旅の景観・話題










どなたかのホームページを覗いておりましたら、笠岡市の「白雲大社」の紅葉の景観を、大変キレイに画像に納めておられました(^.-)☆
ふ~ん、笠岡市にはこんな立派な大社がありますのですねぇ~
で、早速、紅葉の見頃は過ぎ去っていますのかも分かりませんけど、11/30(火)の午前中は、紅葉を求めて『白雲大社(笠岡市)』を散策となりましたGONsanです(^.-)☆
白雲大社の駐車場に到着しますと、駐められた車は1台もありません(^-^; やはり、紅葉の見頃は過ぎ去りまして、訪れます方は一人もおられませんのかも…
それでは、散策前にWEB上で「白雲大社」を事前学習です(^.-)☆
◆白雲大社
--- https://shirakumotaisha.com/ ---
◇由緒
主斎神:大国主大神(おおくにぬしのおおかみ) <縁結びの神様>
白雲大社の前身は、開祖堀泰一朗により昭和10年10月23日に朝鮮の釜山で開かれた「神道大教出雲教釜山教会」です。
終戦により、昭和20年9月19日、開祖は28年間住み慣れた釜山を引き上げ大神様を捧持し大勢の家族と共に九州の唐津に上陸しました。その地で“中国は笠の地に斎き祀れ”と云う御神示を受け、中国地方の笠岡を大神様の鎮まれる永遠の御聖地と定められました。
◇開祖《古乃美教の誕生と歴史》
古乃美教の使命
◇御本殿--白雲大社
◇主斎神--大国主大神
◇開祖殿--白梅宮
◇開 祖--堀 泰一朗
今、私達は混沌とした社会の中に生きています。
現代人は祖先達が長年培って来た精神文化をなおざりにして科学万能社会に走り盲信し、又さまざまな誘惑に心奪われ、醜い欲の争い事が絶えない世の中になってしまいました。
誰もがこのままではいけないと思う良心を持ちながら、日々の仕事に追われ流され、心の目を閉じたまま過ごしています。今こそ人は人間本来の良心に立ち返って自らの修養に努め、神より授かった命を尊び、人と人とが互いに感謝し拝み合える心、神我一体の境地になって創(はつ)の代に、すなわち美しい神の国を再び作り修め固め成さなければなりません。
古乃美教団は、開祖・堀泰一朗(ほり・たいいちろう)大先生が一代で築いた。
明治30年(1897)9月26日、新潟県新井町(現、新井市)に命を授かり、生まれながらにして優れた霊的能力を持ちながらも、幼少時から幾多の辛苦に見舞われ、その苦難を悉く乗り越えた。
その時、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)より、『創(はつ)の代に還せよとの大御心を体して起てよ。汝、神の名に於いて為さんとしても成らざるもの無し。汝の与えるものは神も与え、汝の取らんとするものは神も又取らん。もし汝の力を問う者あらば答えよ。上に天なし、地に底なし、広さを問わば果てしなし。汝の言行は見えざる神の証なり。汝の魂は護国の神たれ。』との御神命を受け、昭和10年10月23日釜山において開教したのである。開祖38歳の時であった。
以来、開祖は大神より授けられた偉大な「吹気の神業」(いぶきのかむわざ)を以て、世の荒波に苦しむ者たちを救い導き、神の実在を世の人々に示現し、また皇室の弥栄・国家の安泰・全世界人類の平和と幸福という大いなる祈りを終生捧げ続けた。
特筆すべきは、この神業を万人に分かち与えて其の拡充を計り、以て真の神国を再建せんと努力されたことである。昭和56年11月20日開祖様は神となられた。
◆笠岡の出雲さん 白雲大社
--- https://www.facebook.com/konomi101023/ ---
笠岡市の応神山にある神社です。
大国様(大国主大神)を主斎神として、古くは「山陽の出雲さん」と呼ばれ親しまれました。
岡山県笠岡市笠岡958-4の応神山宮地にある神社です。
大国様(大国主大神:おおくにぬしのおおかみ)を主斎神として、境内には摂末社合わせ14社の御社があります。古くは「山陽の出雲さん」と呼ばれ親しまれていました。※ 島根まで参らなくても出雲の神様に参拝できる為。
…と、こんな「白雲大社」のようであります。
それでは、散策スタートです(^-^)//"
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この観光ガイド…「まきび記念館」で貰いましたけど、真備町には訪れて見たい場所は、まだまだ色々ありますネ。金田一耕助ゆかりの地を歩いてみますのも楽しそうですねぇ(^.-)☆
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駐車場まで戻って来ますと、再度、「箭田大塚古墳」を眺望です。
古墳の裏側(北側)には公道を挟んで駐車場がありましたけど、ふ~ん、こぅして見ますと、裏側には病院がありましたようですネ。
病院の前に、こんもりとした小さな山。古墳を設けるためにわざわざ山を造った訳でもないのでしょうから、古代の昔から存在したこの山を古墳として利用しましたのでしょうねぇ~
改めて駐車場の周りの埴輪に眼を向けますと、中には壊されたモノも…心無い人に壊されましたのでしょうか…それとも、当初からこんな形で置かれましたのかも…
それでは、我が家に帰ろう(^-^)//"
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古墳周辺も散策しましたので、それではこの辺で「箭田大塚古墳」とお別れです。ノンビリと畦道を駐車場にと戻っておりますと、この周辺にはまだまだ色んな古墳があるのでしょうから、また訪れて見たい気持ちも生じましたネ(^-^)//"
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「まむしに注意」への怖さはありますけど、やっぱり円墳の周辺を散策してみます事に(^-^)
古墳入口の右側を奥(北方向)に進みますと、スグに公道へ出てしまいました。公道脇には、近くの事業所の社員san用の駐車場なのでしょうネ…15~17台の車が駐まっておりました。古墳を訪れますには、こちら側からでも来れますようです。竹藪を抜けた辺りに数台駐車が可能のようでした(^-^)
また引き返して、「箭田大塚古墳」の説明板まで戻り周辺を見廻してみますと、この説明板の後方、奥の方に別の説明板らしきモノが…
で、またまた、マムシに注意しながら進んでみますと、チョッとした広場の片隅に『箭田大塚古墳出土遺物』の説明板が…ふん、ふん、こうしたモノが古墳から出土しましたようですネ(^-^)//"
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古墳の周りを散策してみたいのではありますが、「まむしに注意」の表示板が脳裏をチラホラ(^-^;
古墳周りはほどほどに散策で、古墳内に入ってみます事に…入口には、格子の扉で、おまけに鍵でロック。とても中には入れません(^-^; 格子の間から覗いてみるのですけど、真っ暗で何にも見えません。う~ん、残念(^-^;
ですから、挿入しています石室内の画像は、「倉敷観光WEB(https://www.kurashiki-tabi.jp/blog/13341/)」sanからのパクリなんであります(^.-)☆
「岡山県三大巨石墳」と言われますだけあり、石室内は大変広そうですネ(^_^)v
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それでは、『← 箭田大塚』の案内標識に従って「箭田大塚古墳」に向かってみます事に(^.-)☆
でも、この標識、田んぼの畦道を進めと支持していますねぇ~まぁ、従って進んで行きましょうか(^-^)
◆箭田大塚古墳(やたおおつかこふん)
箭田大塚古墳は長大な横穴式石室を有することで知られており、岡山市・牟佐大塚古墳、総社市・こうもり塚古墳とともに、岡山県三大巨石墳の一つに数えられています。石室全長は19.1mを測り、棺を納める玄室の長さは8.4m、高さ3.8m、幅3.0mで、天井は4枚、奥壁は1枚の巨石でそれぞれ構築されています。埋葬施設としては、奥壁と西壁を利用して3基の組合せ式石棺がつくられています。
