◆条里制と南海道
--- http://ew.sanuki.ne.jp/rekimin/kodai.html ---
田地は6町四方に区画され、一辺を条、他辺を里と呼び田地は南条南里南坪で表示されました。1町は一辺約109mの方形区画になります。各地に見られる碁盤目状になった土地区画は条里制の痕跡であることが多く、香川県内でも発掘調査によって複数個所で7世紀段階での存在が明らかになっています。さぬき市内でも条里制の区画は明瞭に残されています。
次に律令国家は地方組織として全国を畿内・七道に行政区分しましたが、香川県では南海道に属します。そして中央と地方を結ぶ交通制度として官道(駅路)が整備され、約16㎞ごとに駅家(うまや)を設ける駅制が敷かれました。さぬき市内では官道は東西に直線的に延びており、近世以降の讃岐往還、長尾街道に多くは継続していったと考えられています。駅家は香川県では東から引田、松本、三谿、河内、甕井、柞田の6駅があり、松本駅はさぬき市あるいは東かがわ市が想定されていますが未だ場所は断定できていません。
古代の官道は幅9~12mの直線道であったと考えられています。
三木町白山からさぬき市大川町富田西までは今でも直線道路が見られ、古代南海道が推定されます。
ところが富田西から東にかけては直線道が残されていません。近世の幹線道である讃岐往還は南に曲がっています。
南海道を一直線として復元すると東は八剣池付近になり、途中には千町遺跡があります。
三木町白山からさぬき市富田西へと続く直線道をそのまま東に延長すると千町遺跡の近くを通ることになります。千町遺跡では東西方向の溝が検出されており、溝の中からは7世紀後半の須恵器・土師器が出土しています。南海道を直線道として考えるならば南海道に関連する遺構であるのかもしれません。
◆条里制
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
条里制(じょうりせい)は、日本において、古代から中世後期にかけて行われた土地区画(管理)制度である。ある範囲の土地を1町(約109m)間隔で直角に交わる平行線(方格線)により正方形に区分するという特徴がある。
◇条里の仕組み
・方格線
条里を区分する方格線は、南北方向および東西方向に設定されている場合が多いが、地域・地形により傾いている例も少なくない。たとえば南北方向が7度傾いているとき、東西方向も直交するように7度傾いているのが通常である。
連続した土地で方格線がずれている場合もある。たとえば郡ごとに方格線の傾きが異なると、平地の郡境で条里地割にはっきりとした食い違いが見られる。
班田図などには、水面や山地など、田地以外にも方格線が引かれている。しかし、田のない地域を含めた全国を方格線で網羅していたわけではない。あくまで田のある土地においてそれぞれ独立して方格線が引かれている。その範囲内にある山の位置を条里で呼ぶことで、田地の位置関係もわかりやすくなっている。
・基本単位(坪)
条里の基本単位は約109m四方の正方形である(菱形や長方形の場合もある)。古代日本では約109mは1町(=60歩)に当たり、約109m四方の面積も同様に1町と呼ばれていた。この1町四方からなる基本単位を「坪(つぼ)」又は「坊(ぼう)」と呼称した((現在でも使用される坪とは異なる)。
坪の中は10等分に地割りされており、この区画は「段」と呼ばれた(地割方法は長地型と半折型に大別される)。
◆Ⅵ 古代文化の変化 そして古墳の終末へ
6世紀の古墳時代後期に入ると、さぬき市内の古墳は事例が少なく実態が不明瞭になります。
そして6世紀後半頃から従来の竪穴式の埋葬施設にかわって横穴式石室が一般化し、新しい埋葬儀礼が展開します。
横穴式石室は死者をおさめる玄室と墳丘外部とを結ぶ羨道からなり、追葬を行う家族墓としての性格が窺えます。
また、小型古墳の爆発的な増加が見られ、亀島古墳群のような群衆墳が数多く営まれるようになります。これは支配者層のみならず有力農民層までが古墳をつくるようになったことを意味します。
6世紀後半は、さぬき市の各地に横穴式石室を埋葬施設にもつ小古墳が見られ、7世紀前半頃まで追葬と古墳築造が継続します。
ところが7世紀後半になると急速に事例が減少します。
この頃、日本は中央集権国家をめざし政治改革を行いました。
この大化の改新によって地方社会も大きく変容していきます。
その一つが古墳の終末でした。豪族たちは権威を示すものを古墳造営から寺院建立に移行させていきます。
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