GONsanと同世代の村田兆治san…高校時代の3年間を福山市で野球に取り組まれました村田兆治san…福山市にご縁がありますプロ野球人のお一人として今まで応援して来ましたのですけど、住宅火災で亡くなられましたとは…
本日のTVニュースでその旨知らされました時には、少々驚いてしまいましたネ。
つぃ最近、暴行容疑で現行犯逮捕されたニュースにも驚きましたけど、お元気におられるのだ…と安心しておりました。が、タバコを手に亡くなられたとは、同じ喫煙者のGONsanだけに、胸に刺さります訃報となってしまいましたネ…
◆村田兆治さん、床に座った状態 火災で死亡、目立った外傷なし
--- 2022/11/11 17時38分 共同通信 ---
元プロ野球選手の村田兆治さん(72)が死亡した東京都世田谷区の住宅火災で、村田さんは消防隊が駆け付けた際、床に座った状態だったことが11日、警視庁成城署への取材で分かった。目立った外傷はないという。外部から侵入された形跡は見られず、署は実況見分をして出火の原因を調べている。
署や東京消防庁によると、火災は11日午前3時10分ごろに発生。村田さんは2階建て住宅の2階から意識不明の状態で運び出された。午前6時ごろに搬送先の病院で死亡が確認された。署は煙を吸ったことによる一酸化炭素(CO)中毒が死因とみている。
◆村田兆治さん死去「気さくな方だった」「事件のことも、今回のことも気の毒です」近隣女性の声
--- [2022年11月11日19時13分] 日刊スポーツ ---
マサカリ投法で知られる、プロ野球元ロッテ投手として活躍した村田兆治さん(72)が11日午前5時57分に亡くなった。警視庁によると、東京都世田谷区の住宅火災で搬送され、この家に住む村田さんと確認された。
近くに住む女性は「野球をやっている孫とキャッチボールをしてくれたり、バットの振り方を教えてくれたり、気さくな方だった」と話した。9月下旬に暴行容疑で現行犯逮捕されたことについても触れ「事件から出かけられなくなった。事件のことも、今回のことも気の毒です」と話した。
東京消防庁によると、11日午前3時15分ごろ、東京都世田谷区の成城で2階建ての住宅から出火し、2階部分の約40平方メートルが燃えた。住宅には村田さんが住んでいた。意識不明の状態で病院に搬送されたが、午前5時57分死亡が確認された。現場は小田急成城学園駅から北に1.3キロメートル。一軒家が立ち並ぶ住宅街。
◆村田兆治さん、発見時にたばこを手に持っていた…自宅火災で死亡
--- 2022年11月11日 読売新聞 ---
11日午前3時15分頃、東京都世田谷区成城、プロ野球・ロッテ元投手の村田兆治さん(72)方から出火、木造2階建て住宅の2階部分約40平方メートルが焼け、室内から村田さんが救助されたが、搬送先の病院で間もなく死亡が確認された。警視庁成城署が出火原因を調べている。
発表によると、村田さんは一人暮らしで、目立った外傷はなく、一酸化炭素中毒の可能性が高い。近隣住民が119番した。
現場は小田急線成城学園前駅の北約1.3kmの住宅街。捜査関係者によると、村田さんは消防隊に発見された際、たばこを手に持っていたという。
村田さんは広島県出身。1968年、福山電波工高(現近大福山高)からドラフト1位で東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)に入団した。左脚を高々と上げて右腕を豪快に振り下ろす「マサカリ投法」でエースとして活躍し、74年にチームの日本一に貢献した。
82年に右肘を痛め、翌年に渡米して肘に腱けんを移植する「トミー・ジョン手術」を受けた。当時の球界で肘の手術はタブー視されていたが、1年間のリハビリを経て一軍へ復帰。85年には開幕11連勝を飾って完全復活した。毎週日曜日に登板して「サンデー兆治」と呼ばれて人気を集め、90年に40歳で現役を引退するまで、速球とフォークボールを武器に通算215勝(177敗)、2,363奪三振の成績を残した。
2005年に野球殿堂入り。全国の離島の中学球児が対戦する「全国離島交流中学生野球大会」(離島甲子園)を提唱し、離島での野球振興にも尽力した。
今年9月23日には、羽田空港の保安検査場で女性検査員の肩を押したとして暴行容疑で警視庁東京空港署に現行犯逮捕され、2日後に釈放されていた。
◆村田 兆治
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
村田 兆治(むらた ちょうじ、1949年11月27日 - 2022年11月11日)は、広島県豊田郡本郷町(現・三原市)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。
現役時代は東京オリオンズ→ロッテオリオンズで活躍した。そのダイナミックな投球フォームは、「マサカリ投法」と呼ばれていた。
通算暴投の日本記録保持者(148回)。
・経歴
-- プロ入り前 --
村田がプロ野球選手を志したのは小学5年のとき、父に連れられて広島市民球場へナイターを観戦しに行ったことがきっかけだった。初めて生で見るプロの試合に鳥肌が立つほど興奮し、それ以来、プロ野球選手以外の将来は考えられなくなったという。
速くて球質が重い、剛速球は天賦の才と言ってよく、進学した福山電波工業高校(現:近畿大学附属広島高等学校福山校)時代から、スピードガンがあればその球速は既に152、153km/hをマークしていただろうと言われ、県内でも屈指のピッチャーとして有名だった。
1年上には浅野啓司がおり、2年生の秋からエースとなった。しかし当時の広島県には、山本和行を擁する広島商、大田垣耕造のいた尾道商、1967年に夏の甲子園準優勝を果たした広陵など強豪がひしめいており、厳しい競争が続く。1966年秋季中国大会県予選で準々決勝に進出するものの広陵高に惜敗、翌年夏の県予選でも3回戦で呉港高校に敗れ、甲子園出場の悲願は叶わなかった。
しかし、広島カープの木庭教スカウトから間接的に「ドラフト1位で指名する」と伝えられていたため、カープに入れると喜んでいた。東京オリオンズは1位指名を誰にするか決めかねていたが、濃人渉監督が、植村義信投手コーチを呼び「お前が決めろ」と一任し、植村が映像を観て、肩の強さや体の柔らかさをスカウトから聞いた上で村田の指名を進言。この年第3回ドラフトは、予備抽選で指名順位を決め、1番くじを引いた球団から順に1人ずつ指名していく方式で、広島は12番目。その前の6番くじを引いた東京オリオンズが1位指名した。
有名人の有無に拘わらず、同世代の方がお亡くなりになりますのには、実に複雑な気持ちを抱いてしまいます。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
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日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)