明治34年に行われた現地調査では、単鳳環頭大刀柄頭(市指定重要文化財)などの武器をはじめ、馬具や玉類等の副葬品も多数発見されました。また、昭和58年の範囲確認調査で検出された周溝により、古墳は直径約50m(周溝含む)の円墳で、西側に長さ5m程度の張り出しを持つことがわかりました。この時出土した須恵器等の遺物から、古墳は6世紀後半頃に築造され、7世紀初頭まで追葬が行われたと思われます。
種別:国指定・史跡
所在地:倉敷市真備町箭田
所有・管理者:倉敷市
指定年月日:昭和4年12月17日(平成4年12月18日追加)
◆箭田大塚古墳(やたおおつかこふん)
県下三大巨石古墳の一つで、内部にある石室は、巨大ないくつもの石を精密に組み合わせた横穴式の大空間で、入口の羨道とその奥の玄室に分かれています。6世紀後半の築造と考えられており、直径54m、高さ7mの円墳です。
◆箭田大塚古墳
--- 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
箭田大塚古墳(やたおおつかこふん)は、岡山県倉敷市にある古墳。
・概要
岡山県における三大巨石墳(他に牟佐大塚古墳、こうもり塚古墳)の一つで、6世紀後半から7世紀に築造された。明治34年(1901年)に初めて学術調査が行われ土器・刀剣・馬具・金環・勾玉等が発見された。これらは現在、東京国立博物館などに所蔵されている。昭和4年(1929年)12月17日、国の史跡に指定された(平成4年(1992年)12月18日追加指定)。
従来、張り出しがあるために、前方後円墳ないし、それに準ずる帆立貝形古墳と思われていた。しかし、昭和58年(1983年)の実地調査で周濠が確認され、張り出しを持つ円墳であることが確定した。墳墓の大きさは直径54メートル、高さ7メートルである。横穴式石室は羨道と玄室から成っており全長は19.1メートルである。玄室は長さ8.4メートル、幅3メートル、高さ3.7メートルで天井石は4枚の巨石で構成されている。石室内に3基の組み合わせ式石棺が置かれている。
・箭田大塚古墳(やたおおつかこふん)
歴史・旧跡
6世紀後半の築造と考えられる県下三大巨石古墳のひとつ。内部にある石室は、巨大ないくつもの石を精密に組み合わせた横穴式の大空間で、入口の羨道とその奥の玄室に分かれています。
明治34(1901)年の調査で、須恵器や土師器のほかに、権力の強大さを示す刀剣・馬具・金環・勾玉などが発見されました。
石室全長は19.1m、うち玄室の長さ8.4m、幅3m、高さ3.8m。従来は前方後円墳とか帆立貝式古墳などと言われてきましたが、昭和58年の確認調査で周溝が検出され、直径54m、高さ7mの円墳であることが判明しています。
◆古代を覗いてみませんか…箭田大塚古墳
箭田大塚古墳・国指定史跡、昭和4年12月17日
箭田大塚古墳は県下3大古墳の一つで、全国的にも有名です。中に入ると大きな石に圧倒されます。6世紀後半から7世紀にかけ造られ、内部の石室は巨石を用いた横穴式で、入口の羨道とその奥の玄室からなっています。玄室の石棺3基のうち2基は追葬されたものです(真備町ウエルカム観光ガイド資料より)まずは写真をご覧ください(写真省略)。
…と、WEB上で箭田大塚古墳を検索してみますと、色んな記載がありました(^.-)☆
畦道を進んで行きますと、山の麓に石段が…うん、うん、この石段を上がれば到着ですネ。ですが、石段を上がりきりますと、いきなり『まむしに注意』の看板ですから、もぅテンションが下がってしまいます(^-^;
でも、引き返す訳にも行きません、真ん前に『史跡 箭田大塚古墳』が見えるのですから(^_^)v
まずは、古墳の周りを拝見です。近くには、「箭田大塚古墳」の説明板が…これには、こんな記載が(^.-)☆
◆箭田大塚古墳
国指定史跡
昭和4年12月17日指定
箭田大塚古墳は、古墳時代後期に造られた直径約50mの円墳で、長大な横穴式石室を有することから、岡山市・牟佐大塚古墳、総社市・こうもり塚古墳とともに、岡山県三大巨石墳の一つに数えられています。石室全長は19.1mを測り、棺を納める玄室の長さは8.4m、高さ3.0mで、中には3基の組合せ式石棺が置かれています。
明治34年(1901)に行われた調査では、武器や馬具に加え玉類などの副葬品が発見されており、その多くは東京国立博物館に所蔵されているほか、一部は吉備寺にも保管されています。その後、昭和58年(1983)に保存を目的とした確認調査が行われ、墳丘の周囲を巡る周溝が確認されたほか、各種須恵器や形象埴輪、鉄鏃、鉄釘などが出土しました。この調査により、古墳の築造時期は6世紀後半頃で、墳形は北西側に張り出しをもつ円墳であることが分かりました。
--- 倉敷市教育委員会 ---
…と、こんな記載でありました(^-^)//"
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「吉備公産湯の井戸」に隣接の田んぼでは、ノンビリと田植え風景が…マイペースで、ノンビリと楽しそうに田植機を操っておられます様子が、心地よくGONsanには映ってしまいましたネ(^.-)☆
「吉備公産湯の井戸」を充分拝見致しましたので、ソロソロお別れし、最後に「箭田大塚古墳」に向かってみます事に(^.-)☆
岡山県道54号倉敷美袋線に戻り、これを少し北上しますと、県道沿いに『← 箭田大塚』の標識が…このスグ近くには広々とした駐車場がありましたから、ここに車を駐めて「箭田大塚古墳」向かえばイィようであります(^_^)v
駐車場のフェンス際には「倉敷市真備町観光案内図」が…そして、その傍らには埴輪が(^-^)
ここばかりで無く、駐車場を囲みますように、要所要所に埴輪が存在です。
暫く「倉敷市真備町観光案内図」に眼を向けておりましたGONsanです。こぅして観光案内図に眼を向けておりますと、この周辺には、まだまだ出掛けてみたい箇所は沢山ありますネ。また機会がありましたら…と言うより、機会を見つけて訪れてみたいものであります(^_^)v
それにしましても、結構、埴輪が設置されていますけど、心ない人に持ち去られる事はないのでしょうか…そんな心ない方がおられませんから、こぅして埴輪が存在していますのかも分かりません(^-^)//"
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「吉備公産湯の井戸」に向かいますと、スグ近くに「吉備公館址」がありましたので、まずは先に、そちらを拝見です。とは言いましても、「吉備公館址」の石碑と、ラテン語らしき文字で書かれた顕彰碑のみで、何にも無いのですけどネ(^-^)
「吉備公館址」をWEB上で検索してみますと、こんな記載が…
◆吉備公館址
--- https://tabioka.com/ruins-of-birth-place-kibi-no-makibi/ ---
吉備公産湯の井戸から50m程南の道路脇に吉備公館址と刻まれた石碑とその隣に何故かラテン語で書かれた石碑が建っている。この付近は吉備真備の父下道圀勝氏の館が有った跡あるいは吉備公の御家人の子孫が住んでいた跡ともいわれている。
◆吉備公館址概要
--- https://www.okatabi.com/mabi/yakata.html ---
・吉備公館址
この地は吉備真備が生まれた地と伝えられる場所で、近くには真備が生まれた時に使ったという産湯の井戸が残されています。真備はこの地域の有力豪族で、唐に留学後は聖武天皇や光明皇后から寵愛され朝廷内で大きな影響力を持ちました。政敵であった藤原仲麻呂との抗争に敗れると左遷されますが、再び唐に渡り学者として登用されるようになり、天平神護2年(766)、悪政を敷いた藤原仲麻呂を排除して右大臣として復権しています。
