GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

旅の景観・話題

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(49)

01-720
02-720
03-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720

 皆さん、適当に「道の駅〝新潟ふるさと村〟」内で時間を費やされまして、集合時間の14:30までには駐車場のバスまでお帰りです(^.-)☆
 ここから新潟空港までは、15分も要さず到着で、フライトの15:45までは空港内でノンビリと(^-^)
 新潟空港からは、予定通り出発でしたけど、伊丹空港着は15分ばかりズレ込みましたようですネ。
 大阪にと戻って来ましてからは、伊丹空港(18:05) → 新大阪駅(19:02) → 福山駅(20:03)と、当初の予定通り無事帰福。
 参加者の皆様、大変お疲れ様でございました。2年毎に開催されます玉泉寺様の〝参詣旅行〟。GONsan夫婦は、初めての参加となりましたけど、また機会が訪れましたら、ご一緒させて頂けましたら嬉しいです。
 大変、お世話になりましたです(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(48)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-72007-720
06-721
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
16-720
17-720

 当てもなく、ブラブラと〝ふるさと庭園〟内を散策しておりますと、信濃川・河川敷を見渡せます場所にヤッて来ました。
 ここからは、河川敷に下り、信濃川に向かって散策道が続いています。河川敷の散策道と言うか遊歩道入口には〝↑水上バスのりば〟の案内標識が…
 「水上バス」とは何なんだろう?…と、Googleマップを確認してみますと、この遊歩道を進んで行きますと「信濃川ウォーターシャトル」乗船場に出ますようであります。

 ◆信濃川ウォーターシャトル

 新潟の『今』を水辺から。新潟の観光は『水上バス信濃川ウォーターシャトル』。
 水上バス信濃川ウォーターシャトルは、新潟市歴史博物館「みなとぴあ」から新潟国際コン ベンションセンター「朱鷺メッセ」を経て国の重要文化財「萬代橋」をくぐり、新潟県の観光情報発信基地「新潟ふるさと村」までを往復する アナスタシア号とベアトリス号。
 水面を滑るように航行する快適な船の旅・信濃川ウォーターシャトルは、交通手段としてだけでなく、周遊便やチャーター便、水上挙式等お客様の多様な用途に応じてご利用いただけます。

 …と、こんな〝信濃川ウォーターシャトル〟のようであります(^.-)☆
 ここからは、〝ふるさと庭園〟全体も見渡せますので、暫し眺望となりました。
 この赤い植物は、コキア(コキア・スコパリア)ですけど、〝ホウキグサ(箒草)〟と言います方が一般的かも。夏は鮮やかな緑色で、秋になると写真のように真っ赤に紅葉。
 丸くこんもりとした姿が特徴的で、乾燥させた茎は、昔は実際に「ほうき」に使われていましたようであります(^-^)
 ところで、この庭園、春に訪れますとチューリップ等も咲き誇り、さぞキレイな事でしょうねぇ~
 それでは、この辺で〝グリーンハウス〟へと戻りまして、その後で〝ババール館(土産物店)〟に向かってみます事に(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(47)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720
21-720

 まず、「道の駅〝新潟ふるさと村〟」をWEB上で検索してみますと、

 ◆道の駅〝新潟ふるさと村〟

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 道の駅新潟ふるさと村(みちのえき にいがたふるさとむら)は、新潟県新潟市西区山田にある国道8号・国道17号の道の駅である。
 1991年(平成3年)7月、当時の西蒲原郡黒埼町大字山田地内の旧新潟県運転免許試験場跡地に「新潟ふるさと村」として開業した。「新潟ふるさと村」の名称は、施設の総称として開業当初から使用しているが、1993年(平成5年)4月22日付で道の駅に登録する際の正式名称は、当時の町名から「道の駅黒埼」として登録した。その後2001年1月1日に黒埼町が新潟市に編入合併されたことに伴い、施設の総称「新潟ふるさと村」を道の駅の正式名称として採用した。

 -- 歴史 --

 施設のテーマは「ふるさと新潟再発見」で、新潟県を象徴する観光拠点施設として、観光・物産の振興を図るとともに「ふるさと」に対する県民の意識を高め、地域活性化を一層推進させることを目的に官民一体で整備された。開業時は新潟の風土や観光情報を紹介する有料展示施設「アピール館」、物産販売施設「バザール館」、県花でもあるチューリップの花が年間を通じて見られる温室「グリーンハウス」と「ふるさと庭園」、黒埼町の特産品を扱う「Be-inくろさき」などで構成されていた。
 それまで山田に所在した運転免許試験場は老朽化のため、1989年(平成元年)5月に、北蒲原郡聖籠町の新潟港東港区(新潟東港)内に所在する、県有の工業立地用造成地へ移転した。その当時、東港周辺は工業立地が進んでいなかったことから、新潟県がそれを補完する形で移転計画を進めたもので、ふるさと村の整備事業は試験場移転後の跡地利用の一環として行われたものである。
 整備事業は1988年度(昭和63年度)から着手し、施設の運営管理を行う企業として、新潟県と当時の新潟県内全市町村(112市町村)、新潟交通や佐川急便など民間が出資する第三セクター「株式会社新潟ふるさと村」が設立された。
 しかしその後はバブル崩壊の影響で、1992年(平成4年)には第三セクターが約4.6億円の累積赤字を計上するなど経営不振となり、さらに同年発覚した東京佐川急便事件の捜査過程で、第三セクターが佐川急便側から無利子で10億円の融資を受けていたことも発覚した。
 このため、新潟県は第三セクターの経営再建策として、ふるさと村内のすべての土地・施設を買い受けて県有化したほか、有料となっていた展示施設「アピール館」の入館料を1994年(平成6年)度(1994年4月1日)から無料化するなどの方策を進めた。これにより1994年(平成6年)2月から、施設は新潟県が所有し、アピール館や付帯施設は社団法人新潟県観光協会が新潟県から管理業務を受託し、物産館「バザール館」は第三セクターが新潟県から使用許可を受けて運営を行う方式に変更された。
 「アピール館」「グリーンハウス」は大規模な改装が行われ、1996年(平成8年)4月にリフレッシュオープンとなった。1997年(平成9年)4月にはふるさと庭園の中に「ふるさと越後の家(体験棟)」「ふるさとの家(展示棟)」「ふるさとお休み処(休憩棟)」がオープンした。
 駐車場ロータリー北側に位置する鉄筋2階建の洋館風の施設は、ふるさと村オープン以来テナントの出店と撤退が相次いでいた。1997年(平成9年)6月には当時の地ビールブームに合わせ、白根市(当時、2025年現在の新潟市南区)の醸造機器メーカーが運営する「新潟燦地麦酒醸造所」と、直売所兼レストラン「メイプリップ」がオープンしたが、のちのブーム沈静化などもあって不採算となり、2001年(平成13年)8月をもって閉店した。その後もテナントの出店・撤退が続いたが、2025年現在は新潟市の外郭団体が運営する観光情報案内施設「時の旅人館」となっている。
 展示施設「アピール館」には2006年(平成18年)度(2006年4月1日)から指定管理者制度が導入されており、同日から2007年(平成19年)度末(2008年3月31日)までは新潟県観光協会、翌2008年(平成20年)度(2008年4月1日)以降は2期にわたり、新潟ふるさと村運営グループ(愛宕商事、新潟ビルサービス、グリーン産業による共同事業体)が指定管理者として運営管理が行われている。

 -- 施設 --

 駐車場 -- 最大550台(臨時駐車枠を含む) 第一駐車場380台、河川敷駐車場170台、観光バス:14台、身障者用:9台
 トイレ -- 男:大 17器、小 21器 女:14器 多目的:4器
 物産館「バザール館」-- 営業時間 9:30 - 17:30(夏季延長あり)、インフォメーションカウンター、各種物販スペース、新潟の地酒試飲コーナー、鮮魚コーナー「鮮魚センター マリーン」、レストラン(11:00 - 15:00(平日)、10:30 - 15:00(土日祝))、休憩室
 歴史体感施設「アピール館」-- 営業時間 9:00 - 17:00(夏季は18:00まで延長)、観光情報コーナー、積雪体験コーナー(通常の降雪機運転時間 10:30 - 15:30、GW及び盆期間は運転時間を延長)、ふるさとシアター(上映時間 9:00 - 16:40)、アンテナショップ・カフェ「GATARIBA」(営業時間 9:00 - 17:00)、新潟市観光情報館「時の旅人館」:営業時間:9:00 - 17:00、休館日:12月31日・1月1日、2階:一般社団法人 新潟県サッカー協会

 -- 管理 --

 施設所有 -- 信濃川左岸河川敷内の園地(リバーサイドパーク等):国(国土交通省北陸地方整備局信濃川下流河川事務所)、その他:新潟県、
 各施設の運営管理 -- アピール館およびその付帯施設:指定管理者、バザール館:株式会社新潟ふるさと村、新潟市観光情報館:公益財団法人新潟観光コンベンション協会

 …と、こんな「道の駅〝新潟ふるさと村〟」であります。
 施設内を散策しておりますと、和風庭園「ふるさと庭園」の敷地内に「レルヒさんの家〝ふるさとの家〟」なるモノが…〝レルヒさん〟とは、いったい何者なんでしょう?
 また、WEB上で〝レルヒさん〟を検索です。

 ◆ふるさと村に「レルヒさんの家」オープン!レルヒさんグッズや顔出しパネルを展示

 --- 2024/04/20 Komachi編集部 和田 ----

 新潟ふるさと村にある古民家施設「ふるさとの家」が、4月20日(土)、「レルヒさんの家」としてオープンしました!公開は11月下旬まで。
 「レルヒさんの家」があるのは、和風庭園「ふるさと庭園」の敷地内。庭園を横切る池に架かる橋からは、気持ちよさそうにスイスイ泳ぐ錦鯉の姿も見えます。
 入り口直結の床の間に入ると、レルヒさんの顔出しパネルが出迎えてくれました! 家主の「ヨウコソ」の声がどこからか響いてくるようです(笑)。雰囲気のある囲炉裏も。鮮魚センター「マリーン」で調達した鮮魚と地酒で毎晩楽しんでいるのかな?レルヒ家のホムパ、招かれたい!
 家の奥にはレルヒさんグッズが目白押し!レアなアイテムもあるそうです。皆さんはいくつ持っていますか?
 道中のチューリップ畑も満開。はっとするような絶景をぜひお見逃しなく。「レルヒさんの家」の入場は無料。公開時間は9時~16時30分です。運が良ければ1カ月に1度ほど帰宅するレルヒさんに会えるそうです。ふるさと村を訪れた際にはぜひ立ち寄ってみてくださいね。

 ◆新潟のご当地キャラ「レルヒさん」がふるさと村に帰宅!お友達の「ササダンゴン」も登場!

 --- 2025年3月13日11:34 https://webun.jp/articles/-/769223 公益社団法人 新潟県観光協会 ---

 撮影&サイン会も♪レルヒさんとふれあう特別な1日!開催日:2025年3月30日(日)
 新潟のご当地キャラ「レルヒさん」が、2025年3月30日(日)に新潟ふるさと村「レルヒさんの家」へ帰ってきます!当日は、レルヒさんが館内各所に出没!さらに、レルヒさんのお友達でもあり、新潟の人気キャラ「ササダンゴン」も登場!
 ここでしかできない撮影会やサイン会、グッズ販売をお楽しみください♪

 レルヒさん、新潟県上越市で日本初のスキーを教えたオーストリア=ハンガリー帝国(当時)の軍人テオドール・フォン・レルヒさんがモチーフです。「日本元祖スキー漢(おとこ)」として、ウインターレジャーや新潟の活性化のため日夜活動中です!
 「新潟ヲ 盛リ上ゲルタメ すきーモ ぎゃぐモ すべリ マクッテ イクゼー!!」【レルヒさん X】https://x.com/TheodorVonLerch

 …と、こんな記載がありましたけど、新潟県上越市で日本初のスキーを教えたオーストリア=ハンガリー帝国(当時)の軍人テオドール・フォン・レルヒさんがモチーフの〝新潟のご当地キャラ〟のようですネ。
 新潟県では、有名人なんでしょうネ(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(46)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720
21-720

 ところで、佐渡島には、島内のアチコチに立派な〝能舞台〟があるような気がしますけど、何故なんでしょうネ。
 最後に、また、ChatGPTに質問してみました。

 ◆何故、佐渡島には能舞台が多いのでしょう?

 ◇佐渡島に能舞台が多い理由は、主に次のような歴史的・文化的背景が重なっているためです。

 ①世阿弥が佐渡に配流されたこと
 室町時代、能楽を大成した〝世阿弥(ぜあみ)〟は、将軍・足利義教の不興を買い、1434年(永享6年)に佐渡へ流罪となりました。
 佐渡滞在中も世阿弥は能の精神と技を伝えたとされる。彼の存在が、佐渡における能の“精神的な源流”となりました。
 佐渡は「世阿弥終焉の地」と伝えられるほど、能と深い縁を持っています。

 ②流人文化としての能の定着
 佐渡は古来より流刑地であり、公家・武士・文化人が多く流されてきました。
 都の文化を知る人々が、芸能や教養を島に伝えた。能は「武家の式楽」であり、流人たちの精神的支えでもあった。
 結果として、能が島の各地に根付いていきます。

 ③神事・奉納芸能として広まった
 佐渡では能が、神社の祭礼や奉納芸能として盛んに行われました。雨乞い、五穀豊穣、疫病退散などの祈り、神前で演じるため、神社境内に能舞台が造られた。
 そのため現在でも、春日神社、牛尾神社、羽茂大崎神社など、神社付属の屋外能舞台が多数残っています。

 ④領主・金山による保護
 江戸時代、佐渡は佐渡金山を抱える重要地でした。
 幕府や代官による文化保護、地域の有力者が能楽を支援。
 これにより、農村部にまで能舞台が建てられるという、全国的にも珍しい状況が生まれました。

 ⑤現在まで受け継がれる「佐渡能」
 佐渡では今も、素人能(地謡・子方)集落単位での奉納能が続いています。
 その結果、人口比で日本一とも言われる数の能舞台が現存しています。

 -- まとめ --
 佐渡島に能舞台が多い理由は---世阿弥配流という決定的な歴史、流人文化がもたらした都の芸能、神事として地域に根付いた奉納能、金山を背景とした文化的余裕、
 これらが重なり、〝「能が生活文化として残った島」〟になったためです。
 佐渡を歩くと、集落の神社にひっそり佇む能舞台が多いのは、まさにこの歴史の証なのですね。

 …と言う事で、佐渡には能舞台が数多く存在しますようであります(^-^)/
 それでは、〝大膳神社〟〝佐渡大膳神社能舞台〟とお別れし、両津港へと向かいます。
 佐渡滞在3日間で、〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟の参詣も終え、後は福山へと帰りますのみ。A.M.11:15・両津港発ジェットフォイルで新潟港に向かいますけど、心配なのが〝ジェットフォイル〟の船酔いです。
 今朝のウォーキング時には、比較的穏やかそうな波に見えましたけど、船酔いの辛さを十二分に味わいましたので、〝ウエルシア〟で求めました〝アネロン「ニスキャップ」〟を乗船までの待ち時間を利用し服用です。
 『酔ってからでも効く』との事ですから、これで大丈夫と思います(^-^)
 昼食は、持ち込みました弁当を船内で。
 さて、どぅしたものか…と、暫し思案後、酔い止め薬を服用済みですから、きっと大丈夫…と、弁当は戴きます事に。
 昼食を終えますと、ひたすらジッとしておりまして、楽な姿勢を維持。新潟港に到着を今か、今かと、待つのみでありました。が、波が穏やかでしたのか、GONsanばかりでなく他の方々も大丈夫のようでしたネ(^.-)☆
 笑顔で新潟港に到着でした(^.-)☆
 〝新潟→大阪〟へのフライトまで、まだ2時間半ばかり時間がありますので、この間は「道の駅〝新潟ふるさと村〟」で自由時間。
 お土産を求められます方…〝新潟ふるさと村〟内を散策されます方…と様々ですけど、GONsanも、施設内をブラブラと散策してみます事に(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(45)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720
21-720

 〝妙宣寺〟~〝大膳神社〟間は、歩いても行けそうでしたけど、一応、バスに乗って(^.-)☆
 でも、スグに到着です。が、進入路は狭くバス通りで下車し徒歩で(^-^)
 WEB上で検索しますと、〝大膳神社〟についてこんな記載が…

 ◆大膳神社(だいぜんじんじゃ)

 --- https://www.visitsado.com/spot/detail0106/ ---

 -- 品格漂う能舞台をもつ資朝卿ゆかりの社 --
 大和飛鳥路に例えられた田園風景に大膳神社が鎮座。地頭・本間山城守によって日野資朝、大膳坊が合祀され、正殿には御食津大神を祀ります。資朝の子・阿新丸が佐渡に渡り、親の刑死の無念を晴らした際、逃亡を助けた大膳坊は処刑。御坊の怨霊を鎮めるために、勧進されたとされます。1846年に再建された茅葺き寄棟造りの能舞台(県の有形民俗文化財)は、定能が盛んであった「国仲四所の御能場」の1つ。佐渡に現存する最古の能舞台と伝わります。現在も4月18日の祭礼には奉納能、6月には能と鷺流狂言が上演されています。

 ◆新潟県指定 有形民俗文化財:佐渡大膳神社能舞台 1棟、附 旧鏡板1面

 --- https://www.city.sado.niigata.jp/site/bunkazai/5131.html ---

 -- 新潟県指定 有形民俗文化財 --
 佐渡大膳神社能舞台 附 旧鏡板1枚(さどだいぜんじんじゃのうぶたい つけたり きゅうかがみいたいちまい)

 松と杉の木を背にした境内地に建つ能舞台で、社殿に向かって左側に、正面を社殿に向けて配置されている。
 現在の建物は、旧鏡板の背面にある墨書から弘化3年(1846)の再建とわかり、本舞台は間口5.5メートル、奥行4.4メートル、寄棟造茅葺である。床板は本舞台、後座を縦と横に張り分けているが、本舞台奥行が後座まで食い込み、天井は裏楽屋まで一体に小屋組を見せているが、松と日輪の絵が描かれた鏡板で仕切られている。
 橋掛りは複式形式で、両側に地覆付の勾欄が付けられ、正面は平桁、裏通路との仕切りには通し貫の形式が用いられ、柱を設けず、3間の軒桁で橋掛り前面を開放し、背面は板壁である。地謡座は、以前は組立式の仮設であったが、今は常設されて竹の勾欄があり、舞台正面寄りの半分が客人桟敷となる。鏡の間の機能を橋掛り上に設け、裏楽屋とつなぐ複式橋掛り形式の代表であり、茅葺屋根ともあいまって佐渡らしい風格をもった能舞台である。
 過去の演能記録としては、文政6年(1823)の「大膳御神事御能番組留」までさかのぼることができ、現在も毎年4月18日の祭礼に定例能、6月には臨時の演能が行われており、当地に伝わる鷺流狂言(県指定文化財)も上演される。

 …と、こんな〝大膳神社〟であります。
 〝大膳神社〟への進入路の入口には、こんな説明板が…

 ◆大膳神社
 大膳神社は、御食津神を正殿に、日野資朝を左殿に、大膳坊を右殿に祀る。延喜式内社「御食神社」は、この社ではないかとする説もある。正中二年日野中納言資朝佐渡流罪、元徳二年、資朝の子阿新丸が渡島する。
 地頭本間山城守は対面を許さず、資朝を処刑、阿新丸は山城守の太刀取り、本間三郎を討ち帰京する。
 阿新丸の逃亡を助けた山伏大膳坊は処刑される。城主が大膳坊の怨霊を鎮めるために勧進した社と伝える。境内に能舞台を有する。
 -- 佐渡市教育委員会 --

 進入路の途中の傍らには、こんな案内板も…

 ◆県指定文化財(有形民俗文化財)
  佐渡大膳神社能舞台(平成9年3月28日指定)

 素朴で美しい佐渡能舞台の代表的な遺例で、弘化3年(1846)に再建されました。
 舞台は寄棟造茅葺で、本舞台と後座からなり、鏡板には日輪と松の絵、天井には演目「道成寺」で使用する鐘穴があります。常設の地謡座は近年の増築によるもので、鏡の間はないものの、複式の橋掛りに裏通路が附属し、舞台裏の楽屋へと通じています。
 演能は現在も盛んで、4月18日の祭礼には奉納能、6月には能と鷺流狂言(県指定無形文化財)が薪能として上演されています。
 -- 平成25年2月 佐渡市教育委員会 --

 境内の一角には、こんな〝大膳神社〟縁起が綴られました石碑も…

 ◆大膳神社縁起

 左殿 日野資朝卿
 正殿 御食津大神
 右殿 大膳坊賢榮

 正殿 御食津大神は農業食饌の祖神豊穣の守護神で古来当地のうぶすな神として尊崇敬慕されている
 その勧請創始については諸説があり一説には式内社当国九社の一つとも言われるがなお詳かではない
 正中の変の折日野資朝卿当国に配流され一子阿新丸は父子対面を求めて遙々都から下向したにも拘らず遂に許されぬ儘父刑死の無念を霽らすべく城主本間山城守の館に潜入しその弟三郎を斬って本懐を果した
 この間大膳坊賢榮は真の敵は鎌倉なりと阿新丸を諭したがその孝心の已み難きに感動してこれを扶け更に迫り来る討手窮追の危機の中に阿新丸を守護し無事虎口を脱して帰京せしめた
 山城守は激怒し大膳坊を処刑したがその後大いに悔い畏れて日野資朝卿と大膳坊を当社に合祀してその霊を崇め奉ったと伝えられている

 -- 昭和31年4月 宮司 --

 大膳神社の境内に隣接し、二つの題目碑を備えた山門が…
 ここは、画像に納めるのみでしたけど、この山門は〝本光寺〟でしたのですネ。山門傍らには、「日蓮聖人 赦免状拝読の地」の説明板がありましたのですけど、気付きませんで眼を通せませんでしたGONsanです(^-^;

 ◆本光寺(佐渡市宮川)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 本光寺(ほんこうじ)は、新潟県佐渡市宮川にある日蓮宗の寺院。山号は日朗山。旧本山は大本山本圀寺(六条門流)。六老僧の日朗菩薩が佐渡流罪の赦免状を披見した場所。至孝第一日朗聖人遺骨を祀る。立正大師日蓮が座った赦免石や袈裟を掛けた袈裟掛けの松近くには日蓮と日朗が再会した日朗坂等が残る。

 -- 歴史 --
 日行(朗門の九鳳の一人)が師の日朗を開山に創建、慶長元年(1596年)地鎮が再興という。

 WEB上には、〝日朗山本光寺〟に関しての、こんな興味深い記載もありました(^_^)v

 ◆日朗山本光寺(佐渡市宮川)

 --- https://ameblo.jp/goreiseki1282/entry-12902609652.html 2018-09-03 20:11:38 ---

 文永11(1274)年3月8日の夕方、日朗上人が命懸けで持ってきた赦免状は、日蓮聖人の手に渡りました!
 その場所には「日朗坂」として題目碑がお祀りされています。
 実はその昔、日朗坂にはお寺があったそうです。
 しかし付近を流れる小倉川の氾濫で、そのお寺は現在、日朗坂から400mくらいかな、西に行った高台に移転されています。
 日朗山本光寺です。日朗上人の偉業に感謝している山号ですね!
 立派な題目碑がありますね。
 わ~、お祖師様の550遠忌に建てられたんですね!
 山門です。佐渡ご赦免の聖地に、入ってゆきます!
 本堂です。
 華美ではないけど存在感のある、そんなお堂です。
 本堂横に…ありました!赦免石(しゃめんせき)です。
 日朗上人から手渡された赦免状を、この石に腰掛けてご披見されたそうです。
 寒く、空腹で、孤独で、なにより理不尽で辛かったこれまでの2年4ヶ月余り…日蓮聖人はこの石に腰掛けて何を思われたでしょう。
 その気持ちを想像しながら、合掌しました。
 袈裟懸けの松です。
 大きな仕事を終えた日朗上人と、そして日蓮聖人は、松の木に袈裟を掛け、お互いに労をねぎらったことでしょう。
 お寺の縁起によると、このお寺を開いたのは日朗上人のお弟子さん、九老僧の妙音院日行上人だそうです。
 日行上人は日蓮聖人苦難の地・佐渡を訪問した際、ここ日朗坂や赦免石を見て去るに忍びず、きちんとご霊跡を残すことを決意しました。
 師・日朗上人を開山に仰ぎ、自らは二祖になり、62才で遷化されるまでこのお寺で修行を積んだといいます。

