01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
13-721
03-720-555

 「日蓮宗の南妙法蓮華経日蓮聖人」「浄土真宗の南無阿弥陀仏」の二つの法界碑を後にしますと、
 樋門→下部のみ残されました「道標」→旧鞆鉄道橋跡→旧洗谷橋跡→法界碑…と巡ります。

 ◆樋門--1919年(大正8)の大洪水で芦田川の決壊により被害甚大であった。この樋門は洗谷地区の排水用として造られたものであるが、時代の流れとともに宅地造成や道路の拡張により、次第に不要になっとしまった。しかしこの樋門は、今なお保存している。江戸時代のものは市内には残っていないので、堤防の規模として知ることが出来る貴重な遺構である。
 ◆旧鞆鉄道橋跡--大正15年当初の芦田川に架かる橋げたの一部である。
 ◆下部のみ残されました「道標」--当初は、ここに設置されましたのでしょうけど、現在は、上部を、妙見教会の石鳥居への石段上り口近くに移転されております。
 ◆旧洗谷橋跡--初期の洗谷橋の一部である。ちにみに、この道が堤防であった。
 ◆法界碑--造立1812年(文化9年)南妙法蓮華経日蓮大菩薩 水呑町内には、14の法界碑がある。

 …と、水呑歴史民俗資料保存会から貰った資料に記載。
 旧鞆鉄道橋跡・旧洗谷橋跡の橋げたが残ります「この道が堤防であった」…とは、当時の堤防は現在よりも随分低かったようですねぇ~何となく、不思議な気持ちにも(^-^)/
 旧洗谷橋跡近くには、こんな説明板が…

 ◆歩いてふれよう 水呑の歴史と風土〝ふるさと水呑〟案内

 ◇洗谷妙見山 別称 金鶏山・宝山

 福山近郊で妙見山といえば、標高約120mある宝山に鎮座する『洗谷妙見山社』が著名である。
 境内の玉垣から眼下の福山平野を望めば、西方に芦田川・正面に福山市街・東方に瀬戸内海・南方に熊ヶ峰山系と、近郊には見られない絶景が広がる。
 また西方には大砲岩、山頂には烏帽子岩があり、草戸稲荷の石鳥居も洗谷宝山産である。
 開基は天保14年(1843)で日蓮宗妙顕寺35世日英上人が大阪府能勢町の能勢妙見山から北辰妙見大菩薩の分像を勧請して安置したのが最初である。
 沿革妙見大菩薩を本尊とする洗谷妙見山社(妙見教会)は、旧峻な断崖に石垣を築き張り出した長石の上に玉垣を立てる珍しい工法で境内を拡張している。
 石垣は三期に分けて築かれており、玉垣は明治元年の銘が彫られている。
 北辰妙見大菩薩の他に稲荷大明神、清正公大神位が祀られ、その後日蓮聖人や三〇番神・鬼子母神が祀られている。
 梵鐘は妙顕寺と重顕寺と合わせて水呑三梵鐘の一つ。
 妙見菩薩像は崖上に中国風の甲冑をまとい、右手に受け太刀に構え、左手に金剛不動印に結んだ「利剣受け太刀」の煩悩を打破する勇ましい坐像である。参道は東と西と北の参道が順次整備され、参道に石鳥居が寄進され難所には石段が次第に建設された。

 ◇洗谷橋

 初代の橋は明治26年(1893)以前にあり増水すると水に浸かり洪水の度に流失する木製の橋であった。
 二代目は昭和31年(1956)にコンクリートパイル橋ができました。
 三代目は現在の橋が昭和55年(1980)に水呑大橋として生まれる。此れは県道福山鞆線であります。
 初代と二代目は現在の橋より上流200mの所にありました。
 水呑町史にはこんなことが載っていました。
 明治26年(1893年)10月14日の大洪水で橋は流され、草戸村からは芦田川の堤防が決壊したのは下流の洗谷橋が原因だと草戸村から訴えられ一審は敗訴し二審では水呑の勝訴となった此の事からも明治26年にはすでに橋は有った物と思われます。

 --- 水呑町史参考 水呑小学校調査書参考 令和4年2月吉日設置 ---

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)