もが安心して行のできる瀧にしたいと一念発起。難工事の末、昭和26年秋に開堂し、中山妙宗の法華経寺分院として信仰を集めてきた。
 日蓮宗への所属は、平成11年から弁天堂を預かり境内整備を行ってきた伊藤法雲上人(愛知県妙進寺住職)の念願で、近年檀信徒の熱意も高まり時期が熟したとして昨年10月に所属を申請。その翌月、伊藤上人が遷化するという突然の悲しみに見舞われたが、この度長年の悲願が現実のものとなった。
 17日、伊藤上人の子弟・伊藤智淳師(愛知県妙進寺内)が、望月本映山梨県第一部宗務所長、檀徒二人とともに宗務院を訪れ、小松浄慎宗務総長から日蓮宗所属の辞令を受け取った。伊藤上人の遺志を継いで日教教会を守っていく智淳師は「師僧に恥じないようがんばっていきたい」と決意を述べ、二人の檀徒も「行場の活性化にがんばりたい。お悩みのある方は特に、ぜひ一度参拝いただき、神聖な瀧修行を肌で感じてほしい」と語った。
 雄瀧は、七面山の女人禁制を解いた徳川家康の側室お万の方の像が立つ女瀧(羽衣白糸の瀧)と一対の関係。現在は男女別の更衣室や行衣も備えられ、プロゴルファーの諸見里しのぶさんなどの著名人をはじめ全国から多くの信者が訪れている。

 〝弁天堂・勇姿の滝〟も検索してみますと、こんな記載も有りました(^-^)/"

 ◆羽衣白糸の滝・勇姿の滝の見どころ、アクセス方法や駐車場は?早川町にある信仰の滝

 --- https://takimeguri.hatenadiary.com/entry/2024/08/21/231844 ---

 羽衣白糸の滝は早川町を流れ富士川に注ぐ早川の支流春木川に注ぐ小樽沢にかかる滝で、落差33mの直瀑です。羽衣橋の東詰にあり、別名雌滝とも呼ばれています。
 一方、勇姿の滝は、春木川の樽沢にかかる滝で、落差30mの直瀑です。勇姿の滝は、別名雄滝とも呼ばれ、雌滝である羽衣白糸の滝と一対の滝となっています。
 羽衣白糸の滝と勇姿の滝は、日蓮宗の信仰と結び付く滝として古くから知られており、歴史を感じさせる滝です。

 ★羽衣白糸の滝・勇姿の滝の見どころ

 羽衣白糸の滝は早川の支流である春木川に注ぐ小樽沢にかかる滝で、落差33mの直瀑です。羽衣白糸の滝は、別名雌滝とも呼ばれています。
 一方、勇姿の滝は春木川に注ぐ樽沢にかかる滝で、羽衣白糸の滝から少し遡るところにあり落差30mの直瀑です。勇姿の滝は、別名雄滝とも呼ばれ羽衣白糸の滝と一対の滝となっています。

 ★羽衣白糸の滝の見どころ

 羽衣白糸の滝は、黒い岩肌に水がぶつかり白い筋になって流れ落ち、文字通り白糸のような美しさがあります。滝見の観光地ではなく、信仰の滝と言えます。
 日蓮宗の聖地とも言われる七面山の山頂付近にある敬慎院への登山道入口付近にこの滝があり、七面山と深い関係がある滝です。別名「お万の滝」の愛称で呼ばれることもあります。
 以前は、七面山は女人禁制ので登ることができませんでしたが、江戸時代に徳川家康の側室であった「お万の方」がこの滝で身を清め七面山に登り禁制を解いたことで有名になったと言われています。
 修行僧達は神聖な七面山に登る前にこれらの滝で身を清めるそうです。羽衣白糸の滝は降りて行けけば、浅い滝つぼの側まで行くことができます。
 羽衣白糸の滝で滝行をする人が現在でもいるとのことですが、滝の周辺は増田屋旅館の私有地なので滝つぼに入り滝行する場合は、事前に連絡が必要です。

 ★勇姿の滝の見どころ

 勇姿の滝は、羽衣白糸の滝から河原をさらに遡るとあります。勇姿の滝も黒い岩肌に水がぶつかりながら白くはじけながら流れ落ち、迫力のある美しい滝です。
 ここには、雄滝弁天堂があり、修行者の行場として全国的に有名なところで本格的な滝行が行えます。滝つぼの前にはしめ縄が張られており、神聖な雰囲気です。
 雄滝の水の流れは、雌滝の羽衣白糸の滝より水量が多いので力強く打たれると思います。勇姿の滝は、羽衣白糸の滝よりも水量が多く力強い流れなのが雄滝と呼ばれるゆえんのようです。
 勇姿の滝と羽衣白糸の滝は、規模や雰囲気、どちらも滝行ができるなどがかなり似ています。なので、後で写真を見て整理するときに区別がつけにくいほどです。
 両者の滝は、四季折々に表情を変え、秋には紅葉が映え、冬には氷瀑となるのも見どころです。また、徳川家康の側室であるお万の方も訪れた歴史ある場所で、当時の滝行に想いを馳せることができます。
 さらに、修行者や参拝者にとって身を清める場として重要な役割を果たしている滝に向かい合うことも何かを得ることができるかもしれません。

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(16)

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 〝羽衣白糸の滝・お萬様の像〟を充分拝観しまして時間を確認しますと、16:30少し過ぎ。うん、うん、イィ時間となりましたネ。〝弁天堂・勇姿の滝〟は、明日拝観します事にし、この辺で〝お萬様の像〟とお別れです。
 七面山裏参道入口付近の〝ひのや旅館別館〟にチェックインしての夕食時に、「スグ近くにタクシー会社がありましたけど、明日朝の依頼は可能でしょうか?」と、女将さんに尋ねますと、「明日は朝から200人ばかり信者さんの団体が上られます。ですから、ここから表参道上り口まで、この方達を何回もピストン輸送されるから、A.M.6:00~8:00間の利用はダメかも…何時頃から七面山に上られますか?」と…
 で、「A.M.9:00頃から上ろうと思います…」に、「あぁ、それなら大丈夫だと思います。団体さんの搬送は終わっていますから。それでは今から、明日9:00の予約を入れておきましょう…」との事で、その場で架電予約済み。
 明日の予定は、表参道で上り、奥の院で宿泊。そして、その翌日に裏参道で下山します為、女将さんに、下山まで車を駐めさせて頂きたい旨お願いしますと、快く了承。
 とりあえず、明日の段取りが取れましたので一安心(^_^)v
 翌朝は、A.M.6:00少し前に起床のGONsan。〝ひのや旅館別館〟駐車場で一服しておりますと、スグ近くの〝俵屋旅館〟前には行衣姿の方達が眼に入り眼を向けておりますと、既にピストン輸送は始まっていますようでありました。
 タクシー・マイクロバス・中型バス…が、GONsanの前を通過です。暫く経ますと、同様に空車で戻って来られます。
 いゃいゃ、タクシー会社さん、これはお忙しいですねぇ~女将さんは、今回は200人の団体さんと言われておりましたけど、毎月?…数ヶ月毎?…半年毎?…いずれか分かりませんけど、ここにタクシー会社の営業所があります理由が、よく分かりましたネ(^.-)☆
 それにしましても、マイクロバスならまだしも、中型バスでも搬送ですから少々ビックリ感も(^-^)
 前日、〝羽衣白糸の滝・お萬様の像〟に向かいました際に、GONsanのミニバンでも対向車が来ますと離合は容易ではありません道幅でしたから…それに、Uターン可能な場所も有りませんでしたような…でも、中型バスでも搬送ですから有りますのでしょうねぇ~
 とにかく、予約通りタクシー来訪で、まずは、〝羽衣白糸の滝・お萬様の像〟へと運んで貰います事に。
 〝お萬様の像〟に到着しますと、早速、〝弁天堂・勇姿の滝「雄滝」〟へと向かいます。参道を下って行きますと脇に車が一台。んっ!?…この車、どんな方法でここまで来ましたのでしょう?…春木川沿いの参道は〝弁天堂・勇姿の滝〟より上流には進めなかったような…
 途中に〝伽藍坊童子塔〟と刻まれました石碑というかお墓…これは、何なんでしょうねぇ~
 後方を振り返りますと、〝お萬様の像〟~〝七面山山門〟を結びます赤い「羽衣橋」…仲々キレイでしたネ(^_^)v

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(15)

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 三門横の駐車場へと戻って来まして、時間を確認しますと15:45でありました。ノンビリと過ごしておりましたら、イィ時間となりました。
 この辺で久遠寺とお別れし、この日の宿であります〝七面山裏参道(北参道)〟スグ近くの〝ひのや旅館別館〟に向かわなくては(^-^)
 ナビに任せて向かって行きますと、15分程度で〝ひのや旅館〟近くに到着です。旅館近くに設置されました「七面山登山道案内図」に眼が止まり、暫し拝見です。
 明日の予定は、〝羽衣白糸の滝・お萬様の像〟の〝羽衣登山口(山門)〟から表参道を〝七面山敬慎院〟に上り〝奥の院〟で宿泊。翌日は、裏参道(北参道)で〝神通坊〟へと下山です。
 〝神通坊〟は、この登山道案内図が設置してあります場所で、〝ひのや旅館〟のスグ近く。裏参道は、距離的には表参道より長いのでしょうけど、下りですから、まぁイィかと(^-^)
 ところで、今からどぅしたものか…と、暫しの思案はありましたけど、〝ひのや旅館〟へのチェックインは17:00までならイィだろう…と、このまま〝ひのや旅館〟前を素通りし「羽衣白糸の滝・お萬様の像」を拝観します事に。
 ここから〝羽衣白糸の滝・お萬様の像〟へは、3.8kmですから、とりあえず向かいます事に(^.-)☆
 所要時間6~7分で〝羽衣白糸の滝・お萬様の像〟に到着です。スグ近くに〝弁天堂・勇姿の滝〟もありますようですけど、こちらは明日拝観します事に(^-^)//"
 WEB上で〝羽衣白糸の滝・お萬様の像〟〝弁天堂・勇姿の滝〟で検索してみますと、こんな記載がありました(^-^)/"

