GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

旅の景観・話題

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(36)

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 皆さん、ライトアップされました〝北沢浮遊選鉱場〟を暫く楽しまれますと、一人、二人と、送迎バスにと戻られますので、GONsanも(^-^)
 バスでは、別段、人数確認をされます訳でも無く、全員揃ったと思われます頃合いを見て、ホテル万長へと向かいます。
 ホテル万長近くまでバスが戻って来まして、ドラッグストア〝ウエルシア佐渡相川店〟の看板が眼に入りました所で途中下車のGONsanです。明日は佐渡滞在最終日で、また「両津港⇒新潟港」を〝ジェットフォイル〟に搭乗ですから船酔い防止策を取りませんと(^-^)
 GONsanが下車しますと、他にも4~5名の方が同様に(^-^)
 途中下車しますと、勿論、ここからホテルまではテクテクと歩きです(^-^)/
 〝ウエルシア佐渡相川店〟の店内に入りますと、今まで乗り物酔い用の医薬品を求めた事がありませんから、何が良く効きますのかサッパリ(^-^;
 仕方なく、レジの店員sanにお尋ねです。
 そして、手にしましたのが、この「アネロン〝ニスキャップ〟」なんであります(^_^)v
 説明書きには、『酔ってからでも効く』ですから、これはイイですねぇ\(^o^)/
 これで、明日の準備は万全です(^_^)v
 GONsanと一緒に下車しました他の方々は、何を求めておられますのか店内で物色中でありました。
 で、独りでノンビリとホテルにと戻って来ますと、ロビーでは、前夜同様に〝佐渡おけさ〟の公演の真っ最中。こんな状況の中、ロビーを横切ります勇気なんぞ微塵もありませんGONsanですから、ロビーの片隅で終わりますまで拝見です。
 ふん、ふん、この〝佐渡おけさ〟の公演メンバーは、毎日、替わりますようですネ。メンバー全員が昨夜とは異なっておりました(^.-)☆
 佐渡滞在最終日の翌朝も、起床は、A.M.5:00起きのGONsanです。5:30前頃にはウォーキング開始で〝大間港跡〟へと向かいます。
 未だ薄暗い中、右折すれば〝北沢浮遊選鉱場〟に向かいますT字交差点へとヤッて来まして〝大間港跡〟も目前です。
 この交差点近くで眼が止まりましたのが、こんな「大間町」の説明板であります。この説明板には、こんな記載が…

 ◆大間町
 大間は大きな澗、湊を意味する。廻船の入江で栄え、米問屋が軒を並べ、大間番所が置かれていた。番所付きの問屋八軒の筆頭橘屋は、良寛の母おのぶの生家である。明治中期には最新の工法で大間港が整備され、鉱山用港湾の町として発展した。佐渡鉱山の鉱石は、この港から搬出された。

 せっかく撮りました画像がピンボケで文字が不鮮明で読みにくいのでありますけど、多分、この様な記載だったと思います。
 ふん、ふん、曹洞宗の僧侶〝良寛〟sanは、備中玉島(現・岡山県倉敷市)の円通寺で12年間修行しておられますから、岡山の方かと思いましたら、ふ~ん、越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)のご出身でありましたか(^.-)☆
 ※ 円通寺の良寛sanに関しましては、GONsanのホームページにも綴っていますので、下記URLでご覧頂けましたら幸いです。
   円通寺 ⇒ http://gon.mbsrv.net/2020entsuji01.html
 そして、お母上は、佐渡のお生まれでしたのですねぇ~
 ここには、「中元歌 -- 良寛 --」の詩碑も…何と記載してありますのか、よく分かりませんので、WEB上で検索してみますと、こんな〝良寛詩碑「母去悠悠父亦去」中元歌〟の詳細な記述がありましたネ(^_^)v

 ◆良寛詩碑「母去悠悠父亦去」中元歌

 --- 良寛乃母の生家橘屋跡碑 ---

 碑 面
 -- 中元歌 --

 母去悠悠父亦去  悽愴哀惋何頻頻
 唯餘伯叔雙姨母  伯號妙悟叔妙真
 妙真去年五月逝  去歳中元妙悟存
 冉冉復至中元節  妙悟又作九原人
 去歳去京為涕泣  今歳又移江湖濱
 居移節換倍相思  萍跡暫留南北身
 采蘋采蘋澗之滸  滴涙遠望紀水墳
 拂院修營蘭盆會  蕭蕭唄韻映朱幡
 時亦凉飆颯爾至  洗掃昏昏下合塵
 雨過蕉影横斜陽  依稀又見来格神
 神享供已衆帰院  更結恬談無為因
 勧君莫永淪胥去  早艤川舟渡要律

 -- 良寛 --

 《建立趣意(碑陰)》

 --- 中元歌碑建立の趣意 ---
 良寛自筆の24句の長詩で 中元は盂蘭盆のこと 母がなくなり父もまた世を去った あとには母方の妹の妙真と妙悟が残ったが 妙真は去年5月に逝き 妙悟もことしの盂蘭盆を迎えてみるとあの世の人になっている 居を移し時がたつにつれて肉親のことがしのばれてならない 自分は南へ北へと浮草のような生活だったが 故郷に落ち着いた 思えば苦界に沈む父(以南 桂川に入水)よ 舟をととのえて安らかな仏の彼岸へ お渡り下さい の意
 国上山の五合庵に落ち着いた40歳代のころ 父母を追悼した悲傷の詩で 佐渡の母には2人の妹がいたことがわかる
 母おのぶの没後220年を迎え 第19回全国良寬会総会と良寛サミットが 当年5月相川で開催された ここに母誕生の地に一碑を建立し 母や佐渡を限りなく慕う良寛のせつない心情を 後世に伝えることとした
 -- 2002年 橘月建立 全国良寬会・佐渡良寛会 --

 場 所:新潟県佐渡市相川大間町53 良寛の母の生家橘屋跡
 筆 者:良寛
 建 碑:2002年橘月(陰暦) 佐渡ではじめて「全国良寛会総会」が開かれるのを記念し 良寛の母おのぶ生家跡に「良寛詩碑」を建立 総会の翌朝(5月26日)に除幕式を挙行
 建碑者:全国良寛会・佐渡良寛会
 参 考:「定本良寛全集」1-569 「相川郷土博物館」

 それでは、この説明板の後ろ側方向が〝大間港跡〟ですから、向かってみます。
 そぅしましたら、眼の前に、いきなり『私有地につき関係者以外〝立入禁止〟』ですから、〝んっ!?〟のGONsan。
 『立入禁止』と言われましても、せっかく訪れましたのですから、引き返します訳には行きません。それに〝観光客〟のGONsanですから「関係者以外」には該当しませんでしょうから(^-^)/
 とにかく、立ち入らせて頂き拝見開始です(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(35)

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 尖閣湾の観光を終え〝尖閣湾揚島遊園売店(土産物店)〟まで戻って来まして時刻を確認しますと、P.M.4:15頃でしたか…
 本日の行程は〝尖閣湾観光〟でオシマイですから、暫し土産物店内をブラブラと…でも、別段求めたいモノもありませんから、ほどなくバス車内へと(^-^)
 P.M.5:00には〝ホテル万長〟到着で、夕食は6:00からですから、入浴等で暫しユックリ過ごせそうであります。
 館内イベントで、昨晩は20:10から1階ロビーで〝佐渡おけさ公演〟でしたけど、今晩は夕食を終えますと〝国史跡「北沢浮遊選鉱場跡」〟ライトアップに出かけます事に。
 で、早速、受付に、1便19:30出発の予約電話を入れますと「時間が来ますと、参加者全員が揃っておられなくても、バスは出発します…」と仲々手厳しいお言葉が(^-^)
 …と言う訳で、まずは入浴を済ませます事に。
 入浴を終えますと、夕食後に出かけます〝国史跡「北沢浮遊選鉱場跡」〟をスマホで検索し事前学習となりました。

 ◆北沢浮遊選鉱場

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 北沢浮遊選鉱場(きたざわふゆうせんこうば)は、かつて新潟県相川町(現・佐渡市)にあった佐渡金山(相川金銀山)の選鉱所。2012年(平成24年)に国指定史跡「佐渡金銀山遺跡」に指定され、2015年(平成27年)には重要文化的景観「佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観」の構成要素にも選定された。

 <歴史>

 ・歴史
 相川町の北沢地区では、1937年(昭和12年)の日中戦争開始に伴う国策の増産体制の一環として、同年から1940年(昭和15年)にかけて大規模な選鉱施設が整備され、当時としては最新の技術である浮遊選鉱を行う選鉱場のほか、シックナー(濃縮器)が建設された。月間5万トンの原鉱を処理する大選鉱場として操業され、1940年(昭和15年)には佐渡鉱山史上最高の産出量を実現した。

 ・廃止とその後
 しかし1952年(昭和27年)の鉱山大縮小に伴って施設は廃止された。その後は跡地の一部にプールやゴルフ練習場が建設されたこともあった。
 現在では浮遊選鉱場は階段状のコンクリート躯体のみが残され、シックナーは50mのものが1基残っている。また、明治期から整備された旧北沢青化・浮選鉱所や旧北沢火力発電所の遺構も隣接して残っている。

 ・利活用
 遺構は「佐渡島のラピュタ」と呼ばれ、観光スポットとなっている。2010年(平成22年)には広場が整備され、グッドデザイン賞を受賞した。
 2018年(平成30年)からは期間限定で夜間のライトアップが行われるようになった。2022年(令和4年)7月には、選鉱場前にあった佐渡市保有の倉庫をリノベーションして交流拠点「KITAZAWA KICHI」(キタキチ)がオープン。2階にはカフェ「北沢Terrace」が設置され、選鉱場前の広場にはテラス席も設けられた。
 2010年(平成22年)11月に佐渡金山が世界遺産の正式候補となると、2022年(令和4年)にユネスコに対し正式に推薦された。国指定史跡「佐渡金銀山遺跡」としては江戸時代の範囲のみを対象としているが、重要文化的景観の「相川鉱山町」としては北沢浮遊選鉱場がある北沢地区も含まれている。世界遺産の推薦書では北沢地区を含む範囲が推薦されたが、2023年(令和5年)に行われたユネスコ諮問機関による現地視察の結果、2024年(令和6年)6月には「相川鉱山町の中で明治時代以降の影響が強い北沢地区は除外すべき」と指摘を受けた。佐渡市・新潟県・日本国政府は登録実現のために北沢地区を候補から除外し、同年7月の第46回世界遺産委員会で「佐渡島の金山」の登録が決定した。
 なお、北沢という地名は、相川の南を流れる間切川が南沢と呼ばれたことに対して、浮遊選鉱場内を流れる濁川が通称として北沢と呼ばれたことに由来し、正式な町名ではない。濁川は選鉱作業で使った廃水処理に利用された。

 …と、こんな〝北沢浮遊選鉱場〟で、2018年(平成30年)から期間限定で夜間のライトアップが実施され、観光スポットの一つとなっていますようであります。
 夕食を終え、定刻10分前に1階ロビーに下りて行きますと、20名ばかりの方がお集まりでありました。
 で、その方達の後に付いてバスに乗り込み座っておりますと、このバスは、特定団体sanがチャーターのバスとかで、全員急いで下車となりました(^-^;
 未だ定刻前ですから、おかしいなぁ~と思っていたのですけど、GONsan達の乗車バスは、この後に出ますバスでありました(^.-)☆
 こんなハプニングもありましたけど、バスは定刻にスタートで、15分程度で〝北沢浮遊選鉱場〟にと到着です。
 挿入の画像が〝北沢浮遊選鉱場〟のライトアップの様子です。
 別にガイドsanの案内があります訳でもなく、ただ現地にバスで連れて行って貰うのみで、後は各自勝手に散策しながら拝観です(^-^)/
 いゃいゃ、事前にWEB上で〝北沢浮遊選鉱場〟を学習しておいて幸いでした。予備知識も無く、こんなライトアップを眼にしましても何の事やらサッパリですから(^_^)v

 ◆佐渡島のラピュタ -- 北沢浮遊選鉱場跡 --

 --- 新潟県佐渡市 ---
 --- https://magazine.air-u.kyoto-art.ac.jp/fushinjo/11476/ ---

 新潟の海岸線は街灯が少なく、夜の運転中にバックミラーを覗くと真っ黒になります。今回、新潟に移住してから初めて訪れた佐渡島の海岸線も真っ暗でした。レンタカーを運転している私も助手席の友人もずっとしゃべり続けていたのは、少し怖かったのでしょう。目的地に到着すると突然、ライトアップされた廃墟が現れました。その幻想的な雰囲気に気圧された私たちは、しばらく黙り込んでいました。
 その廃墟は、かつて佐渡鉱山から採れた鉱石の処理場として建てられた「北沢浮遊選鉱場(きたざわふゆうせんこうば)」の遺構です。遺された階段状のコンクリートに植物が生い茂るその姿から、映画『天空の城ラピュタ』の世界観を彷彿させると人気の観光スポットになっています。
浮遊選鉱とは、鉱山で採掘された岩の中から金や銀などを取り出す方法のひとつです。細かく砕いた鉱物を界面活性剤などの浮遊剤と一緒に水槽に入れてかき回し、泡とともに浮き上がった金銀粒を回収します。もともとは銅の選鉱工程で利用されていた方法ですが、金銀の回収に応用したのは佐渡鉱山が世界で初めてでした。
明治初期、鉱山の近代化をはかる政府は、佐渡鉱山に西洋人技術者を派遣しています。彼らが離島した後は、日本人技術者たちが引き継ぎました。昭和初期に建てられたこの選鉱場は、彼らが発展させた鉱山技術の結晶といえるでしょう。背景には日中戦争による金銀銅の増産運動がありました。そんな時代背景もまた、映画を思い起こさせるのかもしれません。

 …と、ネット上には、こんな記載もありました。
 挿入画像の最後の2枚は、北沢浮遊選鉱場跡、夜のシックナーです。浮遊選鉱によって不純物を取り除いた鉱石は、シックナーと呼ばれる沈殿濃縮装置でろ過した後、香川県の直島製鉄所へ運ばれましたとの事であります(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(34)

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 海岸沿いの遊歩道からの尖閣湾の断崖の景観…充分楽しめましたけど、せっかく訪れましたのにグラスボートへの乗船、海上からの海岸美の眺望が叶いませんでしたのは、天候要因とは言え残念でした。

 ◆海中透視船(尖閣湾揚島観光)

 --- https://tabi-mag.jp/ng0408/ ---

 海中公園、そして日本の渚百選にも選定の佐渡を代表する景勝地、尖閣湾(せんかくわん)。海中透視船(グラスボート)が3月中旬頃~11月下旬頃まで運航し、海上から尖閣湾の名付け親・脇水鉄五郎がフィヨルドに例えた断崖を見物することができます。運航母体は尖閣湾揚島遊園と同じなので、入園口で乗船の申し込みが可能。
 15分間隔で運航し、所要は15分という手軽なショートクルーズ。
 カモメやウミネコが船に群がるように飛び、船底からは透明度の高い海を泳ぐ魚を観察できます。
 一部海中公園にも指定されており、離れ岩や岩礁も多く、水の透明度は抜群。
 湾内では海水魚が50種ほど観察可能です。

 …と、こんなグラスボートのようですけど、う~ん、残念(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(33)

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 尖閣湾の海岸美を充分楽しみましたので、また〝揚島遊仙橋〟を渡りまして、燈台下の渡り口にあります石段を下り〝あげしま洞窟〟から、本日は荒波で乗船不可ですけど、グラスボート乗り場の方に向かってみます事に(^.-)☆
 〝あげしま洞窟〟に入り階段を下って行きますけど、近年、整備されましたのでしょうネ、仲々キレイ。
 洞窟の出口手前辺りは平坦地でちょっとした空間ですから、ここで何かイベントでも行われますのでしょうネ…
 WEB上で〝あげしま洞窟〟を検索しますと、こんな記事掲載が…

 ◆佐渡「尖閣湾揚島遊園」が光の幻想空間に!洞窟内でプロジェクションマッピング始まる、雄大な自然が岩肌を彩る♪

 --- 2025/05/09 14:00 新潟日報 ---

 佐渡市北狄(きたえびす)の観光施設「尖閣湾揚島遊園」内の洞窟で3日から、プロジェクションマッピングが始まった。佐渡の自然をイメージした美しい映像がいっぱいに広がり、隆々とした岩肌を幻想的に彩っている。
 施設は約3キロの海岸線に沿って広がり、切り立つ断崖や、美しい海の景観を楽しめる観光スポット。海中の様子を見ることができるアトラクション「海中透視船」は目玉の一つで、島内外からの来場者から人気を集めている。
 プロジェクションマッピングは、「あげしま洞窟」の中にある海中透視船の乗り場へつながる約50メートルの通路に施された。乗船客を映像美で楽しませ、さらなる集客を狙いたいと初めて企画された。(以下 略)

 ところで、この〝あげしま洞窟〟は、昔から存在しますのでしょうか…ChatGPTに尋ねてみますと、ふん、ふん、昔から存在しますようであります。

 ◆揚島(あげしま)洞窟とは

 佐渡島・外海府(そとかいふ)海岸に位置する尖閣湾(せんかくわん)揚島観光の代表的景観スポットの一つで、海食作用によって形成された 海蝕洞(海食洞)です。
 
 -- 主な特徴 --
 日本海の荒波 によって削られてできた自然の洞窟
 上部に岩が屋根のように張り出し、内部は独特の静けさと神秘的な雰囲気
 観光船(遊覧船)から洞窟の入口付近まで接近して観覧できる
 海の透明度が高く、晴れた日には海底が美しく見えることで人気

 場所:佐渡島の北西部「外海府海岸」、尖閣湾揚島観光(揚島遊園)エリアの見どころの一つ、遊歩道や展望台からも近く、自然景観と合わせて楽しめる場所です。
 名前の由来:「揚島(あげしま)」は当地の地名で、洞窟そのものは“揚島にある海蝕洞”→ 揚島洞窟 と呼ばれています。

 あなた:佐渡の尖閣湾にあります〝あげしま洞窟〟は、昔から存在するのか?近年に作られたのでしたら、その歴史が分かれば嬉しいですが…

 短く結論:あげしま洞窟は「近年に人工で作られたもの」ではなく、海の波に削られてできた自然の海食洞(海蝕洞)で、地質的には長い時間をかけて形成されたものです。ただし、洞窟内部を見せるための遊歩道・照明や、近年導入されたプロジェクションマッピングなどの観光設備は最近の整備です。
 もう少し詳しく説明します。

 ・どうやってできたか(成因)
 あげしま洞窟は海面に面した岩が波の力で浸食されてできる「海食洞(海蝕洞)」に該当します。こうした洞窟は数千年~数万年といった長い時間スケールで波や潮の浸食作用により形成されます(尖閣湾・揚島峡湾を紹介する観光・解説ページでも海食による景観として扱われています)。
 ・人の手で最近「作られた」わけではない点
 観光情報・公式ページは揚島の景勝地として自然の断崖や洞窟を紹介しており、人工洞窟であるという記述は見当たりません。従って洞窟そのものは自然の産物です。
 ・近年の「人の関わり」(観光整備・演出)
 洞窟内部へ通じる遊歩道や照明、洞窟を利用したプロジェクションマッピングなどの演出は最近の観光施策です。例えば洞窟内プロジェクションマッピングは2025年5月に始まったという公式発表があります。洞窟を使った見せ方・施設整備は年々更新されています。
 ・正確な「何万年前にできた」かは?
 観光サイトや公式ページでは洞窟の厳密な地質年次(何万年前に形成されたか)までは示していません。もし正確な年代(地質学的な形成時期)を知りたい場合は、地質調査報告書や学術論文、あるいは新潟県・佐渡市の地質関連資料を確認する必要があります(公開資料を確認して調べることは可能です)。
 要約すると:洞窟自体は自然の海蝕洞で昔から存在するもの。観光のために通路や照明、映像演出などが近年整備されており、それが「新しく見える」理由です。

 …と、こんな〝あげしま洞窟〟でありました。
 洞窟を出ますと、何羽かのウミネコが…波が穏やかでありましたら、ここがグラスボート乗り場となりますのでしょうネ。
 整備されました海岸沿いの遊歩道をノンビリと進みながら、流紋岩を基盤とする標高20mの海岸段丘と海食崖を拝見です。
 >尖閣湾は冬の猛烈な季節風と荒波によって作られた海食崖ですが、もう一つ大きな要因があります。
 >それは尖閣湾の断崖がしま模様の目立つ流紋岩でできているためです。この岩石は、しま模様に沿
 >って剥がれやすい性質があります。尖閣湾の流紋岩はしま模様が縦方向に伸びているため、切り立
 >った風景となりました。
 …との事ですけど、自然の力を改めて感じてしまいます。永い年月を要しまして現在の姿にと形成されましたのでしょうけど、見た感じがよく似ていますのが福井県の〝東尋坊〟。
 ヒマですから、もぅ少し〝ChatGPT〟に質問です(^-^)

 《質問》東尋坊の柱状節理は火山から噴き出した溶岩が冷えていく際、収縮して固まることで形成される多角形をした柱状の割れ目。東尋坊は約1300万年前の溶岩を荒波が削り、複雑で美しい景観を生み出したようですけど、尖閣湾の断崖も同様に形成されたのでしょうか?

