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 墓地を横目に山際に上がって行きますと、うん、うん、これが〝唐尾山四国霊場一番札所〟のようですネ。
 その並びの右側に〝好右衛門義擧碑〟が…
 説明板もありますので、眼を通してみますと、

 ◆明和一揆の義民・渡邉好右衛門

 明和6年(1769年)の秋から翌年にかけて、福山領は天候不順による大凶作と重税により、飢餓人が出るほどの過酷な状況に置かれ、窮乏に耐えかねた農民達によって明和一揆が勃発しました。
 その際、福山領6郡すべての農民達の信頼を得た指導者の一人が下御領村組頭の渡邉好右衛門です。農民達の要求は大半が認められましたが、幕府の発令した一揆弾圧により、首謀者とされた好右衛門と下竹田村の定藤仙介、北川六右衛門の3人が打ち首、獄門の刑に処せられました。
 明正寺(上御領)の過去帳には、法名とともに、好右衛門、仙介のいずれも「安永2年2月13日」の同日に歿した記載があります。好右衛門の墓は寒水寺にあると伝えられて来ましたが、残念ながら、現在、特定できていません。
 なお、好右衛門については、昭和4年に土肥七郎(政長)氏によって備後國分寺域に建立された好右衛門義擧碑があり、その霊徳を顕彰しています。

 --- 平成29年3月 神辺ふるさと会 ---

 ◆延宝の水害 供養塔

 備後國分寺寺域の一角に、大正11年に土肥七郎氏による延宝の大水害の犠牲者63人の供養塔があります。
 江戸時代の初期、延宝元年(1673年)5月14日、この地方は集中豪雨に襲われ上流の池が決壊、堂々川が氾濫し川下の村は大被害となり、63人もの犠牲者が出る大災害となりました。この洪水で広大な寺院であった備後國分寺の伽藍も流出し、田畑には1メートル以上の土砂が堆積しました。福山藩はこれを教訓として、土砂対策として石積みの砂防椻提「砂留」の建設に力を注ぐことになり、堂々川に16基も作りました。
 なお、2006年(平成18年)には中流域の砂留8基が国の登録有形文化財に指定されました。

 --- 平成29年3月 神辺ふるさと会 ---

 …と、〝好右衛門義擧碑〟〝延宝の水害供養塔〟の由来の説明が(^-^)//"

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