ガイドさんの説明もありましたけど、WEB上にも色んな方が「磨崖和霊石地蔵」に関して綴っておられますので、それに眼を通し知識を深めてみたいと思います。
◆広島県の文化財 - 磨崖和霊石地蔵
--- https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-202030480.html ---
・【解説】
波打際の花崗岩に彫刻された磨崖式半肉彫の像で、頭部のうしろに円光背(えんこうはい)を浮き彫りにし、衣を通肩(つうけん)に、胸に瓔珞(ようらく)をかけ、蓮台上に結跏(けっか)している。右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠をのせている。像の左右には花瓶を浮き彫りにし刻銘があるが、潮と風雨にさらされて銘文は判読しにくくなっている。他の石碑に移刻された銘文によると、「于時正安二庚子年九月日大願主散位平朝臣茂盛幹縁道俗都合七〇余人仏師念心」とあり、造立の縁故を知りうる。なお、正安2年は西暦1300年に当たる。
※ 瓔珞(ようらく)…珠玉をつづった首飾り
◆磨崖和霊石地蔵(まがいわれいしじぞう)
--- 満潮になると首まで浸かるお地蔵さん https://www.sora-michi-minato.jp/spot/213 ---
・700年前に建造!?
磨崖和霊石地蔵は、佐木島向田港フェリー到着場のすぐ横の海中に鎮座しています。波打際の独立した巨岩の中央の蓮華座の上に舟形の輪郭を彫り沈め、その中に地蔵坐像が彫られています。
頭部のうしろに円光背を浮き彫りにし、右手に錫杖を持ち,左手に宝珠をのせています。 またこの像の左右には、花瓶を浮き彫りにし、その周辺に願文が刻んであり、正安2年(1300)仏師念心の刻銘があります。
・佐木島は石仏の宝庫
佐木島は島の至る所に石仏が祀られています。道路わき、山中の道端など、石仏の表情を辿っていくだけでも楽しいひと時です。
◆磨崖和霊石地蔵
--- Sagishimaさぎしま http://sagishima.info/guidemap/guidemap-09/ ---
鎌倉時代(1300年)に平茂遠が願主となり、仏師念心により造立され、県の重要文化財に指定されています。
通称「和霊石地蔵さん」と呼ばれています。高さ2.7m幅4.7mの花崗岩に浮き彫りにされた座像は、満潮になると肩まで沈み、干潮になると全身が現れる全国でも類を見ないお地蔵さんです。
そこに刻まれた文字は「東西南北各1町(約110m)において殺生禁断の地とし、また、お地蔵さんの大神通力をもって、人々があらゆる悪い境遇に落ちないようにお守りください」という文言が刻まれています。磨崖和霊石地蔵尊は、現実界のみならず冥界(めいかい)においても永遠に大悲をもって救済してくださる尊いお地蔵様です。
毎年、7月の終わりの土曜日の潮がひいた夕方から法要がおこなわれ、お地蔵さんへお参りをしています。夜店なども出て、夏の夜の楽しい行事となっています。機会がありましたら、是非、お出かけください。
◆磨崖和霊石地蔵
--- https://tabi-mag.jp/hm0435/ ---
広島県三原市鷺浦町、波打際の花崗岩に彫刻された広島県の重要文化財に指定される地蔵尊が、磨崖和霊石地蔵(まがいわれいしじぞう)。石碑に移刻された銘文から正安2年(1300年)に刻まれた地蔵尊だということがわかります。干潮時には波打ち際から、満潮時には向田港から見学可能。
・向田港近くの岩に刻まれた地蔵菩薩坐像
刻まれる石は、高さ2.5m、幅4.9m、厚さ3.7mで、半肉彫りで刻まれる地蔵尊坐像は、像高88cmで、広島県立歴史博物館にレプリカが展示されています。
干満差の激しい瀬戸内海のため、満潮時には首まで海水に浸かるので、見学には潮の満ち引きに注意が必要。
頭部のうしろに円光背(えんこうはい)があり、胸に瓔珞(ようらく=魔除けの装身具)を掛け、蓮台上に結跏(けっか=座禅の正しい姿勢)しています。