 《ChatGPT》
 いい質問 — 結論から言うと、尖閣湾(新潟県佐渡島)の断崖は、必ずしも柱状節理と同じメカニズムでできたとは限らず、むしろ「海食崖(波による浸食でできた断崖/海岸段丘)」的な地形である、という説明が地質情報では一般的です。
 -- 尖閣湾の地形の特徴 --
 尖閣湾は「30m級の尖塔状の断崖が連なる景観」が特徴とされます。
 一帯は「佐渡海府海岸」として国の名勝に指定されており、火成岩や凝灰岩、その他さまざまな地質構造が複雑に分布することで知られます。
 解説などでは「大昔の火山活動で海の底から持ち上がり、長い年月をかけた荒波の浸食作用で削られて現在の険しい海岸崖になった」と説明されています。
 -- なぜ「柱状節理」とはされない/されにくいのか --
 柱状節理は、火山などから流れ出した溶岩や火砕流などが「冷えて固まる過程で収縮 → 多角形の割れ目 → 柱状構造」を生じさせる現象。
 ところが、尖閣湾の崖について、ある案内紙(ジオパーク解説)によれば「岩石は黒っぽい安山岩ではなく、白っぽい流紋岩らしい」との記述があり、また「縞模様が縦方向に伸びていて、切り立った風景になった」と述べられており、この点から「柱状節理による典型的な蜂の巣状の割れ目」は確認されにくいとされています。
 つまり、尖閣湾の断崖は「大昔の火成岩+隆起+長年の海食」という過程を経た“海食崖/海岸段丘”である、というのが現在一般的な説明。
 -- だから「同様」と断定できない理由 --
 あなたが見立てたように、もし尖閣湾が「東尋坊と同じように柱状節理によって形作られた断崖なら」確かに似たメカニズム --- 溶岩の冷却収縮 → 柱状節理 → 侵食で断崖 --- という流れが成立します。
 しかし実際のところ:尖閣湾の解説では「溶岩流の跡」は言及されているものの、「柱状節理が露出している」「六角柱状」「蜂の巣状割れ目」といった記述は見当たらない。
 また「岩石が流紋岩らしい」「縞模様が縦方向」という記述もあるため、安山岩玄武岩に典型的な柱状節理ではない可能性が高い。
 つまり、見かけとして断崖や「切り立った岩壁」が似ていても、その成因(地質プロセス)は異なる可能性が高いのです。
 -- まとめ --
 はい、「断崖 → 海による浸食」という点では、あなたの想像するような“溶岩の冷却 → 柱状節理 → 浸食”と似た流れでできている可能性は 「火成岩 → 隆起 → 浸食」 という意味である。
 しかし、「柱状節理」と呼べるような「多角柱の規則的割れ目 → 柱列」としての構造が、尖閣湾の断崖を説明する資料には確認されておらず、「柱状節理による断崖」とはされていません。
 よって、「東尋坊とは形成の仕組みが異なる断崖」である — というのがおおよその学術的見解です。

 …と、こんな〝ChatGPT〟からの回答でした。ここまで詳しい回答を望みませんでしたけど、ふ~ん、大変勉強になりました(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(32)

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 ◆尖閣湾 揚島遊仙橋

 尖閣湾は、姫津から北狄(きたえびす)地区までの約4㎞の海岸で、流紋岩を基盤とする標高30mの海岸段丘と海食崖が続きます。五つの小弯(幽仙峡、立雲峡、金剛峡、膳棚峡、大岬峡)と、遊園地のある揚島がある地域の総称です。尖塔状の断崖が連なる景観をして訪れる人々を圧倒します。一帯は海中公園となっており、揚島遊園(有料)の展望台からは全景が一望でき、海中透視遊覧船(有料)からは、湾内巡りと海中の様子など、違った景色が楽しめます。昭和28年(1953)に、菊田一夫原作の映画『君の名は』のロケが当地で行われ、『尖閣湾』の名は一躍全国に知られることとなりました。
 橋名は、遊仙橋(ゆうせんきょう)ですが、「まちこ橋」とも呼ばれ、松竹映画「君の名は」のロケで吊り橋のシーンが有名になりました。今は頑丈なコンクリート製の橋に架け替えられています。橋を渡った島を揚島(あげしま)といい「あげしま展望台」となっています。5月下旬から6月中旬頃には岩ユリやハマナスの花が岩場に咲きます。

 ◆北欧のハルダンゲル峡湾に匹敵

 -- 佐渡屈指の景勝地「尖閣湾」--
 尖閣湾は姫津から北狄まで約3kmの海岸に広がる5つの小湾の総称です。天下の絶景と賞され世界一と呼ばれている北欧ノルウェーのハルダンゲル峡湾の景観に勝るとも劣らず、正に東西両洋に対をなす海岸美として『尖閣湾』と命名されました。昭和46年には海中公園に指定、さらに平成8年には日本渚百選に選定されています。

 …と、ロケ当時は吊り橋でしたのでしょうけど、現在は頑丈なコンクリート製の立派な橋に架け替えです。こんな〝遊仙橋(まちこ橋)〟を渡りますと、この島が〝揚島(あげしま)〟で〝あげしま展望台〟が存在です。
 ここには、こんな案内板が…

 ◆「断崖の名勝、尖閣湾誕生秘話」

 名勝地「尖閣湾」は第1景から第5景の「5つの峡湾」のことをいいます。高さ約20m、長さ約4kmに及ぶ断崖絶壁です。(看板の左に見える景色)
 尖閣湾は冬の猛烈な季節風と荒波によって作られた海食崖ですが、もう一つ大きな要因があります。それは尖閣湾の断崖がしま模様の目立つ流紋岩でできているためです。この岩石は、しま模様に沿って剥がれやすい性質があります。尖閣湾の流紋岩はしま模様が縦方向に伸びているため、切り立った風景となりました。

 高さ約20m、長さ約4kmに及ぶ断崖ですけど、実に美しい、素晴らしい海岸美。
 暫く見つめておりましたネ(^-^)//"

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中村GG友の会〝11/25・忘年会〟&〝12/2・忘年GG大会〟(01)

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 11/25(火)は、前々から中村GG友の会の〝忘年GG大会〟が予定されておりましたけど、残念ながら当日の朝は、天気予報通り朝の内は降雨。
 で、〝忘年GG大会〟は一週間延期で、〝忘年会〟のみ実施となりました(^-^)
 この頃には既に降雨はありませんで、A.M.11:00に中村集会所に集合し、〝あぶと本館〟sanの送迎バスで、阿伏兎観音近くの〝あぶと本館〟へと向かいます。
 参加者は、総勢19名の皆様で、会長sanのご挨拶で、A.M.11:23に忘年会がスタートです(^.-)☆
 この忘年会の様子は、こぅして全てWEB上で公開です。この方達は、大半(19名の内16名)の皆様がGONsanより先輩でありますけど、GONsanに取りましては、気心知れた良き仲間なんであります。
 ですが、勿論、GONsanも同様ですけど、皆さん後期高齢者でありますから、年齢的に、後何年、ご一緒出来ますか(^-^)
 今までもそぅでしたけど、これからも、一人去り…二人去り…GONsanが先なのか…それとも後になりますのか…知る由もありませんけど、人生の一時期をご一緒させて頂き、この良き仲間を決して忘れたくない、そして、決して忘れて貰いたくない…こんな想いから、この日の様子をWEB上に綴っています。
 〝中村GG友の会〟の会員の中には、ご自分の写りました画像の公開を是とされない方もおられるのかも分かりませんけど、何もかも含んで〝悪しからず〟です(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(31)

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 〝まちこ橋(遊仙橋)〟に向かってノンビリと歩いておりますと、まず眼が止まりましたのが「先人を称える碑」と「先人を称えて」の説明碑。
 ふ~ん、元・農林水産大臣の近藤元次sanは佐渡のご出身でありましたか(^.-)☆

 ◆近藤 元次

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 近藤 元次(こんどう もとじ、1930年(昭和5年)6月20日 - 1994年(平成6年)2月16日)は、日本の政治家。位階は従三位勲一等、勲章は瑞宝章。
 農林水産大臣、衆議院議員(6期・自由民主党)を歴任した。息子は元自民党衆議院議員の近藤基彦。

 -- 来歴・人物 --
 新潟県佐渡郡相川町出身。新潟県立新潟工業高等学校を経て日本大学理工学部卒業。
 相川町議会議員、新潟県議会議員を経て、1979年の第35回衆議院議員総選挙に旧新潟1区からに立候補し初当選(当選同期に佐藤信二・保利耕輔・畑英次郎・麻生太郎・小里貞利・岸田文武・白川勝彦・丹羽雄哉・亀井静香・吹田愰・宮下創平・亀井善之・船田元など)。連続当選6回。
 自民党内では宏池会(大平正芳→鈴木善幸→宮澤喜一派)に所属。農水政務次官、党農林部会長などを歴任した農林族の大物で知られ、1990年に第2次海部内閣の農林水産大臣として初入閣。1991年 宮澤内閣が発足すると閣僚経験者では異例の内閣官房副長官に就任。PKO法案成立に尽力するなど政権の裏支えに徹した。なお、1993年1月の宮澤首相のASEAN諸国歴訪に同行していたが、渡航中に体調を崩して肋膜炎を発症しながらもカンボジアでのPKO活動の視察を行った。帰国後に治療を行い一時は公務に復帰し、同年の総選挙で6期目の当選を果たしたが、その後同年暮れに病を再発させ、6期目在職中の1994年2月16日に死去した。63歳没。同月18日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付をもって従三位勲一等に叙され、瑞宝章を追贈された。追悼演説は、同年3月30日の衆議院本会議で、当選同期で近藤とともに農林族だった田名部匡省が行い「コンちゃん、充実の時だった」と故人を偲んだ。

 〝先人を称えて〟の説明碑には、文字が不鮮明な箇所もありましたけど、こんな記載が…

 ◆先人を称えて

 この地が、尖閣湾としてよに知られ始めし頃、時折り訪れし客を小舟にて案内せし若者居たり。
 若者の脳裏に、揚島に吊橋掛けたれば海の時化にも関わりなく一時に多くの人が天下の景勝、尖閣湾を島の上より一望すること可能なりと、揚島に架橋の夢芽生えたり。若者は同志ににその夢語らへど、時は日中戦争より第二次世界大戦へと向かひつつありし頃とて、夢のまた夢と消え失せにけり。
 時は経て昭和25年、東北電力北荻川発電所にて導水管工事が架線を張りて行はれたり。架線と吊橋、若き日の夢を想起せし北見佐吉氏は、千載一遇の好機到来、目前に有る架線技術で「揚島に吊橋」をと、村人に説きた。
 架線業者の寄宿先である佐藤忠蔵の、事業家的熱意ある働き掛けにて業者より資材、技術共に全面的支援の約束を得たり。
 暫くして同年十一月、佐渡尖閣湾施設協会として発足せり。時に社員五十余名なり。資金は予定に充たず、社員の現物出資は無論のこと、生活苦しき中労務出役の全てを資本に替えて遂に昭和二十六年六月、村へ待望の吊橋の落成祝賀会を挙行するに至れり。
 県道からは釣り人や野良仕事の人一人が通れるのみにありけるこの地を、かくばかりなる観光地に発展せしめる今日に至れるは、これ全て先人達の先見性有る英知と筆舌にて尽くせぬ労苦にならず。
 四十周年を迎えるに当たり草創期の役員名を裏面に刻してその業績を称へむ。
 -- 平成二年 有限会社尖閣湾揚島観光 --

 そして、〝尖閣湾〟と命名の由来が記されました説明板も(^.-)☆

 ◆尖閣湾

 -- 名称の由来 --
 昭和七年に文部省天然記念物調査委員の理学博士、脇水鉄五郎氏が、この地を踏査された際、天下の絶景と賞され、世界一と呼ばれている北欧ノルウェイのハルダンゲル峡湾の景観に勝るとも劣らず、正に東西両洋に対をなす海岸美として「尖閣湾」と命名されました。そして、
 昭和九年文部省より「名勝」にも指定されました。(脇水博士の経歴は裏面に)

 〝脇水鉄五郎〟sanは、こんな方でありました。

 ◆脇水 鉄五郎

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 脇水 鉄五郎(わきみず てつごろう、慶応3年11月9日(1867年12月4日) - 昭和17年(1942年)8月10日)は、明治から昭和前期の地質学者、土壌学者。東京帝国大学名誉教授。

 -- 経歴・人物 --
 美濃大垣(現:岐阜県大垣市)に生まれる。1893年(明治26年)東京帝国大学地質学科卒業。1896年(明治29年)同大学農科大学助教授を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学教授となる。1911年から1915年頃に掛けてヨーロッパおよびアメリカに留学し、オーストリアで森林土壌学、イタリアで砂防学を研究。帰国すると地質学や森林土壌学講座を担当した。樺太および北海道にて気候的植生の土壌に対する影響を調査し、表層地質学の新天地を開拓した。東京帝国大学教授退官後は、史跡名勝、天然記念物の調査員として活躍し、『車窓からの自然界 東海道・山陽編』・『日本風景誌』・『耶馬渓彦山風景論』などの著書を残した。ほか、1907年(明治40年)より日本地質学会評議員、1939年(昭和14年)同会会長をつとめた。

 そぅそぅ、〝尖閣湾〟は、映画「君の名は」のロケ地でしたネ。「名作『君の名は』ロケ地」と記されました、こんな案内板もありましたネ(^_^)v

 ◆君の名は

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 『君の名は』(きみのなは)は、日本のNHKラジオ第1放送で1952年から1954年に放送されたラジオドラマ。小説化、映画化、テレビドラマ化、舞台化もされた。

 -- 概要 --
 脚本家・菊田一夫の代表作。1952年にラジオドラマで放送され、多大な人気を獲得した。ただし、最初の半年間は菊田が「人々の戦争体験を主題に」シリアスタッチで描いていたため、あまり人気はなかった。当初は、東京・佐渡・志摩半島に住む家族を並行する社会派ラジオドラマを目指していた。真知子と春樹との恋愛にドラマが集中し始め、初めて人気番組となった。「番組が始まる時間になると、銭湯の女湯から人が消える」といわれるほどであったという。このエピソードは松竹の宣伝による虚構だという説もあるが、『宣伝・ここに妙手あり』(田中純一郎、1958年)では、映画版の監督を手がけた大庭秀雄夫人の松竹の女優、森川まさみの発言がもとだとしており、『松竹の内幕』(横溝竜彦、1957年)では松竹の重役が考えたとしているなど、記述によって説がバラバラであり、これ自体が根も葉もない噂である可能性は否定できない。
 ラジオドラマの人気を受けて1952年から菊田による小説版が新聞連載ののち宝文館から出版され、菊田にとって初の出版におけるベストセラーとなった。1953年には松竹で映画化されると大ヒットを記録し、氏家真知子のストールの巻き方が「真知子巻き」と呼ばれて女性の間で流行した。
 映画『君の名は』(1953年)から数寄屋橋のシーン。向かって右が岸恵子、左が佐田啓二。
 これは、主演の岸惠子が北海道でロケの合間に現地の寒さをしのごうと、神奈川県横浜市中区の馬車道界隈の店で購入して持参していた私物のストールを肩から一周させ、耳や頭をくるんでいたことによるとされる。この姿はカメラが回っている時にも使われることになり、「真知子巻き」が誕生した。
 第一部の冒頭、佐渡に渡る船上でも真知子は「真知子巻き」に類したストールの巻き方をしている。
 真知子と春樹が再会しそうになる(半年ごとの数寄屋橋での待ち合わせなど)が、不都合が起きてなかなか会うことができない。この「会えそうで会えない」という事態が何度も繰り返された。これは後の恋愛ドラマでもよく見られる描写(演出)であり、本作はこのパターンの典型にして古典となっている。
 2020年の連続テレビ小説『エール』でも劇中劇として使われた。劇中では真知子役は恒松あゆみ、春樹役は三木眞一郎、アナウンサー(語り部)役は尾田木美衣が務めた。

 〝まちこ橋(遊仙橋)〟手前には、燈台が存在です。
 WEB上には、「初灯は昭和39年。荒々しい岩肌と白い灯台の対比が織りなす景観は、想像以上の美しさ。」…と、こんな記載がありましたけど、うん、うん、確かにそぅですネ。
 何となく、絵になります燈台でありました(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(30)

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 ◆佐和田海水浴場

 --- https://www.visitsado.com/spot/detail0402/ ---

 ・利便性の高さが人気!
 河原田商店街から歩いて2分ほどの海水浴場。真野湾にいだかれた波穏やかな遠浅の海岸。佐渡各地へのアクセスも便利な中央エリアに位置し、シーズンには多くの人々で賑わいます。徒歩圏内に飲食店や宿泊施設が多数あるので観光拠点にも最適。隣接する松林の中にはフリーサイト「窪田キャンプ場」もあります。

 ◆佐和田海岸

 --- https://n-story.jp/localculture/佐和田海岸/ ---

 佐和田海岸は、真野湾に面した約4kmの砂浜海岸で、その中の窪田~河原田の海岸が、砂の堆積が1mと少なくクロマツ美林でおおわれていることから「越の松原」といわれている。また、雪の高浜(現在の八幡砂丘)は、その名の通り、冬は雪の体積が最大8mになることがあり、また春から秋にかけても、チガヤの白い穂で雪のようにおおわれる海浜砂丘であることから「雪の高浜」という呼び名が付いた。また、佐和田海岸はウインドサーフィンやジェットスキーなどのマリンスポーツが盛んで、近隣の窪田キャンプ場と併せて、夏は多くの家族連れで賑わう。近年は、毎年9月、佐渡全島をコースにして行われる、佐渡国際トライアスロンのスタート地点となっている。

 …と、こんな〝佐和田海岸〟でのトイレ休憩を終えますと〝尖閣湾揚島遊園〟に向かいます。
 〝尖閣湾揚島遊園〟が近付いて来ましたので、車窓から海の様子を伺いますと、穏やかそうな波に見えましたけど、この程度の波でも〝グラスボート〟はダメなんでしょうねぇ~
 WEB上で検索しますと、こんな〝尖閣湾揚島遊園〟であります(^.-)☆

 ◆尖閣湾揚島遊園(せんかくわんあげしまゆうえん)

 --- https://www.visitsado.com/spot/detail0035/ ---

 -- 尖閣湾を一望する観光スポット --
 「尖閣湾」の第5景「揚島峡湾」に建つ観光施設。展望台から、ダイナミックな景観を一望できます。周辺は「全国渚百選」にも指定されている海中公園。「海中透視船」(有料)で、湾内巡りと海中の様子が楽しめます。2023年にリニューアルした「あげしま海のでじたる館」や、ゆったりくつろげる2階の休憩スペースや売店、軽食堂も併設しています。

 -- 佐渡景勝地尖閣湾の観光スポットに建つ灯台 --
 観光施設「尖閣湾揚島遊園」敷地内に建ち、遊歩道で容易にたどり着けます。初灯は昭和39年。荒々しい岩肌と白い灯台の対比が織りなす景観は、想像以上の美しさ。映画『君の名は』で知られ、灯台はロケ地「まちこ橋(遊仙橋)」の手前に位置します。橋は佐渡屈指の景勝地「尖閣湾」を一望する展望台へと続きます。

 -- 尖閣湾 --
 北欧のフィヨルドに匹敵、佐渡屈指の景勝地
 姫津から北狄まで約3㎞の海岸に広がる5つの小湾の総称。ノルウェーの「ハルダンゲル・フィヨルド」の峡尖美に似ていることから、尖閣湾と名付けられました。30m級の尖塔状の断崖が連なる景観が訪れる人々を圧倒します。一帯は海中公園となっており、揚島遊園の展望台からは全景が一望でき、遊覧船からは違った景色を楽しめます。

 ◆尖閣湾揚島遊園

 --- https://travel.navitime.com/ja/area/jp/spot/02301-1300157/ ---

 ・北欧のフィヨルドに匹敵?荒波がつくった自然の造形美、尖閣湾
 冬の日本海の強い風と荒波がつくり上げた雄大な景色は、高さ約20mの断崖絶壁が連なるジオパーク。遠景、近景どちらもダイナミック!海中にも広がる複雑で切り立った岩々を、海中透視船(グラスボート)で楽しもう!

 ・北欧ノルウェーのフィヨルドに匹敵するほどの美しさ
両津港から車で約1時間。尖閣湾は長さ約3㎞にわたる5つの小湾の総称で、揚島遊園は第5景「揚島峡湾(あげしまきょうわん」に当たる。園内の展望台からは30m級の尖塔状の断崖の連なりを見渡すことができる。また海中透視船では下から尖閣湾の第2景から第5景の大パノラマが見え、違った角度からそのダイナミックな景色を楽しむことができる。この尖閣湾という名は北欧ノルウェーのフィヨルドにも匹敵する美しい景観だということで、1932年(昭和7)、地質学者湧水鉄五郎(わきみずてつごろう)博士によって名づけられた。入り口から入り、食堂とお土産コーナーを見ながらチケットコーナーへ行こう。

 ・地球がつくる大地の公園、ジオパークを思う存分楽しもう!
 揚島遊園(あげしまゆうえん)に入園すると、潮の香りが風に乗って運ばれてくる。どこからともなく佐渡おけさなどの佐渡の民謡が聞こえてきて、のんびりとした気分にさせてくれる。歩きやすく整備された歩道を歩いていると、左手に湾を上から見られる場所があるので、見下ろしてみよう。特に夏は海の中の海藻がなくなり、透明度が増しかなりの深さまで透き通って見える。海面から15mの高さにある遊仙橋から景色を眺めると、崖と広く平らになった田んぼが目に入ってくる。この辺りは海成段丘といって、海底だったところが隆起により陸地になった階段状の地形。地球がつくり出したダイナミックな造形だ。

 ・壮大な大パノラマ、秘境感のある景色
 遊仙橋(ゆうせんきょう)を渡り揚島に到着。ここは一周ぐるりと歩けるようになっていて、岩の質感など間近に見ることができ、岩石好きでなくとも楽しい。この辺りの岩はマグマが冷えて固まってできた「流紋岩(りゅうもんがん)」といわれる縞模様が特徴だ。この縞模様に沿ってはがれやすい性質があるため、尖閣湾は波や風で浸食される以上に切り立った風景になった。展望台では景勝地尖閣湾の大パノラマを一望することができる。海中透視船と崖とを比べて見ると、いかに崖が高いかわかるだろう。5~6月であれば、黒っぽい岩のわずかな緑に、明るいオレンジのイワユリや黄色いトビシマカンゾウを見つけることができる。

 ・海の中の絶景を見られる海中透視船!
 展望台を後に遊仙橋を再び渡り、橋の脇にある階段を下りる。洞窟を越えると海中透視船の乗り場だ。ここまで来たのだから海中透視船への乗船をぜひおすすめする。入り口で乗船券を買い忘れても、乗り場で購入が可能。乗り場に着くと船内で売られているエサを狙うたくさんのウミネコが待ち構えている。ちなみにウミネコと普通のカモメの見分け方のポイントはクチバシと季節だ。どちらもクチバシは黄色いがウミネコはその先端にかけて黒くなり突端は赤い。普通のカモメは渡り鳥で飛来する季節は限られているので、ここで見られるのはほとんどウミネコである。20分ごとに出航する船に乗り込み、ウミネコとともに尖閣湾の遊覧に出よう!

