◆屋島&屋嶋城(やしまのき)跡
屋島は高松市の東北に位置する台地です。江戸時代までは文字通りの「島」でした。その後、塩田や農地の開発のため、埋め立てが行われ、四国本土と陸続き(間には川がありますが)になりました。そのテーブル状の特徴ある形は瀬戸内海航路の目印となり、昭和9年(1934)に国の史跡及び天然記念物に指定されました。
このテーブル状の特徴ある形は、溶岩流がつくりました。瀬戸内海一帯は約1億年前の花崗岩が分布しています。屋嶋では、この上に1500万年前に噴出した安山岩質溶岩が覆っています。花崗岩は風化しやすく、風雨により浸食されています。それに対し、安山岩質溶岩は硬く、風化しにくいのです。その結果、このような特徴ある台地が出来ました。
斉明天皇6年(660)、唐と新羅に滅ぼされた百済を再興するため、大和朝廷は救援軍を派遣しました。しかし天智天皇2年(663)、白村江の戦いで大敗します。その後、両国の侵攻に備えて対馬から北部九州、そして瀬戸内海沿岸に作られた古代山城の一つが屋嶋城です。
現在、このような古代山城は28ヶ所確認されています。そのうち官撰史書に記載のある12の城を「朝鮮式山城」、記載のない16の城を「神籠石(こうごいし)式山城」と呼んでいます。備後国にあったとされる常城(つねき)、茨城は前者、総社市にある鬼ノ城は後者になります。屋嶋城は日本書紀の天智天皇6年(667)11月の条に「築倭國高安城、讃吉國山田郡屋嶋城、對馬國金田城(大和国に高安城、讃岐国山田郡に屋嶋城、対馬国に金田城を築く)」という記載がありますので、「朝鮮式山城」と呼ばれる古代山城になります。以下、図8を使って屋嶋城跡を説明します。
①城門地区
今回の見学地です。平成10年に山林に埋もれた石積みが地元の方によって発見されました。これを契機に調査が開始され、「幻の城」とまで呼ばれていた屋嶋城の存在が確認されました。
城門は、約2.5mの段差が設けられ(懸門)、敵の侵入を拒む構造となっています。このような構造は朝鮮半島の古代山城によくあるもので、朝鮮半島の築城技術が用いられたことを裏付けています。日本で初めての確認例として注目を集めました。また、敵が侵入した場合に備えて、城門の奥の岩盤とその上の小規模な土塁により、進入路を城壁北側に限定する構造になっています(甕城(おうじょう))。
城壁は高さ6mにも及ぶところもあり、自然地形に添うように、山上でも確保できる安山岩で築かれています。
②南水門&③北水門 -- わずかな石積みしか残っていません。
④屋島寺周辺 -- 南嶺の広い平坦地で、倉庫等があった可能性が指摘されています。屋島寺境内からは、築城時代の須恵器が見つかっています。
⑤北斜面土塁 -- 昭和60年に発見されました。盛り土と石積みで、小規模な城壁が築かれています。
⑥浦生(うろ)地区
屋嶋城跡として最初に注目された遺構(石塁)です。しかし、その石塁が屋嶋城のそれであることを証明する明確な資料はありませんでした。平成21年から発掘調査で、7世紀後半頃の須恵器(平瓶(へいへい))が出土しました。これにより、この遺構が屋嶋城を構成する施設であることが明確になりました。
--- 当日貰った〝備陽史探訪の会〟資料より ---
◆蘇る屋嶋城(やしまのき)
「日本書紀」にその名が記されていたにも関わらず、長らくその実態が不明で、幻の城でした。1998年1月、屋嶋城を探索していた平岡岩夫氏がこの場所で正面の石積みを発見されました。この発見を契機に、高松市教育委員会による発掘調査が開始され、2002年、城門遺構の発見によってついに屋嶋城が実在したことが照明されたのです。発掘調査によって、高さ6メートルにも及ぶ巨大な城壁も築かれていたことが分かりました。
左手に見える階段を設置している場所が城門で、2.5mの段差を設けて敵の侵入を阻む構造となっています。当時は、梯子などで出入りをして、有事の際には梯子をはずしていたと考えられます。城門の石積みの真ん中ほどに開いた穴(水口)からは雨が降ると水が流れ出ます。
2007年から開始した整備工事により往時の姿を取り戻した屋嶋城は、国防の危機に瀕し、城づくりに携わった人々、防衛を担った人々の往時の思いを我々に語りかけてくれるでしょう。
・修復
石積みは、1350年と言う長い年月によって、大部分が崩落し、かろうじて残っていた所も非常に危険な状態でした。そのため、城門と城壁の保存のため修復に着手しました。
まず、石工さんが丁寧に石積みをいて一石ずつとりはずしして行きました①。その後、石積み方法を研究するため、実験的に城壁の一部を復元し②、当時の城壁の形や施工技術の検討を重ねました。そして、古代の石積み修復にとりかかりましたが、試行錯誤の日々で③、特に城門の角の石は慎重に据えていきました④。城門の床下には石組みの排水溝があり、城門前面の真ん中ほどに開いた穴は水口(排水溝の出口)を復元したものです。崩落していたため当時の姿を想定し、何度もやり直し最も苦心した箇所です。