 ◇佐渡に赦免状が届く
 --- http://www.kujhoji.or.jp/denki.e/sub16.htm ---

 本尊を書かれた後も信者の数が増え、佐渡の寺々は、「自分たちが食べられなくなるから、日蓮を何とかできないものか」と相談して、鎌倉へ訴え出ました。
 佐渡の守護職宣時(のぶとき)は「日蓮の信者は牢へ入れよ」と命令を下したものの、「立正安国論」の予言通り、内乱が起こり、蒙古の来襲が近づき、幕府はあわてて、弟子や信者を牢から出しました。
 信者は聖人の赦免運動を考えましたが「仏さまにまかせるよう」戒められ、ついにその時がきました。
 弟子の日朗上人は、はやる気持ちをおさえつつ、首にしっかりと赦免状を掛けて、佐渡へ迎えに行きました。
 二年五ケ月の佐渡の生活。島の人たちに別れを告げられた聖人は、三月十三日真浦(まうら)を出発して新潟の柏崎に到着、二十六日に鎌倉へ戻られました。

 …と、こんな〝日朗山本光寺〟ですけど、何故か皆さん、〝本光寺〟への参詣もなく〝大膳神社〟を後にされましたネ(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(44)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
17-720
18-720
19-720
20-72021-720

 WEB上で〝日野資朝の墓〟を検索していましたら、9年ばかり前に撮られました「日野資朝の墓」の説明板が…う~ん、この画像でしたら鮮明に読めますネ。

 ◆日野資朝の墓
 正中二年(1325)後醍醐天皇の側近、日野資朝は倒幕計画が発覚し、鎌倉幕府執権北條高時により佐渡に流された。檀風城に幽閉されること七年、元弘二年(1332)に城主本間氏は高時の命によって資朝を処刑した。遺体はここで荼毘にふされ、遺骨は従者が高野山へ葬ったとも伝えられる。資朝は明治八年真野宮に合祀むされ同十七年に従二位を贈られた。

 それでは、庫裡へ。
 庫裡へ入りますと、まず眼に入りましたのが立派な〝大黒柱〟です。この〝大黒柱〟のお話しは、関道雄ご住職の姉と言われましたか…妹と言われましたか…この方が、詳細にお話しを(^.-)☆
 庫裡の土間の傍らには、〝愛〟の文字を付けました兜で連想させます上杉景勝の佐渡攻めで活躍した〝直江兼続〟の奉納と伝わる槍の穂先も並べられ、〝上杉景勝制札〟も展示されておりました。

 ◆阿仏房妙宣寺関連の歴史まとめ

 1242年(仁治3)順徳帝、佐渡島にて崩御。北面武士遠藤為守と妻千日尼出家
 1271年(文永8)日蓮上人佐渡へ流罪。阿仏房日得と千日尼、日蓮の生活を援ける
 1273年(文永11)日蓮赦免
 1278年(弘安1)阿仏房日得と千日尼、金井新保の自宅を寺とする
 1279年(弘安2)阿仏房日得、死去
 1324年(正中1)「正中の変」日野資朝、佐渡へ流罪
 1326年(正中5)真野竹田の地に妙宣寺移転
 1331年(元弘1)「元弘の乱」翌年日野資朝、刑死
 1339年(延元4)後醍醐天皇、崩御。南朝は後村上天皇即位
 1589年(天正11)上杉景勝の侵攻により佐渡平定。直江兼続が雑田城(さわたじょう)を廃し、妙宣寺を現在地へ移転させる
 1827年(文政10)五重塔、立塔 

 〝上杉景勝制札〟に関しましては、WEB上に、こんな記載が…

 ◆佐渡市指定 有形文化財:上杉景勝制札

 指定年月日:平成16年3月1日
 所在地:佐渡市阿佛坊、国分寺、金丸
 所有者または管理者:妙宣寺、佐渡国分寺、引田部神社
 これら3点の制札は、真野地区阿佛坊の妙宣寺、同地区国分寺の佐渡国分寺、同地区金丸の引田部神社がそれぞれ所有している。制札とは、支配領域の秩序や寺社・村落・市場などの保護を目的として、領主が軍勢に禁止事項や規制条項を命令した札のことで、主に路傍や寺社の境内などに掲げられた。
 この制札は、天正17年(1589)6月に越後(現新潟県)の上杉景勝が佐渡地頭本間氏とその一族を討って佐渡を所領とした後、島内一般に公布されたものである。この制札には諸軍勢の乱暴狼藉を戒め、竹木の剪採を禁ずるとの命令が記され、景勝の朱印が押してある。朱印は直径6.2cmの正円で、上部に亀の頭のような2cmの凸出部があり、円部は二重郭陽文である。
 上杉氏が佐渡を所領とした直後の様子を伝えるものであり、上杉氏や戦国大名の領土経営を研究する上で貴重である。

 …と、こんな「上杉景勝制札」のようであります。
 〝妙宣寺〟の説明書きは、こんな内容で(^-^)

 ◆伝・直江兼続寄進の鑓の穂先

 天正17年6月、越後上田衆や与板衆を引き連れ景勝に従軍した直江兼続が佐渡制圧の後、妙宣寺に寄進したとされる鑓の穂先である。
 妙宣寺蔵の「当山宝物略説」の中に「後長尾景勝制札並びに家臣直江山城守墨付これ有り」という一項があり、また「阿仏房什物」記の中には、「景勝禁制札一通、直江兼続寄進状一通」という項も見られる。
 この直江の墨付とか兼続寄進状というのが寺地安堵状のことで、「寺内前々の如く諸式相違有るべからず」と記している。江戸時代のこれらの記録の中には直江寄進の鑓の穂先について記録はないが、大正期に書かれた什物の中には「直江山城守寄進の鑓」が記述されている。
 鑓は南北朝時代から使われ、室町時代に盛行する刺突武器である。使用法が簡易で武道に経験の浅い者でも効果を挙げる事が出来たので戦国時代の頃には主要武器として盛んに使用された。
 穂(身)は直線型(素槍)、十字型(十文字鑓)、釣型(片鎌)の三つがあり、刃の部(穂)が刀身のようになかご(中心)造りになっていて柄に挿入する。柄は強靱な木を用いるのが一般である。穂の長さは二、三寸ほどのものから三尺くらいの大身の鑓と呼ばれるものがあり、通常は六、七尺くらいのものが多かった。柄も長さ七、八尺から一丈二、三尺ほどのものもあった。
 当妙宣寺の鑓の穂先は木箱の中に納められており、箱の蓋の内側に「直江山城守兼継奉納槍」と墨書がある。穂先の長さ約八十センチメートル、幅三センチメートルほどの直線型(素槍)鑓である。

 ◆(歴第七号)指定書
 名称 上杉景勝制札

 (当該文化財の特徴を示す簡単な事項)
 制札は領主が支配領域の秩序を保ち、保護するための禁止事項や規制条項を領域の村落や寺社・宿駅などに文書形式で命令したものである。妙宣寺・国分寺・引田部神社が所有する制札は、上杉景勝が佐渡平定直後の天正17年6月にしたもので、諸軍勢の乱暴狼藉をいましめ竹木の剪採を禁じている。

 右を佐渡市民文化財保護条例に基づき佐渡市指定有形文化財に指定する。
 平成16年3月1日 佐渡市教育委員会

 ◆制札

 右当地於て、諸軍勢濫妨狼藉、並に竹木剪採の事、堅く停止せしめ(?)んぬ。若し違犯の輩これあらば、立ち所に於て成敗を加うべき由仰せ出し、御朱印なさる者也、仍て件の如し。

 【朱印】   天正17年6月 日    奉行中

 阿佛坊

 展示されています〝制札〟の現物には、こんな内容で記載されていますのでしょうネ。
 それでは、この辺で〝妙宣寺〟sanとはお別れで、次は、ここから近くの〝大膳神社〟へ向かいます(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(43)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720
21-720

 本堂を拝観しましてから祖師堂に向かい、御開帳です。
 が、祖師堂までご案内して下さった方が〝妙宣寺住職・関道雄〟さんだと思うのですけど、祖師堂での御開帳は、メモ書きのようなモノを玉泉寺・難波住職に手渡され「導師をやって下さい」と依頼されておられたような…
 んっ!?…この方は〝妙宣寺住職・関道雄〟さんではなかったのか…と、この時は思っておりました。関住職がご不在だから難波住職に依頼されたのだと(^-^)
 事情はともかく、当の難波住職は大感激ですよ。
 永い歴史のあります〝妙宣寺〟の『貫首』の座におられます感じで、満面の笑み。どなたかに、本気とも冗談とも取れます「写真撮っておいて!」の依頼には、思わず笑ってしまいましたGONsanであります。
 イイ画像が撮れましたら、家宝にされますのかも(^-^)
 御開帳を無事終えましても、暫くは満面の笑みが続いておりました難波ご住職でありました(^_^)v
 で、後で分かりましたけど、難波住職に御開帳の導師を依頼されました方は、やはり〝関住職〟sanでありました。もぅご高齢で滑舌面・体調面等の要因から、導師を難波住職に依頼されたのだろう…と、勝手に想像しております(^-^)
 ここで、また、〝ChatGPT〟と会話です(^-^)

 ◆お寺の御開帳で、導師を務められますのは、通常はどなたが?

 ◇ChatGPT:一般的に お寺の御開帳で導師(どうし)を務めるのは、次のような方です。

 -- 基本的な原則 --
 そのお寺の住職が導師を務めるのが最も一般的です。御開帳は本尊・秘仏を公に拝観できる特別な法要ですので、寺院の責任者である住職が中心となります。
 一般的に お寺の御開帳で導師(どうし)を務めるのは、次のような方 です。

 -- 例外・補足的なケース --
 御開帳の規模や性格によっては、以下のような場合もあります。
 ・前住職(隠居住職)
 現住職が若い場合や、前住職が長年寺を支えてきた功績がある場合。
 本山・大本山から派遣された高僧
 ・宗派の管長
 ・本山の貫首
 ・宗派内で格式の高い僧侶
 特に、◯◯年御遠忌・大開帳などの大法要では多く見られます。
 開基・中興ゆかりの寺院の住職
 その仏像や寺の由緒と深い縁を持つ寺院の住職が導師となる場合。
 複数日開催の場合
 日によって導師が交代し、
 ・初日:本山高僧
 ・中日:地元住職
 ・結願日:当寺住職
 といった構成になることもあります。

 -- まとめ --
 通常:当該寺院の住職
 大規模・記念的御開帳:本山や宗派の高僧
 由緒重視:縁の深い寺院の住職
 御開帳は宗派・寺格・行事の目的によって運営が大きく異なりますので、特定のお寺や御開帳を念頭に置かれているようでしたら、それに即してもう少し具体的にご説明できますよ。

 …と、こんな回答が、ChatGPTからありました(^.-)☆
 とにかく、ご満悦な難波住職のお顔が、ヤケに印象に残ってしまいましたネ(^-^)/
 御開帳を終え、境内に出て来ますと、今一度、境内を拝観です。
 〝日野 資朝(ひの すけとも)〟のお墓の前には、永年の風雨で読みにくいのですけど〝日野 資朝〟の説明板が…何と記載されていますのかは、不明です(^-^;
 WEB上で捜しますと、こんな記載のようであります。

 ≪現地案内看板≫

 日野資朝の墓
 後醍醐天皇の正中二年(一三二五)十二月、日野資朝は北條高時のために佐渡に流され、壇風城に幽閉されること七年、元弘二年(一三三二)城主本間氏は高時の命によって資朝を処刑した。
 遺体はここで荼毘にし、遺骨は従者が高野山へ葬ったとも伝えられる。
 資朝は明治八年真野宮に合祀され同十七年に従二位を贈られた。
 -- 真野町教育委員会 --

 お墓の傍らには、日野資朝の歌碑が…
 『秋たけし 檀の梢吹く風に 雑田の里は 紅葉しにけり』山本修之助謹書

 ◆檀風城跡

 本間氏は、鎌倉時代佐渡国守護大佛氏の守護代として入国した。室町時代の雑太地頭といわれた本間氏の祖である。
 本間氏の本拠は何度か移り変わるが、鎌倉初期の本拠は波多郷(現畑野)に居館がおかれていた(元の雑太城)。この地は律令時代の佐渡国衙の跡と推定される場所であり、本間氏が居館として再利用したものであろう。
 低地に突き出た標高4mほどの台地に築いた単郭で周囲を取り囲んだ土塁が今も残る。
 日野資朝を預かることになった本間山城入道(泰宣)は、この居館の牢内に資朝を幽閉した。
 幽閉中の資朝が詠んだ歌「秋たけし檀(まゆみ)の梢(こずえ)吹く風に雑太(さわた)の里は紅葉しにけり」から、檀風城の名で呼ばれるようになったという物語は江戸時代にはいってつくられたもので、当時の呼び名ではない。
 資朝の子阿新丸が父との面会を求め、山城入道を訪ねたのもこの居館である。

 〝番神堂〟の前には、こんな案内板がありました。

 ◆番神堂
 法華経守護と当山鎮護の為に各善神を奉祀する。
 一、妙見大菩薩 -- 北極星の化身といわれ日本国総鎮護の善神。
 一、三十番神 -- 日本国内の主神三十体で毎日の当番守護神。
 一、清正公 -- 法華経信者の代表として昔から諸人の信仰を集めている。

 それから、〝庫裡〟の説明板も…

 ◆庫裡
 文久二年再建(1862)
 間口八間(145m)奥行二十間(36m)の大建築にして用材はすべて当国産の赤松で八間の通し梁が六本並列している。
 大黒柱は二尺五寸(76cm)に一尺七寸(52cm)の角材で佐渡随一である。棟高は八間半(155m)破風造りの茅葺大屋根は全国にも珍しい。

 …との事で、それでは今から〝庫裡〟を拝見です(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(42)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720
21-720

 境内を見廻しておりますと、こんな説明板がありました(^.-)☆

 ◆祖師堂
 明治13年再建(1880)六間(11m)四面三方縁造り宗門最古の宗祖御木像(文永11年(1274)在銘)並びに当山開山阿仏坊日得上人、千日尼御前、捨身供養の御木像を安置す。

 ◆本堂
 文久3年再建(1863)十二間(22m)四面の大堂で島内最大の堂宇。江戸期本堂建築の様式を今に残している。

 〝堂宇〟とは何を意味するのか、WEB上で検索してみますと、

 ◆堂宇

 --- 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 堂宇(どうう)は、四方に張り出した屋根(軒)をもつ建物。

 -- 種類 --
 仏 堂:仏教寺院の堂宇。金堂、本堂、講堂、法堂など。
 灌頂堂:密教の灌頂の儀式を執り行うための堂宇。
 護摩堂:護摩供の儀式を執り行うための堂宇。
 栄螺堂:札所巡礼を模して堂内に螺旋状の通路を設けた堂宇。
 持仏堂:念持仏を堂内に安置した個人の堂宇。
 鎮守堂:神仏習合により堂内に明神や権現を祀る堂宇。鎮守神を参照。
 辻 堂:村落の辻などに建てられた地蔵や観音、薬師などを本尊とする民間信仰の堂宇。

 …との事で、「四方に張り出した屋根(軒)をもつ建物」と言う意味でありました(^-^;
 本堂に上がりますと、本堂等の建物内の写真撮影はダメなんだろうなぁ…と、写真を撮りますのは控えておりましたけど、皆さん、遠慮なくパチリ、パチリ。これ幸いとドサクサに紛れてGONsanも撮りまくりとなりましたけど、妙宣寺sanごめんなさいです(^-^;

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(41)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720
21-720

 こぅして本堂に向かって境内のアチコチを見廻しながら、カメラで眼に入ります景観を画像に撮りまくっておりますと、かって、佐渡守護代 竹田本間氏の居城「雑太城」があった場所だけに、現在も城跡の雰囲気が随所に漂っておりますネ(^.-)☆
 かっての城郭を思わせる石垣の跡がシッカリと残っておりますし、永い歴史も感じさせ、落ち着いた実に立派な境内であります(^_^)v

 ◆雑太城(さわだじょう)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 雑太城(さわだじょう)は、佐渡国雑太郡(現在の新潟県佐渡市佐和田大字竹田字内新川)にあった日本の城(平山城)。別名は檀風城・新川城。中世に佐渡を支配した本間氏の居城であった。跡地は妙宣寺となっている。

 -- 概要 --
 新川の城山(50m)から山麓(比高5mほどの微高地)にかけて縄張りがされた平山城である。鎌倉時代から南北朝時代にかけて大佛氏の支配下にあったが、室町時代には守護代の本間氏が自立して戦国大名に成長した。同氏と越後の上杉氏は、謙信の時代には緩やかな従属関係を結んでいたが、次代の景勝は佐渡に侵攻して本間氏を排除した。
 江戸時代に佐渡全域が幕府直轄領となると、本間氏や上杉氏が築いた建物は一国一城令で破却された。

 -- 遺構・復元施設 --
 ・「檀風城址之碑」歌碑 -- 日野資朝の「秋たけし 檀の梢吹く風に 雑太の里は 紅葉しにけり」の歌碑。
 ・本丸跡の石垣 -- 石垣の前に「雑太城跡」説明版。二層の寺門が残る。
 ・土塁・空掘

 -- 周辺施設・関連資料ほか --
 ・妙宣寺の五重塔 -- 新潟県唯一の重要文化財。
 ・新川城絵図 -- 『新潟県中世城館等分布調査報告書』。
 ・下国府遺跡 -- 檀風城の北東500mほどの位置で発掘された平安時代前期の遺跡。上国府(佐渡府内)に付随した施設。

 境内には、山門の横に、正中の変で佐渡に流された公卿・日野資朝(ひのすけとも)の墓所もありました。
 山門を潜り正面の本堂までの参道の左側には、順番に、〝番神堂〟〝宝殿〟〝祖師道〟の建物が…そして、正面に〝本堂〟で、〝庫裡〟が右に隣接です。
 参道の右手には三つばかり建物が…「阿佛房妙宣寺境内之図」を確認しますと〝納屋〟〝土蔵〟の記載がありました(^.-)☆
 境内には、天正17年(1589)に現在地へ移った際に妙宣寺の寺号を起こしたといわれている、日蓮聖人に帰依した佐渡人最初の檀那・日得上人のお墓もありましたネ(^-^)//"

 ◆日野資朝

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 日野 資朝(ひの すけとも)は、鎌倉時代後期の公卿・儒学者・茶人。藤原北家真夏流日野家、権大納言・日野俊光の次男。官位は従三位・権中納言、贈従二位。
 中流貴族の次男に生まれ、自身の才学で上級貴族である公卿にまで昇った。

 -- 経歴 --

 正和3年(1314年)従五位下に叙爵し、持明院統の花園天皇の蔵人となる。宋学を好み、宮廷随一の賢才と謳われた。文保2年(1318年)の後醍醐天皇即位後も院司として引き続き花園院に仕えていたが、元亨元年(1321年)に後宇多院に代わり親政を始めた後醍醐天皇に重用されて側近に加えられた。このことで父・俊光が資朝を非難して義絶したという。花園は資朝の離脱を惜しみつつも、能力のある人物には適切な官位を与える後醍醐天皇の政策のもとなら、それほど身分の良いとは言えない資朝でも羽ばたけるだろうか、と後醍醐と資朝に一定の期待をかけている。
 元亨4年9月19日(1324年10月7日)、鎌倉幕府の朝廷監視機関である六波羅探題に倒幕計画を疑われ、同族の日野俊基らと共に捕縛されて鎌倉へ送られた。審理の結果、有罪とも言えないが無罪とも言えないとして、佐渡島へ流罪となった(正中の変)。
 元弘元年(1331年)に天皇老臣の吉田定房の密告で討幕計画が露見した元弘の乱が起こると、翌元弘2年/正慶元年(1332年)に佐渡で処刑された。
 『増鏡』「久米のさら山」によれば、処刑にあたり、資朝は落ち着きはらって前々から覚悟していたことだと述べ、都にいる子供たちへの手紙を武士に託すと、以下のような辞世の頌(じゅ)を詠んだという。

 四大本無主
  五蘊本来空
   将頭傾白刃
    但如鑚夏風 -- 日野資朝、『増鏡』「久米のさら山」--

 この世界に本より実体はなく 人の肉体と精神もまたその本質は空である
  今、まさに、我が首は白刃を揺らそうとしている
   しかしそれもまた、夏の風を斬るようなものだ -- 日野資朝、『増鏡』「久米のさら山」(大意) --

 斎祀神社に佐渡市吉岡鎮座の大膳神社、佐渡市真野鎮座の真野宮、奈良県吉野町鎮座の吉野神宮がある。
 なお、兄・資名は京都を追われた光厳天皇を最後まで守護した忠臣、弟・賢俊は光厳上皇の院宣を足利尊氏に届けるなど持明院統のために尽くしたことで知られ、兄弟で敵味方で分かれている。

 -- 逸話 --
 資朝が後醍醐天皇に登用される話は、兼好法師の『徒然草』に記されている。また『太平記』には資朝の子の阿新丸が敵討ちを遂げる逸話もある。
 身分の上下を越えて才人を集め、無礼講という茶会を主催した(『花園天皇宸記』元亨4年(1324年)11月1日条)。これは茶道の前身である闘茶や、俳句・俳諧の前身である連歌会の源流ともされ、文化史上で大きな役割を果たした。なお、軍記物語『太平記』では、この無礼講が討幕計画の会であったり、美女を侍らす酒宴であったりと否定的に描かれているが、それを肯定する同時代の史料・実証的証拠はない。

 ◆日得

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 阿仏坊日得あぶつぼうにっとく、阿仏房とも)は鎌倉時代における、日蓮宗の信徒。
 順徳天皇に仕え、従四位上に叙せられる。和漢の学に通じ、歌道にも上達していた。承久3年(1221年)に承久の乱により佐渡島に流された天皇に従って、仁治3年(1242年)に崩御するまで側近く仕える。その直後に妻である千日尼(せんにちに)とともに剃髪し、30年間も天皇の陵に廬を結んで住む。もともと浄土宗を深く信仰し、念仏怠りなく、自ら「阿仏坊」と号していたが、文永8年(1271年)の冬に日蓮が佐渡に流され、塚原に潜んでいたところを訪問し、日蓮の説を聴き、妻とともに浄土宗を棄てて84歳で弟子となる。文久11年(1274年)に日蓮が鎌倉を経て甲斐に隠栖すると、遠くにありながら三度、身延山を訪れては日蓮の説法を聴いていた。弘安元年(1278年)に90歳の身で登山した際に、日蓮は大いに感激して「日得」の名を与えた。その翌年に寂す。
 阿仏房に関しては、承久の乱の時に佐渡に流された順徳上皇のお供の武士で、藤原氏であったという説や、佐渡の人であったという説もあり、定かではない。ただ入信以前は、熱心な念仏の信者であった。弘安2年(1279年)3月21日、91歳で亡くなるまでの間、阿仏房は老齢にもかかわらず、遙かに海山を越えて、身延の日蓮のもとへ三回も登山参詣をした。日蓮から「北国の導師」と称えられた。阿仏房の曽孫に当たる如寂房日満も、幼少より富士の日興のもとに参じて行学に励み、北陸七ヵ国の門下の別当に任じられている。

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(40)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720