◆吉備公館址と真備公産湯の井戸
--- https://www.kurashiki-tabi.jp/blog/13015/ ---
その<真備公>が生まれた屋敷跡とされているのが、真備町の<吉備公館址>です。いまは屋敷などはなく、道端に明治33年建立された<吉備公館址>という自然石と、なぜかラテン語で書かれた<真備公>の顕彰碑があるだけです。
<真備公>はこのあたりで生まれたのか、と感慨あらたに歩いていると、まさにそれを裏付けるような<真備公産湯の井戸>がありました。<吉備公館址>からわずか10mばかりのところです。
<真備公産湯の井戸>は中国風の朱塗りの建物を真ん中に小さな公園になっていて、建物の下にコンクリートで密閉された井戸があります。井戸の中は覗き込んでも見えませんが、地元の人によると清水が湧き出ていて、その水は3mばかり離れたところの蛇口から出るようになっています。水は少しぬるめでした。
◆吉備公館址(岡山県倉敷市真備町箭田)
--- http://tansaku.sakura.ne.jp/sp/walk_kodai/kodai_okayama/kibikou_yakata.html ---
吉備公廟がある「まきび公園」から一旦国道486に出て東へ、まもなく案内板がある所を北に進むといいよ。
産湯が目に入り、その手前に館址の碑があります。
公は生まれつき聡明であったので神童と呼ばれ、特に学問を好み一を聞いて十を知るという才人であったと云われています。
この地は、昔天原(てんばら)といい、吉備公の御館があった所で、真備が生まれる前夜この井戸へ星が落ちたので、星の井と言われるようになりました。
この井戸の水が公の産湯に使われ、子酒川(しさい:またの名を子洗川)と名づけられました。駐車場があるのが嬉しい、水が出る蛇口があったらしい。
◆吉備公館址
--- https://www.facebook.com/mabisenjo/posts/2851321448518267 ---
真備陵南高校から北に進んでいくと、中国風の建物が見えてきます。ここが『吉備真備公産湯の井戸』です。真備町写真洗浄会の会場からは徒歩10分ほどです。
現地の説明によると、
吉備公の御館があったところで、吉備真備が生まれる前夜に井戸へ星が落ちたので星の井と呼ばれるそうです。この井戸の水を吉備真備の産湯に使ったので、「吉備真備公産湯の井戸」と伝わっているそうです。
この井戸の近くには、「吉備公館址」の碑とラテン語で書かれた「吉備真備顕彰碑」があります。
真備町のお隣り矢掛町にある吉備真備公園も吉備真備公の館址で、産湯の井戸もあります。
…と、こんな「吉備公館址」のようであります(^.-)☆
それでは、「吉備真備公産湯の井戸」へ。
ここには、説明碑がありまして、これには、こんな記載がありました。
◆吉備真備公産湯の井戸
この地は、昔天原といい、吉備公の御館があった所で、真備が生まれる前夜、この井戸へ星が落ちたので、星の井と言われるようになった。
この井戸の水が公の産湯に使われ子洒川(しさいがわ)(またの名を子洗川)と名付けられた。
公は生まれつき聡明であったので神童と呼ばれ、特に学問を好み一を聞いて十を知るという才人であったと伝えられている。
公の遺徳を偲んで、産湯の井戸を整備したのを記念してこの碑を建立したものである。
---平成2年3月 建立 真備町 ---
…との事であります(^-^)//"
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まきび公園の中国風庭園まで下りてきましたので、また池の周辺を散策です(^.-)☆
池に水を注ぎますのは三頭の龍なんですねぇ~これを横目に「まきび記念館」方向に進んでいますと、茶室が…屋根下に表示がありますので見てみますと、「竹茶庵」?…
WEB上には『竹葉庵』と記載が…GONsanには「竹茶庵」に見えるのですけど、『竹葉庵』と書いてありますのでしょうねぇ~
◆竹葉庵
茶室『竹葉庵』は、まきび公園内、まきび記念館の隣にあります。
※ H29年度より茶室管理はまきび記念館が管理しております。(お問い合わせはまきび記念館にお願いします)
…と、WEB上にはこんな記載がありました。
ノンビリと歩いていますと、喫茶や食事も出来る「たけのこ茶屋」前の駐車場まで戻って来ました。喉も渇きましたので「たけのこ茶屋」で何か求めます事に(^-^)
入口を入りますと、スグに眼に入りましたのがソフトクリーム。で、早速、ソフトクリームを(^.-)☆
「まきび公園」には、約1時間半ばかりの滞在となりましたけど、今から「吉備真備公産湯の井戸」と「箭田大塚古墳」に立ち寄り、帰路につきたいと思います(^-^)//"
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拝殿まで戻り、そして通り過ぎ、鳥居方向に戻って行きますと、こんな所に狛犬が(^.-)☆
拝殿に到着まで眼に入りませんでしたから、「そぅ言えば、神社なのに狛犬がいないなぁ…」と何気なく思っていたのですけど、帰路でヤッと気付きました。こんな場所に存在しますと、何気なく歩いておりますと見逃してしまいますネ(^-^;
鳥居をくぐり暫く進みますと、往路でも眼に入りましたけど、参道脇に『御大典記念神木・招霊の木(おがたまのき)』が…
WEB上で「御大典」の意味を調べてみますと、
★だいてん【大典】
①重大な儀式。大儀。大礼。「即位の大典」
②重要な法典。大法。「不磨の大典」
③律令制で、大宰府の主典(さかん)で少典の上に位するもの。…と、ありましたから、「昭和天皇御大典記念神木」ですネ。
★昭和天皇御大典記念神木
--- グーグルマップ https://maps.google.com/?cid=5113018254012924442 ---
・昭和天皇の御大典は昭和3(1928)年11月10日。
・「おがたまの木」-- 天照大神が天岩戸に隠れた時、天岩戸の前で舞った天鈿女命が手にしていたとされる木。御神木としてはポピュラーな木です。
…と、こんな記載がありました。昭和天皇の即位が1928年と言う事は、既に93年ばかり経ていますのでしょうけど、93年もの年月の流れを感じさせますような木でもありませんでしたネ。
「おがたまの木」は、成長が遅いのかも(^-^)
◆オガタマノキ
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
オガタマノキ(黄心樹・招霊木・小賀玉木 学名:Michelia compressa)は、モクレン科オガタマノキ属の常緑高木。日本に自生するモクレン科では唯一の常緑樹である。別名オガタマ、トキワコブシ。
大賀玉の木(おがたまのき)と呼ばれる正月の飾りは、別の種類の木(文化の項目参照)。
・特徴
葉は倒卵状楕円形でやや肉厚の革質、表面には強い光沢がある。2-4月にかけて芳香の強い直径3cmの花冠が帯黄白色で基部がやや紅紫色を帯びた花を、枝の先端近くの葉腋につける。通常樹高は10-15mの高木であるが、樹齢数百年を閲した木には20m以上に達するものも少なくない。また、ミカドアゲハの食樹としても知られている。
・分布と近縁種
日本列島の本州の関東中南部以西と四国の海岸部、九州の低地、南西諸島に分布し、原名変種は日本固有。八重山にはタイワンオガタマ(var. formosana Kanehira)があり、この種は台湾、フィリピンにも分布する。ただし、別種とする判断もある。
日本では中国原産のカラタネオガタマ(別名、トウオガタマ M. figo(Lour.)Sprengel)が栽培されることが多く、オガタマノキよりも出合う機会が増えている。
…と、こんな「招霊の木(おがたまのき)」で、『樹齢数百年を閲した木には20m以上に達するものも少なくない』との事。と、言う事は、樹齢93年程度ですから、まぁこんなもんなのかも分かりませんネ(^.-)☆
