作品展を鑑賞していますうちに史跡巡りの集合時間が近づいて来ましたので、ソロソロ行かなくては…
館内の廊下を歩いておりますと、常設の写真ではありますけど、またまた眼が向いてしまいました。何度も眼にしてはおりますけど、GONsanが幼少時に眼にしました景観もありますので、何度見ましても懐かしさが…
福山~鞆間を結びます軽便鉄道…瓶の蓋をレール上に置き、潰して貰って遊んでおりました当時が懐かしく蘇ります(^-^)
せっかくの便ですから、交流館出口脇の歴史民俗資料館にも少しだけ立ち寄りです。
本日の史跡巡りで向かいます「洗谷貝塚」の説明を走り読みとなりました。
水呑にも戦時中まで古墳が存在しましたのですけど、残念ながら戦後取り壊され、現在は跡形もありませんのが実に残念ですねぇ~
◆福山市水呑町の『洗谷貝塚』
貝塚は古代(縄文時代・約8千年前)人類のゴミ捨て場のうち、当時の人々が捨てた貝殻が積み重なった物のことである。
水呑町洗谷地区の西南山側の丘陵地が洗谷貝塚で、約8千年以前の縄文時代早期以降の土器が出土している。
貝塚の規模は東西約80m~南北約60mと貝塚面積では県下最大級、貝層は厚さ1mに及び福山湾内で人類が最初に定住したと想定される貝塚である。昭和8年水呑小学校の橘髙武夫先生によって発見され発掘が行われた。
その後の調査で県内最初のサヌカイト(安山岩の讃岐石、坂出市金山産)の集積遺構が発見された。
広島大学の竹内文明教授は縄文後期の石器素材の剣片剥離技術を【洗谷型技法】と命名。金山産のサヌカイトは洗谷から周辺の貝塚や遺構へ分散された拠点集落で縄文石器を研究する上で学術上重要な遺跡である。
《出土遺物》
◇土器 -- 縄文式土器(前期~後期)
◇石器 -- 安山岩原石、石斧(いしおの)、石叩(いしたたき)、石槍(いしやり)、石匙(いしさじ)
◇貝類 -- ハイガイ、カキ、アサリ、ハマグリ
◇その他 -- 人骨、獣骨、魚骨
◆福山市水呑町浜の『浜貝塚』
貝塚は背後にある熊ヶ峰山系の妙顕寺山と龍王山のなだらかな傾斜地にあり、海抜3.4m、南北約70mの長さに至っている。
昭和8年(1933年)水呑小学校の橘髙武夫先生によって発見された。縄文時代後期・晩期の土器と人骨一体に石器と多数の貝類が発見された。平成10年3月、貝塚前の市道工事中の残土から縄文土器に貝類が採取された。鑑定の結果約六千年前の縄文時代初期の「磯の森式土器」と縄文時代中期の「里木式土器」であることが判明した。縄文人は遺跡の中判明した。
浜貝塚も試掘する場所を変えると、洗谷貝塚と同様に縄文早期土器が出土する可能性が濃厚となった。
《出土遺跡》
◇土器 -- 縄文式土器(前期~後期)
◇石器 -- 石鏃(いしやじり)、石斧、石棒、敲石(たたきいし)
◇貝類 -- ハイガイ、アンニシ、カキ、ハマグリ、アサリ、ツメタガイ
◇その他 -- 人骨、獣骨、魚骨
◆水呑にもあった『新立古墳』と『小水呑塚丸古墳』
貴方は水呑にも古墳があったのをご存知ですか。少なくとも二墓の古墳が報告されています。
古墳は、1400年以上も前の有力者、権力者の墓です。
日本固有の墓とされる『前方後円墳』や『前方後方墳』、『帆立貝型古墳』、『四隅突出型墳丘墓』、『方形周溝墓』等があり、地方の古墳はその権力の大きさに応じて大和政権が型を指定したものを造ったとする学説もあります。
字名から命名された『新立古墳』の調査は、平成9年1月に実施され、周囲7キロの王ヶ峰丘陵にあった古墳の一つです。
古墳周囲は戦中、戦後にかけて畑に開墾され、埋葬施設である横穴式石室の天井石は取り除かれ、石室は農作業小屋として利用されていました。
墳丘は西の屋根をカットし、東側のみ最大幅3m、最大深さ0.75mの馬蹄形状に周溝を巡らせ盛り土をし、墳裾の所々に1~2m間隔に頭大の石材が配置され、築造時の古墳の範囲を示している。径11.5mの円墳と考えられている。
埋葬施設はほぼ南に開口し、西側壁に袖を有する片袖式の横穴式石室であり、石材はすべて付近から産出する花醐岩である。
出土遺物は玄室入口の東側で耳環二点一対、西側で須恵器平瓶一点が出土し、羨道埋土内からは須恵器杯片、鉄片が出土し、築造時期は出土品の特徴から六世紀後半から七世紀初頭と思われている。
『小水呑塚丸古墳』は小水呑字塚丸にあった横穴式石室で戦時中には一部残っていたが、現在は全滅、消滅となっています。
-- 参考文献『広島県遺跡地図Ⅶ』『新立古墳発掘調査報告書』--
…と、こんな説明がありました(^.-)☆
それでは、交流館から出まして、駐車場一角の史跡巡り受付へ(^-^)//"
GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)