 境内に入ります際、最初に潜りましたのは、山門ではありませんで〝仁王門〟でしたネ。仁王門を潜りますと、すぐに五重塔を拝観です。

 ◆妙宣寺五重塔(みょうせんじごじゅうのとう)

 --- https://www.city.sado.niigata.jp/site/bunkazai/4926.html ---

 妙宣寺は、日蓮聖人に帰依した佐渡人最初の檀那・日得上人が、弘安2年(1279)以前に開いた金井新保の道場「阿仏房」を前身とし、天正17年(1589)に現在地へ移った際に妙宣寺の寺号を起こしたといわれている。
 境内の五重塔は、相川の長坂茂三右衛門と金蔵の親子二代を棟梁とし、文政8年(1825)に建立されたものである。建築様式は和様の三間五重塔婆で、屋根は宝形造桟瓦葺(旧こけら葺)、天辺に江戸風の相輪を備え、全高約24メートル、初層の各辺3.6メートルで、柱に杉材、上物に松材、組物に欅材が使用されている。新潟県内に現存する唯一の五重塔である。

 ◆妙宣寺

 --- https://www.visitsado.com/spot/detail0107/ ---

 -- 中世が香る日蓮上人ゆかりの名刹 --
 佐渡配流の日蓮に仕え、熱心な法華経信者となった遠藤為盛(阿佛房日得上人)。1278年、妻の千日尼と共に自宅を寺として開いたのが始まりと伝わります。かつては佐渡守護代竹田本間氏の居城で、今もどことなく城跡の雰囲気を残しています。境内には、県内唯一の五重塔はじめ、「正中の変」で佐渡配流となった日野資朝の墓などがあります。

 〝五重塔〟脇には、こんな〝雑太城跡〟の説明板が…

 ◆雑太城跡

 雑太郷地頭本間氏の戦国期の城跡である。築城の時期は十六世紀前半頃ころと考えられる。三郭から成り、現在も土塁や空堀の一部がみられる。天正十七(1589)年、越後上杉景勝の佐渡支配により、城は廃され、上杉氏代官直江兼続によって城地は妙宣寺に与えられ、現在に至っている。

 〝五重塔〟を過ぎまして存在しますのが〝山門〟ですネ。
 WEB上で〝妙宣寺〟を検索しますと、こんな興味深い記載もありました(^_^)v

 ◆新潟唯一の五重塔がそびえる「佐渡の妙宣寺」

 --- https://gozzo-line.com/sado/9314/ ---

 ・妙宣寺
  関 道雄(せき どうゆう)さんの自己紹介

 佐渡出身、現在82歳です。中学卒業後は東京・堀之内妙法寺で修行を積み、一時は電気技師としても働いていました。後に立正大学で学び、佐渡へ戻ったのは昭和47年(1972年)のことです。佐渡では円静寺(えんじょうじ)の第27世住職を務め、昭和48年から60年までは妙宣寺執事として山門建立などに携わりました。平成18年(2006年)に妙宣寺第47世貫首(かんじゅ)に就任して今に至ります。

 ・PROLOGUE

 佐渡の西側に位置し、真野湾に面した真野地区。真野にはかつて佐渡国の国府が置かれ、佐渡最古の寺院を継承したとされる佐渡国分寺、1221年(承久3年)の承久の乱で敗北し、佐渡で22年を過ごした順徳上皇を祀る真野御陵(まのごりょう)があることでも知られる地域です。
 真野地区は両津港から車で30分ほど。ゆるやかな坂道を上って行くと、前回のごっつぉLIFEでご紹介した「ラ パゴッド」と、そのお向かいには、木々に囲まれた荘厳な五重塔が姿を現します。
 今回ご紹介するのは、この五重塔を有する「妙宣寺(みょうせんじ)」。
 妙宣寺は、日蓮宗の古刹として800年近い歴史を刻んできた、佐渡の歴史を語る上で欠かせない寺院の一つ。今も国内外から多くの参拝者や観光客が訪れています。
 境内には、正中の変で佐渡に流された公卿・日野資朝(ひのすけとも)の墓所があり、本堂には法華経の本尊を祀っています。また、日野資朝自筆の細字法華経や日蓮聖人の書状など、国指定重要文化財の貴重な文化財も所蔵されています。

 妙宣寺の歴史は、日蓮聖人の佐渡配流に遡ります。
 日蓮宗の開祖である日蓮聖人は、当時の飢饉や疫病といった災いは、正しい仏法に従っていないために起こったものという「立正安国論」を説きました。その出来事が鎌倉幕府の怒りを買い、その後も幕府を批判したとして、日蓮聖人は佐渡へ流罪となりました。
 日蓮聖人は苦境に立ちながらも、佐渡の地で「観心本尊抄」などの重要な著作を著し、法華経を布教。その中で、日蓮聖人が出会ったのが阿佛房日得上人(あぶつぼうにっとくしょうにん)です。
 妙宣寺は、熱心な法華経信者となった阿佛房日得上人が、妻の千日尼(せんにちあま)と共に開いた道場「阿仏坊」が前身であるとされ、天正17年(1589年)に現在の場所に移った際に、妙宣寺の寺号を起こしたと言われています。

 現在地は、かつて佐渡守護代 竹田本間氏の居城「雑太城」があった場所。参道を歩くと、かつての城郭を思わせる石垣の跡が今も残っています。境内で最も目を引くのは、やはり新潟唯一の五重塔!
 高さ約24メートルのこの塔は、文政8年(1825年)に、相川の宮大工・長坂茂三右衛門によって建立されました。
 心柱が杉の一本造りになっているのが特徴で、各層の高欄や浅唐戸は資金難のため未完成のままですが、その荘厳な姿は江戸時代の建築技術の高さを今に伝えています。
 この歴史ある寺院を、平成18年から守り続けているのが、ご住職である関道雄さん。
 「今日はね、普段法要で皆さんにお話しすることを、語らせてもらいましょうか」と穏やかに語る関さんから、人生における哲学、お寺の役割、心の在り方などなど、普段なかなか聞けない貴重なお話を、たっぷりと伺ってきました!

 ・INTERVIEW

 -- 修行僧から電気技師、そして住職に --
 「人生には思いがけない道筋があるものです」と、ゆったりとした口調で語り出す関さん。
 ここに来るまでにどういった道を歩んで来られたのか、まずは関さんのこれまでの人生について語ってくださいました。
 関さんは、真野にある円静寺の13代目住職の子として誕生。
 お寺で生まれた子どもの宿命でもあったそうですが、中学2年生の時、日蓮宗の本山でもある東京の「堀之内妙法寺」への修行を命じられました。「田舎っぺの私は、東京という街をきょろきょろと見回すばかり。別世界に来たような気分でした」と、関さんは当時を振り返ります。

 堀之内妙法寺は、全国から若い修行僧が集まる寺院として知られる名刹。
 ここでの修行は、毎日のようにお経をあげることに加えて、トイレの掃除も修行の一環でした。
 トイレに続いて廊下掃除、庭掃除と、基本的な作業の繰り返し…。
 「やり方が悪いとすぐにやり直し。とにかく丁寧に、しっかりと物事に取り組むことの大切さを教わりました」
 特に廊下の掃除は、風で積もる土やほこりを丹念に拭き取る必要があり、とにかく大変だったそうです。
 つらい修行の日々。若き日の関さんの興味は、やがて別の方向に向いていきました。
 「もともと好きだった化学や電気への興味が抑えきれなくてね(笑)」という関さん、なんと堀之内妙法寺を一旦離れて、町の電気店に飛び込んだそう!
 す、すごい行動力です!!
 そこでテレビ修理の技術を学び、技術者試験の第1回生として資格を取得。
 各家庭を訪問して修理を行う中で、関さんは人生の思いがけない真実に出会うことになります。
 「修理の仕事で、勝手口からお邪魔するでしょう。そうするとね、その家の素顔が見えてくるんです」
 玄関という“表の顔”ではなく、日常の営みが垣間見える勝手口からの訪問は、その家庭の“本質”を映し出しているように、関さんは感じたといいます。
 「立派な門構えの家でも、実は夫婦関係が冷めていたり、逆に、質素な家でも温かな家族の絆が感じられたり。そういう機微が、おのずと勝手口から見える光景と伝わってきたんですね」
 人々の暮らしに触れるうちに、関さんの心の中には、新たな思いが芽生えてきました。
 「お坊さんという立場なら、もっと深く人々の心に寄り添える。
 『こうしたら夫婦仲が良くなりますよ』『ああしたらダメですよ』と、遠慮なく伝えられるのではないか、そう考えるようになりました」

 その思いを胸に、関さんは立正大学で仏教を学び直します。
 そして、学びを終えた昭和47年の春、生まれ育った佐渡の地に戻ってきました。
 「佐渡には都会にはない、本質的な豊かさがある。気候も風土もいい。大気の汚染もない。欲にとらわれず、のんびりと暮らす方が人生は充実するものでしょう」
 電気技師から住職へ。
 一見、回り道に見える人生の軌跡は、人々の心に寄り添う住職としての関さんの深い洞察力を育んだのかもしれません。
 日頃の行いは“表情”に出る!?
 お寺のご住職から聞く話といえば、法話や説法があります。法話とは、僧侶など仏教に携わっている方が、仏教の教えに基づいた話を、一般の人向けに分かりやすく説いて語ること。葬儀のお通夜や法事などで、お坊さんがお経を読んだ後に話してくださるお話というと、分かりやすいでしょうか?
 普段、お寺に足を運ぶことがほとんどない私にとって、関さんが語る言葉の一つひとつが心に沁み入るものがあり、終始「ははぁ…」「なるほど…」とただただ頷くばかり(笑)。
 たくさんのお話を聞いた中で、ハッとさせられたことがありました。
 それは「今の自分の顔は、生まれてから今までの行いの表れ」ということ。鏡に映る自分の表情から、今の幸せも不幸せも読み取れるのだと、関さんは話します。

 「見ず知らずの人でも、『あの人は人相が悪いな』『叩けばほこりが出そうだな』と思う人がいるでしょう。その人相は、生まれつきのものではなく、その人の心がけや行いによって形作られるのです。自分自身が醜くもなり、尊くもなる。それは自分の心がけ次第なんです」
 関さんは、この考えの根底にあるのが、「潜在意識」という概念だと教えてくれました。
 「例えば、鍵をどこに置いたかを忘れてしまった時のことを考えてみてください。
 必死に思い出そうとしても出てこない。でも、ふとした瞬間に『あ、あそこだ!』とひらめくことがありませんか。
 それが潜在意識の働きです。自分では意識していなくても、潜在意識は確かに働いている。その潜在意識が、知らず知らずのうちに、私たちの人相を作っているんです。
 大切なのは、世のため人のために尽くすという心がけ。自分のためだけでなく、世のため人のために生きる。そういう心がけで生きていれば、自然と仏の表情になってくるんです」
 なるほど…長年、積み重ねてきたものって“表情”に出るのですね(いや、もうすでに出ているということですよね!?)
 これまでの自分の行いを振り返りたくなるような、背筋がピンと伸びるお話でした。

 ・EPILOGUE

 -- 人々の心の拠り所であるために --
 関さんが妙宣寺の住職となって19年。その中で関さんは、お寺は地域交流やコミュニケーションの場や、文化の拠点といった役割も併せ持つものであり、法事やお葬式だけがお寺の役割ではないと考えてきました。
 そのため、近年の妙宣寺では、これまでにはなかった能や音楽イベントなども開催。地域や人の声に耳を傾けながら、必要とされる場面で手を差し伸べてきました。
 「やりたいと言ってくだされば、私たちは『はい、どうぞ』と。お寺はいろんな方々にとって、開かれた場所でなければなりませんから。
 お寺って、何をしに行けばいいのかわからないという声をよく耳にします。でも、それでいいんです。何も考えずに、白紙で来るのが一番良いんです」

 そう語る関さんの言葉には、お寺を特別な場所ではなく、誰もが気軽に訪れることのできる心の拠り所にしたいという願いが込められています。
 「心に迷いがあったり、何か考えがまとまらなくて、うつうつとしている時こそ来てほしいものです。宗派なんて関係なく、本来は一つであるべきですから。
 お釈迦様だって、最初から難しいことは説いたりはせず、人々の理解に合わせて、少しずつ教えを説いていったのでしょう。自分の不幸を先祖のせいにしたり、運が悪いと嘆いたりする人がいる。でも、それは違う。繰り返しになりますが、自分自身の普段の心がけや行いが、自分を尊くもし、醜くもするのです」

 関さんの教えは、現代を生きる私たちへの温かな叱咤激励のよう。
 新しい一年の始まりにふさわしい、心の在り方を考えるきっかけをもらえた気がしました。
 妙宣寺を訪れて参拝をしたあとは、ぜひ境内を散策してみてください。
 歴史的建造物の荘厳さや庭園の美しさなど、非日常に浸れる時間と空間を体感できるはずです。

 …と、こんな記載でありました(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(39)

01-720
02-720
04-720
05-720
07-720
08-720
09-720
10-720
10-721
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720
21-720

 改修中の倉庫がありましたけど、これが〝大間煉瓦倉庫〟ですネ。

 ・煉瓦倉庫
 大間港の南東部に立地する煉瓦倉庫は、煉瓦造2階建、切妻造妻入桟瓦葺の建物です。外壁は煉瓦化粧積。イギリス積で構成され、要所に自然石を用いてアクセントとしています。
 内部は1、2階共に1室で、2階は裏(北)側3/5を床とし、表(南)側は階段、踊場を設けた吹抜です。明治時代後期から大正時代までには建築されたと考えられています。

 倉庫の前には、こんな〝大間煉瓦倉庫〟の説明板もありました(^.-)☆

 ◆大間煉瓦倉庫
 大間煉瓦倉庫は、鉱石や鉱山で使用する資材を収用する目的で、明治時代後期から大正時代に建築されたと考えられています。
 外壁の練瓦は縦と横を交互に積み重ねる練瓦積みで組まれた練瓦造2階建て、切妻造妻入桟瓦葺きの建物になります。
 老朽化が進む中、令和6年の能登半島地震時に一部破壊したことにより修繕作業を行っています。

 …との事であります。
 〝大間港跡〟とお別れしますと、帰路は、前日同様に〝市営栄町住宅〟横の護岸をノンビリと〝ホテル万長〟へと向かいます。
 相川総合体育館・相川地区公民館裏を通過し、佐渡市役所相川支所裏まで戻って来ますと、ここには、両腕が地中から覗きましたこんなモニュメントが(^-^)
 このモニュメントは、〝ライリー・テリー〟作の「WAKARIMASEN」と言う作品のようであります(^.-)☆
 WEB上で〝モニュメント/ライリー・テリー作「WAKARIMASEN」〟を検索してみますと、こんな記載が出て来ました(^.-)☆

 ◆さどの島銀河芸術祭 -- @sado_art --

 ・場所:相川支所駐車場(佐渡市相川塩屋町26)、さどの島銀河芸術祭2021に制作された作品。音を鳴らして作品を体感してください。
 ・詳細:https://sado-art.com/artists/wakarimasen

 ◆DOMMUNE Presents 「LANDSCAPE MUZAK」PROJECT SADO#1

 --- https://on-the-trip.net/indices/12156?locale=ja ---

 作者はカルフォルニア生まれ。彼にとってアメリカのゴールドラッシュと佐渡の金山が重なり、相川で作品を制作することになりました。しかし、実際に佐渡を訪れた作者にとって、その背景は知れば知るほどわからないことばかり。彼が最初に覚えた日本語も「わかりません」という言葉でした。
 そこで、作者は自身の手をモチーフにしたオブジェを制作。その指からチャイムがぶら下がり、それを叩くと「Wakarimasen」のメロディーが響きます。この作品はまるで手から「わかりません」を奏でているようにも感じられます。
 現在、この作品が設置されている場所に違和感を覚えたあなたは鋭いです。実は、作品が完成した当初は「佐渡奉行所」の駐車場の脇にありました。そこからは、まるでローマのコロシアムのような金鉱の跡地を見下ろすことができます。その場所に作品があったことを想像すると、それは金山に捧げるレクイエムのように感じられたかもしれません。
 しかし、現在は別の場所に移動することになり、作品は本来の場所から切り離されました。そのため、メロディーは金山に届かなくなったようにも見えます。この逆説的な状況は、アートが本来の場所と強く結びついていたことをあらためて感じさせます。
 その金鉱で、作者がライブを行ったこともありました。それも夜から明け方にかけて。暗闇の中、静かな音からはじまり、明け方の光が差し込むにつれて生命が目覚めるように音楽は展開していきました。建物には音が反響し、音楽が自然の一部となり、時間の感覚が失われる中、最後の一音が鳴り響いたといいます。

 …と、こんな経緯のありますモニュメントでありました。
 このモニュメントの指からぶら下がっていますのはチャイムで、叩けばメロディが響きますとは…知っていましたら叩いたのですけど…う~ん、これまた残念(^-^;
 相川公演裏を通過し、既に閉館となっています〝健康増進センター「ワイドブルーあいかわ」〟裏に戻って来ました。かっては、旧相川町の海岸に面して建つ日帰り温泉施設で、さまざまな浴槽と温水プールなど施設も充実。海岸にある施設なので、広々とした浴室の窓からは日本海を望むことができ、結構、賑わっていましたのでしょうけど、2020年10月、閉業。新型コロナ禍が訪れ、緊急事態宣言に伴って、2020年4月から長期に休館してきたが、そのまま廃業となった。
 建物裏の護岸側に、遊具がポツンと二つばかり残されていますけど、これが一層、寂しさを感じさせましたネ。
 〝ホテル万長〟に戻って来ましての朝食後、佐渡滞在最終日の3日目は、〝妙宣寺〟参詣からスタートです。

 ◆妙宣寺について

 --- https://temple.nichiren.or.jp/4031006-myousenji/ ---

 -- ごあいさつ --

 当山は阿佛房日得上人千日尼御前夫妻の旧蹟霊場である。
 日得上人、俗称遠藤左衛門尉為盛は、承久三年(一二二一)順徳上皇佐渡御遷幸に供奉せし北面の武士にて、その妻は上皇御還幸を祈願して真野の入江に水垢離を取ること一千日に及び、上皇はその誠を喜び千日女の名を与えたと伝えられている。
 仁治三年(一二四二)上皇崩御の後、佐渡の地に留まり陵墓に仕えて三十余年の間称名念佛を怠ることなく、遂には阿佛房と称するようになった。
 文永八年秋、日蓮大聖人には幕府の御勘気を蒙むり佐渡御配流となり、十一月一日塚原の地に調居の身となられた。
 「北海の島にはなたれしかば、かの国の道俗は相州の男女よりも仇をなしき・野中にすてられて雪にはだえをまじえ、草をつみて命をさふえたりき…」(当山所蔵単衣御書)
 念佛の強信者阿佛房は宗門の怨敵と思い大聖人を責めんとしたが却って教化帰伏し、当国第一の法華信者となり、妻千日と共に身命を省みず深夜密に食糧を運び供養を怠らず、諸宗僧俗の迫害から聖人を守る大外護者となった。
 「しかるに尼御前並に入道殿はかの国にある時は人目をおそれて夜中に食をおくり或る時は国の責をもは蛍からず身にも代わらんとせし人々なり、さればつらかりし国なれども剃りたる髪もうしろへひかれ進む足もかえりぞかし」(単衣御書)と身延の山より御手紙を送り、また「日蓮佐渡の国へ流されしかばかの国の守護等は国主の御計りに随いて日蓮を仇む万民はその命に従う…地頭念佛者等日蓮が庵室に昼夜立ち添いて通う人もあるをまどわさんとせしめに、阿佛房に櫃をおわせ夜中に度度御わたりありしこといつの世にかわすらむ、唯慈母の佐渡の国に生れ代わりてあるか。」(当山所蔵千日尼御返事)
とも記して阿佛房夫妻の徳を称えておられます。
 文永十一年三月十三日、法門開運の時いたり宗祖大聖人には御赦免鎌倉より身延へ御入山。
 阿佛房夫妻は常に大聖人を慕い申してはいても、八十の齢を超しては海山千里はままならず、阿佛房は男の身なればとて二度、三度まで身延の山を登詣し御給仕を尽くし、三度目の登詣は弘安元年七月、九十の高齢をも省みず一刀三礼お写し申し上げた宗祖のお姿を肩に負い身延の山に登られたので、大聖人には御親しく開眼をなされ、阿佛房の願いを入れてお弟子となし日得上人の名を与え、妻には千日尼御前の名を賜わった。

 ◆妙宣寺(佐渡市)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 妙宣寺(みょうせんじ)は、新潟県佐渡市阿仏坊にある日蓮宗の寺院。日蓮の弟子阿仏房日得が自宅を寺として開基した日蓮宗佐渡三本山のひとつ。山号は蓮華王山。本尊は釈迦如来。

 ・歴史
 言い伝えによれば、1221年(承久3年)の開創と伝えられる。
 1326年(嘉暦元年)、竹田に移転。
 1589年(天正17年)、現在地(雑太城跡)に移転。
 寛文年間に身延、池上、中山の輪番管理となる。
 1878年(明治11年)、輪番管理から独立する。現住は47世関日道貫首(佐渡市円静寺より晋山)。通師法縁。

 ・文化財
 -- 重要文化財(国指定) --
 五重塔 -- 新潟県内に現存する唯一の五重塔で]、江戸時代に相川の宮大工茂三右ェ門親子が二代に渡り建立したといわれ、日光東照宮の五重塔を模したとされる。文政10年(1827年)の建塔で、頂上の相輪に鋳工大坂住長谷川久左衛門元文5年(1740年)とあることから、およそ90年かけて建立されたことがわかる。また各層の高欄や浅唐戸がなく資金難のため未完成である。
 日蓮聖人筆書状 3巻
 細字法華経(一部)1巻 -- 日野資朝筆、元徳二年(1330年)奥書

 ・その他
 本堂:1863年(文久3年)、祖師堂:1880年(明治13年)、仁王門:1677年(延宝5年)、庫裡:1862年(文久2年)、祖師像:1274年(文永11年)

 山門を潜り、まずは〝五重塔〟を拝観となりました(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(38)

01-720
02-720
03-720
04-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720
21-720

 WEB上で〝千畳敷・佐渡〟で検索しますと、こんな記載がありました(^.-)☆

 ◆千畳敷(せんじょうじき)

 --- https://www.visitsado.com/spot/detail0774/ ---

 ・弁天崎沖合に広がる下相川の景勝地
 相川町市街地の北端、下相川の海岸にある岩礁。平坦な広い形状から千畳敷と呼ばれ、古くから名勝地として知られています。堤防に向かって海の上を橋がかかっており、迫りくる日本海の波や岩礁の様子を眺められます。波が穏やかな日には遊歩道を散策する人の姿も見られ、近隣の人々の憩いの場でもあります。

 ◆佐渡市の千畳敷レビュー!透明な海と磯遊びが最高だった

 --- 2025/06/28 https://www.anbata-rakuiku.fun/torendo/senzyouziki-rebyu/ ---

 この記事は、プロモーションを含んでいます。
 佐渡市で自然を満喫したいなら、ぜひ立ち寄ってほしいのが、相川地区にある「千畳敷(せんじょうじき)」。透明度の高い海とゴツゴツとした岩場が特徴で、磯遊びや海の生き物探しが楽しめるスポットです。
 今回は、2025年6月27日に訪れたときの体験をもとに、実際の写真と魅力をお届けします。
 この記事では、水の透明度や設備の清潔さ、アクセス情報、近くで買えるお弁当情報まで詳しく紹介します!

