GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

旅の景観・話題

6/22(火)は、「日本のビール王・馬越恭平」ゆかりの地を散策でした(9)

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 それでは、馬越家墓所より出まして、寺内を見廻してみましょうか…
 どちらのお墓も、ユッタリと構えておられますけど、三光寺sanの檀家数は、どのくらいなのでしょうネ…一般的には、檀家数が200家あれば、お寺として運営可能…と耳にした事がありますが…

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6/22(火)は、「日本のビール王・馬越恭平」ゆかりの地を散策でした(8)

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 山門(三光寺竜宮門)をくぐり振り返りますと、うん、うん、これは鐘楼も兼ねておりまして、鐘突き棒の上部辺りにはご住職の似顔絵が(^.-)☆
 『三光寺住職の横顔 神辺町・田中征児作』と額縁に(^_^)v
 ふ~ん、ご住職は、こんなお顔のようですネ。写真よりも、こんな似顔絵の方が微笑ましく感じられますネ(^-^)
 描かれた方は、福山市の神辺町にお住まいの方なのかも…福山市神辺町に㈲ラスタと言う会社がありまして、その会社の代表者が「田中征児」なんですけど、この方なのかも…
 境内を見廻しますと、『ビール王・郷土の大恩人 馬越恭平翁の墓』と大きく標示されました墓地への入口が…
 入口を入りますと、ほぼ正面に「馬越恭平翁ご夫妻の墓」が…馬越恭平翁のお墓は東京にあるのでしょうけど、先祖代々の菩提寺であります三光寺にも、分骨しておられますのですネ。

 境内の土塀には、
 三光寺境内土塀5メートル修復
 寄進者
 維時 平成3年11月吉日
 東京都目黒区自由が丘1-19-24 馬越通元
 と、表示が…
 馬越家墓所の塀にも、
 馬越家墓所の土塀修復
 維時 平成3年11月吉日
 東京都目黒区自由が丘1-19-24 馬越通元
 と、同様の表示が(^.-)☆
 馬越通元sanは、馬越恭平翁のご子息なのでしょうねぇ~

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6/22(火)は、「日本のビール王・馬越恭平」ゆかりの地を散策でした(6)

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 旧馬越橋は、この石仏が置かれています場所に架かっていましたのでしょうネ…
 石碑・旧馬越橋跡の裏面というか裏側には、こんな記載が…

 旧馬越橋は、馬越恭平翁 寄贈により昭和11年10月9日落成。以降、風雪に耐え地域発展に貢献した。
 平成元年新橋起工、仝4年3月竣工により撤去した。
 ここに、 これを建立する。
 --- 平成4年3月 岡山県 ---

 それでは次に、「馬越恭平翁」の墓所があります「三光寺(さんこうじ)」に向かってみます。

 ◆三光寺(さんこうじ)

 ・火災除け秋葉の火祭り(8月15日夜7:30~)
 ・「海雲方丈」によるカラオケ法話
 ・ビール王・紺綬褒章5回・郷土の大恩人「馬越恭平翁」の墓所
 ・短歌雑誌「水甕」創設入社・藍綬褒章「井上雪下先生」の墓所
 ・禅問答石(享禄元年作)

 ・所在地 -- 岡山県井原市木之子町5145
 ・TEL -- 0866-62-4017

 ◆三光寺 -- 馬越恭平の墓

 木之子町にある三光寺は曹洞宗のお寺ですが、このお寺には「東洋のビール王」と言われた馬越恭平の墓があります。
 恭平は弘化元年(1844)、当時の後月郡木之子村の医師馬越元泉の次男として生まれ、大阪鴻池家の丁稚として働きますが、三井の益田孝に認められ、三井物産の前身で井上馨が興した先収会社に勤め、後に三井物産の常務理事になります。
 そして傾きかけていた日本麦酒(ブランド名:恵比寿ビール)に招かれ、銀座に我が国初のビアホールをオープンするなど、卓越したアイデアで再建を果たすと共に、ビール市場の拡大に大きく貢献しました。日本麦酒は明治39年(1906)に札幌麦酒(ブランド名:札幌ビール)、大阪ビール(ブランド名:朝日ビール)と合併して大日本麦酒となり、そのシェアは79%に達したということです。恭平は大日本麦酒の社長を務め、後に帝国銀行頭取や衆議院議員の他に、井原笠岡軽便鉄道(現井笠鉄道)の初代社長にもなっています。
 大日本麦酒は終戦後に過度経済力集中排除法により、日本麦酒(現サッポロビール)と朝日麦酒(現アサヒビール)に分割されました。

 三光寺駐車場に到着しますと、まず眼に入りますのが「三光寺竜宮門」であります(^.-)☆

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6/22(火)は、「日本のビール王・馬越恭平」ゆかりの地を散策でした(5)

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 『馬越恭平資料館』を充分拝見させて頂きましたので、退室し、再度、生家敷地内の建物を拝見します事に…
 拝見します限りでは、整備される事も無く、極力、昔のままの状態に維持しておられますのでしょうねぇ~敷地内を拝見しておりますと、それなりの歴史を感じてしまいました(^.-)☆
 馬越恭平sanの生家とお別れしますと、次は、「旧馬越橋跡」へ。
 馬越橋跡には『旧馬越橋跡』と刻まれました石碑が…その後方に、現在使用しています「(新)馬越橋」が…石碑に隣接し、『馬越恭平翁 生誕の地(木之子地区振興協議会)』の看板も設置されてありました(^.-)☆

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6/22(火)は、「日本のビール王・馬越恭平」ゆかりの地を散策でした(4)

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6/22(火)は、「日本のビール王・馬越恭平」ゆかりの地を散策でした(3)

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6/22(火)は、「日本のビール王・馬越恭平」ゆかりの地を散策でした(2)

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 車を駐めようにも駐車場は特にありませんようですから、とりあえず駐車可能なスペースに駐め、馬越恭平sanの生家を拝見です(^.-)☆
 道路に面しました表側は画像に納めましたので、前・中・奥の三列の建物の内の、木之子公民館として使用されています真ん中(二列目)の建物に向かい、駐車・生家見物の許可を求めますと、事務所内のスケジュール掲示板に何やら記入しておられます男性が、「あぁ、イィですよ。奥の建物は『馬越恭平資料館』ですから、今からご案内しますよ(^-^)」との事で、ご親切にも、「馬越恭平翁顕彰会」の方が管理しておられます『馬越恭平資料館』に入らせて頂ける事に(^_^)v

 普段はあまり訪れる方もおられませんようで、施錠しておられ、来訪者がありますと、その都度、解錠されますようであります(^-^)
 馬越恭平sanは、この地に高校時代までおられ、以降は木之子より出ておられますから、この資料室には『馬越恭平翁写真資料室』の名の通り、凡て写真が展示です。
 これらの写真を拝見しておりますと、木之子を出られましてから以降の輝かしい軌跡が、充分理解出来ましたネ(^-^)/
 若くして岡山を離れた馬越さんですが、郷土への愛情は人一倍強かったそうで、多額の寄付が行われており、現在では架け替えられこそしたもの、金銭的な援助をしたと言われる『馬越橋(うまこしはし)』の名称が残されていますように、郷土愛は、お亡くなりになられるまで、ズッとお持ちでしたようですネ(^-^)//"

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6/22(火)は、「日本のビール王・馬越恭平」ゆかりの地を散策でした(1)

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 先月でしたか…内田康夫著「還らざる道」(浅見光彦シリーズ)にノンビリと眼を通しておりましたら、「日本のビール王・馬越恭平」のお名前が出て来ました。
 内田康夫sanの作品には、『この作品はフィクションであり、文中に登場する人物、団体名は、実在するものとまったく関係ありません…』と注釈がありますにも関わらず、結構、実在した人物も登場して来ますから笑ってしまいます。
 まぁ、登場人物のお名前を、毎回、色々考えますのも大変でしょうから、いくつかは実在の人物名を使用しますのも楽でしょうし、事実をアレンジし導入します方が面白い事もあるでしょうし(^-^)
 まぁ、そのような事はさて置きまして、『日本のビール王・馬越恭平』sanが、井原市木之子町のご出身であります事を全く知りませんでしたGONsan。生家も実在しますとの事ですから、6/22(火)は、「日本のビール王・馬越恭平」ゆかりの地を散策となりました(^.-)☆

 まずは、WEB上で「馬越恭平」sanの事前学習です(^.-)☆

 ◆馬越 恭平

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 馬越 恭平(まこし きょうへい、1844年11月21日(天保15年10月12日)-1933年(昭和8年)4月20日)は、日本の実業家。三井物産に勤務し、大日本麦酒(日本麦酒、朝日麦酒、札幌麦酒の合併会社)の社長を務めた人物。大日本麦酒の大合同合併を画策し、「日本のビール王」とよばれた。衆議院議員(1期)、貴族院勅選議員。茶人・馬越化生としても知られた。

 ・経歴

 備中国後月郡木之子村(現・岡山県井原市)の医家に生まれる。興譲館にて阪谷朗廬に学ぶ。
 1856年(安政3年)、大阪に出て頼山陽の弟子後藤松陰の門下を経て、1859年(安政6年)、その当時の豪商、鴻池家の丁稚となった。1873年(明治6年)、上京して井上馨の先収会社に入社。1876年(明治9年)先収社解散後、その事業を引き継いだ三井物産の創立と共に、三井家各部の常務理事、専務理事を兼務した。三井物産横浜支店長や帝国商業銀行頭取などを経て、総ての任を辞し、1896年(明治29年)日本工業倶楽部会長に就任。
 日本麦酒との関係は、これより先の1892年(明治25年)、経営困難に陥っていた同社へ、三井物産から派遣され委員(重役)に就任したことが発端である。その後、日本麦酒の経営が多忙となり、1896年(明治29年)1月11日、三井物産を退職し、ビール会社経営に集中する。骨董収集家でもあった馬越は、時の財界総理井上馨から自慢の壺を強要されるが、これを断わったため井上の逆鱗に触れ日本麦酒に飛ばされたとも言われている。1900年(明治33年)頃には銀座にビアホールを開店するなど、新しいアイデアで経営の再建を進めた。
 1898年(明治31年)、第5回総選挙に立候補して当選、岡山県選出の衆議院議員となる。1904年(明治37年)には勲四等に叙せられた。