 ◆羽衣白糸の滝

 --- https://hayakawakankou.jp/archives/spot/hagoromo/ ---

 羽衣橋の東詰にある滝。七面山の女人禁制を解いた、徳川家康の側室「お万の方」の像が滝の前に立っています。さらに奥にある雄瀧に対して女瀧とされ、対をなしています。
 滝行にも使われますが、その場合は増田屋旅館に事前連絡が必要となります。

 ◆羽衣白糸の滝(はごろも しらいとのたき)

 --- https://rekishinomichi-yamanashi.jp/ja/spot/5-30.html ---

 -- お万の方が身を清めた滝 --
 七面山敬慎院へと続く表参道の登山口付近にある滝です。かつて徳川家康の側室、お万の方がこの滝に打たれて身を清め、女人禁制だった七面山の登詣を果たしたと伝えられています。当時は女性が山に登ると山が汚れると信じられていましたが、お万の方の登山後も天変地異や災害が起こらなかったことから、七面山の女人禁制が解かれ、より多くの参拝者が訪れるようになりました。滝の側にはお万の方の銅像があり、白糸の滝は「お万さまの滝」の愛称でも知られています。

 ◆「七面山の瀧」~養珠院お萬の方と東日教上人~

 --- https://tokutoku-site.com/yamanashi-shichimenzan-taki/ ---

 七面山の表参道入口(羽衣はごろも登り口)から後ろを振り返ると羽衣橋の向こうに滝が見えます。この「白糸の滝」のたもとには「お萬の方」像があります。

 -- 養珠院(ようじゅいん)・お萬の方 --

 ご存知のとおり、徳川家康の側室で、徳川御三家の初代藩主・紀州「頼宣‐よりのぶ」と、水戸「頼房‐よりふさ」の生母で、水戸光圀(みつくに)公の祖母であり、8代将軍、徳川吉宗(よしむね)の曾祖母でもあります。
 家康には記録に残るだけでも20人の妻がいたと言われていて、11人の息子と5人の娘がいました。
 徳川家の血を絶やさないように3人の息子を徳川将軍家から独立させて、御三家(紀州、水戸、尾張)を創生させるわけですが、そのうちの2人がお萬の方の子で、後には紀州徳川家から8代将軍吉宗と14代将軍家茂、水戸徳川家から15代将軍慶喜が誕生しており、お萬の方は見事に江戸幕府中興の礎を築き、徳川家の繁栄に貢献しました。
 お萬の方は熱心な日蓮宗の信者としても知られ、同宗の隆盛にも寄与しました。
 養父の実家「蔭山かげやま家」が代々日蓮宗を信仰していた影響で、お萬の方は幼少期から日蓮宗と縁があり、蓮華院妙紹日心(れんげいんみょうしょうにっしん)と称していました。
 妙法蓮華経と日蓮(宗)の心をうけ継ぐ美しい蓮の花、みたいな感じでしょうか?「養珠院(ようじゅいん)」という院号は、家康の死後、髪をおろしてから称したそうです。

 文禄2年(1593年)、お萬17歳の時、家康の側室になります。家康は当時54歳、かなりの年の差婚ですね~
 家康は浄土宗でしたが、お萬の方の法華の信仰はとても篤く、さまざまなエピソードがあります。ここ、七面山の女人禁制を解いたのもその一つです。
 信仰対象だった山は「女性が登るとお山の空気がけがれ、災いをもたらす」といわれていました。七面山も女人が登ると七面天女のお怒りがあるとされていましたが、お萬の方はこの白糸の滝で7日間の水垢離みずごりをし、心身を清めて、女人として初めて七面山の山頂をきわめ、七面山女人踏み分けの祖となりました。
 これが寛永17年(1640年)のことで、お萬の方が64歳の時ですね。
 身延山久遠寺の七面山登詣案内には、「滝にうたれて」とありました。もはや滝行の域。64歳で7日間も。(一説では21日間)。すごい!
 水垢離の後さらに約2,000メートルの登山ですもんね。すごいです。
 この白糸の滝では、今でも、心身を清めるために滝行をする信者さんが見られるそうです。
 ※ 滝行を行う際は、滝を管理する近くの増田屋旅館さんに事前連絡が必要です。

 七面天女とは日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神で、全国各地に祀られていますが、七面山山頂にはその本社「敬慎院」があります。七面天女の本地は諸説ありますが「龍女」とされた一説には、女人禁制が解けたことにより、提婆達多品(だいばだったほん)の女人成仏(にょにんじょうぶつ)と結びつけられたからと言われています。
 お萬の方は、「女人成仏の法華経守護の七面天女の御山に、法華経を信ずる女人が登れぬはずがない。」(日蓮宗事典より)と水垢離し、登山に臨んだそうです。お萬の方の信仰の篤さと行動力には驚かされます。

 慶長13年(1608年)、お萬の方32歳の時には家康にずっと疎(うと)んじられていた日遠上人(にちおんしょうにん)が死罪にされそうになったのを、日遠上人を死罪にするなら自分も死ぬ!と2人分の死装束を縫って家康に嘆願し、助けたそうです。
 その後日遠上人は身延山の麓・大野に隠棲しますが、お萬の方は、日遠の庵を頼宜と頼房に命じて整備させ、大伽藍を建立します。これが現在の大野山本遠寺(おおのさんほんのんじ)のご由緒で、お萬の方は遺言どおり、本遠寺に今も眠っています。
 強い志を持ったお萬の方は、徳川一門の隆盛に尽くし、法華篤信の人として諸寺建立するなど、宗門にも多大な影響を与えた、偉大な女性でした。

 七面山の麓にはもう一つ、お萬の方の滝と雌雄一対になる、雄瀧と呼ばれている滝があります。
 お萬の方像から200~300mほど上流にあるのですが、前回は運動不足で七面山に登るのが精いっぱいで、雄瀧弁天堂(おたきべんてんどう)まで行かれなかったので、今回リベンジ、雄瀧を見に行ってみました。
 赤い幟旗(のぼり旗)に導かれて、よばれるような不思議な感覚がしました。この弁天堂への道は結界の道なんだそうです。
 弁天堂という名のとおり、弁天様が祀られていました。お堂の奥に滝がみえます。雄瀧は行場として全国的に知られている名瀑で、水量が多く流れも速くて、普段は荒々しい瀧らしいのですが、ちょうど水量が少ない時だったらしく、比較的おだやかな感じを受けました。
 滝のそばにあった縁起には、正中山法華経寺・奥之院(千葉県)の東日教(あずまにっきょう)上人が雄瀧で行をしていると天女の姿が見え、霊感を感得し、お堂を建立したとあります。
 水、天女とくれば弁財天か~
 七面天女さまではなかったのね、でも本地は弁財天の説もあるし…と思いながらググっていたら、やまなしの観光サイトの記事を発見。
 昔は、もともと何もない所に瀧だけがあったそうです。このお堂を建てた方が、瀧に入るとなぜか辨天べんてん様が現れたのだとか。何度もそういうことが続き、この周辺を探したところ、朽ち果てたお堂があり、そこに弁天様が祀られてあったそうです。そこでその弁天様を持って帰り、修理をし、小さなお堂を立てました。これが雄瀧辨天堂の由来です。
 この瀧は昔、とても荒れていて、瀧行をするには難しい所だったそうです。このお堂を建てたとき、みんなが安全に瀧の修行ができるように弁天様を祀られ、何年もかけて祈り続けてきた結果、滝行が出来る程の状態になっていったとのことです。

 日蓮宗新聞社によると、雄瀧には古くから多くの行者が修行に訪れていたがあまりに危険な滝だったので東日教上人が、誰もが安心して行のできる瀧にしたいと一念発起して昭和26年に開堂し、中山妙宗の法華経寺分院(通称:雄瀧弁天堂)として信仰されてきたそうです。
 (2009年(平成21年)に日蓮宗の日教教会となる。)
 雄滝弁天堂に参詣し心願成就のご利益をいただいた方が相次いだので満願弁天堂とも呼ばれているそうです。
 雄瀧には修行目的の方だけではなく、最近は、心願成就で弁天様のご利益をいただくために瀧に入る方もいらっしゃるそうです。
 秋には紅葉が美しく、冬は氷瀑になるという、美しさと雄々しさを備えた雄瀧。弁天様のご利益をいただきに、雄瀧弁天堂まで足をのばしてみてはいかがでしょうか。

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(14)