 ・佐渡市の千畳敷はアクセス抜群!!子連れでも行きやすい
 千畳敷は、アクセスが良くバスでも車でも行きやすい場所です。最寄りのバス停が目の前にあり、公共交通機関でのアクセスも良好です。
 車で行く場合は、少し見落としやすい標識に注意が必要ですが、10台ほど駐車可能なスペースがあります。

 ・千畳敷は潮の満ち引きで景色が変わる
 千畳敷は、潮の満ち引きで景色が変わる何度も行きたくなる観光地です。
 私が訪れた時は潮が満ちていたため、反対側の岩場へは行けませんでしたが、引き潮の時間なら渡れることもあります。
 海の水はとにかく透明!足元をのぞくと小さな魚や海の生き物が見えるほどです。

 ・海の生き物が豊富!子どもも夢中になる磯遊び
 この日は、運よく「アメフラシ」を発見!他にも、カニ・ヤドカリ・エビ・元気に動く貝など、生き物がたくさん見られました。
 子どもと一緒に海の生き物を探して過ごすのにぴったり。ただし、一部深くなっている場所もあるので、お子さんと行く場合は目を離さないよう注意しましょう。

 ・滑りにくい靴や脱げないサンダルがおすすめ
 岩場が中心の地形なので、サンダルで行く場合はかかとが固定できるタイプを。
 普通のビーチサンダルだと、滑ったり脱げたりして危険です。また、場所によってはゴミが目立つこともあるので、マナーを守って利用したいですね。

 …と、こんな〝千畳敷〟ですけど、せっかく近くまで行きましたのに、残念でした(^-^;
 それでは、〝大間港跡〟をもぅ少しブラブラしながら、この辺で帰路につこうと思います。建物の壁面やスグ脇には、こんな案内板が(^-^)//"

 ◆国指定史跡 佐渡金銀山遺跡「旧佐渡鉱山 大間港」

 大間港は、佐渡鉱山の鉱石や資材の搬出入を目的に、明治時代に造られた人工の港である。明治20年(1887)に始まった工事は、強い季節風や波浪のため困難を極めたが、愛知県などで護岸工事を手がけた、「たたき工法」の創始者・服部長七指導のもと明治25年に(1892)に完成した。
 「たたき工法」とは、消石灰と土砂を混ぜた種土に水を入れて練った「たたき」と石積みとを組み合わせる技術で、コンクリートが普及するまで用いられた。
 その後の大間港は、大正から昭和期にかけ、クレーン用の台座やローダー橋などが設置されるなど、設備の充実が図られた。また、昭和15年(1940)には鉱山に電力を供給する目的で火力発電所が建てられ、その燃料となる石炭の積み入れも行われた。
 現在、当時の建物や設備の多くは撤去されてしまったが、「たたき工法」による護岸やクレーン台座などが残っており、築港当時の姿を伝えている。

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(37)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720
21-720

 まず眼に入りましたのが、ベンチのようにも見えます三つの石造の台座。これは、何なんでしょうネ。ベンチにしては高さがありますから、短足のGONsanにはとても座れませんけど(^-^;
 〝トラス橋〟を横目に海岸方向に進んで行きますと、クレーン台座が2基。そして、海岸沿いにも1基が存在です。
 海面に3脚連なりますのがローダー橋脚です。

 ◆現存する人造石護岸 大間港(佐渡市相川地区)

 --- https://jsce-niigata.com/introduction/article/038/art038.html ---

 ・鉱石の積み出しなどに使われた「大間港」
 明治25年(1892年)、コンクリート工法以前の石灰等を用いた「たたき工法」により完成した港で、鉱石の搬出や石炭などの鉱山の資材搬入に使われました。現在も石積護岸やトラス橋、ローダー橋脚、クレーン台座が残されています。

 ・大間港の概要
 大間港は、相川の市街地を流れる濁川河口と水金川河口の中間付近に位置する埋立による人工港湾で、新製鉱所敷地造成時の切崖土砂を運搬して埋立に用いたとされており、生産品の搬出や生産に必要な物資、特に溶鉱炉の燃料等に用いる石炭の搬入用として築港されました。

 ・煉瓦倉庫
 大間港の南東部に立地する煉瓦倉庫は、煉瓦造2階建、切妻造妻入桟瓦葺の建物です。外壁は煉瓦化粧積。イギリス積で構成され、要所に自然石を用いてアクセントとしています。
 内部は1、2階共に1室で、2階は裏(北)側3/5を床とし、表(南)側は階段、踊場を設けた吹抜です。明治時代後期から大正時代までには建築されたと考えられています。

 ・トラス橋
 船渠中央部分には南東―北西間に鉄骨造のトラス橋が架け渡されています。トラス橋はホッパー施設で、橋梁上に鉱車等を乗り付けて、トラス橋の下に停泊させた艀に鉱山を落下させて積載したとされています。

 ・ローダー橋脚
 ローダー橋脚は、大間港で搬入・搬出される貨物(石炭・鉱石)を陸揚・船積・運搬するための橋(軌道)を支える構造物で、昭和13年頃の建設とされています。ローダー橋は火力発電所に必要な石炭運搬の効率化を図るため、一連で計画された可能性があります。現存するローダー橋脚は、南西(海)側の2基を円錐台形の柱による構造物とし、北東(陸)側の1基を矩形の柱による構造物としています。

 ・クレーン台座
 大間港には貨物の荷揚げに用いたクレーンの台座が船渠の北側に2基、南西部に1基現存します。北側の2基は円錐台形の構造物で、下部は石積、上部は鉄筋コンクリート造です。2基は約24mの間隔を置いて配されています。
 北東部の台座は船渠壁面と一体化した構造で、一部は地表面、北西部の台座は停泊場上に独立して立地しています。南西部の台座は鉄筋コンクリート造です。

 大間港の護岸形状は、波の影響を受けやすい西面護岸や防波堤は勾配が緩く、波の影響を受け難い北面・南面護岸や船渠内護岸は勾配が急で直壁に近い形状となっています。また、北面~西面護岸に残存する護岸形状を見る限り、波の影響を受けやすい護岸は海水が埋立地へ侵入するのを防ぐため、上部を擁壁状に立ち上げた複断面形状とし、更にそれを超えた海水は、副堤で防ぐ構造になっていると考えられます。
 大間港の築港は明治23年から明治24年にかけて人造石工法の開発者である服部長七を招聘して同港の護岸工事を進め、明治25年に完成しました。築港以後、部分的な補修・改修は行われましたが、現状の護岸・副堤等は、築港当初の埋立範囲とほぼ整合するもので、埋立地の範囲や船渠の基本形状等に大きな変更はなく、築港当初の骨格を良好に保っています。

 …と、こんな〝大間港跡〟であります。
 早朝のウォーキングで〝大間港跡〟にヤッて来ました時には、このもう少し先に「千畳敷」が存在します事は知りませんでしたGONsan。
 後で、WEB上で〝大間港跡〟に関しまして調べています時に〝千畳敷〟の存在を知りましたけど、時既に遅し(^-^;
 もっと早く知っていましたら、〝千畳敷〟まで足を延ばしていたのですけど、う~ん、残念(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(36)

01-720
02-720
02-721
04-720
06-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
13-721
14-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720
21-720
22-720

 皆さん、ライトアップされました〝北沢浮遊選鉱場〟を暫く楽しまれますと、一人、二人と、送迎バスにと戻られますので、GONsanも(^-^)
 バスでは、別段、人数確認をされます訳でも無く、全員揃ったと思われます頃合いを見て、ホテル万長へと向かいます。
 ホテル万長近くまでバスが戻って来まして、ドラッグストア〝ウエルシア佐渡相川店〟の看板が眼に入りました所で途中下車のGONsanです。明日は佐渡滞在最終日で、また「両津港⇒新潟港」を〝ジェットフォイル〟に搭乗ですから船酔い防止策を取りませんと(^-^)
 GONsanが下車しますと、他にも4~5名の方が同様に(^-^)
 途中下車しますと、勿論、ここからホテルまではテクテクと歩きです(^-^)/
 〝ウエルシア佐渡相川店〟の店内に入りますと、今まで乗り物酔い用の医薬品を求めた事がありませんから、何が良く効きますのかサッパリ(^-^;
 仕方なく、レジの店員sanにお尋ねです。
 そして、手にしましたのが、この「アネロン〝ニスキャップ〟」なんであります(^_^)v
 説明書きには、『酔ってからでも効く』ですから、これはイイですねぇ\(^o^)/
 これで、明日の準備は万全です(^_^)v
 GONsanと一緒に下車しました他の方々は、何を求めておられますのか店内で物色中でありました。
 で、独りでノンビリとホテルにと戻って来ますと、ロビーでは、前夜同様に〝佐渡おけさ〟の公演の真っ最中。こんな状況の中、ロビーを横切ります勇気なんぞ微塵もありませんGONsanですから、ロビーの片隅で終わりますまで拝見です。
 ふん、ふん、この〝佐渡おけさ〟の公演メンバーは、毎日、替わりますようですネ。メンバー全員が昨夜とは異なっておりました(^.-)☆
 佐渡滞在最終日の翌朝も、起床は、A.M.5:00起きのGONsanです。5:30前頃にはウォーキング開始で〝大間港跡〟へと向かいます。
 未だ薄暗い中、右折すれば〝北沢浮遊選鉱場〟に向かいますT字交差点へとヤッて来まして〝大間港跡〟も目前です。
 この交差点近くで眼が止まりましたのが、こんな「大間町」の説明板であります。この説明板には、こんな記載が…

 ◆大間町
 大間は大きな澗、湊を意味する。廻船の入江で栄え、米問屋が軒を並べ、大間番所が置かれていた。番所付きの問屋八軒の筆頭橘屋は、良寛の母おのぶの生家である。明治中期には最新の工法で大間港が整備され、鉱山用港湾の町として発展した。佐渡鉱山の鉱石は、この港から搬出された。

 せっかく撮りました画像がピンボケで文字が不鮮明で読みにくいのでありますけど、多分、この様な記載だったと思います。
 ふん、ふん、曹洞宗の僧侶〝良寛〟sanは、備中玉島(現・岡山県倉敷市)の円通寺で12年間修行しておられますから、岡山の方かと思いましたら、ふ~ん、越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)のご出身でありましたか(^.-)☆
 ※ 円通寺の良寛sanに関しましては、GONsanのホームページにも綴っていますので、下記URLでご覧頂けましたら幸いです。
   円通寺 ⇒ http://gon.mbsrv.net/2020entsuji01.html
 そして、お母上は、佐渡のお生まれでしたのですねぇ~
 ここには、「中元歌 -- 良寛 --」の詩碑も…何と記載してありますのか、よく分かりませんので、WEB上で検索してみますと、こんな〝良寛詩碑「母去悠悠父亦去」中元歌〟の詳細な記述がありましたネ(^_^)v

 ◆良寛詩碑「母去悠悠父亦去」中元歌

 --- 良寛乃母の生家橘屋跡碑 ---

 碑 面
 -- 中元歌 --

 母去悠悠父亦去  悽愴哀惋何頻頻
 唯餘伯叔雙姨母  伯號妙悟叔妙真
 妙真去年五月逝  去歳中元妙悟存
 冉冉復至中元節  妙悟又作九原人
 去歳去京為涕泣  今歳又移江湖濱
 居移節換倍相思  萍跡暫留南北身
 采蘋采蘋澗之滸  滴涙遠望紀水墳
 拂院修營蘭盆會  蕭蕭唄韻映朱幡
 時亦凉飆颯爾至  洗掃昏昏下合塵
 雨過蕉影横斜陽  依稀又見来格神
 神享供已衆帰院  更結恬談無為因
 勧君莫永淪胥去  早艤川舟渡要律

 -- 良寛 --

 《建立趣意(碑陰)》

 --- 中元歌碑建立の趣意 ---
 良寛自筆の24句の長詩で 中元は盂蘭盆のこと 母がなくなり父もまた世を去った あとには母方の妹の妙真と妙悟が残ったが 妙真は去年5月に逝き 妙悟もことしの盂蘭盆を迎えてみるとあの世の人になっている 居を移し時がたつにつれて肉親のことがしのばれてならない 自分は南へ北へと浮草のような生活だったが 故郷に落ち着いた 思えば苦界に沈む父(以南 桂川に入水)よ 舟をととのえて安らかな仏の彼岸へ お渡り下さい の意
 国上山の五合庵に落ち着いた40歳代のころ 父母を追悼した悲傷の詩で 佐渡の母には2人の妹がいたことがわかる
 母おのぶの没後220年を迎え 第19回全国良寬会総会と良寛サミットが 当年5月相川で開催された ここに母誕生の地に一碑を建立し 母や佐渡を限りなく慕う良寛のせつない心情を 後世に伝えることとした
 -- 2002年 橘月建立 全国良寬会・佐渡良寛会 --

 場 所:新潟県佐渡市相川大間町53 良寛の母の生家橘屋跡
 筆 者:良寛
 建 碑:2002年橘月(陰暦) 佐渡ではじめて「全国良寛会総会」が開かれるのを記念し 良寛の母おのぶ生家跡に「良寛詩碑」を建立 総会の翌朝(5月26日)に除幕式を挙行
 建碑者:全国良寛会・佐渡良寛会
 参 考:「定本良寛全集」1-569 「相川郷土博物館」

 それでは、この説明板の後ろ側方向が〝大間港跡〟ですから、向かってみます。
 そぅしましたら、眼の前に、いきなり『私有地につき関係者以外〝立入禁止〟』ですから、〝んっ!?〟のGONsan。
 『立入禁止』と言われましても、せっかく訪れましたのですから、引き返します訳には行きません。それに〝観光客〟のGONsanですから「関係者以外」には該当しませんでしょうから(^-^)/
 とにかく、立ち入らせて頂き拝見開始です(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(35)

01-720
02-720
03-720
04-720
06-720
07-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
15-720
16-720
17-720
18-720
20-720
21-720
22-720
24-720
25-720

 尖閣湾の観光を終え〝尖閣湾揚島遊園売店(土産物店)〟まで戻って来まして時刻を確認しますと、P.M.4:15頃でしたか…
 本日の行程は〝尖閣湾観光〟でオシマイですから、暫し土産物店内をブラブラと…でも、別段求めたいモノもありませんから、ほどなくバス車内へと(^-^)
 P.M.5:00には〝ホテル万長〟到着で、夕食は6:00からですから、入浴等で暫しユックリ過ごせそうであります。
 館内イベントで、昨晩は20:10から1階ロビーで〝佐渡おけさ公演〟でしたけど、今晩は夕食を終えますと〝国史跡「北沢浮遊選鉱場跡」〟ライトアップに出かけます事に。
 で、早速、受付に、1便19:30出発の予約電話を入れますと「時間が来ますと、参加者全員が揃っておられなくても、バスは出発します…」と仲々手厳しいお言葉が(^-^)
 …と言う訳で、まずは入浴を済ませます事に。
 入浴を終えますと、夕食後に出かけます〝国史跡「北沢浮遊選鉱場跡」〟をスマホで検索し事前学習となりました。

 ◆北沢浮遊選鉱場

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 北沢浮遊選鉱場(きたざわふゆうせんこうば)は、かつて新潟県相川町(現・佐渡市)にあった佐渡金山(相川金銀山)の選鉱所。2012年(平成24年)に国指定史跡「佐渡金銀山遺跡」に指定され、2015年(平成27年)には重要文化的景観「佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観」の構成要素にも選定された。

 <歴史>

 ・歴史
 相川町の北沢地区では、1937年(昭和12年)の日中戦争開始に伴う国策の増産体制の一環として、同年から1940年(昭和15年)にかけて大規模な選鉱施設が整備され、当時としては最新の技術である浮遊選鉱を行う選鉱場のほか、シックナー(濃縮器)が建設された。月間5万トンの原鉱を処理する大選鉱場として操業され、1940年(昭和15年)には佐渡鉱山史上最高の産出量を実現した。

 ・廃止とその後
 しかし1952年(昭和27年)の鉱山大縮小に伴って施設は廃止された。その後は跡地の一部にプールやゴルフ練習場が建設されたこともあった。
 現在では浮遊選鉱場は階段状のコンクリート躯体のみが残され、シックナーは50mのものが1基残っている。また、明治期から整備された旧北沢青化・浮選鉱所や旧北沢火力発電所の遺構も隣接して残っている。

 ・利活用
 遺構は「佐渡島のラピュタ」と呼ばれ、観光スポットとなっている。2010年(平成22年)には広場が整備され、グッドデザイン賞を受賞した。
 2018年(平成30年)からは期間限定で夜間のライトアップが行われるようになった。2022年(令和4年)7月には、選鉱場前にあった佐渡市保有の倉庫をリノベーションして交流拠点「KITAZAWA KICHI」(キタキチ)がオープン。2階にはカフェ「北沢Terrace」が設置され、選鉱場前の広場にはテラス席も設けられた。
 2010年(平成22年)11月に佐渡金山が世界遺産の正式候補となると、2022年(令和4年)にユネスコに対し正式に推薦された。国指定史跡「佐渡金銀山遺跡」としては江戸時代の範囲のみを対象としているが、重要文化的景観の「相川鉱山町」としては北沢浮遊選鉱場がある北沢地区も含まれている。世界遺産の推薦書では北沢地区を含む範囲が推薦されたが、2023年(令和5年)に行われたユネスコ諮問機関による現地視察の結果、2024年(令和6年)6月には「相川鉱山町の中で明治時代以降の影響が強い北沢地区は除外すべき」と指摘を受けた。佐渡市・新潟県・日本国政府は登録実現のために北沢地区を候補から除外し、同年7月の第46回世界遺産委員会で「佐渡島の金山」の登録が決定した。
 なお、北沢という地名は、相川の南を流れる間切川が南沢と呼ばれたことに対して、浮遊選鉱場内を流れる濁川が通称として北沢と呼ばれたことに由来し、正式な町名ではない。濁川は選鉱作業で使った廃水処理に利用された。

 …と、こんな〝北沢浮遊選鉱場〟で、2018年(平成30年)から期間限定で夜間のライトアップが実施され、観光スポットの一つとなっていますようであります。
 夕食を終え、定刻10分前に1階ロビーに下りて行きますと、20名ばかりの方がお集まりでありました。
 で、その方達の後に付いてバスに乗り込み座っておりますと、このバスは、特定団体sanがチャーターのバスとかで、全員急いで下車となりました(^-^;
 未だ定刻前ですから、おかしいなぁ~と思っていたのですけど、GONsan達の乗車バスは、この後に出ますバスでありました(^.-)☆
 こんなハプニングもありましたけど、バスは定刻にスタートで、15分程度で〝北沢浮遊選鉱場〟にと到着です。
 挿入の画像が〝北沢浮遊選鉱場〟のライトアップの様子です。
 別にガイドsanの案内があります訳でもなく、ただ現地にバスで連れて行って貰うのみで、後は各自勝手に散策しながら拝観です(^-^)/
 いゃいゃ、事前にWEB上で〝北沢浮遊選鉱場〟を学習しておいて幸いでした。予備知識も無く、こんなライトアップを眼にしましても何の事やらサッパリですから(^_^)v

 ◆佐渡島のラピュタ -- 北沢浮遊選鉱場跡 --

 --- 新潟県佐渡市 ---
 --- https://magazine.air-u.kyoto-art.ac.jp/fushinjo/11476/ ---

 新潟の海岸線は街灯が少なく、夜の運転中にバックミラーを覗くと真っ黒になります。今回、新潟に移住してから初めて訪れた佐渡島の海岸線も真っ暗でした。レンタカーを運転している私も助手席の友人もずっとしゃべり続けていたのは、少し怖かったのでしょう。目的地に到着すると突然、ライトアップされた廃墟が現れました。その幻想的な雰囲気に気圧された私たちは、しばらく黙り込んでいました。
 その廃墟は、かつて佐渡鉱山から採れた鉱石の処理場として建てられた「北沢浮遊選鉱場(きたざわふゆうせんこうば)」の遺構です。遺された階段状のコンクリートに植物が生い茂るその姿から、映画『天空の城ラピュタ』の世界観を彷彿させると人気の観光スポットになっています。
浮遊選鉱とは、鉱山で採掘された岩の中から金や銀などを取り出す方法のひとつです。細かく砕いた鉱物を界面活性剤などの浮遊剤と一緒に水槽に入れてかき回し、泡とともに浮き上がった金銀粒を回収します。もともとは銅の選鉱工程で利用されていた方法ですが、金銀の回収に応用したのは佐渡鉱山が世界で初めてでした。
明治初期、鉱山の近代化をはかる政府は、佐渡鉱山に西洋人技術者を派遣しています。彼らが離島した後は、日本人技術者たちが引き継ぎました。昭和初期に建てられたこの選鉱場は、彼らが発展させた鉱山技術の結晶といえるでしょう。背景には日中戦争による金銀銅の増産運動がありました。そんな時代背景もまた、映画を思い起こさせるのかもしれません。

 …と、ネット上には、こんな記載もありました。
 挿入画像の最後の2枚は、北沢浮遊選鉱場跡、夜のシックナーです。浮遊選鉱によって不純物を取り除いた鉱石は、シックナーと呼ばれる沈殿濃縮装置でろ過した後、香川県の直島製鉄所へ運ばれましたとの事であります(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(34)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
12-720
13-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720
21-720
22-720

 海岸沿いの遊歩道からの尖閣湾の断崖の景観…充分楽しめましたけど、せっかく訪れましたのにグラスボートへの乗船、海上からの海岸美の眺望が叶いませんでしたのは、天候要因とは言え残念でした。

 ◆海中透視船(尖閣湾揚島観光)

 --- https://tabi-mag.jp/ng0408/ ---

 海中公園、そして日本の渚百選にも選定の佐渡を代表する景勝地、尖閣湾(せんかくわん)。海中透視船(グラスボート)が3月中旬頃~11月下旬頃まで運航し、海上から尖閣湾の名付け親・脇水鉄五郎がフィヨルドに例えた断崖を見物することができます。運航母体は尖閣湾揚島遊園と同じなので、入園口で乗船の申し込みが可能。
 15分間隔で運航し、所要は15分という手軽なショートクルーズ。
 カモメやウミネコが船に群がるように飛び、船底からは透明度の高い海を泳ぐ魚を観察できます。
 一部海中公園にも指定されており、離れ岩や岩礁も多く、水の透明度は抜群。
 湾内では海水魚が50種ほど観察可能です。

 …と、こんなグラスボートのようですけど、う~ん、残念(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(33)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720
21-720

 尖閣湾の海岸美を充分楽しみましたので、また〝揚島遊仙橋〟を渡りまして、燈台下の渡り口にあります石段を下り〝あげしま洞窟〟から、本日は荒波で乗船不可ですけど、グラスボート乗り場の方に向かってみます事に(^.-)☆
 〝あげしま洞窟〟に入り階段を下って行きますけど、近年、整備されましたのでしょうネ、仲々キレイ。
 洞窟の出口手前辺りは平坦地でちょっとした空間ですから、ここで何かイベントでも行われますのでしょうネ…
 WEB上で〝あげしま洞窟〟を検索しますと、こんな記事掲載が…

 ◆佐渡「尖閣湾揚島遊園」が光の幻想空間に!洞窟内でプロジェクションマッピング始まる、雄大な自然が岩肌を彩る♪

 --- 2025/05/09 14:00 新潟日報 ---

 佐渡市北狄(きたえびす)の観光施設「尖閣湾揚島遊園」内の洞窟で3日から、プロジェクションマッピングが始まった。佐渡の自然をイメージした美しい映像がいっぱいに広がり、隆々とした岩肌を幻想的に彩っている。
 施設は約3キロの海岸線に沿って広がり、切り立つ断崖や、美しい海の景観を楽しめる観光スポット。海中の様子を見ることができるアトラクション「海中透視船」は目玉の一つで、島内外からの来場者から人気を集めている。
 プロジェクションマッピングは、「あげしま洞窟」の中にある海中透視船の乗り場へつながる約50メートルの通路に施された。乗船客を映像美で楽しませ、さらなる集客を狙いたいと初めて企画された。(以下 略)

 ところで、この〝あげしま洞窟〟は、昔から存在しますのでしょうか…ChatGPTに尋ねてみますと、ふん、ふん、昔から存在しますようであります。

 ◆揚島(あげしま)洞窟とは

 佐渡島・外海府(そとかいふ)海岸に位置する尖閣湾(せんかくわん)揚島観光の代表的景観スポットの一つで、海食作用によって形成された 海蝕洞(海食洞)です。
 
 -- 主な特徴 --
 日本海の荒波 によって削られてできた自然の洞窟
 上部に岩が屋根のように張り出し、内部は独特の静けさと神秘的な雰囲気
 観光船(遊覧船)から洞窟の入口付近まで接近して観覧できる
 海の透明度が高く、晴れた日には海底が美しく見えることで人気

