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 改修中の倉庫がありましたけど、これが〝大間煉瓦倉庫〟ですネ。

 ・煉瓦倉庫
 大間港の南東部に立地する煉瓦倉庫は、煉瓦造2階建、切妻造妻入桟瓦葺の建物です。外壁は煉瓦化粧積。イギリス積で構成され、要所に自然石を用いてアクセントとしています。
 内部は1、2階共に1室で、2階は裏(北)側3/5を床とし、表(南)側は階段、踊場を設けた吹抜です。明治時代後期から大正時代までには建築されたと考えられています。

 倉庫の前には、こんな〝大間煉瓦倉庫〟の説明板もありました(^.-)☆

 ◆大間煉瓦倉庫
 大間煉瓦倉庫は、鉱石や鉱山で使用する資材を収用する目的で、明治時代後期から大正時代に建築されたと考えられています。
 外壁の練瓦は縦と横を交互に積み重ねる練瓦積みで組まれた練瓦造2階建て、切妻造妻入桟瓦葺きの建物になります。
 老朽化が進む中、令和6年の能登半島地震時に一部破壊したことにより修繕作業を行っています。

 …との事であります。
 〝大間港跡〟とお別れしますと、帰路は、前日同様に〝市営栄町住宅〟横の護岸をノンビリと〝ホテル万長〟へと向かいます。
 相川総合体育館・相川地区公民館裏を通過し、佐渡市役所相川支所裏まで戻って来ますと、ここには、両腕が地中から覗きましたこんなモニュメントが(^-^)
 このモニュメントは、〝ライリー・テリー〟作の「WAKARIMASEN」と言う作品のようであります(^.-)☆
 WEB上で〝モニュメント/ライリー・テリー作「WAKARIMASEN」〟を検索してみますと、こんな記載が出て来ました(^.-)☆

 ◆さどの島銀河芸術祭 -- @sado_art --

 ・場所:相川支所駐車場(佐渡市相川塩屋町26)、さどの島銀河芸術祭2021に制作された作品。音を鳴らして作品を体感してください。
 ・詳細:https://sado-art.com/artists/wakarimasen

 ◆DOMMUNE Presents 「LANDSCAPE MUZAK」PROJECT SADO#1

 --- https://on-the-trip.net/indices/12156?locale=ja ---

 作者はカルフォルニア生まれ。彼にとってアメリカのゴールドラッシュと佐渡の金山が重なり、相川で作品を制作することになりました。しかし、実際に佐渡を訪れた作者にとって、その背景は知れば知るほどわからないことばかり。彼が最初に覚えた日本語も「わかりません」という言葉でした。
 そこで、作者は自身の手をモチーフにしたオブジェを制作。その指からチャイムがぶら下がり、それを叩くと「Wakarimasen」のメロディーが響きます。この作品はまるで手から「わかりません」を奏でているようにも感じられます。
 現在、この作品が設置されている場所に違和感を覚えたあなたは鋭いです。実は、作品が完成した当初は「佐渡奉行所」の駐車場の脇にありました。そこからは、まるでローマのコロシアムのような金鉱の跡地を見下ろすことができます。その場所に作品があったことを想像すると、それは金山に捧げるレクイエムのように感じられたかもしれません。
 しかし、現在は別の場所に移動することになり、作品は本来の場所から切り離されました。そのため、メロディーは金山に届かなくなったようにも見えます。この逆説的な状況は、アートが本来の場所と強く結びついていたことをあらためて感じさせます。
 その金鉱で、作者がライブを行ったこともありました。それも夜から明け方にかけて。暗闇の中、静かな音からはじまり、明け方の光が差し込むにつれて生命が目覚めるように音楽は展開していきました。建物には音が反響し、音楽が自然の一部となり、時間の感覚が失われる中、最後の一音が鳴り響いたといいます。

 …と、こんな経緯のありますモニュメントでありました。
 このモニュメントの指からぶら下がっていますのはチャイムで、叩けばメロディが響きますとは…知っていましたら叩いたのですけど…う~ん、これまた残念(^-^;
 相川公演裏を通過し、既に閉館となっています〝健康増進センター「ワイドブルーあいかわ」〟裏に戻って来ました。かっては、旧相川町の海岸に面して建つ日帰り温泉施設で、さまざまな浴槽と温水プールなど施設も充実。海岸にある施設なので、広々とした浴室の窓からは日本海を望むことができ、結構、賑わっていましたのでしょうけど、2020年10月、閉業。新型コロナ禍が訪れ、緊急事態宣言に伴って、2020年4月から長期に休館してきたが、そのまま廃業となった。
 建物裏の護岸側に、遊具がポツンと二つばかり残されていますけど、これが一層、寂しさを感じさせましたネ。
 〝ホテル万長〟に戻って来ましての朝食後、佐渡滞在最終日の3日目は、〝妙宣寺〟参詣からスタートです。

