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 次は、「壽福山 顕政寺」に向かいます。

 ◆顕政寺
 鞆の浦の「寺町通り」に建つ日蓮宗のお寺、壽福山顕政寺。慶長年間(1596~1614年)の創建と伝えられています。江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあったそうです。顕政寺では、住職オリジナルの観心行という修行が体験出来る。

 ◆福山市鞆 観心行ができる「顕政寺」
 足利義昭が身を寄せていた(後ろ山の奥、熊野町の)常国寺の末寺であったが絶えて、慶長年間(1596~1614)1600年頃、福島正則(芸備藩主)によって、この顕政寺などの寺々をほぼ一直線に結ぶ寺町(町割り)が形成された。正善院日実は顕政寺を再建し、日蓮宗に改め二代・日運は、本堂と庫裡を拡張する事績を遺し、四代目の日富は、延宝年中(1673~1680年)に、奉行・藤井六郎右衛門に願い出て門前の境内を拡め、今日の基礎を築いた…と伝えられる。

 壽福山 顕政寺を出ますと、お隣りの「法昌山 玅蓮寺」へ。

 ◆法昌山 玅蓮寺(妙蓮寺)

 --- https://ameblo.jp/rediscovery/entry-10189583402.html ---

 【法昌山玅蓮寺(妙蓮寺)】生髪鬼子母大尊神 厄難消滅・心願成就
 宗派/日蓮宗
 山号/法昌山
 開基/実相院日玖
 本尊/日饒上人大曼荼羅・釈迦牟尼佛
 住所/福山市鞆町後地1203-2

 慶長年間(1596~1614)に実相院日玖が創建したと伝えられる。
 寺宝の日饒(にちじょう)上人の御本尊大曼荼羅(寛永三年・1626年)が現存し、それを裏付ける。
 実相院日玖は年壮にして俗塵の交断ち、法宣寺十四世恵性院日親の徒弟となり、圓浄坊と結び引き蘢り、法華経を読すること40年、一万二千余巻におよび、福山藩主・水野勝成殊勝に思い、寛永の末(1644年頃)今の地を賜い、三人扶持十一石を給う。
 本堂は壇中、小林喜兵衛、佐久間七良衛門、石井庄右衛門等、主として浄財を募り建立。
 上京し、本山から山号・寺号を請受した。
 福山二代藩主・水野勝俊からの庇護もあり、その勝俊の位牌が伝わる。承応年間(1652~1654年)に建立したと伝えられる三十番神堂があり、二代・日護の時、延宝年中(1673~1681)奉行・藤井六郎右衛門に願い出て境内門前を広め、四代・日義、元文四(1739)年鐘を鋳、妙蓮寺本堂、鐘楼、山門とも元文年間(1736~1741)に再建され、六代日了、七代日行、本堂再建。
 江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。

 【大曼荼羅】
 寛永三(1626)年、日饒(にちじょう)上人の御本尊曼荼羅で、京都の本山・妙顕寺より授与されたもの。妙蓮寺の創建を伝えるものと思われる。
 【水野勝俊の位牌】
 二代福山藩主(1598~1655年)1639(寛永16)年、二代藩主として襲封するまで鞆城に居住し、「鞆殿」と呼ばれていた。沼名前神社の石鳥居(県重文)を寄進するなど鞆との結びつきは強かった。
 【三十番神堂】
 承応年間(1652~1654)に建立
 番神堂の裏には現在はコンクリートで固められた井戸があり、どんな渇水でもこの井戸は涸れたことがないというこの井戸の水で山中鹿之助(鹿介)の首を埋める前に清めたとされる。
 【山号標】
 文政七(1824)年成就
 【鬼形鬼子母神安置一碑】
 天保七(1836)年三月浣日

 妙蓮寺を後にしますと、「ささやき橋」を通り「山中鹿介首塚」へ。
 案内板には、こんな記載が…

 ◆山中鹿介首塚 ささやき橋伝説

 <山中鹿介首塚>
 戦国時代の終わり、毛利氏に滅ぼされた尼子氏の家臣山中鹿介は、主家の再興を願い兵を挙げました。1578年(天正6年)岡山県の高梁川「阿井の渡」で討たれ、毛利輝元や足利義昭に首実検をされました。岡山県の「阿井の渡」には胴塚があります。

 <ささやき橋伝説>
 応神天皇の頃、百済よりの使節の接待役・武内臣和多利と官妓・江の浦は、役目を忘れ夜毎この橋で恋を語り合っていました。それが噂になり二人は海に沈められました。それから密語(ささやき)の橋と語り継がれています。

 …との事であります。
 この「山中鹿介首塚」と「ささやき橋」の箇所は、右から左にと曲がった通りなのでありますけど、この道の片隅のブロック塀の傍らに小さな石仏が存在します。けど、何らの説明板もありません。が、いつもここを通ります度に気になりますネ。実に寂しく存在しますけど、これは何なんでしょうネ…

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