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 雲がありませんと、この〝北側展望台〟からの七面山・南アルプス等の大パノラマが楽しめるのですけど、本当に残念。
 ところで、この展望台には〝カールブッセ〟の詩「山のあなた」が掲げられていますけど、何で?身延山とカールブッセは、何の繋がりも無いのでしょうけど…
 WEB上で〝カールブッセ〟を検索してみますと、こんな記事掲載がありました。

 ◆カール・ブッセの詩「山のあなた」について

 --- https://note.com/yojiroo/n/nec04def6ff13 ---

 -- カール・ブッセについて --
 ブッセは、ドイツの詩人、作家、批評家。
 1972年、当時ドイツ領であったポーゼン(現在はポーランドのポズナニ)のリンデシュタットに生まれる。
 1892年、19歳で『詩集』を出版。ここに「山のあなた」も含まれる。この詩集は高い評価を受ける。
 その後、ベルリン大学やロストック大学で、文献学、歴史学、哲学などを学ぶ。
 1896年、『新詩集』を出版するが、失望される。
 1898年、ロストック大学で博士号取得後、作家、文芸批評家としてベルリンで活動。
 1918年、スペイン風邪により、ベルリンにて死去。享年46歳。
 岡田朝雄・リンケ珠子による『ドイツ文学案内』では、「日本ではあまりにも有名であるが、ドイツではさほど重要な詩人ではなく、むしろ忘れられた存在である」(186頁)とされている。
 ドイツ語版のWikipediaを見ると、日本での特別な人気に言及している。Carl Busse の項目の「受容」欄に書かれているのは、
 カール・ブッセの詩「山のあなた」は、日本では、1905年(2010年再版)に出版された上田敏のアンソロジー『海潮音』によって、今日でもなお知られている…という一文だけだ。「2010年再版」とわざわざ書いているのは、「今日でもなお」読まれていることに対する驚きのゆえだろう。やはり、ドイツ人はほとんど読まないのだ。

 -- 上田敏の翻訳 --
 上田敏の訳詩「山のあなた」は、1903年(明治36年)、『万年草(まんねんぐさ)』に「逸名氏」の名で発表された。1905年(明治38年)、訳詩集『海潮音』に収められた。
 上田敏の翻訳の原本となったのは、ルートヴィッヒ・ヤコボフスキーが編集した、詩のアンソロジーのようだ。上田が、当時親交を深めていた鷗外からこの本を借りた可能性が高いとのこと。
 上田敏の訳詞は、七五調の流麗なリズムになっていること、抒情性があること、山が重なり合っている日本の自然に合っていることことなどから、多くの日本人に受け入れられた。

 -- 一般的解釈 --
 ところでこの詩は一般的には、次のように理解される。
 私は幸福を求めて故郷を離れ、はるばる山を越えていった。しかし幸福は見つからず、悲しい気持ちで帰ってきた。郷里の人々は、もっともっと山を越えていったら幸福は見つかるよ、と言う。
 ここで、一つの問いが思い浮かぶ。それは、最後の「山のあなたになほ遠く/「幸」住むと人のいふ」という言葉を聞いて、故郷に帰ってきた人はどう思っただろうか、というものだ。
 三つの答えが可能かと思われる。
 1. よし、この次はもっと遠くまで行ってみよう!(あくまで希望を抱き続ける)
 2. そうは言うけど、本当に幸福ってあるんだろうか。(懐疑を抱く)
 3. そうは言うけど、おそらく幸福は実際にはなかなか得られないものなんだろうな。追い求めるものではあるけど…。(諦念、あきらめの気持)
 いろいろな人に聞いてみたところでは、1がいちばん多いようだ。
 ドイツ語の原詩(末尾に掲載)を見てみると、最後の1行は、「Sagen die Leute, wohnt das Glück...(幸福があると、人々は言うのだが…)」と点々で終わっている。つまり、人々はそう言うのだが、本当にあるんだろうかという懐疑、あるいは、おそらくないのだろうなという諦念となっているのだ。
 でも、上田敏はこの詩の終わりを句点「。」にした。それによって、詩人の懐疑あるいは諦念ははっきり示されなくなった。解釈は読者に委ねられることになった。
 原詩には余韻がないが、訳詩は多様な解釈を許容する。ここにも、この詩が多くの日本人に愛誦されてきた理由があるだろう。
 -- 以下 略 --

 …と、こんな記載。
 この、カールブッセの詩が、南アルプスの山々が重なり合っている〝北側展望台〟からの眺望にイメージ的に合っている事から、この展望台に掲示されていますのかも(^-^)/
 それでは、ロープウェイの山頂駅に戻り下山します事に。
 山頂駅が見えて来ますと、その手前右側にも展望台が…天候さえ良ければ、この展望台からは〝七面山〟が眺望出来ましたように思います。が、今回は素通り。
 久遠寺駅に下りて来ますと、白い行衣を身に付けた結構な人数の団体さんが、三門方向に下山しておられます。この方達の後方をGONsan達も三門へと向かいます。
 途中、右手の〝本行坊〟駐車場下に〝大イチョウ〟が存在です。

 ◆西谷のイチョウ

 --- http://www.hitozato-kyoboku.com/nishitani-ichou.htm ---

 名称 西谷のイチョウ(にしたにのいちょう)
 名称の典拠 なし
 樹種 イチョウ
 樹高 31m(注1)
 目通り幹囲 6.3m(注1)
 推定樹齢 伝承600年(注1)
 所在地の地名 山梨県南巨摩郡身延町身延(西谷)
  〃 3次メッシュコード 5338-03-54
  〃 緯度・経度 北緯35度22分59.5秒
          東経138度25分24.9秒
 天然記念物指定 なし
 (注1)環境庁「日本の巨樹・巨木林 甲信越・北陸版」による

 久遠寺三門を通り過ぎて、ロープウェイ乗り場に向かう道の途中、左手に立つイチョウ。現環境省データベースでは、本行坊のイチョウとされている。
 しかし、イチョウが立つ場所は本行坊の建物より少し手前、道路のすぐ脇。誰でも気軽に訪れることができる。
 私が訪ねたときは、葉をすっかり落としてしまった後だったが、葉を纏っている時期、なかんずく黄葉の頃には、このあたりの風景を引き締める要(かなめ)となることだろうと思われる。

 …と、WEB上で検索しますと、こんな記載がありました。
 三門に到着しますと、三門前には団体の皆様が集合でした。この方々の今夜の宿は、どちらなのでしょうネ(^-^)
 翌日の「七面山〝敬慎院・奥の院〟」参詣では、この方々の後方を、七面山に向かって上って行く事になりますとは、全く分かりませんGONsanなのでありました(^-^)//"

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6/22(日)・中国サッカーリーグ〝福山シティFC×ベルガロッソいわみ〟戦の観戦(04)

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(13)

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 ◆祖師堂

 仁王門をくぐった先、正面に建つ「祖師堂」は日蓮大聖人の直弟子である六老僧の一人、大国阿闍梨(あじゃり)日朗上人によって開創され、加賀藩三代藩主・前田利常公の母君(ははぎみ)、寿福院お千世の方(かた)の寄進により、寛文5(1665)年に完成した由緒ある御堂です。
 思親閣祖師堂は“親を思うお堂”という意味で名付けられており、身延町指定文化財です。現在3年任期の別当制が敷かれており、七面山敬慎院とともに久遠寺法主が任命します。

 ◆身延町指定文化財 思親閣本堂

 指定日:昭和44年9月12日
 所在地:身延山奥の院
 所有者:久遠寺
 時 代:江戸前期 寛永八年(1631)
 大きさ:間口10.97m、奥行12.7m

 -- 概説 --
 日蓮聖人が9ヶ年の間、東の安房の空を拝し父母を慕い、恩師の面影をしのび回向された地で海抜1147mの所に、先ず六老僧の一人日朗上人がお堂を建て、宗祖の大孝をおもう人々によって道開かれ堂宇も建築されたが、寛永8年(1631年)身延山第24世日要上人の代に、前田家の寿福院の寄進によって建築され大正2年(1913年)に修改築した。
 身延山の山頂にある奥の院。日蓮聖人お手植の杉をみながら参道を登っていくとある。この周りを一周する遊歩道があり、散策するととてもいい景色がみられる。山登りが苦手な人はロープウェイがあるので便利。

 ◆釈迦像
 昭和45年(1970)4月、岡山県小野哲敬氏が奉納したものです。

 ふ~ん、岡山県の〝小野哲敬氏〟は、どんな方なんでしょうねぇ~
 思親閣境内を一通り拝観しましたので、釈迦像の後方から杉林を抜け〝北側展望台〟に向かってみます。明日上ります〝七面山〟が眺望出来ますかどぅか…東側展望台から富士山の眺望は叶いませんでしたから、同様に雲に遮られ期待薄ですが(^-^)

 ◆北側展望台
 山頂・奥之院駅から徒歩3分の場所にある北側展望台からは、七面山・早川渓谷・南アルプス・八ヶ岳連峰、そして、奥秩父の山々を背にした甲府盆地へと続く大パノラマを望むことができます。
 特に空気の澄む冬は、富士山に次ぐ日本第二の高峰北岳をはじめとする南アルプス、主峰・赤岳をはじめとする八ヶ岳連峰が白銀を頂き、ひときわ輝きを増します。