 …と、色々記載がありまして予備知識も少し得ましたので、早速、遊歩道に沿って歩いてみたいと思います(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(29)

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 御井戸には、こんな説明板がありました。

 ◆日蓮聖人『観心本尊抄』硯水の御井戸

 この井戸は日蓮聖人の霊験により掘られたと伝えられ、井戸水を硯水に使い『観心本尊抄』(題目成仏と本尊を明らかにした教義上最も重要な書のひとつ)を書かれたと伝承されます。以降、この井戸水は眼病に効く霊験あらたかな水として地域に広く知られていました。
 仏の教えは衆生の煩悩を洗い清めることから、仏法を水に例えて「法水」と呼びます。右の石塔の御題目は「南無妙(法)蓮華経」と、「法」の文字が書かれていませんが、霊験あらたかなこの井戸水を「法水」として、あえて「法」の文字を書かずに、「妙法の法水」はこの井戸にあることを表すと伝えられています。

 ついでに、ChatGPTにも〝法華堂・御井戸庵〟の歴史を尋ねて見ますと、こんな回答が帰って来ました(^-^)

 ◆佐渡島の「法華堂・御井戸庵」には、どんな歴史が? -- <ChatGPT> --

 ◇御井戸庵 — 概要
 御井戸庵は日蓮ゆかりの地で、佐渡島(新潟県佐渡市)にある「法華堂(ほっけどう)」の一つとされる庵です。
 この地は、当時の信徒であった有力な檀越(檀越屋敷)だった〝中興入道〟の屋敷跡と伝えられています。
 明治期までは古い庵だったようですが、現存の建物は、1767年(明和年間)に〝道照日宣〟法師が開基して再建したものが起源。さらに時代を経て数回改築され、現在のお堂は1997年(平成9年)に建立されたものだと伝わっています。

 ◇なぜ御井戸庵が注目されるか — “霊跡”としての意義
 御井戸庵には「井戸」があり、この井戸から汲んだ水で墨を擦り、文永10年(1273年)4月、佐渡在島中の日蓮が著したとされる教義書〝観心本尊抄〟の執筆に用いた、という伝承があります。
 つまり、御井戸庵は単なる「古い屋敷跡」ではなく、日蓮宗の教義の根幹である書物成立の場として、宗教的・歴史的な重要な“霊跡”と位置づけられています。
 また、御井戸庵は当時の檀越の邸宅であり、その後も地元の信者たちによって庵として守られてきた歴史を持ちます。

 ◇背景となる時代 — 佐渡における日蓮の流罪と布教
 日蓮は鎌倉時代、幕府から弾圧を受け流罪となり、佐渡に送られました。佐渡では厳しい配所生活を送りながらも、教えを説き、多くの信徒を得ました。御井戸庵もその時期の檀越宅の一つとして機能したと考えられます。
 流罪の間、日蓮は書物(たとえば観心本尊抄など)を著すことで教義を整理・展開し、それが後の日蓮宗の基盤となりました。御井戸庵の井戸水がその原点に関わっている、という伝承は、信徒にとって非常に象徴的な意味を持ちます。

 ◇現在の御井戸庵 — 保存と参拝
 現在の御井戸庵は、1997年(平成9年)に再建されたもので、以前からの歴史的伝承を受け継いでいます。
 佐渡島では、「日蓮聖人ゆかりの地」として多数の霊跡があり、御井戸庵もその代表の一つとして紹介されています。参拝コースの一部に組み込まれており、観光と信仰の両方の意味で注目されています。

 ◇補足 — “中興入道”と地域とのつながり
 “中興入道”とは、当時の佐渡にいた有力な人物で、念仏信者ながら日蓮の思想に触れて帰依したとされます。彼の屋敷が御井戸庵の起源である、というのが一般的な伝承です。
 また、後世(明治期以降)にも、地元の人々や僧侶によって御井戸庵は保全され、信仰の場として使われ続けてきた---これが、現代まで建物と伝承が受け継がれている背景と考えられます。

 〝法華堂・御井戸庵〟に関しましては、WEB上に色んな方々が綴っておられますけど、こんな記載もありました(^.-)☆

 ◆御井戸庵(佐渡市中興)

 --- https://ameblo.jp/goreiseki1282/entry-12902609608.html ---

 宿泊していたホテルのほど近くに、「中興(なかおき)」という信号がありました。
 中興といえば、ご遺文にもある「中興入道」を連想しますよね!
 「丈六の卒塔婆を立て…」という「中興入道御消息」は、毎日のお勤めの際に読む、馴染みのあるご遺文です。
 ちなみに「入道」という敬称ですが、必ずしもイコール僧侶ではなく、在家信者でも「入道」のケースはあるようです。ただ位の高い方に「入道」の敬称が用いられる事が多いといいます。
 中興入道も地元の有力者だったのでしょう。
 中興交差点にも能楽堂がありますね。本当に佐渡は能が盛んです。能楽堂の向かいにひっそりと「御井戸庵」というご霊跡があります。
 小さいけどお堂が建っていますね。法華堂です。「中興」という地名からもわかるように、この付近に中興入道一族の屋敷があったと思われます。江戸時代に、道照日宣法師が開基となって庵を結んだようです。
 お堂の裏側に、中興入道の御廟がありました。時代を経て摩耗した小ぶりの宝塔が、中興入道ご夫妻の墓石だと思われます。
 中興入道のお父様は次郎入道信重といい、塚原問答の際に日蓮聖人の法話を聞いて感銘を受け帰依した、佐渡では阿仏房と並んで古参の信者です。子の中興入道も強い信仰を継ぎ、はるか遠い身延山まで日蓮聖人を訪ねて行き、ご供養を尽くしたそうです。
 そのせいでしょうか、先述の中興入道御消息だけでなく、奥様宛てのお手紙などもあるそうで、日蓮聖人とご縁がとても深かったと想像できます。
 ところで、このご霊跡は「御井戸庵」でしたよね。
 井戸にまつわる逸話でもあるのでしょうか?
 実際、お堂に護られた井戸があります。現役の井戸だそうです。一ノ谷の妙照寺が奉納した法塔がありますね。
 お寺の縁起によると、井戸は日蓮聖人の霊験により掘られたもので、井戸水(奥之清水)は眼病によく効いたといいます。
 また、この奥之清水を汲んで草庵に持ち帰り、墨を擦り、観心本尊抄を著したのだそうです。
 その後の教学信仰の根幹をなす渾身の著作を、敢えて一ノ谷から直線距離で2~3kmは離れている中興の井戸水・奥之清水で書いた、というわけですから、この井戸、そして水が持つ霊力の強さが窺えます。
 大荒行を5回も成満された佐渡内他寺のお上人とお話しした際、大荒行中、お曼荼羅を書く修行の時には、中興の奥之清水をわざわざ取り寄せ、墨に足したもので書く、という逸話を教えて下さいました。
 すごくないですか!?
 御井戸庵を訪問したのは朝の6時過ぎ、まだご近所にも人の姿がなく、とても静かに参拝することができました。
 よく清められているご霊跡で、いかに佐渡の宗門の方々が大切にしているかが窺えました。

 〝法華堂・御井戸庵〟の拝観を終えますと、次は〝ホテル万長〟方面に戻り「佐渡屈指の景勝地『尖閣湾』」を観光です。
 当初の予定では、「尖閣湾海中透視船グラスボート」に乗船でしたけど、昨日・今日の荒波では、とてもムリとガイドさん。う~ん、残念(^-^;
 とにかく、〝法華堂・御井戸庵〟とお別れし〝尖閣湾〟へとバスは向かいます。
 が、真野湾に面しますキレイな海浜公園で、暫しトイレ休憩となりました。このキレイな海浜公園は〝佐和田海岸〟でありました。夏には「佐和田海水浴場」として賑わいますようであります。
 周辺を少し散策してみましたら、〝モニュメント「日時計」〟がありました。
 因みに〝日時計〟の時間は、「3↑」に影が少し掛かり右側でしたから、午後3時過ぎと思われます。
 で、おもむろにスマホで時間を確認してみますと、〝15:13〟でしたから、日時計では、まぁこんなもんかも分かりませんネ(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(28)

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 〝たらい舟〟の乗船体験観光を終えますと、佐渡市中興方面へと戻りまして「中興入道草庵跡 御井戸庵」に向かいます。
 この周辺には観光バスの駐車場がありませんから、近くの〝金井能楽堂〟の敷地内に許可を貰って駐車です(^.-)☆
 この敷地には、「金井町名誉町民 掘治部愛子夫妻之像」が…ご夫妻の像の台座には説明文がありますけど、経年劣化で読み辛くWEB上で確認です。

 ◆堀 治部(ほり じぶ)

 --- https://tamabochi.web.fc2.com/PERSON/H/hori_ji.html ---

 1906.03.28(明治39)~1985.12.21(昭和60)
 昭和期の医師、随筆家、全財産を佐渡の金井町に遺贈

 新潟県佐渡郡新穂村出身。眼科医の本間芳太郎の二男として生まれる。1923.3(T12)県立佐渡中学校卒業。'31.3(S6)北海道帝国大学医学部卒業し医師免許を取得。
 同.9 新潟県佐渡郡上中興村の堀家の一人娘の愛子と結婚。治部は大学在学中(1928)に既に愛子の母の堀シン(同墓)と養子縁組を済ませていた。結婚前に養子縁組をしたのは、治部の祖母こうは堀家から新穂の本間萬吉に嫁した人で、その孫の治部は堀家にとって血縁関係であったからである。また治部が佐渡中学校へ通学する際、自宅の新穂からでは二里(8キロ)余りもあって遠いため、一里足らずの距離にあった中興の堀家から通学をさせてもらっていた。よって、治部と愛子は幼少の頃より兄妹のような関係で仲が良かった。このようないきさつがあり、堀家では一人娘の愛子を治部に嫁がせ、堀家を委ねることを決定したという背景がある。
 '36 堀家第9代家督を相続。同年、医学博士の学位を授与された。'37 支那事変に応召され、上海戦線に参加したが、翌年除隊。除隊後、東京淀橋区戸塚二丁目(東京都新宿区戸塚町)に耳鼻咽喉科医院を開業。医師の傍ら随筆を書き、'67 随筆『四つの旅』、'79 随筆『なにとなく』を出版。
 '80 医院兼住宅の建物が古くなったことから同じ場所に改築。建て替え期間は、静岡県伊豆高原に仮住まいを建てて、一時転居。転居の数か月後、妻の愛子は発熱と下血を繰り返すようになり、検査の結果、胆のうの病気と判明し手術を受けた。手術後、一時は小康を取り戻すが、八月になると再び悪化したため、東京の病院に転居することにした。
 '81.9 建設中だった鉄筋二階建ての新居が完成。一階をコンビニに賃貸し、二階を医院兼住宅として再び開業した。一進一退の病状を繰り返していた愛子は、その後の二度に渡る手術の効もなく、'82.8.9(S57)治部の手厚い看護もむなしく、不帰の客となった。治部は医師でありながら、死の直前まで苦しみ抜いた愛子を救えなかった痛恨の思いと、医療現場の課題を、随筆『影法師』としてまとめ、'83 愛子への鎮魂の書として刊行した。
 治部と愛子は子どもに恵まれず、養子も不縁であったため、かねてから旧家である堀家の跡目が自分たちの代で絶えるのは先祖に申し訳ない、せめて二人の財産を社会のために役立てたいと話し合っていた。そこで、'79(S54)にお互いを執行人とする公正証書を作成し、二人の没後は全財産を公共のために提供する考えを固めていた。その頃、中興の留守宅の管理を任されていた藤原重次郎が、たまたま上京した折に財産提供の話を聞いて、「せっかく寄付するのなら、実家のある金井町の発展に向けてほしい」と要望した。そのことを忘れずにいた治部は、愛子の葬儀を終え、気持ちの整理もついた、'82.10.2「愛子名義の財産の内、東京都の宅地と伊豆の山林を本人の遺贈として金井町で役立てていただきたいと思うので、意向を聞きたい」旨の手紙を藤原に送った。もちろん金井町は、その厚意をありがたく受け入れることとなり、治部はいくつかの希望使途を明記した上で、自分の死後全財産を金井町に遺贈するため万全の措置を講じた。愛子が亡くなった三年後、治部も逝去。享年79歳。
 寄贈された遺産より金井町はその功績に報いるため、'83.1.1 堀夫妻に「名誉町民」の称号を贈った。堀夫妻が名誉町民第1号となる。なお第2号は東京大学名誉教授の生物学者の浅島誠、第3号は日本画家の桑原義泰である。功績を賛えるとともに、夫婦の篤志を後世に伝えるため、中興の堀家跡に「金井町文化会館」を建設し、庭園に堀夫妻のブロンズ像を設置。本格的な能楽堂も併置し、演能をはじめ文化的行事に活用。'90(H2)東京都新宿区西早稲田に賃貸オフィスビルの鉄筋コンクリート地上八階・地下一階の「堀記念ビル」を建設。ビルにはコンビニ、商社、専門学校が入居、その貸賃収入はいったん積み立て、有効に使用すべき旨の町条例が制定された。そして、この多磨霊園に金井町が管理者として堀夫妻の墓碑を建てた。なお、金井町では、堀夫妻の遺徳を賛えるため、'91.3(H3)「金井町名誉町民 堀御夫妻」を刊行し、町内全戸に配布した。
 <金井を創った百人>
 <佐渡人名録「堀 治部・愛子 全財産を町に遺贈した医師夫妻」>

 ◆堀記念 金井能楽堂

 --- https://www.japan47go.travel/ja/detail/81527b95-7082-4191-9ce0-43678bfeff6d ---
 更新日:2025.06.24

 ・世阿弥ゆかりの地に建つ能楽堂
 世阿弥の配所として知られる金井地区の能楽堂。年間を通して、演能や様々な催しが開催されています。屋内の舞台は三方を観客席が囲む配置。6m四方の檜舞台、10m前後の橋掛かり、老松を描いた鏡板から成っています。旧金井町名誉町民・堀治部夫妻の旧宅跡に建ち、夫妻のふるさとへの多大な貢献を顕彰して銅像が建てられています。

 …と、こんな掘治部・愛子夫妻でありました(^.-)☆
 県道306号線沿いの〝法華堂・御井戸庵〟の表示板設置場所から狭い通路を〝法華堂・御井戸庵〟に進みます。

 ◆中興入道草庵跡 御井戸庵
 --- http://park8.wakwak.com/~nichiren/sadonichirensyuu/niibo/oidoan/top.htm ---

 ・お寺説明文
 【聖人硯水の霊蹟】
 中興入道が草庵を建て、大聖人を迎えたという。明治4年(1767)に道照日宣法師が本庵を建立し開基した。その後何回か改築しており、現在の堂は平成9年(1997)に建てたもので、妙照寺の付属建造物である。
 ここには日蓮聖人の霊験により掘られたとされる井戸があり、眼病に効くという。この水を使って「観心本尊鈔」を表したことは有名である。

 法華堂に到着しますと、建物脇に、こんな説明板もありました(^-^)/"

 ◆御井戸庵・御井戸

 日蓮上人ゆかりの中興入道案であり、法華堂という。道照日宣法師が、明和4(1767)に本庵を建立し開基した。其の後何回か改築しており、現在の建物は平成9年の始めに立てられたものである。
 ここには日蓮の霊験により掘られたとされる井戸があり、水は目の病に良く効いたという。
 この水を使って墨をすり、彼の三大経典の一つ、「観心本尊抄」を表したことは有名である。

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(27)

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 〝真野観光センター〟前の進路を〝赤玉石庭園〟を横目に進んで行きますと、二つの石碑が存在です。
 この石碑前を左折しますと〝真野御陵(順徳天皇御火葬塚)〟に到着ですけど、この二つの石碑は何なんでしょうネ…
 左側の石碑には、よく分かりませんけど「東宮駮駕之靈」と刻まれていますような…(違うかも)
 そして、右側の石碑も、刻まれています文字が読みにくいのですけど、部分的に「吉田松陰」と「宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)」の記載がありますから、吉田松陰と宮部鼎蔵が佐渡訪問時に詠んだ詩を刻んだ石碑のようなものなのかも…と、よく分かりませんから勝手に想像しますのみですけど(^-^)
 真野御陵参詣後には〝真野観光センター〟に立ち寄りですけど、特に求めたいモノもありませんし、トイレ休憩となりました(^.-)☆
 時間を確認しますと、もぅ正午近く。そろそろ昼食時間が到来ですけど、この辺りでは食事可能な施設も無さそうですネ…
 〝真野御陵〟とお別れし、日本海沿いを走行していましたバスは、途中から海岸沿いを離れ、北から南へ島を縦断で、到着しましたのが〝おみやげ市場「小木家」〟でありました。

 ◆おみやげ市場〝小木家〟

 --- https://www.visitsado.com/spot/detail0043/ ---

 佐渡が島、南の玄関口小木港直結のお土産、お食事処です。

 ・佐渡汽船ターミナル直結、佐渡観光の発着地
 「佐渡汽船小木港ターミナル」直結の佐渡名産を一堂に集めたショッピングセンタ-。海産物や銘酒、伝統工芸品、銘菓などがそろっています。喫茶&レストランでは、新鮮魚介を使った釜飯や定食など幅広いメニューを用意。名物は「いか釜めし」。佐渡市認証米“朱鷺と暮らす郷”を特製ダシで炊き込み、上にはイカ、エビ、ホタテなどの海の幸と竹の子、シイタケなどが彩りよく乗った逸品です。

 …と、こんな「おみやげ市場〝小木家〟」でありまして、昼食後には〝おみやげ市場〟を暫し散策後、向かいましたのが「たらい舟・力屋観光汽船」でありました。

 ◆たらい舟 力屋観光汽船

 --- https://www.visitsado.com/spot/detail0045/ ---

 気軽に体験!海上散歩「たらい舟」
 佐渡名物たらい舟と言えば「力屋観光汽船」。女性船頭さんが巧みに操る舟は、旅情を誘います。モーターボートも爽快感あり、佐渡版「青の洞窟」めぐりも人気を集めています。大駐車場、売店や軽食堂もありますのでお気軽にお楽しみいただけます。

 〝たらい舟〟ですか…今までテレビ等で観た事はありますけど、乗船は初めて(^.-)☆
 女性船頭さんのご指導を受け、漕いでみましたが、仲々思うようには進みません。「8の字を書くように漕ぐ…」との事でしたけど、一生懸命漕ぎ進むのですけど、GONsanの場合は、前に進まず、ドンドン後方へ(^-^;
 普通の「舟漕ぎ」になってしまいましたよ(^-^)
 まぁそれでも、楽しいひとときでありました(^_^)v
 この周辺の海岸沿いは、観光船で巡りますと大変美しい景観を楽しめますのでしょうけど、本日は、天候要因から観光船はお休みでしたのかも(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(26)

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 〝妙照寺〟を後にしますと、次は、〝真野御陵〟にと向かいます。

 ◆真野御陵
 新潟県佐渡市真野の国中平野を望む丘陵地にある順徳院(順徳上皇)の火葬地跡で、正式名称は「順徳天皇御火葬塚」。
 承久の乱が失敗に終わった結果、島流しとなった順徳上皇が還京叶わず崩御された際、荼毘に付されたその跡地に松と桜を植えて目印としたもの。墓所ではないが、御陵と同格扱いで宮内庁の管理となっている。塚から徒歩20分程の場所には順徳上皇を祀った真野宮がある。

 〝真野〟地区に向かいます時間帯・ルートは、信栄バスのガイドsanのご配慮で、〝トキ〟と遭遇出来ます可能性が高い行程を組んで頂けましたようであります(^_^)v

 ◆トキ

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 トキ(朱鷺、鴇、桃花鳥、紅鶴、鴾、学名:Nipponia nippon)は、ペリカン目トキ科トキ属に分類される鳥類。本種のみでトキ属を構成する。
 かつては世界でわずか数羽になるまで減少し絶滅の危機に瀕しており、日本では環境省レッドリストで「野生絶滅」の状態にあった。しかし日中両国の保護によって、2000年代以降は個体数が回復していった。2019年時点の個体数は、中国が2,600羽、日本が600羽、韓国が363羽。
 学名は Nipponia nippon(ニッポニア・ニッポン)で、日本の国鳥ではないものの、しばしば「日本を象徴する鳥」などと呼ばれることもある。新潟県の「県の鳥」、同県佐渡市と石川県輪島市の「市の鳥」である。

 ◆佐渡の野生トキ、放鳥14年で初の500羽超え…「本州での放鳥を目指す」

 --- 2022/10/14 10:17 讀賣新聞オンライン ---

 環境省佐渡自然保護官事務所は13日、新潟・佐渡島の野生下で生息するトキが推定569羽(8月末現在)となったと発表した。野生復帰に向けて同省が2008年から実施する放鳥事業の開始以来、初めて500羽を超えた。
 生息数のうち、放鳥は151羽、野生生まれは418羽で、野生生まれが全体の7割強を占めた。
 生息数は、昨年末時点で478羽だった。同事務所は、 猛禽もうきん 類に襲われたり、寒波で死んだりする個体が少なかったことなどが増加の要因とみている。
 また、同事務所は、野生下で生息するトキ184組(前年比37組増)が営巣し、うち60組(同26組増)から133羽(同57羽増)が巣立ったと推定されるとの今年の最終的な繁殖結果も明らかにした。
 稲刈りの田んぼのそばで餌取りするなど、トキは島内で身近な存在になりつつある。同省は、野生復帰に向けた行程表で、国内の成熟個体の生息数1,000羽以上を最終目標に設定している。26年以降に石川県と島根県の2地域でも本州初となる放鳥を行う予定だ。
 同事務所の沢栗浩明・首席自然保護官は「500羽は一つの節目ではあるが、本州での放鳥を目指し、この先も取り組みたい」と述べた。

 …と、こんな〝トキ〟の現状のようであります。
 真野に向かいます途中の田んぼには、数羽のトキが…そして、実にタイミング良く飛び立ってくれましたけど、〝トキ〟の羽根の裏側の美しいこと\(^o^)/
 〝トキ〟が羽根を閉じています時には、ほぼ白一色に感じますけど、飛行中の〝トキ〟の羽根の裏側…何とも言えません美しさ。羽根の裏側が、こんなにも美しいとは、全く知りませんGONsanなのでありました(^.-)☆
 ですが、哀しいかな、その美しい姿を画像に納めます事は叶いませんでしたネ(^-^;
 車窓から〝トキ〟を眺めながら、バスは国府川を通過です。その際に、ガイドさんが、曽我ひとみさんと母・曽我ミヨシさんの拉致事件について触れられましたネ。

 >1978年(昭和53年)8月12日、曽我ひとみさんと母・曽我ミヨシさんは、旧・真野町(現在の佐渡市)で「買い物から自宅へ帰る途中」に
 >北朝鮮の工作員に拉致されたとされています。被害発生現場は自宅近辺であるとされ、市や関係者の視察記録には国府川(こくふがわ)
 >河口付近の真野地区が拉致現場の一つとして言及されています。
 >なお、警察や自治体は正確な経緯・所在の解明を続けており、細かな地点については公開情報に限りがあります。

 …との事で、「拉致された場所は、この辺りです…」と話されました際に、車窓から外に眼を移しますと〝タバコ屋〟sanの看板が見えました。
 後で、Googleマップで確認してみましたけど、この辺りでしたのかも…
 拉致されましてから、既に47年で、日本に帰国されましてから、もぅ23年経ますのですねぇ~この永い期間に想いを馳せますと、何とも言えません感慨が…
 こんなモヤモヤ感に包まれていますと、バスは〝真野御陵(順徳上皇火葬塚)〟へと到着です。バスは、〝真野観光センター〟真ん前の駐車場に。

 ◆真野観光センター
 -- 史跡の里に建つ老舗みやげ店 --
 「真野御陵」に隣接。無名異焼、各種銘菓、地酒など佐渡の名産品を幅広く取り扱っています。また、佐渡で産出される「赤玉石」は、皇居や伊勢神宮にも設置されている銘石。その美しい輝きを配した赤玉石庭園で、展示・販売をしています。食事は団体のみですが、大佐渡山脈、真野湾を眺望する喫茶があります。

 ◆真野御陵(まのごりょう)
 -- 還京叶わず佐渡に散った順徳院の火葬塚 --
 正式には「順徳天皇御火葬塚」。順徳上皇は「承久の乱」で佐渡配流となり、在島22年の末1242年、46歳で崩御。翌日、火葬され、その跡に松と桜を植え目印としたのがこの火葬塚です。御遺骨は翌年帰京。父帝・後鳥羽上皇墓所のかたわらに安置されました。火葬塚は御陵と同格扱いで宮内庁の管理。近くに順徳上皇を祀った真野宮があります。

 〝真野観光センター〟には、後で立ち寄りますので、先に〝真野御陵〟へと向かいます。が、赤玉石が所狭しと並びました〝赤玉石庭園〟には、珍しさもありまして足が止まりましたネ(^-^)庭園には、こんな案内板が…

 ◆佐渡銘石 赤玉石
 赤玉石は、日本三大銘石の一つで、両津市赤玉部落より産する良質の鉄石英を赤玉石といい、古来より赤は炎を連想させることから魔除け石といわれ、島内の各家庭でも玄関や床の間の飾りとして愛用されています。

 WEB上で〝赤玉石〟を調べてみますと、こんな記載もありました。

 ◆佐渡赤玉石とは?特徴・価値を解説!

