


















「遊歩道北口」から海岸沿いを進みますと、スグにこんな歌碑が…
『梓弓ひくしほどきに 矢の島のあたりは誰も 興にのりつね -- 抱臍 --』
…と、こんな歌碑ですけど〝抱臍〟とは、何者?
分かりませんから、早速、WEB上で検索です。そぅしますと、ふ~ん、こんな記載が出て来ましたネ(^.-)☆
◆能登原(広島県福山市)
--- すさまじきもの ~歌枕★探訪~ http://saigyo.sakura.ne.jp/notohara.html ---
広島県福山市沼隈町の能登原は平家物語ゆかりの地である。
讃岐国屋島の戦いで敗れた平家一門は瀬戸内海を西に逃れ、能登原の地に陣を張った。総大将は能登守教経(のとのかみのりつね)。
一方、源氏側は那須与一を大将として対岸の田島に陣を張り、両軍は睨にらみ合いを続けた。そして、三日後に源義経お得意の奇襲作戦により平家側は総崩れとなり、さらに西海をさまよい、壇の浦へ追い詰められていく。
え~と、能登守教経が、能登原に陣を張ったのではなく、能登守教経が陣を張った場所が能登原と呼ばれるようになった、と言うのが正解。
また、田島のすぐ隣にある矢ノ島。能登守教経が射放った矢が、海を超えて島に突き刺さり根がはったのが島名の起こりと。
その他、敗れた平家一族が住み着いた伝説が残る平家谷や、小宰相とおしどり夫婦だった平通盛を祀る通盛神社があったり、赤播あかはた神社があったり(源氏は白旗)、そのほかいろいろあって、一帯に平家物語ゆかりの地が点在している。
能登守教経が矢ノ島に矢を射た逸話を詠んだ狂歌がある。
《梓弓ひくしほどきに 矢の島のあたりは誰も 興にのりつね 桑田抱臍》
桑田抱臍は江戸時代の狂歌師で、この辺りの出身。「梓弓あずさゆみ」は「引く」や「矢」に掛かる枕詞。
能登守教経はここから矢ノ島まで矢を射たとのこと。
…と、こんな歌碑でありました。大変、勉強になりました(^_^)v
阿伏兎海岸には数名の釣り人が…GONsan同様に、おヒマな方なのかも(^-^)何にも釣れてはおりませんでしたけど…
この方達を横目に阿伏兎海岸を進んで行きますと、〝あぶと本館〟までヤッて来ました。このまま直進し300mばかり進みますと〝阿伏兎観音(磐台寺)〟ですけど、今回は〝あぶと本館〟の山際に〝遊歩道西口〟がありますから、この西口から〝尾根歩き遊歩道〟に戻りたいと思います。
〝遊歩道西口〟の手前付近にも、こんな歌碑が…
観音様の桜の段々を登り詰めると
下の方から微かな波の音が聞こえて来た
私は観音様の慈悲や 親の慈悲というようなものを感じながら 外へ出て
朱塗りの手摺りやぎぼしなどを さぐってみたが 古びた感じであった
足元の廊下が少し海の方へ傾いていた
-- 宮城道雄 随筆「鞆の津」より --
それでは、〝遊歩道西口〟を上がり〝尾根歩き遊歩道〟に戻りますけど、「んっ!?」入口には、『×この先 通り抜け出来ません』の案内標識ですから大困惑のGONsanです(^-^;
〝遊歩道西口〟を歩けないとなりますと、ここまでのルートを逆戻りとなってしまいます。下って来ました〝北口〟ルートを、再度、上がって行きます事を想像しただけでもウンザリです(^-^;
とにかく、〝遊歩道西口〟ルートを進みたい…こんな強い想いで立入禁止を強行突破となりました。
段々を上がると平坦地となりましたけど、その先には、またまた〝通行禁止〟の案内標識です。標識を前に前方に眼を向けますと、山の斜面が崩壊で、その修復工事中のようにも思えます。
何とか通れそうにも思えますし、通れないようにも見えますけど、とにかく進んで確認しませんと(^-^)//"
GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)