01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
09-721
09-722
10-720
11-720
12-720
03-720-555

 筋鉄御門(すじがねごもん)の中に入りますと、皆さんは板間に上がって説明を(^-^)
 GONsanは、瓦等の保存場所になっています土間からこの様子をパチリです(^.-)☆
 それにしましても、これらの瓦は、どちらの建物のモノを保存しておられますのでしょうねぇ~そちらの方が、気になりますネ(^-^)
 筋鉄御門から出ますと、次は「伏見櫓」へと。ここもまた、GONsanは入口から中の様子を…
 「伏見櫓」の説明板には、こんな記載がありました(^-^)

 ◆伏見櫓
 (阿部家藩主時代の名称:内拾番三重御櫓)

 ・国重要文化財
 ・1933年(昭和8年)1月23日指定

 伏見櫓は福山城本丸南西に位置する三重櫓で、江戸時代には武器庫として使用されていた。築城時に伏見城から移築された櫓の一つである。
 外観で特徴的なのは、柱形や長押を漆喰で塗り出す、真壁造と呼ばれる1階と2階の外壁の意匠である。その意匠は古式と評されることが多いが、その実例は極めて少ない。同じく伏見城から移築されたと伝わる月見櫓は大壁造であり、伏見櫓は別格であったことがうかがえる。
 1873年(明治6年)の廃城令での取り壊しを免れ、1933年(昭和8年)に筋鉄御門と御湯殿とともに旧国宝に指定された。筋鉄御門や鐘櫓とともに、1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲を免れ、現在は国の重要文化財である。
 1951年(昭和26年)から行われた修理の際、二階の梁から「松ノ丸ノ東やく(ら)」の刻字が見つかり、伏見城からの移築であることが立証された。伏見城から移築された伝承を持つ建物はあるが、文献や刻字によって立証される全国唯一の現存建物であり、日本城郭史においても極めて重要で貴重な存在である。

 伏見櫓の次は、「鐘櫓」を拝見です。
 「鐘櫓」の手前には、「火灯櫓跡」の表示板が…でも、この「火灯櫓跡」を画像に納めますのを失念しましたから、WEB上から拝借です(^-^)

 ◆火灯櫓(火打櫓)

 --- 備後歴史探訪倶楽部 https://tanbou-club.net/ ---

 火灯櫓は横長の二重櫓で馬出門を守備する位置にあった。伏見城から移築されたともいわれるが、火灯櫓で移築を記す文献は備陽六郡志のみなので、同様に伏見城からの移築とされる櫓(伏見櫓、月見櫓等)が複数の文献を根拠とするのに比べ信頼性は極めて希薄である。そのため、新規に建てられた可能性も高いと考えられている。「火灯」の名称の正確な由来は定かではないが、恐らくは櫓の窓に火灯窓(花頭窓:炎のような形状の窓)が用いられたからだろう。火灯櫓の南側、東側には多聞櫓が巡らされ、南側は伏見櫓の手前まで続き、東側は馬出門に接続されていた。現在火灯櫓跡の背後にある鐘櫓は東側の多聞櫓の一部であった。
 火灯櫓の建つ本丸西側は絵図では様々な変化が認められるが、火灯櫓自体は初期の絵図からほぼ同じ姿を確認でき築城当初から存在したようだ。その後、建物は廃城まで維持されたが、明治初期に取り壊されたため、正確な形状は分からなくなっている。ただし、櫓台の石垣は礎石こそ見あたらないものの、よく残されている。尚、火灯櫓は阿部期に「内九番櫓」と呼ばれるようになる。
 なお、近代に「火打」と誤記され、今日では「火打櫓」が一般的な呼称となっているが、江戸時代の史料を見ると明らかに「灯」の字で記載されている。
 右手の鐘櫓辺りまでが火灯櫓の範囲だと考えられる。

 …と、こんな「火灯櫓(火打櫓)」とのことであります。それでは、「鐘櫓」の中を覗いてみますことに。
 入口を入ってスグに板間がありますけど、どなたもおられません。釣鐘の有ります2階に上がっておられますのでしょうねぇ~
 ここでもGONsanは、入口から誰もいません板間をパチリとなりました(^-^)
 「鐘櫓」から出ますと、天守・筋鉄御門・伏見櫓方向もパチリです(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)