 --- https://nikkoudou-kottou.com/blog/jewelry/12195 ---

 ・佐渡赤玉石とは?
 佐渡赤玉石は、産地である新潟県佐渡市をはじめ各地で採取される石を指します。名前からして佐渡の特産品のように思われるかもしれませんが、実は北海道や静岡県、富山県などでも採取されています。
 しかし品質としては、佐渡市で採取されたものがいちばん良いとされています。
 そんな佐渡赤玉石は、鉱物学的には石英の一種です。石英は二酸化ケイ素の結晶で、本来なら無色透明に近い仕上がりになりますが(完全に無色透明のものは「水晶」と呼ばれます)、佐渡赤玉石はその成立過程で赤みを帯びた酸化鉄が入り込むことによって、赤い色に仕上がっています。
 独特の色合いがあるということで、鑑賞石の世界では古くから珍重されてきた歴史があります。特に表面を丁寧に磨くと独特の光沢が出てつやつやした質感になるということで、高い人気を誇ります。
 また、赤い色は古くから魔を払う効果があると考えられてきた歴史があることから、佐渡赤玉石はパワーストーンのひとつとしても人気があります。

 ・佐渡赤玉石の価値
 佐渡赤玉石は、磨き上げたときの光沢や鮮やかな赤、独特の風合いもあって鑑賞石・銘石として高い人気を誇っていますが、それと同時に高い価値を持つ石でもあります。
 もちろん多くの鑑賞石・銘石がそうであるように、大きさや形状、状態によって価値は大きく左右され、数千単位の値しかつかないこともあります。
 一方で、状態が良ければ数万単位の値がつくことも珍しくありません。
 たとえばテレビのお宝鑑定番組で2つの佐渡赤玉石が同時に出品されたとき、一方は数十万円、もう一方は数百万円という大きく違うプライスが発表されたことがあります。

 ◆佐渡赤玉石ってどんな石?

 --- https://www.ne.jp/asahi/isi/akadama/setumei.htm ---

 佐渡市(旧両津市)の赤玉地区より産出されるものだけを佐渡赤玉石といいます。鉄分と石英が高熱と高圧で結合した石で、非常に硬く(硬度は6.5~7.0)磨いたときに透明感のある光沢がでます。色彩の美しさは日本一と言われて日本三大名石のひとつとされます。
 〝赤玉〟という呼び方には、二つの説があります。一つは玉のように一つずつ出てくるからだと言う説と、もう一つは玉(ぎょく)のような輝きをもつ石だから赤玉石というと言う説がありますが、現在では後者の説が一般的です。
 天正18年に真野俊隆が佐渡産の赤石を豊臣秀吉に献上したことがあり、このときは〝朱真石〟と呼んだといわれます。
 古事記や日本書紀にも赤玉の歌があり、この歌が佐渡産の赤玉石に由来するという学説をとなえる人がいるが、定かではありませんが、弥生時代より加工され、勾玉や管玉として装飾品に使われ、江戸時代にはキセルの根付などにも使われました。適度な大きさのものは、磨いても自然のままでみても良いことから観賞石や水石として珍重され、また大きなものは、庭石として使われました。庭石としては石組みに使うものではなく、必ず一石を庭や玄関等の目立つ所に置き眺める飾り石です。また古くから朱(赤)は魔を払うと言われることから、佐渡赤玉石は縁起の良い石といわれ、佐渡では家の玄関や床の間に家の守り石として飾られてきました。しかし、近年では産出量はほとんど無くなってしまい、非常に貴重な石になっています。

 真野御陵(順徳天皇御火葬塚)が近付いて来ますと、こんな説明板もありました。

 ◆中部北陸自然歩道 順徳天皇御火葬塚

 承久の変(1221年)で佐渡へ御遷幸の順徳帝は、在島22年仁治3年(1241年)9月46歳で島の行在所で崩御された。この真野山で御火葬、御遺骨は翌寛元元年(1242年)4月従臣藤原康光によって都に帰られ、大原の父後鳥羽帝の墓所の傍らに埋葬された。
 この御火葬所の地は従来「真野御領」と称されてきたが、明治22年6月京都大原墓所が陵に定められると、ここは「御火葬塚」となるが御領と同じ取り扱いをされ宮内庁で管理。
 戦国内乱期に境内は大いに荒廃したが、江戸時代延宝6年(1678年)国分寺と末寺(御領別当)真輪寺の僧の修復願出により、時の佐渡奉行曽根五郎兵衛は幕府の許可を得、翌年には方五十間の環境域復旧した。外部の石垣は明治8年相川県参事鈴木重嶺の修復になる。
 -- 環境省・新潟県 --

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(25)

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 ◆妙照寺火災発生時の一時情報
 ・妙照寺の所在地・参道・仁王門など、境内構成に関する説明(寺院公式や観光案内)。本堂・祖師堂・宝蔵・経蔵などの建物名が紹介されています。
 ・2021年12月6日の火災で「本堂・祖師堂・三十三番神堂・庫裏の4棟が全焼」したという報道。
 ・涅槃図は「土蔵(宝蔵・収蔵庫)に収蔵されていた」として、蔵は被災を免れた可能性が示唆されています。

 焼失を免れました「経蔵」脇の石段を上がった少し高い所から境内を見渡しますと、今は、再建中の本堂のみが中央に…
 2021年12月6日以前には、本堂の周りに祖師堂・三十三番神堂・庫裏・宝蔵・経蔵の建物が存在し、日蓮聖人が「観心本尊抄」を著し、「法華曼陀羅」によって教義を確立させた地として日蓮宗の霊跡であります「妙照寺」。
 永い歴史のあります古刹でも、火災が発生しますと何もかも失ってしまいます。再建中の本堂を見下ろしておりますと、改めて火災の怖さを痛感してしまいますネ。
 火災と言いますと、先月中旬(11/18)に発生しました大分県佐賀関の大規模火災。火元は空き家とも聴いていますけど、火災発生当日は、立っていられません程の強風が吹きまくっていましたとか…
 妙照寺の火災発生時も同様でしたのかも…
 境内での焚き火が目撃されていますけど、強風に煽られ一瞬のうちに燃え広がりました可能性が無い事も…
 当時の火災発生時の報道ニュースによりますと、あまりにも激しい燃えかたですから、この時期の空気の乾燥・強風等が容易に想像されてしまいます。
 思い思いに過ごしておられます皆さんを画像に納めながら、少々虚しさも抱いてしまいますGONsanでありました。
 あまり信心深いGONsanでもないのですけど、そぅは言いましても、やっぱり、焼失前に、訪れたい〝妙照寺〟でありました(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(24)

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 鈴木日教貫首からご挨拶と、〝妙照寺〟の沿革・近況等のお話しがありましてから、〝曼荼羅奉掲塔〟の前で御開帳です。
 御開帳を終えますと、主要な建物は焼失ですけど、一応、境内を拝見です。

 ◆妙照寺
 日蓮聖人が庵を結んだ名刹。「開目抄」を記した塚原の三昧堂から一谷(いちのさわ)に移り、1274年に赦免されるまでの約2年半を過ごしました。「観心本尊抄」を著し、「法華曼陀羅」によって教義を確立させた地として日蓮宗の霊跡となっています。日蓮聖人自らが山号・寺号を授けた寺としても知られ、草庵跡地に祖師堂が建っています。

 …と、WEB上には、焼失前の〝妙照寺〟のこんな記載が…
 山門正面には、どっしりとした茅葺屋根の本堂が存在しましたのでしょうけど…もっと早くに〝妙照寺〟を訪れておりましたら参詣が叶いましたのに、本当に残念ではありますネ。

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(23)

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 バスが妙照寺に到着で、社外に出ますと、眼の前に再建中の本堂が…
 このまま進みますと本堂への最短距離となりますけど、ちゃんと参道を通りまして山門へ向かいます。この山門は、焼失を免れましたのでしょうネ…
 山門入口脇には、〝涅槃図〟と〝洛中洛外図屏風〟の、こんな説明板が(^_^)v

 ◆涅槃(ねはん)図

 --- 佐渡市指定 有形文化財(絵画) 平成16年3月1日指定 ---

 涅槃図とは、釈迦の入滅時の様子を描いた絵図のことで、釈迦の遺徳を称える涅槃会の際には寺の本堂などに掲げられ、参拝が行われる。
 この絵図は、縦3.28m×横3.58mもの巨大なもので、図面は沙羅双樹の中央の宝台に北枕、西向きに横になる釈迦を囲む諸菩薩、悲泣する仏弟子・俗衆と動物たち、上空には急ぎ飛来する生母摩耶夫人たちの姿が描かれており、画法・色彩ともに優れている。
 画中には「雪舟八代長谷川等玉信雪筆」の墨書銘と落款があり、作者は絵師の長谷川等玉であることが確認できる。

 ◆洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)

 --- 佐渡市指定 有形文化財(絵図) 平成16年3月1日指定 ---

 洛中洛外図とは、京都の洛中(市内)と洛外(郊外)の建物や四季の風景、庶民の生活の様子などを描いた風俗絵である。
 この屏風は6曲1双、縦1.55m×横.60mで、右隻に洛中の北野神社及び経堂が中心に描かれ、内裏や二条城が省かれており、佐隻の洛外には鴨川以東の様子が描かれている。建物の様子から寛永元年(1624)頃の京都が描かれていると考えられており、このことから作品の制作年代も江戸時代前期と推定されている。
 この屏風は、所蔵する妙照寺に長谷川等玉作の涅槃図(市有形文化財)が伝わっていることや、長谷川本らしき画風から、長谷川派に関連した作品と考えられている。

 山門から境内に入りますと、57世・鈴木日教貫首(横浜市戸塚区蓮久寺より晋山)が迎えて下さいました。
 境内のほぼ中央部に「曼荼羅(御本尊)を安置した石造の奉掲塔・顕彰碑」が存在です。これは焼失を免れましたのでしょうネ…
 で、この「石造の奉掲塔・顕彰碑」は何と言えばイィのでしょうね。〝法華曼荼羅奉掲塔(ほっけまんだら ほうけいとう)〟〝曼荼羅奉安塔(まんだら ほうあんとう)〟〝顕彰碑(けんしょうひ)〟…と、お寺によって色々なのでしょうけど、〝曼荼羅奉掲塔〟とでも呼びましょうか(^-^)
 本堂は再建の真っ最中ですから、本日の御開帳は〝曼荼羅奉掲塔〟の前で執り行われますのでしょうね(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(22)

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 〝妙照寺〟の当時の火災に関しましては、こんな記事もありました。

 ◆日蓮ゆかりの寺出火、佐渡 4棟全焼、消防1人けが

 --- 2021/12/06 18:58 産経新聞 ---

 6日午前11時50分ごろ、新潟県佐渡市市野沢の妙照寺から出火、地元消防によると、本堂と、「祖師堂」と呼ばれる建物など、敷地内で計4棟が全焼した。消防団員1人が消火作業の際にけがをした。
 佐渡市観光サイトによると、妙照寺は日蓮が13世紀、佐渡島に流刑となり2年半過ごした場所に建てられた。消防と佐渡署が原因を調べている。

 当時は、佐渡島で放火による火災も発生していましたとか…
 当時のご住職は、火災焼失による責任を感じられ、自殺された旨も耳にしていましたので、〝ChatGPT〟に尋ねてみますと、

 ◆質問:佐渡島の〝妙照寺〟の火災原因は、何でしたのでしょう?

 ◇妙照寺(佐渡島)で起きた火災について報じられている出火原因は、「近くでたき火(焚火)が行われていた」という「失火」の可能性が高い、というものです。
 ・背景と経過
 火災は2021年12月6日、佐渡市市野沢の妙照寺で発生し、本堂や庫裏など複数棟が全焼しました。当時の報道で、出火元は「本堂」とされ、屋根から火が上がるのが確認されたとのこと。
 また、「境内でたき火をしていた」という目撃情報があったと報じられており、それが火災の原因とみられています。
 ・ただし“確定”ではない点
 出火原因の詳細について、公式に「たき火が原因である」と最終断定された、という公的報告は私の確認できた範囲では見当たりません。
 一部報道・ブログなどでは「放火の可能性」も言及されたようですが、警察や消防は“失火”とみており「事件性は低い」とされた、との情報もあります。
 つまり、現時点で最も有力な見方は「焚火(たき火)が原因の失火」ですが、「放火だった」と断定されたわけではなく、「調査中/不詳」の可能性も残されている…というのが実際のところです。

 ◆質問:当時のご住職は、責任を感じ自殺なさったと聴きましたけど、真偽の程は?

 ◇ChatGPT:私が確認した範囲では、妙照寺(佐渡市)の当時のご住職が、「火災の責任を感じて自殺した」という報道や、公的な記録は見つかっていません。
 ・公に裏付けられた情報:火災によって本堂などが焼失したことは複数の報道で確認されています。
 2022年11月には、新たな貫首(住職)が就任して寺の“復興再建”に向けた取り組みが始まった、という報告があります。
 ・自殺の噂について -- 根拠なし
 上記の報道(火災、再建、新貫首就任)において、ご住職の“死亡”あるいは“自殺”に関する言及はありません。
 また、寺や宗派の公式アナウンス、地域報道においても、そのような事実を示す記事は確認できませんでした。
 ネット上でそのような「聴いた/聞いた話」「噂」として語られている可能性はあるかもしれませんが、それはあくまで“噂・憶測”の域を出ないようです。
 ・結論として
 現在のところ、「ご住職が責任を感じて自殺した」という説には 信頼できる根拠はなく、史実・報道としては 「確認されていない」 と言うのが正確です。
 調べた結果を端的にまとめます -- 結論から言うと、「当時のご住職が責任を感じて自殺した」という裏付けのある報道や公的記録は見つかりませんでした。

 火災が発生しました当時には、境内で〝焚き火〟をしておられ、それが、瞬く間に燃え広がりましたのでしょうネ。
 火災発生時刻は、真っ昼間のA.M.11:50頃とか…本堂は茅葺き屋根ですから、不注意な焚き火でしたのかも…

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(21)

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 佐渡金山の〝宗太夫坑コース〟〝道遊坑コース〟〝道遊の割戸〟の観光を終えますと、次は〝妙照寺〟に向かいます。
 〝妙照寺〟をWEB上で検索しますと、こんな記載がありました。

 ◆妙法華山 妙照寺

 --- https://temple.nichiren.or.jp/4031012-myoshoji/ ---

 日蓮聖人が庵を結んだ名刹。
 「開目抄」を記した塚原の三昧堂から一谷(いちのさわ)に移り、1274年に赦免されるまでの約2年半を過ごしました。
 「観心本尊抄」を著し、「法華曼陀羅」によって教義を確立させた地として日蓮宗の霊跡となっています。日蓮聖人自らが山号・寺号を授けた寺としても知られ、草庵跡地に祖師堂が建っています。

 ◆妙照寺(佐渡市)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 妙照寺(みょうしょうじ)は、新潟県佐渡市市野沢にある日蓮宗の寺院。佐渡流罪の日蓮聖人が住んだ土地で、赦免までの2年間を過ごした場所に寺院を建立した。日蓮宗の本山(霊跡寺院)。山号は妙法華山。

 -- 歴史 --
 1272年(文永09年)4月 - 日蓮、塚原三昧堂から当地に移る。
 1273年(文永10年)4月 - 日蓮、当地で観心本尊抄を著す。
 1274年(文永11年)3月 - 日蓮、赦免により鎌倉に帰る。
 1275年(建治元年) - 当山2世日静、日蓮から寺号を授かる。
 昭和20年代に日蓮宗から離脱し単立寺院となる。
 1962年(昭和37年)4月 - 日蓮宗に復帰する。
 2021年(令和03年)12月6日 - 正午前、茅葺屋根の本堂を含めて四棟が全焼。
 現住は57世・鈴木日教貫首(横浜市戸塚区蓮久寺より晋山)。通師雑司ヶ谷法縁。

 ◆新潟北 佐渡市本山妙照寺に新貫首就任

 --- 2022年11月29日日蓮宗新聞社 ---

 新北230110【新潟北】令和4年11月29日付で、佐渡市霊跡本山一谷妙照寺の第57世貫首に鈴木日教(浄元)上人(横浜市蓮久寺住職・日蓮宗全国布教師連合会会長)が就任された。
 鈴木新貫首の下、令和3年12月6日の火災で焼失した同寺の復興再建を目指し全国宗門寺院に向け浄財を募る『妙照寺復興再建勧募趣意書』を送付。同貫首より復興に向けた挨拶が次の様に述べられた。
 「妙照寺は原因不明の火災により本堂、祖師堂、三十番神堂、客殿が焼失してしまいました。全国の皆様にはご心配、ご迷惑をおかけして誠に申し訳ございませんでした。この度、法縁、檀家総代のご推挙で、令和四年十一月二十九日、霊跡本山一谷妙照寺の住職に就任いたしました。ご存じの通り、一谷妙照寺は霊跡本山で、お題目信仰者の心の支えであります。宗祖の一谷のご生活は付き添う弟子の方、七、八人いられたそうで、食も足らずに、ご苦難のご生活を二年間過ごされた場所でございます。他宗の迫害も多い中、宗祖当身の大事『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』述作、そして大曼荼羅本尊始顕の聖地であります。これからは、身命を賭して、復興に取り組み、一日も早く本堂・客殿等の建設が出来ますように邁進していきたいと思っております。全国の寺院、檀信徒にご支援ご協力賜りますよう何卒お願い申し上げます。浅学不徳の身ゆえ、行き届かない点があると思いますが、ご指導ご鞭撻賜りますようお願い申し上げます。」仮入山式は4月25日に開催予定。

 ※ 妙照寺の復興再建勧募金は、以下の郵便振替口座にて受け付けている。
   ゆうちょ銀行、口座名:妙照寺復興会、口座番号:00530-7-49411

 ◆日蓮聖人が2年半暮らした寺、ほぼ全焼…「瞬く間に燃え広がった」

 --- 2021/12/08 20:22 讀賣新聞オンライン ---

 6日午前11時45分頃、新潟県佐渡市市野沢の妙照寺から出火、消防車12台が出動して約8時間後に鎮火したが、本堂と住居部分など複数の建物をほぼ全焼した。消火作業で50歳代の男性消防団員が軽いけがをした。佐渡署が出火原因を調べている。
 市などによると、妙照寺は、鎌倉時代に佐渡島に流された日蓮聖人が2年半暮らした寺。本堂はかやぶき屋根で、江戸時代初期に再建されたとされる。
 市有形文化財の「涅槃ねはん図」と「洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)」を所有しているが、文化財が無事かどうかは確認できていないという。
 現場から北西に約350メートル離れた二宮(にくう)神社では11月22日、本殿と拝殿、社務所が全焼する火災が発生。その火災の前に、神社に火を放って回廊の高欄などを焼いたとして近くに住む男が非現住建造物等放火の疑いで逮捕されている。
 近所の70歳代男性は「瞬く間に燃え広がり、どうしようもなかった。歴史ある寺や神社を失うのはつらい」と話していた。

 …と、こんな記載で、日蓮聖人が庵を結んだ名刹であります。
 「開目抄」を記した塚原の三昧堂から一谷(いちのさわ)に移り、日蓮聖人は、1274年に赦免されるまでの約2年半を過ごしました…こんな、由緒ありますお寺なのですけど、2021年(令和03年)12月6日の正午前、茅葺屋根の本堂を含めて四棟が全焼ですから哀しいですネ。
 令和4年11月29日付で、佐渡市霊跡本山一谷妙照寺の第57世貫首に鈴木日教(浄元)上人(横浜市蓮久寺住職・日蓮宗全国布教師連合会会長)が就任され、現在、再建中でありました。
 こぅした事情もありまして、焼失前の〝妙照寺〟の画像をWEB上から集めてみますと、こんな立派な〝妙照寺〟でありました(^.-)☆

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(20)

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 ◆佐渡小判と佐渡一分金 (佐字小判)(佐字一分金)

 佐渡に現存する唯一の鑑定書付き小判及び一分金で、享保年間(西暦1716年~1724年間)に製造されたものと言われています。小判は保存状態が極めて良い極美品で黄金色が鮮やかに残っています。小判裏面の右上端に佐渡を示す丸に「佐」の文字刻印が打刻され、小判師刻印は丸に「又」の文字、吹屋刻印は丸に「神」の文字が打刻されています。
 これらの打刻を座人印といい、筋神、利神、髙神、又神の4種に限られています。この内「又神」は稀少な組合せです。
 品位:金861/銀139 量目:小判 17.78g 一分金 4.43g

 〝展示資料館〟内を一通り拝見し外に向かいますと、売店に出て来ましたネ。
 売店前には〝宗太夫坑〟の、こんな説明板が…

 ◆国指定史跡 「宗太夫坑」

 宗太夫坑は、坑口の高さが約3メートル、幅2メートル、坑道の断面が大きい江戸初期に開坑された大型坑道である。
 鉱石の運搬機能と採掘技術が発達した1690年代(元禄時代初頭)頃の主力間歩(まぶ/坑道)の一つであった。
 部分的に残る「将棋の駒形」の小坑道、採鉱用の小さい狸穴、天井に抜ける空気坑、「釜の口」と呼ばれる坑口とその飾りなども江戸期の旧坑の諸条件を完備していて、大形の斜坑はゆるやかな傾斜で海面下まで延びている。
 脈幅・走行延長とも、この鉱山の最高最大とされる青盤脈の西端に当たる「割間歩(われまぶ)」坑の一坑区として開発された。
 平成6年(1994年)5月24日、国の史跡に指定された。

 ところで、本年4月から〝宗太夫坑コース〟と〝道遊坑コース〟とが、1枚のチケットで回れる共通チケットになりましたようですから、皆さんに付いて、次は「道遊坑コース」へ向かいます(^-^)/

 ◆【2025年】佐渡金山がチケット1枚で2つのコースを回れるようになってお得感が倍増!!

