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 法界碑脇には、〝水呑歴史資料保存会〟による説明板が…これには、こんな記載がありました(^.-)☆

 ◆高札場「札場」跡

 木の板に法令を書き、門前や路頭、辻などに掲げた場所。
 古代より類似したものがあり、近世には町や村に高札を掲げる高札場が設けられた。高札には、公儀(幕府)高札と藩高札があり、広い意味での治安や秩序の維持に関するものが多く、法令の周知徹底というより、幕府権力の威光を象徴するものとして機能した。

 ◆大法界

 「水呑千軒みな法華」と言われたように、水呑には妙性山妙顕寺をはじめ数多くの寺院があり、「南無妙法蓮華経」の髭題目を刻んだ法界碑が至る所にあります。法界とは「仏の世界」を意味し、法界碑は亡くなられた方の供養や、自然災害や疫病に苦しむ人々の加護を求めたり、寺の参道脇にはこれより聖域に入る結界を示す等、様々な目的を持って建てられています。
 この大法界は、正面に「南無妙法蓮華経日蓮大菩薩」、向かって右側に「天保四癸巳年三月吉良辰」、台座に「村講中」と刻印されています。
 巨大な自然石を組み合わせ、高さは5.3mあります。古老の話によると、対岸の箕島から船で運ばれて来たと言われ、福山でも最大級の大きさを誇り、水呑信者の信仰心の深さがうかがえます。
 参考文献『福山再発見 -- 知って欲しい文化財』『歴史学事典9法と秩序』『福山市史』
 水呑学区まちづくり推進委員会 水呑歴史民俗資料保存会 平成30年3月設置

 大法界碑からは、参道を、〝水呑啓蒙所跡〟〝仁王門〟へと向かいます。

 ◆水呑啓蒙所
 明治5年(1782)に初等教育機関として設置、1873年対蓑(たいさい)小学校と改称、明治9年(1876)水呑小学校に改められた。明治41年(1908)に現在地に移転新築された。

 ◆水呑啓蒙所跡

 水呑に於いて、此処は啓蒙所と小学校の跡地であります。
 水呑村では明治5年(1872)3月にここ(土居)に水呑村啓蒙所が建立されました。又、同6年対蓑(たいさい)小学校と改称、同9年水呑小学校となる。
 此処は別名学校屋敷とも言います。当時の校内は、東西二十一間(約42m)、南北十一間(約22m)でした。
 明治38年(1905)には敷地八百坪、校舎三十一坪と拡張されていました。此処には明治41年(1908)頃まで小学校がありました。当時の生徒数は225人いました。この小学校の廃材は各郷の集会所に再利用されたそうです。(参考資料--水呑町史、水呑のあゆみ)
 ・鬼瓦 -- 当時の屋根瓦は現在の鍛冶屋集会所に使われています。
 水呑学区まちづくり推進委員会 水呑歴史民俗資料保存会 平成27年11月設置

 ◆仁王門
 現在の仁王門は参道にあるが、初代は本堂の前に寛永6年(1629)建立され、寛文10年(1670)に再建され、明治12年(1879)現在地に移転、仁王像は天保8年(1837)に再建されています。仁王像は阿形(右・あぎょう)、吽形(左・うんぎょう)がある。

 仁王門をくぐり石段を上がると、右に〝玉泉寺〟、左に〝壽泉寺〟そのまた左に〝玄祥寺〟が存在です。

 ・玉泉寺 -- 寛永2年(1625)の創建、開基妙顕寺18世日意上人。
 ・壽泉寺 -- 正保4年(1647)の創建、開基妙顕寺18世日意上人。
 ・玄祥寺 -- 元和7年(1621)の創建、開基妙顕寺18世日意上人。

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