◆法宣寺の天蓋マツ
--- 天然記念物 昭和19年11月7日指定 ---
境内一面に枝葉を広げる黒松は「天蓋マツ」と呼ばれ国の天然記念物に指定されています。幹回り3.2m・高さ5.5m・枝張り東西19.3m・南北34.0mで枝葉の広がった総面積は約600㎡です。
大覚山速心院法宣寺は、1358(延文3)年日蓮宗の高僧の大覚大僧正が、ここに法華堂を建立し布教したことに始まると伝えられています。鎌倉時代の法華教は、南北朝時代になって鞆の浦に伝わり、中国地方へ布教する拠点となりました。
…との事ですけど、残念ながら現物は無く、1991年に枯死しましたようであります(^-^;
それでは、次は、南禅坊です。
◆南禅坊
南禅坊は、1600年頃に建てられました。
福(禅)寺の(南)の僧(坊)の住むところという意味から、南禅坊という名前になったようです。
「春の海」で有名な作曲家宮城道雄の先祖のお墓もあります。
本堂と山門は、国の登録文化財になっています。鬼瓦にはいろいろな猿が彫られています。
◆南禅坊本堂(なんぜんぼうほんどう)・南禅坊山門(なんぜんぼうさんもん)
--- https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/bunka/64123.html ---
登録有形文化財 平成26年(2014年)12月19日登録
南禅坊は浄土真宗本願寺派の寺院で、天正年間(1573~1591年)創建。当初は福禅寺の南隣にあったが、江戸時代中期(正徳六年・1716年)現在地に移転した。『福山志料』には延享五年(1748年)、朝鮮通信使(第10回)の学士・書記と福山藩の学者伊藤大佐が南禅坊で接会し、漢詩文を唱和したことが記されており、江戸時代を通して朝鮮通信使の宿舎として使われた。本堂は、文政五年(1822年)火災にあったが、万延元年(1860年)再建した。
本堂は、内部を内陣(ないじん)・余間(よま)・外陣(げじん)に区分し、前面に吹き放ちの広縁(ひろえん)、三方に落縁(おちえん)をめぐらしている。要所に組物を多用し、豪華な彫刻を用いるなど、幕末以降に流行する装飾的な真宗本堂である。
山門は、一間一戸の四脚門の上部に、方一間で入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の上層を増築し、鐘楼とする。木部には全体にベンガラが塗られ、上層正背面に火灯窓(かとうまど)、両側面に円窓(えんまど)がある。軒先には強い反りがあり、異国情緒を漂わせる。上層の懸魚に文化七年(1810年)の墨書があり、朝鮮通信使(第12回)の来朝予定に備えて増築され、現在の姿になったと考えられる。
◆広島県の文化財-南禅坊山門
--- https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-3000113383.html ---
一間一戸(いっけんいっこ)四脚門(しきゃくもん、よつあしもん)の上部に、一間四方で入母屋造本瓦葺の上層が増築され、鐘楼を吊る構造。
※ 現在梵鐘は無い。
福山藩の命令により安政5(1858)年に供出されたことが寺の文書『梵鐘一件記録』から分かっている。
懸魚(げぎょ)に文化7(1810)年の墨書があることから、上層は1811年の第12回通信使を迎える予定で増築工事を行ったものと考えられている。
木部には全体に弁柄が塗られ、上層正面及び背面に火灯窓(かとうまど)、両側面に円窓がある。隅棟(すみむね)の鬼瓦にそれぞれ異なる形態の猿が彫られているのも特徴的。
軒先の強い反りなど随所に、異国情緒を漂わせ、朝鮮通信使寄港地である鞆の浦の情景を彩る。
境内の大鬼瓦の記念碑には、こんな記載がありました(^-^)//"
◆南禅坊 安政の大鬼瓦
平成五年、南禅坊門信徒の篤信なる願いを受けて第十八世住職釋教壽法師が願主となり、本尊阿弥陀如来様の傘として永年の風雨から門信徒の聴聞の道場を護り続けた大屋根の全面修復工事を「平成の本堂、庫裡屋根大修復が」成就いたしました。
その節、百三十年余りの間、鞆の町の風景であった南禅坊の大鬼瓦もその役目を終えて新しい瓦と交換されました。縦2m40cm、横3m20cmの鬼瓦は近隣伽藍の中でもまれにみる大きさを誇り、鞆の浦歴史民俗資料館に歴史的建造物の資料として保管されていました。今般その鬼瓦の返却に当たり碑を建てて後世に永くその姿を残すものといたします。
尚、瓦の裏面には、「菊間瓦師 ヘ佐 安政七申四月(1860年) 細工人 岩見 忠○○」と記されています。
-- 令和二年八月 第十九世住職 釋 龍壽 --
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