 …と、こんな〝北側展望台〟ですけど、この日の眺望は雲がジャマして〝七面山〟も見えませんでしたネ(^-^;

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(12)

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 〝仁王門〟を潜りまして、境内の右側には〝常護堂〟〝鐘楼〟で、左側には〝手水舎〟〝元政上人埋髪塚〟〝釈迦像〟が並びます。そして、正面に〝祖師堂〟が…

 ◆仁王門
 本院本堂前の仁王門(二天門)を移転したものです。
 六浦平次郎入道の建立で、天和年間31世日脱上人代に本堂域から移転されました。仁王像は31世日脱上人の開眼です。門の前の石段は昭和45年、佐藤玄守別当代に造営されました。

 ◆常護堂
 登詣者を守護する常護菩薩を安置しています。

 ◆鐘楼
 延宝5年(1677)30世日通上人代に建立されました。鐘銘は29世日莚上人の撰です。70世祥上人代に甲州南条講が寄進しました。

 ◆元政上人埋髪塚
 身延町指定文化財(史跡)です。
 元政上人は、年老いた母を輿に乗せ、病身の身を顧みずに身延に登詣し、父の遺骨と自らの黒髪をこの地に埋葬されました。これは紀行文「身延道の記」としてまとめられています。

 ◆【町指定史跡】元政埋髪塚

 --- https://www.town.minobu.lg.jp/bunka/rekishi/2023-1205-1154-32.html ---

 指定日:昭和44年9月12日
 所在地:身延山奥の院
 所有者:久遠寺

 -- 概説 --
 奥の院思親閣の仁王門をくぐった左側にある。深草元政上人が慈父の遺骨を首にかけ、老母のお供をして登山し、父の骨と自己の髪とを埋めて記念の為桜木を植えた塚がある。後人その大孝を偲んで碑を建てたが、その碑に元政上人の辞世「鷲の山常に住むてふ峯の月かりに現れかりにかくれて」と刻んである。

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(11)

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 ◆日蓮聖人お手植杉(にちれんしょうにん おてうえすぎ)

 --- https://rekishinomichi-yamanashi.jp/ja/spot/5-20.html ---

 ・日蓮聖人が植えた4本の杉
 奥之院には日蓮聖人が植えたと言われる杉の木が4本残っており、身延町指定文化財に指定されています。これらは聖人が両親と恩師である道善坊の迫善への報恩のため、また立正安国を祈念して植えられたものと伝わっています。
 開基堂から仁王門へと階段を登る際、階段の右側には「御父妙日尊儀菩提の杉」、左側には「御母妙蓮尊尼菩提の杉」が立っています。さらに階段左側の木立の中には「立正安国祈念の杉」が立ち、境内の右側には「御師範道善坊報恩の杉」が確認できます。いずれの杉も樹齢700年を超える巨木です。

 ◆【町指定史跡】日蓮聖人お手植えの杉

 --- https://www.town.minobu.lg.jp/bunka/rekishi/2023-1205-1144-32.html ---

 指定日:昭和44年9月12日
 所在地:身延山奥の院
 所有者:久遠寺

 ・概説
  身延山思親閣境内に日蓮聖人のお手植えと伝えられる老杉4本が高くそびえている。四本は、聖父妙日尊儀追善記念(目通り幹囲5.3m)、聖母妙蓮尊儀追善記念(目通り幹囲5.35m)、師の道善房報恩記念(目通り幹囲5.6m)、立正安国記念(目通り幹囲5.3m)である。

 ◆奥之院思親閣(おくのいん ししんかく)

 --- https://rekishinomichi-yamanashi.jp/ja/spot/5-21.html ---

 -- 日蓮上人が故郷と両親を追慕した霊場 --
 標高1,153mの身延山頂は日蓮聖人が身延山で過ごした9年間に幾度となく登り、故郷である房州(現千葉県)小湊の両親を偲び、追慕した霊場です。境内の祖師堂は、六老僧(日蓮聖人が臨終の際に指名した6人の弟子)の一人、日朗上人によって1665(寛文5)年に建てられました。堂内には1680(延宝8)年に造られた祖師像、六老僧像、妙日・妙蓮像が奉安されています。また鐘楼と洪鐘は1668(寛文8年)のもので、祖師堂とともに身延町指定文化財に指定されています。仁王門は本堂前にあったものを江戸前期の天和年間に移設したもので、伝運慶作の「密迹金剛」、「那覇延金剛」が勇壮な姿を見せています。そのほか大孝殿、開基堂、育恩殿、故郷の方角に祈る日蓮聖人立像、日蓮聖人お手植え杉などが見学できます。
 奥之院思親閣へは、本堂の裏手からロープウェイに乗れば約7分で到着できます。また、本堂から5㎞の表参道を歩いて上る場合は2~3時間の道のりです。ロープウェイ山頂駅のそば、表参道の終点には展望台があり、伊豆半島や富士山などが遠望できます。

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(10)

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 〝身延山ロープウェイ〟に乗車し、〝久遠寺駅〟から〝奥の院駅〟に到着し、駅を出ますとスグ左手に展望台が…好天でさえありましたら正面に富士山が臨めますけど、あいにくの曇天で眺望不可。残念(^-^;
 それでは、歩いて〝奥之院・思親閣〟に向かいます(^-^)/"

 ◆奥の院 思親閣

 --- http://minobu.info/kuonji_guide/okunoinsisinkaku.html ---

 -- 思親閣 --
 久遠寺の裏山が身延山で山頂は、海抜1153mあります。 ここは日蓮聖人が登山せられ、故郷である千葉県小湊のご両親様を偲び、 追慕された霊跡の地でありますので、思親閣が建てられ奥ノ院と呼ばれております。
 三門より徒歩で五十丁(5.5km)ロープウェイを利用しますと、七分で登詣できます。

 -- 奥の院 思親閣歴史 --

 奥の院思親閣は、追慕の念押え難き日蓮大聖人が、遥か故郷房州の空を拝し、追考のまことを捧げた地。
 大聖人入滅の翌年、高弟の日朗上人が亡き師の篤い孝心を後世に伝えるべく山頂に一宇を建立したのが起源とされます。
 参道両脇に聳える老杉は、大聖人が両親追善のため自ら植樹したとされています。
 標高1,153mの身延山山頂、奥之院駅より徒歩3分の場所に建つ「奥之院思親閣」は、身延山に入られた日蓮大聖人が西谷の御草庵-現在の御廟所・御草庵跡-より50丁の道無き道を登られ、遙かに故郷(ふるさと)房州小湊(現・千葉県鴨川市)のご両親、お師匠の道善房を追慕なされた思親大孝の霊場です。
 参道石段中程の両側には、日蓮大聖人が自らお手植えになられた4本の杉古木があり、石段の先、仁王門には、鎌倉時代を代表する仏師・運慶の作と伝えられる「密迹(みっしゃく)金剛」・「那羅延(ならえん)金剛」の二体の仁王像が境内を護っています。

 ・祖師堂
 仁王門をくぐった先、正面に建つ「祖師堂」は日蓮大聖人の直弟子である六老僧の一人、大国阿闍梨(あじゃり)日朗上人によって開創され、加賀藩三代藩主・前田利常公の母君(ははぎみ)、寿福院お千世の方(かた)の寄進により、寛文5(1665)年に完成した由緒ある御堂です。
 
 -- ロープウェイでご参拝される方はこちらから --
 ・仁王門
 参道やロープウェイで到着したとき、 まず始めに目に飛び込んでくる建物。二体の仁王様が境内を護っています。

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(09)

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 境内に到着しますと、まずは、本堂に上がり参拝です。
 参拝後は、境内を見廻し、本堂・祖師堂・報恩閣・大鐘・五重塔…等を、ササッとパチリです(^.-)☆
 そして、ロープウェイで〝身延山奥之院・思親閣〟に向かいます事に。ロープウェイ乗り場には、下山して来られました行衣姿の20名ばかりの皆様が…行衣には〝霊友會本部〟と記載が…
 この方々と同じグループなのかどぅか分かりませんけど、ロープウェイ乗り場には、今から〝身延山奥之院・思親閣〟に向かわれます10数名の方達も…

 ◆大鐘(おおがね)

 --- https://rekishinomichi-yamanashi.jp/ja/spot/5-9.html ---

 お万の方が寄進した由緒ある鐘
 菩提梯から境内に入ると右手に大鐘があり、朝夕の2度撞かれています。この梵鐘は徳川家康の側室で、熱心な法華経信者でもあったお万の方が寄進したものです。また鐘楼堂は1882(明治15)年、甲斐国南条講中から寄進されました。

 ◆鐘楼・梵鐘(大鐘)

 --- https://yossy.main.jp/post-4435-4435.html ---

 大鐘は寛永元年(1624)、二十一世日乾上人の代に鋳造されたことが鐘銘にあり、初め修行僧道順が梵鐘寄進を発願し、諸国を行脚して浄財勧募に努めましたが、その中途に未だ誌を果たさずして逝去したことを聞き、德川家康の側室養珠院(お万の方)がいたく道順を哀れんで、自らの浄資を寄進して道順の誓願を成就するために鋳造されたものです。
 毎朝夏は五時、冬は五時半、夕方は五時ないし四時半に撞かれますが、その他は除夜の鐘と身延山に緊急のことが起こったとき以外は撞かないことになっています。
 なお鐘楼は明治十五年(1883)山梨県の南条講題目結社の丹精によって建立されました。

