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 それでは、この辺で沼名前神社とお別れです。が、最後に随身門を覗いてみます事に…

 ◆随身門(随神門)

 --- https://ameblo.jp/rediscovery/entry-10773804613.html ---

 【随身門/随神門(ずいしんもん)】
 ※「ずいじんもん」とも呼ぶ
 享保二十(1735)年建造

 随身(ずいじん、ずいしん)とは、
 平安時代以降、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことであり、神社の門(随身門)の左右に、神を守る者として安置される随身姿の像のことも「随身」といい、この場合は随神とも書かれる。
 この二神は、閽神(かどもりのかみ)または看督長(かどおさ)とも呼ばれ、別名を矢大臣ともいう。
 弓矢を持った二人一組のもの。十五人揃いに属し、宮廷を警護する儀仗姿の武官。俗に左大臣・右大臣ともいう。
 左大臣(向かって右)といい、冠をつけ兵杖を帯した衛士。
 矢大臣/右大臣(向かって左)といい、剣を帯び矢を負うた老人と若人の衛士を飾る習わしがある。
 ※ 書物によっては、矢大神・左大神と記述されたものもあります。

 享保十一(1726)年、
 鞆奉行・堀金右衛門は祇園宮(現在の沼名前神社)の信仰篤く、社の一大改革を成し遂げた。その内容とは、本殿を従来より一段高い場所に遷し、拝殿を今までの本殿跡に据え、社庭を広く拡張するための埋立工事を行い、石垣を高く築き、高い石段を設けた。
 神饌所、接待所、神輿庫、絵馬堂、神馬舎などを増改築し、現在の社殿の基礎を固めた。
 この時の社を管掌する社人(神官)には、
 ◎大宮勘解由(かげゆ)/従二位:森下博祖先
 ◎中須賀宮内少輔/正三位(くないしょうゆう)
 ◎小林左京
 ◎縄稚右膳
 ◎篠原左門:篠原廻漕店祖先
 ◎野島斎宮
 なかでも、篠原左門は自家所有の土地を売却して随神門を寄進した。と子孫に伝えている。
 それから9年後の享保二十(1735)年、鞆奉行・加藤杢兵衛忠治により、改築を施された。

 …と、こんな随身門で、傍らには沼名前神社の案内板が…
 これには、こんな記載がありました。

 ◆沼名前神社

 この神社は渡守神社の「大綿津見命」と祇園宮の「素佐之男命」が一緒にまつられています。平安時代につくられた「延喜式」という法令にも記載されている古い神社です。渡守神社は海上安全祈願の神社で、祇園宮は無病息災を祈願する神社です。
 「お弓神事」(2月の第2日曜日)と「お手火神事」(7月の第2日曜日の前夜)は、福山市無形民俗文化財に指定されています。

 それでは次に、今まで一度も訪れた事がありません「小松寺」に向かってみます。

 ◆萬年山 小松寺(臨済宗)

 瀬戸内の要港にある古刹であり、同寺へは高憎や将軍の足利尊氏・義昭、朝鮮通信使等の多彩な歴史の足跡が刻まれる。
 特に、本堂に掲げられた琉球使節の扁額、境内の「琉球司楽向生碑」は、よく知られるところである。
 また、境内には昭和二十九年(1954)まで、国の天然記念物の見事な巨大・松があり、名所となっていた。オランダ人医師シーボルトもその松之図(版画)を収集している。なお、この松は寺伝によると、平清盛の長男の平重盛(武勇に優れて清盛の後継者として地位を確立したが、清盛より早く、42歳で死去した)が植えたと伝える。

 ◆小松寺

 --- https://tomonoura.life/spot/12657/ 鞆物語 ---

 沼名前神社の参道を西進して二の鳥居で左に折れ、狭い路地を進んでいくと、さわりと小松寺の山門が現れます。
 1175(安元元)年に、平清盛の長男・重盛が、静観寺(当時、天台宗)の境内に一宇のお堂を建立し、小松を植えてその古刹の支院としました。それが小松寺の起こりです。以降、頻々と歴史の舞台に登場する小松寺。平氏や足利氏との縁はとても深く、また朝鮮通信使や琉球使節などの足跡も随所に刻まれています。
 境内にひっそりと佇む「琉球司楽向生碑」— これは、鞆港で、弱冠22歳の若さで病死した琉球使節団の楽師・向生(しょうせい)の供養塔です。

