石段を上がり境内に出ますと、石段の上に社殿が…
社殿への石段の上がり口右側には、『北清事変凱旋奉納砲弾』が…『北清事変』とは、どんな事件でしたのでしょうねぇ~またまた、WEB上で「西神島八幡神社・北清事変凱旋奉納砲弾」を検索です(^-^)
◆備後の歴史を歩くコミュの西神島八幡神社
--- https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1818324&id=19834565 ---
西神島八幡神社(にしかしまはちまん) 福山市西神島町に鎮座する。
神島…神の島。かつてこの地は島だった。アマテラスを祀っていた第10代崇神天皇の皇女豊鋤入姫命(とよすきいりびめ)のあとを継ぎ、アマテラスのご神体を携えた第11代垂仁天皇の第4皇女倭姫命(やまとひめ)は、新たなアマテラスの鎮座地を求めて、約60年掛けて各地を巡り、最終的に伊勢の地に鎮座した。これが伊勢神宮の縁起だ。
大和国を旅だった倭姫命は紀伊国から吉備国に入る。再び大和に帰り、伊賀、志賀、岐阜、愛知、三重…そして伊勢にたどり着いた。神村町の今伊勢宮には豊鋤入姫命の伝説が残り、この神島の地には倭姫命がお泊まりになったという。また、第15代応神天皇の母、神功皇后もこの地に船をお泊めになった。それらが故に、この島を神島(かむしま)と称する。
また、奈良時代の万葉集には天平8年(736)6月、新羅へ向かう使者が難波を旅立ち瀬戸内海を西進した。その航海の途中この神島で読まれた歌が遺されている。
-- 月読の光りを清み神島の礒廻の浦ゆ船出す我れは --
この港で停泊した船は、鞆の浦から次の停泊地、糸崎「長井の浦」を目指したとされる。水野勝成が備後にやってきた元和の頃までは港町として栄えていたという。
この神社の創祀は不明であるが、現存する棟札によると、正に戦国時代、天正199年(1591)8月に社殿の再建が行われ、以後度々行われている。最近では大正3年(1914)12月に再建している。
いま建つ社殿はこの時のものだ。本殿は三間社入母屋造で、本瓦葺き屋根には千鳥破風が付く。廻縁を三方に巡らせて背面は脇障子で止まる。拝殿との間には幣殿も備わる。境内は公園として整備され、参道の入り口には万葉の歌碑が建てられていた。
◆義和団事件・北清事変とは?【教科書風に】
--- https://manareki.com/giwadanziken ---
1900年に入ると、清国では「扶清滅洋ふしんめつよう」を唱える義和団(ぎわだん)と呼ばれる団体の勢力が増して、各地の外国人を遅い、北京の列国の公使館を包囲した。(義和団事件)
さらに、清国政府も義和団事件に同調して、列国に対して宣戦布告をした。(北清事変)
日本を含む列国は軍隊を派遣して、義和団を鎮圧。清国政府を降伏させ、1901年に清国と北京議定書を結んで、清国に対して巨額の賠償金を求めた。
◆義和団の乱
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
義和団の乱は、1900年(1899年)に起こった、清朝末期の動乱である。義和団事件・義和団事変・北清事変(ほくしんじへん)・清国事変などの呼び方もあり、中国では戦争が起こった年の干支から庚子事変(こうしじへん)とも言われるが、本項では「義和団の乱」で統一する。
「扶清滅洋」を叫ぶ宗教的秘密結社義和拳教による排外主義の運動が展開されたが、1900年(光緒26年)に清国の西太后がこの叛乱を支持して6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった。
だが、宣戦布告後2カ月も経たないうちに、北京の公使館員や居留民保護のため八カ国連合軍が北京に進出し、大日本帝国が中でも最大の兵力8,000人を投入した。
・背景
-- 清末におけるキリスト教の布教活動 --
中国にキリスト教が伝来したのはかなり古いが、多くの信者を獲得することなく清末にいたった。しかしこうした事態に変化をもたらしたのが、相次ぐ西欧列強との戦争とその後の不平等条約締結である。それまで布教活動は条約港に限り認められていたが、アロー戦争(第二次アヘン戦争)後結ばれた天津条約では、清朝内陸への布教を認める条項(内地布教権)が挿入されており、以後多くの外国人宣教師が内地へと入っていった。この結果、キリスト教は次第に信者を獲得していく。(以下 略)
…と、WEB上には、こんな記載がありました。
ふ~ん、こんな「西神島八幡神社」でありますけど、それにしましても神社に「砲弾」が献納されていますのをよく眼にしますけど、何故なんでしょうねぇ~
これも、WEB上で調べてみますと、
◆神社や忠魂碑にある砲弾について
--- http://ki43.on.coocan.jp/hodan/hodan01.htm ---
日清戦役・日露戦役は、発展途上国だった日本が、かろうじて勝利した自衛戦争だった。国民すべてが一丸となり国難に立ち向かったのである。
日清戦で手に入れたた戦利品は、講和後に組織された「陸軍戦利品整理委員会」によって区分され、必要のないものは参考品・記念品として各方面に献納または払い下げられた。
民間への下附品目では砲弾が最も多く、約8,700個が下附された。整理委員会から各府県に一括して送付され、それを府県知事が管内の各施設に分与するという段取りで行われた。おおむね神社、仏閣、学校、役場、博物館といったところ。
日露戦のあとでは、明治39年に陸軍だけで「戦利兵器奉納ノ記」という文書とともに23,170箇所の神社などに砲弾が配付されている。
それこそ「坂の上の雲」を目指していたころの日本が、外国の植民地にされないため、国民が一枚岩となって国難に打ち勝った記念品として各所に置かれたのである。
これに加えて海軍からのものや、その後の皇室の御成婚記念や御大典、各事変の記念に下附された砲弾は相当な数にのぼり、日本中のすべての神社に置かれていても不思議ではないほどの数量が下附された。(以下 略)
…と、こんな理由からでありました(^-^)//"
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