右手に密教法具の錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ=災難を除き、濁水を清くする、霊験を表す宝の珠)をのせています。
「于時正安二庚子年九月日大願主散位平朝臣茂盛幹縁道俗都合七〇余人仏師念心」と刻まれ、正安2年(1300年)、平茂盛が願主となり、仏師・念心により造立されたことがわかっています。
さらに東西南北各1町(110m四方)では殺生を禁じることなどが刻まれています。
仏師・念心は、米山寺・小早川家墓地の石造宝篋印塔(国の重要文化財)の制作でも知られる鎌倉時代の名仏師です。
今も「和霊石地蔵さん」と親しまれ、7月下旬の土曜、干潮時に法要が執り行なわれています。
ちなみに、和霊地蔵と呼ばれるようになったのは近世のことで、伊予・宇和島(愛媛県)に承応2年(1653年)創建の和霊神社の信仰の影響を受けて、和霊石(割石)地蔵と呼ぶようになったため。
もともとは、鎌倉時代、法然の唱える浄土教の台頭に対抗するために、南都六宗(三論・成実・倶舎・法相・華厳・律の六宗)が民衆救済の一環として地蔵信仰を積極的に取り入れ、西国に地蔵信仰が広がったことが背景にあります。
◆磨崖和霊石地蔵(まがいわれいしじぞう)
--- ひろしま文化大百科 http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=724 ---
三原市佐木島向田野浦の波打際にある高さ約2.7メートル、幅約4.7メートルの巨岩に半肉彫(はんにくぼ)りされた地蔵菩薩坐像(ぼさつざぞう)である。右手に錫杖を持ち、左手に宝珠(ほうしゅ)をのせる。
満潮時には、像の肩のあたりまで海中に没する。
左右の花瓶(けびょう)に刻まれていた銘文(めいぶん)は、風雨にさらされて判読できなくなっているが、他の石碑に移刻されたものから、主旨を要約すると、東西南北各1町を未来にわたり殺生禁断(せっしょうきんだん)とした。
造立は釈尊円寂(しゃくそんえんじゃく)2251年にあたる正安(しょうあん)2年(1300)に、散位平朝臣茂盛(しげもり)が大願主となり幹縁道俗(かんえんどうぞく)70余人を集めて行った。仏師は念心(ねんしん)である。
近世に伊予宇和島(愛媛県)の和霊(われい)神社の信仰の影響を受けて、当像を和霊石(割石)地蔵と呼ぶようになったとされる。
瀬戸内海の岬の地蔵の中では最も古く、地蔵信仰の海への広がりがうかがわれる。芸備地方の在銘石造物の中でも古い部分に属する。また美術的にみても、彫法は密で秀麗な姿の像である。以後内海各所で造られる地蔵像の原型といっても過言ではないと思われる。
◆磨崖和霊石地蔵
--- https://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/nazo/nazo27.html ---
--- 謎を秘めた仏たち 川尻祐治 ---
磨崖仏は三原市鷺浦(さぎうら)町の佐木島(さぎしま)とよばれる周囲12kmの島の海岸部にあり、満ち潮ともなると、海中に沈んでしまうという特殊な環境下の石仏である。したがってその全容は干潮の時のみ拝見できる。
この島には鷺港(須波-すなみ)と向田港(向田野浦-むこうたのうら)があるが、二つの港への船便は少なく、しかも港は島の北端と南端にあって、これを結ぶタクシーもないという。三原に行けば何とかなると、簡単に考えて来てしまったが、行賢像の所在確認に手間取ったことを思うと不安になった。善根寺の見学の帰り、三原のホテルに入る前、三原港のフェリー乗り場に立ち寄り、佐木島までの船便と和霊石地蔵の所在地、潮の満ち引きを確認した。
切符売り場の女性に尋ねてわかったことは、明日の満潮は昼頃で、午前中は潮が引いているということ。佐木島の向田経由瀬戸田行きの一番船は、7時5分に出るということ。しかし幸せなことに、明日の日曜日は、島でトライアスロンの大会が開かれ、臨時便が多数出航するという。磨崖仏の所在はハッキリとしないが、これに乗船することにした。明日の朝食は抜き。