…と、こんな事を考えております内に、まきび公園を見下ろせます場所まで戻って来ましたネ。平日ですから、訪れます方も無く寂しい八田神社でありました(^-^)//"
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八田神社拝殿の裏側に廻ってみますと、小さな祠が…そして、この祠の後方には竹林の中に道が続いておりまして、その先に眼を向けますと、なにやら「あずまや」らしき建物が…
人気も無く、普段、あまり誰も訪れそうにも思えません周囲の環境ですけど、せっかくですから進んでみます事に(^-^)
そこは、竹林に囲まれた空間で一角に、あずまやが存在。
周りを見廻してみますと、竹林の向こうに墓地が…ふ~ん、ここは、お墓参りの方の休憩所なのかも分かりませんねぇ~
あずまや近くには、「←八田神社」の標識も…
夏ですと、少々涼しいですし、静かで大変落ち着きますし、一休みしますには最高ですかも(^_^)v ですけど、独りでポツンとおりますと寂しいですから、早々に、拝殿方向に退散となりました(^-^)//"
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忠魂碑には、「陸軍大将一戸兵衛揮毫」と刻まれておりますけど、こんな「陸軍大将一戸兵衛揮毫 忠魂碑」は、アチコチでよく見掛けます。福山市でも駅家町周辺に数ヶ所…そして、井原市にも結構ありますし、特に岡山県内には数多く存在しますようであります(^.-)☆
ですが、GONsanはこの方を存知上げないので、WEB上で検索してみますと、こんな方でありました(^_^)v
◆一戸 兵衛
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ、安政2年6月20日(1855年8月2日) - 1931年(昭和6年)9月2日)は、日本陸軍の軍人。教育総監、軍事参議官、第1・第4・第17師団長を歴任し、軍を退いてからは学習院院長・明治神宮宮司・帝国在郷軍人会長等の公職に就く。官位は陸軍大将正二位勲一等功二級。
・経歴
弘前藩士一戸範貞の長男として生まれ、東奥義塾を経て1874年(明治7年)10月陸軍士官生徒として陸軍兵学寮に入り、1876年(明治9年)3月陸軍少尉試補・歩兵第2連隊付を命ぜられる。1877年(明治10年)の西南戦争に出征し、負傷する。同年5月少尉に進級する。1878年(明治11年)2月歩兵第1連隊付に移り、1880年(明治13年)5月には中尉に進級し陸軍教導団小隊長を命ぜられる。1883年(明治16年)6月大尉に進み歩兵第8連隊中隊長、1885年(明治18年)5月歩兵第10旅団参謀、1887年(明治20年)11月の歩兵第12連隊付を経て1888年(明治21年)2月少佐に進級する。
1889年(明治22年)3月広島鎮台歩兵第11連隊大隊長に移り、1894年(明治27年)6月から日清戦争に出征する。同年中に中佐に進級し第5師団副官を命ぜられる。1895年(明治28年)3月歩兵第21連隊長に就任し、同年7月戦役から帰還する。同8月再び第5師団副官に就き、11月には留守第4師団参謀長に移る。1896年(明治29年)10月の中部都督部参謀を経て1897年(明治30年)10月、陸軍大佐に任ぜられ近衛歩兵第4連隊長を拝命する。翌年茨木惟昭中将が師団長を務める第6師団参謀長に就任。
1901年(明治34年)5月陸軍少将に進級し歩兵第6旅団長を命ぜられる。1904年(明治37年)6月から日露戦争に出征し、この時の戦功から個人感状を受ける。1905年(明治38年)3月から第3軍参謀長に移り、1906年(明治39年)1月帰還する。戦後第1師団司令部付・歩兵第1旅団長を経て1907年(明治40年)11月陸軍中将に任官され、第17師団長を親補される。1911年(明治44年)9月第4師団長、1912年(大正元年)12月第1師団長に移る。1915年(大正4年)2月軍事参議官に就任し枢機を預かり、同年8月陸軍大将進級、同12月陸軍三長官の一角教育総監に就任する。1919年(大正8年)8月再び軍事参議官に就き、翌年6月後備役編入となる。
現役を退いてからは1920年(大正9年)5月から1922年(大正11年)11月まで学習院長を務め、1924年(大正13年)8月には明治神宮宮司に就任する。1926年(大正15年)2月から帝国在郷軍人会会長も兼ねる。後には紘弘会会長も務めた。1931年(昭和6年)9月2日薨去。
・日清戦争出兵
日清戦争では先遣隊として福島安正、上原勇作とともに朝鮮半島に渡海する。航海中、大時化のため大隊は船酔いで皆死んだような状態であった。第5師団の元同僚で友人である上原に「こんな風で戦は出来るか」と散々悪口を言われると、一戸は奮起して起き上がり、顔面蒼白のまま軍刀を杖代わりにして艦内を巡視して部下を激励した。しかし船室に戻ると一気に嘔吐したと上原は邂逅している。
朝鮮公使から上陸するなと要請されて京城への入城も拒否されるも、上原らと共謀して海軍陸戦隊と入れ替わることで入城することに成功する。京城までの道のりは険しく先遣隊は極度に消耗していた。しかし、陸戦隊よりもはるかに規模が大きかったこともあり、袁世凱は京城から退くことになる。
・旅順での勇戦
彼の武名を一躍世に知らしめたのが日露戦争での旅順攻囲戦である。歩兵第6旅団長として参加した彼は第一次総攻撃では盤竜山東西堡塁を攻撃し配下の大内守静歩兵第7連隊長が戦死する程の死闘となるも占領に成功。日本軍で唯一目標の占領に成功した。
続く第二次総攻撃でも無名の1保塁(日本側呼称「P保塁」)を占領する武功を挙げその功によりこの保塁は「一戸保塁」と呼ばれるようになった。
なお、一戸は上級司令部である第三軍司令部の作戦指導に対して当初は懐疑的だったそうである。しかし、奉天会戦後に第三軍参謀長となり、当時の作戦日誌を読み返した結果、当時の司令部の作戦指導は妥当であったと得心した、と戦後に述懐している。
…と、こんな方のようであります。
こぅしてWEB上で色々検索しておりまして、後で知りましたのですけど、この忠魂碑の後ろに吉備真備の墓とされている吉備公墳があるそうです。分かりませんから、勿論、見ておりませんけど、せっかく訪れましたのに、う~ん、残念(^-^;
まぁGONsanの場合は、アチコチ出掛けるのですけど、詳しい知識は持ち合わせておりませんから、こんな事はしょっちゅうなんではあります。今回もまた、せっかく訪れましたのに見ていない…毎度の事ですけど、悔やまれましたネ(^-^;
八田神社への参道を更に奥へと進んで行きますと、突然現れる鳥居。その先にも鳥居が見えています。参道の隣は立派な竹林。タケノコの特産地だけはありますネ。
なだらかな坂道を登っていくと、神社が見えてきました。最初の石段を上り、その先の数段の石段を上れば拝殿です。拝殿自体は割とこじんまりとしています。この神社は、もとは天神様といわれていたのが、大正時代に近隣の白石神社、八幡神社、御崎神社を合祀して、八田神社となったそう。当時の地名、八田村からその名が取られたようですね。
◆八田神社(ハッタジンジャ)
--- 岡山県神社庁 ---
・由緒
当社はもと天神様と言われ、江戸時代に現存した白石神社、八幡神社、御崎神社を大正元年9月に1村1社として合祀し、八田神社と改称した。
ご祭神は白石神社の大己貴神、天穂日神、八幡神社の仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、相殿に少彦名命、猿田彦命、豊磐間戸神、櫛磐間戸神を祀っている。
当社の命名の由来は真備町史によると鎮座地の箭田村は当時備中下道郡の八田村から矢田村に変わり、更に箭田村となったことが記されている。現在社名を「はった」と呼称されている経緯については八神様を祀っている事と、八社を合祀したからとの説がある。
神域は「まきび公園」の中に組み込まれ「箭田郷土自然保護地域」として赤松の保存林の中にあるが、松喰虫の被害が深刻になりつつある。