 ◆久遠寺本堂(くおんじほんどう)

 --- https://rekishinomichi-yamanashi.jp/ja/spot/5-57.html ---

 絶えず祈りの声が響く荘厳な場
 久遠寺の本堂は残念ながら1875(明治8)年の大火で焼失しましたが、1985(昭和60)年に日蓮聖人の700遠忌記念事業として総工費約60億円をかけて再建されました。総坪数970坪(3,201㎡)、間口32m、奥行き51mの規模を誇り、一度に1,500人の法要を行うことが可能です。御本尊は「須弥壇(しゅみだん)」と呼ばれる台座を含めて高さ9mに及ぶ一塔両尊四士で、仏師・江里宗平の作。また日本画の大家、加山又造画伯による勇壮な天井画「墨龍(ぼくりゅう)」も見どころです。9m四方の金箔の上に、霊獣である龍が墨で描かれ、どの角度から見上げても、龍と目が合うと言われています。本堂の地下には身延山宝物館があり、久遠寺が所蔵する宝物や史料が展示されています。また本堂では毎日早朝から朝のお勤めが行われており、誰でも予約不要で参加できます。
 https://www.kuonji.jp/

 ◆久遠寺

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 久遠寺(くおんじ)は、山梨県南巨摩郡身延町にある、日蓮宗の総本山(祖山)。山号は身延山。

 -- 歴史 --

 文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)が、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き西谷の地に草庵を構え、法華経の読誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した。
 弘安4年(1281年)に十間四面の大坊が整備され、日蓮によって「身延山妙法華院久遠寺」と名付けられたという。日蓮は弘安5年(1282年)9月に湯治療養のため常陸(加倉井)の温泉と小湊の両親の墓参りに向かうため身延山を下ったが、途中、信徒であった武蔵国の池上宗仲邸(現在の東京都大田区本行寺)にて病状が悪化したため逗留し、6人の弟子「六老僧」を定めて、同地において同年10月13日に死去した。「いづくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」との日蓮の遺言に従い、遺骨は身延山に祀られた。当地では足かけ9ヵ年の生活であった。
 日蓮の身延山での生活は日蓮遺文に記されており、「人は無きときは四十人、ある時は六十人」とあるように、大人数で生活をしていたと考えられている。各地の信徒より生活必需品が多く届けられ、日蓮はこの身延山をインドの霊鷲山に見立て、信仰の山として位置づけている。遺文の3分の2は身延山での生活する中で執筆されており、日蓮真筆の曼荼羅もほとんどがここ身延山で手がけられている。身延山は日蓮教団における最高の聖地であると位置づけられており、日蓮の遺骨は歴代の法主(住職)により、日蓮の遺言通り今日まで護られている。
 室町時代の文明7年(1475年)には、11世法主日朝により、手狭になった西谷から現在地に伽藍が移転された。戦国時代には甲斐国守護武田氏や河内領主の穴山氏の庇護を受け、門前町が形成された。江戸時代には日蓮宗が徳川氏はじめ諸大名の帰依を受け発展し、宗門中興三師と賞される日重・日乾・日遠のころ、身池対論を経て対立する不受不施派を排斥して確固たる地位を確立した。その後、日脱、日省、日亨の三師以降壮大な伽藍を整えて正徳2年(1712年)山内に133坊と最盛期を迎えた。
 寛保4年(1744年)下之坊より出火し山内の11坊が焼失した。安永5年(1776年)七面山の諸堂を焼失した。文政4年(1821年)西谷御廟の八角堂と拝殿を焼失した。文政7年(1824年)祖師堂から出火大雨の中13棟が焼失した。文政12年(1829年)五重塔から出火し28棟を焼失し、山内寺中町方の大半も焼失したという。慶応元年(1865年)中谷の仙台坊から出火し支院17坊小堂8棟を焼失し、さらに延焼して上町、中町、上新町、横町、片隅町、下町の計100軒以上が焼失した。その後復興されるも、明治8年(1875年)1月に西谷本種坊からの出火により再び伽藍や寺宝を焼き尽くしたが、74世法主日鑑の尽力とその後の法主等の力により現在に至る。
 久遠寺には数多くの経典や典籍・書籍、聖教や古文書類(身延山文書)が所蔵されており、「身延文庫」として一括され身延山宝物館に所蔵されている。身延文庫には「諸宗部」に分類されている他山・他衆により筆記・書写された典籍類も含まれている。

 -- 法主 --

 法主(ほっす)は、久遠寺の住職に当たる。祖山の法灯を継承する者の称号で、祖廟に常随給仕し、輪番奉仕を主導するほか日蓮宗信行道場の化主となる。
 現法主は93世 持田日勇法主(本山藻原寺貫首)。小西法縁から初めて選出された。昭和生まれで初めての法主(昭和14年生まれ)である。

 ◆五重塔

 --- https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001557400.pdf ---

 身延山を代表する五重塔。元々は1619年に建てられたもので、かつては久遠寺の東側にありました。加賀藩三代藩主前田利常の母である寿福院(1570~1631)が建立しました。
 当時、この塔は日本で2番目に高い塔でした。残念ながら、1829年と1875年の2回に分けて焼失してしまいました。
 平成の時代(1989年~2019年)には、この塔を再び建て直す作業が始まりました。建築家たちは、元の姿を正確に再現したいと考えていました。遺跡を研究することによって、彼らはオリジナルの寸法を決定しました。彼らはまた、同じオリジナルの建築家によって建てられた日本の他の塔を研究しました。
 2009年に完成し、高さ39メートルの日本で4番目に高い塔となりました。身延山の山林から伐採された樹齢400年の木を使用し、赤い酸化鉄塗料で塗装されています。
 塔は通常、歴史上の仏であるお釈迦様の遺灰を安置するためのものです。こちらは釈迦牟尼仏の遺灰を安置しているといわれ、世界各国の日蓮宗の信者の仏像も安置されています。

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(08)

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 それでは、〝菩提梯〟に挑戦です。
 「菩提梯に向かって右側、南部実長公の銅像がある脇から続くのが男坂、その手前に赤い橋がかかっているのは女坂です。男坂は菩提梯と交わりながら急坂を蛇行して本堂正面に出ますが、女坂は久遠寺境内の端、甘露門の下に出ます。」との事で、確かに〝赤い橋〟〝南部実長公の銅像〟がありましたネ。〝南部実長公の銅像〟近くには、〝菩提梯〟の説明板も(^.-)☆

 ◆身延山開基大檀越 南部實長公 銅像

 日蓮聖人は文永11(1274)年5月17日、領主南部實長(波木井)公のお招きにより、この身延のお山にお入りになられました。
 實長公は「今生は實長に及ばん程は見つぎ奉るべし、後生をば聖人助け給へ」とのお約束どおり、日蓮聖人ご在山の9年間一族をあげてご給仕されました。
 また、公は「13里に四方の堺を立て今、日蓮聖人に之を寄附す」との置文をして、身延山を中心とした13里四方を日蓮聖人にご寄附され、子々孫々に亘り身延山を護ることを戒められ、永仁5(1297)年9月25日、76歳でお亡くなりになりました。
 (実長は、身延全山を日蓮聖人に寄進した檀越。住んでいた地名から波木井公とも呼ばれています。実長公の尊像は波木井山円実寺にも安置されています。)

 ◆菩提梯(ぼだいてい)

 26世日暹上人の寛永9(1632)年に、佐渡の住人仁蔵の発願によって完成したものです。
 高さ104mで三門と本堂を一文字に結ぶ287段の石段は、南無妙法蓮華経になぞらえて7区画に分かれています。菩提梯とは覚りにいたる梯のことで、この石段を登りきれば、涅槃の本堂に至ることが出来ることから、覚りの悦びが生ずることを意味しています。

 それでは、スタートし〝久遠寺本堂〟を目指します。
 暫く黙々と上がって行きましたけど、途中、〝男坂〟と〝菩提梯〟が交わりました場所まで上がって来ますとギブアップ。嫁さんは、そのまま〝菩提梯〟を進んで行きたかったのでしょうけど、途中から〝男坂〟を進みます事に(^-^)
 いゃいゃ、〝男坂〟の方が随分楽でありました。蛇行しながらではありますが、楽々と〝五重塔〟と〝大鐘〟の間にと到着です。上りきった正面が〝久遠寺本堂〟でありました(^-^)//"

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(07)

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 三門を潜り、いよいよ287段の〝菩提梯(ぼだいてい)〟を上がり〝久遠寺本堂〟を目指しますけど、無事、上りきれますでしょうか(^-^)
 今まで久遠寺を訪れました際には、この三門からでなく、三門を通過し進んで行きますと、身延山ロープウェイ乗り場下に駐車場(せいしん駐車場)がありますので、ここに駐車。そして、駐車場からは〝斜行エレベーター〟を利用し、難無く久遠寺本堂へと上がっておりました。
 が、今回は初めて、三門から菩提梯に挑戦です。三門から少し進みますと、スグ左手に〝竹之坊〟が。菩提梯挑戦前に参拝と言うか拝観です。
 三門付近には〝本多日生上人像〟が…