 合併前の厳しい市場競争で日本麦酒の経営危機が改善せず、渋沢栄一及び当時の内閣に働きかけ「国内の過当競争排除と輸出の促進、資本の集中化を図るための」合併勧告を引き出した。1906年(明治39年)、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒の3社を合併し、大日本麦酒株式会社が設立されると社長に就任した。その後、大日本麦酒は市場占有率を79%までに高め、馬越恭平は「日本のビール王」と呼ばれた。
 また鉄道業にも多く関与し中国鉄道取締役、豊川鉄道取締役会長、井原笠岡軽便鉄道社長、金剛山電気鉄道社長をつとめた。
 1924年(大正13年)、貴族院勅選議員となり、研究会に所属した。1933年(昭和8年)、大日本麦酒が日本麦酒鉱泉と合併交渉を行っている期間に死亡した。

 ・出生地

 恭平の出生地である岡山県井原市では、「まこし」ではなく「うまこし」と呼ばれている。恭平は郷土を深く愛し、墓参りに度々帰郷し、帰郷すれば必ず郷土の教育や土木に多額の金品を贈って、郷土の繁栄を念じていた。井原市の小田川には、恭平が架橋にかかわり、馬越の名前が付けられた「馬越橋」(うまこしばし)がある。当時の橋は老朽化によって架け替えられ、現存はしていないが、橋名は現在もそのまま存続している。また、恭平の生家は現在も残されている。

 ・栄典 -- 1928年(昭和3年)11月10日 - 勲三等瑞宝章

 ・家族 親族 -- 次男・幸次郎(1873年生)は恭平と同じく実業界に進んだ。妻の秦(1889年生)は日本橋の老舗織物問屋「槌屋」の娘。幸次郎の長男・恭一は井上三郎の長女と結婚、幸次郎の四男・慎思は教育者。慎思の妻は鷹司信熙の長女・睦子。恭一・慎思兄弟は恭平の孫にあたる。

 ◆馬越恭平生家(うまこしきょうへいせいか)

 --- 井原市観光協会 ---

 後に大日本麦酒の社長に就任し、「日本のビール王」と呼ばれるなど、まさに日本実業界の重鎮となった馬越恭平は、代々医者の家系に生まれました。
 13歳で丁稚として大阪に出るまでを過ごした生家が、現在も木之子町に残っています。

 ◆馬越恭平 翁

 --- http://www.ibara.ne.jp/~nori/nori/menupage/f-nikki/turezurenikki/2020-/2020beer-king.htm ---

 先日、渋沢栄一翁が地元井原に縁が有るという話をしましたが、そのつながりからの地元の偉人です。
 現在の井原市木之子町に生まれました。代々医師の家系ですが、思わぬ才能を発揮しました。色々と伝記は伝わっておりますし書物も出版されておりますが、今回の紹介はサッポロビール様のホームページより。

 ・恵比寿ビールが危機的状況

 東京を代表するビールとして、関東市場で絶大な人気を誇っていた恵比寿ビールでしたが、札幌麦酒東京工場製の札幌ビールの出荷が開始された1903(明治36)年、製造量は前年に比べ30%ほども落ち込んでしまいます。
 日本麦酒は長年保ち続けてきた首位の座を大阪麦酒に明け渡したばかりか、札幌麦酒にも抜かれ第3位に転落してしまいました。

 ・難航する合同劇

 壊滅的な打撃を受けた日本麦酒の社長馬越恭平は1904(明治37)年、札幌麦酒の社長渋沢栄一と監査役の大倉喜八郎、大阪麦酒の社長鳥居駒吉と会い、日露戦争に当り、いたずらに国内競争をしているときではなく、団結すべきだと論じました。
 馬越の考えは渋沢や鳥居にも受入れられ、合同することで各社の希望が一致します。
 しかし3社合同の基本線は決まったものの、その細目を巡って交渉は難航。札幌麦酒は東京工場の稼働で20%以上も製造量が伸び、業績は極めて好調でした。
 大阪麦酒にしても大阪市場を中心に強固な基盤を築いていました。会社のトップ同士では承認されているとはいえ、3社の実力はほぼ均衡し、成長産業としての意気盛んな各社の利害は容易にまとまらなかったのでした。

 ・3社合同、大日本麦酒設立

 難航する合同劇の局面打開に重要な役割を果たしたのが、時の農商務大臣 清浦奎吾でした。第一次桂内閣で農商務大臣を務め、おりから勃興する諸産業、特に輸出産業について、国際競争力強化を目指し“分立から合同へ”の施策を進めた人物です。
 清浦は3社の代表者を招き自ら斡旋の労をとりました。
 清浦の熱心な働きかけにより、1906(明治39)年3月、市場シェア70%をも占める日本最大のビール会社、大日本麦酒株式会社が設立されました。社長には馬越恭平が就任。
 後に馬越は、大日本麦酒をスエズ運河以東最大のビール会社へと導き、“東洋のビール王”と呼ばれました。

 ここまでは、当たり障りのない照会文ですが、まだまだ色々と武勇伝をお持ちです。ぜひググってみてください。面白いエピソードを保証します。

 ◆馬越恭平とは

 --- https://www.okayamania.com/spot/chomei/makoshi.htm ---

 家に帰ったら、まずビールで一杯…という人も世の中にはおられるようですね。
 実は岡山県はビール王と呼ばれた実業家・馬越恭平を排出しています。
 馬越恭平は、1844年に岡山県、現在の井原市木之子町に生まれました。家は代々医師の家系だったそうです。12歳で大阪へ丁稚に出て、その後、三井物産の社員として手腕を発揮しました。
 ビール王と呼ばれるようになったきっかけは、三井物産が株を保有していた日本麦酒が経営危機に陥った際に、再建のために馬越さんが派遣された事がきっかけです。
 非常に商才に長けた方で、89歳で亡くなるまで現役で活躍し続け、ビール以外にも鉄道関係の仕事や、政治家としても活躍。
 生涯に役員として関わった会社は100を超えるそうです。
 ビール王と呼ばれるまで、当初は株を保有していた会社へ派遣される形でビールの会社へ携わっていましたが、後に日本麦酒の経営に専念するために三井物産を退職しています。
 ビアホールという和製英語を作るなど、様々な手法でビールの普及に努めました。
 また大型の合併を取りまとめることで【大日本麦酒】を設立、なんとビール業界において約7割のシェアを持つ会社になりました。
 このような事から、馬越強兵さんはビール王と呼ばれるに至ったのです。
 ※ 大日本麦酒社は過度のシェアを持ちすぎる事を理由に、戦後に2つに分割され、現在のアサヒとサッポロになりました。

 ・井原市と馬越恭平

 井原市には馬越恭平が生まれ育った生家が残されており、立派な門が代々医師だったという家柄を伺わせます。
 母屋があった場所は、現在は公民館になっていますが、馬越恭平さんについてを知ることができる資料館も併設されています。
 若くして岡山を離れた馬越さんですが、郷土への愛情は人一倍強かったそうで、多額の寄付が行われており、現在では架け替えられこそしたものの、金銭的な援助をしたと言われる『馬越橋(うまこしはし)』の名称が残されています。
 生家から近い所にある三光寺という寺院にお墓があり、夫婦で入られています。

 …と、こんな凄い人物のようであります(^_^)v
 それでは、早速、現在は、木之子公民館になっているようですが、馬越恭平sanが生まれ育った生家を訪れてみたいと思います(^-^)//"

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4/27(火)・吉備真備公園からの帰路には、神護寺に立ち寄りでした(^.-)☆(4)

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 美しい庭園に眼を向けておりましたら、1台の消防車が大きなサイレン音を響かせ、神護寺と小田川の間の一直線の農道を、西方院・伽藍山方向に急行です。
 10分近く鳴りっ放しでありましたサイレン音は、やはり火災発生でしたようです。
 ズッと鳴っておりましたサイレン音が止み、その数分後にこの消防車。
 火災発生から10数分後に1台の消防車が急行。西方院・伽藍山方向に眼を向けましても、何にも煙は上がっておりませんようでした。ですけど、最初の火災発生を知らせますサイレン音は、比較的、この近辺でありましたようにも聞こえて来たのですけどネ…
 消防車1台の急行ですから、大した火災でも無かったのかも分かりません。
 まぁそのような事はさて置きまして、この辺で神護寺からお別れです。以前から機会が有れば立ち寄ってみよう…との、こんな想いがヤッと実現しましたけど、由緒有りますイィお寺でありました(^-^)//"

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4/27(火)・吉備真備公園からの帰路には、神護寺に立ち寄りでした(^.-)☆(3)

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 墓地の一角と言うか入口には、歌碑が…

 除夜の鐘
   撞き終へて踏む鐘楼の
     めぐり冴えつつ
       あをき月光  -- 啓二 --

 …と刻まれておりますけど、「啓二」とは何者なのでしょうネ。WEB上で検索してみましたけど、何にも出ては来ませんでした(^-^;
 それにしましても、神護寺のお寺は勿論、庭園内も大変立派でありました(^-^)//"

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4/27(火)・吉備真備公園からの帰路には、神護寺に立ち寄りでした(^.-)☆(2)

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 石段を上がって行きますと、正面が「神護寺本堂」です。この本堂が笠岡市内最古の建造物のようであります(^_^)v
 本尊は十一面千手観世音菩薩だそうです。本堂近くに説明板がありましたので、眼を通してみますと、こんな記載が…

 ◆岡山県指定建造物 神護寺本堂

 神護寺はもし神宮寺と呼ばれ、甲怒(弩)神社の別当寺として創建されたと考えられるが、その時期は明らかでない。
 室町時代にはこの地方の領主小田氏の帰依を得ていて、現本堂が永禄11年(1568)10月に、小田高清を大檀那として建立されたことを証する銘文が棟木に墨書されている。また寺内に、天正3年(1575)8月18日死去した高清の位牌が祀られている。
 戒名は、孚臺院殿良玄秀郭居士。
 さらに本堂には棟札2枚があり、その1枚は天正15年(1587)10月に、高清の子元家らが本堂の屋根を瓦葺きにしたこと、他の1枚は文化3年(1806)4月に、甲弩村の村中を施主として屋根替えを行ったことを記録している。このほか、右の天正15年の瓦葺きのとき用いたと思える古瓦4枚が残されており、いずれも天正14年2月に宮内(吉備津神社門前町)の瓦大工五郎左衛門が焼いたと思える銘がある。
 この本堂は市内最古の建造物である。