 場所:佐渡島の北西部「外海府海岸」、尖閣湾揚島観光(揚島遊園)エリアの見どころの一つ、遊歩道や展望台からも近く、自然景観と合わせて楽しめる場所です。
 名前の由来:「揚島(あげしま)」は当地の地名で、洞窟そのものは“揚島にある海蝕洞”→ 揚島洞窟 と呼ばれています。

 あなた:佐渡の尖閣湾にあります〝あげしま洞窟〟は、昔から存在するのか?近年に作られたのでしたら、その歴史が分かれば嬉しいですが…

 短く結論:あげしま洞窟は「近年に人工で作られたもの」ではなく、海の波に削られてできた自然の海食洞(海蝕洞)で、地質的には長い時間をかけて形成されたものです。ただし、洞窟内部を見せるための遊歩道・照明や、近年導入されたプロジェクションマッピングなどの観光設備は最近の整備です。
 もう少し詳しく説明します。

 ・どうやってできたか(成因)
 あげしま洞窟は海面に面した岩が波の力で浸食されてできる「海食洞(海蝕洞)」に該当します。こうした洞窟は数千年~数万年といった長い時間スケールで波や潮の浸食作用により形成されます(尖閣湾・揚島峡湾を紹介する観光・解説ページでも海食による景観として扱われています)。
 ・人の手で最近「作られた」わけではない点
 観光情報・公式ページは揚島の景勝地として自然の断崖や洞窟を紹介しており、人工洞窟であるという記述は見当たりません。従って洞窟そのものは自然の産物です。
 ・近年の「人の関わり」(観光整備・演出)
 洞窟内部へ通じる遊歩道や照明、洞窟を利用したプロジェクションマッピングなどの演出は最近の観光施策です。例えば洞窟内プロジェクションマッピングは2025年5月に始まったという公式発表があります。洞窟を使った見せ方・施設整備は年々更新されています。
 ・正確な「何万年前にできた」かは?
 観光サイトや公式ページでは洞窟の厳密な地質年次(何万年前に形成されたか)までは示していません。もし正確な年代(地質学的な形成時期)を知りたい場合は、地質調査報告書や学術論文、あるいは新潟県・佐渡市の地質関連資料を確認する必要があります(公開資料を確認して調べることは可能です)。
 要約すると:洞窟自体は自然の海蝕洞で昔から存在するもの。観光のために通路や照明、映像演出などが近年整備されており、それが「新しく見える」理由です。

 …と、こんな〝あげしま洞窟〟でありました。
 洞窟を出ますと、何羽かのウミネコが…波が穏やかでありましたら、ここがグラスボート乗り場となりますのでしょうネ。
 整備されました海岸沿いの遊歩道をノンビリと進みながら、流紋岩を基盤とする標高20mの海岸段丘と海食崖を拝見です。
 >尖閣湾は冬の猛烈な季節風と荒波によって作られた海食崖ですが、もう一つ大きな要因があります。
 >それは尖閣湾の断崖がしま模様の目立つ流紋岩でできているためです。この岩石は、しま模様に沿
 >って剥がれやすい性質があります。尖閣湾の流紋岩はしま模様が縦方向に伸びているため、切り立
 >った風景となりました。
 …との事ですけど、自然の力を改めて感じてしまいます。永い年月を要しまして現在の姿にと形成されましたのでしょうけど、見た感じがよく似ていますのが福井県の〝東尋坊〟。
 ヒマですから、もぅ少し〝ChatGPT〟に質問です(^-^)

 《質問》東尋坊の柱状節理は火山から噴き出した溶岩が冷えていく際、収縮して固まることで形成される多角形をした柱状の割れ目。東尋坊は約1300万年前の溶岩を荒波が削り、複雑で美しい景観を生み出したようですけど、尖閣湾の断崖も同様に形成されたのでしょうか?

 《ChatGPT》
 いい質問 — 結論から言うと、尖閣湾(新潟県佐渡島)の断崖は、必ずしも柱状節理と同じメカニズムでできたとは限らず、むしろ「海食崖(波による浸食でできた断崖/海岸段丘)」的な地形である、という説明が地質情報では一般的です。
 -- 尖閣湾の地形の特徴 --
 尖閣湾は「30m級の尖塔状の断崖が連なる景観」が特徴とされます。
 一帯は「佐渡海府海岸」として国の名勝に指定されており、火成岩や凝灰岩、その他さまざまな地質構造が複雑に分布することで知られます。
 解説などでは「大昔の火山活動で海の底から持ち上がり、長い年月をかけた荒波の浸食作用で削られて現在の険しい海岸崖になった」と説明されています。
 -- なぜ「柱状節理」とはされない/されにくいのか --
 柱状節理は、火山などから流れ出した溶岩や火砕流などが「冷えて固まる過程で収縮 → 多角形の割れ目 → 柱状構造」を生じさせる現象。
 ところが、尖閣湾の崖について、ある案内紙(ジオパーク解説)によれば「岩石は黒っぽい安山岩ではなく、白っぽい流紋岩らしい」との記述があり、また「縞模様が縦方向に伸びていて、切り立った風景になった」と述べられており、この点から「柱状節理による典型的な蜂の巣状の割れ目」は確認されにくいとされています。
 つまり、尖閣湾の断崖は「大昔の火成岩+隆起+長年の海食」という過程を経た“海食崖/海岸段丘”である、というのが現在一般的な説明。
 -- だから「同様」と断定できない理由 --
 あなたが見立てたように、もし尖閣湾が「東尋坊と同じように柱状節理によって形作られた断崖なら」確かに似たメカニズム --- 溶岩の冷却収縮 → 柱状節理 → 侵食で断崖 --- という流れが成立します。
 しかし実際のところ:尖閣湾の解説では「溶岩流の跡」は言及されているものの、「柱状節理が露出している」「六角柱状」「蜂の巣状割れ目」といった記述は見当たらない。
 また「岩石が流紋岩らしい」「縞模様が縦方向」という記述もあるため、安山岩玄武岩に典型的な柱状節理ではない可能性が高い。
 つまり、見かけとして断崖や「切り立った岩壁」が似ていても、その成因(地質プロセス)は異なる可能性が高いのです。
 -- まとめ --
 はい、「断崖 → 海による浸食」という点では、あなたの想像するような“溶岩の冷却 → 柱状節理 → 浸食”と似た流れでできている可能性は 「火成岩 → 隆起 → 浸食」 という意味である。
 しかし、「柱状節理」と呼べるような「多角柱の規則的割れ目 → 柱列」としての構造が、尖閣湾の断崖を説明する資料には確認されておらず、「柱状節理による断崖」とはされていません。
 よって、「東尋坊とは形成の仕組みが異なる断崖」である — というのがおおよその学術的見解です。

 …と、こんな〝ChatGPT〟からの回答でした。ここまで詳しい回答を望みませんでしたけど、ふ~ん、大変勉強になりました(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

中村GG友の会〝11/25・忘年会〟&〝12/2・忘年GG大会〟(02)

01-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720
21-720

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(32)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720
21-720

 ◆尖閣湾 揚島遊仙橋

 尖閣湾は、姫津から北狄(きたえびす)地区までの約4㎞の海岸で、流紋岩を基盤とする標高30mの海岸段丘と海食崖が続きます。五つの小弯(幽仙峡、立雲峡、金剛峡、膳棚峡、大岬峡)と、遊園地のある揚島がある地域の総称です。尖塔状の断崖が連なる景観をして訪れる人々を圧倒します。一帯は海中公園となっており、揚島遊園(有料)の展望台からは全景が一望でき、海中透視遊覧船(有料)からは、湾内巡りと海中の様子など、違った景色が楽しめます。昭和28年(1953)に、菊田一夫原作の映画『君の名は』のロケが当地で行われ、『尖閣湾』の名は一躍全国に知られることとなりました。
 橋名は、遊仙橋(ゆうせんきょう)ですが、「まちこ橋」とも呼ばれ、松竹映画「君の名は」のロケで吊り橋のシーンが有名になりました。今は頑丈なコンクリート製の橋に架け替えられています。橋を渡った島を揚島(あげしま)といい「あげしま展望台」となっています。5月下旬から6月中旬頃には岩ユリやハマナスの花が岩場に咲きます。

 ◆北欧のハルダンゲル峡湾に匹敵

 -- 佐渡屈指の景勝地「尖閣湾」--
 尖閣湾は姫津から北狄まで約3kmの海岸に広がる5つの小湾の総称です。天下の絶景と賞され世界一と呼ばれている北欧ノルウェーのハルダンゲル峡湾の景観に勝るとも劣らず、正に東西両洋に対をなす海岸美として『尖閣湾』と命名されました。昭和46年には海中公園に指定、さらに平成8年には日本渚百選に選定されています。

 …と、ロケ当時は吊り橋でしたのでしょうけど、現在は頑丈なコンクリート製の立派な橋に架け替えです。こんな〝遊仙橋(まちこ橋)〟を渡りますと、この島が〝揚島(あげしま)〟で〝あげしま展望台〟が存在です。
 ここには、こんな案内板が…

 ◆「断崖の名勝、尖閣湾誕生秘話」

 名勝地「尖閣湾」は第1景から第5景の「5つの峡湾」のことをいいます。高さ約20m、長さ約4kmに及ぶ断崖絶壁です。(看板の左に見える景色)
 尖閣湾は冬の猛烈な季節風と荒波によって作られた海食崖ですが、もう一つ大きな要因があります。それは尖閣湾の断崖がしま模様の目立つ流紋岩でできているためです。この岩石は、しま模様に沿って剥がれやすい性質があります。尖閣湾の流紋岩はしま模様が縦方向に伸びているため、切り立った風景となりました。

 高さ約20m、長さ約4kmに及ぶ断崖ですけど、実に美しい、素晴らしい海岸美。
 暫く見つめておりましたネ(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

中村GG友の会〝11/25・忘年会〟&〝12/2・忘年GG大会〟(01)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
17-720
18-720
19-720
20-720
21-720

 11/25(火)は、前々から中村GG友の会の〝忘年GG大会〟が予定されておりましたけど、残念ながら当日の朝は、天気予報通り朝の内は降雨。
 で、〝忘年GG大会〟は一週間延期で、〝忘年会〟のみ実施となりました(^-^)
 この頃には既に降雨はありませんで、A.M.11:00に中村集会所に集合し、〝あぶと本館〟sanの送迎バスで、阿伏兎観音近くの〝あぶと本館〟へと向かいます。
 参加者は、総勢19名の皆様で、会長sanのご挨拶で、A.M.11:23に忘年会がスタートです(^.-)☆
 この忘年会の様子は、こぅして全てWEB上で公開です。この方達は、大半(19名の内16名)の皆様がGONsanより先輩でありますけど、GONsanに取りましては、気心知れた良き仲間なんであります。
 ですが、勿論、GONsanも同様ですけど、皆さん後期高齢者でありますから、年齢的に、後何年、ご一緒出来ますか(^-^)
 今までもそぅでしたけど、これからも、一人去り…二人去り…GONsanが先なのか…それとも後になりますのか…知る由もありませんけど、人生の一時期をご一緒させて頂き、この良き仲間を決して忘れたくない、そして、決して忘れて貰いたくない…こんな想いから、この日の様子をWEB上に綴っています。
 〝中村GG友の会〟の会員の中には、ご自分の写りました画像の公開を是とされない方もおられるのかも分かりませんけど、何もかも含んで〝悪しからず〟です(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(31)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720
21-720

 〝まちこ橋(遊仙橋)〟に向かってノンビリと歩いておりますと、まず眼が止まりましたのが「先人を称える碑」と「先人を称えて」の説明碑。
 ふ~ん、元・農林水産大臣の近藤元次sanは佐渡のご出身でありましたか(^.-)☆

 ◆近藤 元次

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 近藤 元次(こんどう もとじ、1930年(昭和5年)6月20日 - 1994年(平成6年)2月16日)は、日本の政治家。位階は従三位勲一等、勲章は瑞宝章。
 農林水産大臣、衆議院議員(6期・自由民主党)を歴任した。息子は元自民党衆議院議員の近藤基彦。

 -- 来歴・人物 --
 新潟県佐渡郡相川町出身。新潟県立新潟工業高等学校を経て日本大学理工学部卒業。
 相川町議会議員、新潟県議会議員を経て、1979年の第35回衆議院議員総選挙に旧新潟1区からに立候補し初当選(当選同期に佐藤信二・保利耕輔・畑英次郎・麻生太郎・小里貞利・岸田文武・白川勝彦・丹羽雄哉・亀井静香・吹田愰・宮下創平・亀井善之・船田元など)。連続当選6回。
 自民党内では宏池会(大平正芳→鈴木善幸→宮澤喜一派)に所属。農水政務次官、党農林部会長などを歴任した農林族の大物で知られ、1990年に第2次海部内閣の農林水産大臣として初入閣。1991年 宮澤内閣が発足すると閣僚経験者では異例の内閣官房副長官に就任。PKO法案成立に尽力するなど政権の裏支えに徹した。なお、1993年1月の宮澤首相のASEAN諸国歴訪に同行していたが、渡航中に体調を崩して肋膜炎を発症しながらもカンボジアでのPKO活動の視察を行った。帰国後に治療を行い一時は公務に復帰し、同年の総選挙で6期目の当選を果たしたが、その後同年暮れに病を再発させ、6期目在職中の1994年2月16日に死去した。63歳没。同月18日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付をもって従三位勲一等に叙され、瑞宝章を追贈された。追悼演説は、同年3月30日の衆議院本会議で、当選同期で近藤とともに農林族だった田名部匡省が行い「コンちゃん、充実の時だった」と故人を偲んだ。

 〝先人を称えて〟の説明碑には、文字が不鮮明な箇所もありましたけど、こんな記載が…

 ◆先人を称えて

 この地が、尖閣湾としてよに知られ始めし頃、時折り訪れし客を小舟にて案内せし若者居たり。
 若者の脳裏に、揚島に吊橋掛けたれば海の時化にも関わりなく一時に多くの人が天下の景勝、尖閣湾を島の上より一望すること可能なりと、揚島に架橋の夢芽生えたり。若者は同志ににその夢語らへど、時は日中戦争より第二次世界大戦へと向かひつつありし頃とて、夢のまた夢と消え失せにけり。
 時は経て昭和25年、東北電力北荻川発電所にて導水管工事が架線を張りて行はれたり。架線と吊橋、若き日の夢を想起せし北見佐吉氏は、千載一遇の好機到来、目前に有る架線技術で「揚島に吊橋」をと、村人に説きた。
 架線業者の寄宿先である佐藤忠蔵の、事業家的熱意ある働き掛けにて業者より資材、技術共に全面的支援の約束を得たり。
 暫くして同年十一月、佐渡尖閣湾施設協会として発足せり。時に社員五十余名なり。資金は予定に充たず、社員の現物出資は無論のこと、生活苦しき中労務出役の全てを資本に替えて遂に昭和二十六年六月、村へ待望の吊橋の落成祝賀会を挙行するに至れり。
 県道からは釣り人や野良仕事の人一人が通れるのみにありけるこの地を、かくばかりなる観光地に発展せしめる今日に至れるは、これ全て先人達の先見性有る英知と筆舌にて尽くせぬ労苦にならず。
 四十周年を迎えるに当たり草創期の役員名を裏面に刻してその業績を称へむ。
 -- 平成二年 有限会社尖閣湾揚島観光 --

 そして、〝尖閣湾〟と命名の由来が記されました説明板も(^.-)☆

 ◆尖閣湾

 -- 名称の由来 --
 昭和七年に文部省天然記念物調査委員の理学博士、脇水鉄五郎氏が、この地を踏査された際、天下の絶景と賞され、世界一と呼ばれている北欧ノルウェイのハルダンゲル峡湾の景観に勝るとも劣らず、正に東西両洋に対をなす海岸美として「尖閣湾」と命名されました。そして、
 昭和九年文部省より「名勝」にも指定されました。(脇水博士の経歴は裏面に)

 〝脇水鉄五郎〟sanは、こんな方でありました。

 ◆脇水 鉄五郎

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 脇水 鉄五郎(わきみず てつごろう、慶応3年11月9日(1867年12月4日) - 昭和17年(1942年)8月10日)は、明治から昭和前期の地質学者、土壌学者。東京帝国大学名誉教授。

 -- 経歴・人物 --
 美濃大垣(現:岐阜県大垣市)に生まれる。1893年(明治26年)東京帝国大学地質学科卒業。1896年(明治29年)同大学農科大学助教授を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学教授となる。1911年から1915年頃に掛けてヨーロッパおよびアメリカに留学し、オーストリアで森林土壌学、イタリアで砂防学を研究。帰国すると地質学や森林土壌学講座を担当した。樺太および北海道にて気候的植生の土壌に対する影響を調査し、表層地質学の新天地を開拓した。東京帝国大学教授退官後は、史跡名勝、天然記念物の調査員として活躍し、『車窓からの自然界 東海道・山陽編』・『日本風景誌』・『耶馬渓彦山風景論』などの著書を残した。ほか、1907年(明治40年)より日本地質学会評議員、1939年(昭和14年)同会会長をつとめた。

 そぅそぅ、〝尖閣湾〟は、映画「君の名は」のロケ地でしたネ。「名作『君の名は』ロケ地」と記されました、こんな案内板もありましたネ(^_^)v

 ◆君の名は

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 『君の名は』(きみのなは)は、日本のNHKラジオ第1放送で1952年から1954年に放送されたラジオドラマ。小説化、映画化、テレビドラマ化、舞台化もされた。

 -- 概要 --
 脚本家・菊田一夫の代表作。1952年にラジオドラマで放送され、多大な人気を獲得した。ただし、最初の半年間は菊田が「人々の戦争体験を主題に」シリアスタッチで描いていたため、あまり人気はなかった。当初は、東京・佐渡・志摩半島に住む家族を並行する社会派ラジオドラマを目指していた。真知子と春樹との恋愛にドラマが集中し始め、初めて人気番組となった。「番組が始まる時間になると、銭湯の女湯から人が消える」といわれるほどであったという。このエピソードは松竹の宣伝による虚構だという説もあるが、『宣伝・ここに妙手あり』(田中純一郎、1958年)では、映画版の監督を手がけた大庭秀雄夫人の松竹の女優、森川まさみの発言がもとだとしており、『松竹の内幕』(横溝竜彦、1957年)では松竹の重役が考えたとしているなど、記述によって説がバラバラであり、これ自体が根も葉もない噂である可能性は否定できない。
 ラジオドラマの人気を受けて1952年から菊田による小説版が新聞連載ののち宝文館から出版され、菊田にとって初の出版におけるベストセラーとなった。1953年には松竹で映画化されると大ヒットを記録し、氏家真知子のストールの巻き方が「真知子巻き」と呼ばれて女性の間で流行した。
 映画『君の名は』(1953年)から数寄屋橋のシーン。向かって右が岸恵子、左が佐田啓二。
 これは、主演の岸惠子が北海道でロケの合間に現地の寒さをしのごうと、神奈川県横浜市中区の馬車道界隈の店で購入して持参していた私物のストールを肩から一周させ、耳や頭をくるんでいたことによるとされる。この姿はカメラが回っている時にも使われることになり、「真知子巻き」が誕生した。
 第一部の冒頭、佐渡に渡る船上でも真知子は「真知子巻き」に類したストールの巻き方をしている。
 真知子と春樹が再会しそうになる(半年ごとの数寄屋橋での待ち合わせなど)が、不都合が起きてなかなか会うことができない。この「会えそうで会えない」という事態が何度も繰り返された。これは後の恋愛ドラマでもよく見られる描写(演出)であり、本作はこのパターンの典型にして古典となっている。
 2020年の連続テレビ小説『エール』でも劇中劇として使われた。劇中では真知子役は恒松あゆみ、春樹役は三木眞一郎、アナウンサー(語り部)役は尾田木美衣が務めた。

 〝まちこ橋(遊仙橋)〟手前には、燈台が存在です。
 WEB上には、「初灯は昭和39年。荒々しい岩肌と白い灯台の対比が織りなす景観は、想像以上の美しさ。」…と、こんな記載がありましたけど、うん、うん、確かにそぅですネ。
 何となく、絵になります燈台でありました(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(30)

01-720
02-720
03-720
05-720
06-720-1
06-720-2
07-720
08-720
09-720
10-720
12-720
13-720
14-720
15-720
16-720
17-720
18-720
20-720
21-720
22-720

 ◆佐和田海水浴場

 --- https://www.visitsado.com/spot/detail0402/ ---

 ・利便性の高さが人気!
 河原田商店街から歩いて2分ほどの海水浴場。真野湾にいだかれた波穏やかな遠浅の海岸。佐渡各地へのアクセスも便利な中央エリアに位置し、シーズンには多くの人々で賑わいます。徒歩圏内に飲食店や宿泊施設が多数あるので観光拠点にも最適。隣接する松林の中にはフリーサイト「窪田キャンプ場」もあります。

 ◆佐和田海岸

 --- https://n-story.jp/localculture/佐和田海岸/ ---

 佐和田海岸は、真野湾に面した約4kmの砂浜海岸で、その中の窪田~河原田の海岸が、砂の堆積が1mと少なくクロマツ美林でおおわれていることから「越の松原」といわれている。また、雪の高浜(現在の八幡砂丘)は、その名の通り、冬は雪の体積が最大8mになることがあり、また春から秋にかけても、チガヤの白い穂で雪のようにおおわれる海浜砂丘であることから「雪の高浜」という呼び名が付いた。また、佐和田海岸はウインドサーフィンやジェットスキーなどのマリンスポーツが盛んで、近隣の窪田キャンプ場と併せて、夏は多くの家族連れで賑わう。近年は、毎年9月、佐渡全島をコースにして行われる、佐渡国際トライアスロンのスタート地点となっている。

 …と、こんな〝佐和田海岸〟でのトイレ休憩を終えますと〝尖閣湾揚島遊園〟に向かいます。
 〝尖閣湾揚島遊園〟が近付いて来ましたので、車窓から海の様子を伺いますと、穏やかそうな波に見えましたけど、この程度の波でも〝グラスボート〟はダメなんでしょうねぇ~
 WEB上で検索しますと、こんな〝尖閣湾揚島遊園〟であります(^.-)☆

 ◆尖閣湾揚島遊園(せんかくわんあげしまゆうえん)

 --- https://www.visitsado.com/spot/detail0035/ ---

 -- 尖閣湾を一望する観光スポット --
 「尖閣湾」の第5景「揚島峡湾」に建つ観光施設。展望台から、ダイナミックな景観を一望できます。周辺は「全国渚百選」にも指定されている海中公園。「海中透視船」(有料)で、湾内巡りと海中の様子が楽しめます。2023年にリニューアルした「あげしま海のでじたる館」や、ゆったりくつろげる2階の休憩スペースや売店、軽食堂も併設しています。

 -- 佐渡景勝地尖閣湾の観光スポットに建つ灯台 --
 観光施設「尖閣湾揚島遊園」敷地内に建ち、遊歩道で容易にたどり着けます。初灯は昭和39年。荒々しい岩肌と白い灯台の対比が織りなす景観は、想像以上の美しさ。映画『君の名は』で知られ、灯台はロケ地「まちこ橋(遊仙橋)」の手前に位置します。橋は佐渡屈指の景勝地「尖閣湾」を一望する展望台へと続きます。

 -- 尖閣湾 --
 北欧のフィヨルドに匹敵、佐渡屈指の景勝地
 姫津から北狄まで約3㎞の海岸に広がる5つの小湾の総称。ノルウェーの「ハルダンゲル・フィヨルド」の峡尖美に似ていることから、尖閣湾と名付けられました。30m級の尖塔状の断崖が連なる景観が訪れる人々を圧倒します。一帯は海中公園となっており、揚島遊園の展望台からは全景が一望でき、遊覧船からは違った景色を楽しめます。

 ◆尖閣湾揚島遊園

 --- https://travel.navitime.com/ja/area/jp/spot/02301-1300157/ ---

 ・北欧のフィヨルドに匹敵?荒波がつくった自然の造形美、尖閣湾
 冬の日本海の強い風と荒波がつくり上げた雄大な景色は、高さ約20mの断崖絶壁が連なるジオパーク。遠景、近景どちらもダイナミック!海中にも広がる複雑で切り立った岩々を、海中透視船(グラスボート)で楽しもう!

