01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
12-720
13-720
14-720
04-720-555

 南禅坊とお別れしまして、次に向かいましたのが「阿弥陀寺」です。
 山門入口脇には、こんな説明板が…

 ◆阿彌陀寺

 阿弥陀寺は、1565年に建てられました。
 本尊の阿弥陀さまは、「鞆の大仏」と呼ばれる高さ約2.6mの坐像で、台座を含め4メートルもあるとても珍しい仏様です。この仏様は、大慈悲円満で私たちすべての人々の幸せを願って常に見守ってくださっていると言われています。境内には、見事な石像の地蔵様もあります。

 WEB上にも、こんな「阿彌陀寺」の記載が…

 ◆阿彌陀寺

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12658/ ---

 1565(永禄8)年に創建された阿彌陀寺は、鞆の人たちからは「あみだいじ」と呼ばれ親しまれています。
 江戸時代の前~中期、10代目・雲洞上人の頃に中興を見ました。山門はとても立派で、鞆の浦の中でも随一。
 その山門の右の方に、「鞆の津塔」と呼ばれる江戸時代前期の石塔が12基並んでいます。これは五輪塔と宝篋印塔(ほうきょういんとう)を合わせた鞆独特のお墓です。お大名でなければお墓が建てられなかった時代に、庶民がこれだけの供養塔を造るんですから、鞆商人の財力のすごさが窺い知れるというものですね。

 ・鞆の大仏、きらきらひかる
 本堂には、「鞆の大仏」と称される「丈六阿彌陀如来坐像」が鎮座しています。光背までの高さは、なんと約5メートル。
 中興第10世の雲洞上人が現(うつつ)に阿彌陀如来のお姿を拝み、その尊容を京都の仏師・安清に伝え、5年かけて完成させたものです。きらきらひかる、その威容、息を呑みます。
 ◇一流の名工の作、そこに漂う心地よい緊張

 ・鞆にもふたつだけ―江戸時代の梵鐘
 境内には釣鐘もあります。この梵鐘は、1652(慶安5)年に「有磯町奈良屋」によって寄進されたものです。
 江戸時代から残っている梵鐘は、鞆でもとても珍しく、ここ阿彌陀寺のほかには、明圓寺に残るばかり。緑青の深い風合いが、歴史の深さを雄弁に物語っています。
 ◇美しい釣鐘、どんな深い声を出してくれるのかな

 ◆阿彌陀寺(あみだいじ)

 --- https://www.fukuyama-kanko.com/travel/tourist/detail.php?id=111 ---

 永禄年間(1558~1570)の創建。本堂には「鞆の大仏」と称される阿弥陀如来坐像が鎮座しています。江戸時代から残る梵鐘もあります。山門の右の方には、「鞆の津塔」と呼ばれる江戸時代前期の石塔が12基並んでいます。これは鞆独特のお墓で、大名でないとお墓が建てられなかった時代の庶民のお墓です。

 ◆阿弥陀寺

 --- https://ameblo.jp/rediscovery/entry-10189588676.html ---

 宗派/浄土宗・智恩院末
 山号/心光山
 院号/法泉院
 開基/天誉上人
 本尊/阿弥陀如来
 住所/広島県福山市鞆町後地1344

 天誉上人開山の名刹、必見!「鞆の大仏」
 深津郡引野村に在ったが、天誉上人という高僧が永禄八(1565)年に鞆・古城山の西脇に移し、開山と称えたが、次代が慶長十二(1607)年に現在地に再転されたと記録されている。
 慶安五(1652)年、有磯町妓楼・奈良屋が梵鐘を寄進した。
 述宝年間(1673~1680年)に関町の豪商・大阪屋平左衛門が観音堂建立、同年、地蔵堂を道越町・堺屋が建立したものと伝えられる。
 江戸前期~中期にかけて十代目・雲洞和尚が時運を隆盛させた。
 元禄四(1691)年、雲洞和尚が京都の仏師・安清を呼び寄せ。二年がかりで彫作させたといわれる「阿弥陀如来像」。
 一説には…元禄十六(1703)年、鞆の大仏「木造阿弥陀如来座像」が造立。とある。
 ※ 鞆の大仏「木造阿弥陀如来座像」の詳細については下記参照

 境内には、江戸時代の多彩で見事な石造物が多くあり、鞆の町人文化の興隆振りもよくうかがえる。江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。

 【眼明本尊の絵像(かいがんほんぞん)】
 多田満中の妻が我が子・美女丸の死を悲しみ慟哭のあまり失明してしまったのを不憫に思った恵心僧都(けいしんそうづ)が、衣の袖に弥陀の絵を描いて与えたところ、失明した両眼が再び光を得た。という由緒あるもの。
 多田満中:平安中期(960年頃)の武将。摂津国多田(兵庫県川西市)の多田源氏を称えた。別名:源満中。藤原氏に属し源氏発達の基礎を築いた武将。
 恵心僧都:平安中期の天台宗の僧。恵心流の祖。大和生。諱は源信、恵心僧都は通称。比叡山横川の恵心院に住んだため、この名が生まれた。
 良源に師事し、顕密二教を学ぶ。また『往生要集』を著し、のちに浄土宗信仰の展開に大きな影響を与え、宋でも高く評価された。寛仁元年(1017)寂、76才。

 【木造阿彌陀如来坐像(鞆の大仏)】光背までの高さ約4m
 雲洞住職の代の元禄十六(1703)年に作られた丈六の大仏。
 江戸中期の都仏師による実に堂々とした優作で、これ程の大きさの仏像は地方においては極めて珍しく、鞆の経済力を如実に示している。

 …と、こんな「阿弥陀寺」でありますけど、早速、本堂の「鞆の大仏」を参拝です。
 「鞆の大仏」様とお別れしまして、次は「明円寺・医王寺」に向かいます(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)