荒神社とお別れしますと、次に向かいますのは、清水池ほとりの〝法界石塔〟。
◆法界
小水呑には法界さんが二体ある。荒神さんの境内と清水池のほとりにある。水呑町内には14体あり、後者は町内最古の法界石塔である。延宝2年(1674)5月1日の造立。
前年の延宝元年には草戸千軒町全滅の大洪水が記録されており、水呑も被害甚大でその供養と平穏を祈願して建立されたものと思われる。延宝2年もまた大洪水、大凶作、餓死者続出。
前者の法界さんは水呑薬師停留所(上り)下道にあったが現在地に移転。安政2年(1852)造立。前年の安政元年(1851)の夏大早魃。11月4日地震発生。法界塔は関東甲信越地方の道祖神と同じく路傍の神であり。峠、辻、村境などの道端にあって悪霊や疫病を防ぐ神であり、また子孫繁栄、交通安全の神としても信仰されている。(水呑の法界さんと地神さん)
◆疣神(いぼがみ)
平成27年5月現在、全国では1,223体の報告があり、広島県内では44体、そのうち13体が福山市内にある。
水呑町には清水池隣りと善住寺の参道に併せて2体ある。疣に水や塩、泥や灰を付けて祈るが、水呑町の2体には特段の記載無し。(ネット検索)
〝法界石塔〟を通り過ぎますと、高浦八幡神社に到着です。
◆高浦八幡神社
小水呑にあった八幡神社を昭和25年(1950)に高浦に遷座する。
戦の神様である八幡神社は日清戦争の勝利を祈念してか、西の水呑八何神社より小水呑に明治27年(1894)に勧請された。
西にある水呑八幡神社は長和村(現、福山市瀬戸町長和)の福井(居)八幡宮の御分霊と伝えられている。祭神は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后で例祭は10月第1日曜日(旧例祭日旧曆8月15日)。往古、水呑村は長和村と氏神を一にしていた。
永禄13年(1570)の祭礼の時両村口論に及び、御幣を奪って持ち帰る際、途中瀬戸村上志田原梅木原の素屋に御神体を隠し、次の人に大声で叫んで助けを求めた。今この素屋を小神社として、「おらび八幡」と呼んでいる。次の人は更に神体を持って洗谷一本木に持ち帰り、社を建てて御神体を祀った。ここを「宮の段」と言い、これが水呑八幡神社の最初である。
瀬戸長和の福井(居)八幡は、承和元年(834)に男山八幡宮(石清水八幡宮)より勧請されたという説と康和元年(1099)に宇佐八幡宮より勧請されたとの説がある。
高浦八幡神社では、境内には上がらず古道から社を眺めながらの説明でありました。
古道を挟み高浦八幡神社の対面のお宅の軒先の舗装部分には、こんな手形・足形が(^.-)☆
ご両親・お子様3人の、5人家族なのかも分かりませんネ。何かの記念で、こぅして残されましたのでしょうねぇ~日付は「2023/05/10」。
今から、10年、20年、30年後…と、3人のお子様達が実家に集われますと、必ずここに眼が向きますのでしょうネ。実に微笑ましいですねぇ~
〝高浦八幡神社〟からは、〝トンコ川〟に向かいます。〝トンコ川〟もまた古道から見下ろしながらの説明でありました。
◆トンコ川
水呑七泉の一つで、現在でも地域の人達が使用しています。毎年夏に清掃しています。
スグそこなのに、何故、下りて行かないのだろう?…と不思議でしたけど、水呑交流館には「正午までに帰還するように」との指示が出ていますからとか(^-^)//"
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