 --- 2025年4月6日 https://www.anbata-rakuiku.fun/torendo/sadokinzan-koudou-2ko-su/ ---

 ・日本最大の金山が見せる壮大な歴史ロマン
 佐渡金銀山400年の歴史を伝える史跡。宗太夫坑では、人形を使って当時の採掘作業を忠実に再現。道遊坑には、明治期以降の近代化産業遺産群が残ります。さらに「東洋一の選鉱場」「日本初の西洋式竪坑」などの産業遺産も周辺に良質な状態で保存されており、壮大なスケールに驚かされます。

 ・2025年4月から佐渡金山の宗太夫坑コースと道遊坑コースが、1枚のチケットで回れる共通チケットになりました!
 今までは、コースごとにチケットを買わなければいけませんでした。
 これだと、販売する人も大変ですし、観光する人もどっちを観ればよいのかよくわからないんですよね。
 実際私も、初めて佐渡金山を観光しに行ったときに「どっちがいいの?」と悩みました。
 説明書きはあるけど、読むのが大変だから、1枚で済ませられるのはかなりありがたいです。と言うことで、早速佐渡金山2つのコースを堪能していきます。

 …と、WEB上には、こんな記載もありましたネ(^.-)☆

 ◆道遊坑道コース(佐渡金山)

 --- 更新日:2025.06.23 https://www.japan47go.travel/ja/detail/a171ca4b-e209-4de6-84e3-f20c0ab6647b ---

 【道遊坑】
 明治32年、佐渡鉱山の主要鉱脈「道遊脈(どうゆうみゃく)」の開発を目的に開削された主要運搬坑道で、平成元年の操業停止まで使われました。
 鉱山の各主要坑道とつながっており、鉱石を積んだトロッコは道遊坑の西側にある高任坑(たかとうこう)から破砕場へ運ばれ、破砕場で鉱石を降ろした空のトロッコがこの道遊坑を経て坑内へと戻ってくるというサイクルで運搬を行っていました。

 【機械工場】
 鉱山の安定した操業には、機械類の修理等を外部に委託せずに自前で行えることが肝心でした。そのため佐渡鉱山には工作課という部署が設けられていました。ここにある工作機械類は、昭和27年の佐渡鉱山大縮小の折、北沢地区の機械工場より移設されたもので、現在でも使える機械が数多く残されています。また、機械工場の内外には、坑内で使った機械類も展示しております。

 【高任公園】
 明治期鉱業界の第一人者で、初代佐渡鉱山局長として近代化を指揮した大島高任(おおしまたかとう)の功績をたたえ、付近は「高任地区」と呼ばれています。
 高任公園からは、「道遊の割戸(どうゆうのわれと)」の雄大な全景や、江戸時代初期に佐渡金山の発見とともに栄えた最初の鉱山町跡「上相川(かみあいかわ)」、さらに相川湾の向こうには名勝「春日崎(かすがざき)」が一望できます。また、大島高任を祀った「高任神社」、「道遊の割戸」直下の大規模な採掘跡が望める展望台などが徒歩約7分の距離にございます。

 ◆佐渡金山遺跡

 --- 更新日:2025.06.23 https://www.japan47go.travel/ja/detail/d54412be-54cd-4994-ac9a-68f48668ed8c ---

 佐渡金山は、近世における日本最大の金銀山です。
 開山は1601年とされ、江戸時代に最盛期を迎え、その後明治~平成元年(1989年)の操業停止まで盛衰を繰り返しながら400年近く続いた歴史があります。
 山の中央をV字に立ち割った壮大な景観、「道遊の割戸」は佐渡金山のシンボルで、壁面にも多くの坑道跡を見ることができます。
 宗太夫坑江戸金山絵巻コースでは、「佐渡金山絵巻」に描かれている手掘りの採掘作業が蝋人形で忠実に再現されており、資料館も見ることができます。
 道遊坑明治官営鉱山コースでは、当時の姿のまま残されている坑道や、トロッコ、機械工場などを通じて鉱山の近代化の様子を知ることができます。
 「道遊の割戸」を間近に見るポイントや直下の採掘跡など金山のシンボルを堪能できるのもこのコースの魅力です。
 ガイド付 世界遺産ツアーでは、「北沢浮遊選鉱場」、「大立堅坑」といった産業遺構や、金銀山にかかわる様々な史跡や人々のくらした文化のあとが残る町中をガイドの案内で巡ることができます。
 より深く金山について知りたい方は、ヘルメット、懐中電灯を身に着け、坑道を探検する上級者向け「ガイド付 山師ツアー」に挑戦してみては?
 佐渡金山にある坑道・採掘跡、産業遺構は国の重要文化財、史跡、近代化産業遺産に指定され、世界遺産候補にもなっています。

 【国指定記念物(史跡)】
 ・名称:佐渡金銀山遺跡、道遊の割戸、宗太夫間歩、鐘楼、御料局佐渡支庁跡
 ・指定年月日:平成6年5月24日

 ◆割間歩と父の割戸(国史跡)

 正面の崖下は割間歩と呼ばれ、1601年佐渡金山開山の一つで、山師 渡辺弥次右衛門が発見したと伝えられています。
 当時の有力山師 味方但馬が開発を進め、江戸初期の主力鉱山でした。しかし、最下流に位置することから、大雨の度に坑道が水没し、水との闘いであったとの記録が残されています。
 水替人夫として江戸・大阪などから連れて来られた無宿人の宿舎跡が道路脇に残っています。
 正面の崖の山頂部には、父の割戸と呼ばれる露天掘り採掘跡があります。(写真)

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 ◆鋳貨は後藤役所で

 延金(のしきん)の純度鑑定後は、銅気目利(どうけめきき)といい、焼き檜木で延金の表面をこすり、現れる炎の色で銅分の有無を調べる。合格した延金は、小判所戻され小判一枚の重さに荒切される。
 荒切小判は、後藤役所にまわされ打ち延ばし、大きさ、形、厚みを整えてほぼ小判の形になったら、先が線状にとがった槌でゴザ目をつける。表と裏には極印が打たれ、佐渡製造の小判にはマル佐の極印が打たれた。
 仕上がった小判は、銀を混ぜてあるので白っぽくなる。これを鮮やかな黄金色にするには、色付け薬にひたして色付け釜で焼く。さらに炭の粉を付けて水洗いし、塩で磨いてまた水で洗う。
 完成した小判は、後藤役所で最終的に目方を計り、合格したものは符印し御金蔵に納める。
 後藤役所は、江戸幕府直轄の金貨鋳造発行所で、勘定奉行の支配下にあった。役人は後藤家が代々世襲し、請負形式で金貨の鋳造・鑑定・引替・買取・監察を行った。初期には江戸、駿河、佐渡、京都にあったが、江戸後期には凡て江戸にまとめられた。
 元和8年(1622)に始められた佐渡での小判鋳造は、江戸前期に一時廃止になったが、元禄15年(1702)に再開され、その後鋳造と中止を繰返したが、文政2年(1819)完全に鋳造中止となり、以後は焼金で上納された。

 ◆道遊の割戸
 鉱脈の露頭を掘り下げた跡を割戸という。近世初期の採掘による。

 ◆お知らせ
 金塊取出し体験は中止致します。
 体験を楽しみにお越し頂いたお客様におかれましては大変申し訳ございません。
 ・重量12.5kgの本物の金塊(24K,99.99%)
 ・時価2億5千万以上(金価格20,000円/gで計算)
 ※ 金塊はケースの中で触って、その重さを実感下さい。

 ◆佐渡産の「金塊」
 佐渡鉱山では鉱石の中に金がどの程度入っているかを調べる分析を行っていました。
 昭和40年頃までは「乾式分析」を行っていたので、金粒が少しずつ残りました。その粒をまとめた金塊で、純金ではありません。おそらく金品位98%前後の金塊だと思われます。
 佐渡金山の鉱石には銀が10倍くらい含まれていたので、この様に銀塊の方が多く作られました。銀塊には銅成分も混入されている場合があるので、ピンク色の銀塊も含まれています。
 今回一枚の重さ220グラム。

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(18)

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 興味深く拝見しながら坑道を進んでおりますと、そろそろ〝宗太夫坑コース〟の見学も終わりへと近付いて来まして、坑内から外へ(^-^)
 〝宗太夫坑〟の出口には、「横引場(坑内の検問所)」の説明板が…

 ◆横引場(坑内の検問所)
 穿子(ほりこ)が坑内から運び出した叺(かます)に入った鉱石や捨石の数量を検査して、不正防止と賃金支払いの目安とした。
 叺はむしろで作った運搬用の袋のことで、一荷は五貫目(19kg)。

 そして、説明板前の橋を渡って行きますと〝佐渡金山展示資料館〟に入って行く事となりました(^.-)☆

 ◆佐渡金山展示資料館

 ・施設案内:江戸時代の佐渡金山を忠実に再現した模型を見たり、純金延べ棒の重さを体感しよう!

 <第1展示室>

 「佐渡金山絵巻」に描かれた江戸時代の佐渡金山の仕事の様子を忠実に再現。金鉱石を採掘、製錬し、佐渡小判を作るまでの工程を、絵巻に基づいて、縮尺1/10の500体の人形や模型で分かりやすく説明しています。
 
 ・模型で見る佐渡小判を作るまでの工程
 ①鉱石を選別する工程②選別された鉱石を牛で運ぶ工程③鉱石を細かく砕く工程④鉱石を石臼ですり潰す工程⑤鉱石を水で流して選別する工程(ねこ流し)⑥金鉱石を溶かす工程⑦金銀と塩を一緒に焼いて塩化銀を作る工程⑧金を圧延して延べ板にする工程⑨小判を作る工程⑩小判に刻印する工程

 <第2展示室>
 
 ・希少な佐渡小判と一分金、絵巻物の展示のほか、排水坑道の体験模型や本物の金塊に触れる体験ができます。
 ①各種大判・小判の展示②江戸時代に佐渡で作られた希少な佐渡小判と一分金③小判の製造工程の解説④時価約1億5千万以上の純金延べ棒。金の重さを体感しよう!

 …と、こんな〝展示資料館〟でありまして、ジックリと拝見しますと仲々楽しめますネ(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(17)

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 坑道を進んで行きますと、〝説明板〟もありますので、当時の様子を興味深く拝見です。
 採掘作業に従事しておられます方達の姿が、実にリアルに再現されておりますから、この方達のお顔と眼が合いますと、何か話し掛けられそうでドキッとしてしまいます。それほどまでに、実に精巧な造りでありました(^.-)☆

 ◆金穿大工(かなほりだいく)の生活
 佐渡金山では、鑽(たがね)と鎚(鎚)で鉱石を掘る坑夫のことを金穿大工と呼ぶ。
 金穿大工は、坑内の労働者の中では、技術者として賃金もよく、優遇されていた。採掘は4時間ごとの交替制で、金銀山絵巻には坑内で食事や休息する姿も見られる。しかし、労働環境は悪く、一般に短命の者が多かった。

 ・江戸の流行
 金穿大工の髪型に本多風(ほんだふう)という江戸の流行の髪型が見られる。島外の人々の出入りも多く、鉱山町の風俗にも大きな影響を与えた。

 ◆水替人足(みずかえにんそく)と無宿人(むしゅくにん)
 江戸時代の中頃から地中の鉱石を求めて坑道がますます深くなると、水揚機の使用がままならず、手繰り水替による人海戦術見直された。
 水替人足の労働時間は、隔日交替の一昼夜勤務ときつかったが、賃金はよかった。しかし常に人員不足で、安永7年(1778)より、江戸・大阪・長崎などの無宿人を受け入れるようになった。

 ・無宿人
 親に勘当されたり放浪していて、宗門人別帳(戸籍)から除外された者で、無罪の者。後に有罪者も混ざるようになる。
 幕末までの100年間に、1,874人が佐渡に送られてきた。

 ・無宿人の賃金など
 1日当たり:飯米1升2合、味噌・醤油・野菜など、塩代・小遣いなど
 そ の 他:年間仕事着、簑・笠代、蒲団代支給

 ◆探鉱坑道
 鉱脈のことを立合という。金鉱脈を探して水平に、あるいは上に下に掘り進んでいく。
 鉱脈に当たらない場合は、脈の方向を推定して、直交する向きに開削していく。小規模なものを切山といい、高さも幅も、かろうじて人が出入りできる程度のものであった。

 ・良質の鉱石(銀黒)
 黒い縞模様の中に金の微粒子が含まれている。

 ◆採掘作業
 金穿大工は、鑽を上田箸(うえだばし)ではさみ、鎚で打つ。上田箸は、短くなった鑽をつかむことができ、しかも手元の安全を守るのにも役立った。
 鑽は2日で1本消費する。くなった鑽は、坑外の鍛冶小屋に運ばれ再生される。
 掘った鉱石は、大工頭が品質を確認し、区分けして運び出される。

 ・上田箸
 鑽をはさむやっとこ。信州上田から来た山師、上田久二が考案した道具。

 ◆間切改(けんぎりあらた)め
 間切りとは、長さ・幅・高さを決め、見積もりを立て掘った大規模な探鉱坑道のことで、奉行所が請負業者に発注する。掘られた間切は、発注通りか、またどれだけ進んだかを検査する。この検査を間切改めという。
 間切改めは諸役人、山師、振矩師(ふりがねし)で行う。紙のこよりを固くよって作った「てへん」というかぶものをしているのが、役職をもつ者。

 番所役:各間部(採掘坑)の管理役、山師:鉱山経営者、振矩師(ふりがねし):測量師、目付役:役人の監視、山方役:金鉱山を支配する山奉行、間切請:坑道掘りを請け負うもの

 ◆捨石も選られ精錬所へ
 江戸時代の中頃には鉱石が減少し、一旦捨てた柄山(鉱石を含まぬ捨石)も回収し、粉成し製錬されるようになった。これらは捨石や拾い石を専門に製錬する外吹買石(そとぶきかいいし)という製錬業者のところに運ばれていった。
 上部の狸穴とは、細い鉱脈をたどりながら大きな鉱脈をさがす坑道で、腹ばいで移動しなければならなかった。

 ・労働者の装束
 重労働者は褌姿や諸肌脱ぎであったが、一般には、細く裂いた木綿布を横糸に縛り込んだ裂織という着物に荒縄帯、頭には布のかぶりものをしていた。

 ・荒縄の帯
 落盤事故などの時、救助されるまで藁をかみ、命をつなぐためのものであった。

 ◆間歩(採掘坑)開きの祝い
 背後の壁面の縞模様が立合(鉱脈)。金銀を多量に含む黒い縞がくっきりと浮かぶ富鉱帯を大発見した。
 前途を祝し、今まさに、間歩(採掘坑)開きの祝いが始まったところである。
 採掘を請け負った山師と金児が見守るなか、棚の上では、佐渡金山に伝わる独特の祭礼「やわらぎ」が演じられている。

 ・やわらぎ
 硬い岩盤が少しでも和らぐようにと祈る神事で、山の神の心を和らげるとの意味もある。
 〝歌詞〟♪岩の出先に 三階松植えて 鶴が黄金の 巣を掛ける

 そぅそぅ、WEB上で〝佐渡金山のリアル過ぎる人形〟を検索してみましたら、こんな記載がありましたけど、有料記事で一部のみしか読めませんでしたネ(^-^;

 ◆佐渡金山にリアル過ぎる人形 65体のモデルはあの人

 --- 2021年2月21日8時00分 朝日新聞 ---

 地底の金鉱石を手作業で掘る金穿(かなほり)大工、わき出る水をくみ出す水替人足…。江戸時代の採掘の様子を再現した佐渡金山の観光坑道。そこで働く65体の人形たちの表情が妙に生々しい。彼らの顔のモデルとなったのは、金山と関わりのある実在する人びとだった。
 1月末、佐渡金山の宗太夫(そうだゆう)坑。気温10度の坑道では天井の岩盤を支える坑木の交換作業が行われていた。国の史跡に指定されているため、作業は「山留普請(やまどめふしん)」と呼ばれた江戸時代と同じ工法が採られ、すべて人力だ。
 延長約280メートルの坑道では、11カ所で江戸時代の採掘風景が再現されている。狭い木製の足場で鉱脈に向かってたがねを打ち込む者、鉱脈の位置を測量術を使って調べる者、採掘の安全を祈願する者。等身大で当時の服装のまま働く彼らはすべて人形だ。暗い地中で無理な姿勢のまま石粉にまみれた当時の重労働がしのばれる。
 観光客らが近づくと、センサーが感知し、人形が動き、しゃべり出す。休憩所で休む者はつぶやく。「早く外へ出て酒が飲みてぇ」

 -- マネキンの外国人顔、不評で --
 佐渡金山の管理運営会社「ゴールデン佐渡」によると、人形が設置されたのは1970年という。だが、当初は既製品のマネキン人形を置いたところ、不評だったため、頭の部分を作り直した。改修時期は特定できない。

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(16)

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 バスから降りまして、いよいよ〝史跡・佐渡金山〟を観光ですけど、〝史跡 佐渡金山「共通券」〟で〝宗太夫坑〟〝道遊坑〟のいずれにも入れますようですネ。
 以前は、それぞれ入場料を課せられていたようですけど、〝史跡・佐渡金山〟が世界遺産に登録後は、いずれかの料金で両方とも入れますとか(^_^)v
 〝道遊の割戸〟は後から拝見します事にし、皆さんに付いて、まず〝宗太夫坑〟へと入場です。

 ◆宗太夫坑
 国史跡「宗太夫坑」は江戸時代の初期に開削された手掘り坑道です。佐渡金山最大の鉱脈「青盤脈」の西端に当り、坑道は大型で、江戸時代の採掘の特徴である「将棋の駒形」の坑道、斜坑、小型の探索坑道、空気を入れる為の煙穴などが数多く残されています。

 ◆佐渡金山 Sado Gold Mine
 相川金銀山は、徳川家の直轄地となった慶長6(1601)年以降、本格的に開発された。平成元(1989)年3月末採掘が中止されるまで約400年間掘り続けられ、鉱山としての寿命が長かったことでは世界でも珍しい鉱山である。
 江戸時代には徳川幕府の財政を支えたとも言われ、17世紀当時の金、銀の生産額は南米のポトシ鉱山(ボリビア)などと並んで世界でも屈指と言われた。

 ◆釜の口 Kama-no-kuchi
 間歩(まぶ/坑道)の入口のことで、柱を4本立てて構築したので四ツ留(よつどめ)とも言われた。

 ◆佐渡金山

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 佐渡金山(さどきんざん)、または佐渡金銀山(さどきんぎんざん)は、新潟県の佐渡島にある金鉱山・銀鉱山の総称である。なかでも相川金銀山(あいかわきんぎんざん)の規模が特に大きく、単に「佐渡金山」という場合、相川のものを指す場合もある。このほか「佐渡鉱山」または「相川鉱山」の名称も用いられる。「佐渡島の金山」という名称で世界遺産に登録されている。

 ・概要

 佐渡島には下表に示す4つの主要な金銀山を含む、多くの鉱山の存在が確認されている。なかでも相川は規模が大きく、国の史跡や重要文化財に指定、または重要文化的景観に選定されている遺跡や景観が多く残っていることもあり、現在では佐渡における観光の拠点ともなっている。

 -- 佐渡島内の主な金銀山 --
 西三川砂金山(にしみかわ) 採掘開始時期--平安時代以前 閉山年--1872年(明治 5年)
 鶴子銀山(つるし)       採掘開始時期--戦国時代   閉山年--1946年(昭和21年)
 新穂銀山(にいぼ)       採掘開始時期--戦国時代以前 閉山年--不詳
 相川金銀山(あいかわ)   採掘開始時期--江戸時代初期 閉山年--1989年(平成元年)

 佐渡島内鉱石は、主に銀黒(ぎんぐろ)と呼ばれる石英中に輝銀鉱および自然金の微粒子が脈状に存在するものであった。

 ・歴史

 -- 前史 --
 『今昔物語集』の巻26・第15話に「能登の国の鉄を掘る者、佐渡の国に行きて金を掘る語」という段があり、伝聞の収録という形ながら佐渡で金が採れることに言及されている。今昔物語集の成立年代と推定される11世紀後半には、少なくとも砂金等の形で佐渡で金が産出することは知られていたようである。
 天正17年(1589年)に上杉景勝により本間氏が滅ぼされ、佐渡は上杉領となる。
 相川金銀山は16世紀末に開発が始まったと考えられており、戦国時代には相川の金脈は未発見であった。そのため戦国大名の上杉謙信が関わった記録はない(鶴子銀山は既に採掘されていた)。新田次郎は小説『武田信玄』において佐渡金山が上杉謙信の財源であったと描写し、「記録が無いのは秘密にしたからである」としているが、そもそも戦国時代の佐渡は本間氏の領国であって上杉氏は領有していなかった。