 ◆本多(ほんだ)日生

 --- http://soutairoku.com/07_douzou/30_ho/honda_nissyou.html ---

 ・生没年:慶応3年(1867)~昭和6年(1931)
 ・略 歴:姫路藩士国友堅次郎の次男として生まれる。幼名は長次。実家の菩提寺であった妙善寺の嗣子となる。明治12年得度して、聖応と改名。明治19年上京して哲学館に学び、若干23歳にして日蓮宗妙満寺派の教育部長となる。急進的な宗門改革を実行しようとしたため、明治25年宗門を一時追放される。顕本法華宗義布教所を各地に開き、明治35年に品川妙国寺住職。日蓮宗妙満寺派の派名を廃して、顕本法華宗の公称が認められ、明治38年には39歳にして管長となる。その後も管長に選ばれ、21年にわたり管長の地位にあった。その他、天晴会、地明会を組織して門下統合、布教につくした。著書には「大蔵経要義」十一巻など多数ある。

 ◆竹之坊(たけのぼう)

 六老僧(日蓮聖人の6人の直弟子)の一人である日朗上人が開いた寺院。三門をくぐると左手に見える。本館と離れの部屋が用意されている。
 湯葉やコンニャク、季節の野菜や山菜をつかった料理が好評。野菜は無農薬野菜を使用している。

 ◆竹之坊

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 竹之坊(たけのぼう)は、山梨県南巨摩郡身延町身延にある日蓮宗の寺院。身延山久遠寺の宿坊として最古級の坊。潮師法縁。

 ・歴史
 弘安3年(1280年)大国阿闍梨日朗(六老僧の一人)を開山に創建された。数度の移転を経て現在地に移転した。
 明治20年(1887年)には中町より出火した火災が類焼し諸堂を焼失した。

 ・人物
 妙性院(大久保長安の後室)夫の没後この寺で過ごし元和4年(1618年)に亡くなるとその庵が坊舎に転用された。

 ・旧末寺
 日蓮宗は昭和16年に本末を解体したため、現在では、旧本山、旧末寺と呼びならわしている。
 正和山妙覺寺(富士宮市猫沢)

 …と、こんな〝竹之坊〟でありました。
 それでは、〝菩提梯〟に挑戦ですけど、WEB上で〝菩提梯〟を検索しますと、こんな記載がありました(^-^)//"

 ◆悟りへの石段!身延山随一の難所、菩提梯(ぼだいてい)に挑む

 --- https://shukuken.com/minobu-bodaitei ---

 身延山の中で最も「しんどい」場所。それが菩提梯(ぼだいてい)だと言って、過言ではないと思います。誰しもが菩提梯を前にすると「わあ~!すごい!!」と、驚きの声をあげます。引き返す人、果敢にチャレンジする人、脇道である男坂、女坂から上っていく人に分かれますが、前回特集した三門からの仏教的意味の流れとして、三門でお釈迦様、十六羅漢によって菩提に誘われ、菩提梯を上って悟りを得、久遠寺境内という浄土へ達するという流れには欠かせない存在です。
 菩提梯は段差が大きく、非常に急な階段で、その段数は287段に及びます。「南無妙法蓮華経」のお題目、7文字を41遍唱えるとちょうど割り切れるため、 一段一段お題目を唱えながら上ると良いとされます。
 菩提梯には踊り場がいくつか設けられていますが、踊り場ごとに自分が上ってきた階段を見下ろすか、ひたすら無心で登り、境内まで到達してから下を振り返るか、上り方に人生が表れる気がします。
 私は後ろを振り返りながら鑿の跡が残る階段を、造立に携わった方々の苦労に想いを馳せ、15分ほどかけてゆっくりと登ります。一つ目の踊り場に達する前に心臓は鼓動を早くし始めますが、途中で合流する男坂に流されたくなる気持ちを抑えつつ、上りきった際に正面に見える久遠寺本堂の美しさにはいつも感動します。菩提梯を上がって無心になるというより、しんどさに誰しもが無心になる、という方が近いでしょう。

 -- 菩提梯にまつわる親孝行のエピソード --

 菩提梯が造立される以前は、三門から久遠寺までの間は急な斜面を登る坂しかなったそうで、それにまつわる親孝行のエピソードが残されています。
 昔、佐渡の仁蔵(にぞう)という漁師が老いた母親を連れて念願の身延山詣でに来た際、あまりに急な坂だったため、母親を背負って上ったところ、母親が「ここに階段があったなら、さぞ良いだろうに」と呟きました。そこで仁蔵が発願して菩提梯を造ったというもので、それに伴う伝承もいくつか残されています。
 ただ、歴史的な事実としてわかっていることは、佐渡の仁蔵が1632年頃に菩提梯の造立を発願し、「石一つ運んだ者には銭○貫文を与える」という立て札を立て、施主と労働力を募って多くの人々に菩提梯造立に寄与させ、およそ4ヶ月をかけて完成にこぎ着けたというものです(80年とする説もありますが、おおよその完成は4ヶ月であり、補修や追加工事などを含め、最終的に現在の形になったのが着工から80年後ということだと思います)。
 仁蔵は功徳勲功を自分のものだけにはせず、自らの蓄えた財産をもとに、多くの人に働きかけ他の人にも徳を積ませたのです。
 また、親孝行のエピソードの言い伝えでは仁蔵が佐渡金山の発見者であることになっていますが、それは佐渡金山側の史実と異なっています。残された資料によれば、仁蔵は佐渡金山の工事において大きな手柄をたて、徳川家康から「味方」の姓と「家」の字を授かった味方但馬家重のゆかりの何某かの人物なのではないかと、察することが出来るそうです。
 資料には仁蔵が菩提梯造立を発願したきっかけは書いていませんが、言い伝えのように、母親がつぶやいたひとことをきっかけとした親孝行だったのかもしれず、本当のところはわかりません。いずれにしても、仁蔵の功績は大きいものだったのは間違いないでしょう。
 現在も身延町内には菩提梯の石を切り出した場所が残っており、菩提梯造立に関わった全ての方々のご苦労が忍ばれます。

 -- 菩提梯は気を付けてお登りください --

 仏教的意義や歴史背景などを考えると是非上っていただきたい階段ではありますが、年に何度かはAEDの出番がある心臓破りの階段です。私も実際に上り切ったものの、具合が悪くなって横たわる方を何度か目にしています。体調の悪い方は無理せずに、男坂か女坂から上りましょう。
 菩提梯に向かって右側、南部実長公の銅像がある脇から続くのが男坂、その手前に赤い橋がかかっているのは女坂です。男坂は菩提梯と交わりながら急坂を蛇行して本堂正面に出ますが、女坂は久遠寺境内の端、甘露門の下に出ます。
 傾斜は女坂の方がゆるやかですが、距離が少し長くなります。坂道は男坂女坂とも舗装されていませんので、足下が滑りやすいことがあります。車移動も含め、ご自分の体力に見合ったルートを選択して下さい。
 女坂の途中には、円台坊さんや学業にも御利益のあるという文殊稲荷さん、湧き水等がある他、男坂より木立の隙間から所々景色も楽しめます。さらに桜の時期にはご褒美のようにゴール付近に枝垂れ桜が待っていますので、散策気分でゆっくり上られてもよろしいでしょう。
 ちなみにこの菩提梯。287段と昔からいわれていますが、実際に数えると286段しかないとか?はっきりしたことはわかりませんが、地震の影響や菩提梯に続く石畳の工事の際に最初の一段が埋まってしまったのでは、と推測されるそうです。確かによく見ると一番下に数センチほど、階段が顔を出しているのがわかります。上りながら、是非段数も数えてみてください!

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(06)

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 鏡圓坊でのお参りを終え、時刻を確認しますと、13:17。
 今夜の宿へのチェックインまで、未だ3時間ばかりありますので、遅ればせながら日蓮宗総本山〝久遠寺〟そして、奥の院〝思親閣〟に参詣です。鏡圓坊からですと15分程度で到着と思います。
 写真は撮れませんでしたけど〝久遠寺総門〟を潜り〝久遠寺三門〟横の駐車場にと到着です。
 WEB上で、〝久遠寺三門〟〝国指定天然記念物 身延町ブッポウソウ繁殖地〟を検索しましたら、こんな記載がありました(^-^)//"

 ◆健脚の守り神!日荷上人の謎が残る壮大な身延山三門は見所満載

 --- https://shukuken.com/minobu-sanmon ---

 皆さまこんにちは。身延在住のゆる身延です。本日は身延山のシンボル的存在でもある三門についてご紹介します。
 身延山の三門は「日本三大三門」(諸説あり。他二カ所は京都の南禅寺、知恩院)と呼ばれるように、大変大きく立派な門で、間口は13間(約23.5M)奥行きは5間(約9M)、高さは7丈(約21M)にも及び、2018年に国の有形登録文化財に指定されました。
 その壮大な造りに多くの参拝の方は足を止められ、門の両脇には仁王様が睨みをきかせ、門の楼上ではお釈迦様と十六羅漢様が見守ります。
 なぜ「山門」ではなく「三門」なのか。「三門」とは「三解脱門」の意味で、仏教の教義の悟りの内容である「空・無相・無願」を表わしています。簡略に表現すると、「空」は、全ての存在、現象は実体を持たないことから「ものごとにこだわらないこと」、「無相」は、「空」であるゆえに差別がない、つまり「見かけで差別しないこと」、「無願」は、「無相」であるゆえにそれらは求め願うような欲望の対象ではない、つまり「欲望のまま求めない」ことです。世の中の様々な執着を取り払って本堂に至る門として三門が存在しているのです。
 三門をくぐる事で俗世の様々な執着を取り払い、楼上で見守るお釈迦様、十六羅漢様に菩提へと続く道に誘っていただき、三門の先にある菩提梯(有名な急階段)で菩提へと近づき、久遠寺境内という浄土に到達する、という構造が成り立っています。
 菩提梯はあまりにも急な階段なので、それを避けて車で西谷か東谷から久遠寺へ上がられる方が多いですが、仏教的な意味を考えた時には、是非、三門を潜り、菩提梯を上ってみていただければと思います。