昭和5年建立の本殿玉垣に刻まれている「誌」によると、村長土師隆治、助役別府要平の両氏が合祀その他に尽力し氏子に寄付を募り、社地を整理し拝殿の改築、幣殿、祭殿、社務所の増築、玉垣の新設を行った。
御祭神:大己貴神、天穗日神、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后、少彦名命、猿田彦命、豐磐間戸神、櫛磐間戸神
御神徳:家内安全、 病気平癒、 開運
主な祭典:4月24日・春祭、10月24日・秋季大祭、12月31日・大祓祭
…と、こんな「八田神社」であります(^-^)//"
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吉備公廟の脇には、奥に続きます道がありました。よく分かりませんけど、この道を進みますと「八田神社」に向かいますのかも…
「吉備公廟」の裏側には、何やら石碑らしきモノが設置されてありました。何にも説明板もありませんから、サッパリ(^-^; 文字が刻まれました石碑もあるのですけど、読めないし、何の事やら…これらを横目に進んで行きますと、「忠魂碑」が…
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石段を上がりきりますと、まず眼に入りますのが梵鐘です。傍らには石碑がありましたけど、文字の判読は不能でした(^-^)
鐘楼からお寺のようにも感じますけど、ここが「吉備大明神」、そして「吉備公廟」と思われます。
WEB上で、「吉備大明神・鐘楼」を検索しますと、
◆備真備の偉大さを梵鐘をついてたたえることができます。
その昔、地元の人々が「吉備さま」と崇める宝きょう印塔がありました。江戸時代、岡田藩主伊東長貞が吉備真備のものと確認して以来、吉備公廟として広く信仰を集めています。拝殿右側に吉備公墓碑、奥に廟が鎮座。今も時を告げる梵鐘は自由につくことも。また、吉備真備が学問の神様として信仰されていることから、毎年1月第二日曜の合格祈願祭は多くの受験生でにぎわいます。
…と、この程度の記載がありました。
右側から建物の奥に向かってみますと、「吉備公墓碑」の説明板が。これには、こんな記載がありました。
◆吉備公墓碑
備中国下道郡八田村は我が封内にかかわる。村に吉備公の墳あり。年祀綿藐、何人のたてたる所なるを知らず。今ここに弘化丁末、厳君長之に命じて曰く「公の文学功勲古今に照映するは天下の知る所なり、ただこの墳その久しうして湮滅するを恐るる故に、いしぶみにして之を明章せんと欲す、汝それ之を銘せよ」と。長之辞する能わず、謹んで接するに公のいみなは真備、父は右衛士の少将下道の朝臣圀勝たり、その先は吉備津彦命より出で代々吉備に居る。
霊亀中、従八位の下をもって遣唐留学生となる、時に齢わずかに弱冠を超ゆ。経支に通名し、かたがた衆技に達す。我が朝の学生にして文名を異朝に馳する者公をもって先となす。孝嫌帝太子たるの時、召して学士となし恩寵特にあつし。天平十八年十月吉備の朝臣の姓を賜い、右大臣に累遷す。
初め大学釈典の儀未だ備わらず、公すなわち礼典を考え器物初めて備わる。ここに於いて礼容燦然観るべし。藤原の仲麻呂の反するや、公その必ず走るをはかり、兵を遣わして之をむかえうつ。その策略指揮みな機宜に合し、旬を経ずして賊すでに平ぐ、その天下に勳労有るかくの如し。ああ公の文学功勲赫然照映、今に至って朽ちず、もとより言を假るなし。今厳君の命、それ銘して之を表せざる可けんや。公は持統帝七年癸巳三月二十八日に生まれ、實亀六年乙卯十月二日薨ず、年八十三。進退去就の義に至ってはすなわち世おのずから公論ありまた議せず。銘に曰く、王道を尊崇し礼楽を経緯す、文運をもって盛んに武功また卓たり、これ公の郷、流風永く存す。ここに石碑に刻み民をして忘れざらしむ。
弘化四年歳次丁未冬十月
領主 伊東播磨守藤原朝臣長寛立石 男 長之恭撰 長生敬書
そして、その隣りには、「備中岡田藩第八代藩主 伊東長寛 揮毫 吉備公墓碑」が。
◆備中岡田藩第八代藩主 伊東長寛 揮毫 吉備公墓碑
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
伊東 長寛(いとう ながとも)は、備中国岡田藩8代藩主。第7代藩主・伊東長詮の長男。
・略歴
安永7年(1778年)閏7月24日、父長詮の死去により家督を継いだ。天明2年(1782年)2月18日、将軍徳川家治に拝謁する。天明3年12月18日、従五位下播磨守に叙任する。
父の才を受け継いだ人物で、重臣の浦池九淵を重用して藩政改革を行なった。その結果、財政は再建され、寛政6年(1794年)には演武場、寛政7年(1795年)には藩校である敬学館を創設するなど、大いなる成功を収めた。
はじめ五男・長禎(早世)、のち十一男・長之を世子としていたが、長之は病弱だったために廃嫡し、長禎の長男・長裕を世子とした。
嘉永3年(1850年)6月11日に死去した。享年87。跡を長裕が継いだ。
◆吉備公廟
石段を上れば吉備公廟。吉備真備を祀った廟で、地元では「吉備様」と呼ばれて親しまれているそうです。
まきび公園の南側、急な石段の参道を上ると神社のような拝殿があり(しかしながら梵鐘もありお寺のようでもあります)、その奥に吉備真備(きびのまきび:奈良時代の学者)の吉備公廟が鎮座しています。
廟の右手には、たくさんの絵馬が奉納されています。吉備真備は学問の神様として信仰されているので、合格祈願祭が行われる1月中旬には、たくさんの受験生が訪れるそうです。
そして、建物の裏側には、吉備真備のお墓(吉備公墳)がありました(^-^)//"
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中国風の建物『六角亭』を背景に池の畔には、『吉備真備公顕彰碑』が…
◆【吉備真備公顕彰碑】
故右大臣 故右大臣(吉備真備)は
往学盈帰 往きて学び盈みちて帰る
播風弘道 風を播ほどこし道を弘め
遂登端揆 遂に端揆たんき(大臣)に登り
式翼皇猷 式もって皇猷こうゆう(天子の政治)を翼たすけたり
この碑文は、平安京を開いた桓武天皇が、延暦3年(784)の勅みことのりのなかで、吉備真備公を讃えて述べた言葉である。
・碑文の意味
吉備真備公は、中国唐の進んだ文化や政治制度を採り入れるために大海の波涛を越えて中国へ渡った。そして17年間様々な学問を学び、頭の中にいっぱい学問を詰めて帰国した。帰国後は日本の人々に新しい生活のあり方を教え、人として生きるための道徳を広め、遂に右大臣にまでに昇進して、天皇の政治を助けた。
この吉備真備公顕彰碑は、吉備真備公を深く尊敬する真備町出身で倉敷市在住の宇渡宅二氏の協力のもと真備町文化協会が、日展作家の佐藤翠雲氏に揮毫を依頼し、真備町箭田の「まきび公園」に平成16年5月4日に建立除幕したものです。真備町は昭和27年に町が誕生した時、町名を吉備真備公にちなんで真備町と名付けました。それ以来、真備町は真備公を町のシンボルとして町づくりの核に捉え、「まきび公園」や「まきび記念館」をつくり、真備公ゆかりの中国西安市長安区との間で交流を続けてきました。--- (まきび記念館パンフレットより) ---
それでは、「吉備公廟」に向かってみますけど、石段の上り口付近には、どなたかの銅像が…
近付いてみますと、「高見章夫翁」の胸像です。WEB上で「高見章夫翁」を検索してみましたけど、特に記載はありませんでしたネ。地元の郷土史家・農学者のようであります。
・まきび公園内の陶製胸像・高見章夫像」
(1877-1946 旧真備町尾崎・郷土史家・農学者・元郡長・山陽新報社)
…と、この程度の記載はありました。
それでは、石段を上がって「吉備公廟」に向かってみましょうか(^-^)//"
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「まきび公園」内を一通り巡りましたので、また入口をくぐり公園外へ(^-^)
