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 「佐波城山公園」の散策を終えますと、次は「神島城跡」を散策となりました(^.-)☆
 神島町の「西神島八幡神社」に隣接の「福山西國第4番『法然寺』」が神島城跡のようですから、まずは「西神島八幡神社」に向かいます。
 八幡神社に到着しますと、鳥居付近に「無断駐車禁止」の表示がありましたけど、そんな事言われても他に駐車場所はありませんから、やむなく無断駐車のGONsanです(^-^)
 鳥居脇には、西神島町内会san作成の案内板・『万葉の里』が設置されていますけど、経年劣化で読めません(^-^;
 その右隣りには歌碑が…「万葉の里」の案内板には、この歌碑の説明がありますのでしょうねぇ~

 歌碑には、こんな記載が…
 「月○の光を清み神島の 磯廻の浦○ 船出すわれは ○○書」

 ○の部分は、何と書いてありますのか分かりませんけど、これだけ分かれば、WEB上で検索しますと簡単に判読は可能。
 早速、検索してみますと、

 ・原文:月余美能 比可里乎伎欲美 神嶋乃 伊素未乃宇良由 船出須和礼波
 ・作者:遣新羅使(けんしらぎし)
 ・よみ:月読(つくよみ)の、光りを清(きよ)み、神島(かみしま)の、礒廻(いそみ)の浦(うら)ゆ、船出(ふなで)す我(わ)れは
 ・意味:月(つき)の光が清らかなので、神島(かみしま)の、磯に沿って浦を通って船出(ふなで)をします、私たちは。
 ・補足:天平八(西暦736)年、遣新羅使(けんしらぎし)が別れを惜しんで詠んだ歌、海路で心を痛めた思いを陳(の)べ、その場その場で詠んだ歌々のひとつです。
 月読(つくよみ)は、月(つき)のことです。
 神島の天神社の歌碑:岡山県笠岡市神島にある天神社にはこの歌の歌碑があります。

 …と、こんな記載がありました(^.-)☆
 ついでに、「神島城」を検索してみますと、こんな記載が。

 ◆神島城

 --- 山城攻城記 https://gosenzo.net/yamajiro/2022/05/04/ ---

 城名:神島城(かしまじょう)
 別名:無し
 標高:22m
 比高:18m
 築城年:不明
 城主:久保兵部、佐波氏、名倉氏らも関係を指摘される、槇木島昭光が一番有名。
 場所:広島県福山市神島町
 北緯:東経:34.485530/133.341528

 ・城の概要:主郭は25m×35mの規模を持つ最も大きな郭で、最高所の郭は物見台と思われる。主郭の南下の郭群は八幡社・駐車場・墓地・寺院となっているので、原状をどの程度留めているか、不明である。--『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用 --

 ・城の歴史
 城主はまず「備後古城記」に久保兵部の名がある。その後、佐波城の佐波氏、名倉氏らもその支配下におさめていたものと考えられる。
 有名なものは槇木島昭光で昭光は足利義昭の家臣で、義昭が鞆の浦にいた時に付き従った家臣であった。
 義昭は1576~87まで鞆の浦や津之郷に在住していた為、この10年強の間に昭光が城主だったと思われる。
 ※ 津之郷の東が神島になる。またこの地域は神島市がたち、当時は活気のあった場所で、税収も見込まれていたのではないか。神島は山陽道に近く、城下には「神島市」の繁栄があり、海の玄関口である鞆にも近い。事実、豊臣勝俊や細川幽斎は、鞆から昭光の取次で「公儀御座所(義昭の居館)へ参上し、昭光の館で「蹴鞠」を楽しんだことが知られている(九州道の記など)。-- 神島城と槇木島昭光(福山市西神島町)より --

 ・所感
 現在は八幡宮、公園、寺、墓所などがあり、当時の姿がどこまで残っているか不明。
 当時は福山湾に接しており、港や市などが近隣にあったことから大いに賑わっていたと思われる。
 古い五輪塔や宝篋印塔が城域には残っており当時を偲ぶことが出来る。

 …と、こんな「神島城」でありますようです。
 それでは、「西神島八幡神社」へと上がってみます(^-^)//"

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