 --- 平成13年3月23日 笠岡市教育委員会 ---

 池・境内を見下ろしますと、比較的新しい建物ですけど「持仏堂」が…持仏堂の左に客殿と庫裏がありました(^.-)☆
 暫く庭園を見下ろしていました頃でしたか…突然、大きなサイレン音が始まりました。どちらかの事業所の終業を知らせるサイレンなのかも…と、時間を確認しますと、P.M.4:18と中途半端。
 なら、火災発生なのかも…と、井原線・小田駅方向に眼を向けますが、煙は見えません。随分長く感じられましたけど、10分程度は鳴り続けておりました。

 本堂周辺には、鐘楼・宝篋印塔。宝篋印塔の右に宝塔、五輪塔、五輪塔婆、無縫塔がありました。本堂の左に地蔵菩薩石像。その右に鎮守社がありました。
 順番に巡っておりますと、神護寺の永い歴史が充分感じられましたネ(^-^)//"

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4/27(火)・「吉備真備公園」からの帰路には、笠岡市「神護寺」に立ち寄りでした(^.-)☆(1)

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 「吉備真備公園」からの帰路には、以前に訪れました「笠岡市・甲弩神社」近くに存在します「神護寺」に立ち寄りとなりました(^.-)☆
 WEB上で「神護寺」を検索してみますと、

 ◆長尾山神護寺(ながおさんじんごじ)

 ・市指定 史跡
 所在地:笠岡市甲弩/所有者:神護寺
 指定年月日:昭和35年12月26日

 甲弩にある来迎院神護寺は、真言宗大覚寺派に属し、もとは神宮寺と称していた。開基は行基菩薩と伝えており、本尊は阿弥陀如来である。近接する甲弩神社の別当寺として創建されたともいわれる。
 神宮寺は、古くは大坊・中坊・般若坊・正円坊・長福坊・上学坊の6坊を有した大寺であった。うち2坊は山口に移され、上学坊は山伏寺となったが廃滅し、長福坊は長福寺となっている。また、長尾山では大坊のみが残って今日の神護寺となった。室町時代には小田氏の庇護を受けて、本堂(県指定重要文化財)を再建している。

 ◆神護寺本堂

 神護寺本堂は、笠岡市内で最古の木造建築である。
 天井の上の棟木に、永禄11年(1568)付けの鮮明な墨書が残っている。
 それによると、当時このあたりを領有していた小田高清がこの年に本堂を再建したという。大工は藤原乗久とある。寺には高清の位牌も伝わっている。また、天正15年(1587)の棟札もあって、高清の息子元家の時代になって、はじめて本堂に瓦を葺いたことがうかがえる。

 ◆来迎院 神護寺

 来迎院(らいごういん)神護寺は、真言宗大覚寺派に属する寺です。創立・沿革については不詳ですが、もとは「神宮寺(じんぐうじ)」と呼ばれていました。神宮寺は、大坊・中坊・般若坊・正円坊・長福坊・上学坊(じょうがくぼう)の六つの坊をもつ大寺院でした。長尾山には大坊だけが残り、今日の神護寺となりました。
 現在、神護寺の境内は庭園として美しく整えられています。また、本堂は永禄11(1568)年に小田高清(おだたかきよ)によって再建された笠岡市内で最も古い木造建築物であり、岡山県重要文化財に指定されています。

 ◆この史跡について

 来迎院(らいごういん)神護寺(じんごじ)は、真言宗大覚寺(だいかくじ)派に属し、行基(ぎょうき)菩薩が開いたと伝えられています。もとは「神宮寺」と呼ばれていました。神宮寺は、大坊(だいぼう)・中坊(ちゅうぼう)・般若坊(はんにゃぼう)・正円坊(しょうえんぼう)・長福坊(ちょうふくぼう)・上学坊(じょうがくぼう)の六つの坊をもつ大きな寺院でした。長尾山には大坊だけが残り、今日の神護寺となりました。
 現在、神護寺の境内は庭園として美くしく整えられています。また、本堂は永禄11(1568)年に小田高清によって再建された笠岡市内で最も古い木造建築物、岡山県重要文化財に指定されています。

 …と、こんな「長尾山来迎院 神護寺」であります。境内に上がって行きますと、キレイな庭園が(^_^)v
 庭園の一角には菜園も…何か野菜を作っておられますようでした。
 庭園の築山には、凜々しい立ち姿のアオサギkunが(^-^)
 一枚撮りまして、池の近くに向かいましたら、警戒され、飛び去られてしまいました(^-^;
 きっと、甲弩神社の池に向かいましたのでしょうネ…甲弩神社を訪れました際にもアオサギkunを見掛けまして、カメラを向けましたが一枚も撮らないうちに逃げられてしまいました。多分、その時と同じアオサギkunでしたかも(^-^)//"

 ◆アオサギ

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 アオサギ(青鷺、蒼鷺、Ardea cinerea)は、鳥綱ペリカン目サギ科アオサギ属に分類される鳥類。

 ・分布
 ヨーロッパからアジア・アフリカ大陸にかけて分布する。寒冷地に分布する個体群は、冬季になると南へ移動する。日本では亜種アオサギが夏季に北海道で繁殖のため飛来し(夏鳥)、冬季に九州以南に越冬のため飛来し(冬鳥)、本州・四国では周年生息する(留鳥)。

 ・形態
 全長88-98センチメートル。翼長オス44-48.5センチメートル、メス42.8-46.3センチメートル。翼開長150-170センチメートル。体重オス1,071-2,073グラム、メス1,020-1,785グラム。メスよりもオスの方が、やや大型になる。頭部は白い。額から眼上部・後頭にかけて、黒い筋模様が入る。体上面は青灰色。種小名cinereaは「灰色の」の意。背に灰色の羽毛が伸長する(飾羽)。下面は白い羽毛で被われ、胸部の羽毛は伸長(飾羽)する。前頸から胸部にかけて、破線状の黒い縦縞が入る。側胸や腹部は黒い。雨覆の色彩は灰色で、初列雨覆や風切羽上面の色彩は黒い。人間でいう手首(翼角)の周辺には2つの白い斑紋が入る。
 虹彩は黄色。嘴は黄色。後肢は暗褐色。
 卵は長径5.7-6.1センチメートル、短径4.1-4.3センチメートル。若鳥は後頭に冠羽がなく、背が褐色みをおびる。繁殖期になると、嘴や後肢の色彩が赤みをおびる。メスはオスと比較すると、冠羽や飾羽があまり発達しない。

 ・生態
 河川や湖沼・湿原・干潟・水田などに生息する。昼行性だが、繁殖期には昼間だけでなく夜間にも採食を行うこともある。非繁殖期には単独で生活するが、本種のみで数羽が同じねぐらに集まったりコサギなどのねぐらに混ざることもある。翼を下げながら広げた姿勢で、日光浴を行うこともある。
 魚類、両生類、爬虫類、昆虫などを食べる。鳥類の雛、小型哺乳類を食べることもある。水辺で待ち伏せたり、水辺や浅瀬を徘徊しながら獲物を探す。小型の魚類は嘴で挟んで捕えるが、コイなどの大型の魚類は側面から嘴で突き刺して捕えることもある。
 繁殖様式は卵生。松林などに、集団繁殖地(コロニー)を形成する。主に本種のみのコロニーを形成するが、同科他種のコロニーに混ざることもある。主にオスが巣材を集め、メスが営巣する。ヨシなどの草本の茎や木の枝を組み合わせた、皿状の巣を樹上に作る。3-5個の卵を産む。同じ巣を修理し、何年にもわたり使用しつづける。雌雄で抱卵・育雛を行う。抱卵期間は23-28日。雛は孵化してから、50-55日で巣立つ。生後2年で成熟する。

 ・人間との関係
 養殖魚を食べるため、害鳥とみなされることがある。
 分布が非常に広く、2019年の時点では種としては絶滅のおそれは低いと考えられている。マダガスカルなどの分布が限られている地域では、農地開発や放牧などによる生息地の破壊、森林伐採による営巣木の減少、狩猟などによる影響が懸念されている。地域によっては漁業関係者や養殖業者による駆除によって、生息数が減少することもある。例としてイングランドとウェールズでは1970年代後半には年あたり4,600羽以上が駆除されたと推定され、1979年における繁殖個体数は5,400ペアまで激減した。日本では集団繁殖地は限定的で、日本海側に多い傾向がある。1978年に環境庁による調査では確認された繁殖地は18メッシュで、例として猿賀神社のように消滅した繁殖地もある。一方で関東地方では1990年代の時点では繁殖数が増加傾向にあり、例として神奈川県では1995年に初めて繁殖が確認された。

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4/27(火)・猿掛城跡を下山後は、「吉備真備公園」を散策でした(^.-)☆(6)

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 前方部の「お立台」から南方に眼を向けますと、スグ正面に「猿掛城跡」が(^.-)☆
 猿掛城跡の本丸跡からは、丁度、樹木に遮られまして「吉備真備公園」は臨めませんでしたけど、吉備真備公園からは猿掛城跡がよく見えますネ(^_^)v
 古代の丘を充分拝見しましたので、そろそろ退散です。吉備大臣宮に下りて行きますと、樹木に「保護さくら 矢掛町」の札が…『保護さくら』とは、何なんでしょうね…
 駐車場まで戻って来ますと、ここからも正面に猿掛城跡が(^.-)☆

 それでは、「吉備真備公園」とお別れです。
 今回は、「まきび公園」と勘違いして「吉備真備公園」を訪れましたので、今から「まきび公園」を16~17年振りに訪れてみたい…こんな想いもありまして時間を確認しますと、P.M.3:55です。もぅ4:00前なんですねぇ~
 時間を考えますと、やっぱり無理。「まきび公園」を訪れますのは、次の機会となるようです。
 帰路では、最後に笠岡市の「神護寺」に立ち寄ってみたいと思います(^-^)//"
 それにしましても、この時期には、何処に出掛けましても新緑が大変キレイですネ(^-^)/"

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4/27(火)・猿掛城跡を下山後は、「吉備真備公園」を散策でした(^.-)☆(5)

