展望台へと向かっておりますと、途中、散策道の左側に小さな池が…屋島案内図には〝血の池(瑠璃宝の池)〟と記載がありましたけど、皆さん、別段、池を覗き込む訳でもなく素通りです。勿論、GONsanも(^-^)
〝血の池(瑠璃宝の池)〟につきましては、WEB上にこんな記載が…
◆瑠璃宝の池(血の池)
屋島寺伽監草創のおり弘法大師が「遍照金剛、三密行所、当都率天、内院管門」と書き、宝珠とともにおさめ周囲を池としました。ところが竜神が宝珠を奪いに来ると伝えられ瑠璃宝の池の名があります。
また、源平合戦のとき壇の浦で戦った武士たちが血刀を洗ったため池の水が赤くなり血の池とも呼ばれるようになりました。-- 高松市(血の池脇の案内板より) --
…と、こんな記載で、う~ん、せっかくですから立ち寄り、画像に納めれば良かったですねぇ~残念(^-^;
そして少し先で、2~3名の方が右側の脇道へ…んっ!?何があるのでしょう?
GONsanも向かおうとしますと、「単なる墓地だった…」と戻って来られましたが、古そうなお墓がありましたので、確認されましたのかも…
そんな余裕が有るのなら、さっきの〝血の池(瑠璃宝の池)〟に立ち寄れば良いのに…と、ブツブツ独り言のGONsanでした(^-^)
展望台の三叉路角地には、荒れ果てました〝政府登録国際観光旅館 甚五郎〟の建物が…
◆心霊スポット ホテル甚五郎
--- https://haunted-place.info/4661.html ---
下半身のない上半身だけで這いずり回る霊が出ると言う噂や、誰もいないのに何かの気配を感じたり、お札のような物が貼られた部屋があり、何か霊的な理由があるのではないかと囁かれている。
しかし、このホテルで騒ぎになるような目立った事件や事故などは無いようで、周囲の霊が集まって来ているのかもしれない。内部は綺麗な所もあるため、ホームレスが住み着いていた痕跡もあるようだ。
・ホテル甚五郎の基本情報
1960年(昭和35年)に開業したホテル。源平合戦で有名な屋島は、瀬戸大橋開通と同時に観光地として発展していた。
2002年(平成14年)には訪れる人が激減し倒産し廃業した。周辺物件もまとめて廃墟化してしまいゴーストタウン化している。建物は屋島ドライブウェイからもはっきりと見える。
◆政府登録国際観光旅館
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
政府登録国際観光旅館(せいふとうろくこくさいかんこうりょかん)とは、1949年(昭和24年)12月24日に施行された国際観光ホテル整備法(昭和24年12月24日法律第279号)に基づき、観光庁長官が登録を行った旅館やホテルのこと。全国に登録された旅館が1,996、ホテルが1,127ある。(平成16年度 総合政策局観光地域振興課調べ)下記の要件を満たしたものが承認される。
・要件
<洋室>
机、いす、クローゼットまたはその代替品を備え、椅子式の生活とベッドでの睡眠に適していること。
浴室は自由にシャワーの温度を変えられること。
トイレは水洗式かつ洋式便器であること。
シリンダー錠(または同等の錠前)、電話機を備えていること。
ロビーが指定面積以上であること。
食堂では洋食の朝食が提供でき、椅子と机があること。
外国語(主に英語)表記が準備されていること。
外国語(主に英語)が話せるスタッフを雇うこと。
<和室>
大体は上記の洋室と同様だが、次のような違いがある。
床の間、踏込み、クローゼットがあること。
適当な冷暖房設備があること。
…と、〝ホテル甚五郎〟で検索してみますと、その他に色んな記載がありましたネ(^.-)☆
展望台からは、暫し〝屋島の戦い〟の舞台となりました「源平屋島合戦史跡」を眺望です。正面に見えますのが〝五剣山(八栗山)〟ですネ。
◆五剣山(高松市の山)
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
五剣山(ごけんざん)は香川県高松市にある山。
・概要
一つの峰を剣と呼んで、西から一ノ剣、二ノ剣、三ノ剣、四ノ剣、五ノ剣と山上に5つの大きな峰があるためこの名前がついた。また、地元では八栗山(やくりさん)とも呼ばれる。五の剣は1707年(宝永4年)の宝永地震で割れている。
これらの剣の山頂にはいくつもの祠が点在し、四ノ剣の中腹には岩窟があり修験道の行場となってる。 かつてはこれらの剣へ登れたが現在は岩が風化し脆く危険なため、南側中腹にある八栗寺本堂の左から石段で上がったところにある中将坊大権現堂からさらに上へは入山禁止とされている。そのため標高375mの最高点は四ノ剣であるが、366mの山頂表示がニノ剣にあり、四等三角点のある366.09m地点は一ノ剣の西端に位置している。また、八栗寺の多宝塔の右側にも登山口があったが入山禁止の立札がある。また、山中にある「岩越の大日」は空海が彫ったとされる約3mの摩崖仏で上部の黒い層と下部の砂の層の間の真っ白い層に彫られている。
八栗寺は、四国八十八箇所の第八十五番札所で、山号が五剣山である。また山麓では日本三大花崗岩として有名な庵治石が採石され、墓石などの高級石材として加工されている。
そして、観光案内図には、五剣山と屋島の間の狭い海峡で繰り広げられた源平合戦で、那須与一が見事に扇を射貫いた〝那須与一扇の的〟の位置表示も(^_^)v
◆屋島の戦いをわかりやすく解説。「扇の的」って何?