 -- 江戸時代 --
 慶長6年(1601年)、徳川家康の所領となる。同年、北山(ほくさん)で金脈が発見されて以来、江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。江戸時代における最盛期は17世紀前半、江戸時代初期の元和から寛永年間にかけてであり、金が1年間に400kg以上算出されたと推定され、銀は1年間に1万貫(37.5トン)幕府に納められたとの記録がある。当時としては世界最大級の金山であり、産銀についても日本有数で、慶長金銀の材料を供給する重要な鉱山であった。なかでも相川鉱山は、江戸幕府が直轄地として経営し、大量の金銀を産出した佐渡鉱山の中心であった。産出し製錬された筋金(すじきん/すじがね)および灰吹銀は幕府に上納され、これを金座および銀座が預かり貨幣に鋳造した。また特に銀は生糸などの輸入代価として中国などに大量に輸出され、佐渡産出の灰吹銀はセダ銀とも呼ばれた。
 しかし江戸中期以降、佐渡鉱山は衰退していった。元禄3年(1690年)には佐渡奉行を兼任していた荻原重秀が計15万両の資金を鉱山に投入する積極策を取って復興を図り、その結果一時的に増産に転じたが、結局その後は衰微の一途を辿り、以降江戸時代中に往年の繁栄が戻ることはなかった。
 江戸時代後期の明和7年(1770年)頃からは、江戸や大坂などの無宿人(浮浪者)が強制連行されてきて過酷な労働を強いられたが、これは見せしめの意味合いが強かったと言われる。無宿人は主に水替人足の補充に充てられたが、これは海抜下に坑道を伸ばしたため、大量の湧き水で開発がままならなくなっていたためである。
 水替人足の労働は極めて過酷で、「佐渡の金山この世の地獄、登る梯子はみな剣」と謳われた。江戸の無宿者は、この佐渡御用を何より恐れたといわれる。水替人足を収容する小屋は銀山間の山奥の谷間にあり、外界との交通は遮断され、逃走を防いでいた。小屋場では差配人や小屋頭などが監督を行い、その残忍さは牢獄以上で、期限はなく死ぬまで重労働が課せられた。

 -- 明治以降 --
 明治初期から官営(当初は工部省の所管。農商務省、大蔵省を経て1889年から宮内省御料局の所管)となるが、江戸時代中期以降の産出量の衰退に対応するため、明治政府は1869年(明治2年)に西洋人技術者を鉱山に送り、火薬採掘や削岩機、揚水機といった西洋の近代的技術の導入を開始した。これにより産出量が再び増加に転じはじめた。1877年(明治10年)には洋式技術による選鉱場と、日本の金属鉱山で史上初となる洋式竪坑や大立竪坑が完成した。
 1885年(明治18年)、政府は金本位制に基づく近代貨幣制度へ移行するため、佐渡鉱山のさらなる増産を目指すようになり、高任立坑の開削、ドイツの新技術の導入による北沢浮遊選鉱場の建設、大間港の整備などを続々と行っていった。また1890年(明治23年)には鉱山技術の国産化を進める目的で鉱山学校が開校し、日本の鉱業教育に重要な画期となった。
 1896年(明治29年)、皇室財産だった佐渡鉱山は兵庫県の生野鉱山などと三菱合資会社(1918年に三菱鉱業株式会社に改名、現三菱マテリアル)に払下げとなった。三菱は、動力の電化など佐渡鉱山の機械化を推し進めた。その結果、明治後期には鉱山の産金量は年間400kgを超え、江戸時代における最盛期だった17世紀前半並みの産出量に戻っている。その後も産出量は増えていき、特に1931年(昭和6年)の柳条湖事件後に中国大陸での戦火が拡大したことで、大量の軍需品輸入の代金決済手段として金の需要が増加したことで佐渡鉱山でも金増産体制が強化され、1940年(昭和15年)には佐渡金銀山の歴史上最高となる年間約1,500kgの金と約25トンの銀を生産している。
 鉱山労働者の管理は、当初は三菱鉱業から労働者の雇い入れや管理を任されている部屋頭による「部屋制度」(納屋制度)で運営されていた。この制度は佐渡鉱山の労働力供給に大きな力を発揮していたが、部屋頭による中間搾取も多かったため、労働者の権利意識の高まりの中で1899年(明治32年)以来労働争議がしばしば発生するようになり、特に1922年(大正11年)5月には650名の鉱山労働者が参加する大規模な労働争議が発生した。そのため三菱鉱業は1926年(大正15年)1月に労働係を新設して労務管理を強め、部屋制から直営制度へと経営方針を転換し、労働者の不満を緩和する処置をとった。また1904年(明治37年)には23床の入院施設を持つ病院(鉱山病院)を設置し(1934年の改築で病床数32床に増加した)、鉱山関係者の軽費診断所として利用された。
 第二次世界大戦中には代金決算手段としての金の価値は薄れ、むしろ戦争に重要な資源である銅、鉄、亜鉛、石炭の増産・確保が重視されるようになり、佐渡鉱山でも銅の採掘が増える一方、金の採掘は減少した。また戦時中には朝鮮人労働者が大量に動員された。戦時中も佐渡鉱山は大きな成果を上げ続け、1943年8月には椎名悦三郎商工省次官が鉱山労働者の激励のため佐渡を訪問している。同年10月には商工、厚生両大臣から表彰も受けた。これを祝い、佐渡鉱業所は全従業員及び地元相川町民に対する感謝慰安で同月30日夜に協和会館で万才に浪曲の演芸会を開催している。
 戦後の1952年(昭和27年)、三菱は佐渡鉱山の大規模な縮小を決定した。1976年(昭和51年)には佐渡鉱山部門が佐渡鉱山株式会社として独立し、細々と採掘が続けられていたが、最終的に1989年(平成元年)に休山となった。1989年の休山までに佐渡鉱山が算出した金は78トン、銀は2,300トンに及ぶ。
 現在は、三菱マテリアルの100%子会社である株式会社ゴールデン佐渡が運営しており、体験型観光施設「史跡 佐渡金山」として一般公開されている。2024年(令和6年)7月インドで開催された第46回世界遺産委員会において、佐渡金山は「佐渡島の金山」として世界文化遺産に登録されることが決定した。

 …と、こんな歴史の有ります〝佐渡金山〟のようです(^-^)//"

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 相川公園内の中央部には、何か分かりませんけど、モニュメントと言うか記念碑が…
 石碑は、柱状の石碑(オベリスクに近い形)で、周囲に小さな石柱(柵状の石)が配置されており、記念碑的なモニュメントとして整備されたもののように見えます。
 文字が刻まれておりましたけど、画像に撮りますのは失念です(^-^; 確か〝恩賜金記念碑〟と刻まれていましたような…
 ChatGPTに尋ねてみましたら、こんな回答が…

 ◇根拠・解説
 ・相川公園に記念碑があるという記録がある
 「…相川公園内にある『恩賜金記念碑』」という記述が、相川地区の資料に見られます。
 ・恩賜金記念碑とは
 恩賜金とは、日本で天皇・皇室から下賜される寄付金などを指す言葉。
 この記念碑は、かつて鉱山が国や皇室と関係を持っていたことなど、歴史的な意味を持って建立されたものと思われます。
 相川は佐渡金銀山の中心地域であり、鉱山町としての文化的景観が重要視されている場所です。
 ・形状が一致している
 あなたが撮影した碑は柱状の石碑で、周囲に小さな石柱(または柵状の石)が配置されており、記念碑的なモニュメントとして整備されたものに見えます。
 恩賜金記念碑は相川公園のランドマークのひとつとして紹介されており、公園にモニュメントがあるという情報と合致します。

 …との事で、よく分かりませんけど『この記念碑は、かつて鉱山が国や皇室と関係を持っていたことなど、歴史的な意味を持って建立されたものと思われます』ようです(^.-)☆
 この記念碑の後方の水色っぽい建物は、左側が〝関東信越国税局 佐渡税務署〟で、右側が〝相川測候所〟であります。
 そして、相川公園に隣接の〝ワイドブルーあいかわ〟と表示されました建物ですけど、通過しながら眼を向けますと、もぅ久しく利用しておられません状況で、荒れ放題。以前は、何に利用されていましたのでしょうネ。WEB上で〝ワイドブルーあいかわ〟を検索しますと、こんな記載が…

 ◆ワイドブルーあいかわ

 旧相川町の海岸に面して建つ日帰り温泉施設。さまざまな浴槽と温水プールなど施設も充実している。海岸にある施設なので、広々とした浴室の窓からは日本海を望むことができる。
 開放的で明るい大浴場にはバブルバス・打たせ湯・サウナ・ミストサウナのある「おけさの湯」とジャグジー・ジェットバス(寝湯)・サウナのある「こがねの湯」があり週替わりで男女が交替する。
 無色透明のお湯がじんわりと体の芯まで温めてくれる。
 特に夕刻には、海を望む一面のガラス窓が真っ赤に染まるのは感動的。
 館内は広く、畳敷きや椅子席の休憩スペースが用意されており、ゆったりと過ごせる。
 ・2017年(平成29)、経営悪化から、当初閉鎖の予定であったが、市民から継続の要望が強く、5月31日付で市内の製造業「南秋北陸生コン」に譲渡された。
 ・2018年(平成30)、7月に浴室の天井が落ちたことで天井裏を点検したところ想像以上に傷んでいたことから休館。
 ・2019年10月13日(日)から相川温泉「佐渡の宝・ワイドブルー」として営業を再開する。
 2020年10月、閉業。新型コロナ禍が訪れ、緊急事態宣言に伴って、2020年4月から長期に休館してきたが、そのまま廃業となった。

 …と、こんな「ワイドブルーあいかわ」でありました。
 そぅそぅ、佐渡島には、大手コンビニとしましては〝ローソン〟のみのようですネ。
 ユッタリと歩いておりましたけど、気が付けばいつの間にか〝ホテル万長〟の建物が面前に(^-^)
 ホテル前の信号を渡ろうとしましたら、お一人、ジョギングしておられます方が…今朝の早朝ウォーキングで出会いました方は、この方で4人目。いずれも、地元の方達でしたネ。
 ホテルに戻って来ますと、暫くユックリしまして、そして朝食。メニューも量も豊富で、昨夜に続いて満腹状態。日頃イィ物を食べていませんから、つぃつぃ食べ過ぎになってしまいます(^.-)☆
 佐渡島2日目は、まず〝佐渡金山坑道〟を観光ですけど、出発まで少し時間が有りましたので、フロント前のロビーでノンビリと。
 ロビーを見廻しておりまして眼に入りましたのが、〝EVトライク レンタル〟です。レンタルの三輪バイクですネ。後部席には二人座れそうな…と、言う事は3人乗りですネ(^_^)v
 料金は、1日6,600円、2時間3,300円、超過1時間毎1,100円のようであります。利用者がありますのか否か分かりませんけど、利用しますと楽しそうではありますネ(^-^)
 ガラス越しに外の様子を伺いますと、護岸に、玉泉寺ご住職が凜々しく腕組みしたお姿で…何を見つめ、何に想いを…
 そぅしていますと、出発時間が到来です。
 バスに乗り込み、まずは〝佐渡金山〟へ。程なく到着で、車窓から〝道遊の割戸〟が(^-^)//"

 ◆道遊の割戸
 -- 壮大な採掘跡を残す佐渡金山のシンボル --
 佐渡金銀山の中でも開発初期の採掘地とされる江戸時代の露天掘り跡。巨大な金脈を掘り進むうちに山がV字に割れたような姿になっています。山頂部の割れ目は、幅約30m、深さ約74mにも達します。道遊脈と呼ばれる脈幅約10mの優良鉱脈を有しており、明治以降も割戸の下部で大規模な開発が行われました。

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(14)

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 〝ホテル万長〟への帰路は、明るくなって来ましたので護岸を通って帰ります事に(^.-)☆
 朝も06:00を過ぎてきますと、地元の方なんでしょうネ…ウォーキングしておられます方もチラホラと(^-^)
 帰路では、〝相川総合体育館〟〝相川地区公民館〟〝相川バスステーション〟…等の建物を、裏側と言うか海岸側から眺めながら、ノンビリと〝佐渡市役所相川支所〟まで戻って来ますと、帰路で「昔の護岸跡(相川・羽田の浜)」に立ち寄ります事を思い出しました。危ない、危ない(^-^;
 危うく忘れて素通りしてしまいますところでありました。〝相川支所〟の裏側・護岸から駐車場を抜け表側に(^-^)
 護岸跡の遺跡には、こんな説明がありました。

 ◆羽田浜通り
 上羽田町、下羽田町(今の相川羽田町)の海側を羽田浜通りといい、現在の警察署の位置に、佐渡奉行所の交易機関である廣恵倉御役所があった。かってはここに羽田港があり、毎年唐津焼を積んだ唐津船が入港し瀬戸物町(唐津町ともいう)で商いした。
 当時、国内有数の消費地であった証である。

 ◆羽田の浜跡

 佐渡の相川・羽田の浜で
  女波男波が打ち寄せる
   かすむ相川夕日にそめて
    波の綾織る春日崎

 是より石積みを中心にした湾内に、おけさに歌われている羽田の浜があった。美しい波打ち際に幾艘もの小船が並び、また春日崎に沈む夕日は湾一面を赤く染めた。
 昭和54年(1979年)から平成8年(1996年)にわたり、総工費11億円をかけて、沖合い100m、延長1,150mの公有地造成事業により、新しく126千㎡の陸地が生まれた。
 この石積みは、海岸を守る護岸として季節風から町並みを守っていた、陸と海との境界の証として、今に残されている。
 
 …との事で、昔は、ここが護岸でしたようであります。
 相川公園内の花壇には、こんな説明板も…

 ◆「木が結ぶ地域の環」
 この区域にある木は、相川合同庁舎内の職員有志百七十八人からの募金によって、植樹されたものです。
 平成14年4月からの組織改革にともない、これまでの出先機関「新潟県相川合同庁舎各事務所」が地域機関「佐渡地域振興局」として生まれ変わる契機に、実行された記念植樹です。
 これまでの行政機関の業績を振り返るとともに、さらに「島民起点」で佐渡の地域振興のために、地域に根を張った行政を推進しようとする想いを込めたものであり、この樹々が地域の皆さんから広く永く愛され、すくすくと育っていくとともに、地域と行政とのネットワーク形式の一助となれば幸いです。
 -- 平成14年3月26日 新潟県相川合同庁舎 記念行事実行グループ --

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(13)

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 ホテル1階ロビーでの「佐渡おけさ公演」が終わりますと、本日の行動は凡てオシマイで、自室に戻り暫くノンビリと過ごしましたけど、多分、P.M.09:30過ぎ頃でしたか…就寝となりました。
 タイマーセットで、翌朝はA.M.05:00に起床です。
 窓際から外の様子を伺いますと、まだ真っ暗で、周辺の様子はよく分かりません。ただ、波の音で、岸壁に押し寄せています様子が伺えます。
 洗顔等を済ませ、出かけます準備が整いますと、それでは今から、朝のウォーキングにと出発です。が、何処をどぅ進んだらイィものか(^-^)とりあえず、ホテル前の岸壁から日本海の様子を確認です。
 まだ真っ暗ですから、街灯の灯りではよく分かりませんけど、波の音で、荒々しい日本海の波の強さがイメージとして浮かんで来ますようであります。
 暗いですから、岸壁を歩きますにはチト怖さが(^-^;
 で、一つ中側の車道沿いの歩道を北方向に進んで行きます事に(^-^)/
 車の走行もありませんし、勿論、人も歩いておられません歩道を、ノンビリと北上が続きます。そぅしましたら、〝ウエルシア佐渡相川店〟の看板が何とか読めますけど、店舗に点灯はありません。多分、営業時間は〝09:00-22:00〟でしたような(^-^)
 この看板を横目に通り過ぎますと、隣接に、初めて灯りの点灯した建物が…注視しますと、ふ~ん、建物には〝Police〟の記載が…〝佐渡警察署相川交番〟でありました(^.-)☆
 依然として未だ暗い中を、佐渡市消防本部相川消防署、佐渡市役所相川支所、相川バスステーション、相川地区公民館、相川総合体育館…等の建物を左手に見ながら進みます。そぅそぅ、そぅ言えば、先ほど通過しました相川消防署の前辺りに、「相川・羽田の浜」と記載の塀の一部が保存されました遺跡らしきモノがありましたけど、う~ん、ひょっとしたら、今こぅしてGONsanが歩いています歩道が〝昔の護岸跡〟なのかも…暗闇でよく分かりませんから、帰路で再度確認してみましょうか(^.-)☆
 時間を見ますと、A.M.06:00少し前。
 もぅ少しで明るくなりそうですから、この辺りで護岸に向かってみます事に。
 佐渡漁業協同組合稲鯨支所相川出張所辺りから、左手の3棟の〝市営栄町住宅〟脇を左廻りに護岸に出まして、日本海を眺望です。依然として強い波が押し寄せています。
 護岸の右方向には、何やら遺跡らしき構造物が存在しますけど、何なのかよく分かりません。もぅ少しで夜も明け、明るくなりそうですから、暫しここで待機です。
 その間に、遺跡らしき構築物方向を画像に納めてみますと、こんな感じで肉眼より鮮明に撮れましたネ(^_^)v
 スマホで、この場所を検索してみますと、ふん、ふん、〝大間港跡〟の遺跡でありました。

 ◆大間港(おおまこう)
 --- https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/sado_seibi/omoshiro1-oomakou.html ---

 大間港は佐渡鉱山の鉱石や石炭などの資材の搬出入を目的として明治時代中期に築港され、佐渡金銀山の発展を支えました。コンクリート工法の普及以前に用いられていた「たたき工法」を使ったカラフル護岸や、にょっきり生えた橋脚や台座跡等の構造物が残存しています。
 日本の近代化を支えた佐渡金銀山、その発展に寄与した大間港の日本海の荒海の中で耐え抜く姿は、当時の建築技術の高さを裏付けているので、そちらにもご注目ください。

 ◆鉱石の積み出しなどに使われた「大間港」
 --- https://www.visitsado.com/spot/detail0461/ ---

 明治25年(1892年)、コンクリート工法以前の石灰等を用いた「たたき工法」により完成した港で、鉱石の搬出や石炭などの鉱山の資材搬入に使われました。現在も石積護岸やトラス橋、ローダー橋脚、クレーン台座が残されています。

 …と、こんな〝大間港跡〟遺跡のようです。本日は、ここで引き返しますけど、明日の早朝ウォーキングでは、近くまで自由に入れますようですから、〝大間港跡〟遺跡の敷地内に出かけてみます事に(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(12)

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 〝ホテル万長〟sanの館内イベントとしましては、ホテル1階ロビーで「佐渡おけさ公演」と、無料送迎バスによる「北沢浮遊選鉱場のライトアップ見物」が有りますようです。
 で、夕食を終えましたこの日の夜は、まず、〝佐渡おけさ公演〟を鑑賞し、明日の夜に〝北沢浮遊選鉱場のライトアップ見物〟を楽しみます事に(^.-)☆
 夕食の方は、丁度、20:00頃にお開きでしたから、そのまま1階ロビーに向かいますと、既に多くの方々がお集まりでありました。

 ◆佐渡おけさ観賞会
 当館のロビーで、地元団体「立浪会」による佐渡おけさの披露会を開催しています。(4月~11月、不定期開催)
 佐渡おけさだけでなく、相川甚句、相川音頭も披露。
 ご夕食後のお散歩がてらにぜひご観賞ください。
 * 開催について、詳しくは当館までお問い合わせください。

 ◆立浪会の紹介
 --- https://sadotatsunamikai.wixsite.com/site/ ---
 立浪会は大正13年(1924年)6月10日に「相川音頭」と「佐渡おけさ」の継承と普及を目的に結成され、令和6年(2024年)に創立100周年を迎えました。
  結成以来日本国内はもとより、アジアやヨーロッパにまで公演に出かけ佐渡の観光振興に貢献してまいりました。
 平成26年(2014年)には上皇陛下の傘寿のお祝いに皇居にご招待され、皇室ご一家の御前で「佐渡おけさ」をご披露させていただきました。

 〝立浪会〟sanのホームページを拝見してみますと、こんな記載がありました。

 >一度見ると忘れがたい唄と踊り。
 >相川音頭は、民謡に興味がない人もその格好よさに驚かされます。佐渡には多くの民謡がありますが、
 >その品格ある唄と踊りには特別なものがあります。
 >佐渡おけさ、両津甚句と並び、佐渡三大民謡の1つとして知られる相川音頭。相川金山で生まれ、後に
 >佐渡奉行の前で披露された「御前(ごぜん)踊り」として知られたこの民謡には、実は40編もの歌詞があるといいます…

 長い歴史の中で現在へと継承されて来ました〝佐渡おけさ〟〝相川音頭〟、上品さを備えた〝唄〟と〝踊り〟。〝立浪会〟の皆様の体型もイィですから、一層、特別なモノとして「格好良さ」が感じられましたネ(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(11)

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 バスの待ちます駐車場へと戻って来ますと、すっかり夕方でありました。時間はと見ますと、P.M.05:00を少し廻っておりました。行程表によりますと、本日の行程は、〝根本寺〟での御開帳を終えますと、後は、今夜の宿であります「ホテル万長」に向かうのみ。

 ◆ホテル万長 HOTEL MANCHO

 --- https://www.hotel-mancho.jp/ ---

 -- 明日へ想いを馳せる --
 佐渡島の歴史と文化を伝える宿 ホテル万長。
 佐渡金銀山の鉱山町として栄えた相川の海辺に、ホテル万長は佇みます。
 相川地区は古くからある祭りをはじめ、能楽 民謡 無名異焼など芸術文化にも富んだ町です。歴史的建造物も多く残る相川の町を、ゆっくりとお散歩しながら文化にふれていただくのもおすすめ。
 館内においては随所に飾られた工芸品や絵画をはじめ、佐渡にゆかりのある美術品の数々をご覧いただけます。
 日本海に面し里山にも恵まれた当館の魅力の一つは、旬の食材を使ったお料理。佐渡は金銀山の繁栄とともに、様々な食文化も生まれた島です。
 皆さまに大自然に育まれた四季の味覚と、佐渡ならではの食文化をご堪能いただけるよう、真心を込めたお料理でおもてなしいたします。
 移りゆく佐渡の美景とともに、ゆっくりと流れる時間をお楽しみください。