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 囲碁発祥の地記念碑の傍らには、「囲碁発祥の地記念碑について」の説明板がありましたので、古代の丘を拝見する前に眼を通してみたいと思います。

 ◆囲碁発祥の地記念碑について

 奈良時代の偉人正二位右大臣吉備真備公は、二度にわたって万里の波涛を越え遣唐使として唐の都長安に渡航し、国威の発揚に尽力され、天平七年(七三五)帰国に際しては当時世界最高といわれた唐の最新の文化を数多く持って帰り、日本の政治、文化、軍制の発達に大きな功績を挙げました。
 平安時代後期に書かれた江談抄には、吉備公が在唐中、唐の囲碁名人と対局し、知恵をもって勝った説話があり、これが日本の著作に現れる囲碁に関する最初の説話であるところから、吉備真備公が、日本における囲碁の開祖として伝えられ、その後の各種辞典、又著作に現れております。
 その故に吉備真備公は、日本における囲碁の開祖であり、その居館跡を囲碁発祥の地として、吉備真備公の遺徳を顕彰するために、ここに記念碑を建立したものであります。

 --- 平成二年十一月吉日 吉備保光会 ---

 …との、こんな記載でありました。
 古代の丘には、「古代の丘」説明書きにもありましたけど、飛鳥・天平時代を中心に古代の文化と知恵をモチーフとしたオブジェが配置され、散策しておりましても仲々楽しい広場であります(^.-)☆
 ヘビと亀のオブジェには、『玄武』の標題で、こんな説明書きが…

 ◆玄武

 北方を守る神獣。足や首の長い亀の甲羅に蛇が絡み合う姿をしている。甲羅上で蛇と亀が睨み合い円形に近いデザインとなる。玄とは黒を意味し、亀の甲羅などに黒色が使用されると共に、蛇の背は緑色に塗られる。奈良県のキトラ古墳や高松塚古墳では北壁中央のやや上寄りに描かれる。
 この玄武の石板は、矢掛町名誉町民書家 田中塊堂先生の門弟である奈良県の書家 山田勝香氏(千草会会長)より、師が尊敬してやまなかった奈良時代の高官 吉備真備公の遺徳を偲んで造られたこの公園に設置された。

 --- 平成22年7月吉日 ---

 WEB上で『玄武』を検索しますと、こんな記載もありました。

 ◆玄武:亀と蛇が合体した四象で、水と人の生死を司る神秘的な霊獣

 --- http://prometheusblog.net/2018/02/14/post-614/ ---

 ・玄武とは(げんぶ xuan2wu3 シュエンウゥ)

 玄武とは四神の内、北方を守護する黒い霊亀です。四神の中でもとりわけ信仰されているのがこの玄武であり、真武大帝として生命を司るその神性より四神最強はこの玄武なのではないかと思います。
 玄武はもともとの名前は玄冥と言い冥界へ行き神託を受けて帰ってくる霊亀の事を指していました。その神託は火にくべた亀の甲羅の割れ具合で判断されました。つまり玄武はもともとは亀甲占いから作り出された存在だったのです。
 玄冥はその後陰陽五行説に取り入れられて北方を守護する玄武となりました。

 玄武は亀と蛇をあわせた形をしており、象徴する色は黒で、季節は冬で方角は北を司ります。五行では水を象徴し、不老長寿、子孫繁栄など様々なご利益をもたらすという水神です。
 日本では漫画やゲームの影響で守備力が高いだけとも思われがちですが、本場中国ではどのような扱いなのでしょうか。今回も徹底的に調べてみましたのでご紹介いたします(´∀`)

 ・玄武とは

 玄武は亀とヘビが組み合わさった霊獣の一種です。玄武の本来の漢字は玄冥です。
 玄は黒色の意味で、冥は陰の意味です。そもそも玄冥の名は亀甲占いに由来しています。亀甲占いとは亀を冥府へ送り祖先に会い、返答を受け取り戻ってきてその結果を甲羅の亀裂を通して占っていますので冥という漢字が使われました。
 一方の玄という漢字は亀の甲羅は黒いことに由来しています。今では玄武は蛇と亀とが合わさっていますが、最も初期の玄武は玄冥と言い亀だったのです。
 そして時代とともに少しずつ変化していき、古の武と冥の漢字が同じ発音であったことから、やがて名前も玄武となり道教などの影響を受け次第に様々な性格を帯びていきました。

 …と、こんな記載が(^.-)☆
 前方後円墳を形どった前方部のお立台は、易の八卦に通ずる八角とし、舞台にもなりますとの事。
 後円部は径30mの円形を玉石で縁どり、ここにつぎの三種のオブジェを古代祭祀遺跡の環状列石のように建てました…と、説明板には記載されてありましたネ(^-^)//"

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4/27(火)・猿掛城跡を下山後は、「吉備真備公園」を散策でした(^.-)☆(4)

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 吉備真備公銅像に上がりますと、此処には、像の右側に「吉備大臣入唐絵詞」「絵巻石屏風」が…
 絵巻石屏風下に刻まれた説明文には、こんな記載がありました(^.-)☆

 《絵巻石屏風下に刻まれた説明文》

 ◆絵巻石屏風

 ・吉備大臣入唐絵詞
 奈良時代正二位右大臣に昇り軍制を改め、新暦を定め、農産を奨め、民訴を聴き、律令を定め、内乱を除き、人倫を諭し、片仮名を創始する等、善政を布いた吉備真備は朱鳥九(六九五)年下道圀勝の長男として此処に誕生した。そして留学生又遣唐副使として再度唐に行き先進の文物を日本に請来し、国政に大きな功績を遺し吉備朝臣の姓を勅許され、後には正二位勲二等右大臣中衛大将兼備中国下道郡大領に累進し、宝亀六(七七五)年八十一歳で薨去(こうきょ)した。この吉備真備が遣唐副使として渡唐した時現わした才智に感じ玄宗皇帝が帰国させなかった逸話を絵巻物にしたものがこの吉備大臣入唐絵詞である。

 ・吉備大臣唐に着く
 吉備大臣の乗った遣唐船が唐へ入港しついで群臣に守られながら迎えの馬で唐の都長安へ向かった。

 ・大臣知識を試される
 唐人は吉備大臣の才智を恐れて高い御殿に閉じこめたが大臣は平気でいた。そこで唐人は、日本にまだ無い本で試すことを計画した。従者の知らせでこの事を知った大臣は博士の講義を従者に暗記させ文選の文章と判ったので、古い暦の裏へその文章を書き散らした。それから三日たって来た勅使は文選が書いてあるのに驚いた上に日本では誰でも知っていると言われ慌てて皇帝に知らせた。皇帝は大変口惜しがった。

 ・囲碁のためし
 唐人達は大臣を囲碁で試す事にし名人と対戦させた。しかし持碁になりそうなので大臣は相手の黒石を一個飲みこんだ。後に石を数えた処名人は一目の負になった。占いで調べたら大臣の腹中にあると判ったので吐出薬を飲ませたが大臣は秘術を使って薬だけ吐いて碁石は吐出さなかったのでとうとう大臣の勝となった。

 ・野馬台の詩
 絵にないが蜘蛛の糸に導かれて野馬台の詩の謎を解いて唐人を感心させた。

 ・日月をかくす事
 又幽閉されたので大臣は呪文で双六の筒の中に日と月をかくした為に天地が暗闇になったが慌てた玄宗皇帝が帰国を許したので大臣は日月を元へ戻し再び空が明るくなった。吉備真備はこのように知識が広く深い人だった。

 それでは、次に「古代の丘」へと向かってみます事に。
 「古代の丘」への入口辺りには、「古代の丘」と「囲碁発祥之地」の石碑というか記念碑が(^.-)☆
 「古代の丘」の記念碑には、こんな記載がありました(^-^)//"

 ◆古代の丘

 古代の丘は飛鳥・天平時代を中心に古代の文化と知恵をモチーフとしたオブジェを配置し歴史を通じて生き続ける賢者の知恵や宇宙観にふれられる場を創作しました。金形は前方後円墳を形どり前方部のお立台は易の八卦に通ずる八角とし舞台にもなります。後円部は径三〇メートルの円形を玉石で縁どりここにつぎの三種のオブジェを古代祭祀遺跡の環状列石のように建てました。
 一、方位石 四神と星座で表現しました。
 二、風物石 唐の風俗、文化を表現しました。
 三、歴史石 吉備公の生涯と功績をオブジェで表現しました。

 --- (現地解説板より) ---

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4/27(火)・猿掛城跡を下山後は、「吉備真備公園」を散策でした(^.-)☆(3)

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 藤棚と「館址亭」の間には、実に立派な樹木が…この樹木には「垂れ槐(シダレエンジュ)」の説明書きが。「垂れ槐」の後方の建物が「館址亭」です。
 槐は「えんじゅ」と読み、中国産のマメ科の木のようであります。

 ◆エンジュ(槐)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 エンジュ(槐、Styphnolobium japonicum)はマメ亜科エンジュ属の落葉高木。中国原産。

 ・特徴

 中国原産で、古くから台湾、日本、韓国などで植栽されている。和名は古名えにすの転化したもの。別名でニガキとよばれることもある。中国植物名は槐、または槐樹(かいじゅ)である。街路樹によく使われ、公園や学校などの庭木としても植えられる。
 マメ科の落葉高木で、樹高は5-15メートル(m)になる。成木の樹皮は暗灰白色で、細かく縦にはっきりと裂ける。若木の樹皮は濃緑色で、皮目がある。一年枝は暗緑色で、無毛または短毛がある。
 葉は奇数羽状複葉で互生し、小葉は5-10対あり、長さ3-5センチメートル(cm)の卵形で先端は尖り、全縁で、表面は緑色、裏面は緑白色で短毛がありフェルトのようになっている。小葉は、対につくか、交互につくかは変異があるため、固体によりばらつきがある。よく似る植物にイヌエンジュがあるが、イヌエンジュよりも葉は細身で、小葉の枚数は多い。
 花期は7-8月で、枝先の円錐花序に細かい白色の蝶形花を多数開き、蜂などの重要な蜜源植物となっている。花の咲き方は、ややまばらに咲く。
 果期は10-11月。豆果の莢は長さ5-8cmで、種子と種子の間が著しく、数珠のように大きくくびれる。枝には豆果が残り、裂開せずに冬でもねばつく。
 冬芽は葉柄内芽で、膨らんだ葉跡基部に隠れるように一部だけが露出しており、濃褐色の毛に覆われている。仮頂芽はあまり発達せず、測芽は互生する。
 また、シダレエンジュ(Styphnolobium japonicum var. pendulum、シノニムSophora japonica var. pendula)という枝垂れる変種があり、公園などに植栽される。

