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 まず向かいましたのが「ドーノキ川」です。

 ◆ドーノキ川

 水呑七泉の一つでドーノキ川(地名)は井戸形式のものである。
 福山から鞆に行く街道の中で水呑では一番最初に訪れる水飲み場で、地域の飲料水であり、また旅人の休憩を兼ねた水飲み場でもあった。
 ドーノキ川の名称は地名から取られたと書いてあるが、元禄13年(1700)の検地水帳の北坂谷の欄に「堂ノ後」、「堂のまえ」、「堂の下」との地名が見え、何らかの関係が有るものと考えられる。
 他にも水呑には「トンコ川」、「高木川」、「明見川」、「セイゾウボー川」、「ハタ川」、「松室川」がある。(水呑歴史民俗資料保存会)

 続いて〝荒神社〟に向かいます。
 荒神社のスグ手前辺りから、東方(芦田川方向)に眼を向けますと、昔使用していました農協放送用拡声器のある電柱付近に、古墳(小水呑塚丸古墳)が有りましたとか。
 小水呑に古墳が存在しました事は、今回の史跡巡りで初めて知りましたけど、ふ~ん、小水呑にも古墳が(^.-)☆

 ◆小水呑塚丸古墳

 広島県内約12,000の古墳の一つ。消滅古墳。明治5年生まれの女性は古墳の中で遊んでいたという。
 昭和15年1月30日の水呑小学校の史跡調査書によると、村界見通塚が小水呑にあり(現在は未使用の農協放送用マイクのある電柱付近)その形状は大半麦畑と化し、その一角に方2m、高さ1mの小藪として残存せりと書いてある。
 平成12年3月、広島県教育委員会発行の『広島県遺跡地図Ⅶ』には、
 名称:小水呑塚丸古墳、種別:古墳、時代:古墳、所在地:水呑町、概要:横穴式石室、備考:全滅
 と、掲載有り。(水呑歴史民俗資料保存会)

 …との事で、今まで何度か〝史跡巡り〟でこのコースを歩いておりますけど、「小水呑塚丸古墳」の存在の説明は、今回が初めてでしたネ(^_^)v
 〝荒神社〟に到着ですけど、この荒神社後方の山の中に〝明見(妙見)神社〟が存在です。今でも神社の建物は残存するのだと思いますけど、荒れ放題なのかも…説明のみでありました。

 ◆明見(妙見)神社

 宝暦元年(1751)創立。摂津国能勢郡の妙見大菩薩を分像安置する(水呑町史)。なお、由緒不詳、元禄13年(1700年)以前の創祀とする説もある(広島県神社誌)。明治5年政府の方針で仏斎を改め明見神社と改称され、祭神を天御中主神(あまのみなかぬしのかみ)とされた。
 山の神、小水呑、鍛冶屋の三社より後に出来た洗谷宝山の妙見堂も明見神社に改められたが、土地の信者の運動により元の妙見大菩薩の仏斎に復旧成功した。他の三社はこれに刺激されて明治30年に至り、三社合同で仏斎復旧の願書を沼隈郡長および広島県知事に提出したが認められなかった。(水呑町史)

 ◆荒神社

 祭神は迦具土神(かぐつちのかみ)。由緒不詳、元禄13年(1700年)以前の創祀である。火に関する神を祀っている。福山市史中巻の「近世の近郊農村神社一覧」に水呑村には二社(神社名不詳)、広島県神社誌には小水呑、栗の木、南浦の三社が載っている。
 荒神、穀神、龗神、賽神、火除神などの御祭神を祀る神社は、明治維新までは一般に荒神社と称する事が多かったが、明治以後では種々の社名に改められ、その多くが小祠である。(水呑歴史民俗資料保存会)

 ◆水呑薬師

 昭和30年代中頃まで荒神社の南隣に薬師堂があったが、火事にて焼失した。平成22年4月より1年間、現在荒神社に合祀されている木造薬師如来像の調査が行われ、背面は下記の通りであった。

 南無妙法蓮華経
 妙性山妙顕寺 廿三世 日純 花押
 薬師瑠璃光如来
 備後国沼隈郡水呑村安置佛

 台座を除く仏像の実測寸法は、高さ57cm、幅21cm、奥行19cmである。薬師信仰は古代、聖徳太子の時代には既に存在し、薬師寺、新薬師寺などがあり、特に眼の病気に霊験があるとされている。
 大正2年11月より昭和29年2月末日まで運行されていた鞆軽便鉄道(ラッキョ汽車)の駅名としても使用されていた。

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