能舞台の傍らには、『能楽 鞆浦 鞆の御社千木髙く 岩根太しき玉殿に 朝日輝くたふとさよ 朝日輝くたふとさよ』と刻まれました石碑が…
WEB上で、「能楽 鞆浦 鞆の御社千木髙く…」を検索してみますと、こんな記載がありました。
◆祖父の作った能楽「鞆浦」
--- https://www.noh-oshima.com/oosimanouto/nouto03.htm ---
能楽「鞆浦」は、私の祖父大島寿太郎が1917年(大正6)年に創作し、自身で初演した作品で、風光明媚な福山市・鞆の浦を舞台に沼名前神社の素戔鳴の神が天下太平を寿ぐというものです。
創作された大正時代に2、3回演能された記録は残っていますが、1995年、私が演能しましたのが、約80年ぶりのことでした。その再演奉納記念に併せて、能楽「鞆浦」の石碑を建させていただきました。
その石碑は沼名前神社能舞台見所の右寄りに建てられていて、謡の詞章の一部分「鞆の御社千木高く 岩根太しき玉殿に 朝日輝くたふとさよ 朝日輝くたふとさよ」の文字が刻まれています。一緒に植樹致しました若松も、よく手入れしていただくおかげで、元気に能舞台を見守っているように見えます。
能楽「鞆浦」再演奉納、石碑建立の時には、地元鞆の方々をはじめ多くの方々にご支援賜りましたこと、あらためて感謝申し上げます。
なぜ、祖父が能楽「鞆浦」を作ったのか。それは、この能舞台の歴史にあるのではないだろうかと思っています。
私の家が所属する喜多流の流祖は七歳の時、豊臣秀吉の前で羽衣を舞い、秀吉に能役者として召し抱えられ、江戸時代徳川二代将軍秀忠より一流の樹立を許された方です。秀吉が戦陣に持ち運んだとされているこの能舞台には喜多流の流祖をはじめ、数々の先人達の足跡と情熱が込められていて、能が求めているもの、今世の中で忘れられているものが、そこで探し出されるのではないでしょうか。
それを、気付かせてくれるために祖父は能楽「鞆浦」を作ったのではないかとミステリー風に推測しています。
…と、こんな記載でありました(^.-)☆
随身門の二つの守護神像は、後で拝見します事にし、石段を上がり本殿へ向かいます。
◆沼名前神社
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)は、広島県福山市鞆町後地にある神社。式内社、旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。
「鞆祇園宮(ともぎおんぐう)」の別称とともに、「祇園さん」の通称がある。
◇祭神
祭神は次の2柱。
・主祭神:大綿津見命(おおわたつみのみこと) - 旧渡守神社祭神。
・相殿神:須佐之男命(すさのおのみこと) - 旧鞆祇園宮祭神。
◇歴史
現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものである。神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしている。現在の祭神2柱(大綿津見命・須佐之男命)は、それまでの各社の祭神である。
◇境内
社殿前に建てられている石燈籠は、江戸時代の慶安4年(1651年)に福山藩3代藩主の水野勝貞から寄進されたものである。総高3.24メートル。六角形の台座の上に、直径47.4センチメートルの竿石、さらに中台・火袋・笠石・宝珠が置かれる大形なものである。近世初頭の社前献灯としては標本的な燈籠であるとして、福山市指定重要文化財に指定されている。
境内の八幡神社隣には、20個の力石がある。これらは全て花崗岩製で、楕円状、重さは230キログラムから118キログラムである。各石には銘があり、うち制作年代がわかる5個は天保15年(1844年)から安政5年(1858年)である。鞆は海運の町であり、祭礼の場で力を競い奉納したものとされる。これらの力石は、近在の住吉神社の3個とともに「鞆ノ津の力石」として福山市指定有形民俗文化財に指定されている。
また本社社殿の一段下には、桃山時代の能舞台が建てられている。舞台の構造は桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、妻入、柿葺。元は伏見城内にあって豊臣秀吉も愛用したという組立式の舞台であり、福山藩初代藩主の水野勝成が現在の福山城伏見櫓等とともに2代将軍・徳川秀忠から拝領し、福山城に移設したという。
万治年間(1658年-1660年)、3代藩主の水野勝貞が当社に寄進したのち、元文3年(1738年)に現在見られる固定式に改められた。組立式の様式は随所に見られ、各部材には番号・符号が振られており、戦場にも持ち運べるものであるとされる。正面の鏡板に描かれる松と竹は、当初よりの絵である。ただし、現在見られる橋掛り・楽屋等は当時の建物ではない。この能舞台は、桃山時代の特徴を持つ貴重なものであるとして、国の重要文化財に指定されている。
境内最下段に建てられている第二鳥居(二の鳥居)は、江戸時代の寛永2年(1625年)に水野勝重(のちの2代藩主水野勝俊)が長子(のちの3代藩主水野勝貞)の誕生に際して、この健康を願い寄進したものである。形式は一般に見られる明神鳥居であるが、笠木の先端は丸味を付けて反り上がっており、さらに鳥衾(とりぶすま)が載せられた独特なものである。先端を反り上げるのは「肥前鳥居」によく見られる形式であり、鳥居の柱にある「大工 肥前之住人中島弥兵衛」の銘との関係が指摘される。この鳥居は広島県指定重要文化財に指定されている。
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