観光マップで確認しますと、「真備公園」の廻りには、「備中岡田藩第八代藩主 伊東長寛 揮毫 吉備公墓碑」「吉備大明神」「吉備公廟」「陸軍大将 一戸兵衛 揮毫 忠魂碑」「昭和天皇御大典記念神木」「八田神社」…と色々ありますようですから、この順番に巡ってみます事に(^.-)☆
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入口をくぐり公園内に入りますと、奥の方の石碑の前のベンチに先客がお二人。楽しそうに談笑中。観光客?…地元の方?…漏れ聞こえて来ます会話の内容から、まきび公園近隣の地元の方のようにもお見受けします(^-^)
この方達の後方には、石碑やオブジェが…
カタカナが書かれた球体を乗せた亀のオブジェ。「まきび記念館」には、カタカナの語源も展示されておりましたけど、一説には、吉備真備がカタカナを考案したとも言われているようであります。
緑に囲まれたノンビリと落ち着けます空間でありました(^-^)//"
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「吉備寺」を充分拝見しましたので、それでは、「真備公園」内に。10何年振りかの再訪ですけど、やっぱり懐かしさが(^-^)/"
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境内には、どなたもおられませんから、独りで勝手に「本堂」「客殿」等を画像に納めながら散策です。落ち着いた、静寂な環境の中のイィお寺であります(^_^)v
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それでは、吉備寺へ。山門には、「吉備寺縁起」の説明書きが(^.-)☆
◆吉備寺縁起
鏡林山吉備寺は、右大臣吉備真備公の菩提所である。
本尊薬師如来は行基菩薩の御作と伝えられている。寺伝によると天平年間吉備真備公の創建と伝えられているが、当時の建物は建武元年(1336)足利直義東征の時、戦火で消失したので詳しいことはわからない。しかし現存の古瓦や礎石の様式によって、奈良時代の創建であることは明らかである。庭石は当時の磁石を利用しており、また蓮花文鬼板瓦四葉蓮花文軒丸瓦花枝文献平瓦は、白凰時代の重要文化財として国指定のものである。
現在は岡山県立博物館に貸出している。
WEB上で、「吉備寺」を検索していましたら、こんな記載が…
◆岡山の偉人、吉備真備の魅力に迫る
--- https://nopla.me/articles/okayama/3107/ ---
吉備真備(きびのまきび)は、奈良時代、倉敷市真備町あたりで勢力のあった氏族、下道国勝(しもつみちくにかつ)の子として695年に生まれました。元の名は、下道真備です。
早くから大変な神童で、遣唐使に2回も選ばれたのです。中国で多くの事を学び、多くの品を日本へ持ち帰りました。学者として知識人として重宝され、政治的にも活躍し、右大臣までのぼりつめたのでした。
・奈良時代の学者、そして政治家でもあった
早くから「一を聞いて十を知る」という大変な神童で、当時の大学とよばれる中央の学校に入学します。卒業する頃には、すでに官位を得ていました。家柄が重要視されていた時代に、官位を得たことは、それほど勉学が優れていた証拠です。
その後、2回ほど中国へ渡りたくさんのことを学びました。帰国後は、学んできたことを教えたり、武勲をあげたりして政治的にも活躍し、右大臣まで出世しました。
実はこれはすごいことで、歴史上、学者から立身して政治の中央の大臣まで進んだのは、吉備真備と菅原道真の二人だけなのです。
・遣唐使の一員に2回も抜擢される
716年に遣唐留学生に抜擢され、翌年中国へ渡航。留学生として儒学や天文学、兵学、音楽などを多くのことを学びました。一回目の滞在期間は、18年間だと言われています。
735年、帰国。その際に、数多くの品を日本に持ちかえりました。書物に、楽器、武器、測量器具など…彼が様々な品を持ちかえったおかげで、日本の文化に多いに活用されました。
752年に再度、遣唐使として中国へ。2回目は、遣唐使一団の副使としてで、目的は外交政策とあの有名な鑑真を来日させることでした。結果、この任務をしっかりと果たします。
・吉備真備を感じられる場所 岡山県倉敷市
吉備真備は、備中国下道郡、現在の岡山県倉敷市真備町の出身です。真備町(旧吉備郡真備町)という地名の由来は、吉備真備からだと言われています。
町に流れる小田川の岸辺に、琴弾岩という名の岩があります。この岩には、吉備真備が岩上で琴を弾いていた、という伝説が残されています。毎年中秋の名月の夜には、この岩の上で琴と尺八の演奏会が開かれています。
その他にも町のあちこちに、吉備真備を感じられる場所が多数あります。ご紹介していきましょう。
・吉備公館址と真備公産湯の井戸
吉備真備が生まれた屋敷跡とされているのが、真備町箭田にある吉備公館址(きびこうかんし)です。現在は、屋敷などはなく、道の脇に吉備公館址とある石碑とラテン語で書かれた石碑があります。
吉備公館址のすぐそばには、真備公産湯の井戸があります。中国風の朱塗りの建物の下には、コンクリートで密閉された井戸があります。この井戸は、吉備真備が生まれた時に産湯に使われたとされ、生まれる前の晩に井戸に星が落ちたとも言われています。
住所:岡山県倉敷市真備町箭田1668
・まきび公園
まきび公園は、真備公産湯の井戸の西方にある公園です。中国の西安市に、吉備真備の記念碑が建てられたのを機に1986年(昭和61年)に整備されました。
公園の入り口には、円形の出入り口の門があり、門をくぐると六角亭があります。円形の出入り口から見える六角亭は、日本にいながらにして中国の風情を感じます。
緑に囲まれた公園で、春には桜や牡丹、秋には紅葉を楽しめます。その他にも、中国でよく目にする柳や尊重されている櫂(かい)、槐(えんじゅ)などもあります。
住所:岡山県倉敷市真備町箭田3652–1
・まきび記念館
公園の一角に、まきび記念館があります。外観は、屋根の四隅が反り上がっていて、朱色の柱という中国風の建物です。入場料は、無料です。
記念館には、岡山県内外に残されている吉備真備の関係資料を置いており、写真やパネル、絵画、遣唐船の模型などがあります。休憩スペースには、大きい窓があり、座って園内の景色を眺める事ができます。また、吉備真備コスチュームを無料で貸し出しており、コスチュームを着て公園で写真撮影もできるようです。外での撮影は、写真映えしそうですね!
名称:まきび記念館
住所:岡山県倉敷市真備町箭田3652-1
TEL:086-698-7612
開館時間:10時~16時、定休日:月曜日(祝日の場合は翌日休み)、年末年始 12/28~1/4、料金:無料
・吉備寺
公園の入り口に、吉備真備の出自である下道氏一族の氏寺として吉備寺もあります。真言宗御室派の寺院です。
吉備寺は、奈良時代に吉備真備が建てたと言われているお寺です。当時の建物は、残念ながら焼失しています。今ある立派な楼門、建物は、江戸時代に再建されたものです。
重要文化財(国指定)である蓮華文鬼瓦(れんげもんおにかわら)、四葉蓮華文鐙瓦(よんようれんげもんあぶみかわら)、花枝文宇瓦(かしもんのきがわら)は、ここから出土しています。
名称:吉備寺
住所:岡山県倉敷市真備町箭田3650
TEL:086-698-0154
・吉備様
寺の南側の山、まきび記念館の裏手に階段があり、これを上っていくと「吉備様」と地元で親しまれている小さな神社があります。その境内を裏手に回ったところには、吉備真備の墓とされている墳墓もあります。鐘楼の鐘もあり、今でも時間ごとに打ち鳴らされています。
また、学問の神様として信仰を集めており、毎年1月中旬に合格祈願祭が開かれ、多くの受験生でにぎわいます。8月には、夏祭りも行っています。
住所:岡山県倉敷市真備町箭田3792
・吉備真備のここが気になる
① カタカナをつくった?