 ・北欧ノルウェーのフィヨルドに匹敵するほどの美しさ
両津港から車で約1時間。尖閣湾は長さ約3㎞にわたる5つの小湾の総称で、揚島遊園は第5景「揚島峡湾(あげしまきょうわん」に当たる。園内の展望台からは30m級の尖塔状の断崖の連なりを見渡すことができる。また海中透視船では下から尖閣湾の第2景から第5景の大パノラマが見え、違った角度からそのダイナミックな景色を楽しむことができる。この尖閣湾という名は北欧ノルウェーのフィヨルドにも匹敵する美しい景観だということで、1932年(昭和7)、地質学者湧水鉄五郎(わきみずてつごろう)博士によって名づけられた。入り口から入り、食堂とお土産コーナーを見ながらチケットコーナーへ行こう。

 ・地球がつくる大地の公園、ジオパークを思う存分楽しもう!
 揚島遊園(あげしまゆうえん)に入園すると、潮の香りが風に乗って運ばれてくる。どこからともなく佐渡おけさなどの佐渡の民謡が聞こえてきて、のんびりとした気分にさせてくれる。歩きやすく整備された歩道を歩いていると、左手に湾を上から見られる場所があるので、見下ろしてみよう。特に夏は海の中の海藻がなくなり、透明度が増しかなりの深さまで透き通って見える。海面から15mの高さにある遊仙橋から景色を眺めると、崖と広く平らになった田んぼが目に入ってくる。この辺りは海成段丘といって、海底だったところが隆起により陸地になった階段状の地形。地球がつくり出したダイナミックな造形だ。

 ・壮大な大パノラマ、秘境感のある景色
 遊仙橋(ゆうせんきょう)を渡り揚島に到着。ここは一周ぐるりと歩けるようになっていて、岩の質感など間近に見ることができ、岩石好きでなくとも楽しい。この辺りの岩はマグマが冷えて固まってできた「流紋岩(りゅうもんがん)」といわれる縞模様が特徴だ。この縞模様に沿ってはがれやすい性質があるため、尖閣湾は波や風で浸食される以上に切り立った風景になった。展望台では景勝地尖閣湾の大パノラマを一望することができる。海中透視船と崖とを比べて見ると、いかに崖が高いかわかるだろう。5~6月であれば、黒っぽい岩のわずかな緑に、明るいオレンジのイワユリや黄色いトビシマカンゾウを見つけることができる。

 ・海の中の絶景を見られる海中透視船!
 展望台を後に遊仙橋を再び渡り、橋の脇にある階段を下りる。洞窟を越えると海中透視船の乗り場だ。ここまで来たのだから海中透視船への乗船をぜひおすすめする。入り口で乗船券を買い忘れても、乗り場で購入が可能。乗り場に着くと船内で売られているエサを狙うたくさんのウミネコが待ち構えている。ちなみにウミネコと普通のカモメの見分け方のポイントはクチバシと季節だ。どちらもクチバシは黄色いがウミネコはその先端にかけて黒くなり突端は赤い。普通のカモメは渡り鳥で飛来する季節は限られているので、ここで見られるのはほとんどウミネコである。20分ごとに出航する船に乗り込み、ウミネコとともに尖閣湾の遊覧に出よう!

 …と、色々記載がありまして予備知識も少し得ましたので、早速、遊歩道に沿って歩いてみたいと思います(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(29)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
17-720
19-720
20-720
21-720
22-720

 御井戸には、こんな説明板がありました。

 ◆日蓮聖人『観心本尊抄』硯水の御井戸

 この井戸は日蓮聖人の霊験により掘られたと伝えられ、井戸水を硯水に使い『観心本尊抄』(題目成仏と本尊を明らかにした教義上最も重要な書のひとつ)を書かれたと伝承されます。以降、この井戸水は眼病に効く霊験あらたかな水として地域に広く知られていました。
 仏の教えは衆生の煩悩を洗い清めることから、仏法を水に例えて「法水」と呼びます。右の石塔の御題目は「南無妙(法)蓮華経」と、「法」の文字が書かれていませんが、霊験あらたかなこの井戸水を「法水」として、あえて「法」の文字を書かずに、「妙法の法水」はこの井戸にあることを表すと伝えられています。

 ついでに、ChatGPTにも〝法華堂・御井戸庵〟の歴史を尋ねて見ますと、こんな回答が帰って来ました(^-^)

 ◆佐渡島の「法華堂・御井戸庵」には、どんな歴史が? -- <ChatGPT> --

 ◇御井戸庵 — 概要
 御井戸庵は日蓮ゆかりの地で、佐渡島(新潟県佐渡市)にある「法華堂(ほっけどう)」の一つとされる庵です。
 この地は、当時の信徒であった有力な檀越(檀越屋敷)だった〝中興入道〟の屋敷跡と伝えられています。
 明治期までは古い庵だったようですが、現存の建物は、1767年(明和年間)に〝道照日宣〟法師が開基して再建したものが起源。さらに時代を経て数回改築され、現在のお堂は1997年(平成9年)に建立されたものだと伝わっています。

 ◇なぜ御井戸庵が注目されるか — “霊跡”としての意義
 御井戸庵には「井戸」があり、この井戸から汲んだ水で墨を擦り、文永10年(1273年)4月、佐渡在島中の日蓮が著したとされる教義書〝観心本尊抄〟の執筆に用いた、という伝承があります。
 つまり、御井戸庵は単なる「古い屋敷跡」ではなく、日蓮宗の教義の根幹である書物成立の場として、宗教的・歴史的な重要な“霊跡”と位置づけられています。
 また、御井戸庵は当時の檀越の邸宅であり、その後も地元の信者たちによって庵として守られてきた歴史を持ちます。

 ◇背景となる時代 — 佐渡における日蓮の流罪と布教
 日蓮は鎌倉時代、幕府から弾圧を受け流罪となり、佐渡に送られました。佐渡では厳しい配所生活を送りながらも、教えを説き、多くの信徒を得ました。御井戸庵もその時期の檀越宅の一つとして機能したと考えられます。
 流罪の間、日蓮は書物(たとえば観心本尊抄など)を著すことで教義を整理・展開し、それが後の日蓮宗の基盤となりました。御井戸庵の井戸水がその原点に関わっている、という伝承は、信徒にとって非常に象徴的な意味を持ちます。

 ◇現在の御井戸庵 — 保存と参拝
 現在の御井戸庵は、1997年(平成9年)に再建されたもので、以前からの歴史的伝承を受け継いでいます。
 佐渡島では、「日蓮聖人ゆかりの地」として多数の霊跡があり、御井戸庵もその代表の一つとして紹介されています。参拝コースの一部に組み込まれており、観光と信仰の両方の意味で注目されています。

 ◇補足 — “中興入道”と地域とのつながり
 “中興入道”とは、当時の佐渡にいた有力な人物で、念仏信者ながら日蓮の思想に触れて帰依したとされます。彼の屋敷が御井戸庵の起源である、というのが一般的な伝承です。
 また、後世(明治期以降)にも、地元の人々や僧侶によって御井戸庵は保全され、信仰の場として使われ続けてきた---これが、現代まで建物と伝承が受け継がれている背景と考えられます。

 〝法華堂・御井戸庵〟に関しましては、WEB上に色んな方々が綴っておられますけど、こんな記載もありました(^.-)☆

 ◆御井戸庵(佐渡市中興)

 --- https://ameblo.jp/goreiseki1282/entry-12902609608.html ---

 宿泊していたホテルのほど近くに、「中興(なかおき)」という信号がありました。
 中興といえば、ご遺文にもある「中興入道」を連想しますよね!
 「丈六の卒塔婆を立て…」という「中興入道御消息」は、毎日のお勤めの際に読む、馴染みのあるご遺文です。
 ちなみに「入道」という敬称ですが、必ずしもイコール僧侶ではなく、在家信者でも「入道」のケースはあるようです。ただ位の高い方に「入道」の敬称が用いられる事が多いといいます。
 中興入道も地元の有力者だったのでしょう。
 中興交差点にも能楽堂がありますね。本当に佐渡は能が盛んです。能楽堂の向かいにひっそりと「御井戸庵」というご霊跡があります。
 小さいけどお堂が建っていますね。法華堂です。「中興」という地名からもわかるように、この付近に中興入道一族の屋敷があったと思われます。江戸時代に、道照日宣法師が開基となって庵を結んだようです。
 お堂の裏側に、中興入道の御廟がありました。時代を経て摩耗した小ぶりの宝塔が、中興入道ご夫妻の墓石だと思われます。
 中興入道のお父様は次郎入道信重といい、塚原問答の際に日蓮聖人の法話を聞いて感銘を受け帰依した、佐渡では阿仏房と並んで古参の信者です。子の中興入道も強い信仰を継ぎ、はるか遠い身延山まで日蓮聖人を訪ねて行き、ご供養を尽くしたそうです。
 そのせいでしょうか、先述の中興入道御消息だけでなく、奥様宛てのお手紙などもあるそうで、日蓮聖人とご縁がとても深かったと想像できます。
 ところで、このご霊跡は「御井戸庵」でしたよね。
 井戸にまつわる逸話でもあるのでしょうか?
 実際、お堂に護られた井戸があります。現役の井戸だそうです。一ノ谷の妙照寺が奉納した法塔がありますね。
 お寺の縁起によると、井戸は日蓮聖人の霊験により掘られたもので、井戸水(奥之清水)は眼病によく効いたといいます。
 また、この奥之清水を汲んで草庵に持ち帰り、墨を擦り、観心本尊抄を著したのだそうです。
 その後の教学信仰の根幹をなす渾身の著作を、敢えて一ノ谷から直線距離で2~3kmは離れている中興の井戸水・奥之清水で書いた、というわけですから、この井戸、そして水が持つ霊力の強さが窺えます。
 大荒行を5回も成満された佐渡内他寺のお上人とお話しした際、大荒行中、お曼荼羅を書く修行の時には、中興の奥之清水をわざわざ取り寄せ、墨に足したもので書く、という逸話を教えて下さいました。
 すごくないですか!?
 御井戸庵を訪問したのは朝の6時過ぎ、まだご近所にも人の姿がなく、とても静かに参拝することができました。
 よく清められているご霊跡で、いかに佐渡の宗門の方々が大切にしているかが窺えました。

 〝法華堂・御井戸庵〟の拝観を終えますと、次は〝ホテル万長〟方面に戻り「佐渡屈指の景勝地『尖閣湾』」を観光です。
 当初の予定では、「尖閣湾海中透視船グラスボート」に乗船でしたけど、昨日・今日の荒波では、とてもムリとガイドさん。う~ん、残念(^-^;
 とにかく、〝法華堂・御井戸庵〟とお別れし〝尖閣湾〟へとバスは向かいます。
 が、真野湾に面しますキレイな海浜公園で、暫しトイレ休憩となりました。このキレイな海浜公園は〝佐和田海岸〟でありました。夏には「佐和田海水浴場」として賑わいますようであります。
 周辺を少し散策してみましたら、〝モニュメント「日時計」〟がありました。
 因みに〝日時計〟の時間は、「3↑」に影が少し掛かり右側でしたから、午後3時過ぎと思われます。
 で、おもむろにスマホで時間を確認してみますと、〝15:13〟でしたから、日時計では、まぁこんなもんかも分かりませんネ(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(28)

01-720
02-720
03-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
12-720
13-720
14-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720
21-720
22-720
23-720

 〝たらい舟〟の乗船体験観光を終えますと、佐渡市中興方面へと戻りまして「中興入道草庵跡 御井戸庵」に向かいます。
 この周辺には観光バスの駐車場がありませんから、近くの〝金井能楽堂〟の敷地内に許可を貰って駐車です(^.-)☆
 この敷地には、「金井町名誉町民 掘治部愛子夫妻之像」が…ご夫妻の像の台座には説明文がありますけど、経年劣化で読み辛くWEB上で確認です。

 ◆堀 治部(ほり じぶ)

 --- https://tamabochi.web.fc2.com/PERSON/H/hori_ji.html ---

 1906.03.28(明治39)~1985.12.21(昭和60)
 昭和期の医師、随筆家、全財産を佐渡の金井町に遺贈

 新潟県佐渡郡新穂村出身。眼科医の本間芳太郎の二男として生まれる。1923.3(T12)県立佐渡中学校卒業。'31.3(S6)北海道帝国大学医学部卒業し医師免許を取得。
 同.9 新潟県佐渡郡上中興村の堀家の一人娘の愛子と結婚。治部は大学在学中(1928)に既に愛子の母の堀シン(同墓)と養子縁組を済ませていた。結婚前に養子縁組をしたのは、治部の祖母こうは堀家から新穂の本間萬吉に嫁した人で、その孫の治部は堀家にとって血縁関係であったからである。また治部が佐渡中学校へ通学する際、自宅の新穂からでは二里(8キロ)余りもあって遠いため、一里足らずの距離にあった中興の堀家から通学をさせてもらっていた。よって、治部と愛子は幼少の頃より兄妹のような関係で仲が良かった。このようないきさつがあり、堀家では一人娘の愛子を治部に嫁がせ、堀家を委ねることを決定したという背景がある。
 '36 堀家第9代家督を相続。同年、医学博士の学位を授与された。'37 支那事変に応召され、上海戦線に参加したが、翌年除隊。除隊後、東京淀橋区戸塚二丁目(東京都新宿区戸塚町)に耳鼻咽喉科医院を開業。医師の傍ら随筆を書き、'67 随筆『四つの旅』、'79 随筆『なにとなく』を出版。
 '80 医院兼住宅の建物が古くなったことから同じ場所に改築。建て替え期間は、静岡県伊豆高原に仮住まいを建てて、一時転居。転居の数か月後、妻の愛子は発熱と下血を繰り返すようになり、検査の結果、胆のうの病気と判明し手術を受けた。手術後、一時は小康を取り戻すが、八月になると再び悪化したため、東京の病院に転居することにした。
 '81.9 建設中だった鉄筋二階建ての新居が完成。一階をコンビニに賃貸し、二階を医院兼住宅として再び開業した。一進一退の病状を繰り返していた愛子は、その後の二度に渡る手術の効もなく、'82.8.9(S57)治部の手厚い看護もむなしく、不帰の客となった。治部は医師でありながら、死の直前まで苦しみ抜いた愛子を救えなかった痛恨の思いと、医療現場の課題を、随筆『影法師』としてまとめ、'83 愛子への鎮魂の書として刊行した。
 治部と愛子は子どもに恵まれず、養子も不縁であったため、かねてから旧家である堀家の跡目が自分たちの代で絶えるのは先祖に申し訳ない、せめて二人の財産を社会のために役立てたいと話し合っていた。そこで、'79(S54)にお互いを執行人とする公正証書を作成し、二人の没後は全財産を公共のために提供する考えを固めていた。その頃、中興の留守宅の管理を任されていた藤原重次郎が、たまたま上京した折に財産提供の話を聞いて、「せっかく寄付するのなら、実家のある金井町の発展に向けてほしい」と要望した。そのことを忘れずにいた治部は、愛子の葬儀を終え、気持ちの整理もついた、'82.10.2「愛子名義の財産の内、東京都の宅地と伊豆の山林を本人の遺贈として金井町で役立てていただきたいと思うので、意向を聞きたい」旨の手紙を藤原に送った。もちろん金井町は、その厚意をありがたく受け入れることとなり、治部はいくつかの希望使途を明記した上で、自分の死後全財産を金井町に遺贈するため万全の措置を講じた。愛子が亡くなった三年後、治部も逝去。享年79歳。
 寄贈された遺産より金井町はその功績に報いるため、'83.1.1 堀夫妻に「名誉町民」の称号を贈った。堀夫妻が名誉町民第1号となる。なお第2号は東京大学名誉教授の生物学者の浅島誠、第3号は日本画家の桑原義泰である。功績を賛えるとともに、夫婦の篤志を後世に伝えるため、中興の堀家跡に「金井町文化会館」を建設し、庭園に堀夫妻のブロンズ像を設置。本格的な能楽堂も併置し、演能をはじめ文化的行事に活用。'90(H2)東京都新宿区西早稲田に賃貸オフィスビルの鉄筋コンクリート地上八階・地下一階の「堀記念ビル」を建設。ビルにはコンビニ、商社、専門学校が入居、その貸賃収入はいったん積み立て、有効に使用すべき旨の町条例が制定された。そして、この多磨霊園に金井町が管理者として堀夫妻の墓碑を建てた。なお、金井町では、堀夫妻の遺徳を賛えるため、'91.3(H3)「金井町名誉町民 堀御夫妻」を刊行し、町内全戸に配布した。
 <金井を創った百人>
 <佐渡人名録「堀 治部・愛子 全財産を町に遺贈した医師夫妻」>

 ◆堀記念 金井能楽堂

 --- https://www.japan47go.travel/ja/detail/81527b95-7082-4191-9ce0-43678bfeff6d ---
 更新日:2025.06.24

 ・世阿弥ゆかりの地に建つ能楽堂
 世阿弥の配所として知られる金井地区の能楽堂。年間を通して、演能や様々な催しが開催されています。屋内の舞台は三方を観客席が囲む配置。6m四方の檜舞台、10m前後の橋掛かり、老松を描いた鏡板から成っています。旧金井町名誉町民・堀治部夫妻の旧宅跡に建ち、夫妻のふるさとへの多大な貢献を顕彰して銅像が建てられています。

 …と、こんな掘治部・愛子夫妻でありました(^.-)☆
 県道306号線沿いの〝法華堂・御井戸庵〟の表示板設置場所から狭い通路を〝法華堂・御井戸庵〟に進みます。

 ◆中興入道草庵跡 御井戸庵
 --- http://park8.wakwak.com/~nichiren/sadonichirensyuu/niibo/oidoan/top.htm ---

 ・お寺説明文
 【聖人硯水の霊蹟】
 中興入道が草庵を建て、大聖人を迎えたという。明治4年(1767)に道照日宣法師が本庵を建立し開基した。その後何回か改築しており、現在の堂は平成9年(1997)に建てたもので、妙照寺の付属建造物である。
 ここには日蓮聖人の霊験により掘られたとされる井戸があり、眼病に効くという。この水を使って「観心本尊鈔」を表したことは有名である。

 法華堂に到着しますと、建物脇に、こんな説明板もありました(^-^)/"

 ◆御井戸庵・御井戸

 日蓮上人ゆかりの中興入道案であり、法華堂という。道照日宣法師が、明和4(1767)に本庵を建立し開基した。其の後何回か改築しており、現在の建物は平成9年の始めに立てられたものである。
 ここには日蓮の霊験により掘られたとされる井戸があり、水は目の病に良く効いたという。
 この水を使って墨をすり、彼の三大経典の一つ、「観心本尊抄」を表したことは有名である。

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(27)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720
21-720

 〝真野観光センター〟前の進路を〝赤玉石庭園〟を横目に進んで行きますと、二つの石碑が存在です。
 この石碑前を左折しますと〝真野御陵(順徳天皇御火葬塚)〟に到着ですけど、この二つの石碑は何なんでしょうネ…
 左側の石碑には、よく分かりませんけど「東宮駮駕之靈」と刻まれていますような…(違うかも)
 そして、右側の石碑も、刻まれています文字が読みにくいのですけど、部分的に「吉田松陰」と「宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)」の記載がありますから、吉田松陰と宮部鼎蔵が佐渡訪問時に詠んだ詩を刻んだ石碑のようなものなのかも…と、よく分かりませんから勝手に想像しますのみですけど(^-^)
 真野御陵参詣後には〝真野観光センター〟に立ち寄りですけど、特に求めたいモノもありませんし、トイレ休憩となりました(^.-)☆
 時間を確認しますと、もぅ正午近く。そろそろ昼食時間が到来ですけど、この辺りでは食事可能な施設も無さそうですネ…
 〝真野御陵〟とお別れし、日本海沿いを走行していましたバスは、途中から海岸沿いを離れ、北から南へ島を縦断で、到着しましたのが〝おみやげ市場「小木家」〟でありました。

 ◆おみやげ市場〝小木家〟

 --- https://www.visitsado.com/spot/detail0043/ ---

 佐渡が島、南の玄関口小木港直結のお土産、お食事処です。

 ・佐渡汽船ターミナル直結、佐渡観光の発着地
 「佐渡汽船小木港ターミナル」直結の佐渡名産を一堂に集めたショッピングセンタ-。海産物や銘酒、伝統工芸品、銘菓などがそろっています。喫茶&レストランでは、新鮮魚介を使った釜飯や定食など幅広いメニューを用意。名物は「いか釜めし」。佐渡市認証米“朱鷺と暮らす郷”を特製ダシで炊き込み、上にはイカ、エビ、ホタテなどの海の幸と竹の子、シイタケなどが彩りよく乗った逸品です。

 …と、こんな「おみやげ市場〝小木家〟」でありまして、昼食後には〝おみやげ市場〟を暫し散策後、向かいましたのが「たらい舟・力屋観光汽船」でありました。

 ◆たらい舟 力屋観光汽船

 --- https://www.visitsado.com/spot/detail0045/ ---

 気軽に体験!海上散歩「たらい舟」
 佐渡名物たらい舟と言えば「力屋観光汽船」。女性船頭さんが巧みに操る舟は、旅情を誘います。モーターボートも爽快感あり、佐渡版「青の洞窟」めぐりも人気を集めています。大駐車場、売店や軽食堂もありますのでお気軽にお楽しみいただけます。

 〝たらい舟〟ですか…今までテレビ等で観た事はありますけど、乗船は初めて(^.-)☆
 女性船頭さんのご指導を受け、漕いでみましたが、仲々思うようには進みません。「8の字を書くように漕ぐ…」との事でしたけど、一生懸命漕ぎ進むのですけど、GONsanの場合は、前に進まず、ドンドン後方へ(^-^;
 普通の「舟漕ぎ」になってしまいましたよ(^-^)
 まぁそれでも、楽しいひとときでありました(^_^)v
 この周辺の海岸沿いは、観光船で巡りますと大変美しい景観を楽しめますのでしょうけど、本日は、天候要因から観光船はお休みでしたのかも(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(26)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720
21-720

 〝妙照寺〟を後にしますと、次は、〝真野御陵〟にと向かいます。

 ◆真野御陵
 新潟県佐渡市真野の国中平野を望む丘陵地にある順徳院(順徳上皇)の火葬地跡で、正式名称は「順徳天皇御火葬塚」。
 承久の乱が失敗に終わった結果、島流しとなった順徳上皇が還京叶わず崩御された際、荼毘に付されたその跡地に松と桜を植えて目印としたもの。墓所ではないが、御陵と同格扱いで宮内庁の管理となっている。塚から徒歩20分程の場所には順徳上皇を祀った真野宮がある。

 〝真野〟地区に向かいます時間帯・ルートは、信栄バスのガイドsanのご配慮で、〝トキ〟と遭遇出来ます可能性が高い行程を組んで頂けましたようであります(^_^)v

 ◆トキ

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 トキ(朱鷺、鴇、桃花鳥、紅鶴、鴾、学名:Nipponia nippon)は、ペリカン目トキ科トキ属に分類される鳥類。本種のみでトキ属を構成する。
 かつては世界でわずか数羽になるまで減少し絶滅の危機に瀕しており、日本では環境省レッドリストで「野生絶滅」の状態にあった。しかし日中両国の保護によって、2000年代以降は個体数が回復していった。2019年時点の個体数は、中国が2,600羽、日本が600羽、韓国が363羽。
 学名は Nipponia nippon(ニッポニア・ニッポン)で、日本の国鳥ではないものの、しばしば「日本を象徴する鳥」などと呼ばれることもある。新潟県の「県の鳥」、同県佐渡市と石川県輪島市の「市の鳥」である。

