8/26(金)の午前中は、ウォーキングを兼ねまして「草戸山城跡」を散策となりました(^.-)☆
「草戸山城跡」を訪れますのでしたら、車で草戸山公園駐車場まで上がり、そこから歩きますとスグなのですけど、久し振りに明王院からノンビリと上がってみます事に(^-^)/
明王院入り口には、こんな案内板が…
◆草戸・川西歴史街道 散策路⑫明王院の石垣
明王院下屋敷の石垣に、珍しい形の石が見られる。扇形、丸(杯または月)、瓢箪(瓢箪)の形をしている。この石垣が出来た時期は不明だが、石工が同じではないかと思える扇形の石垣が荒谷街道の民家の石垣にみられる。(写真1)。荒谷街道は北は岩見に通じ、南は草戸の明王院を通り鞆に通じる街道である。この街道は江戸時代には存在していたのは明らかで、したがって、明王院下の石垣も同年代と思える。何故こういう石が積まれたかは不明であるが、石工の心意気ではないかと言われている。
備後地区にある類似の積み石に一宮さん(備後国吉備津神社)がある。(写真2)
この一宮さんは備中国一宮の吉備津神社より分祀されたもので、桃太郎にゆかりのある桃の形をした積石などが見られ、大正時代に構築された。
--- 2013年10月 この事業は、福山市協働のまちづくり基金を活用して実施しています ---
他には、「草戸千軒町遺跡について」の案内板も…
WEB上で『草戸千軒町遺跡』を検索してみますと、色んな記載がありますネ。
◆草戸千軒町遺跡
--- https://tabi-mag.jp/hm0172/ ---
広島県福山市を流れる芦田川(あしだがわ)河口付近の中州とその周辺に位置する中世に繁栄した遺跡が草戸千軒町遺跡。鎌倉時代から室町時代にかけて、付近の三角州で栄えた集落が草戸千軒町で、その存在は長らく幻といわれていました。草戸千軒町は瀬戸内海の交易で繁栄し、明王院の本堂や五重塔の建築にもその財力が関係しています。
・町の誕生、消滅の理由は未だ謎!
江戸時代中期に福山藩士が編纂した『備陽六郡志』には、寛文13年(1673年)の洪水で滅びた町として草戸千軒は記述されていましたが、草戸千軒町に関して具体的な情報は皆無。
その存在が明らかになったのは、大正末から昭和初期で、芦田川の河川工事により、五輪塔などとともに陶磁器や古銭などが多数出土したことによります。
本格的な発掘調査が実施されたのは、昭和36年からで、中世の瀬戸内海に栄えた湊が実際にこの地にあったことが判明したのです。
遺跡からの出土品2,930点は、広島県草戸千軒町遺跡出土品として国の重要文化財に。
瀬戸・美濃焼、常滑焼、唐津焼、伊万里焼など国産の陶器・陶磁器などの他、中国産、ベトナム産、朝鮮産の陶磁器も数多く出土し、中国産磁器は17世紀前半(1620~1640年代)のもの。
草戸千軒町遺跡は、現在では川中にあるので、法音寺橋橋上より見学するのが無難。
詳細は、広島県立歴史博物館の草戸千軒展示室「よみがえる草戸千軒」に行くことが賢明です。
「草戸千軒」のを町並みを実物大で復原して、室町時代の初夏の夕暮れを再現。
さらに遺跡から出土した「重要文化財広島県草戸千軒町遺跡出土品」を用途別に展示しています。
ちなみに、『備陽六郡志』には洪水で滅びた町として記述されていますが(「其後寛文十三年癸丑洪水の節、下知而、青木かはなの向なる土手を切けれは、忽、水押入、千軒の町家ともに押流しぬ。此時より山下に民家を建並、中嶋には家一軒もなし」)、発掘調査の成果から、草戸千軒が町として機能した最終段階は室町時代の16世紀初頭であることが判明しています。
洪水で埋まったような痕跡も発見されていないので、消滅の理由は未だに謎のままなのです。
◆草戸千軒町
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
草戸千軒町(くさどせんげんちょう)は、現在の広島県福山市にあった、鎌倉時代から室町時代にかけておよそ300年間存在した都市(大規模集落)である。
瀬戸内海の芦田川河口の港町として栄えた。遺跡の発掘調査から、時期によって町の規模は変遷しているが草戸千軒町は近隣にあった長和荘などの荘園や地頭、杉原氏や備後国人で一帯の領主であった渡辺氏の保護の元、他の地方との物流の交流拠点として繁栄しており、数多くの商工業者がいたと見られ、遠くは朝鮮半島や中国大陸とも交易していたとみられている。また近くには現在も存在する草戸稲荷神社と明王院があり、その門前町としても繁栄していたものとみられている。
・草戸千軒町遺跡
江戸時代初期の備後福山藩 水野家の入封時に流路改修が行われるまで芦田川は、今では廃川となった旧鷹取川方面や現在の福山駅前方面へ流れる流路が本流であり、当地は土砂が堆積した中州地帯の上にできた。
今日の光景からは想像しがたいが、江戸期の大規模な干拓事業が行われるまでは、今の野上町付近より南東は瀬戸内海に直接面していた。昭和時代後期(20世紀末)まで草戸千軒町の遺跡は芦田川と旧鷹取川が分かれる中州付近にあったが、遺跡の大部分が、昭和初期に国により行われた芦田川の洪水対策工事のために拡張・浚渫工事で取り除かれた。また推定であるが、芦田川東岸の河川敷にも遺跡が存在する可能性があり事実、草戸町1丁目付近の古道沿いの水路などにその痕跡が残る。
遺跡からの出土遺物は広島県立歴史博物館で保存・展示されていて、国の重要文化財に指定されていて、同博物館には往時の草戸千軒町の町並が実物大のジオラマで一部再現されている。なお、往時には瀬戸川河口に広がる沖積地に町があり、東方には福山湾が広がっており交通の要所にあったことから発展したと見られている。
また、遺跡からは多くの栽培植物も出土している他、4千点にものぼる大量の「中世木簡」(室町期)が出土しており、1982年には正式報告書『草戸千軒 木簡一』として紹介されている。
・草戸千軒町の発掘
「草戸千軒」の名は、江戸時代の中頃(元文から安永年間)に備後福山藩士・宮原直倁によって書かれた地誌『備陽六郡志』の中に、「草戸千軒という町があったが、寛文13年(1673年)の洪水で滅びた」という伝承が記載されていたことから付けられたもので、町についての様子は書かれていなかったため、想像上の幻の町といわれていた。
昭和時代に入った1930年前後の河川工事によって、遺物が出土しようやく存在が確認され、戦後になって1961年から約30年間にわたり断続的に行われた大規模な発掘調査で全容が判明した。
長年埋もれた後に昭和時代になって発掘されたことから「東洋のポンペイ」ないし「日本のポンペイ」といった呼ばれ方をされているが、最盛期に埋没したポンペイとは違い、洪水で完全に川の底に埋まった時期には、既に町としては廃絶に近い状態であったとみられている。これは鎌倉・戦国期には度重なる戦乱の舞台となったことで、荒廃し福山城が築かれた頃に行われた芦田川の改修事業により洪水対策の流路として改築されたのもあり、江戸時代には既に無人であったろうと想像される。
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