 ◆館址亭
 中国家屋を再現した館址亭では手打ちうどんを販売し、観光客らの人気を集めている。

 WEB上で、「槐」「館址亭」を検索してみましたら、こんな記載がありました。

 ところでGONsanは、もう随分昔の16~17年前に、この「吉備真備公園」に立ち寄りました記憶があるのですけど、こぅして公園内を散策しておりますと、当時訪れました時とは随分公園内の景観も様変わり。
 当時は、総社市で開催の『吉備路マラソン』に参加しましての帰路に、観光と休憩を兼ねまして立ち寄りましたように思います。当時は、公園内にキレイな池があったように思うのですけど…
 で、「館址亭」で、うどんでも食べながら尋ねてみよう…と入ろうとしましたら、既に閉店でありました(^-^;
 『11:00~14:00(麺終了次第)』の張り紙が…時間を確認しますと、P.M.3:00過ぎでありました。
 仕方なく自販機で缶コーヒーを啜りながら一服しておりますと、店の方なのでしょうか…何処からか戻られました女性が店内に入ろうとしておられます。で、急いで近付き「この吉備真備公園は、昔と随分変わりましたネ。昔は池があったように思うのですけど…」と、声を掛けますと、「あぁ、皆さん、よく間違えられますのですよ。それは此処ではなくて、もぅ少し5kmばかり総社市方向に行きましたら有りますけど、それは『まきび公園』ですよ(^-^)」と笑いながら(^.-)☆
 う~ん、ヤッと納得のGONsanです。
 吉備真備公園内を散策しながら、「一度訪れた事があるけど、16~17年も経ると記憶も薄らいでしまう。そんなに昔でも無いのに、ほとんど記憶に無い…」と、内心、困惑しておりましたので、苦笑と同時に安堵感も(^-^)

 それでは、「吉備真備公」像に向かってみます。
 像の一段下には「日時計」と「石碁盤」が。吉備公が中国から伝えたとされる囲碁にちなんだ石造りの大碁盤ですネ。日時計も吉備公が中国から伝えたのかも…この画像を撮りますのと同時に時刻を確認しますと、P.M.03:15。当然の事なのでしょうけど、合っておりました(^-^)//"

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4/27(火)・猿掛城跡を下山後は、「吉備真備公園」を散策でした(^.-)☆(2)

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 「吉備大臣宮」への参詣後は、早速、「吉備真備公園」内を散策です。
 入館出来ませんでしたけど、この建物には「吉備大臣舘」の標示が…入口付近には、舞台のような箇所もありましたけど、近辺から出土した瓦や土器、吉備公ゆかりの物を展示したりするそうですが、入館は不能で閉まっておりました(^-^;
 「吉備大臣舘」の裏方向に進みますと、「吉備大臣産湯の井戸」の案内表示板が…これには、こんな記載がありました。

 ◆吉備大臣産湯の井戸

 吉備大臣ご生誕の前夜、東の空から明るい光の尾をひいて一つの星が流れ御館の西の井戸に落ちました。
 そして次の夜輝くばかりの玉のような男子が誕生し御館は歓びにわき、この井戸を「星の井」と呼び、この水で産湯を使われましたので、それからこの井戸が「吉備大臣産湯の井戸」と言い伝えられています。

 …との事であります(^.-)☆
 そんなに垂れ下がってはおりませんけど、藤棚がそれなりにキレイでありました(^-^)//"

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4/27(火)・猿掛城跡を下山後は、「吉備真備公園」を散策でした(^.-)☆(1)

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 猿掛城跡から下山後は、せっかく近くに来たのだから…と、小田川を挟んで対面に存在します「吉備真備公園」を散策となりました(^.-)☆
 吉備真備(きびのまきび)公園(矢掛町東三成)は、奈良時代の政治家・学者吉備真備(六九五-七七五)を顕彰する目的で、吉備公ゆかりの下道氏(しもつみちしの)館址(かんし)と伝えられる地に整備。中央は吉備真備公像、右の建物は館址亭(吉備真備公園入口からの眺め)であります(^-^)

 吉備真備公園に到着しますと、まず眼に入りますのが駐車場前に設置されています忠魂碑。
 そして、「吉備公館址」の石柱と「吉備公ゆかりの地」の説明板が設置されてありました。説明板には、こんな記載が…
 
 ◆吉備公ゆかりの地

 --- 矢掛町重要文化財(史跡)---

 所 在 地:矢掛町東三成
 指定年月日:昭和48年4月11日指定
 管 理 者:吉備保存会

 この吉備公ゆかりの地には屋敷跡とみられる土塁に囲まれた「だんのうち」と呼ばれる平地があり、このあたりから奈良時代の瓦片が出土している。(平瓦--平城宮六六六三型式、軒瓦--平城宮六六二五型式など)そのためか、この辺りの字は瓦谷という。
 地元では、吉備公館址と称され、下道氏の館址と伝えられているが、ここに下道氏墓所を祀る寺院があったとする瓦谷廃寺跡説もある。現在、吉備大臣宮として祭祀されている。また、この宮の西に阿藤大簡(現浅口市鴨方町出身)の「吉備公館址詩」を刻む石碑がある。
 毎年五月には吉備保光会による吉備公祭が行われている。

 --- 矢掛町教育委員会 ---

 倉敷市真備町(旧吉備郡真備町)の地名は、郷土の偉人吉備真備(きびのまきび)が生まれたところとしてつけられたようであります。
 「吉備大臣宮」の参道入口付近には、「吉備真備公園」についての説明板と、「選定証」の説明板も…

 ◆吉備真備公園

 旧山陽道の北側の平地三万平方メートルは、古代の布目瓦を出土すること等により古来から「壇の内」と呼ばれ、正二位右大臣吉備真備公の居館跡と伝承され、遺跡に指定されています。
 遣唐留学生の吉備公が天平七年(七三五)当時世界最高といわれた貴重な文物をもって帰国して以来一、二五〇年になるのを記念して、県民有志により中国西安市へ日中友交のしるしの記念碑を建立しました。これを承けて吉備公の地元矢掛町ではこの館址に記念公園を建設いたしました。
 公園は八〇メートルの石敷参道の正面に、上下二段になった基壇を造り、古代中国で皇帝が五穀豊穣を祈った天壇の形式とし、上壇中央に総高六・四五メートルの吉備公の銅像を安置し、周囲に絵巻石屏風、大碁盤、日時計を配置し、広場に館址亭、産湯の井戸を整備しました。また背後の林地を古代の丘として前方後円墳を形どった広場に環状列石風にオブジェを建て、四方を守る方位石、古代風俗を示す風物石、吉備公の功績を示す歴史石を配置、周囲は森林浴を満喫できる憩いの場とし、県下唯一の古代オブジェ公園を造成いたしました。どうぞ林間を散策しながら古代の文化に親しんでください。

 -- (文と平面図は現地解説板より) --

 ◆選定証

 --- 吉備真備公園 ---

 本公園は、わが国を代表する歴史公園として都市公園法施行五十周年等記念事業実行委員会が全国から公募した「日本の歴史公園百選」の一つに剪定されました。

 平成19年2月16日
 都市公園法施行50周年等記念事業実行委員会 委員長 田邊 昇学

 「吉備真備」をWEB上で検索して見ますと、こんな記載もありました(^.-)☆

 ◆吉備真備という人

 吉備真備は、奈良時代、真備町あたりで勢力のあった氏族下道国勝(しもつみちくにかつ)の子として生まれました。早くから「一を聞いて十を知る」という大変な神童だったそうで、22歳のとき遣唐留学生として中国に渡り儒学をはじめ天文学や兵学を修め、学者として知識人として重用されるようになります。
 57歳のとき再び遣唐副使として中国入りして多くの文物を学び、帰朝後は武勲をあげるなどして政治的にも活躍し、ついに右大臣にまでのぼりつめます。
 つまり、吉備真備は、当時の一級の学者・知識人であり政治家でもあった人で、地元の人たちは奈良時代の大昔、小さな寒村から中央政界の大臣にまで上った吉備真備を大変誇らしく思い、『真備公』と親しみを込めて呼んでいます。

 それではまず、「吉備大臣宮」にお詣りしてみます事に(^-^)//"

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4/27(火)・極楽寺参詣後には「史跡 猿掛城跡」を散策でした(^.-)☆(10)

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 本丸の南端には土塁が築かれています。この南側は大堀切。
 土塁から南斜面には、ロープが張られた急な斜面があります。ロープに掴まりながら20mほど降りると堀切があり、更に反対側に登った先は出城へ繫がっていますようです。
 このロープに掴まり行ってみようかな…とも思いましたけど、滑ったら下まで落ちてしまいそうでチト躊躇。結局、断念となりました。
 本丸の南背後を土塁と大堀切、側面には畝状竪堀群と大きな竪堀が設けられていますようであります。
 猿掛城跡本丸跡より北東方面を展望しますと、左に妹山(せやま)や右に真備(まび)町妹(せ)集落が見えます。

