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 今まで沼名前神社には、よく訪れています割りには境内をジックリと拝見した事がありません。
 で、せっかくの機会ですから、境内を暫し散策です。そぅしましたら、〝んっ!?〟と眼が止まりましたのが、この〝砲弾碑〟です。
 沼名前神社の社務所脇に〝クルップ砲〟が置かれていますのは、場所が場所だけに以前から眼にしておりましたけど、境内の片隅に「砲弾碑」が存在しますのには気付きませんでしたネ(^.-)☆
 〝沼名前神社砲弾碑〟に関しましては、WEB上にこんな記載が…

 ◆沼名前神社砲弾碑

 --- https://ameblo.jp/ktgwkuj/entry-12535336781.html ---

 奉納日 明治三十一年五月吉日 と有るから 多分“日清戦争従軍記念”と思われます
 竿石の刻銘 正面「呉鎮守府司令官海軍少将正五位勲四等功四級松永雄樹 勲六等機関長 中野仲造」
 他、海軍関係者(戦友グループ?) 陸軍関係者(世話人?) 石工などの刻銘 碑の正体は不明

 …と。
 国内各地の神社に、こぅした〝砲弾碑〟の設置はよく眼にしますけど、以下のような事情からのようであります。

 ◆神社や忠魂碑にある砲弾について

 --- http://ki43.on.coocan.jp/hodan/hodan01.htm ---

 日清戦役・日露戦役は、発展途上国だった日本が、かろうじて勝利した自衛戦争だった。国民すべてが一丸となり国難に立ち向かったのである。
 日清戦で手に入れたた戦利品は、講和後に組織された「陸軍戦利品整理委員会」によって区分され、必要のないものは参考品・記念品として各方面に献納または払い下げられた。
 民間への下附品目では砲弾が最も多く、約8,700個が下附された。整理委員会から各府県に一括して送付され、それを府県知事が管内の各施設に分与するという段取りで行われた。おおむね神社、仏閣、学校、役場、博物館といったところ。
 日露戦のあとでは、明治39年に陸軍だけで「戦利兵器奉納ノ記」という文書とともに23,170箇所の神社などに砲弾が配付されている。
 それこそ「坂の上の雲」を目指していたころの日本が、外国の植民地にされないため、国民が一枚岩となって国難に打ち勝った記念品として各所に置かれたのである。
 これに加えて海軍からのものや、その後の皇室の御成婚記念や御大典、各事変の記念に下附された砲弾は相当な数にのぼり、日本中のすべての神社に置かれていても不思議ではないほどの数量が下附された。
 ところが、今ではほとんどが姿を消している。その原因に、まず、大東亜戦での金属類回収令がある。さらに、敗戦でやってきた占領軍の命令や、彼らの目から隠すため処分されたものも多い。
 したがって、現在かろうじて残っている砲弾は、日本の存亡の危機を一丸となって乗り越えたという民族の記憶を残しているうえに、その後の受難も切りぬけてきた貴重な記念品なのである。
 「爆発のおそれがある」と通報騒ぎもあるが、陸軍、海軍が国難を克服した感激を国民と共有しようと民間に配付したもので、民間との親密な繋がりが目的なのだから爆発でもしたら、逆効果である。
 それでも心配なら、調査してもらって安全を確かめ、廃棄処分することなく今のまま保存していただきたいと切に願う。
 せっかく100年以上もの間、先人の思いを伝えてきたものなのだから。
 日本全国に「忠魂碑」「忠霊碑」「表忠碑」「招魂碑」などの名前で多くの碑が建っている。
 古くは明治初年からあったというが、日露戦役以降のものが多い。戦没者の顕彰・慰霊を目的としたものであるが、従軍記念あるいは戦勝記念などの碑もある。大東亜戦までに各地に多くの忠魂碑、記念碑が建設された。
 そして敗戦。
 占領軍は「連合国に対する日本の脅威を除去する」ため容赦ない日本破壊政策を展開。その一環の神道指令で、忠魂碑の類いは建立を禁じられたばかりか、既存の多くが撤去されてしまった。
 昭和27年4月28日、対日講和条約が発効し、連合国の日本占領は終了、日本は主権を回復した。
 GHQの廃止に伴い、神道指令をはじめとする指令・覚書もすべてが効力を失った。
 そこで、戦友や遺族、自治体による碑再建の動きが全国的に広がった。撤去したと見せかけて地中などに隠していた例が多く、これらは復活した。さらに再建のみならず、多くの忠魂碑が新たに建設された。
 占領下で抑圧され、じっと耐え忍んできていた民族の感情が一気に爆発した形であった。
 忠魂碑の傍らに砲や砲弾、機雷や魚雷などが記念品として備え付けられている場合がある。中には砲身や魚雷が忠魂碑そのものになっていたりもする。敗戦・占領下にあって、これらを残すことは、碑よりも困難であったと思われる。

