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 それでは、〝さぬき市歴史民俗資料館〟へ入館です。
 入るとスグに大川町の模型図が…

 ◆水利土木功労者・軒原庄蔵

 文政11年、富田中村に生まれる。当時の庄屋・軒原庄蔵は漏水甚だしい「みろく大掛井」の惨状に苦慮し、玄光谷より三ツ石に至る山底の掘り抜き導水を企画、安政2年ようやく許可を得て、東西双方より昼夜3年の掘り抜き工事を実施。庄蔵の卓越せる技術によって安政4年、105年間に及ぶ石穴が完通した。
 この偉業により富田中村の田は永久に水利の便益をうける事となった。文政5年、弥勒池普請成就の功により郷侍格(ごうふかく)を申しつけられた。なお、工事監督した田面村の多田信蔵(画家霞岳)、更に地勢の高低を測定して両穴の連結を方向付けた富田中村の算数学者、萩原栄次郎があった事を忘れてはならない。
 その後、明治2年8月、高松藩より満濃池穿さく工事御用を任命され明治3年3月、30間5尺余の穿さく工事に成功した。その土木技術のすばらしさは、さぬき溜池史にさん然と輝いている。明治23年、63歳で逝去された。

 ◆『弥勒石穴』

 --- 木学会四国支部 土木紀行 No.84 ---
 (http://doboku7.sakura.ne.jp/kikou/dobokukikou84.pdf)

 ・弥勒石穴

 土木学会がまとめた「日本の近代土木遺産」(改訂版)には、日本各地に散在する重要な土木構造物が、2,800件まとめられています。
 香川県の項を開くと50件あまりの構造物等が記載されていますが、その分布を見ると高松市より西(西讃地域)がほとんどで、東部(東讃地域、ここでは小豆島を除く)にあるものは、口船隧道(東かがわ市)、津田川橋(さぬき市)、鴨部川水系の砂防堰堤群(さぬき市)の3件しかありません。
 これは西讃地域の人口が多く、道路や鉄道などの社会基盤整備や渇水対策が早くから進んだことが影響していると思われます。しかし東讃にも近代土木遺産からは漏れているものの、地域社会の発展に寄与した歴史的土木構造物はあります。
 ここではその1つ「弥勒石穴」を紹介したいと思います。石穴とは隧道(ずいどう)、トンネルの事です。なお弥勒石穴が「日本の近代土木遺産」から漏れているのは築造期が江戸時代末期であるためだと思われます。

 ・香川のため池と川の問題

 「弥勒石穴」は、香川県さぬき市内の「みろく自然公園」内にあるため池の1つ、弥勒池の最上流端、香川県さぬき市大川町富田中3519-1地先にあります。
 香川県は雨が少ないので、ため池が各所にありますが、谷部を利用したため池は背後の集水域が狭いため、水がなかなか貯まりません。弥勒池もそのようなため池です。
 そこで対策として近隣の河川から掛井(導水路)を作って河川水を貯める工夫をするのですが、ここに香川県特有の地形・地質的障害が立ちはだかります。
 香川県の川を観察すると面白いことに気づきます。それは平野部では河道に水がほとんど流れていないのに山間部では水が豊富に流れているということです。例えば高松市街西部を流れる香東川下流の河道は砂漠とも言えるような光景が多く、普段、表流水はほとんどありません。しかし並行する国道193号を南下して塩江温泉付近の山間部まで来ると、これが同じ香東川なのか、と水量の豊富さに驚きます。
 普通の川は下流の水量が上流より多いのですが、香川県を流れる川の多くは下流よりも上流の水量が多いのです。これは讃岐平野、特に山間部出口が透水性の高い砂で覆われていることが主な原因です。山間
部では川底は岩盤が露出していることから分かるように、表流水は川底をしみ込まずに流れることができますが、山間部を出ると川底が浸透性の高い砂地になるため、表流水はあっという間に漏水(浸透)して地下水になってしまいます。

 ・大掛井工事と石穴工事

 弥勒池の東を流れる津田川は讃岐の典型的な川の1つで、表流水の多くが山間部出口で地下水になるような川です。1828(文政12)年に有馬胤滋によって津田川・砕石(われいし)から弥勒池まで全長2.6kmの大掛井(導水路)が完成しても、漏水が多く十分な水が弥勒池に届かなかったことも多かったようです。弥勒池、津田川、砕石の位置関係は末尾の図1を参照して下さい。現在であればコンクリート等を使って水が地中に浸透しないようにもできますが、昔はそのような材料はありません。また掛井の高低差にも問題があったようで、水が池にうまく入らなかったこともあったようです。
 大掛井が完成してから20年間ほどの弥勒池は『器あれど盛る水なし』と言われる状態でした。こうした有様を憂慮した富田中村の庄屋である軒原庄蔵は、弥勒池と津田川を隔てる尾根の地下に石穴(隧道、トンネル)を通して導水すれば水不足が解消できるのではないかと考えました。尾根部の地下は固い岩盤なので大掛井のように漏水する心配が殆どなくなるほか、水路の距離が短くなるので、水路の勾配を大きくとることができて水が通りやすくなるという利点もあったようです。
 1855(安政2)年に高松藩に願い出たところ「石穴掘抜方御用掛」に任命され、弥勒池南にある三つ石山の岩盤を東西双方から掘り進めました。この大工事では“数学者”萩原栄次郎が地勢の高低を測量して両穴の連結を方向付け、“画家”多田信蔵が工事監督を務めたそうで、高い技術を持つ2人の協力なくては実現できませんでした。
 実際の堀作業は金右衛門と奥次の2人の石工が請け負い、昼夜12人交代で進めたそうです。手ノミ一つで掘り抜く大工事でしたが、1857(安政4)年に長さ百五間(約190m)の石穴が無事貫通し、ようやく水不
足から脱しました。
 この弥勒石穴は平成12年2月に国指定登録有形文化財(建造物)に指定されています。軒原庄蔵は1890(明治23)年に63歳で逝去されました。
 「弥勒石穴」は「みろく自然公園内」のキャンプ場脇にあります。公園内の案内板にも示されていますので迷うことなくたどり着けます。実際の石穴を見ると断面がとても小さいことに驚き、窮屈な姿勢での
掘り抜き工事は大変な重労働であったことが推察されます。

 ◆据風呂

 -- へそ風呂と鉄砲風呂 --

 据風呂は移動可能で、玄関左の縁側などによく見られたそうです。現在のように各家庭に風呂場と浴槽が普及する以前には、もらい風呂の習慣を経験する人も多かった。
 家庭用の風呂のはしりであるヘソブロは、燃焼施設を桶の下側にはめ込んだ据風呂で、燃焼部に触れてよく子供が火傷をした。
 江戸後期以降には結い桶の下部に筒型の焚き口通風穴を、上部に煙突を出し、湯船に格子を設けた鉄砲風呂が江戸を中心に広がった。
 江戸では担い風呂といって、風呂桶を移動しながら入浴させる銭湯もあった。

 ◆行火(あんか)
 行火は、一人用の置き炬燵で、持ち動かせる暖房器具の一つです。火入れにおこした炭か豆炭を入れ、粘土でできた素焼きの器の中に入れます。そのまま手や足をあてたり、行火に布団をかけ、布団に入れ温まりました。

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