 暫く本丸跡に留まり、遠い昔に想いを馳せておりましけど、ソロソロ退散で、下山です。
 「六の丸跡」まで下りて来ますと、そろそろロープが張られました難所ですから、留意して進まなければ…と思った途端に、斜面の積み重なった落ち葉に足を滑らせ、見事に転倒(^-^;
 思い切り尻餅をつき、尾てい骨を強打。手術後、まだ2ヶ月を経ましたばかりで、充分留意しなければならない箇所を強打ですから、もぅ真っ青のGONsan。暫く転倒したままで様子見となりまして、それから少しずつ起き上がろうとしますと、んっ!?、別段、違和感も痛みも不具合な状況も無く、無事、立ち上がれましたネ(^_^)v
 ですが、前進、歩行が恐ろしくて、まずは屈伸運動です。うん、うん、何とか正常で、ヤレヤレでしたねぇ~
 本丸跡の土塁のロープに掴まり、出城方向に向かってみたいと思いましたけど、断念して正解でした。もし、あの斜面で滑って落下でもしておりましたら、無事ではおれませんでしたかも\(^o^)/
 こんな下山となりましたから、もぅ写真なんぞ撮ってる余裕はありません。
 ひたすら、慎重に、下山有るのみ。
 無事に、ロープの張られた場所を下りましてホッとしていますと、下山道の左側方向の樹木の生い茂りました中で、「ガサガサ!!」「バキバキ!!」の激しい音が(^-^;
 イノシシですねぇ~こんな所でイノシシに遭遇しますと、もぅ、最悪。
 暫く息を殺して、立ち止まりますこと5分ばかり。10分ばかりは音を立てず動かずにいよう…とジッとしておりましたけど、この時間の長いこと(^-^;
 時計を確認しますと、ヤッと5分経過でした。
 イノシシと思われます音は、以降はありませんでしたから、また下山続行。
 ヤッと猿掛城跡への入口まで辿り着きまして、急いで入口のフェンスを開け、フェンスの外に出まして、また閉鎖。
 この時点では、尾てい骨強打の事はスッカリ忘れ去っておりまして、ただただ、無事下山の喜びのみでありました\(^o^)/

 車を駐めていました場所まで戻って来ますと、せっかく近くまで来たのだから…と、今度は、小田川の対面方向に存在します『吉備真備公園』に立ち寄ってみます事に(^-^)//"

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4/27(火)・極楽寺参詣後には「史跡 猿掛城跡」を散策でした(^.-)☆(9)

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 「二の丸跡」を過ぎますともヤッと「本丸跡」に到着です。
 本丸は約300坪の広さで、南端は深い堀切により弥高山系と完全に分離され、その掘りあげた土により本南端は土塁を築いて三日月形に囲まれています。ご覧の画像の通り、南端には土塁が築かれています。この南側は大堀切。
 「史跡 猿掛城」の案内表示板と共に、こんな説明板がありました(^.-)☆

 ◆備中猿掛城址

 猿掛城は真備町妹(せ)と矢掛町横谷にまたがる中世以来の山城である。猿掛城築城のはじまりは東国の武将・庄太郎家長がこの地に地頭として赴任した際に当初、幸山城(こうざんじょう)(山手村所在)へ入ったが、防禦(ぼうぎょ)に不便として、元久2年(1205年)ごろ猿掛山へ新城を築いて移ったことによる。
 猿掛城は庄氏が366年間にわたり備中支配の拠点として利用した後、天正3年(1575年)に毛利元清が五千貫の領主として入城した。また、この城は天正10年(1582年)の高松城水攻めの際に毛利輝元の本陣となったことでも有名である。
 関ヶ原の戦いで西軍が敗れたことにより、元清のあとを継承した毛利秀元が長府へ帰った後、慶長9年(1604年)、猿掛城に花房志摩守正成が五千石で入城したが、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となり、元久以来の名城も410年間で終局を迎えたといわれている。

 --- 矢掛町教育委員会・猿掛城へ登る会実行委員会 ---

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4/27(火)・極楽寺参詣後には「史跡 猿掛城跡」を散策でした(^.-)☆(8)

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 本丸も近付いて来まして、「二の丸跡」に到着です(^.-)☆
 戦国時代以降は一郭(本丸)を主とし、二郭(二の丸)以降を従とする構成が一般的となりました。本丸前の最後の砦ですが、意外と狭い所でした(^-^)//"

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4/27(火)・極楽寺参詣後には「史跡 猿掛城跡」を散策でした(^.-)☆(7)

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 「四の丸」を過ぎますと、次は最も面積の広い曲輪「三の丸」にとヤッて来ました。
 周辺を見廻しますと、草に覆われていて分かりにくいですが、窪んだあたりが大手門跡なのかも分かりません。三の丸の南東側に大手門跡があったのでしょうけど、石垣などは分かりませんでしたネ。三の丸からは、小田川流域を一望することができます。
 広い三の丸の西側に一段低い場所があり、ここに倉庫群があったようで発掘の際に生活用品等が出土したそうです。
 また、三の丸には「井戸」も有りましたようです。何年か前に「三の丸跡」を訪れました方の画像には、標識も設置された「井戸跡」を撮っておられますけど、草に覆われGONsanには不明でありました(^-^;
 「三の丸」にも、中央部には南北に長く2列に並んだ石列が残っておりますけど、何故、このような石列が存在しますのかは不明のようであります(^-^)/"

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4/27(火)・極楽寺参詣後には「史跡 猿掛城跡」を散策でした(^.-)☆(6)

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 五の丸を後にしますと、次は「四の丸」。

 ◆四の丸

 --- https://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2013/01/blog-post_20.html ---

 手前が四の丸郭部だが、その奥は三の丸の切崖である。比高5m前後とかなりの高さを保つ。四の丸の規模は、12m×20mとややこぶりなもの。
 三の丸やこの四の丸・五の丸のほぼ中央部には南北に長くこのような2列に並んだ石列が残る。
 『日本城郭体系』では、何らかの建造物を物語るもの、としている。実際、本丸では礎石配列と思わせる遺構が確認できたが、三の丸から下方の石列は、その配置から考えて建造物のものではないような気がする。
 いずれ紹介する予定にしている播磨の「置塩城」などにもこうした石列状のものが散見されるが、これはほぼ生活及び雨水排水のための側溝跡で、猿掛城のに配置された石列はこれとは異質な用途と思われる。不可解である。

 …と、WEB上には、こんな「四の丸」に関します記載がありました(^.-)☆

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4/27(火)・極楽寺参詣後には「史跡 猿掛城跡」を散策でした(^.-)☆(5)

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 難所と言えるかどぅか分かりませんけど、猿掛城本丸までの唯一の難所を抜けますと、ほどなく「六の丸跡」へ到着です。
 周辺を見廻しながら何枚かパチリ。そしてまた前進。そうしますと、次にヤッて来ましたのが「五の丸跡」でありました。
 いずれも、周辺は草木が生い茂っておりまして、歩き廻りますとヘビでも出て来そうで、チト躊躇。控えめに周辺を見廻しますGONsanなのでありました(^-^)//"

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4/27(火)・極楽寺参詣後には「史跡 猿掛城跡」を散策でした(^.-)☆(4)

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 「大夫丸跡」には、案内板がありまして、これにはこんな記載がありました。

 ◆大夫丸の由来

 天文2年(1533年)、猿掛城主の庄為資は松山城へうつり、備中半国の領主として、勢威隆盛を極めた。その際、為資は一族の庄実近猿掛城の城代として置き、これを守らせた。天文22年(1553年)、毛利元春の援助を受けた三村元親軍と庄為資軍が猿掛城のふもと、現在の横谷・東三成で激突し、大合戦となった(猿掛合戦)。しかし毛利元春の調停により、庄と三村は講話し、翌天文23年(1554年)三村家近の長男の三村元祐が庄為資が庄為資の養子となった。三村元祐が猿掛城主として入城したので、城代の庄実近は城の北側の郭へ退隠し、この郭を大夫丸と公称したといわれている。

 --- 矢掛町教育委員会・猿掛城へ登る会実行委員会 ---

 …と、こんな記載が(^.-)☆
 暫し「大夫丸跡」を拝見し、また猿掛城本丸へと進みますと、ロープを縦横に巡らせた急斜面の場所に。ここは結構な難所なのでしょうねぇ~ロープに手を掛けながら進みます。ロープが張られた場所を登りきりました地点で、帰路には足を滑らせ、大きく尻から転倒しましたGONsanです。帰路に、「もぅすぐロープの張られた場所だから足元に気を付けながら歩かないと…」と思った途端に、積み重なった落ち葉に足を滑らせドタッ!!と転倒。2月に福山医療センターで腰部脊柱管狭窄症で手術した箇所を強打となりました。
 で、何とも無ければ良いが…と、恐る恐るロープの場所を下りて行きましたが、幸いにも現在に至りましても何ら転倒強打の影響は出ておりませんで、ヤレヤレなんですけど(^_^)v
 とにかく落ち葉が積み重なっておりますから、歩き易い整備された遊歩道に見えましても、結構、神経は使いましたネ(^-^)//"

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4/27(火)・極楽寺参詣後には「史跡 猿掛城跡」を散策でした(^.-)☆(3)

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 暫く登って行きまして、登り初めて1/3ぐらいの所に「寺丸跡」の標識が…
 延徳4年(1492)、細川勝久が猿掛城を攻めた時、庄氏を支援した香西氏が奮闘したすえに切腹しました。庄元資はその慰霊の為に、この寺丸に位牌塔を建て冥福を祈りました。
 のち、山麓の見性寺にその位牌を移して祀っています。
 「寺丸跡」に向かってみますと、こんな案内板が設置されておりました(^.-)☆

 ◆寺丸の由来

 延徳4年(1492年)、守護細川勝久が猿掛城を急襲した際、城主庄元資はかろうじて退避したが、永く庄氏を支援していた香西五郎右衛門一統は孤軍奮闘したすえ、城中にて切腹して果ててしまった。庄元資は香西五郎右衛門一統の功績を称え、その慰霊のためにこの寺丸を築き、位牌堂を建てて冥福を祈った。寺丸には今でも柱礎石、石垣基礎が残っている。
 のち、庄氏は永正5年(1508年)に山麓の椿原に洞松寺の末寺・見性寺を建立し、寺丸の位牌を移してまつり、永く供養を怠らなかったという。

 --- 矢掛町教育委員会・猿掛城へ登る会実行委員会 ---

 寺丸跡で、暫し当時に想いを馳せまして、再び登り続行です。
 暫く登って行きますと、次の曲輪が…ここにも案内板が設置されておりまして、遠くから見ますと「大夫丸の由来」と読めるような…

 本丸まで、まだ半分程度の場所に「大夫丸(たゆうまる)」。三村元親と庄為資が麓で激突した時、毛利元春の調停で講和しました。その後、三村家親の長男・元祐が庄為資の養子となり、のち猿掛城主になっています。
 その時、元々の城主・庄実近は隠居してこの「大夫丸」に移ったそうです。後で、「大夫丸の由来」にジックリ眼を通してみたいと思います(^-^)//"

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4/27(火)・極楽寺参詣後には「史跡 猿掛城跡」を散策でした(^.-)☆(2)