 〝ホテル万長〟sanのホームページを覗いてみますと、こんな記載がありました(^.-)☆
 ホテルに到着しますと、まずは入浴。
 新潟港~佐渡島・両津港間の〝ジェットフォイル〟では、大変な目に遭いまして、以降も何となく体調はすぐれませんでしたけど、入浴で旅の疲れも癒やされまして、ヤッとスッキリしました状態に(^_^)v
 とは言いましても、今回の〝佐渡島三ヶ寺参詣旅行〟にご夫婦で参加されましたご主人の方は、よほど船酔いがひどかったのでしょうか…夕食にはお姿が無く、部屋で休んでおられますとか…実にお気の毒ではありました。
 GONsanの方は、入浴でスッキリし空腹感も襲って来まして食欲は旺盛。
 結構、夕食の量は多かったのですけど、出て来ますモノは凡て完食。常日頃、イィ物を食べてはいませんから、何もかも美味しく戴き大満足でありました\(^o^)/

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(10)

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 夕闇迫ります中を、皆さんの歩調に合わせノンビリと進んでおりますと、境内の片隅に落下した栗の実が…落下の衝撃で殻が弾けましたのでしょうか…中の実が散乱しておりましたけど、佐渡島には熊はいないのでしょうネ。片付けられていませんと言う事は(^-^)
 佐渡に流されました日蓮聖人が、約2年半の佐渡滞在の内最初の6ヶ月をこの地で過ごされ、塚原・三昧堂を開いたのが根本寺の始まりのようですけど、当時の塚原は、死人の捨て場とされていたそうであります。
 当時の〝塚原・三昧堂〟が、正確には何処にありましたのか分かりませんようですけど、いずれにしましても、この近辺に存在したものと思います。
 畳2枚ほどの狭いお堂で、冬の寒さにも耐え生活しておられました当時の日蓮聖人に想いを馳せますと、改めて感慨深い気持ちに浸ってしまいます(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(09)

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 GONsanがセッセと〝日蓮聖人銅像〟〝水子地蔵〟〝妙見堂〟〝太鼓堂〟を画像に納めておりますと、皆さん本堂前にお集まりで、今から集合写真を撮られようとしておられますので、急いでGONsanも仲間入り(^.-)☆

 ・日蓮聖人銅像
 この銅像は、両津 源助屋、土屋辰治、雪絵だ夫婦の御意思に依り、当山参詣者の皆様に老若男女を問わず、少しでも合掌の気持ちを持って参詣なさって頂きたいという願いを込め、昭和57年に宗祖七百遠忌に建立された銅像です。

 ・水子地蔵
 五十世日浄上人の代、遠近の参拝者の方々の供養の為に建立しました。

 ・妙見堂
 当山の鬼門の方角に当堂を祀っています。

 ・太鼓堂
 明治十二年改築の太鼓堂。越前の某講中より大太鼓の寄附を受ける。水牛の皮を用い、佐渡島内最大の太鼓と言い伝えられます。

 集合写真を撮り終えますと、本堂に上がり御開帳です。
 本堂、祖師堂と、お寺の内部は〝撮影禁止〟でしたから残念(^-^; 御開帳を終え、内部を拝観し、境内へ出て来ますと、周辺にはもぅ夕闇が迫っておりました。時間を確認しますと、P.M.05:00が目前でありました。
 〝根本寺〟sanの参道は、〝入口〟と〝出口〟は別なのですけど、何故か皆さん、ヤッて来ました参道(入口)をそのまま駐車場へと戻られます。GONsanは、〝太鼓堂〟脇を抜けるルートで〝出口〟に向かってみたかったのですけど、独りだけ出口コースに進みます訳にも行きませんで、皆さんに合わせましたけど、う~ん、残念(^-^;
 とは言いましても、別段何かあります訳でも無さそうで、〝池〟と〝犬塚〟があります程度。〝犬塚〟の存在には何で?…との多生の関心は生じましたが(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(08)

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 〝三昧堂〟を通り過ぎますと〝二王門〟を潜り、永い歴史を感じさせます参道を進みますと、次は〝二天門〟を潜ります。
 そして、引き続き参道を真っ直ぐ進みますと、正面に〝祖師堂〟です。〝祖師堂〟の手前を右に進みますと、〝本堂〟に到着となりました。

 ◆根本寺
 日蓮宗の霊跡に数えられる名刹。
 日蓮聖人が他宗の僧と問答を戦わせ、「開目抄」を著した場が境内の「三昧堂」と伝わっており、「観心本尊抄」などを著した佐和田地区にある妙照寺と並び日蓮宗の霊跡となっています。江戸時代には、金山の山師たちがその財力で建立・寄進した「祖師堂」や「本堂」など、約1万7千坪の境内に、堂宇29棟が建ち並びます。

 ◆二天門
 宝暦元年、第二十七世日遙上人によりの創建。慶應年間第三十九世日宣上人瓦葺に改め、七福神を略して四福神を安置しています。

 ◆二王門
 第十三世日衍上人の造営する所なり。棟札には寛永三年と訪せらる。明治二十一年に瓦葺に改む。仏法の守護神とされる一対の金剛力士で寺門の左右に安置され、除厄の役をなす。

 ◆祖師堂
 文永十一年宗祖鎌倉へ帰られてより、およそ二百年間はささやかな房舎ありて僅に霊跡の名を伝えるものなるべし。
 天文二十一年 大泉坊日成上人の創業により初めて、斯堂の建立を見たり。その後、七十年を経て、日衍上人檀越味方氏の外護を得て、現今の布金壇上に再建す。それ以来、百数十年を経て、現今の祖師堂即是なり。

 ◆本堂
 十二間九間総檜造の本堂です。
 寛文十二年、当山二十世日行上人の代に創建されました。棟札には明治三十八年日静上人瓦葺に、とあります。

 ◆鐘堂
 元和七年、日衍上人・味方氏の資助を得て、梵鐘を鋳造せる。

 ◆佐渡・根本寺 日蓮上人にゆかりある霊跡【佐渡観光】

 --- https://traveltoku.com/sado-kon/ ---

 佐渡ヶ島の根本寺(こんぽんじ)は、新潟県佐渡市新穂大野1837にある日蓮宗の本山・霊蹟寺院となります。
 鎌倉時代の1271年に佐渡島に流された日蓮が塚原・三味堂を開いたのが始まりとされます。
 当時、この塚原は、死人の捨て場とされていたそうですが、日蓮は約2年半佐渡に滞在したうち最初の6ヶ月間をここで過ごしたようです。三味堂は畳2枚ほどの狭いあばら家で、冬には深い雪にも覆われましたが、遠藤為盛(阿仏房)の夫妻から食料などの世話を受けました。
 特に、佐渡に集まった他宗の僧侶ら数百人と日蓮が問答を戦わせて、日蓮宗の根本教典「開目抄」を著したのが、この「三昧堂」と伝わっています。
 時を経て戦国時代に、その三味堂があった付近に京都妙覚寺の日典上人が1587年に、この根本寺を開基しました。
 江戸時代に入ると、1607年に佐渡金山の山師・備前遊白らが「祖師堂」を建立するなど、多くの山師の寄進にて「本堂」などが建てられました。
 境内はなんと約1万7千坪にも及び、堂宇29棟が建ち並んでいます。

 大人300円、小人150円と有料拝観できる寺院です。
 駐車場に止めまして、受付で声を掛けたのですが、応答がありませんでした。閉鎖されていたわけではなく中には入れる状態でして、あとで、お支払いすることにして拝観させて頂こうとも考えました。
 しかし、未払いでウロウロするのは色々と誤解を招く恐れもありますので、入口から入ったところだけ拝見させて頂きまして、退散致しました。はるばるやってきたのですが、とても残念ですが、縁が無かったようです。
 拝観時間は、4月から10月が、8:00~16:30。
 冬期の11月から3月は8:00~15:30で、年中無休です。

 本堂前に到着しましたところで、全員で集合写真をパチリです(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(07)

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 〝佐渡日蓮聖人大銅像〟の拝観を終えますと、観光バスに乗り込みまして、次は「塚原山 根本寺」に向かいます。
 バスの車窓から、今一度、〝佐渡日蓮聖人大銅像〟に眼を向けながらスマホで検索しておりますと、こんな記事もありました。

 ◆佐渡に日蓮聖人の大銅像完成

 --- 日蓮宗新聞 2003年6月10日号 ---

 日蓮聖人が遺されたお題目の教えを、銅像を通して広く社会に伝えたい―。青年僧の呼びかけに賛同した全国の有志僧侶と檀信徒の発願が実を結び、日蓮聖人ご霊跡の地・佐渡に聖人の大銅像が完成し、その開眼落慶法要が5月13日、全国から僧侶檀信徒や大銅像周辺地域の住民など約2千人が参列し盛大に営まれた。大銅像が太陽の光を浴びて金色に輝く会場では、全国から集まった檀信徒が合掌する中、西身延青年会が先頭にたって新緑豊かな田園風景の中を進み、万灯を奉納。全日青の僧侶、導師の浅井圓道師(長崎県長照寺住職)、式衆が後に続き、御本尊、御神体、御経が大銅像内部に納められた。
 午前10時、法要が厳修され、僧侶と檀信徒の読経が響き渡った。法要中、佐野代表を導師に修法が営まれ、全日青の会員が檀信徒を囲んで修法を行った。
 銅像完成に至るまでの経緯や数々の苦難を声をつまらせながら敬白文を言上する佐野代表を前に、目頭を抑える檀信徒の姿も数多く見られた。続いて参列者全員で唱題し、お題目が会場全体にこだました。
 その後、浅井師、本山根本寺の竹中錬浄貫首、川口徳一両津市長、菅野啓淳身延山久遠寺布教部長が祝辞。竹中貫首は挨拶の中で「大銅像は日蓮宗だけのものではありません。生きとし生けるもの全ての方が、大聖人の銅像を目にした時、人間らしい心を養って、人を敬う心をもって頂きたい。これからは根本寺が責任を持って護持いたします」と話した。続いて土地を寄進した土屋辰治さん、斉藤一夫さんはじめ地権者、両津市長、建設関係者など16人に佐野代表から感謝状が手渡され、最後に、若松宏泉師(北海道妙心寺住職)が竹中貫首に委託状を授与した。
 法要終了後、豊田慈證師(愛知県法華寺住職)が大銅像の前で高座説教を行った。また、地元の民謡や、佐渡おけさ、新野大野鬼太鼓などの清興が行われた。
 清興の最後に、佐野代表が挨拶に立ち、万歳三唱を行って終了した。

 -- 大きな銅像にびっくり --
 落慶式会場には檀信徒以外にも多くの人が足を運んだ。
 地元両津高校の生徒約80人も体育の課外授業の一環として訪れた。銅像建立地は生徒の通学路にもあたり、工事中から関心を集めていた。「このお像はだれ?」といった疑問を生徒たちは学校や家庭などで話題にしていたという。
 引率の体育教諭の和田紀明さんは「銅像が完成した時も生徒と一緒に来ました。記念の式典に参加することによって、島外とのつながりを感じ、同時に郷土の歴史を知ってもらえれば」と話した。女子生徒の1人は「こんなに大きなお像が出来てびっくり!これから私たちを守ってくれそうでとてもうれしい」と銅像を見上げていた。
 また近所に住む他宗の女性は「作り始めた頃から見ているが、すごく立派。うらやましいというのが素直な気持ちです」と話した。
 土地を寄進した土屋さんは「今後この銅像が信仰の拠点となって、全国から信者がきて下されば」と銅像の完成を喜んだ。

 -- 金色に輝く大銅像 --
 日蓮聖人の大銅像は像高13メートル、台座13メートル(総高26メートル)。台座には浅井圓道師が書いた「開目」の字が刻まれ、お釈迦さまの生まれたインドの方角を向いて立つ。
 銅像は両津市加茂歌代地区にあり、周りには田園風景が広がる。晴れの日には金色に輝き、両津港へ入港する船からもはっきり見ることが出来る。

 -- 建立きっかけは全日青の佐渡結集 --
 「法華経布教のため、お祖師さまのために、是非役立てて頂きたい」と、土地を寄進したひとりの檀徒の思いに答え、佐渡に日蓮聖人の大銅像が建立された。
 きっかけは平成10年、全国日蓮宗青年会(佐野前延委員長=当時)が佐渡結集を行い、唱題行脚してお題目を響き渡らせた時のこと。それに感銘を受けた本山根本寺檀徒の土屋辰治さんが、全日青に土地を寄進した。
 その後、全日青執行部は協議を重ね、佐渡は日蓮聖人ゆかりの島であることを象徴するために日蓮聖人の大銅像建立を発起した。しかし、翌年の結集で青年会員に銅像建立を提案したが賛否両論があり、全日青としての取り組みは断念した。
 大銅像の建立が心残りのまま、平成12年に全日青委員長を退いた佐野師は、一僧侶としてあらためて佐渡に日蓮聖人の大銅像を建立することを発願し、佐渡銅像建立委員会を結成した。土地を無駄にしたくない、何もできないと言われがちな自分たち青年僧にも何か“できる”ことをしたい、との思いもあった。その心が通じ、有志の僧侶342人から賛同を得た。
 建立委員会では、寄進された土地周辺の確保に乗り出した。新たに地権者の斎藤一夫さん(両津市妙法寺檀徒)からの寄進も加わり、最終的な建立予定地は約3千㎡になった。
 さらに全国にも勧募を拡大し、銅像建立に賛同した全国の檀信徒や寺院から、たくさんの浄財が寄せられた。
 完成を迎えるまでには様々な困難があったが、全国の檀信徒からの励ましの手紙などに助けられた、と佐野代表は言う。大銅像には、支えてくれた檀信徒の熱い思いと、完成までお導き下さった日蓮聖人に感謝し、先師上人や先輩を敬う青年僧の気持ちが込められている。
 さらに佐野代表は「今の人々は、“しないことをおそれないで、することをおそれる”、行動を起こさなくては何も変わらない。この銅像建立が、動機になって行動を起こしてくれれば」と語っていた。

 …と、日蓮聖人の大銅像完成を迎えるまでには、関係者の皆様の大変なご苦労がお有りだったようですネ。
 さて、佐渡島滞在の3日間お世話になりますのは、〝新潟信栄バス〟sanであります。画像に写っていますのが、信栄バス(SHIN-EI BUS)の貸切バスであります。
 スマホで検索しましたら、「信栄バスは新潟県佐渡市に本拠地を置く貸切バス会社です。主にロケバス手配や観光旅行の企画・実施などを行っています。行き先は顧客の要望に応じて自由に設定できます。」と、こんな会社説明がありましたネ(^.-)☆
 ここから根本寺間は、距離にしまして13km程度ですから、20分程度で到着となりました。
 根本寺入り口前には、バス数台が駐車可能な大きな駐車場が(^-^)現在は、どぅか分かりませんけど、年間を通じ多くの参詣客がヤッて来られますのでしょうねぇ~

 ◆根本寺について

 --- ごあいさつ https://temple.nichiren.or.jp/4031001-konponji/ ---

 当山は山号を塚原山といい、昔、佐渡の国仲地区一円の死人の捨て場所として、古墳累々たる塚原なりと云い伝えられています。
 全国の日蓮宗十大聖跡の一に列せられています。
 今を遡る七百有余年前、日蓮聖人御年五十歳佐渡法難の砌、文永八年(1271)十一月一日より、翌九年四月半に至る迄、秘かに阿仏房夫妻の御供養を受け、辺り一帯は屍陀林にして鬼火明滅し、身の丈ほどに積る雪中の三昧堂に請居された聖跡であり、日蓮聖人は此処に総ゆる難難を克服し、正月十六日には越後、越中、出羽、奥州、信濃の諸国より集まった他宗の法師等数百人と問答し「利剣を以て瓜を切り、大風の草を座かすが如し」と御述懐遊ばされし程の大勝利を占められた。
 又二月半には六十一年の御生涯中の形見とも言われ、また、一大事とも言うべき『開目紗』上下二巻を御著作なされ、本佛輝尊の予言になる「末法の大導師本化上行菩薩とはこの日蓮なり」と、御自身の本地を開顕されたのも塚原三昧堂であります。

 我れ日本の柱とならん
  我れ日本の眼目とならん
    我れ日本の大船とならん

 この「開目紗」に認められた三大誓願であり、当山の別名を「開通顕本の霊場」とも言われています。
 当山の境内地は約二万七千坪で、本堂、祖師堂、三昧堂、千仏堂、妙見堂、七面堂、二王門、二天門、太鼓堂、鐘堂、宝蔵、経蔵、戒壇塚、庫裡、等凡そ二十九棟が鯵蒼とした杉や松に囲まれ、佐渡が島の中で聖人請居を偲ぶ聖蹟として多勢の参拝をいただいています。

 ◆根本寺(佐渡市)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 根本寺(こんぽんじ)は、新潟県佐渡市新穂大野にある日蓮宗の本山(霊蹟寺院)。山号は塚原山。

  -- 沿革 --
 文永 8年(1271年) - 寺伝によれば日蓮が三昧堂を開創。
 永禄年間に日成が三昧堂を正教寺とする。
 天正15年(1587年) - 京都妙覚寺日典が根本寺を開基し、京都妙覚寺の末寺となる。
 元和元年(1615年) - 日衍、独立本山となす。
 寛文11年(1671年) - 身延、池上、中山の三ヶ寺輪番所になる。
 現住は51世竹中智英貫首(佐渡市妙満寺より晋山)。潮師法縁。

 -- 主な伽藍 --
 本 堂:寛文12年(1672年)建立
 祖師堂:宝暦11年(1761年)建立
 庫 裡:延宝 7年(1679年)建立

 -- 旧末寺 --
 日蓮宗は1941年(昭和16年)に本末を解体したため、現在では、旧本山、旧末寺と呼びならわしている。

 ◆根本寺 由緒 山号 塚原山

 --- http://www.sado-konponji.com/map.htm ---

 当山は山号を塚原山とし、全国日蓮宗十大霊跡に列す。
 昔佐渡国仲村一円の死人の捨て場であったと伝う(大凡七百年前)
 日蓮聖人、御歳五十歳、最後の法難が佐渡であり、文永八年(127年)
 十一月一日より翌九年四月半ばに到る迄、住まわれたる聖跡にして、同九年二月には聖人生涯中の一大事と申すべき開目鈔を御著書なされた霊跡である。

 …と、こんな〝塚原山 根本寺〟でありますけど、早速、入口から入りまして拝観です(^.-)☆
 入口から進みますと、間もなく〝三昧堂〟が…そして〝三昧堂〟の左手奥方向に〝戒壇塚〟が存在です。

 〝三昧堂〟
 五間四間のお堂。
 天保年間徳川第十一代将軍家斎の侍女にして、紀州御守殿の萓堂阿美代の方がおり、将軍還暦を祝し併せて除厄の為、祖像一躯を彫刻して、当山に安置の祈願あり、天保四年尊像着佐され、時に妙感尼なるもの三昧堂を建立して、尊像を安置しています。

 〝戒壇塚〟
 当地は文永八年十一月一日より宗祖謫居の地であり、壇上の塔は味方氏の建設にして、その石材は摂津よりの花崗岩なりと伝えられます。
 当山は祖師堂移転の後、土を築きて戒壇塚又は経塚と称しています。
 文永九年佛誕日の夜半、最蓮房日淨上人此の地に於て、親しく本門大戒を受戒されたるを以てなりと伝えられます。

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(06)

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 初めて乗船しました〝ジェットフォイル〟の乗り心地、あいにくの3メートルの高波で大変でしたけど、とにかく、一応、無事に、佐渡島に上陸です。
 両津港佐渡汽船ターミナルから貸切バスに乗り込みますと、ガイドsanの明るい、なめらかなお話しで、船酔い状態も多少緩和されて行きましたような(^_^)v
 今から向かいます佐渡島最初の訪問地は、両津港佐渡汽船ターミナルから北西方向に存在し、距離にしまして2.6km程度の「佐渡日蓮聖人大銅像」であります。

 ◆佐渡日蓮聖人大銅像(さどにちれんしょうにんだいどうぞう)

 --- https://www.visitsado.com/spot/detail0061/ ---

 世界一大きい日蓮像
 「日蓮宗開宗750年慶讃事業」として、全国3,000人を超える僧侶・信徒の協力で建てられた銅像です。両津湾を背に、釈迦の生まれたインドの方角に向かって建つ姿は、高さ約13m、台座を含むと26m。ゆかりの地・佐渡にふさわしい威厳に満ちた姿でそびえ立ちます。

 ◆日蓮宗立教開宗七五〇年慶讃事業 -- 「佐渡ヶ島 日蓮聖人大銅像建立」にあたって --

 --- https://www.ne.jp/asahi/nichiren/nishiminobu/sado.html ---

 この事業は、全国の日蓮宗宗徒の思いを集結し、霊跡佐渡の地に日蓮聖人の大銅像を、立教開宗記念として建立することを決意致したことから始まりました。
 去る平成十年十月二十七日、二十八日、全国日蓮宗青年会委員長として「佐渡伝道」の名の下に佐渡島内にて会員と共に唱題行脚を展開しました。その後、なんと新潟県佐渡郡の本宗信徒より土地寄進の申し出があったのです。
 土地の広さは約二八〇平方メートルで、両津港に面する山の中腹(新潟県両津市加茂歌代字百成)に所在。現在の道路(大形バス通行可)から土地までは三〇メートル前後で両津港からは車で約十分の所にあります。
 寄進者としては「法華経の布教そして日蓮聖人のためにこの土地を活用して頂きたい」ということでした。
 日蓮聖人は文永八年(一二七一)九月十二日の龍口法難によって佐渡の地に配流となられました。そして二年余りに及ぶ佐渡での過酷な生活の中で、今日の日蓮宗の御本尊となっている大曼荼羅の始顕をはじめ開目抄や本尊抄といった多くの著述をなされました。即ち、佐渡の地は立教開宗以来培われた日蓮聖人の大いなる思いが溢れだした聖地であり、その魂魄が留まっているのです。是非ともこの地に日蓮聖人を象徴するものを建立したいという思いが日に日に強くなって参りまして、この佐渡銅像建立委員会を平成十二年七月十二日に立ち上げた次第です。
 その後、周辺地を寄付される方も現れ、隣地の地権者も賛同され、また全国の日蓮宗寺院のご住職や僧籍を持つ方々の暖かいご支援を賜り(信徒含め約二千名)ここに世界一大きな日蓮聖人銅像がお姿を顕現しました。
 さて、いよいよ落慶の日が近づいて参りました。多くのご参拝をお待ち申し上げ、さらなる建立の趣旨へのご理解をお願い致します。