石積みの石材は安山岩で、淡い茶色の石が石積みに利用されていたもので、黒もしくは灰色の石が新たに加工して補ったものです。
--- 現地説明板より ---
城門跡の見学を終えますと、屋嶋城跡とお別れで、屋島寺経由でバスの待ちます駐車場へ。
屋島寺は、見学と言いますよりも、駐車場への近道として通り抜けとなりました(^-^)
遊歩道からは山門(仁王門)、四天門をくぐると鐘楼、本堂、宝物館が並んでいますけど、山門脇には、こんな説明板が…
◆屋島寺
当寺は唐僧鑑真(がんじん)和上過海大師が開創の基を開き、その弟子恵雲律師空鉢(くうはつ)と号した人が初代の住職となったと伝えられ、初めは律宗であったが、弘法大師が真言宗に改めた寺で、四国八十八ヶ所の八十四番の札所であります。本尊千手観音は、平安時代前期の作であり、本堂は鎌倉時代の末頃の建築で、共に重要 文化財に指定されています。
書院裏には名園雪の庭があります。鐘楼の釣鐘は鎌倉時代の初め貞応(じょうおう)二年に鋳(い)たものです。
なお、源平合戦の遺物など陳列した宝物館があり、狸(たぬき)で有名な蓑山(みのやま)明神の社もあります。
--- 山門脇の説明板より ---
WEB上で『屋島寺』を検索しますと、こんな記載も…
◆屋島寺
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
屋島寺(やしまじ)は、屋島の南嶺山上(香川県高松市屋島東町)にある真言宗御室派の寺院。四国八十八箇所霊場の第八十四番札所。
本尊真言:おん ばさら たらま きりく
ご詠歌:梓弓(あずさゆみ)屋島の宮(みや)に詣でつつ 祈りをかけて勇む武夫(もののふ)
・歴史
律宗の開祖である鑑真が天平勝宝6年(754年)朝廷に招かれ奈良に向かう途中に当地を訪れて開創し、そののち弟子で東大寺戒壇院の恵雲がお堂を建立し屋島寺と称し初代住職になったという。ここから1kmほど北の北嶺山上に屋島寺前身とされる千間堂遺跡がある。その後の時代の古代山城屋嶋城の閉鎖に伴い、南嶺の屋嶋城本部跡地に屋島寺を創設したとされる。すなわち815年(弘仁6年)嵯峨天皇の勅願を受けた空海は、お堂を北嶺から南嶺に移し、千手観音像を安置し本尊とした。天暦年間(947年~57年)明達が四天王像と、現在の本尊となる十一面千手観音坐像を安置した。
明徳2年(1391年)の西大寺末寺帳に屋島寺と屋島普賢寺の名があり、当時は奈良・西大寺(真言律宗)の末寺であったことがわかる。高松藩主生駒一正は慶長6年(1601年)に屋島寺の寺領25石を安堵。近世を通じ、当寺は高松藩の保護下にあった。現在も国有林部分を除いて、屋島山上の敷地のほとんどは屋島寺の所有である。
江戸時代初期まで本土と離れた島であったが、寛永14年(1637年)高松藩主・生駒高俊により陸続きとなった。その後、藩主・松平頼重が旧跡を惜しんで、正保4年(1647年)本土との間に水路(相引川)が復元された。
◇伽藍
山門(仁王門):二王像が安置。
四天門:向かって前に増長天・持国天、後に多聞天・広目天の四天王像(東大寺型)が安置。
東大門:駐車場からの入口。
本堂
大師堂:大師像を拝顔できる。
三体堂:鑑真が祀られていて拝顔できる。
千体堂:中央に千手観音、その背後に千体仏。
熊野権現社
蓑山大明神:祭神は日本三大名狸に数えられる屋島太三郎狸、蓑笠をつけた老人の姿で現れて弘法大師を案内したとされる。
宝物館:有料で拝観可能、本尊など多くの仏像が安置されている。
鐘楼堂
本坊
御成門
庭園:宝物館の中からガラス越しに眺めることができる。白い凝灰岩が露出してるため雪の庭という。
瑠璃宝の池(血の池):弘法大師がお経と宝珠を納めて池にしたとの伝説がある。その後、源平合戦の武士たちが血の付いた刀を洗ったことから血の池と呼ばれるようになった。
可正桜:1665年(寛文5年)に高松藩士松平半左衛門が植えた7株のうち枯れずに残った1株を移したもの。
源平屋嶋合戦八百年祭供養碑:寿永4年(1185年)早春に繰り広げられた合戦の戦没者を800年後の昭和60年に弔ったもの。
句碑:芭蕉「夏艸やつはものどもの夢の跡」が四天門の右前にあり、その前に「濱風尓(に)かしげ傾(かし)げて遍ろ笠」がある。梶原芭臣「松に月古き景色を時雨け里」と刻まれた球石を龍が銜える石碑が本坊の右前にある。
歩き遍路は山門を通り、四天門を通って正面に本堂、本堂の手前を右に進むと右手に納経所、正面に大師堂がある。車遍路は東大門から入って行くことになり、千体堂、三体堂、大師堂の順になる。
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