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 イノシシ除けのフェンスから入り真っすぐ登っていくと「←猿掛城本丸方面」の案内表示板有り。
 この分岐を標示に従い左折し進みますと、仏像が祀られています。
 この仏像に手を合わせ真っ直ぐ進んで行きますと、また「猿掛城本丸方面」の案内表示が…いよいよ、ここから本丸方面への山登りが開始です(^-^)//"

 ◆猿掛城

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 ・概要

 現在の倉敷市から矢掛町にまたがる標高243メートルの猿掛山に存在した連郭式の山城である。
 その歴史は平安時代末期に遡るといわれ、武蔵七党の一角を占める児玉党の旗頭であった庄家長が備中国に領地を与えられ、ここに城と居館を築いたことに始まると伝えられている。以後、戦国時代に至るまで庄氏の居城となった。
 南北朝時代初期には南朝の北畠親房に属し、足利尊氏配下の高師直と戦火を交えた。
 戦国時代中期の天文2年(1533年)当時の城主であった庄為資は、松山城の上野頼氏を攻め滅ぼし備中半国を配下に収め、為資は松山城に移った。猿掛城には一族の穂田(穂井田)実近が入った。天文22年(1553年)尼子氏と結んでいた庄氏に対し、鶴首城主で備中に覇を争っていた三村家親は毛利氏と結び猿掛城を攻略した。為資と家親は家親の長男の元祐を穂田実近の養子とし猿掛城主に据えることで和睦した。永禄11年(1568年)為資の子・庄高資は備中に侵攻した宇喜多直家に呼応したため、宇喜多氏が一時猿掛城を落とした。これに危惧を感じた毛利元就は四男の元清を遣わし猿掛城を奪取する。この年、毛利氏の援軍により家親の子の元親が高資を追い落として松山城主となり備中に覇を唱えた。

 天正2年(1574年)元親が織田信長と結んだため、毛利氏と三村氏が争う備中兵乱が起こり猿掛城は三村氏攻略の前線基地となった。天正3年(1575年)5月に松山城が陥落し備中兵乱は終結、元親は自刃した。この時の戦功と元清の愁訴によって、元清は猿掛城を預かる城番となり、猿掛城の所在する備中国小田郡を中心に5千貫の知行地を与えられた。元清はそれまでの居城であった安芸桜尾城を妻の御北尾と九弟の才菊丸(後の小早川秀包)に任せて猿掛城に移り、毛利氏の東部方面への侵攻を抑える重鎮となった。また、この際に元清は在城した猿掛城のあった穂田郷という在名から穂田(穂井田)を名字とした。

 天正10年(1582年)には羽柴秀吉による高松城水攻めの際、毛利輝元の本陣となった。天正11年(1583年)元清は猿掛城の西部にある茶臼山に中山城を築いて移った。猿掛城には重臣の宍戸隆家を城代として置いた。天正17年(1589年)、広島城の建設が始まると元清は普請奉行として広島に常住するようになった。
 慶長5年(1600年)毛利輝元が関ヶ原の戦いにおいて西軍総大将として敗将となったため、防長2国に大幅に減封された。城の周辺は幕府領となり、猿掛城は廃城となった。
 城跡は、矢掛町側が1996年(平成8年)4月1日に町の史跡に指定され、倉敷市側が10年後の2006年(平成18年)7月28日に市の史跡に指定された。

 ◆備中 猿掛城

 ・歴史

 築城年代は定かではないが南北朝時代初期に庄資政によって築かれたといわれる。庄氏は武蔵国児玉党の出自で源平合戦の功により地頭職を得て下向し、幸山城を拠点としたが、資政の時に猿掛城を築き拠点を移した。
 室町時代には守護代となるなど勢力を拡げ、天文2年(1533年)庄為資は上野伊豆守を攻め滅ぼして松山城主となり、猿掛城には一族の庄実近を置いた。
 天文22年(1553年)鶴首城主三村家親が毛利氏の支援を受けて猿掛城に攻め寄せるが勝敗はつかず、家親の子元祐を庄為資の養子とすることで和議が整い、元祐が城主となった。
 元亀2年(1571年)三村家親と毛利元清の連合軍が松山城を攻め落とし庄高資を討つと三村氏は松山城を拠点とするようになる。しかし三村家親が宇喜多氏に暗殺され、毛利氏が宇喜多氏と結んだことで、必然的に三村氏と毛利氏は敵対するようになる。

 天正2年(1574年)毛利氏が松山城の三村元親を攻め落とすと猿掛城も毛利氏の手に落ち、毛利元就の四男元清が穂井田家を継ぎ五千貫をもって城主となる。天正10年(1582年)羽柴秀吉による高松城の水攻めの際には毛利輝元がここまで出陣して本陣を構えたが、本能寺の変によって羽柴氏と和睦による。その後、元清は矢掛茶臼山城に移り、毛利元就の娘婿である宍戸隆家が入る。
 関ヶ原合戦後、毛利氏が防長に転封となると天領となり廃城となる。

 ・説明

 猿掛城は小田川南岸に聳える標高234mの猿掛山に築かれている。北の眼下には山陽道が通っている。
 猿掛城は山頂の主郭部と標高180m程の所にある太夫丸、そして北西山腹にある寺丸からなる。

 主郭は南端にあり南背後を土塁と大堀切、側面には畝状竪堀群と大きな竪堀を設けている。この主郭から北へ曲輪と低い段差で続いている。曲輪の東に大手門跡とされる虎口があり、その脇に井戸跡が残る。この辺りに東西に分断するように石が並べられているが、これは後世のもので土地の境界線を示したものである。この石はおそらく城内にあった石垣のものを転用したのであろう。石積はいくつか点在しているが、主郭の東側面にある石積の部分が比較的残存度が高い。一段下がって曲輪から曲輪へと北へ続き、曲輪の東にも虎口がある。
 標高180m付近にある太夫丸は南端に石積の段があり、北東端に虎口がある。さらに北東の側面には畝状竪堀群を設けている。
 北西山腹標高110m付近にあるのが寺丸で、庄氏が家臣の香西五郎右衛門一党の功績をたたえて位牌堂を建立したのに由来するという。

 ◆猿掛城

 猿掛城は、岡山県小田郡矢掛町と倉敷市真備町の境にある標高239メートルの猿掛山に築かれた山城です。
 源平合戦の功績により、建久三年(1192)に東国の部将・庄家長は、この地の荘園の地頭に任じられました。家長は幸山城に入りましたが、防御に不便があったため、元久二年(1205)頃に猿掛山に城を築きました。以来、戦国時代まで庄氏は、備中国中部の豪族として繁栄しました。
 天文二年(1533)、庄為資は備中松山城へ本拠を移し、猿掛城には城代として一族の庄実近を置きました。天文二十二年(1553)、吉川元春の援助を受けた三村元親軍と庄為資軍が猿掛城の麓で大合戦を繰り広げました。そして元春の調停により庄と三村は講和し、翌天文二十三年(1554)に、三村元祐が庄為資の養子となり、猿掛城主として入城しました。
 天正三年(1575)、備中松山城の三村元親を討った毛利元就は、六男・元清を猿掛城主に任じました。天正十年(1582)、備中高松城が水攻めを受けた際には、毛利輝元の本陣がこちらに置かれました。
 慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦に敗北したことにより毛利氏が長州に移ると、慶長九年(1604)に花房正成が入城しました。しかし、元和元年(1615)の一国一城令によって猿掛城は廃城となりました。
 猿掛山は小田川に向かって北にせり出しており、小田川流域の関門となっています。山頂にある主郭部は、南から北へ下がる一の丸から六の丸までの曲輪で成り立っています。山の北側斜面には、大夫丸や寺丸といった曲輪が設けられていました。

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4/27(火)・極楽寺参詣後には「史跡 猿掛城跡」を散策でした(^.-)☆(1)

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 極楽寺への参詣後には、小田川沿いを総社市方向に下り、「史跡 猿掛城跡」を散策となりました(^.-)☆
 猿掛城跡登山口には、別段、駐車場は設けられておりませんけど、小田川土手には充分な駐車スペースがありますので、公園らしき広場の横に車を駐める事となりました(^.-)☆
 猿掛城跡登口には、「史跡 猿掛城跡」の案内表示板と、その下には資料の入りました「案内図ボックス」が(^_^)v
 ボックス内には、結構な部数で準備してありますので、一部、戴く事となりました。

 案内表示板には、こんな記載が…

 ◆矢掛町重要文化財 猿掛城跡(史跡)

 指定日:平成8年4月1日
 所在地:矢掛町大字横谷小宇平林

 築城年代については定かでないが、武蔵国の武士・庄家長が源平合戦の軍功により備中の荘園を与えられ、この地に移り築城したと伝えられている。城の最盛期は庄元資のころであつた。元資の後をついだ為資は備中松山城主となり、猿掛城は一族に守らせた。その後、1575年(天正3年)毛利元清が最後の城主として入城、在城となった。城は、標高約230mの所に有り、掘切・土塁・本丸・二~六の丸・寺丸・大夫丸等多くの遺構が残されており保存状態もよい。

 --- 矢掛町教育委員会 ---

 それでは、猿掛城跡へと向かってみます。民家の間の狭い道を進みますけど、要所要所に「↑史跡 猿掛城跡 登山口」の標示がありますので助かります。
 そして、登山口に到着しますと、ここには「伽藍山」同様に金網フェンスで遮断され、「史跡 猿掛城跡 登山口 入門後必ず閉めること」と記載です。
 フェンスを開け中に入り、また閉門です。猪が民家に出て来ますからなんでしょうねぇ(^-^)//"

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4/27(火)・伽藍山から下山しますと「極楽寺」を訪問です(^.-)☆(3)

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 山頂にあった極楽寺は、江戸時代の寛永年間に伽楞山から麓のこの地に移転ですけど、「江戸時代の寛永年間」は、どんな時代でしたのでしょうねぇ~