倭片仮字反切義解(やまとかたかなはんせつぎげ)という南北朝時代の書物の中に、吉備真備がカタカナをつくったという内容が記されています。それを根拠に、カタカナを発明したのは吉備真備だという説があるのです。まきび公園内には、亀の上にカタカナを掘った丸石が乗っている石像もあります。
しかし、近年ではまた違った見方も示されているそうです。もし違ったとしても、吉備真備は頭が良く、天才的だったということは間違いありません。
②陰陽道で有名な安倍清明の祖?
有名な陰陽師、安倍清明の系譜をたどると、吉備真備に行きあたるという説があります。吉備真備は中国へ行った際、 陰陽道の聖典の金烏玉兎集(きんうぎょくとしゅう)を持ちかえります。そして、阿倍仲麻呂の子孫に金烏玉兎集を伝えようとしました。
その阿倍仲麻呂の子孫と吉備真備の子孫が結婚し、生まれてきたのが安倍清明だ…という説や、吉備真備が陰陽道を子孫に伝えていて、それを安倍晴明が継いだ…などの説があるようです。しかし、実際の記録とは異なっており、単なる伝説のようでした。
・天才、吉備真備は魅力的な人物だった!
当時の日本は、中国のような国づくりを目指していました。2度も中国へ行き、多くの知識を持つ吉備真備は、どの権力から見ても必要な存在だったのです。
そのことをよく思わない人達が反乱を起こしたり、邪魔だと思う人達に左遷されることもありました。しかし、吉備真備はめげずに頑張り、政治の中央の右大臣まで出世します。
彼の場合は、出世が目的ではなく結果だったのかもしれません。誰かを利用してのし上がったわけでもなく、努力して勉学を頑張り、周りにも認められ、その結果がついてきたのではないでしょうか。
WEB上には、色んな方々が「吉備真備公」について語っておられますけど、吉備真備公は、本当に凄い方でしたようですねぇ(^-^)//"
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◆入唐絵巻
この入唐絵巻は、平安時代末期の学者大江匡房が晩年藤原実兼に話したことを書いたもの、即ち「江談抄」を基として作られたものです。
内容は真備が唐へ渡ったとき、唐の役人たちが日本人の学力や知識を試す場面が主となっています。
当時、唐は世界で最も優れた文化国家でしたが、真備はこれらの設問に全部答え、唐の役人たちを感心させたといわれています。
特に興味をひく場面は、難しい「文選」という本を読まされたとき、阿倍仲麻呂の霊が鬼と化して教えてくれ、また囲碁の勝負で相手の石を一つ呑み込んで勝つというところなどです。絵は当時有名な「伴大納言絵巻」の常磐光長とされています。書の方も研究はされていますが定説はありません。
この実物は大正十二年アメリカへ渡りボストン美術館の重要美術品となっています。ここに展示しているものは、中央公論社の「日本絵巻大成」第三巻より抜粋したものです。
…と、こんな説明がありましたけど、とにかく複製とは言え大変立派な『入唐絵巻』でありました。
囲碁の対決の場面でも、下剤を真備に呑ませ、排泄物を入念にチェックしていますシーンも描かれておりまして、少し笑えてしまいましたけど、真備の人柄も偲ばれ実に楽しい『入唐絵巻』でありました。
どんな経緯で、この原本がボストンに有りますのか分かりませんけど、日本にありませんのが哀しいですネ。
それでは、「まきび記念館」を出まして、公園内を散策してみます事に。
池の方に進んで行きますと、「真備公菩提寺 鏡林山 吉備寺」の石標が…「吉備寺」は後で拝見させて頂く事にしまして、まずは池へ。
そぅそぅ、この池です。10数年前に吉備路マラソンからの帰路に立ち寄りました「まきび公園」の、この池…うん、うん、何年経ましても当時のままでありました(^_^)v
◆吉備寺
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
吉備寺(きびじ)は、岡山県倉敷市真備町にある真言宗御室派の寺院。山号は鏡林山。本尊は薬師如来で行基作と伝えられ、秘仏となっている。
・概要
この地には飛鳥時代に箭田廃寺(やたはいじ)が存在し、鬼瓦(後述)や礎石が出土している。吉備寺は箭田廃寺の跡に建てられており、礎石は現在、庭石に利用されている。この地の古代豪族・下道氏の一族で奈良時代の大臣・吉備真備を輩出した吉備氏の氏寺である。この寺院の南西に真備の祖父の墓と伝えられている場所があり、吉備様と呼ばれている。このため、江戸時代初期までは真蔵寺という名であったが、元禄年間(1688年 - 1704年)に吉備寺と呼ばれるようになった。なお、現在の本堂等は江戸時代の建造である。
脳病に効験があるといわれる「へちま封じ」と呼ばれる祈祷が行われる。また、受験シーズンには奈良時代きっての文化人であった真備にあやかり、入学や就職の祈願で賑わう。
寺の周辺には真備が遣唐使として派遣されたことにちなみ、「まきび公園」や「まきび記念館」といった中国風の施設が設けられている。
・文化財
重要文化財(国指定)
蓮華文鬼瓦・四葉蓮華文鐙瓦(しようれんげもん あぶみがわら)・花枝文宇瓦(かしもん のきがわら)
当寺より出土。奈良時代の製作。現在は岡山県立博物館に寄託されている。
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「まきび記念館」内には、吉備真備公に関する資料が数多く展示されてありました(^_^)v
ジックリと観て廻りますと、真備公の人物像や歴史を学ぶことが出来まして、「真備公」に精通してしまいそうですネ(^-^)//"
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周辺を見廻しますと、とにかくノンビリとした景観であります。
「琴弾岩」の上に横になりまして、暫し昼寝でもしていたい…こんな気持ちも抱きますが、この辺で「琴弾岩」とはお別れです(^-^)//"
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3回にも1点を追加し、「2×0」で迎えた3回裏の広工大の攻撃ですけど、とりあえず1点を返し、まだチャンスが続きます。
う~ん、拮抗した展開で、イィ試合になりそぅですねぇ~にも拘わらず、観客が少ないのかがチト寂しい(^-^)//"
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「琴弾岩」は、「下道氏公園」入口近くの橋(福頼橋)を渡り、対岸を川下方向(倉敷市方向)に走行しますと到着です。
それなりに大きな岩で、上部がほぼ平らですから、晩年故郷に戻った真備が、中秋の名月を眺めながらこの岩の上で琴を弾じた様子は、何となく想像は出来ますネ(^.-)☆
琴弾岩に上がり河岸を見下ろしますと、小舟が一艘駐まっておりました。ノンビリとした景観であります(^_^)v
近くに案内板がありますので、眼を通してみますと、こんな記載が…
◆琴弾岩
奈良時代に右大臣として中央政界で活躍した吉備真備公が、晩年父祖の地に帰り、中秋の名月の夜に、小田川に臨むこの岩の上で琴を弾かれたと伝えられているところから琴弾岩と呼ばれている。
昭和24年以来、町民は毎年中秋の名月の夜にこの岩に集い、真備公の故事にちなんで弾琴祭(ざんきんさい)を催し、岩上で琴・尺ハを演奏して公の遺徳をしのんでいる。
--- 倉敷市教育委員会 ---
そして、その隣りには「猿掛城跡」の案内板が…
◆猿掛城跡
小田川の右岸にそびえる猿掛山(標高230m)に築かれていた中世の連郭式山城遺構である。山頂の本丸跡には六壇からなる郭が南北に連なり、石垣・土塁・井戸・掘切・出丸などの遺構とともに、備中有数の山城の威容をよくとどめている。