--- https://nihonshimuseum.com/ichi-no-tani-yashima-dan-no-ura/ ---
屋島の戦いは1185年3月、讃岐国の屋島(現在の香川県高松市)にある屋島で起こった戦いです。
一ノ谷で敗北した平家軍は、源氏と比較して有利であった水軍の力が有効に活用できる周囲が海に囲まれた屋島に内裏を作り、万全の体制で源氏を迎え討つつもりでいました。平家はあくまで得意な水軍の力を使い海から進んでくる源氏軍を討ち負かす作戦を立てていました。
戦いの指揮を任されたのは源義経。義経は摂津水軍などを味方につけて暴風雨の中で屋島に向けて出陣します。悪天候の中での出陣に、梶原景時ら周囲の諸将は反対しますが、敵の意表を突く事が大事と考えたのか義経は悪天候の中にも関わらず屋島に向け出陣します。悪天候の中で勝浦(現在の徳島県徳島市)という場所に到着した義経軍。勝浦から屋島に向けて進軍します。
屋島はまさに海に囲まれた島です。多くの船団を擁した平家は海からの攻撃には相当な準備が出来ていたと思われます。そこで義経は軍を2つに分けて周囲の陸地に放火します。周りが火に覆われた様子をみた平家軍は、源氏の大軍が、海ではなく陸から平家を攻撃し、平家を挟み撃ちしようとしていると考え、混乱状態になります。平家は、屋島から海に避難しようとします。
義経は、自分たちの軍勢がいかにも大軍であるがごとく浅瀬を渡る馬にも水しぶきをあげさせるなど多くの奇策を使います。諸説ありますが、屋島攻略時には源氏の軍勢はおよそ150騎程度だったそうです。正確な数字か否かは不明ですが、わずかな兵と義経の奇策で混乱する平家は源氏と比べて、平家軍を統率する棟梁が欠如していたのかもしれません。
この時、活躍したのが那須与一(なすのよいち)です。夕方の休戦状態の際、平家側から小舟が出てきて竿にかけられた扇を弓矢で射ろと挑発します。義経は那須与一にこれを射ろと命じます。与一は失敗したら源氏の名誉が失われる事なり、自害もやむ無しと覚悟しながら引き受け、見事大役を果たしました。このエピソードは「扇の的」と呼ばれ、平家物語の名シーンの1つでもあり絵にもなっています。
しばらくして海に逃げた平家は、引き返し戦う兵もいましたが結局、戦局を変えるほどには至りませんでした。梶原景時ら源氏側の大軍の上陸が迫った事もあり、平家は屋島を去る事となります、自慢の水軍を有効に活用したとは言い難い結果となりました。
…と、こんな〝屋島の戦い〟でありますけど、こぅして古戦場に眼を向けておりますと、当時の様子が偲ばれ、胸の中で合掌です。
それにしましても、古戦場を眼下に眺望します、この廃墟ホテル。かっては、観光客の皆様で大変な賑わいでしたのでしょうけど、現在のこの惨状に眼を向けますと、場所が場所だけに、栄華を極めた平家一族と重なりまして、複雑な想いも生じますGONsanなのでありました(^-^)//"
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日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)