 今はなき、「重盛手植えの松」
 小松殿・平重盛がこの地に植えた松は、地を這うような巨大さでした。しかし、1954(昭和29)年の台風を受けて倒壊し、枯死してしまいます。
 重盛が建立したこの小松寺は、以降、幾度も歴史の表舞台に登場。南北朝のころの「鞆合戦」では、足利尊氏・直義兄弟が陣所を構えたり、信長に追われた室町幕府最後の将軍・義昭も、このお寺で再興を期したり…歴史に縁深いお寺さんなんです。

 ◆小松寺(広島県福山市鞆町)

 --- カッチンの雑記帳 2020.11.16 https://kattinwalk.com/2020/11/10/s-tomo-komatuji/ ---

 広島県福山市鞆町 にある「萬年山 小松寺(こまつじ)」です。JR福山駅から鞆港までバスで約30分。その後、各社は殆どが隣り合ってるような近さなので、所要時間は省略します。
 鞆の町の西側(山側)の南北に沿って寺院が集中している通りがあります。正式名が有るのか無いのかも分かりませんので、勝手に「古寺通り」と呼ばせて貰います。
 古寺通りから沼名前神社の参道に入る辺り、二の鳥居の手前左手の路地から入って行った所に建っていました。
 本堂の入口は、サッシの扉で自由に開けて拝むことができました。本堂の左前の地蔵堂には珍しい髪の毛のあるお地蔵さんが祀られていました(言われないと髪があるの気が付かないと思います)。
 本堂の右前の庫裏のインターフォンを押してみるが反応無し。境内を掃除されている方がいらっしゃったので聞いてみると、御住職がお亡くなりになって、現在は無人との事でした。

 …と、こんな歴史のあります「小松寺」。
 境内には、こんな説明板もありました。

 ◆小松寺略記 臨済宗妙心寺派

 安元元年(1175)小松内府平重盛卿厳島神社参詣の途路護身の阿弥陀仏像を安置して一宇を建立し記念に沼畔に松樹を植う(樹齢850年の威容を誇りしが昭和29年台風により倒伏死す)
 寿永2年(1183)二男資盛の命により平貞能京より重盛公の遺髪を持参す、五輪塔を建立し盛大なる法会を営む。
 延元元年(1335)足利尊氏氏九州より大挙東上の途中弟直義と当寺に宿陣し軍議す。光厳院の院宣を受け錦旗を掲げ意気衝天す。
 暦応2年(1339)南北朝期当寺に本営を置きし北朝軍と大可島に陣する南朝軍との激戦十数日旧記什物は勿論殿堂灰燼に帰す、大永年中安国寺六世曇叟華禅師再建し禅刹とす。
 天正3年(1575)京を追われし十五代将軍義昭当地に宿陣の毛利輝元を頼り当寺に寓居、羽柴秀吉との和議成立するや常国寺に移住す。
 古人曰く「足利は小松に興り小松に亡ぶ」と慶安年中城主水野勝成当寺の寺域の大半を割き祇園宮の社地とす。
 元和9年(1623)九州久留米の梅林寺三世澤雲禅師再建す法系今日に至る。
 貞亨2年(1685)再び境内を割いて社地となし今日に至る。
 本堂前に祀る有髪薬師地蔵尊は非常に珍しい石仏で古来霊験顕著として遠近より参詣者多し。

 ふ~ん、『カッチンの雑記帳』には、「御住職がお亡くなりになって、現在は無人との事でした…」と記載がありますけど、これを綴られましたのは2020年の11月ですから、今から丁度2年前。今でも小松寺にはご住職は不在なんでしょうかねぇ…

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