 ◆妙宣寺について

 --- https://temple.nichiren.or.jp/4031006-myousenji/ ---

 -- ごあいさつ --

 当山は阿佛房日得上人千日尼御前夫妻の旧蹟霊場である。
 日得上人、俗称遠藤左衛門尉為盛は、承久三年(一二二一)順徳上皇佐渡御遷幸に供奉せし北面の武士にて、その妻は上皇御還幸を祈願して真野の入江に水垢離を取ること一千日に及び、上皇はその誠を喜び千日女の名を与えたと伝えられている。
 仁治三年(一二四二)上皇崩御の後、佐渡の地に留まり陵墓に仕えて三十余年の間称名念佛を怠ることなく、遂には阿佛房と称するようになった。
 文永八年秋、日蓮大聖人には幕府の御勘気を蒙むり佐渡御配流となり、十一月一日塚原の地に調居の身となられた。
 「北海の島にはなたれしかば、かの国の道俗は相州の男女よりも仇をなしき・野中にすてられて雪にはだえをまじえ、草をつみて命をさふえたりき…」(当山所蔵単衣御書)
 念佛の強信者阿佛房は宗門の怨敵と思い大聖人を責めんとしたが却って教化帰伏し、当国第一の法華信者となり、妻千日と共に身命を省みず深夜密に食糧を運び供養を怠らず、諸宗僧俗の迫害から聖人を守る大外護者となった。
 「しかるに尼御前並に入道殿はかの国にある時は人目をおそれて夜中に食をおくり或る時は国の責をもは蛍からず身にも代わらんとせし人々なり、さればつらかりし国なれども剃りたる髪もうしろへひかれ進む足もかえりぞかし」(単衣御書)と身延の山より御手紙を送り、また「日蓮佐渡の国へ流されしかばかの国の守護等は国主の御計りに随いて日蓮を仇む万民はその命に従う…地頭念佛者等日蓮が庵室に昼夜立ち添いて通う人もあるをまどわさんとせしめに、阿佛房に櫃をおわせ夜中に度度御わたりありしこといつの世にかわすらむ、唯慈母の佐渡の国に生れ代わりてあるか。」(当山所蔵千日尼御返事)
とも記して阿佛房夫妻の徳を称えておられます。
 文永十一年三月十三日、法門開運の時いたり宗祖大聖人には御赦免鎌倉より身延へ御入山。
 阿佛房夫妻は常に大聖人を慕い申してはいても、八十の齢を超しては海山千里はままならず、阿佛房は男の身なればとて二度、三度まで身延の山を登詣し御給仕を尽くし、三度目の登詣は弘安元年七月、九十の高齢をも省みず一刀三礼お写し申し上げた宗祖のお姿を肩に負い身延の山に登られたので、大聖人には御親しく開眼をなされ、阿佛房の願いを入れてお弟子となし日得上人の名を与え、妻には千日尼御前の名を賜わった。

 ◆妙宣寺(佐渡市)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 妙宣寺(みょうせんじ)は、新潟県佐渡市阿仏坊にある日蓮宗の寺院。日蓮の弟子阿仏房日得が自宅を寺として開基した日蓮宗佐渡三本山のひとつ。山号は蓮華王山。本尊は釈迦如来。

 ・歴史
 言い伝えによれば、1221年(承久3年)の開創と伝えられる。
 1326年(嘉暦元年)、竹田に移転。
 1589年(天正17年)、現在地(雑太城跡)に移転。
 寛文年間に身延、池上、中山の輪番管理となる。
 1878年(明治11年)、輪番管理から独立する。現住は47世関日道貫首(佐渡市円静寺より晋山)。通師法縁。

 ・文化財
 -- 重要文化財(国指定) --
 五重塔 -- 新潟県内に現存する唯一の五重塔で]、江戸時代に相川の宮大工茂三右ェ門親子が二代に渡り建立したといわれ、日光東照宮の五重塔を模したとされる。文政10年(1827年)の建塔で、頂上の相輪に鋳工大坂住長谷川久左衛門元文5年(1740年)とあることから、およそ90年かけて建立されたことがわかる。また各層の高欄や浅唐戸がなく資金難のため未完成である。
 日蓮聖人筆書状 3巻
 細字法華経(一部)1巻 -- 日野資朝筆、元徳二年(1330年)奥書

 ・その他
 本堂:1863年(文久3年)、祖師堂:1880年(明治13年)、仁王門:1677年(延宝5年)、庫裡:1862年(文久2年)、祖師像:1274年(文永11年)

 山門を潜り、まずは〝五重塔〟を拝観となりました(^-^)//"

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