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 そぅしていますと、〝備後と安芸の国境〟までヤッて来ました。
 この国境について、ガイドさんから説明を受けていますと、先ほど通過して行きました御神輿が戻って来ましたネ(^.-)☆
 GONsan達が歩いておりまして追い越されました辺りに住居が一軒ありまして、そこまでが〝佐木地区〟なんでしょうけど、本来ならそこでUターンとなりますようです。が、道幅の関係でUターン出来ず、少し先まで走行しUターン(^-^)
 で、引き返して来ている…と、ガイドさんのお話しでした(^.-)☆
 国境には、こんな説明板が設置されてありました。

 ◆備後と安芸の国境の説明文

 旧きは
 ここは 備後と安芸の国境

 -- 二分されたさぎしま --
 延宝5年(1677)佐木島の北半分と小佐木島は三原城主、浅野氏分に、南半分の向田野浦村は広島本藩の所管となり、備後国と安芸国となった。須波村属佐木島と向田野浦村では、国境の争いが度々起きた。

 -- 山境の争い --
 延宝年間、須波・向田両村の山境の件につき喧嘩続出、数度の出入りに及び、十年に近い紛争となった。天和3年(1683)、佐木の住民が幸神社を500メートル佐木寄りの現在地に遷座したと伝えている。貞享元年(1684)の出入りは熾烈を極め両村の在方役人は悉く御役御免となった。
 このことの解決のために郡代より三名が調停役に命じられ和議が図られ貞享2年(1685)、向田・佐木の山境の紛争が決着した。

 -- 海藻の争い --
 文政12年(1829)、海藻の争いがあった。海上の境界は陸上の村境の延長線上と設定されているが、境界線の延長方向が問題となり紛争が起き、争いは長年続いた。
 明治22年(1889)、市町村制が施行され向田野浦村と須波村属佐木は合併、一つの行政区域、鷺浦村とになった。

 --- 2015年12月 郷土史家:山下博巳 制作:元気さぎしま協議会 ---

 永年続きました紛争も和議により決着。その際に交わされた〝覚書〟の内容が、説明板の下に記載されておりますけど、何と綴られていますのか、GONsanにはよく分かりません(^-^;
 事細かな取り決めがありましたのでしょうネ(^-^)/
 この国境から少し進んだ路傍には、〝第五北川丸遭難慰霊地蔵〟が…そして、この慰霊地蔵の左側の道を上がって進みますと〝第五北川丸遭難者慰霊碑〟がありますのでしょうけど、残念ながら〝さぎしま一周ウォーク〟のコースに入っておりませんから…

 ◆第五北川丸遭難慰霊地蔵。
 第五北川丸(総トン数39トン)は、昭和32年(1957)4月17日瀬戸田港から尾道港へ帰途の佐木島西海岸沖で座礁、転覆し113人の方が亡くなった第五北川丸沈没事故。この犠牲者を追悼する地蔵さん。

 それではまた、〝第五北川丸沈の海難事故〟をWEB上で確認してみます事に。

 ◆第五北川丸沈没事故

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 第五北川丸沈没事故(だいごきたがわまるちんぼつじこ)は、1957年に発生した海難事故である。
 舵を甲板員見習に任せたために操船を誤り、暗礁に座礁・転覆した事により発生した事故。定員の3倍を超える乗客を乗せたうえ、救命胴衣も定員の半分しか用意しておらず、死者・行方不明113名を出す惨事となった。

 ・事故の概要

 1957年4月12日は穏やかな天気であり、「西の日光」といわれる生口島(当時:広島県豊田郡瀬戸田町、現在:広島県尾道市瀬戸田町)・耕三寺には大勢の団体参拝客や花見客が訪れていた。
 午後0時半に瀬戸田港から尾道港への帰途についた芸備商船の定期客船であった第5北川丸(総トン数39t、旅客定員77名、船員7名、合計定員84名)が出航した。
 この客船は、定員が84名であったにもかかわらず、235名(うち子供12名)という旅客定員の3倍超の乗客と乗員4名を乗せていた。しかも同船は建造から33年(1924年建造)経過した老朽木造船であり、乗員5名のうちひとりを別の用事のために下船させたため、船長自らが切符整理を行い、舵を当時16歳の甲板員見習(事故により死亡)に任せていた。生口島瀬戸田港から尾道港に向け出航しておよそ10分後、佐木島西方にある寅丸礁(事故後、灯台が設置された)と呼ばれている暗礁に座礁・転覆し、あっというまに沈没してしまった。
 付近を航行していた運搬船や漁船がただちに救助に当たったが、船内に閉じ込められるなどして死者・行方不明113名、負傷者49名を出す惨事になった。
 海難審判(1959年3月26日・言渡)では、操船を未熟かつ資格のない甲板員見習にまかせた船長の職務上の過失に加え、老朽木造船に安全性を省みずに多くの乗客を乗せるなど運航会社による運航管理が不適当であったとして責任があるとされた。

 ・その後の経過

 事故後、現場近くの地元住民らが中心となり、現場近くで毎年4月に慰霊祭を開催してきたが、慰霊会を執り行っていた地元佐木島の住民及び遺族が高齢化してきたため、節目となる五十回忌にあたる2006年4月8日の法要を最後に遺族に対して参列呼びかけをしなくなった。しかし、地元住民により慰霊祭は毎年続けられており、事故から60年目を迎えた2017年4月12日の慰霊祭には約20人が集まった。

 ◆第五北川丸遭難者慰霊碑(だいごきたがわまるそうなんしゃいれいひ)

 -- 事故現場を臨む丘の上にある慰霊碑 --
 昭和32年4月、佐木島西海岸沖での座礁により113人の方が亡くなった、第五北川丸沈没事故。この犠牲者を追悼するため、事故現場を臨む丘の上に慰霊碑が建立されています。地元では、有志によって参道の整備や慰霊碑周辺の樹木の剪定や清掃が行なわれ、事故のあった毎年4月12日に慰霊祭を行なっています。参道には慰霊祭に満開となる桜が植樹されています。

 …と、こんな海難事故でしたようであります(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)