 -- 三門に納められているわらじの謎 --
 ところで、三門をお参りするとたくさんのわらじが納められていることに気づかれる方も多いと思いますが、これは三門にまつわる伝説によるものです。
 身延山の三門には、かつて仁王像がない時期があったとも言われており、これを嘆いた中山法華経寺の日祐上人の弟子、六浦平次郎の夢枕に、真言宗の名刹である称名寺(横浜市金沢区)の仁王像が表れ「私は身延山で人々の守り神になりたい。おまえの力で私を身延山まで運んでおくれ」と、告げたといいます。
 平次郎は早速称名寺を訪ね、仁王像の話をしましたが、受け入れられるはずもありません。そこで、囲碁が大好きだった称名寺の住職に仁王像をかけての囲碁の勝負を挑み、気迫の勝利をおさめて仁王像を勝ち取りました。
 平次郎は縄をもってこの7尺2寸(2M超)もある仁王像二体を一度に背負い、三日三晩(一晩とも)かけて身延山に運んだという伝説が残っています。その為、三門の仁王様は健脚の守り神とされ、たくさんのわらじが奉納されるようになり、現在は三門で健脚のお守りも頒布されています。
 ちなみに、この平次郎は当時の法主猊下により日荷という名を与えられ、谷中の延壽寺でも健脚の神様として祀られている他、横浜の上行寺には日荷上人が身延山に仁王像を納めた帰りに持ち帰ったというカヤの木が今も茂っているということです。
 日荷上人は本当に一人で仁王像を担いで来られたのか。どの時代の出来事なのか、三門は幾度かの火災に見舞われているものの、この大きな仁王像が火災の度に難を逃れ続けることが出来たのはなぜなのか等、謎は今も解けないままだそうです。

 -- 三門のご開帳日 --
 さて、身延山の三門は基本的には8月の7日、旧暦の七夕の日の御開帳となりますが、それ以外ではお寺さんのご紹介や、ある程度まとまった人数での事前申し込みにより御開帳していただけるそうです。また、行事がある際には御開帳されていることもありますので、楼上の扉が開かれているのを見かけた場合はお声をかけてみられてもよろしいかと思います(三門は三門斜め向かいの恵善坊さんの管理です。電話番号0556(62)0078)。
 楼上の御像などは撮影禁止なので、写真をお見せすることが出来ないのが残念ですが、立派な釈尊像の他、ずらりと並ぶ十六羅漢像は圧巻です。是非タイミングを合わせて、お参りいただきたいと思います。俗説ですが、十六羅漢像のうち、一人は自分に似ている顔があるとか。
 また、この三門楼上に至るとっても狭い階段を上る体験をするのも良い経験です。頭をぶつけそうになりながら、身を斜めにかがめて這い上がるように歴史ある建造物に上っていくのはワクワクします。登り切った後の三門の上からの景色は最高です。この眺めを見ながら、お釈迦様と十六羅漢様の前で、執着を捨て、無の心で時間を過ごしてみるのも良いでしょう。

 ◆【国指定天然記念物】身延町ブッポウソウ繁殖地

 --- https://www.town.minobu.lg.jp/bunka/rekishi/2017-0707-syougai-buppousou.html

 指定日:昭和12年12月21日
 所在地:身延西谷、東谷、上之山、町方、南谷、久遠寺境内
 管理者:身延町
 備 考:『山梨の文化財 国指定編』

 -- 概説 --
 ブッポウソウは東南アジア方面に生息し、わが国へは夏鳥として5月頃から渡ってくる。仏法僧目、仏法僧科、仏法僧属の一科―属の独特の烏である。体は美しい青緑色で、頭から首にかけては藍黒色、背中は濃い青緑色、翼の中央には青白色の紋があり、くちばしと足は赤く、遠くからでも見分けることができる鳥である。鳴き声はギャーギャーと不気味な声である。ブッポウソウ渡来生息地として、宮城県狭野神社・岐阜県州原神社・長野県御岳村若宮八幡社の三ヵ所とともに国から指定された全国的に著名な渡来繁殖地である。繁殖が終わると9月末頃から10月上旬頃に南方へ帰っていく。

 ◆身延山久遠寺 - 三門

 --- 山梨県 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R2-01290.html ---

 三門は久遠寺の正門とされています。1642年に最初に建てられたもので、長年の火災被害により3度の再建を経ています。1907年には大規模な改修が完了しています。
 高さ21メートル、幅23メートルの巨大な門。日本の関東三大門の一つに数えられています。
 3つの開口部を持つ寺院の門(三門)は、「3つの解放」の門とも呼ばれています。三門の三つの開口部は、それぞれ「空」(くうもん)、「無」(むごもん)、「無願門」(むがんもん)の三つの解脱の一つを表しています。三門をくぐると、「欲」「怒り」「愚」の三つの煩悩から解放されると言われています。

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(05)

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 本遠寺でのお参りを終えますと、次に向かいますのが〝日蓮宗宝聚山 鏡圓坊〟であります。
 今まで総本山〝久遠寺〟に向かいます時には、時たま、国道52号線(身延バイパス)を走行し久遠寺総門へと向かっておりまして、その際に〝鏡圓坊〟山門前を横目に通過しながら、「機会があれば、いつの日か訪れてみよう」とのこんな想いがありました。それだけに、今回ヤッと訪れます機会到来で少々嬉しさも(^-^)/
 〝鏡圓坊〟山門前に到着しましたけど、はてさて駐車場は?
 山門前に到着し周辺をキョロキョロしておりますと、山門右側に車2台分が駐車可能なスペースが(^_^)v
 駐車場ではないのでしょうけど、短時間の駐車ですから、〝まぁイィか〟と駐めます事に。
 山門脇(左側)には〝身延町指定史跡「南部氏館址」〟の説明板が…

 ◆【町指定史跡】南部氏館址

 --- https://www.town.minobu.lg.jp/bunka/rekishi/2023-1205-1116-32.html ---

 指定日:昭和44年9月12日
 所在地:梅平
 所有者:鏡円坊
 時 代:鎌倉~室町
 備 考:『町史跡 南部氏館跡』

 -- 概説 --
 南部六郎実長は、南部牧の北半分波木井飯野の領主として居館を波木井郷梅平に築いた。館址は梅平の集落より一段高い山裾に位置し、標高約258mで40m四方の比較的広い平坦地となっている。鏡円坊は実長の次男の屋敷をそのまま寺院に改めたものと伝えられている。昭和58年(1983)には「おかまど跡」と呼ばれるところで発掘調査が実施され、堀立柱建物跡や12世紀末頃の土器が出土した。尾根上の狭いテラスに屋敷があったとも考えにくく、発掘調査の成果からも屋敷跡を実証するには至っていない。また、実長公以下八世の南部氏は概ね200年間この館址を本拠としたとも北方の波木井集落背後の山を屋敷跡としたという伝承がある。

 ◆南部氏館跡(身延町)

 --- https://www2u.biglobe.ne.jp/~ture/nanbuumedairakai.htm ---

 所在:山梨県南巨摩郡身延町梅平
 交通:JR身延線身延駅よりバス鏡円坊下車
 歴史:南部氏は甲斐源氏の一族である加賀美遠光の子光行がこの地の所領を得て南部を名乗ったことに始まる。
 文治五年(1189)、光行父子は源頼朝に従い奥州藤原氏征伐に参加、戦功を立て奥州に所領を与えられが、これを機に光行は奥州に下向、甲斐南部氏は子実長が継ぐことになる。
 実長はこの梅平に館を構え、治政に当たったという。その後実長は日蓮聖人に深く帰依、文永十一年(1274)所領を寄進して日蓮を招き外護に努めた。
 一言:南部氏館跡は身延山久遠寺の南の台地上にあったとされ、現在は鏡円坊となっている。鏡円坊は実長の次男がそれまでの館から寺に改めたとされる。
 ただ残念ながら遺構は確認出来ず、鏡円坊の前の説明板、更に下った所に立っている石碑がその地が館跡ということを示すばかりである。

 …との事で、南部氏館跡が〝鏡円坊〟となっていますようであります。
 とにかく、念願叶い〝鏡円坊〟にお参りです。ここでもまた本堂でのお参りを終えますと、行衣に御朱印をお願いです。お上人、大変丁寧でご親切な方で、行衣を雑にたたんでおりましたのに、キレイにたたみ直して戻して下さいました。
 嫁さんとGONsanは、ただただ恐縮するばかり。
 お茶を戴きながら〝鏡円坊〟の歴史も少しお話し頂きました。
 以前から訪れようと思っておりましただけに、参詣が叶い、その上、お上人のご丁寧・ご親切なご対応で、いゃいゃ大感激のGONsanなのでありました(^-^)//"

