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 それでは、三十番神社とお別れしまして中山城跡に向かってみます事に。
 「中山城跡入口」の案内標識の設置場所まで戻り、廃墟(多分、どなたも住んでおられないものと思いますが…)横の石段を進行です(^.-)☆
 「中山城跡」をWEB上で検索してみますと、こんな記載がありました(^.-)☆

 ◆備後中山城(福山市)

 --- 城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/bingo/nakayama-jyo/ ---

 ・歴 史
 築城年代は定かではないが室町時代に渡辺氏によって築かれたと云われ、渡辺氏の一族が城主であった。

 ・説 明
 中山城は芦田川に沿って延びる丘陵の先端を掘切によって区切って独立されたもので山頂の本丸を中心に帯郭と小郭を配置した小規模なものである。 山頂部分には大きな岩があり一段下がった所に神社が建てられている。

 ◆中山城(福山市草戸町中山)

 --- 山城攻城記 https://gosenzo.net/yamajiro/2022/05/04/ ---

 ・城の概要
 主郭を置き、南北に郭を配している。また南東下には幅8mの堀切を設け、その外側も郭としている。
 『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 ・草戸村
 当地の中山城も草戸千軒と関係があると思われる。
 同城は芦田川西岸に位置する山城で、山田の一乗山城を築城する以前の渡辺氏一族の居城と考えられる。
 芦田川に沿って北西から延びる低丘陵の先端を空堀で区切って城郭としたもので、頂部に本丸、その周囲に帯郭・小郭を配置する。同じく渡辺氏一族の居城であった鷹取城跡もある。
 『広島県の地名』より一部抜粋。

 ・中山城
 中山城は、かつては福山湾に面していた芦田川西岸の低丘陵上に位置する山城で、沼隈半島の山田荘を治めた渡辺氏の一族が居城したといわれている。
 しかしその詳細については、時期も城主名も不明な部分が多い。ただ、城の東北眼下には、河床に埋もれた中世の町として知られる草戸千軒遺跡があり、位置的にも年代的にも、それとの関係が考えられよう。
 草戸千軒遺跡は、福山湾西岸の低地に広がる中世の集落跡で、これまでの二十七次にわたる調査によって、鎌倉時代以降、南北朝・室町・戦国・安土桃山時代を経て江戸時代初期に滅亡したこと、またその最盛期は室町時代、桃山時代にかけてで、その頃には堀や柵で囲まれた町並があったことも確かめられている。
 この集落については、それが位置的に明王院(当時の常福寺)の前面に広がっていることから、かつては常福寺の門前町であったか、あるいは、その西側の長井氏の長和荘の年貢積出港であったかなどの性格づけがなされている。
 それらの最盛時は鎌倉時代から南北朝時代であるのに対し、草戸千軒の最盛期はむしろそれ以後の室町時代から安土桃山時代にかけての頃であるころから、長井氏より後の毛利氏のもとで勢力をもってきた山田荘の渡辺氏を考えたほうがよいと思われる。
 この城の遺構は、芦田川に沿って北西から延びる低丘陵の先端を区切って城郭としたもので、頂部に本丸、その周囲に帯郭・小郭を配置しただけの小規模なもので、領地経営と防備とを重視したいわゆる山城的なものでははない。
 ただ本丸からの展望は開けており、かつては広く福山湾を一望することができたものと考えられる。
 『日本城郭大系』13より引用。

 ・城の歴史
 詳細は不明であるが室町時代に初期の渡辺氏により築城されたのではないかと思われる。
 室町時代の応永年間(1394~1428)に渡辺氏初代である高が草戸に来ているので、この渡辺氏の初期城の可能性がある。
 この城での戦などは記録にでてこないが、草戸千軒の発展とともに国衆として成長していったものと思われる。

 ・城主家系図
 城主(一族)、石高 -- 渡辺高の初め頃に長和寺家分五〇貫の代官となる。
 ※代官なので自分の所領ではない。

 ・所感
 城としては2郭程度の城で防禦というよりは、草戸千軒を管理するような城だったのかもしれない。
 行った時には発掘工事をしており、何か出てくるか楽しみ。
 城主渡辺氏は紆余曲折がありながらも最終的には毛利家臣となる。

 …と、こんな記載がありましたネ。
 上り道は整備されました歩道ですけど、まだ比較的新しく感じますから、近年整備されましたのかも…何年か前には、こんな石段はありませんでしたのかも(^-^)//"

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