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 んっ!?…こんな句碑(歌碑?)もありますネ。

 『鞆の津の 沖ゆく帆あり 明易き -- 秋桜子 --』

 この句碑の意味をWEB上で検索してみましたら、うん、うん、ありましたネ(^_^)v

 ◆YAHOO!JAPAN 知恵袋
 --- tos********さん 2010/8/4 18:24 ---

 「鞆の津の沖ゆく帆あり明易き」という水原秋桜子の句があるのですが、現代語訳を教えてください。

 ベストアンサー riv********さん
 -- 2010/08/04 18:46 ---

 鞆港 : 鞆の浦で最大の港。鞆の津とも呼ばれる。
 鞆の浦(とものうら)は、広島県福山市鞆町の沼隈半島南端にある港湾およびその周辺海域。

 わたしのかいしゃく:「とものうらの みなとから ながめると はるか おきあいに 帆船の ほがみえる もう いまにも 明けそうだ」

 ◆水原 秋桜子
 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 水原 秋桜子(旧字表記:水原 秋櫻子、みずはら しゅうおうし、1892年(明治25年)10月9日 - 1981年(昭和56年)7月17日)は、日本の俳人・医師。学位は医学博士。
 本名は水原豊(みずはら ゆたか)。松根東洋城、ついで高浜虚子に師事。短歌に学んだ明朗で叙情的な句風で「ホトトギス」に新風を吹き込んだが、「客観写生」の理念に飽き足らなくなり同誌を離反、俳壇に反ホトトギスを旗印とする新興俳句運動が起こるきっかけを作った。「馬酔木」主宰。別号に喜雨亭。
 はじめ窪田空穂に師事、短歌で独自の叙情性を育てたが、のちに俳句へ転じた。高浜虚子から指導を受け、昭和初期の「ホトトギス」を彩る四Sの一人として活躍。従来の俳句に短歌的表現を取り入れるなど、新鮮な句作を行った。しかし、虚子流の客観写生とは合わず、俳句誌「馬酔木」を主宰、叙情の回復を図った。これに呼応して新興俳句運動が起き、無季俳句容認の道を開いたが、秋桜子自身は無季俳句には批判的であった。

 この〝水原 秋桜子〟の句碑の近くには、万葉集の歌碑も…説明板には、こんな記載がありました。

 此処、鞆の浦は誠に景勝の地であり、昔から船泊りの港でもあった。
 万葉の時代から筑紫に赴く人も京に上る旅人も、瀬戸内の島々のたたずまい、海面に砕ける月の光、去来する白雲、時に激しい潮流の日にも、その情景を歌によんだ。
 「あまをふね ほかもはれるとみるまでに とものうらみになみたてるみゆ 万葉集」
 -- 昭和52年6月 桑田笹舟 書 --

 この歌碑についてもWEB上で検索してみますと、こんな記載がありました。

 鞆の浦は、広島県福山市鞆地区の隈沼半島南端にある港湾であり、日本初の国立公園「瀬戸内海国立公園」の一部であり、そのなかでも代表的な景勝地です。万葉集にも詠まれるなど古くから“潮待ちの港”として知られる場所でもあります。瀬戸内の島々のたたずまい、海面に砕ける月の光、去来する白雲、時に激しい潮流の日にも、その情景を歌によんだ。万葉集には、「あまをふね ほかもはれるとみるまでに とものうらみになみたてるみゆ」という歌があります。この歌は、天気が良く、波も穏やかであるときに、鞆の浦の波が立ち上がっている様子を表現しています。

 ・訓読 -- 海人小舟 帆かも張れると見るまでに 鞆の浦廻に波立てり見ゆ
 ・かな読み -- あまをぶね ほかもはれるとみるまでに とものうらみになみたてりみゆ

 ◆桑田 笹舟
 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 桑田 笹舟(くわだ ささふね、明治33年(1900年)6月24日 - 平成元年(1989年)7月31日)は、日本の書道家。福山市名誉市民。本名・桑田 明(くわだ あきら)。

 ・経歴
 広島県福山市坪生町出身。1922年、神戸市立教員養成所に入学し、安東聖空に師事。1924年、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験習字科に合格し、教員生活を始める一方、西谷卯木らとかな書の研究を始め、古筆研究家の田中親美に師事。同年、一楽書学院(一楽書芸院)を設立して笹舟と号す。1927年『かなとうた』発刊。1932年、関西書道会展、東方書道会展で最高賞受賞。1940年、教員を退職し、創作と学院の運営に専念する。
 戦後は日本かな書道界を牽引し、現代かな書の先駆けとなる。1951年、日展特選。1956年、朝日新聞社主催「現代書道二十人展」に出品。1965年、兵庫県文化賞。1970年、日本芸術院賞受賞。1978年、勲四等旭日小綬章。1980年、東大寺華厳経奉納。1981年、紺綬褒章。1982年、東宮御所において皇太子妃(現在の上皇后美智子)に料紙について御進講を務めた。1986年、福山市名誉市民。その他、日展審査員・評議員・理事、毎日書道展審査会員、一楽書芸院会頭、書道笹波会会長、日本書芸院名誉顧問などを歴任した。
 関西かな上位の基盤を作った一人で、門下から多くの人材を輩出した。弟子に桑田三舟、山龍洞、池内艸舟がいる。なお、三舟は実子である。月刊誌『書芸公論』や『書道笹波』を刊行し、門人への教授を行ったほか、1960年代から、屏風や額といった大きな媒体に大字のかな(大字かな)を書き、「大字かな」運動の先駆者として書道隆盛の基礎を築いた。また、書だけでなく、料紙研究の分野でも功績を残し、料紙研究の延長として、寸松庵色紙や継色紙といった古典の仮名名筆の復元研究に取り組んだ。
 2020年、笹舟の作品42点と収集作品などが、ふくやま書道美術館に寄贈された。

 …と、こんな方達でありました(^.-)☆
 標識に従い、〝園地〟〝ロータリークラブ奉仕の森〟に向かってみましたけど、以前と同じで、何にも変わっておりませんでしたネ(^-^)
 第一展望台側の散策を終えましたので、次に、第二展望台側の〝後山園地探勝歩道〟を散策します事に(^-^)//"

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