



















初めて乗船しました〝ジェットフォイル〟の乗り心地、あいにくの3メートルの高波で大変でしたけど、とにかく、一応、無事に、佐渡島に上陸です。
両津港佐渡汽船ターミナルから貸切バスに乗り込みますと、ガイドsanの明るい、なめらかなお話しで、船酔い状態も多少緩和されて行きましたような(^_^)v
今から向かいます佐渡島最初の訪問地は、両津港佐渡汽船ターミナルから北西方向に存在し、距離にしまして2.6km程度の「佐渡日蓮聖人大銅像」であります。
◆佐渡日蓮聖人大銅像(さどにちれんしょうにんだいどうぞう)
--- https://www.visitsado.com/spot/detail0061/ ---
世界一大きい日蓮像
「日蓮宗開宗750年慶讃事業」として、全国3,000人を超える僧侶・信徒の協力で建てられた銅像です。両津湾を背に、釈迦の生まれたインドの方角に向かって建つ姿は、高さ約13m、台座を含むと26m。ゆかりの地・佐渡にふさわしい威厳に満ちた姿でそびえ立ちます。
◆日蓮宗立教開宗七五〇年慶讃事業 -- 「佐渡ヶ島 日蓮聖人大銅像建立」にあたって --
--- https://www.ne.jp/asahi/nichiren/nishiminobu/sado.html ---
この事業は、全国の日蓮宗宗徒の思いを集結し、霊跡佐渡の地に日蓮聖人の大銅像を、立教開宗記念として建立することを決意致したことから始まりました。
去る平成十年十月二十七日、二十八日、全国日蓮宗青年会委員長として「佐渡伝道」の名の下に佐渡島内にて会員と共に唱題行脚を展開しました。その後、なんと新潟県佐渡郡の本宗信徒より土地寄進の申し出があったのです。
土地の広さは約二八〇平方メートルで、両津港に面する山の中腹(新潟県両津市加茂歌代字百成)に所在。現在の道路(大形バス通行可)から土地までは三〇メートル前後で両津港からは車で約十分の所にあります。
寄進者としては「法華経の布教そして日蓮聖人のためにこの土地を活用して頂きたい」ということでした。
日蓮聖人は文永八年(一二七一)九月十二日の龍口法難によって佐渡の地に配流となられました。そして二年余りに及ぶ佐渡での過酷な生活の中で、今日の日蓮宗の御本尊となっている大曼荼羅の始顕をはじめ開目抄や本尊抄といった多くの著述をなされました。即ち、佐渡の地は立教開宗以来培われた日蓮聖人の大いなる思いが溢れだした聖地であり、その魂魄が留まっているのです。是非ともこの地に日蓮聖人を象徴するものを建立したいという思いが日に日に強くなって参りまして、この佐渡銅像建立委員会を平成十二年七月十二日に立ち上げた次第です。
その後、周辺地を寄付される方も現れ、隣地の地権者も賛同され、また全国の日蓮宗寺院のご住職や僧籍を持つ方々の暖かいご支援を賜り(信徒含め約二千名)ここに世界一大きな日蓮聖人銅像がお姿を顕現しました。
さて、いよいよ落慶の日が近づいて参りました。多くのご参拝をお待ち申し上げ、さらなる建立の趣旨へのご理解をお願い致します。
-- 参考:日蓮聖人ご霊跡の地・佐渡に聖人の大銅像が完成し、その開眼落慶法要が2003年5月13日、全国から僧侶檀信徒や大銅像周辺地域の住民など約2千人が参列し盛大に営まれました。--
…と、WEB上で「佐渡日蓮聖人大銅像」を検索しますと、こんな記載がありました。
◆日蓮
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
日蓮(にちれん、承久4年(1222年)2月16日 - 弘安5年(1282年)10月13日)は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖。
・概要
文応元年(1260年)7月16日に「立正安国論」を鎌倉幕府に提出して国主諫暁を行う。立正安国論において数多くの経典を引用し、法然らに帰依した日本から日本を守護する天照大神、八幡大菩薩等の諸天善神が去り、代わりに悪鬼が入り、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)により日本は滅亡すると予言した。天照大神、八幡大菩薩等は正法によってその威光勢力を増すとし、正法を建てるよう進言した。立正安国論の内容は、国内外の状況を鑑み、経典を根拠としたものと考えられる。日蓮の時代はモンゴル帝国が各方面に侵攻し、モンゴル・南宋戦争、モンゴルの高麗侵攻など日本の隣国を繰り返し侵略し、前年の正元元年(1259年)には高麗が降伏していた時期であり、日蓮も南宋出身の蘭渓道隆等の渡来僧と交流もあり、民間でも貿易船等の交流もあった。国内の内乱も多く発生していた。国内の宗教対立を扇動し武装を強化する過激な日蓮は、元寇に対処するために貴族、武士、僧、神社、庶民の一致団結を掲げる幕府に危険視された。
『難を忍び慈悲のすぐれたる事は をそれをも(恐れをも) いだきぬべし』(開目抄)『日蓮が慈悲広大ならば(中略)万年の外未来までもながるべし』(報恩抄)等、その教えは理屈よりも情を重んじる傾向が強い。他宗を激しく批判・否定し「建長寺も極楽寺も寿福寺も鎌倉の寺は焼き祓い、建長寺の蘭渓道隆も、極楽寺の良観房忍性も、首を刎ねて由比ヶ浜にさらせ」等の過激な発言を行い、良観(当時、数々の慈善事業を行い「持戒第一の聖人」「生き仏」として尊崇され、幕府からの信頼も厚かった人物)により幕府に訴えられ、御成敗式目第12条「悪口(あっこう)の咎」の最高刑となる佐渡流罪となった。その直前に幕府は御成敗式目により自ら下した判決に反して、日蓮を龍の口で斬首しようとしたが、奇瑞が起きた為かなわなかった。文永八年九月、刑場に同行した四条金吾に宛てた書簡には「光物とあらわれて竜の口の頸をたすけ」とその際の様子を振り返っている。(但し、御成敗式目に反してまで鎌倉幕府が日蓮を斬首をしようとしたエピソード、及び光り物により斬首を免れたとするエビソードについては、創作とする説があり、注意が必要である。)
文永8年(1271年)に佐渡へ流罪となった後、文永11年(1274年)に佐渡流罪を赦免され鎌倉に戻った折、幕府から寺社の寄進等帰依の申し出があった。
だが、それは元寇に対処するため他宗と肩を並べて敵国調伏の祈祷をしてほしいというものだった為、日蓮は「他宗への帰依を止めることが自身の教えである」とそれを一蹴し、山梨県の身延山に移った。
文永11年(1274年)・弘安4年(1281年)の元寇により他国侵逼難の予言を的中させるが、日本側が勝利し真言亡国の予言が外れ、弘安5年(1282年)10月13日に胃腸系の病により入滅。滅後の延文3年(1358年)、日蓮宗の僧である大覚が雨乞い祈祷によって雨を降らした功績により、後光厳天皇から日蓮大菩薩の位を授けられた。(日蓮正宗富士大石寺では、日蓮を釈迦よりも根源的な本仏と位置付けており、日蓮宗とは全く異なる立場をとっている)大正11年(1922年)には日蓮主義者の本多日生らの嘆願により、大正天皇から立正大師の諡号を追贈された。(以下 略)
…と、こんな日蓮聖人であります。
バスで近くまでヤッて来ますと、大きな銅像ですから、スグに眼に入りましたネ(^-^)//"
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