 〝砲弾碑〟設置には、こんな事情が有りましたのですねぇ~
 それでは、この辺で能舞台に向かってみます事に(^-^)
 ところで、〝飛天双〇能(ひてんふたわのう)〟とは、何なんでしょう?WEB上で検索してみますと、

 ◆『飛天双〇能』鞆の浦で始まる!!

 --- https://visittomonoura.com/2025/03/14052/ ---

 日本を探して~
 瀬戸内の風を受けて、時が重なる文化の町にどっぷり浸る。

 伝統は私たちに何を語りかけるのか
 土地を愛し文化を培った人々の想いを
 秀吉公の舞台に託して未来に渡す

 『飛天双〇能(ひてんふたわのう)』とは、12年一巡りで開催される能楽演能です。第1回目は令和5年に滋賀県・多賀大社能舞台で行われ、翌年2回目を伊勢神宮内宮能舞台で、今年3回目を「潮待ち」鞆の浦の沼名前神社能舞台で開催されます。能楽演能のほかにもシンポジウムやワークショップなどのイベントなども行われます。鞆の浦ならではの風情と、能の神秘的な魅力をぜひ感じてください。
 日時:令和7年3月5日(水)~8日(土)

 「飛天双○能」は、歴史ある日本各地の野外舞台12ヶ所をめぐり、古来より日本が伝承して来た生活文化を再起動させることで本来の日本美、日本力を発揮することを目的としています。 「双〇」とは、陰陽、前後、左右、東西、南北、男女、火水、太陽と月など、我々の身の回りに存在する全ての事柄は、この二極の対峙と調和により成り立っていることから名付けられました。
 飛天双〇能(ひてんふたわのう)

 ◆第三回能楽奉納「飛天双○能鞆の浦」沼名前神社にむけて

 --- 2025年2月2日 https://hitenfutawanoh.myshopify.com/blogs/news/20250201 ---

 「飛天双○能」の目的は古来より日本が伝承して来た生活文化を再起動させることで本来の日本美、日本力を発揮することです。
  先ず「農」農業の役割は日月星、火水土、山川草木と言う自然と向き合い、それらが与えてくれる 無尽蔵の恵みを余すことなく生かし活用することが「百姓」故に全てのもの作りに通じている姿を表しています。 その盤石なもの作りの上に素晴らしい文化の花としての総合芸術「能」の花を咲かせる事が出来るのです。 その「衣食住」に関わるもの作りの最先端を担う品々を宮大工の手による能舞台という神器に御供えする 役割をなすのが能役者(能楽師)です。これら全て一連の流れが保ち続けられていることが本当の日本の姿であり、正に日本美を象徴する伝統文化として世界に誇る事が出来るのです。
 今回第三回となる鞆の浦能楽奉納では特に宮大工の手による組み立て能舞台が注目されます。太閤秀吉が持ち歩いた組立て式能舞台は桃山時代のものであり現存する最古の組み立て式能舞台になり、建築家のみならずとも大変興味深いものとなります。
 その他は第一回より取り組む道具類の復元になります。鼓を形作る上で必要不可欠な麻製の調べ緒紐を国産(栃木県)の精麻に、染色を草木染(日本茜)に約100年振りに復元して来ました。大鼓の皮も古式ゆかしい寒晒しなどの作業工程再現復元に取り組み更に深めて参ります。能舞台関連で無くてはならない橋掛りの揚げ幕の新調にも取り掛かっております。もちろん幕の五色は全て草木染めになります。
 この様に全て日本が古来何千年の時を経て受け継いできた人から人への伝承叡智が伝統であり、それが未来というものを生み出すという原理原則を忘れてはなりません。この取り組みに賛同する同志の方々と共に、300年後の方々が笑顔で喜んでくれる未来を念じて 真剣に取り組む覚悟です。
 何卒宜しくお願い致します。
 彌榮 大倉正之助

 …と、こんな記載がありましたけど、能の世界は、GONsanには場違いかも(^-^;
 まぁ、せっかくですから、とりあえず鑑賞します事に(^-^)//"

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日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)