山陽道の要衝に位置するこの城は、南北朝時代から室町時代にかけて備中で最も有力な国衆として活躍し、備中守護細川氏のもとで守護代をつとめた庄氏の居城であった。その後、天文22年(1553)頃から成羽城主三村氏の支配するところてなったが、天正3年(1575)に起こった備中兵乱で三村氏が滅ぶと、毛利元就の六男元清が在城した。同10年、羽柴秀吉による高松城攻めのときには、毛利勢の総大将毛利輝元が本陣を置いたこともある。その後、元清は茶臼山城(矢掛町東三成)を築いて移り、この城には重臣宍戸隆家を置いて守らせていたが、慶長5年(1600)関ヶ原の役後まもなく廃城となった。
琴弾岩の下に小径がありますので降りてみました。
小径から琴弾岩を眺めますと、こんな感じでありました。琴弾岩の下部には小さな石仏が(^.-)☆
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国道486号線脇の駐車スペースから正面に眼に入りますのが、4/27(火)に訪れました「猿掛城跡」です。
それでは「まきび公園」に向かいますけど、その前にまたチョッと寄り道です。この近くに『琴弾岩』がありますので、訪れてみます事に(^.-)☆
◆琴弾岩(ことびきいわ)
吉備真備公が晩年父祖の地に帰り、中秋の名月の夜に、この岩の上で琴を弾かれたと伝えられています。
毎年、中秋の名月の夜にこの岩に集い、真備公の故事にちなみ弾琴祭が開催され、岩上で琴、尺八を演奏しています。
◆琴弾岩【ことひきいわ】
真備町の名前は、奈良時代の政治家・吉備真備に由来する。右大臣にまで登りつめた人物であるが、その出自はこの吉備地方出身の豪族であり、中央政界での出世は歴史上まさに唯一無二のものである。
ところが、吉備真備の晩年は謎に包まれている。宝亀2年(771年)に右大臣の職を辞してからは完全に歴史の表舞台から消えてしまい、その4年後の死去の記録以外、所在すら全く不明である(墓と伝わる塚は奈良市内にある)。
真備町を流れる小田川を臨む岸辺に、琴弾岩という名の巨石がある。この岩には、晩年故郷に戻った真備が、中秋の名月を眺めながらこの岩の上で琴を弾じたという伝説が残されている。そして、吉備真備の遺徳を偲ぶという目的で、昭和24年(1949年)から「弾琴祭」と称して、毎年中秋の名月の夜にこの岩の上で琴と尺八の演奏会が開かれている。
◆吉備真備
695-775。吉備出身の政治家。遣唐留学生として唐へ赴き、多くの政治や文化の知識を習得。帰国後は聖武天皇の寵愛を受けて出世する。一時期大宰府や遣唐副使など、中央政界から脱落するも、政敵の藤原仲麻呂失脚後に復権。最終的に右大臣にまで登りつめる。
◆琴弾岩(ことひきいわ)とは
真備町西端付近の小田川沿いにあり「琴弾岩(ことひきいわ)」と呼ばれています。この琴弾岩は「吉備真備」が大きく関係しています。
右大臣となった「真備公」は世界で活躍後、政界を引退し下道郡で余生を過ごしていたと言われており、この巨石「琴弾岩(ことひきいわ)の上で晩年、琴を弾いていた」と伝えられています。
現在も、毎年中秋の名月の日に「弾琴祭(だんきんさい)」と呼ばれるお祭りが行われています。この「弾琴祭」では、遠方の方も多く集まり、「琴弾岩」の上で琴と尺八の演奏が行われ、真備公の遺徳をしのんでさまざまな行事が行われています。
…と、WEB上には「琴弾岩」に関しまして、こんな記載がありました。
>ところが、吉備真備の晩年は謎に包まれている。
>宝亀2年(771年)に右大臣の職を辞してからは完全に歴史の表舞台から消えてしまい、
>その4年後の死去の記録以外、所在すら全く不明である(墓と伝わる塚は奈良市内にある)。
との事ですけど、右大臣まで登りつめ中央政界で活躍されました方の晩年が不明とは、不思議ではありますネ。何がありましたのでしょうねぇ(^-^)//"
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2ヶ月ばかり前の4/27(火)に、猿掛城跡から下山後、小田川を挟んで対面に存在します「吉備真備公園」を『まきび公園』と勘違いし訪れました。
『まきび公園』には、もぅ10数年前に、総社市で開催の吉備路マラソンからの帰路に立ち寄り、イィ公園だなぁ~と散策しました事がありました。で、スグ近くに来ましたから立ち寄りますと、何となく『まきび公園』と景観が異なりまして、公園内の館址亭(手打ちうどん店)で、「公園内の景観は、10数年前と様変わりですネ、昔は池がありましたが…」と、お尋ねしますと、「それは『まきび公園』ですよ。ここは『吉備真備公園』ですから…」との説明でありました。
こんな経緯もありまして、「三光寺」とお別れ致しますと、10数年振りに『まきび公園』を訪れてみます事に(^.-)☆
国道486号線を、井原市→矢掛→倉敷市方向に走行していますと、吉備真備公園の手前辺りに『吉備公史跡・下道氏公園』の標識が…
で、せっかくですから、この標識下の国道486号線脇に駐車スペースがありましたので、歩いて出掛けてみます事に(^-^)
国道486号線から少し北側に入りますと、「国指定重要文化財・下道氏の墓」の標識が…これに従い左方向に進みますと、これまたスグに「吉備公累代墓域」の石標と石灯籠が…そして、その後方に小さな祠が…
『吉備公史跡・下道氏公園』と言うくらいですから、ここではなくて、もっと山側に進んで行かなければならないのでしょうから、今回は、訪れますのは断念。ここで引き返しです。
WEB上で、「下道氏公園」を検索しますと、こんな記載が…
◆下道氏公園・下道氏の墓
〒714-1211 中国地方 岡山県 南部 井笠地域 小田郡 矢掛町 東三成
下道氏墓域…吉備真備公の祖母を火葬にした銅製骨蔵器が発見され、後に下道氏の墳墓であることが判明…じゃらん観光ガイド(https://www.jalan.net/kankou/spt_33461aj2200120309/?vos=afjlnpvczzzzx00000381&caadsess=12180_mmqjy7qx5q03kZZ&caadterm=3600)
国指定重要文化財。吉備真備公(旧姓下道真備)の祖母の骨が見つかったことから、吉備公もここに埋葬されたものと推測されている。狭い道と長い石段を登った先が広場になっており、「右大臣眞吉備公の墓」と記された…井原鉄道 三谷駅から徒歩15分
◆下道氏墓域について
元禄12(1699)年に東三成の丘陵地から、吉備真備公の祖母を火葬にした銅製骨蔵器が発見され、後に下道氏の墳墓であることが判明。その後、この墳墓及び付近から、納骨器、祭器、和同開珎などが発見された。
…と、こんな記載と、「右大臣眞吉備公之墓」の墓標のこんな画像が。
「下道氏公園・下道氏の墓」には、また後日、機会を見つけて訪れたいと思います(^-^)//"
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この稲木川に架かります橋の場所は、樋門(水門)ですネ。この橋の上から周辺を見廻しますと、本当にのどかな田園風景であります。
それでは、三光寺よりお別れです(^-^)//"
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それではこの辺で、三光寺よりお別れですけど、その前に、三光寺駐車場の前を小田川に流れます稲木川がありますので、少しその景観を(^.-)☆
田植えも終えた水田には人影はありませんでしたけど、稲木川も水田も、静かに時が流れます実にのどかな景観でありました(^-^)//"
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日常生活を通じて眼にしたこと、感じたこと、出掛けた先の景観…等を、備忘録代わりに絵日記として綴っております(^-^)/"
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