翌日、港近くのホテルを6時半出発。港までは徒歩10分足らず、待合室の売店で弁当を買い朝食を済ませる。向田経由瀬戸田行きの船は定時に出発。そういえば、海に沈む仏は佐木島の隣り、因島にも巨岩に刻まれた「鼻の地蔵」とよばれる石仏がある。こちらは尾道から車でいける。高速艇の乗客は七、八人。フェリーよりはるかに早い。天気は今一すっきりとしない。
三原港の桟橋が見えなくなったと思ったらもう向田港に到着。瀬戸内の波の穏やかな海、わずか15分足らずの乗船であった。驚いたことに、土地の人に聞いてもその所在が分からず、気をもんだ磨崖仏の刻まれた巨岩が、桟橋の直ぐ脇の砂浜に見えていた。案ずるより生むがやすしの諺を実感した。
江戸時代、佐木島は安芸国豊田郡、広島藩領に属した。全島広島系花崗岩の島で、島名は神功(じんぐう)皇后が鷺の群れをみたことから起こったといわれている。和霊石地蔵のある向田野浦は、島の南部にあり、穏やかな入り江に面している。
磨崖仏は割石地蔵磨崖仏ともよばれているが、近年は磨崖和霊石地蔵と書かれる。和霊石の意味は分からないが、石に大きな亀裂があることから、割れた石、割石の地蔵が変化したと思われる。
海縁を走り島を一周する県道から砂浜に降りると、高さ約2.7m、幅約4.7m、奥行き約4mの花南岩の独立岩があって、海に向き、陸に背を向けて西面する地蔵菩薩の像が半肉彫とされている。波打ち際には乱石積みの石垣による、結界が設けられ、周囲が地蔵の清浄な浜であることを物語っている。
像は高さ150cmの龕状に浅く彫り窪めた光背の中に、錫杖と宝珠を執り、高さ25cmの蓮華座に結跏趺坐している。像の前に各々二基の石造花立てと灯籠が置かれている。
地蔵本体は95cm、膝張75cm、頭長27cm、面幅20cmあり、肩の辺りから、波の侵蝕により石質が変化し、下が黒ずんでいる。意思的な目、大きな耳、胸飾、衣文など細部に至るまで丁寧に刻み、作者が本格的な仏師であることを物語っている。像の左右には華瓶と蕾をつけた三茎の蓮華が、これも浅く彫りこんだ龕の中に、半肉彫りとされている。さらに像の右、華瓶の上を四角く浅く彫り窪め、「現在未来人天衆、吾今應懃付嘱汝、以大神通方便□、勿令堕落諸悪□」と四行にわたって発願の趣旨を陰刻している。
さらにその脇に、大きく「釈圓寂二千二百五十一年、□時正安二年九月□日、大□主 □位平朝臣茂盛、幹縁道俗都合七十余人、佛師念心」(石仏 日本の美術 久野健 小学館)と陰刻している。
しかしこれらは七百年もの間の風浪によって磨滅が進み、読むこと難しい。
「…大□主□位平朝臣茂盛…佛師念心」の部分は、「大願主散位平朝臣茂平…佛心念心」(日本の石仏 山陰・山陽編 瀬戸内の石仏 岩道王宣)とも読まれており、正安二年(1300)に造像されたことが知られる。
作者念心は、小早川茂平が創建した三原市米山寺、小早川家墓地の石造宝篋印塔(国重要文化財)の制作者としても知られ、この地方で活躍した石工の仏師と考えられる。江戸の頃になって活躍する尾道の石工との関わりはないと考えられる。
発願者散位平朝臣茂盛は、沼田川東岸に古高山城を築き、三原地方に勢力を張った、沼田、竹原の両小早川氏の祖小早川茂平で、木像の発願者は茂平と考えるのが自然であろう。
小早川氏は、頼朝の旗揚げの際に功労のあった、土肥実平の子遠平が、沼田荘の地頭職に任じられたことから、一族を挙げて当地に移り、小早川を名乗るようになった。沼田荘の地頭職は遠平から養子景平、そして景平の子茂平に受け継がれた。
その茂平が海中に没する岩をなぜわざわざ選んで、地蔵菩薩の造像を発願したのか。あるいは念心が、潮が満引きし、制作日数にも相当の年月が必要と思われる最悪の制作環境の中で、これだけ大きな像の制作になぜ取組んだのか。当時の人々の宗教心を、深く掘下げなくては答えが出ないであろう。
見学が終わった頃、桟橋にトライアスロンの選手を乗せた臨時便のフェリーが到着していた。これを逃すと次の便が何時来るのか分からない。午後のスケジュールが大幅に狂ってしまう。慌てて乗船すると、乗客は我々五人だけだった。
…と、色んな方々が綴っておられまして、こんな〝磨崖和霊石地蔵〟であります(^-^)//"
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