境内には、大伴旅人の歌碑が…
『磯の上に根這う むろの木見し人を いつらと問はは 語り告げむか』
◆磯の上(うへ)に根這(ねは)ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか
--- http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu3_448.html ---
-- 巻三(四四八) --
磯の上に根を這わすむろの木に、かつて見た人は何処に居るかと問えば語って教えてくれるだろうか。
この歌も巻三(四四六)や巻三(四四七)の歌と同じく、大伴旅人(おほとものたびと)が、大宰師(大宰府の長官)としての三年近い任期を終えて奈良へ戻るときに詠んだ五首のうちの一首で、大宰府で亡くなった妻を偲ぶ歌。
かつて共に妻が見たむろの木に、「あの時一緒におまえを見た妻はいま何処に居るかと問えば、語って教えてくれるだろうか。」と問い掛けているわけですが、これは見事な根を這わせ、人間よりも長く存在しているむろの木ならば、死んだ人間の行先も知っているだろうかとの意味が込められているのでしょう。
旅人が大宰府に居る間に山上憶良たちと作り上げた筑紫歌壇といわれる新風は、歌の世界に広がりをもたらすと同時に、反面で後の世の歌につながる固定された美意識や世界感を生み出す一歩ともなったのですが、旅人自身の心の中にはまだまだ古来からつづく万葉人らしい神霊崇拝的な精神が深く残っていたようですね。
この歌でも、「妻の魂の居場所が分かるならたとえあの世にだって今すぐにでも逢いにゆきたい」との、そんな旅人の切ない願いがひしひしと感じられる一首になっているように思います。
(まあ、もっとも、その旅人の願いはそう遠くない未来に旅人の死によって叶うことにもなるのですが…)
この歌碑の左側には、こんな説明板がありました。
◆大伴旅人
「鞆の浦亡妻挽歌」三首の内の一首 万葉集巻三-四四八番歌
天平二年(730)十二月、太宰府の長官だった大伴旅人は、大納言兼任となって都に上る途中、「鞆の浦のむろの木」を詠った三首の歌を残した。その三首目がこの歌で、他の二首の歌碑は対潮楼の崖下と歴史民俗資料館の前庭に建っている。
「磯の上にしっかり根を張って立つむろの木よ。太宰府へ下る時、私は妻や息子といっしょにお前を見たのだ。しかし、その妻はもうこの世にはいない。私の愛する妻が今どこにいるのか尋ねたら、お前は私に教えてくれるだろうか。」
こう、むろの木に問いかける旅人は、神亀五年(728)の初め太宰府に下ったが、まもなく妻を亡くし悲嘆にくれた。一方、奈良の都では、翌神亀六年二月の長屋王の変によって、光明皇后が誕生し、藤原氏の全盛時代を迎えようとしていた。
子息 家持を伴い、亡き妻の思いを胸に帰京した旅人は、翌天平三年(731)七月、萩の花を気にかけながら、静かに六十七年の生涯を閉じた。
-- 2010年4月27日 鞆の浦ロータリークラブ創立四十周年記念 --
境内には、医王寺の説明板もありましたネ。
◆医王寺
桃林山慈眼医王寺は、平安時代の弘法大師の開基と伝えられる真言宗の寺院です。
本尊は木造薬師如来立像で県の重要文化財に指定されています。
慶長年間(1600年頃)福島正則が藩主となり、鞆城代大崎玄蕃がこれを再興しました。現存する鐘楼は1642年(寛永19年)福山藩主水野勝成の建立、本堂は1685年(貞享2年)四代水野勝種の再建したものと伝えられています。
ここから15分ばかり登った所にある太子殿からの展望はすばらしいものです。1826年オランダ商館長の随行医師シーボルトはツツジやなどの観察のためにこの小径を登り、植物・昆虫を採取しました。
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