 ◆佐渡の野生トキ、放鳥14年で初の500羽超え…「本州での放鳥を目指す」

 --- 2022/10/14 10:17 讀賣新聞オンライン ---

 環境省佐渡自然保護官事務所は13日、新潟・佐渡島の野生下で生息するトキが推定569羽(8月末現在)となったと発表した。野生復帰に向けて同省が2008年から実施する放鳥事業の開始以来、初めて500羽を超えた。
 生息数のうち、放鳥は151羽、野生生まれは418羽で、野生生まれが全体の7割強を占めた。
 生息数は、昨年末時点で478羽だった。同事務所は、 猛禽もうきん 類に襲われたり、寒波で死んだりする個体が少なかったことなどが増加の要因とみている。
 また、同事務所は、野生下で生息するトキ184組(前年比37組増)が営巣し、うち60組(同26組増)から133羽(同57羽増)が巣立ったと推定されるとの今年の最終的な繁殖結果も明らかにした。
 稲刈りの田んぼのそばで餌取りするなど、トキは島内で身近な存在になりつつある。同省は、野生復帰に向けた行程表で、国内の成熟個体の生息数1,000羽以上を最終目標に設定している。26年以降に石川県と島根県の2地域でも本州初となる放鳥を行う予定だ。
 同事務所の沢栗浩明・首席自然保護官は「500羽は一つの節目ではあるが、本州での放鳥を目指し、この先も取り組みたい」と述べた。

 …と、こんな〝トキ〟の現状のようであります。
 真野に向かいます途中の田んぼには、数羽のトキが…そして、実にタイミング良く飛び立ってくれましたけど、〝トキ〟の羽根の裏側の美しいこと\(^o^)/
 〝トキ〟が羽根を閉じています時には、ほぼ白一色に感じますけど、飛行中の〝トキ〟の羽根の裏側…何とも言えません美しさ。羽根の裏側が、こんなにも美しいとは、全く知りませんGONsanなのでありました(^.-)☆
 ですが、哀しいかな、その美しい姿を画像に納めます事は叶いませんでしたネ(^-^;
 車窓から〝トキ〟を眺めながら、バスは国府川を通過です。その際に、ガイドさんが、曽我ひとみさんと母・曽我ミヨシさんの拉致事件について触れられましたネ。

 >1978年(昭和53年)8月12日、曽我ひとみさんと母・曽我ミヨシさんは、旧・真野町(現在の佐渡市)で「買い物から自宅へ帰る途中」に
 >北朝鮮の工作員に拉致されたとされています。被害発生現場は自宅近辺であるとされ、市や関係者の視察記録には国府川(こくふがわ)
 >河口付近の真野地区が拉致現場の一つとして言及されています。
 >なお、警察や自治体は正確な経緯・所在の解明を続けており、細かな地点については公開情報に限りがあります。

 …との事で、「拉致された場所は、この辺りです…」と話されました際に、車窓から外に眼を移しますと〝タバコ屋〟sanの看板が見えました。
 後で、Googleマップで確認してみましたけど、この辺りでしたのかも…
 拉致されましてから、既に47年で、日本に帰国されましてから、もぅ23年経ますのですねぇ~この永い期間に想いを馳せますと、何とも言えません感慨が…
 こんなモヤモヤ感に包まれていますと、バスは〝真野御陵(順徳上皇火葬塚)〟へと到着です。バスは、〝真野観光センター〟真ん前の駐車場に。

 ◆真野観光センター
 -- 史跡の里に建つ老舗みやげ店 --
 「真野御陵」に隣接。無名異焼、各種銘菓、地酒など佐渡の名産品を幅広く取り扱っています。また、佐渡で産出される「赤玉石」は、皇居や伊勢神宮にも設置されている銘石。その美しい輝きを配した赤玉石庭園で、展示・販売をしています。食事は団体のみですが、大佐渡山脈、真野湾を眺望する喫茶があります。

 ◆真野御陵(まのごりょう)
 -- 還京叶わず佐渡に散った順徳院の火葬塚 --
 正式には「順徳天皇御火葬塚」。順徳上皇は「承久の乱」で佐渡配流となり、在島22年の末1242年、46歳で崩御。翌日、火葬され、その跡に松と桜を植え目印としたのがこの火葬塚です。御遺骨は翌年帰京。父帝・後鳥羽上皇墓所のかたわらに安置されました。火葬塚は御陵と同格扱いで宮内庁の管理。近くに順徳上皇を祀った真野宮があります。

 〝真野観光センター〟には、後で立ち寄りますので、先に〝真野御陵〟へと向かいます。が、赤玉石が所狭しと並びました〝赤玉石庭園〟には、珍しさもありまして足が止まりましたネ(^-^)庭園には、こんな案内板が…

 ◆佐渡銘石 赤玉石
 赤玉石は、日本三大銘石の一つで、両津市赤玉部落より産する良質の鉄石英を赤玉石といい、古来より赤は炎を連想させることから魔除け石といわれ、島内の各家庭でも玄関や床の間の飾りとして愛用されています。

 WEB上で〝赤玉石〟を調べてみますと、こんな記載もありました。

 ◆佐渡赤玉石とは?特徴・価値を解説!

 --- https://nikkoudou-kottou.com/blog/jewelry/12195 ---

 ・佐渡赤玉石とは?
 佐渡赤玉石は、産地である新潟県佐渡市をはじめ各地で採取される石を指します。名前からして佐渡の特産品のように思われるかもしれませんが、実は北海道や静岡県、富山県などでも採取されています。
 しかし品質としては、佐渡市で採取されたものがいちばん良いとされています。
 そんな佐渡赤玉石は、鉱物学的には石英の一種です。石英は二酸化ケイ素の結晶で、本来なら無色透明に近い仕上がりになりますが(完全に無色透明のものは「水晶」と呼ばれます)、佐渡赤玉石はその成立過程で赤みを帯びた酸化鉄が入り込むことによって、赤い色に仕上がっています。
 独特の色合いがあるということで、鑑賞石の世界では古くから珍重されてきた歴史があります。特に表面を丁寧に磨くと独特の光沢が出てつやつやした質感になるということで、高い人気を誇ります。
 また、赤い色は古くから魔を払う効果があると考えられてきた歴史があることから、佐渡赤玉石はパワーストーンのひとつとしても人気があります。

 ・佐渡赤玉石の価値
 佐渡赤玉石は、磨き上げたときの光沢や鮮やかな赤、独特の風合いもあって鑑賞石・銘石として高い人気を誇っていますが、それと同時に高い価値を持つ石でもあります。
 もちろん多くの鑑賞石・銘石がそうであるように、大きさや形状、状態によって価値は大きく左右され、数千単位の値しかつかないこともあります。
 一方で、状態が良ければ数万単位の値がつくことも珍しくありません。
 たとえばテレビのお宝鑑定番組で2つの佐渡赤玉石が同時に出品されたとき、一方は数十万円、もう一方は数百万円という大きく違うプライスが発表されたことがあります。

 ◆佐渡赤玉石ってどんな石?

 --- https://www.ne.jp/asahi/isi/akadama/setumei.htm ---

 佐渡市(旧両津市)の赤玉地区より産出されるものだけを佐渡赤玉石といいます。鉄分と石英が高熱と高圧で結合した石で、非常に硬く(硬度は6.5~7.0)磨いたときに透明感のある光沢がでます。色彩の美しさは日本一と言われて日本三大名石のひとつとされます。
 〝赤玉〟という呼び方には、二つの説があります。一つは玉のように一つずつ出てくるからだと言う説と、もう一つは玉(ぎょく)のような輝きをもつ石だから赤玉石というと言う説がありますが、現在では後者の説が一般的です。
 天正18年に真野俊隆が佐渡産の赤石を豊臣秀吉に献上したことがあり、このときは〝朱真石〟と呼んだといわれます。
 古事記や日本書紀にも赤玉の歌があり、この歌が佐渡産の赤玉石に由来するという学説をとなえる人がいるが、定かではありませんが、弥生時代より加工され、勾玉や管玉として装飾品に使われ、江戸時代にはキセルの根付などにも使われました。適度な大きさのものは、磨いても自然のままでみても良いことから観賞石や水石として珍重され、また大きなものは、庭石として使われました。庭石としては石組みに使うものではなく、必ず一石を庭や玄関等の目立つ所に置き眺める飾り石です。また古くから朱(赤)は魔を払うと言われることから、佐渡赤玉石は縁起の良い石といわれ、佐渡では家の玄関や床の間に家の守り石として飾られてきました。しかし、近年では産出量はほとんど無くなってしまい、非常に貴重な石になっています。

 真野御陵(順徳天皇御火葬塚)が近付いて来ますと、こんな説明板もありました。

 ◆中部北陸自然歩道 順徳天皇御火葬塚

 承久の変(1221年)で佐渡へ御遷幸の順徳帝は、在島22年仁治3年(1241年)9月46歳で島の行在所で崩御された。この真野山で御火葬、御遺骨は翌寛元元年(1242年)4月従臣藤原康光によって都に帰られ、大原の父後鳥羽帝の墓所の傍らに埋葬された。
 この御火葬所の地は従来「真野御領」と称されてきたが、明治22年6月京都大原墓所が陵に定められると、ここは「御火葬塚」となるが御領と同じ取り扱いをされ宮内庁で管理。
 戦国内乱期に境内は大いに荒廃したが、江戸時代延宝6年(1678年)国分寺と末寺(御領別当)真輪寺の僧の修復願出により、時の佐渡奉行曽根五郎兵衛は幕府の許可を得、翌年には方五十間の環境域復旧した。外部の石垣は明治8年相川県参事鈴木重嶺の修復になる。
 -- 環境省・新潟県 --

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(25)

01-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720
21-720

 ◆妙照寺火災発生時の一時情報
 ・妙照寺の所在地・参道・仁王門など、境内構成に関する説明(寺院公式や観光案内)。本堂・祖師堂・宝蔵・経蔵などの建物名が紹介されています。
 ・2021年12月6日の火災で「本堂・祖師堂・三十三番神堂・庫裏の4棟が全焼」したという報道。
 ・涅槃図は「土蔵(宝蔵・収蔵庫)に収蔵されていた」として、蔵は被災を免れた可能性が示唆されています。

 焼失を免れました「経蔵」脇の石段を上がった少し高い所から境内を見渡しますと、今は、再建中の本堂のみが中央に…
 2021年12月6日以前には、本堂の周りに祖師堂・三十三番神堂・庫裏・宝蔵・経蔵の建物が存在し、日蓮聖人が「観心本尊抄」を著し、「法華曼陀羅」によって教義を確立させた地として日蓮宗の霊跡であります「妙照寺」。
 永い歴史のあります古刹でも、火災が発生しますと何もかも失ってしまいます。再建中の本堂を見下ろしておりますと、改めて火災の怖さを痛感してしまいますネ。
 火災と言いますと、先月中旬(11/18)に発生しました大分県佐賀関の大規模火災。火元は空き家とも聴いていますけど、火災発生当日は、立っていられません程の強風が吹きまくっていましたとか…
 妙照寺の火災発生時も同様でしたのかも…
 境内での焚き火が目撃されていますけど、強風に煽られ一瞬のうちに燃え広がりました可能性が無い事も…
 当時の火災発生時の報道ニュースによりますと、あまりにも激しい燃えかたですから、この時期の空気の乾燥・強風等が容易に想像されてしまいます。
 思い思いに過ごしておられます皆さんを画像に納めながら、少々虚しさも抱いてしまいますGONsanでありました。
 あまり信心深いGONsanでもないのですけど、そぅは言いましても、やっぱり、焼失前に、訪れたい〝妙照寺〟でありました(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(24)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
16-720
17-720
19-720
20-720
21-720

 鈴木日教貫首からご挨拶と、〝妙照寺〟の沿革・近況等のお話しがありましてから、〝曼荼羅奉掲塔〟の前で御開帳です。
 御開帳を終えますと、主要な建物は焼失ですけど、一応、境内を拝見です。

 ◆妙照寺
 日蓮聖人が庵を結んだ名刹。「開目抄」を記した塚原の三昧堂から一谷(いちのさわ)に移り、1274年に赦免されるまでの約2年半を過ごしました。「観心本尊抄」を著し、「法華曼陀羅」によって教義を確立させた地として日蓮宗の霊跡となっています。日蓮聖人自らが山号・寺号を授けた寺としても知られ、草庵跡地に祖師堂が建っています。

 …と、WEB上には、焼失前の〝妙照寺〟のこんな記載が…
 山門正面には、どっしりとした茅葺屋根の本堂が存在しましたのでしょうけど…もっと早くに〝妙照寺〟を訪れておりましたら参詣が叶いましたのに、本当に残念ではありますネ。

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(23)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720
21-720

 バスが妙照寺に到着で、社外に出ますと、眼の前に再建中の本堂が…
 このまま進みますと本堂への最短距離となりますけど、ちゃんと参道を通りまして山門へ向かいます。この山門は、焼失を免れましたのでしょうネ…
 山門入口脇には、〝涅槃図〟と〝洛中洛外図屏風〟の、こんな説明板が(^_^)v

 ◆涅槃(ねはん)図

 --- 佐渡市指定 有形文化財(絵画) 平成16年3月1日指定 ---

 涅槃図とは、釈迦の入滅時の様子を描いた絵図のことで、釈迦の遺徳を称える涅槃会の際には寺の本堂などに掲げられ、参拝が行われる。
 この絵図は、縦3.28m×横3.58mもの巨大なもので、図面は沙羅双樹の中央の宝台に北枕、西向きに横になる釈迦を囲む諸菩薩、悲泣する仏弟子・俗衆と動物たち、上空には急ぎ飛来する生母摩耶夫人たちの姿が描かれており、画法・色彩ともに優れている。
 画中には「雪舟八代長谷川等玉信雪筆」の墨書銘と落款があり、作者は絵師の長谷川等玉であることが確認できる。

 ◆洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)

 --- 佐渡市指定 有形文化財(絵図) 平成16年3月1日指定 ---

 洛中洛外図とは、京都の洛中(市内)と洛外(郊外)の建物や四季の風景、庶民の生活の様子などを描いた風俗絵である。
 この屏風は6曲1双、縦1.55m×横.60mで、右隻に洛中の北野神社及び経堂が中心に描かれ、内裏や二条城が省かれており、佐隻の洛外には鴨川以東の様子が描かれている。建物の様子から寛永元年(1624)頃の京都が描かれていると考えられており、このことから作品の制作年代も江戸時代前期と推定されている。
 この屏風は、所蔵する妙照寺に長谷川等玉作の涅槃図(市有形文化財)が伝わっていることや、長谷川本らしき画風から、長谷川派に関連した作品と考えられている。

 山門から境内に入りますと、57世・鈴木日教貫首(横浜市戸塚区蓮久寺より晋山)が迎えて下さいました。
 境内のほぼ中央部に「曼荼羅(御本尊)を安置した石造の奉掲塔・顕彰碑」が存在です。これは焼失を免れましたのでしょうネ…
 で、この「石造の奉掲塔・顕彰碑」は何と言えばイィのでしょうね。〝法華曼荼羅奉掲塔(ほっけまんだら ほうけいとう)〟〝曼荼羅奉安塔(まんだら ほうあんとう)〟〝顕彰碑(けんしょうひ)〟…と、お寺によって色々なのでしょうけど、〝曼荼羅奉掲塔〟とでも呼びましょうか(^-^)
 本堂は再建の真っ最中ですから、本日の御開帳は〝曼荼羅奉掲塔〟の前で執り行われますのでしょうね(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(22)

01-720
02-720
03-720
04-720
06-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720
21-720
22-720

 〝妙照寺〟の当時の火災に関しましては、こんな記事もありました。

 ◆日蓮ゆかりの寺出火、佐渡 4棟全焼、消防1人けが

 --- 2021/12/06 18:58 産経新聞 ---

 6日午前11時50分ごろ、新潟県佐渡市市野沢の妙照寺から出火、地元消防によると、本堂と、「祖師堂」と呼ばれる建物など、敷地内で計4棟が全焼した。消防団員1人が消火作業の際にけがをした。
 佐渡市観光サイトによると、妙照寺は日蓮が13世紀、佐渡島に流刑となり2年半過ごした場所に建てられた。消防と佐渡署が原因を調べている。

 当時は、佐渡島で放火による火災も発生していましたとか…
 当時のご住職は、火災焼失による責任を感じられ、自殺された旨も耳にしていましたので、〝ChatGPT〟に尋ねてみますと、

 ◆質問:佐渡島の〝妙照寺〟の火災原因は、何でしたのでしょう?

 ◇妙照寺(佐渡島)で起きた火災について報じられている出火原因は、「近くでたき火(焚火)が行われていた」という「失火」の可能性が高い、というものです。
 ・背景と経過
 火災は2021年12月6日、佐渡市市野沢の妙照寺で発生し、本堂や庫裏など複数棟が全焼しました。当時の報道で、出火元は「本堂」とされ、屋根から火が上がるのが確認されたとのこと。
 また、「境内でたき火をしていた」という目撃情報があったと報じられており、それが火災の原因とみられています。
 ・ただし“確定”ではない点
 出火原因の詳細について、公式に「たき火が原因である」と最終断定された、という公的報告は私の確認できた範囲では見当たりません。
 一部報道・ブログなどでは「放火の可能性」も言及されたようですが、警察や消防は“失火”とみており「事件性は低い」とされた、との情報もあります。
 つまり、現時点で最も有力な見方は「焚火(たき火)が原因の失火」ですが、「放火だった」と断定されたわけではなく、「調査中/不詳」の可能性も残されている…というのが実際のところです。

 ◆質問:当時のご住職は、責任を感じ自殺なさったと聴きましたけど、真偽の程は?

 ◇ChatGPT:私が確認した範囲では、妙照寺(佐渡市)の当時のご住職が、「火災の責任を感じて自殺した」という報道や、公的な記録は見つかっていません。
 ・公に裏付けられた情報:火災によって本堂などが焼失したことは複数の報道で確認されています。
 2022年11月には、新たな貫首(住職)が就任して寺の“復興再建”に向けた取り組みが始まった、という報告があります。
 ・自殺の噂について -- 根拠なし
 上記の報道(火災、再建、新貫首就任)において、ご住職の“死亡”あるいは“自殺”に関する言及はありません。
 また、寺や宗派の公式アナウンス、地域報道においても、そのような事実を示す記事は確認できませんでした。
 ネット上でそのような「聴いた/聞いた話」「噂」として語られている可能性はあるかもしれませんが、それはあくまで“噂・憶測”の域を出ないようです。
 ・結論として
 現在のところ、「ご住職が責任を感じて自殺した」という説には 信頼できる根拠はなく、史実・報道としては 「確認されていない」 と言うのが正確です。
 調べた結果を端的にまとめます -- 結論から言うと、「当時のご住職が責任を感じて自殺した」という裏付けのある報道や公的記録は見つかりませんでした。

 火災が発生しました当時には、境内で〝焚き火〟をしておられ、それが、瞬く間に燃え広がりましたのでしょうネ。
 火災発生時刻は、真っ昼間のA.M.11:50頃とか…本堂は茅葺き屋根ですから、不注意な焚き火でしたのかも…

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(21)

01-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720

 佐渡金山の〝宗太夫坑コース〟〝道遊坑コース〟〝道遊の割戸〟の観光を終えますと、次は〝妙照寺〟に向かいます。
 〝妙照寺〟をWEB上で検索しますと、こんな記載がありました。

 ◆妙法華山 妙照寺

 --- https://temple.nichiren.or.jp/4031012-myoshoji/ ---

 日蓮聖人が庵を結んだ名刹。
 「開目抄」を記した塚原の三昧堂から一谷(いちのさわ)に移り、1274年に赦免されるまでの約2年半を過ごしました。
 「観心本尊抄」を著し、「法華曼陀羅」によって教義を確立させた地として日蓮宗の霊跡となっています。日蓮聖人自らが山号・寺号を授けた寺としても知られ、草庵跡地に祖師堂が建っています。

 ◆妙照寺(佐渡市)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 妙照寺(みょうしょうじ)は、新潟県佐渡市市野沢にある日蓮宗の寺院。佐渡流罪の日蓮聖人が住んだ土地で、赦免までの2年間を過ごした場所に寺院を建立した。日蓮宗の本山(霊跡寺院)。山号は妙法華山。

 -- 歴史 --
 1272年(文永09年)4月 - 日蓮、塚原三昧堂から当地に移る。
 1273年(文永10年)4月 - 日蓮、当地で観心本尊抄を著す。
 1274年(文永11年)3月 - 日蓮、赦免により鎌倉に帰る。
 1275年(建治元年) - 当山2世日静、日蓮から寺号を授かる。
 昭和20年代に日蓮宗から離脱し単立寺院となる。
 1962年(昭和37年)4月 - 日蓮宗に復帰する。
 2021年(令和03年)12月6日 - 正午前、茅葺屋根の本堂を含めて四棟が全焼。
 現住は57世・鈴木日教貫首(横浜市戸塚区蓮久寺より晋山)。通師雑司ヶ谷法縁。

 ◆新潟北 佐渡市本山妙照寺に新貫首就任

 --- 2022年11月29日日蓮宗新聞社 ---

 新北230110【新潟北】令和4年11月29日付で、佐渡市霊跡本山一谷妙照寺の第57世貫首に鈴木日教(浄元)上人(横浜市蓮久寺住職・日蓮宗全国布教師連合会会長)が就任された。
 鈴木新貫首の下、令和3年12月6日の火災で焼失した同寺の復興再建を目指し全国宗門寺院に向け浄財を募る『妙照寺復興再建勧募趣意書』を送付。同貫首より復興に向けた挨拶が次の様に述べられた。
 「妙照寺は原因不明の火災により本堂、祖師堂、三十番神堂、客殿が焼失してしまいました。全国の皆様にはご心配、ご迷惑をおかけして誠に申し訳ございませんでした。この度、法縁、檀家総代のご推挙で、令和四年十一月二十九日、霊跡本山一谷妙照寺の住職に就任いたしました。ご存じの通り、一谷妙照寺は霊跡本山で、お題目信仰者の心の支えであります。宗祖の一谷のご生活は付き添う弟子の方、七、八人いられたそうで、食も足らずに、ご苦難のご生活を二年間過ごされた場所でございます。他宗の迫害も多い中、宗祖当身の大事『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』述作、そして大曼荼羅本尊始顕の聖地であります。これからは、身命を賭して、復興に取り組み、一日も早く本堂・客殿等の建設が出来ますように邁進していきたいと思っております。全国の寺院、檀信徒にご支援ご協力賜りますよう何卒お願い申し上げます。浅学不徳の身ゆえ、行き届かない点があると思いますが、ご指導ご鞭撻賜りますようお願い申し上げます。」仮入山式は4月25日に開催予定。

 ※ 妙照寺の復興再建勧募金は、以下の郵便振替口座にて受け付けている。
   ゆうちょ銀行、口座名:妙照寺復興会、口座番号:00530-7-49411

 ◆日蓮聖人が2年半暮らした寺、ほぼ全焼…「瞬く間に燃え広がった」

 --- 2021/12/08 20:22 讀賣新聞オンライン ---

 6日午前11時45分頃、新潟県佐渡市市野沢の妙照寺から出火、消防車12台が出動して約8時間後に鎮火したが、本堂と住居部分など複数の建物をほぼ全焼した。消火作業で50歳代の男性消防団員が軽いけがをした。佐渡署が出火原因を調べている。
 市などによると、妙照寺は、鎌倉時代に佐渡島に流された日蓮聖人が2年半暮らした寺。本堂はかやぶき屋根で、江戸時代初期に再建されたとされる。
 市有形文化財の「涅槃ねはん図」と「洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)」を所有しているが、文化財が無事かどうかは確認できていないという。
 現場から北西に約350メートル離れた二宮(にくう)神社では11月22日、本殿と拝殿、社務所が全焼する火災が発生。その火災の前に、神社に火を放って回廊の高欄などを焼いたとして近くに住む男が非現住建造物等放火の疑いで逮捕されている。
 近所の70歳代男性は「瞬く間に燃え広がり、どうしようもなかった。歴史ある寺や神社を失うのはつらい」と話していた。

 …と、こんな記載で、日蓮聖人が庵を結んだ名刹であります。
 「開目抄」を記した塚原の三昧堂から一谷(いちのさわ)に移り、日蓮聖人は、1274年に赦免されるまでの約2年半を過ごしました…こんな、由緒ありますお寺なのですけど、2021年(令和03年)12月6日の正午前、茅葺屋根の本堂を含めて四棟が全焼ですから哀しいですネ。
 令和4年11月29日付で、佐渡市霊跡本山一谷妙照寺の第57世貫首に鈴木日教(浄元)上人(横浜市蓮久寺住職・日蓮宗全国布教師連合会会長)が就任され、現在、再建中でありました。
 こぅした事情もありまして、焼失前の〝妙照寺〟の画像をWEB上から集めてみますと、こんな立派な〝妙照寺〟でありました(^.-)☆

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(20)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
14-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720
22-720
23-720

 ◆佐渡小判と佐渡一分金 (佐字小判)(佐字一分金)

 佐渡に現存する唯一の鑑定書付き小判及び一分金で、享保年間(西暦1716年~1724年間)に製造されたものと言われています。小判は保存状態が極めて良い極美品で黄金色が鮮やかに残っています。小判裏面の右上端に佐渡を示す丸に「佐」の文字刻印が打刻され、小判師刻印は丸に「又」の文字、吹屋刻印は丸に「神」の文字が打刻されています。
 これらの打刻を座人印といい、筋神、利神、髙神、又神の4種に限られています。この内「又神」は稀少な組合せです。
 品位:金861/銀139 量目:小判 17.78g 一分金 4.43g

 〝展示資料館〟内を一通り拝見し外に向かいますと、売店に出て来ましたネ。
 売店前には〝宗太夫坑〟の、こんな説明板が…

 ◆国指定史跡 「宗太夫坑」

 宗太夫坑は、坑口の高さが約3メートル、幅2メートル、坑道の断面が大きい江戸初期に開坑された大型坑道である。
 鉱石の運搬機能と採掘技術が発達した1690年代(元禄時代初頭)頃の主力間歩(まぶ/坑道)の一つであった。
 部分的に残る「将棋の駒形」の小坑道、採鉱用の小さい狸穴、天井に抜ける空気坑、「釜の口」と呼ばれる坑口とその飾りなども江戸期の旧坑の諸条件を完備していて、大形の斜坑はゆるやかな傾斜で海面下まで延びている。
 脈幅・走行延長とも、この鉱山の最高最大とされる青盤脈の西端に当たる「割間歩(われまぶ)」坑の一坑区として開発された。
 平成6年(1994年)5月24日、国の史跡に指定された。

 ところで、本年4月から〝宗太夫坑コース〟と〝道遊坑コース〟とが、1枚のチケットで回れる共通チケットになりましたようですから、皆さんに付いて、次は「道遊坑コース」へ向かいます(^-^)/

 ◆【2025年】佐渡金山がチケット1枚で2つのコースを回れるようになってお得感が倍増!!