 ◆寛永文化

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 ・概要

 寛永文化の中心は京都であったとされ、中世以来の伝統を引き継ぐ町衆勢力と後水尾天皇を中心とする朝廷勢力が、封建制を強化する江戸幕府に対抗する形で古典文芸・文化の興隆を生み出し、後に江戸においても儒学・武家を中軸とした文化が形成され、東西に2焦点の楕円形の文化構造が互いに交錯しながら各地に広がり、金沢などの地方都市を巻き込んでいった。
 初期には出雲阿国や古田重然に代表されるように桃山文化の影響を受けた「かぶき」の文化が一世を風靡したが、元和偃武後には各階層において様々なサロンが形成されるようになった。
 代表的な人物としては、茶の湯(千宗旦・金森宗和・小堀遠州)、生け花(後水尾天皇・池坊専好)、文学(安楽庵策伝・三浦為春・松永貞徳・烏丸光広など)、儒学(石川丈山・林羅山・堀正意)、禅(沢庵宗彭・一糸文守・鈴木正三)、寛永の三筆(近衛信尹・松花堂昭乗・本阿弥光悦)、書(角倉素庵・近衛信尋)、絵画(俵屋宗達・狩野探幽・狩野山雪・雲谷等益)、陶芸(野々村仁清)などが挙げられる。また当時の建築物としては智仁親王の桂離宮・後水尾天皇の修学院離宮・徳川家光の日光東照宮などが著名である。
 だが、身分文化の進行に加えて、内陸都市であった京都は水運ネットワークに乗る事が出来ずに経済的に低迷期に入り、代わりに上方の経済的中心となった大坂を中心とした元禄文化が花開く事になる。

 ・日本文化の転換期

 フランスの美術史家ネリ・ドゥレ(Nelly Delay)によれば、17世紀初頭は新しい芸術がつぎつぎに生まれた日本文化の一大転換期である。狩野派や土佐派の伝統的な絵師に加えて岩佐又兵衛のような画家が登場し、彼らは祭りや享楽的な都市生活をテーマとする新しい風俗画を描いた。彼らの作品は従来の教養主義的なものとは異なり、日常性が志向されたのである。ドゥレは、こうした文化の大転換にあたってはヨーロッパ諸国との交流が大きな役割を果たしたと指摘している。
 彼によれば、異国から長崎にもたらされた珍奇な品々が日本商人の手によって各地にひろがり、その影響のもと、日本国内の工芸品や絵画に新しい意匠や趣向がとりいれられるようになったとみられるのである。

 …と、江戸時代の寛永は、こんな時代でありましたようです(^-^)
 とにかく、永い歴史を感じます極楽寺で、落ち着いた気持ちになれましたネ。
 それでは、この辺で「極楽寺」よりお別れです。次は、『史跡 猿掛城跡』に向かってみたいと思います(^-^)//"

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4/27(火)・伽藍山から下山しますと「極楽寺」を訪問です(^.-)☆(2)

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 境内には庭園も有り、画像に納めながらジックリと拝見しておりますと、GONsanを不審人物とでも思いましたのでしょうか…突然、ワンchanの吠え声が(^-^)
 鳴き声の方に眼を向けるのですけど、何処にいますのか分かりません。「怪しい人ではないよ…」と声を掛けるのですけど、依然として姿を現さず吠え声のみ。どんな種類のワンchanなのか分かりませんけど、番犬としてシッカリ業務遂行でありました(^_^)v

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4/27(火)・伽藍山から下山しますと「極楽寺」を訪問です(^.-)☆(1)

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 伽藍山から下山しますと、次は「極楽寺」に参詣です。

 ◆伽楞山 極楽寺 (岡山県小田郡矢掛町里山田1489) 真言宗御室派
 --- http://yukihiro3534.blog.fc2.com/blog-entry-45.html ---

 真言宗御室派の寺院で、「伽楞山極樂寺」と言うそうです。
 奈良時代の天平9年に行基菩薩によって伽楞山頂に極楽寺が創建され、僧坊として大坊、西之坊、大光坊、金剛坊、西明坊、辻之坊、宇根坊、坂之坊、新蔵坊、阿賀井坊、塔善坊、仁王坊の12坊があったそうです。
 山頂にあった極楽寺は江戸時代の寛永年間に伽楞山の東西の麓に分かれ、東側の里山田には東極樂寺が建立され、宇根坊、仁王坊、坂之坊、塔善坊、阿賀井坊の5坊が移転したそうです。
 明治時代初期に僧坊5院は廃寺となり、東極樂寺は極樂寺と改称したそうです。

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4/27(火)は、岡山県矢掛町の「西方院」&「伽藍山」を散策でした(^.-)☆(9)

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 伽藍山登山口にと降りて来ますと、再度、周辺を見廻しです。
 GONsanが登りました伽藍山登山口を出まとす、右方向にも同様の伽藍山登山口が…猪の出没により侵入防止柵が設置されておりますけど、車でも通れそうな登山道であります。ですが、この登山道を上りますと、どの辺りに出ますのでしょうねぇ~
 こんな立派な登山道と合流する箇所は無かったのですけど…上空に眼を移しますと、気持ち良い青空に飛行機が真っ白い線を…
 それでは、今から、極楽寺に向かってみたいと思います(^-^)//"

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4/27(火)は、岡山県矢掛町の「西方院」&「伽藍山」を散策でした(^.-)☆(8)

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 山頂から矢掛町の眺望を楽しみましたので、この辺で下山です。
 下りは楽ですけど、落ち葉が結構積もっていますので、気を付けませんと。登山時同様、下山時も廻り道しませんから、ほぼ一直線の下りです。足を滑らせますと、尻餅付いてズズッと滑り落ちそうで(^-^;
 八合目…六合目…五合目…と降りて来ますと、一安心。下山道も広くなり歩き易くなってきました。
 山頂には鯉幟りが泳いでおりましたけど、子供の日前後には、もっと沢山の鯉幟りを泳がせますのかも…
 この日は、GONsan以外にはどなたもおられませんでしたけど、山登りには手頃な距離ですから、GW中には訪れます方も多いのかも(^-^)//"

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4/27(火)は、岡山県矢掛町の「西方院」&「伽藍山」を散策でした(^.-)☆(7)

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 樹木に阻まれて、そんなに素晴らしい展望でもありませんけど、暫し伽藍山頂きからの眺望楽しみたいと思います。
 眼下に矢掛町の町並みが…小田川に沿って旧山陽道が東西を繋いでいたのでしょうから、宿場町として矢掛町も賑わったものと思います。

 ◆矢掛町

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 矢掛町(やかげちょう)は、岡山県小田郡にある町である。矢掛市街地と小田市街地の二つの市街地を持ち、その間にある川面、中川地区に商業地区を持つ。県南西部に位置し、旧山陽道の宿場町で、中心市街地には現在も往時の町並みが残る事で知られる。県下の町村では最も人口が多い。(国民基本台帳、令和2年度)平成30年度までは和気町が最も人口が多かった。
 岡山都市圏及び岡山都市雇用圏に含まれており、特に倉敷との繋がりが深い。また、30分程度の距離である福山市への通勤も多い。
 町の面積の半分ほどを旧美川村域など、中山間地域が占めており、比較的面積が広い町であるが、人口のほとんどが平野部、特に矢掛、川面、小田に集中し、その他の地域との人口格差が顕著である。
 また、川面地区は住宅開発が進み、倉敷や福山圏のベッドタウン化が緩やかにある。また、山田、三谷地区も倉敷に隣接する利便性から若い世代が多く住む傾向にあり、これからの住宅開発が期待される。逆に、中心部の矢掛地区は観光地化が進み、住宅開発は重点的にされておらず、中心部としては比較的高齢化が進んでいる。
 近年はホタルの里として東京や大阪の百貨店などに、町内で飼育されたホタルを持ち込み「ホタル展」を行うなどPR活動を行っている。また、2006年(平成18年)10月10日から、倉敷市、浅口市、笠岡市、井原市などとともにご当地ナンバーである「倉敷ナンバー」が導入された。
 矢掛町中心部において、スーパーなどは少ないが、小学校区として隣の川面地区から小田地区にかけてスーパーやドラッグストア、百均などが進出している。この地区は井原市美星町、笠岡市北川地区などからの買い物客も集め、商圏を確立している。(商圏人口は25,000人。※ 矢掛町、美星町、笠岡市の一部地域)

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4/27(火)は、岡山県矢掛町の「西方院」&「伽藍山」を散策でした(^.-)☆(6)

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 「九合目」を過ぎましたから程なく山頂ですけど…うん、うん、前方が開けて明るくなって来ました。ヤッと山頂に辿り着きましたようであります(^_^)v
 山頂までの道程は、大した距離でもないのですけど、病み上がりのGONsanには、それなりにキツい上り道ではありました。
 2/24(水)に手術・3/5(金)に退院し、健全者に復帰し50日は経ていますのに、昨年11月~退院までほとんど運動していませんでしたから、さすがにこの間のブランクは実に大きいようであります。結構、息が切れましたネ(^-^)
 山頂には鯉幟りが何体か掲げられておりました。
 そして、こんな案内板も…

 ★伽藍山極楽寺跡
 天平9年(737年)伽藍山頂に行基菩薩により本堂及び十二坊が開創された。寛永年間に東麓里山田ら東極楽寺五坊、西麓の江良に西極楽寺七坊が移転下山した。現在伽藍山両麓には極楽寺、西方院、大光院の三ヶ寺がある。

 ★伽藍山城址
 海抜292メートル、江戸時代後期山頂の極楽寺に猿掛城主毛利候出城(砦)として本丸が築城され、北に二段、南に三段の堡塁跡がある。宍戸安芸守舎弟備前(下道群鬼の身場主)が伽藍山城主であった。
 --- 備中府誌による ---

 ★十二の岩文字(現存する)
 古代インドから護法神として伝来した。伽藍山西斜面の岩に刻まれている帝釈天(東)・水天(西)・閣魔天(南)・毘沙門天(北)・伊舎那天(東北)・火天(東南)・風天(西北)・羅刹天(西南)・梵天(天)(以上平成18年発見)・地天・日天・月天の十二天である。

 ★条理制(八世紀頃行った耕地整理である)
 矢掛で最も高くどの位置からも望むことができる伽藍山と鵜江神社(東川面)を結ぶ南北線を基準線として行われた。条理(縦横)とは六町四方の耕地を一区として碁面の如く線を引いたものである。

 ★春・秋分の日
 群宮跡(小田)から伽藍山頂日照を、岩山神社(中)から伽藍山頂に日没が観察できる。矢掛神社は丑寅神社とも呼ばれ、伽藍山から四五度の丑寅方向にある。

 --- 矢掛宿誌による 平成18年建立 江良史談会 ---

 …と、案内板にはこんな記載が(^.-)☆

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