一直線に延びました参道を山門に向かって進みますと、右側に〝萩嶋稲荷神社〟が有りますので、まずは参詣となりました。
そして、〝萩嶋稲荷神社〟周辺の景観を何枚かパチリです。
WEB上で〝備後国分寺〟を検索してみますと、こんな記載がありました(^-^)//"
◆備後國分寺
--- http://z80bingo.starfree.jp/a-21-kokubunji/a-21-kokubunji.html ---
国分寺(こくぶんじ)福山市神辺町下御領
中国四十九薬師霊場第十二番札所
ご本尊は薬師如来。山号は唐尾山醫王院といい、真言宗大覚寺派に属する。
天平13年(741)に聖武天皇は全国に国分寺の建立を命じた。それは全国に置かれた国府付近に国分尼寺とセットで建てられていった。正式名称は国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)と称する。備後では、国府は府中市に置かれ、府中市元町の広谷公民館前駐車場付近一帯が備後国府跡ツジ遺跡と比定され現在も発掘調査が行われている。発掘現場では三つの大規模柱穴発見され、国政を司った国庁建造物跡と考えられている。また備後国総社は近くの小野神社境内に確認されている。
備後国分寺は昭和47年(1972)から発掘調査が行われ、東西180mの寺域が確認され、法起寺式伽藍配置であったことも判明している。一方、国分尼寺は、ここから西方の小山池に廃寺跡が確認され、国分寺と同じ瓦が出土したためにここが国分尼寺跡ではないかと思われている。
国分寺本堂は五間社の宝形造に近い寄棟造で、前方一間通りが吹き放たれ、さらに一間の向拝を持つ。角柱上は舟肘木を置く。屋根は桟瓦葺で、降棟の先に稚児棟が造られる。入母屋屋根に本瓦葺の三間一戸山門(仁王門)は古そうである。
-- 備後の歴史を歩くコミュの国分寺より転記 --
◆備後国分寺
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
備後国分寺(びんごこくぶんじ)は、広島県福山市神辺町大字下御領にある真言宗大覚寺派の寺院。山号は唐尾山。本尊は薬師如来。
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、備後国国分僧寺の後継寺院にあたる。本項では現寺院とともに、寺院跡である備後国分寺跡と、備後国分尼寺跡についても解説する。
・概要
広島県東部、神辺平野北縁の堂々川東岸に位置する。聖武天皇の詔で創建された国分寺(金光明四天王護国之寺)の法燈を継ぐ寺院で、現在の境内の南に古代の国分寺跡が所在する。西には小山池廃寺跡(推定備後国分尼寺跡)が所在し、両寺の南面には東西に古代山陽道が通るほか、付近では迫山古墳群等の古墳群が分布し、古くから文化的中心地であったことが知られる。中世期には戦乱で焼失し、再建伽藍も江戸時代の堂々川の氾濫で流失するなどの不遇の歴史を経たのち、現在に至っている。
古代の国分寺跡については1972年度(昭和47年度)以降に発掘調査が実施されており、主要伽藍として金堂・塔・講堂・南門の遺構が検出され、法起寺式伽藍配置であることが確認されている。
・歴史
<古代>
聖武天皇肖像
創建は不詳。天平13年(741年)の国分寺建立の詔の頃の創建と見られる。
弘仁11年(820年)の『弘仁式』主税寮の規定では、国分寺料として稲2万束があてられる。また延長5年(927年)成立の『延喜式』主税上では、国分寺料として稲2万束が規定されている。
<中世・近世>
享保元年(1716年)成立の「国分寺来由記」による由緒は次の通り。
かつては所領100余貫・子院が12を所有。
永禄4年 (1561年)春に兵火に遭い、神辺城主の杉原盛重が寄付を基に草堂七楹を建立、土地20貫を寄進。
慶長5年 (1600年)福島正則により寺領を没収。
延宝元年(1673年)洪水で堂舎倒壊、一堂のみが残存。
延宝7年 (1679年)水野勝種が網付山の材木を寄進、茅屋七楹を建立。
元禄5年 (1692年)薬師堂を建立、薬師如来・十二神などを安置。
(元禄10年(1697年)勝種により倒壊の原因となった堂々川の土砂災害対策が始まる(福山藩の砂留))
◇備後国分寺跡
僧寺跡の寺域のうち南北は未確定であるが、東西は約180メートル(600尺)を測り、東辺では築地塀が確認されている。主要伽藍は金堂を西、塔を東、講堂を北に配する法起寺式伽藍配置である。また寺域南辺において、古代山陽道に面して開く南門(南大門)が検出されている。
なお、『福山志料』では栗柄廃寺跡(府中市)を備後国分寺とする説を記載するが、現在では同寺は白鳳寺院跡とされる。
◇備後国分尼寺跡
尼寺跡は、僧寺跡から堂々川を挟んで西の小山池廃寺跡(こやまいけはいじあと、福山市神辺町西中条:北緯34度33分49.53秒 東経133度23分15.60秒)に比定される。1976-1978・1997年度(昭和51-53・平成9年度)に発掘調査が実施されている。
伽藍配置は東に金堂、中央に塔、西に講堂が並ぶ珍しい形式である。白鳳期末期の7世紀後半頃の創建で、平安時代の12世紀頃まで継続したと推定される。備後国分寺と近接し、かつ備後国分寺と共通する瓦が出土することから、白鳳寺院が奈良時代に国分尼寺として再利用されたと推測される。
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