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 〝史跡巡り〟も、いよいよ終盤で、〝水呑郵便局跡・鞆警察署水呑警部補派出所跡・浜貝塚〟等の説明は、周辺が見渡せます福山南病院sanの駐車場から行われますガイドsan。

 ◆水呑郵便局跡
 明治40年3月31日の創設にして、同44年11月11日より電話取扱いを開始し、大正4年7月11日より電信事務を開始する。

 ◆鞆警察署水呑経緯部補派出所跡

 本村に景観の駐在は、明治19年11月松永警察署鞆分署水呑駐在所の設置より始まる。右設置以前の治安については、村より取締人、加役人、または夜廻番等を任命して取締人は一般人の告訴、聞き込み等で犯罪人を逮捕、其の筋へ連行する権利と義務を持たされていた。明治16、17年頃には取締人、加役人に年間5円、夜廻人には3円を支給されていたが、而し専業ではなかった。
 昭和23年1月10日より国家警察、自治警察の2本立てとなった為、役場内の一室を利用して自治警察誕生、警察長1人、警察署長1人、巡査部長2人、巡査4人、書記1人、雇用人1人の町費支出により発足、23年濱の蘆田川支川埋め立て地に署及び宿舎新築、此れに移転する。
 法令により自治警察の仕事は一般警察事務の他、鉄砲所持許可、古物商営業免許、古物市場開設許可、質商営業許可、風俗営業許可、車輌運転許可等の事を司っていたが、法令改正により存廃自由になったので、昭和26年9月30日の町議会の決議により此れを廃止し、翌日より国家警察による鞆警察署水呑警部補派出所となり、建物器具等は一応国へ寄附の形を取るに至った。

 ◆浜貝塚

 浜貝塚は、県道福山~鞆線の三叉路交差点入口から南に分岐する旧県道沿いに分布する。範囲は約70m先の道路敷地と東側及び、西側丘陵部と推定されている。現在は海岸から遠ざかっているが、当時は海岸に沿って大規模な貝塚を構成していたようだ。
 昭和8年(1933)7月、水呑小学校の橘高武夫先生によって届出され、同月沼隈郡教育委員会によって最初に発掘が行われた。
 場所は、旧県道の道路敷き一帯で縄文時代後期、晩期の土器と、礫砂岩層から人骨一体に石器と多数の貝類が発見された。
 平成10年3月、土木工事中の残土から縄文土器に貝類が採取された。平成21年6月、採取時の鑑定を京都大学の千葉豊教授に依頼したところ、約6千年前の縄文時代前期の「磯の森式土器」と、縄文時代中期の「里式土器」であることが判明した。
 江戸時代から新田開発及び宅地化に伴い、本格的な調査は行われていない。

 ・出土遺物
 縄文式土器(前期~後期)、石鏃、石斧、石棒、鼓石、カキ、ハマグリ、カガミガイ、アサリ、サルボウ、ハイガイ、アカニシ、ツメタガイ、フトヘナタリ、ウミニナ、人骨、獣骨、魚骨

 …と、駐車場から、それらの方向を指差しながらの説明でした。
 ふ~ん、〝浜貝塚〟からは、人骨も出土しましたとは知りませんでしたネ。
 駐車場から下りて来ますと、〝水呑郵便局跡〟対面に「水神・地神碑」が…このように〝水神・地神〟が一体となって祀られていますのは、中国地方でも数えるほどしか有りませんようです。
 鞆街道を横切り、現在の水呑派出所前の安政橋を渡りますと、水呑川土手を南下し〝豊年橋〟へ。
 サクラ並木の紅葉が大変キレイ。土手の斜面・水呑川に多数の落葉。これまた鮮やかで大変キレイでありました(^-^)//"

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