 -- 参考:日蓮聖人ご霊跡の地・佐渡に聖人の大銅像が完成し、その開眼落慶法要が2003年5月13日、全国から僧侶檀信徒や大銅像周辺地域の住民など約2千人が参列し盛大に営まれました。--

 …と、WEB上で「佐渡日蓮聖人大銅像」を検索しますと、こんな記載がありました。

 ◆日蓮

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 日蓮(にちれん、承久4年(1222年)2月16日 - 弘安5年(1282年)10月13日)は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖。

 ・概要

 文応元年(1260年)7月16日に「立正安国論」を鎌倉幕府に提出して国主諫暁を行う。立正安国論において数多くの経典を引用し、法然らに帰依した日本から日本を守護する天照大神、八幡大菩薩等の諸天善神が去り、代わりに悪鬼が入り、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)により日本は滅亡すると予言した。天照大神、八幡大菩薩等は正法によってその威光勢力を増すとし、正法を建てるよう進言した。立正安国論の内容は、国内外の状況を鑑み、経典を根拠としたものと考えられる。日蓮の時代はモンゴル帝国が各方面に侵攻し、モンゴル・南宋戦争、モンゴルの高麗侵攻など日本の隣国を繰り返し侵略し、前年の正元元年(1259年)には高麗が降伏していた時期であり、日蓮も南宋出身の蘭渓道隆等の渡来僧と交流もあり、民間でも貿易船等の交流もあった。国内の内乱も多く発生していた。国内の宗教対立を扇動し武装を強化する過激な日蓮は、元寇に対処するために貴族、武士、僧、神社、庶民の一致団結を掲げる幕府に危険視された。
 『難を忍び慈悲のすぐれたる事は をそれをも(恐れをも) いだきぬべし』(開目抄)『日蓮が慈悲広大ならば(中略)万年の外未来までもながるべし』(報恩抄)等、その教えは理屈よりも情を重んじる傾向が強い。他宗を激しく批判・否定し「建長寺も極楽寺も寿福寺も鎌倉の寺は焼き祓い、建長寺の蘭渓道隆も、極楽寺の良観房忍性も、首を刎ねて由比ヶ浜にさらせ」等の過激な発言を行い、良観(当時、数々の慈善事業を行い「持戒第一の聖人」「生き仏」として尊崇され、幕府からの信頼も厚かった人物)により幕府に訴えられ、御成敗式目第12条「悪口(あっこう)の咎」の最高刑となる佐渡流罪となった。その直前に幕府は御成敗式目により自ら下した判決に反して、日蓮を龍の口で斬首しようとしたが、奇瑞が起きた為かなわなかった。文永八年九月、刑場に同行した四条金吾に宛てた書簡には「光物とあらわれて竜の口の頸をたすけ」とその際の様子を振り返っている。(但し、御成敗式目に反してまで鎌倉幕府が日蓮を斬首をしようとしたエピソード、及び光り物により斬首を免れたとするエビソードについては、創作とする説があり、注意が必要である。)
 文永8年(1271年)に佐渡へ流罪となった後、文永11年(1274年)に佐渡流罪を赦免され鎌倉に戻った折、幕府から寺社の寄進等帰依の申し出があった。
 だが、それは元寇に対処するため他宗と肩を並べて敵国調伏の祈祷をしてほしいというものだった為、日蓮は「他宗への帰依を止めることが自身の教えである」とそれを一蹴し、山梨県の身延山に移った。
 文永11年(1274年)・弘安4年(1281年)の元寇により他国侵逼難の予言を的中させるが、日本側が勝利し真言亡国の予言が外れ、弘安5年(1282年)10月13日に胃腸系の病により入滅。滅後の延文3年(1358年)、日蓮宗の僧である大覚が雨乞い祈祷によって雨を降らした功績により、後光厳天皇から日蓮大菩薩の位を授けられた。(日蓮正宗富士大石寺では、日蓮を釈迦よりも根源的な本仏と位置付けており、日蓮宗とは全く異なる立場をとっている)大正11年(1922年)には日蓮主義者の本多日生らの嘆願により、大正天皇から立正大師の諡号を追贈された。(以下 略)

 …と、こんな日蓮聖人であります。
 バスで近くまでヤッて来ますと、大きな銅像ですから、スグに眼に入りましたネ(^-^)//"

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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(05)

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 佐渡島へのジェットフォイル出航時間〝13:35〟までの約1時間、3階の〝新潟港ターミナル〟で時間を潰しますのも結構、苦痛ではあります。
 「瑞鳥(ずいちょう)」「佐渡彩景(さどさいけい)」の作品の他には特に見るべきモノも無さそうですから、仲々時間が過ぎ去りません。15分おきくらいに時間を確認しておりまして、13:20頃でしたか…皆さんに動きが(^-^)
 ジェットフォイル改札口方向へ向かわれますから、後方に付いてGONsanも。
 ふん、ふん、改札口手前にも待合室がありましたか…ただ、狭いですから、空席はありませんでしたネ(^-^)
 出航10分前頃から改札スタート。ジェットフォイル乗り場へ向かっていますと、眼の前にジェットフォイルが(^_^)v
 GONsanは、ジェットフォイルへの乗船は初めてですから、WEB上で検索してみますと、こんな記載がありました(^.-)☆

 ◆ボーイング929

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 ボーイング929ジェットフォイル(Boeing 929 Jetfoil)は、ボーイング社が設計製造した旅客用の水中翼船の名称である。
 当初は軍事用船舶として開発された。1974年に旅客用が開発され、1977年に日本でこの旅客用が初導入された。日本国内ではジェットフォイル((Jetfoil)という愛称を持つ。
 「ジェット」は本船がジェットエンジンとウォータージェット推進機によって駆動されることからきており、「フォイル」とは、「鋭い薄い翼」を表わす英語に由来する。
 ボーイング社の設計製造であるが、現在はライセンスを引き継いだ川崎重工業の登録商標となっており、現在は「川崎ジェットフォイル929-117型」として、製造・販売を行なっている。

 ・構造

 水中翼船としては全没翼型に属し、翼が全て水中にある。ガスタービンを動力としたウォータージェット推進である。
 停止時および低速では通常の船と同様、船体の浮力で浮いて航行し、「艇走」と呼ばれる。速度が上がると水中翼に揚力が発生し、しだいに船体が浮上し「離水」、最終的には水中翼だけで航行する「翼走」という状態になる。
 船体の安定は、自動姿勢制御装置(ACS、Automatic Control System)により制御された水中翼の動翼により行われる。進行方向を変える場合も動翼を使うため、航空機さながらに船体を内側に傾けながら旋回する。翼走状態では水面の波の影響を受けにくく、かつ高速でも半没翼式水中翼船に比べ船体動揺が少なく乗り心地がよい。
 水中翼は前後ともに跳ね上げ式になっており、停泊・低速航海時の吃水を抑えることができる。また、半没翼型と異なり、船体左右への翼の張り出しもないため、最低限の防舷材等を除いて、特別な港湾設備なしに港に着岸することができる。また水中翼にはショックアブソーバーが付いており、材木など多少の海上障害物、浮遊物への衝突に耐えることができる。
 翼走航海中の船体姿勢制御はACSと油圧アクチュエータに依存するので、推進用のガスタービンと併せて、航空機なみのメンテナンスが必要である。
 燃油は軽油を使用する。

 ・歴史

 航空機メーカーであるボーイングがその技術を水上に対して適用する研究を始めたのは1962年頃で、当初は軍事目的であった。1967年にパトロール用の小型艇トゥーカムカリが実用化された。これがベトナム戦争で有用であったため、その後NATOの依頼によりミサイル艇(後のペガサス級ミサイル艇)が開発された。
 1974年に、その軍事用船舶を基にして旅客用が開発された。ボーイング社は、航空機には700番台の番号を、船舶には900番台を使用していたため、型番は929-100型となり、ジェットフォイルの名前もこのとき付けられた。ボーイングとしては初期型929-100型を10隻、前方フォイル及び乗船口付近の改良を施した929-115/117型を13隻、軍用の929-320、929-119、929-120型5隻の合計28隻を製造した。1977年に、日本に初導入された佐渡汽船のジェットフォイル「おけさ」も、このボーイング製(100型)だった。
 その後、ライセンスを川崎重工業に提供し、1989年に日本製1号艇が就航した。現在は川崎重工業(神戸工場)に全面的に移管されており同社で製造されている。川崎重工業では1989年から1995年までに15隻が製造された。ボーイング、川崎重工業の両社で旅客型として製造されたジェットフォイル(軍用-320型からの改造1隻含む)は29隻にのぼる。
 1995年以降、新規造船はなかったが2020年に25年ぶりに新造船が竣工した。東海汽船の「セブンアイランド結」である。(川崎重工業製16番船)
 また同じくボーイングのライセンスを基にイタリアのフィンカンティエーリ社が建造して1983年に就役したイタリア海軍のスパルヴィエロ級ミサイル艇は海上自衛隊の目を引き、住友重機械工業がライセンスを受けて1993年-1995年に1号型ミサイル艇を3隻建造している。(2010年までに退役)
 日本でのジェットフォイル初就航は1977年5月で、カーフェリーのみだった佐渡汽船の新潟港 - 佐渡両津港間の定期航路に「おけさ」(100型)の名称で投入された。自社で整備・メンテナンスを行うため、佐渡汽船の整備担当者はボーイングで長期研修を受けてメンテナンスのノウハウを学んだ。現在も、佐渡汽船は国内運航会社で唯一ジェットフォイル専用ドックを保有し、定期メンテナンスから事故修繕まで全ての整備を自社で行っている。
 その後、川崎重工業がジェットフォイルのライセンスをボーイングから得た際には、佐渡汽船からもメンテナンス・ノウハウの提供を受けている。また、新潟-佐渡航路の運航開始当初、新潟港が信濃川の河口部にあるため、水と共にごみなどの異物・浮遊物を吸入して運航不能となるトラブルが頻発したことから、ボーイングは急遽社内に対策チームを設け、吸入口に特殊な構造のグリル(通称『ニイガタグリル』)を設置する対策を講じた。これが奏功して異物吸入のトラブルは減少し、その後製造されたジェットフォイルの設計にも反映された。

 …と、こんな歴史を持ちます〝ジェットフォイル〟でありました(^-^)/
 〝ジェットフォイル〟の最高時速は80kmのようですけど、この日の最高速度は、あいにく3mの荒波もありまして〝76km〟止まりでしたネ。
 「翼走状態では水面の波の影響を受けにくく、かつ高速でも半没翼式水中翼船に比べ船体動揺が少なく乗り心地が良い」との事ですけど、この日は波が高く、出航して30分ばかり経ました頃でしたか…船酔いでゲボが出そうになりまして、急いでトイレに駆け込みです。
 暫しトイレを覗き込み、ゲボ出し態勢を取りましたけど、これが、出そうで仲々出なくて実に苦しい(^-^;
 15分ばかりゲボ出し態勢にありましたけど、やっぱり出ませんで、とりあえずトイレからは退室です。トイレから出ますと、トイレ待ちの方が何名かおられ、非常にバツの悪いGONsanなのでありました。
 自席に戻りましてからも、ゲボは出そうで出ない状態が続きます。自席でビニール袋で顔を覆い、苦しい状態を継続でした。
 結局、佐渡島の両津港に到着しましても、船酔い状態で気分がすぐれませんGONsanなのでありました。後で知りましたけど、この日の乗客の半数近い方々が、GONsan同様に船酔い状態でありましたようです(^-^;
 乗船時間は、1時間程度でしたけど、この内の半分は苦しい時間を強いられてしまいましたネ(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
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10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(04)

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 〝港食堂〟での昼食を終え外に出ますと、依然として小雨がぱらついておりました。
 皆さん、暫しの間、〝ピアBandai〟内の〝万代島鮮魚センター〟を見廻しながら散策です。GONsanは、小雨の中を樹齢150年の〝オリーブの樹〟を求めて探索です。が、最初、何処にありますのか分かりませんで、〝ピーカンテラス〟の軒先で雨宿りしておりましたら、なんと眼の前に〝オリーブの樹〟が存在です。
 真ん前にGONsanは居たのですけど、何故か、全く気付きませんでしたネ(^-^;
 我が家の畑にもオリーブを1本植えておりますけど、未だ樹齢23年程度ですから、こんなに幹は太くありませんで実にスマート。〝樹〟と言うよりも〝木〟の状態です(^-^)
 ただ、オリーブの実は毎年沢山付けますけど、別に利用する訳でもなく廃棄処分。せっかく実を付けていますのに、勿体無いと言えば勿体無いのですけど…
 樹齢150年の〝オリーブの樹〟を画像に納めますと、GONsanも〝万代島鮮魚センター〟内へ。
 暫し見て廻りましたけど、別に求めますモノも無く、バス車内へと向かいます。バスには未だどなたも戻っておられませんで、GONsanのみでありました。
 ノンビリと眼を瞑りリラックスしておりますと、いつの間にか皆さんお揃いで、バスは〝佐渡汽船FT〟へと向かいます。到着し、時間を見ますと〝12:30〟でありました。佐渡島・両津港へのジェットフォイルの出航は〝13:35〟ですから、ここでも1時間ばかり過ごす事になりそうですネ(^-^)
 〝佐渡汽船FT〟のロビーを見廻しますと、まず眼に入りましたのが「瑞鳥(ずいちょう)」の作品です。

 ◆「瑞鳥(ずいちょう)」
 佐渡出身の人間国宝、佐々木象堂(1882-1961/ろう型鋳金家)の代表的作品。幸運を招くと言われる『鳳凰』をデザインした作品で、昭和33年の日本工芸展で最高賞を受賞しています。皇居新営殿の造営にあたり棟飾りのデザインに採用された作品です。
 皇居の他には、佐渡市にある佐渡歴史伝説館と、このターミナルで見ることができます。

 …と、こんな説明板がありましたけど、作品の台座部分には、こんな説明も刻まれてありました。

 ◆瑞鳥(ずいちょう)
  人間国宝 佐々木象堂(1882-1961)

 蝋型鋳銅『瑞鳥』(高さ39cm、横31.8cm)は、1958年、日本伝統工芸展において最高賞を受賞した作品である。
 会場では多くの人がこの作品の前に立ちつくしたといわれ、開会即日から買約申し込みが殺到したが、結局文部省買上げとなった。
 後年、皇居新宮殿造営にあたり正殿の棟飾りとしてこのデザインが採用され、その偉容は今も宮殿のシンボルとして空高くそびえている。
 ちなみに宮殿のものは高さ2.3メートル、重さ1トンである。
 鋳金60年、不朽の名作を次々と天下に示した佐渡の偉大な芸術家佐々木象堂氏の功績を末永くたたえるため『瑞鳥』を拡大しここに展示する。
 -- 1990年4月29日 佐渡汽船株式会社 代表取締役会長 古川長四郎 協力 佐渡歴史伝説館 --

 ターミナルの待合室には、こんな作品も…

 ◆佐渡汽船 新潟港万代島ターミナル「佐渡彩景(さどさいけい)」
  -- 金属、陶板レリーフ --

 金属・陶板レリーフ「佐渡彩景」原画・監修・制作:宮田亮平
 佐渡汽船 新潟港万代島ターミナル 3階待合室 2020年3月24日完成
 ※ この作品は、宝くじの社会貢献広報事業として助成を受け整備されたものです。(https://jptca.org/publicart543/)

 ・作家より 宮田亮平 -- 金工作家、東京藝術大学名誉教授、日展理事長 --
 美しくも厳しい自然や人・物の交流がもたらした豊穣な文化が生み出す佐渡の風景は、
 いつでも、あなたの旅への思いを包み込んでくれるでしょう。
 悠々と泳ぐイルカの群れに誘われて、佐渡の魅力を探しに、ぶらり足を伸ばしてみませんか。

 ・制作ノート
 佐渡出身の金工作家・宮田亮平先生が原画・監修を務めた金属、陶板レリーフです。
 本作品は、佐渡と本島を結ぶ唯一の航路である佐渡汽船新潟港万代島ターミナルに設置されています。
 金属製のイルカは宮田先生が自ら手がけており、背景には伝統芸能の鬼太鼓や観光客らに人気のたらい舟、海運業の中心となった北前船、歴史的価値の高い佐渡金山、日本を象徴する鳥と称されるトキや美しい自然風景など、佐渡の文化、歴史そして自然が陶板によって立体的に表現されています。
 「藝大受験のため佐渡汽船に乗り、佐渡島から新潟に向かうときに見たイルカの姿に魅かれたことが芸術家としての『原点』」と語る宮田先生が表現したイルカは佐渡へ訪れた人々を温かく出迎え、旅立つ人々に元気や勇気を与える。まるで応援団かのように佐渡の島、そして島とつながる人々を見守りながら泳ぎ続けています。

 ・作品によせて -- 新潟県知事 花角英世 --
 本県佐渡島の出身で、東京藝術大学前学長である金工作家・宮田亮平先生が陶板の原画・監修を務め、金属製のイルカを自ら制作した作品「佐渡彩景」が、公益財団法人日本交通文化協会のご支援により、新潟港万代島ターミナルに設置されることとなりました。宮田先生をはじめ関係者の皆様方に対し心から感謝申し上げます。
 越佐海峡を思わせる神秘的な青色の陶板には、佐渡にしかない伝統芸能の鬼太鼓をはじめ、例年6月上旬に見頃を迎えるトビシマカンゾウ、外国人観光客にも人気のたらい舟、日本海交易を担った北前船、世界遺産登録を目指している佐渡金銀山のシンボル・道遊の割戸、そして、大空を舞う朱鷺の姿といった佐渡を代表する歴史文化や豊かな自然が描かれており、そこに宮田先生の代表作「シュプリンゲン」シリーズでモチーフとなっているイルカが、これから始まる船旅を歓迎するように楽しげに泳いでいます。
 佐渡の魅力が詰まった本作品が新潟港万代島ターミナルに設置されることは大変喜ばしく、島民や佐渡を訪れる方々に末永く愛され、親しまれることを心から願っております。

 ・公益財団法人日本交通文化協会 理事長 滝久雄
 このたび佐渡島ご出身の東京藝術大学前学長である宮田亮平先生のパブリックアート作品「佐渡彩景」が佐渡汽船の新潟港万代島ターミナルに設置されることになりました。心からお喜び申し上げます。
 宮田先生は東京藝大受験のため佐渡島から新潟に向かう船の上からイルカが泳ぐ姿を目にし、その時の感動が金工作家としてやられていく上で、作品のモチーフとなったと聞いております。
 今回の作品は宮田先生が原画・監修を務められ、イルカも先生が手がけられました。佐渡島ゆかりの鬼太鼓、北前船、金山・銀山などの模様の陶板レリーフはクレアーレ熱海ゆがわら工房が制作しました。日本海を想像させる青味がかった陶板の上を躍動するイルカは、かつて先生が目撃した光景でもあるのでしょう。異素材の共鳴は、作品をより魅力的なものにしていると思います。
 「人々が行き交い、集まる場所を、アートでもって心豊かな空間にしたい」と、私は長年、駅や空港、学校などの公共空間にアートを設置してきました。543作品目となる今回の作品は、先生をはじめ一般財団法人日本宝くじ協会様のご支援、佐渡汽船株式会社様など関係者のご協力で実現しました。改めて皆様に感謝申し上げるとともに、この作品が末永く愛されることを祈っております。

 ◆宮田 亮平

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 宮田 亮平(みやた りょうへい、1945年6月8日 - )は、日本の金属工芸家。勲等は瑞宝重光章。第22代文化庁長官、第9代東京藝術大学学長。同名誉教授。パチンコ・パチスロ社会貢献機構代表理事。パソナグループ社外取締役。公益社団法人日展理事長。文化功労者、日本芸術院会員。

 ・来歴

 新潟県佐渡市出身。佐渡に伝わる金属工芸「蝋型鋳金」技術保持者の二代目宮田藍堂(みやた らんどう)の三男。初代藍堂は祖父、三代目藍堂は長兄で元・東京藝大工芸科教授の宮田宏平(1926年 - 2007年)、次兄はデザイナーで三重大学名誉教授の宮田修平。兄二人、姉四人を持ち、家族全員芸術家の一家に育つ。長女は金属工芸家の宮田琴(東京藝大工芸科卒)。金属工芸家の山下恒雄(やました つねお、東京藝大工芸科名誉教授)の指導を受けた。
 東京藝大工芸科教授として鍛金技法研究の指導に当たる一方、金属工芸家としても世界的に活動。東京藝大学長選挙時には、同郷の佐渡出身であった三浦小平次(人間国宝)を中心とした新潟県人や身内で学内を統制し、学長となる。日本のみならずドイツ・イスラエル・韓国・中国などで展覧会が催されている。
 代表作にイルカをモチーフにした「シュプリンゲン(Springen)」シリーズがある。故郷の佐渡島から上京する際、フェリー船上から見たイルカの群れをモチーフとしたシリーズで、世界各地で展覧会が開催されている。シュプリンゲンは三越日本橋本店新館エンブレムにも採用されている。
 かつてはカーデザイナーに憧れがあり、後に江戸開府400年記念コンセプトカーのトップマークのデザインもした。
 2016年から文化庁長官に就任。2019年に「あいちトリエンナーレ2019」への補助金不交付問題が発生し、前任の文化庁長官だった青柳正規は、不交付を求められれば「自分だったらもちろん辞めてます」と宮田の姿勢を批判した。
 2019年、太刀安綱(庄内藩酒井氏伝来)の重要美術品認定を取り消し。日本国外に移出。
 2010年3月から横綱審議委員会委員を務めた。2019年1月場所を途中休場した白鵬について「白鵬は本当にケガをしたのかね?そういう負け方に見えましたか?負けが込んだから休むというのは、どうなのか」と仮病を疑うような発言をした。2020年1月27日、5期10年の任期を満了し、横綱審議委員を退任した。
 2021年3月、文化庁長官退任。6月パチンコ・パチスロ社会貢献機構代表理事。8月パソナグループ取締役。
 2022年4月、美術館連絡協議会会長に就任。7月、国立工芸館顧問に就任。
 2023年3月、日本芸術院会員。
 2023年11月、文化功労者。
 2025年秋の叙勲で瑞宝重光章を受章。

 …と、〝佐渡彩景(さどさいけい)〟をWEB上に検索しますと、こんな記載がありました。
 GONsanは、この〝佐渡彩景〟の後方から枠の中に立ち、嫁さんに画像を撮って貰ったのですけど、いつまで経ってもくれません。削除されましたのかも(^-^;

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  • 中村GG友の会〝11/25・忘年会〟&〝12/2・忘年GG大会〟(06)
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