筋鉄御門から本丸に入ります前に、説明板を拝見です。説明板には、こんな記載が…
◆筋鉄御門(すじがねごもん)
・国重要文化財
・1933年(昭和8年)1月23日指定
筋鉄御門は本丸へ入る正門である。門柱には欅(けやき)の太い柱を用い、脇戸を設け、門扉には十数条の筋鉄が打ち付けられている。外観は伏見櫓と同様に柱形や長押を漆喰で塗り出し、方杖は無く、窓は素木(しらき)である。狭間は設けていないが、窓の格子を三角形にすることで射撃の効率を図っている。屋根瓦には水野家の家紋である「立ち沢瀉(おもだか)」が使用されている。内部は門の上部を一段高くとり床張りとし、その左右は土間となる。
1873年(明治6年)の廃城令での取り壊しを免れ、1933年(昭和8年)に伏見櫓と御湯殿とともに旧国宝に指定された。
伏見櫓や鐘櫓とともに1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲を免れ、国の重要文化財となり1951年(昭和26年)から解体修理が行われた。
その際に、多くの材が交換されてはいるが、当初材を多く残しており、これらは別の建物から再利用された転用材が含まれることが分かった。転用の柱は、西面南側窓に外部からも確認できる。
…と、こんな記載でありました。
福山市のホームページには、「筋鉄御門」の、こんな説明が。
◆築城当時から残る本丸の正門 福山城筋鉄御門
--- https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/koho-detail50/koho-202203/251837.html ---
福山城を南側から登り本丸に向かうと、重要文化財の福山城筋鉄御門があります。
筋鉄御門は福山城を築城するに当たり、京都伏見城から移築したものと伝えられています。 桁行き10間、梁間3間、入母屋造り、本瓦葺で一階(城門部)の両脇を袖石垣が挟み、二階(櫓(やぐら)部)は一階と袖石垣の上に建つ典型的な櫓門です。この形式の櫓門は西日本に多く見られますが、櫓部内部の中央を板敷、その両脇を土間としている平面構成は現存する櫓門では筋鉄御門以外は確認されていません。
一階(城門部)の左右の門扉には「筋鉄」と呼ばれる筋状の薄い鉄板が縦に12条ずつ鋲留めされています。筋鉄は鍛造製で厚み2~3mm、幅75mm、長さ約2,400mmを基本とし、装飾用金具の配置に応じて長さを調節してあります。門扉以外に脇戸や柱などにも鋲留めされており、このような様相から「筋鉄御門」と呼ばれています。
この貴重な建物を後世に引き継ぐため、本市では筋鉄御門の保存と活用に取り組んでいます。1つ目は国宝化に向けた調査です。2018年度に建築学的な調査を実施し、建築年代や移築の証拠は見つかりませんでしたが、転用材が多用されているなど新たな事実が確認できました。二つ目は外壁漆喰壁の全面塗り替えです。伝統的な工法で白壁の優美な姿に修復します。
8月28日には築城400年を迎える福山城。筋鉄御門をくぐり400年の歴史を感じてみてはいかがでしょうか。
筋鉄御門を潜り本丸に入りますと、スグに「伏見御殿跡」の石柱が…その脇には、こんな「本丸御殿跡」の説明板がありました。
これには、
◆本丸御殿跡
福山城本丸に所狭しと甍(いらか)を並べた御殿は「本丸御屋形」と呼ばれた。水野家時代に三之丸東側へ新たに屋敷が築かれ、その機能は移転をされた。阿部家時代に城内は相当荒廃し、本丸御屋形の奥向きの建物が撤去されたと、近世地誌である「備陽六郡誌」には記載されている。また「安永三年絵図」によれば、さらに撤去は進み南側の四棟のみとなるが、御殿として最低限の機能は残していた。
1873年(明治6年)の廃墟により取り崩され、現在は礎石を残すのみである。
建物の配置、室内や板戸に描かれた画題は、二条城二之丸御殿や名古屋城本丸御殿などに共通する点が多く、極めて形式的なものである。玄関の広間「虎之間」には虎の絵を描き、謁見の間である大書院「皇帝之間」では帝鑑図を描く。表向きの居室である表居間「伏見御殿」には落ち着いた山水が描かれていた。
『安永三年絵図』では表居間を「伏見御殿」と書き、箱棟とよばれる屋根の一部には徳川家の家紋である「葵紋」が使われ、伏見城から移築されたとしている。現在も福山城で使われていたと伝わる杉戸がいくつか残っている。
…と、こんな説明でありました。
「伏見御殿跡」につきましては、WEB上に、こんな記載もありました(^-^)
◆本丸御殿跡
--- https://kojodan.jp/castle/84/memo/952.html ---
福山城の本丸には城主の居館である本丸御殿がありました。
本丸御殿は多くの御殿建築と同様に公的な「表向」と私的な「奥向」から構成されていました。
筋鉄御門から入ると左正面に表向跡(伏見西殿跡)の石碑が建てられています。
こちら側が式台(玄関)で、その左手に内玄関がありました。式台の正面は広間(虎の間)で、この東側に渡り廊下で繋がれて大書院(皇帝の間)が建てられていました。
大書院の南側には御風呂屋(現在の御湯殿)があり、往時はこれも渡り廊下で繋がれていました。一方、大書院の北側には表居間(伏見御殿)があり、こちらも大書院と渡り廊下で繋げられていました。
この他に小書院(鶉の間)、表台所、料理間などがあり、これらの礎石は部分的に残されています。ただし整備状況は悪く、礎石の並びを体系的に把握するのはむずかしいです。
また、奥向は表向の北側(天守の南側)に位置し、奥居間、奥台所、長局、などで構成されていました。
ちなみにこの本丸御殿に居住したのは、初代藩主である水野勝成と、二代藩主・勝俊のみで、三代藩主・勝貞は三の丸東側に新たな御殿(三の丸御屋形)を造営して移り住んだため、居住施設である奥向部分は江戸後期に取り壊されています。
表向の建物は式典などに用いられたので、その多くが明治時代まで残されました。
…と、こんな記載が。
「伏見御殿跡」に立ち、本丸内を見廻して、何枚かパチリ。う~ん、リニューアル直後ですから、天守は大変キレイです(^_^)v
この日は、WEB上で事前申込をしておりましたら、「鐘櫓・筋鉄御門・伏見櫓・御湯殿」等の中に入れるのですけど、GONsanは申請しておりません。ですが、中に上がらず入口からの写真撮影はOKですので、まず、筋鉄御門に入ってみたいと思います(^-^)//"
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