廃墟となりましたカフェ跡を横目に路地裏を下っておりますと、2ヶ所ばかり祠が…この狭い路地も医王寺への参道なのかも…
民家裏の路地を下って行きますと、海岸沿いに到達で、鞆港~走島間を結びますフェリーが入港しておりました(^.-)☆
そして、スグ近くには「渡守神社御旅所」が…WEB上で「渡守神社御旅所」を検索しますと、
◆渡守神社 御旅所
福山市鞆町江ノ浦元町にある渡守神社御旅所は神功皇后が上陸された地で、綿津見大神が最初に祀られた地です。鞆港には昔、干潮時に船底を木の葉(松葉等)で薫したり、修理をする施設焚場跡があります。
◆渡守神社 御旅所
--- https://ameblo.jp/rediscovery/entry-10762850397.html ---
【御旅所(おたびしょ)】
神社の祭礼(神幸祭)において神(一般には神体を乗せた神輿)が巡幸の途中で休憩、または宿泊する場所、或いは神幸の目的地をさす。巡幸の道中に複数箇所設けられることもある。
御旅所に神輿が着くと御旅所祭が執り行われる。
御旅所には神社や祭神にまつわる場所や氏子地域にとって重要な場所が選ばれている。元宮、摂末社や配偶神を祀る神社などのような社殿があるもののほか、元の鎮座地などに臨時の祭殿を設けたり、氏子の代表(頭人)の家に迎える場合などがある。
【渡守神社 御旅所】
渡守神社御旅所は神功皇后が上陸された地で、綿津見大神が最初に祀られた地。
棟札には「舟玉神を祀り渡守大明神と号す」と記されており、神功皇后伝説にちなんで、また同じ(沼名前神社)境内に鎮座する八幡神社の縁起もからみ諸説あるようです。
◆渡守神社
--- https://ameblo.jp/rediscovery/entry-10191924620.html ---
【渡守(わたす)神社】沼名前神社境内に摂社として鎮座
近世には、沼名前神=渡守大明神は隠岐の知夫利大明神を勧請した猿田彦命、船玉命(船の神霊)と考えられていた。幕末に『福山史料』を著した菅茶山はこれを批判した。
「渡(わたす)明神」とは渡海安全を祈っての名であり、猿田彦命はあくまでも道路の神であって海の神ではない。他国に和多理(わたり)神社、度津(わたつ)神社あってみな海神を祀っており、渡明神もワタツミの神を祀ったものである」とした。そして、その説が踏襲される。
その創祀伝承には諸説あるが、大筋では共通、現在は以下のように伝わっている。
<創祀伝承>
神功皇后が三韓征伐の時にこの地へ立ち寄られたとき、海中より方二尺余の霊石が浮かび上がった。皇后は不思議なことだと石を船にお上げになり、この地の名を訊ねさせた。
問われた浦人たちは、「ここは吉備国の南海辺と申します」と奏上した。
皇后はまた、この地に神はおわすかどうかを訊ねさせると、浦人は、「神はおわしになりません」と奏上した。
そこで皇后は斎庭を設け、神籬を立ててその霊石をご神体としてお祭りし、自ら浦人に、「今より後、神社を建ててこの神を斎(いつ)き奉れ」と詔され、霊石をお渡しになった。
他の伝承では、
このときに皇后が武具の鞆などを浦人に授けた、あるいは御船の艫を港に着けていた、そのことから皇后がこの地を「トモ」と名づけた、という地名起源伝承となっている。
また、素戔嗚尊が南海に渡る時にここへ鞆を落としたから、ともいう。
地名については、古い地誌に「山の連なる地形と弓形の海岸線が射具の鞆を連想させることから名づけられた」としているものもある。
伝説では素戔嗚尊は戸手(素盞嗚神社)で一泊した後、ここでも一泊したとされ、その時に宿を貸したという「しふかき」という者の子孫という「渋柿屋(志ぶがき屋)」の者が、神官の一人として祇園祭において重要な役割を果たしていたことが江戸時代の地誌に見える。
…と、こんな記載がありました。
渡守神社御旅所には、こんな説明板が設置されておりました。
《渡守神社御旅所由来》
神功皇后挑戦征伐の砌、此浦に泊し給ふ。
尺餘の霊石海中より湧出たり。
皇后奇まして御船に上せ給ひ、浦人に此處は何方ぞと問せ給へば、浦人等は吉備国の南浜辺と奏す。
又此地に神在やと問せ給ふに、神在ずと奏せり。
因て皇后斎場を設け、神籬を樹て、彼の霊石を神實と為て親ら綿浦人等に、今より後神社を建て、此神を斎き奉れと詔給て神實を渡し給ふ。
此の地、すなわち綿津見大神御上陸の處と伝へ、古より渡守神社御旅所として今に及べり。
…と、こんな『渡守神社御旅所』のようであります(^.-)☆
それでは次に、「地蔵院」に向かってみます。その途中、「岡本亀太郎本店」を横目に通過となりました(^-^)//"
◆岡本亀太郎本店
--- https://www.honke-houmeishu.com/kame/index.html ---
・中村家より受け継いだ、伝統と味
江戸時代、独占した製造販売の許可をもらっていたのは最初に保命酒を造った中村家だけであります。
保命酒は万治2年(1659年)大阪の漢方医であった中村吉兵衛氏によって、元々この地で醸されていた「吉備の旨酒(現在の味醂酒に準ずる)」に生薬16種を漬け込み作られた薬酒でした。
その伝統の技を受け継いだのが、当時中村家と懇意にしていた岡本亀太郎です。岡本家は道具一式を譲り受け、保命酒の醸造に本格的に乗り出しました。
店内に鎮座する『大きな龍の看板』も、当時中村家から譲り受けた由緒正しい看板です。
・店舗は市重文「岡本家長屋門」
岡本亀太郎本店の蔵元直営店舗は、かつて福山城内にあった長屋門です。
明治六年(1873年)廃城となり民間払い下げを行っていた福山城内の建物の一部を譲り受け、海路を船により運び、現在の地に移設されました。
門扉や門構えは城内の長屋門としての形式を良く残しており、材質(けやき)・規模より考察して、江戸時代初期の福山城郭内の遺構として貴重な建物であるとして、福山市の重要文化財に指定されています。⇒ 福山市HP(https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/bunka/5158.html)
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