 ◆鏡円坊

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 鏡円坊(きょうえんぼう)は、山梨県南巨摩郡身延町梅平にある日蓮宗の寺院。身延山久遠寺の山内支院の一つ。通師法縁。天然記念物鏡円坊のサクラで知られる。宗門史跡。
 歴史 -- 波木井実長の邸に日台(波木井長氏の子で幼名は春乙丸)が創建した。

 ◆鏡円坊(きょうえんぼう)

 --- http://minobu.info/kyuuminobuchou/kyouenbou.html ---

 鏡円坊は身延山内支院の一つで、本院第五世日台上人が開かれたもの。
 日台上人は波木井長氏公の第二子で幼名を春乙丸と名付けられていました。そして晩年、波木井実長公の御舘邸を改めて寺として鏡円坊と名付け、実長公を初祖とし、御自身は第二代目であると称されました。
 すなわち日蓮大聖人に身延山全山を寄進された実長公が、御生活になり大聖人がおたづねした邸が鏡円坊となったのです。

 ◆宝聚山 鏡圓坊

 --- https://kyouenbou.com/ ---

 日蓮聖人が晩年身延山に入山されるに当たり、身延山全山を御寄進された甲斐源氏の一派南部実長公の館をお寺としたのが鏡円坊です。
 日蓮聖人身延山在中の折は厚く支援され最後、東京池上に於いて亡くなる時は自分のお骨は墓は必ず身延山に建立する様にと遺言される程日蓮聖人に尽くされた大檀家です。歴史的にも重要な拠点として日蓮宗より宗門史跡に指定されております。

 ◆鏡圓坊 縁起

 --- https://kyouenbou.com/aboutus/ ---

 鏡円坊(きょうえんぼう)は、山梨県南巨摩郡身延町梅平にある日蓮宗の寺院。身延山久遠寺の山内支院の一つ。通師法縁。天然記念物鏡円坊のサクラで知られる。宗門史跡。波木井実長の邸に日台(波木井長氏の子で幼名は春乙丸)が創建した。
 日蓮聖人が晩年身延山に入山されるに当たり、身延山全山を御寄進された甲斐源氏の一派南部実長公の館をお寺としたのが鏡円坊です。
 日蓮聖人身延山在中の折は厚く支援され最後、東京池上に於いて亡くなる時は自分のお骨は墓は必ず身延山に建立する様にと遺言される程日蓮聖人に尽くされた大檀家です。歴史的にも重要な拠点として日蓮宗より宗門史跡に指定されております。

 寺宝としては身延山で一番最古の日蓮聖人像
 南北朝期にまで遡るもので身延町文化財に指定されております。本堂の裏の桜の木は樹齢500年以上といわれる枝垂れ桜、一説には身延山久遠寺内の枝垂れ桜の親木になったとも言われております。
 又、日蓮聖人南部公館(現鏡円坊)に下向の時、たまたま京都より来ていた有名な画伯に日蓮聖人自画像を描かせようとした時、余りの威光に直視出来ず水面に写った姿を描写したと言う水鏡の祖師のいわれとなった井戸など他にも江戸時代にまで下がりますが各種寺宝があります。

 ◇国道52号線バイパス沿い、日蓮宗・鏡円坊に初参拝
 -- 鏡円坊の口コミ --
 口コミを投稿:2023年8月22日
 富士川右岸で、身延町の町を迂回するようにバイパスができてかなりたつが、当該寺は、車でバイパスを走行中、いつも通り過ごしてしまい気になっていました。今回、初めて参拝する。日蓮宗の直系の坊ということで縁起はわかりません。久遠寺の境内にも、日蓮宗の寺が沢山あり、この寺は、久遠寺の境内から離れているので、少し意外に思われた。車を置くのに駐車場はなく、短時間の参拝でした。(スマホで写真を撮ったが、パソコンに移動が、不具合で、次回写真を撮りたいです)。桜の季節がイイみたいですので、再度、訪問したい。
 訪問時期:2023年7月
 - WEB上には、こんな口コミもありましたけど、ふん、ふん、皆さん、鏡円坊の山門前を通りますと、似たような想いが生じますようですネ(^.-)☆ -

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5/30~6/2間で、ノンビリと「七面山〝敬慎院・奥の院〟」に参詣でした(04)

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 お万の方の墓所は、本遠寺本堂の左側(西側)に位置し、宝篋印塔は壮麗で雄大でありました。

 ◆【県指定文化財】徳川家康側室養珠院墓所

 --- https://www.town.minobu.lg.jp/bunka/rekishi/2017-0901-syougai-youzyuinbosyo.html ---

 指定日:平成20年5月8日
 所在地:大野839
 所有者:本遠寺

 -- 概説 --
 本遠寺(ほんのんじ)には、徳川家康側室養珠院の墓所がある。養珠院は、お万の方と呼ばれ、徳川御三家のうち、紀伊家の藩祖頼宣、水戸家の藩祖頼房の生母であり、水戸黄門こと徳川光圀の祖母にあたる。お万の方は、熱心な日蓮宗の信者として知られ、本遠寺を創建した心性院日遠上人(にちおんしょうにん、身延山久遠寺二十二世)に帰依し、同宗の隆盛に寄与した。そのため、寛永17年(1640)にはそれまで女人禁制であった身延の七面山に初めて参詣を果たし、女性の登山を解禁させるきっかけを作った。
 本遠寺は日蓮宗由緒寺院(本山)の一つで、日遠上人が、慶長法難による刑を免れたのち、慶長14年(1609)に退隠して大野の地に草庵を結んだことに始まる。正保3年(1646)には江戸幕府第3代将軍徳川家光から260石余の寺領を与えられ、慶安3年(1650)からは紀州藩主徳川頼宣によって堂宇の造営、改修が行われ、承応4年(1655)には落成をみた。
 お万の方は、徳川家康の死後、落髪して養珠院と称し、久遠寺(身延町)や池上本門寺(東京都)の保護に尽くしたが、承応2年(1653)8月21日に、江戸の紀州藩邸で死去した。紀州藩主頼宣は、養珠院の遺言により、本遠寺に壮麗で雄大な宝篋印塔(ほうきょういんとう)を建立し、菩提を弔った。
 宝篋印塔は関西形式で、正面の石門と周囲の玉垣の細工は県内では類例がなく、紀州藩が派遣した石工の手によるものと推定されている。材料の御影石は、欠損部位もなく、近世初期の大名墓と墓制を知る上で貴重な資料といえる。また、当時、最上級の技術や部材により造りだされたもので、徳川家の盛時を偲ばせる。
 墓所には宝篋印塔(花崗岩・高さ4.55m)、玉垣(花崗岩)、石門(平唐門・花崗岩)、石燈籠(いしどうろう)、手水盥(ちょうずたらい)、墓所周辺に紀州徳川家供養塔3基、石燈籠16基、石段、石垣がある。

 …と、こんな〝徳川家康側室養珠院墓所〟で、永い歴史を感じます立派なお墓でありました。
 この〝養珠院墓所〟のスグ西側には〝紀州徳川家供養塔〟が存在し、その西側には〝日遠上人御廟〟も存在しますのですけど、これまた画像に納めますのを失念と言うか参詣しませんでした。
 後日また、いつの日か、本遠寺を訪れます機会がありましたらお参りしたいと思います(^-^)//"

 ◆日遠上人

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 日遠(にちおん、元亀3年(1572年)-寛永19年3月5日(1642年4月4日))は、江戸時代前期の日蓮宗の僧。字は尭順。号は心性院、一道。姓は石井。京都の出身。

 -- 略歴 --
 受布施の立場をとる本満寺の日重に師事した。徳川家康の側室・養珠院(お万の方)の帰依を受ける。
 1600年(慶長5年)飯高檀林の講主となる。1608年(慶長13年)江戸城で行われた浄土宗と日蓮宗との宗論(慶長宗論)で日蓮宗は敗者となった。その後、徳川家康は「念仏無間」は経典にない空論として、日蓮宗の本山寺院に対して誓状の提出を迫った。日遠は日蓮の教えである「四箇格言」を捨てる訳にはいかず、誓状の提出を拒んだ。徳川家康は命令に逆らう謀反者として安倍川河原で磔刑に処そうとした。日遠に帰依していた養珠院は、徳川家康に嘆願し刑の執行は許された。慶長14年(1609年)には現在の身延町大野に本遠寺を創建した。本遠寺は後に養珠院を生母とする徳川頼宣・徳川頼房により整備され、養珠院の墓所が所在している。
 1630年(寛永7年)江戸城で行われた受布施派と不受不施派との対論(身池対論)で不受不施派を破り、池上本門寺に入山した。1631年(寛永8年)鎌倉の不二庵に隠棲したが、養珠院をはじめ多くの信者が訪れたという。

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ジャンル(絵日記)
日常生活を通じて眼にしたこと、感じたこと、出掛けた先の景観…等を、備忘録代わりに絵日記として綴っております(^-^)/"
ギャラリー
  • 10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(40)
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  • 10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(40)
  • 10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(40)
  • 10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(40)
  • 10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(40)
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  • 10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(40)
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  • 〝ジェンダー川柳〟…昨日、受賞作品の発表がありましたようですネ(^.-)☆
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