 --- 2025年4月6日 https://www.anbata-rakuiku.fun/torendo/sadokinzan-koudou-2ko-su/ ---

 ・日本最大の金山が見せる壮大な歴史ロマン
 佐渡金銀山400年の歴史を伝える史跡。宗太夫坑では、人形を使って当時の採掘作業を忠実に再現。道遊坑には、明治期以降の近代化産業遺産群が残ります。さらに「東洋一の選鉱場」「日本初の西洋式竪坑」などの産業遺産も周辺に良質な状態で保存されており、壮大なスケールに驚かされます。

 ・2025年4月から佐渡金山の宗太夫坑コースと道遊坑コースが、1枚のチケットで回れる共通チケットになりました!
 今までは、コースごとにチケットを買わなければいけませんでした。
 これだと、販売する人も大変ですし、観光する人もどっちを観ればよいのかよくわからないんですよね。
 実際私も、初めて佐渡金山を観光しに行ったときに「どっちがいいの?」と悩みました。
 説明書きはあるけど、読むのが大変だから、1枚で済ませられるのはかなりありがたいです。と言うことで、早速佐渡金山2つのコースを堪能していきます。

 …と、WEB上には、こんな記載もありましたネ(^.-)☆

 ◆道遊坑道コース(佐渡金山)

 --- 更新日:2025.06.23 https://www.japan47go.travel/ja/detail/a171ca4b-e209-4de6-84e3-f20c0ab6647b ---

 【道遊坑】
 明治32年、佐渡鉱山の主要鉱脈「道遊脈(どうゆうみゃく)」の開発を目的に開削された主要運搬坑道で、平成元年の操業停止まで使われました。
 鉱山の各主要坑道とつながっており、鉱石を積んだトロッコは道遊坑の西側にある高任坑(たかとうこう)から破砕場へ運ばれ、破砕場で鉱石を降ろした空のトロッコがこの道遊坑を経て坑内へと戻ってくるというサイクルで運搬を行っていました。

 【機械工場】
 鉱山の安定した操業には、機械類の修理等を外部に委託せずに自前で行えることが肝心でした。そのため佐渡鉱山には工作課という部署が設けられていました。ここにある工作機械類は、昭和27年の佐渡鉱山大縮小の折、北沢地区の機械工場より移設されたもので、現在でも使える機械が数多く残されています。また、機械工場の内外には、坑内で使った機械類も展示しております。

 【高任公園】
 明治期鉱業界の第一人者で、初代佐渡鉱山局長として近代化を指揮した大島高任(おおしまたかとう)の功績をたたえ、付近は「高任地区」と呼ばれています。
 高任公園からは、「道遊の割戸(どうゆうのわれと)」の雄大な全景や、江戸時代初期に佐渡金山の発見とともに栄えた最初の鉱山町跡「上相川(かみあいかわ)」、さらに相川湾の向こうには名勝「春日崎(かすがざき)」が一望できます。また、大島高任を祀った「高任神社」、「道遊の割戸」直下の大規模な採掘跡が望める展望台などが徒歩約7分の距離にございます。

 ◆佐渡金山遺跡

 --- 更新日:2025.06.23 https://www.japan47go.travel/ja/detail/d54412be-54cd-4994-ac9a-68f48668ed8c ---

 佐渡金山は、近世における日本最大の金銀山です。
 開山は1601年とされ、江戸時代に最盛期を迎え、その後明治~平成元年(1989年)の操業停止まで盛衰を繰り返しながら400年近く続いた歴史があります。
 山の中央をV字に立ち割った壮大な景観、「道遊の割戸」は佐渡金山のシンボルで、壁面にも多くの坑道跡を見ることができます。
 宗太夫坑江戸金山絵巻コースでは、「佐渡金山絵巻」に描かれている手掘りの採掘作業が蝋人形で忠実に再現されており、資料館も見ることができます。
 道遊坑明治官営鉱山コースでは、当時の姿のまま残されている坑道や、トロッコ、機械工場などを通じて鉱山の近代化の様子を知ることができます。
 「道遊の割戸」を間近に見るポイントや直下の採掘跡など金山のシンボルを堪能できるのもこのコースの魅力です。
 ガイド付 世界遺産ツアーでは、「北沢浮遊選鉱場」、「大立堅坑」といった産業遺構や、金銀山にかかわる様々な史跡や人々のくらした文化のあとが残る町中をガイドの案内で巡ることができます。
 より深く金山について知りたい方は、ヘルメット、懐中電灯を身に着け、坑道を探検する上級者向け「ガイド付 山師ツアー」に挑戦してみては?
 佐渡金山にある坑道・採掘跡、産業遺構は国の重要文化財、史跡、近代化産業遺産に指定され、世界遺産候補にもなっています。

 【国指定記念物(史跡)】
 ・名称:佐渡金銀山遺跡、道遊の割戸、宗太夫間歩、鐘楼、御料局佐渡支庁跡
 ・指定年月日:平成6年5月24日

 ◆割間歩と父の割戸(国史跡)

 正面の崖下は割間歩と呼ばれ、1601年佐渡金山開山の一つで、山師 渡辺弥次右衛門が発見したと伝えられています。
 当時の有力山師 味方但馬が開発を進め、江戸初期の主力鉱山でした。しかし、最下流に位置することから、大雨の度に坑道が水没し、水との闘いであったとの記録が残されています。
 水替人夫として江戸・大阪などから連れて来られた無宿人の宿舎跡が道路脇に残っています。
 正面の崖の山頂部には、父の割戸と呼ばれる露天掘り採掘跡があります。(写真)

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(19)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
11-720
12-720
13-720
14-720
16-720
18-720
19-720
21-720
22-720
24-720
25-720

 ◆鋳貨は後藤役所で

 延金(のしきん)の純度鑑定後は、銅気目利(どうけめきき)といい、焼き檜木で延金の表面をこすり、現れる炎の色で銅分の有無を調べる。合格した延金は、小判所戻され小判一枚の重さに荒切される。
 荒切小判は、後藤役所にまわされ打ち延ばし、大きさ、形、厚みを整えてほぼ小判の形になったら、先が線状にとがった槌でゴザ目をつける。表と裏には極印が打たれ、佐渡製造の小判にはマル佐の極印が打たれた。
 仕上がった小判は、銀を混ぜてあるので白っぽくなる。これを鮮やかな黄金色にするには、色付け薬にひたして色付け釜で焼く。さらに炭の粉を付けて水洗いし、塩で磨いてまた水で洗う。
 完成した小判は、後藤役所で最終的に目方を計り、合格したものは符印し御金蔵に納める。
 後藤役所は、江戸幕府直轄の金貨鋳造発行所で、勘定奉行の支配下にあった。役人は後藤家が代々世襲し、請負形式で金貨の鋳造・鑑定・引替・買取・監察を行った。初期には江戸、駿河、佐渡、京都にあったが、江戸後期には凡て江戸にまとめられた。
 元和8年(1622)に始められた佐渡での小判鋳造は、江戸前期に一時廃止になったが、元禄15年(1702)に再開され、その後鋳造と中止を繰返したが、文政2年(1819)完全に鋳造中止となり、以後は焼金で上納された。

 ◆道遊の割戸
 鉱脈の露頭を掘り下げた跡を割戸という。近世初期の採掘による。

 ◆お知らせ
 金塊取出し体験は中止致します。
 体験を楽しみにお越し頂いたお客様におかれましては大変申し訳ございません。
 ・重量12.5kgの本物の金塊(24K,99.99%)
 ・時価2億5千万以上(金価格20,000円/gで計算)
 ※ 金塊はケースの中で触って、その重さを実感下さい。

 ◆佐渡産の「金塊」
 佐渡鉱山では鉱石の中に金がどの程度入っているかを調べる分析を行っていました。
 昭和40年頃までは「乾式分析」を行っていたので、金粒が少しずつ残りました。その粒をまとめた金塊で、純金ではありません。おそらく金品位98%前後の金塊だと思われます。
 佐渡金山の鉱石には銀が10倍くらい含まれていたので、この様に銀塊の方が多く作られました。銀塊には銅成分も混入されている場合があるので、ピンク色の銀塊も含まれています。
 今回一枚の重さ220グラム。

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(18)

01-720
02-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720

 興味深く拝見しながら坑道を進んでおりますと、そろそろ〝宗太夫坑コース〟の見学も終わりへと近付いて来まして、坑内から外へ(^-^)
 〝宗太夫坑〟の出口には、「横引場(坑内の検問所)」の説明板が…

 ◆横引場(坑内の検問所)
 穿子(ほりこ)が坑内から運び出した叺(かます)に入った鉱石や捨石の数量を検査して、不正防止と賃金支払いの目安とした。
 叺はむしろで作った運搬用の袋のことで、一荷は五貫目(19kg)。

 そして、説明板前の橋を渡って行きますと〝佐渡金山展示資料館〟に入って行く事となりました(^.-)☆

 ◆佐渡金山展示資料館

 ・施設案内:江戸時代の佐渡金山を忠実に再現した模型を見たり、純金延べ棒の重さを体感しよう!

 <第1展示室>

 「佐渡金山絵巻」に描かれた江戸時代の佐渡金山の仕事の様子を忠実に再現。金鉱石を採掘、製錬し、佐渡小判を作るまでの工程を、絵巻に基づいて、縮尺1/10の500体の人形や模型で分かりやすく説明しています。
 
 ・模型で見る佐渡小判を作るまでの工程
 ①鉱石を選別する工程②選別された鉱石を牛で運ぶ工程③鉱石を細かく砕く工程④鉱石を石臼ですり潰す工程⑤鉱石を水で流して選別する工程(ねこ流し)⑥金鉱石を溶かす工程⑦金銀と塩を一緒に焼いて塩化銀を作る工程⑧金を圧延して延べ板にする工程⑨小判を作る工程⑩小判に刻印する工程

 <第2展示室>
 
 ・希少な佐渡小判と一分金、絵巻物の展示のほか、排水坑道の体験模型や本物の金塊に触れる体験ができます。
 ①各種大判・小判の展示②江戸時代に佐渡で作られた希少な佐渡小判と一分金③小判の製造工程の解説④時価約1億5千万以上の純金延べ棒。金の重さを体感しよう!

 …と、こんな〝展示資料館〟でありまして、ジックリと拝見しますと仲々楽しめますネ(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

10/20(月)-10/22(水)〝佐渡島三ヶ寺「根本寺・妙照寺・妙宣寺」〟参詣旅行(17)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
15-720
16-720
17-720
18-720
19-720
20-720
21-720

 坑道を進んで行きますと、〝説明板〟もありますので、当時の様子を興味深く拝見です。
 採掘作業に従事しておられます方達の姿が、実にリアルに再現されておりますから、この方達のお顔と眼が合いますと、何か話し掛けられそうでドキッとしてしまいます。それほどまでに、実に精巧な造りでありました(^.-)☆

 ◆金穿大工(かなほりだいく)の生活
 佐渡金山では、鑽(たがね)と鎚(鎚)で鉱石を掘る坑夫のことを金穿大工と呼ぶ。
 金穿大工は、坑内の労働者の中では、技術者として賃金もよく、優遇されていた。採掘は4時間ごとの交替制で、金銀山絵巻には坑内で食事や休息する姿も見られる。しかし、労働環境は悪く、一般に短命の者が多かった。

 ・江戸の流行
 金穿大工の髪型に本多風(ほんだふう)という江戸の流行の髪型が見られる。島外の人々の出入りも多く、鉱山町の風俗にも大きな影響を与えた。

 ◆水替人足(みずかえにんそく)と無宿人(むしゅくにん)
 江戸時代の中頃から地中の鉱石を求めて坑道がますます深くなると、水揚機の使用がままならず、手繰り水替による人海戦術見直された。
 水替人足の労働時間は、隔日交替の一昼夜勤務ときつかったが、賃金はよかった。しかし常に人員不足で、安永7年(1778)より、江戸・大阪・長崎などの無宿人を受け入れるようになった。

 ・無宿人
 親に勘当されたり放浪していて、宗門人別帳(戸籍)から除外された者で、無罪の者。後に有罪者も混ざるようになる。
 幕末までの100年間に、1,874人が佐渡に送られてきた。

 ・無宿人の賃金など
 1日当たり:飯米1升2合、味噌・醤油・野菜など、塩代・小遣いなど
 そ の 他:年間仕事着、簑・笠代、蒲団代支給

 ◆探鉱坑道
 鉱脈のことを立合という。金鉱脈を探して水平に、あるいは上に下に掘り進んでいく。
 鉱脈に当たらない場合は、脈の方向を推定して、直交する向きに開削していく。小規模なものを切山といい、高さも幅も、かろうじて人が出入りできる程度のものであった。

 ・良質の鉱石(銀黒)
 黒い縞模様の中に金の微粒子が含まれている。

 ◆採掘作業
 金穿大工は、鑽を上田箸(うえだばし)ではさみ、鎚で打つ。上田箸は、短くなった鑽をつかむことができ、しかも手元の安全を守るのにも役立った。
 鑽は2日で1本消費する。くなった鑽は、坑外の鍛冶小屋に運ばれ再生される。
 掘った鉱石は、大工頭が品質を確認し、区分けして運び出される。

 ・上田箸
 鑽をはさむやっとこ。信州上田から来た山師、上田久二が考案した道具。

 ◆間切改(けんぎりあらた)め
 間切りとは、長さ・幅・高さを決め、見積もりを立て掘った大規模な探鉱坑道のことで、奉行所が請負業者に発注する。掘られた間切は、発注通りか、またどれだけ進んだかを検査する。この検査を間切改めという。
 間切改めは諸役人、山師、振矩師(ふりがねし)で行う。紙のこよりを固くよって作った「てへん」というかぶものをしているのが、役職をもつ者。

 番所役:各間部(採掘坑)の管理役、山師:鉱山経営者、振矩師(ふりがねし):測量師、目付役:役人の監視、山方役:金鉱山を支配する山奉行、間切請:坑道掘りを請け負うもの

 ◆捨石も選られ精錬所へ
 江戸時代の中頃には鉱石が減少し、一旦捨てた柄山(鉱石を含まぬ捨石)も回収し、粉成し製錬されるようになった。これらは捨石や拾い石を専門に製錬する外吹買石(そとぶきかいいし)という製錬業者のところに運ばれていった。
 上部の狸穴とは、細い鉱脈をたどりながら大きな鉱脈をさがす坑道で、腹ばいで移動しなければならなかった。

 ・労働者の装束
 重労働者は褌姿や諸肌脱ぎであったが、一般には、細く裂いた木綿布を横糸に縛り込んだ裂織という着物に荒縄帯、頭には布のかぶりものをしていた。

 ・荒縄の帯
 落盤事故などの時、救助されるまで藁をかみ、命をつなぐためのものであった。

 ◆間歩(採掘坑)開きの祝い
 背後の壁面の縞模様が立合(鉱脈)。金銀を多量に含む黒い縞がくっきりと浮かぶ富鉱帯を大発見した。
 前途を祝し、今まさに、間歩(採掘坑)開きの祝いが始まったところである。
 採掘を請け負った山師と金児が見守るなか、棚の上では、佐渡金山に伝わる独特の祭礼「やわらぎ」が演じられている。

 ・やわらぎ
 硬い岩盤が少しでも和らぐようにと祈る神事で、山の神の心を和らげるとの意味もある。
 〝歌詞〟♪岩の出先に 三階松植えて 鶴が黄金の 巣を掛ける

 そぅそぅ、WEB上で〝佐渡金山のリアル過ぎる人形〟を検索してみましたら、こんな記載がありましたけど、有料記事で一部のみしか読めませんでしたネ(^-^;

 ◆佐渡金山にリアル過ぎる人形 65体のモデルはあの人

 --- 2021年2月21日8時00分 朝日新聞 ---

 地底の金鉱石を手作業で掘る金穿(かなほり)大工、わき出る水をくみ出す水替人足…。江戸時代の採掘の様子を再現した佐渡金山の観光坑道。そこで働く65体の人形たちの表情が妙に生々しい。彼らの顔のモデルとなったのは、金山と関わりのある実在する人びとだった。
 1月末、佐渡金山の宗太夫(そうだゆう)坑。気温10度の坑道では天井の岩盤を支える坑木の交換作業が行われていた。国の史跡に指定されているため、作業は「山留普請(やまどめふしん)」と呼ばれた江戸時代と同じ工法が採られ、すべて人力だ。
 延長約280メートルの坑道では、11カ所で江戸時代の採掘風景が再現されている。狭い木製の足場で鉱脈に向かってたがねを打ち込む者、鉱脈の位置を測量術を使って調べる者、採掘の安全を祈願する者。等身大で当時の服装のまま働く彼らはすべて人形だ。暗い地中で無理な姿勢のまま石粉にまみれた当時の重労働がしのばれる。
 観光客らが近づくと、センサーが感知し、人形が動き、しゃべり出す。休憩所で休む者はつぶやく。「早く外へ出て酒が飲みてぇ」

 -- マネキンの外国人顔、不評で --
 佐渡金山の管理運営会社「ゴールデン佐渡」によると、人形が設置されたのは1970年という。だが、当初は既製品のマネキン人形を置いたところ、不評だったため、頭の部分を作り直した。改修時期は特定できない。

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)
QRコード
QRコード
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ジャンル(絵日記)
日常生活を通じて眼にしたこと、感じたこと、出掛けた先の景観…等を、備忘録代わりに絵日記として綴っております(^-^)/"
ギャラリー
  • フィリピン南部沖で地震発生…日本への津波被害が危惧されましたけど…
  • 今回は、5/17(日)に「第59回〝福山ばら祭2026〟」行きのGONsanでした(^.-)☆(04)
  • 今回は、5/17(日)に「第59回〝福山ばら祭2026〟」行きのGONsanでした(^.-)☆(04)
  • 今回は、5/17(日)に「第59回〝福山ばら祭2026〟」行きのGONsanでした(^.-)☆(04)
  • 今回は、5/17(日)に「第59回〝福山ばら祭2026〟」行きのGONsanでした(^.-)☆(04)
  • 今回は、5/17(日)に「第59回〝福山ばら祭2026〟」行きのGONsanでした(^.-)☆(04)
  • 今回は、5/17(日)に「第59回〝福山ばら祭2026〟」行きのGONsanでした(^.-)☆(04)
  • 今回は、5/17(日)に「第59回〝福山ばら祭2026〟」行きのGONsanでした(^.-)☆(04)
  • 今回は、5/17(日)に「第59回〝福山ばら祭2026〟」行きのGONsanでした(^.-)☆(04)
  • 今回は、5/17(日)に「第59回〝福山ばら祭2026〟」行きのGONsanでした(^.-)☆(04)
  • 今回は、5/17(日)に「第59回〝福山ばら祭2026〟」行きのGONsanでした(^.-)☆(04)
  • 今回は、5/17(日)に「第59回〝福山ばら祭2026〟」行きのGONsanでした(^.-)☆(04)
  • 今回は、5/17(日)に「第59回〝福山ばら祭2026〟」行きのGONsanでした(^.-)☆(04)
  • 今回は、5/17(日)に「第59回〝福山ばら祭2026〟」行きのGONsanでした(^.-)☆(04)
  • 今回は、5/17(日)に「第59回〝福山ばら祭2026〟」行きのGONsanでした(^.-)☆(04)
  • 今回は、5/17(日)に「第59回〝福山ばら祭2026〟」行きのGONsanでした(^.-)☆(04)
  • 今回は、5/17(日)に「第59回〝福山ばら祭2026〟」行きのGONsanでした(^.-)☆(04)
  • 今回は、5/17(日)に「第59回〝福山ばら祭2026〟」行きのGONsanでした(^.-)☆(04)
  • 今回は、5/17(日)に「第59回〝福山ばら祭2026〟」行きのGONsanでした(^.-)☆(04)
  • 今回は、5/17(日)に「第59回〝福山ばら祭2026〟」行きのGONsanでした(^.-)☆(04)
  • 今回は、5/17(日)に「第59回〝福山ばら祭2026〟」行きのGONsanでした(^.-)☆(04)
アーカイブ
プロフィール

 ・名前 GONsan
 ・年齢 大人
 ・性別 男子
 ・地域 広島県福山市
 ・星座 牡牛座


GONsan's ホームページ 「日本全国通過旅」


Since '96/01/01

 
GONsanの「気まぐれ独り言」 - にほんブログ村

↓ 何となく笑えます(^.-)☆








↓ 落書きですけど、お上手ですネ(^_^)v









↓ 今は亡きGON子です

にほんブログ村 写真ブログ 日常写真へ
にほんブログ村


  • ライブドアブログ