◆円福寺((福山市)
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
円福寺(えんぷくじ)は、広島県福山市鞆町鞆にある真言宗大覚寺派の寺院。山号は南林山。詳しくは、南林山 釈迦院 円福寺と号する。
◇歴史
当寺院の前身は、釈迦堂と呼ばれ室町時代には存在していたようであり、沼名前神社の南に位置していた。
当寺院の建つ場所は戦国時代以前は島であったが、慶長5年(1600年)頃の鞆城建造に伴い陸続きとなった。慶長15年(1610年)頃に大可島城(たいがしましろ)の跡地に移転し、建造されたと伝えられる。江戸時代は真言宗明王院の末寺となっていた。朝鮮通信使が来日した際には上官が宿泊した。
いろは丸沈没事件の談判の際、紀州藩の宿舎に使用された。
◇文化財
福山市指定史跡--大可島城跡附伝桑原一族墓地
◇所在地
広島県福山市鞆町鞆10
◇関連項目
桝屋清右衛門宅 - 紀州藩が円福寺に滞在したのに対して、海援隊側が宿とした場所。
御舟宿 いろは - 旧魚屋萬蔵宅。円福寺と桝屋清右衛門宅の中間地点にあったことから、ここが談判会場となった。
福禅寺 - 魚屋萬蔵宅と同様、談判会場となった。
境内の一角には、芭蕉の句碑が…
◆【芭蕉の句碑】
疑な うし保のはなも 浦の春
「くだけちる波(潮)の花をみると、この浦までも新春のめでたさがある。この自然をつくられた神徳を疑うな」
1777(安永6)年に建てた石碑を再建したものです。碑文は備後の俳諧の指導者、花屋庵鼎左(はなやあんていさ)の筆です。この句の前文に「二見の図を拝みて」とあり、1689(元禄2)年伊勢の絵を見てよんだ画賛です。なお、円福寺の夾明楼(きょうめいろう)は頼山陽の叔父頼杏坪(らいきょうへい)が美しい景色に感嘆して命名したものです。
本堂脇には、こんな説明板も…
◆大可島城跡《たいがしま(おおがしま)しろあと》
--- 市史跡 昭和39年3月31日 ---
1342年(康永元年)四国伊予を拠点とする南朝方と備後一帯に勢力を持つ北朝足利方が燧灘で合戦となり大可島城にこもる南朝方は全滅しました。その後、戦国時代村上水軍の一族が大可島城を拠点に、海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権を握っていました。
慶長年間(1600年頃)鞆城を築いた時、陸続きとなり、現在ある南林山釈迦院円福寺は、真言宗でこの年代に建てられました。現在の本堂は、昭和初期に再建されたものです。
他にも、WEB上には、こんな記載がありました。
◆圓福寺(大可島城跡)
--- https://tabi-mag.jp/hm0243/ ---
広島県福山市の鞆の浦にある真言宗大覚寺派の寺が圓福寺。慶応3年(1867年)4月23日、海援隊を率いた坂本龍馬を乗せた蒸気船「いろは丸」が、紀州藩の「明光丸」と衝突・沈没した「いろは丸事件」。その際、紀州藩側の宿舎となった真言宗の寺が圓福寺。戦国時代前は大可島(たいがしま)という島で、中世の大可島城跡。
大可島城は、鎌倉時代末期に城が築かれたと推測され、康永元年(1342年)、城主・桑原重信が足利氏に敗北した後は、村上水軍の拠点のひとつにもなっています。
足利尊氏の庶子で足方直義(足利尊氏の弟)の養子となった足利直冬(あしかがただふゆ)は、貞和5年(1349年)、長門探題に任じられた際(足利尊氏が足利直冬を遠ざけるための策といわれています)、鞆の浦の大可島城に留まって、人心の掌握を図り、上洛を目指します。
そのため、足利尊氏は直冬討伐令を出し、足利直冬は命からがら海上から九州へと逃れています。
関ヶ原後に芸備移封の福島正則は、鞆城(現在の福山市鞆の浦歴史民俗資料館)の大改築に入った際、この大可島城を廃城にしています。
大可島城周辺は埋め立てられ陸続きとなりましたが、辺りの海域を一望できる船番所だけは残されました。
圓福寺が現在の沼名前神社の南、小松寺の東から大可島城跡に移築されたのは江戸時代初期の慶長15年(1610年)頃。
幕末に起きた「いろは丸事件」では、坂本龍馬と海援隊は「明光丸」に乗り移り、「明光丸」が「いろは丸」を曳航していましたが途中で沈没。
坂本龍馬の主張で、現場からほど近い鞆に上陸し、紀州藩は圓福寺を宿所に定めたのです。
日本最初の蒸気船衝突事件ですが、強引な姿勢の坂本龍馬に、紀州藩は押されるかたちで交渉は進展します。
往時を偲ぶものはありませんが、圓福寺は朝鮮通信使の上官の宿舎に利用され、歌会の舞台にもなりました。
ただし、現在の建物は、檀家の森下仁丹創業者・森下博の寄附により昭和初期に再建されたもの。
高台に位置することから、市街や瀬戸内に浮かぶ島々、晴れていれば四国も指呼のうち。
鞆港に突き出した江戸時代の波戸場(大波戸)も眼下にします。
本堂の裏手にある部屋が客殿の「夾明楼」(きょうめいろう)。
福禅寺の対潮楼、かつての大坂屋の対仙酔楼とともに鞆を代表する客殿で、「夾明楼」という名は頼山陽の叔父で広島藩士・頼杏坪(らいきょうへい/儒学者)の命名。
◆大可島城跡(おおがしまじょうあと) 附 伝桑原一族墓地
市指定史跡 昭和39年(1964年)3月31日指定
--- https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/bunka/64168.html ---
ここは南北朝時代鞆争奪の古戦場で、現在は陸続きとなり円福寺が建てられているが、かつては島であり、そこに大可島城があった。
康永元年(1342年)、伊予の南朝軍は西国に勢力をのばそうとして、新田義貞の弟脇屋義助を大将として迎えたが病死したため、北朝軍に伊予川之江城を攻められ苦境に立った。南朝軍は金谷経氏を大将として土居、得能氏らが川之江に援助に向ったが、途中北朝側の備後勢と燧灘で遭遇し大合戦となり、折からの風で鞆方向に流された。そこで鞆を攻撃し占領、大可島を詰城として拠点を構えた。これに対して北朝側は鞆の小松寺に陣し、激戦十余日に及んだが、南朝軍は本拠川之江城危うしの報に、備後服部の桑原重信を残し伊予に引き返した。北軍は桑原氏を滅ぼし鞆は再び北朝側に帰した。
世にいう鞆合戦の城跡で、城地にある石塔は桑原一族の墓と伝えられている。
円福寺本堂裏に廻りますと、弁天島、そしてその後方に仙酔島が眺望出来ますけど、ここからの景観も美しいですネ(^_^)v
円福寺境内に入ります入口の石段脇には、桑原一族の墓と伝えられています石塔が(^-^)//"
GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)