墓地入口の市道まで下りて来ますと、岡山神社の社殿への石段登り口まで続きます藤棚が…
藤棚の対面の広場に車を駐めているのですけど、よくよく見ますと、ここは駐車場かと思いましたら公園でしたネ(^-^)
先客の2台が駐めてありましたので、駐車場なんだと思いましたけど…まぁ、イィのですけど(^-^)
これで退散しようかとも思いましたけど、再度、参道の石段方向へ…こぅして下から見上げてみましても、仲々立派な神社であります。
◆岡山神社
--- http://z80bingo.starfree.jp/17-okayama/17-okayama.html ---
・【住所】福山市神辺町大字道上字中川九八一
・【祭神】
吉備津彦命、日本武命、孝霊天皇、〔相殿神〕八幡神社(神功皇后、応神天皇、玉依姫命)、田中神社(石凝姥命)、水分神社(天水分神)、素戔鳴神社(素戔鳴命)、天満神社(菅原道真公)、住吉神社(底筒男命、中筒男命、表筒男命)、保食神社(宇気持命)、大山祇神社(大山積命)、曽富登神社(久延比古命)、素戔鳴神社(素佐能男能命)、岩崎荒神社(火之加具土神)、峯ノ前荒神社(同)、中谷荒神社(同)、中川荒神社(同)、十念荒神社(同)、仁後荒神社(同)、渡瀬荒神社(同)
・【例祭】十月十日(旧例祭日 十月九日)
・【由来】
大同元年(八〇六)備中国吉備津神社の御分霊を備後国宮内(芦品郡新市町、吉備津神社)へ御勧請の節、この地にて一宿された。その跡に宮を建て一宮大明神と崇め奉る。
元和七年(一六二一)岡山東丘に東向に本殿を建立。延宝六年(一六七八)に本殿を北に寄せ、西に向けて改築し、陰暦九月九日正還宮祭を執行、以来毎年陰暦九月九日に例祭を行う。正徳五年(一七一五)正面参道に石造り大鳥居建立。
宝暦九年(一七五九)岡山大明神と改称し、後に岡山社と改め、さらに明治六年岡山神社に改める。
大正二年十二月二十日、山崎八幡神社ほか、旧村内小社を合祀し、例祭を陽暦十月九日に改める。
大正三年三月二十三日、田中神社(旧十九軒屋村社)を合祀し、本殿、拝殿、祓殿ほか総ての建物を補修増築す。昭和七年正面石段と石垣を新設した。
平成二年本殿屋根銅板葺替え、祓殿・祝詞殿・拝殿・社務所・倉庫を改築。なお『福山志科』では、祭神三座のうちの日本武命に代えて吉備津姫命を挙がている。
--- 広島県神社庁 深安二十六社神社めぐりより転記 ---
参道(石段)の右脇には砲弾の石碑が…文字が刻まれていますけど、積年の風化により読めない(^-^;
それにしましても、この岡山神社に限らず、アチコチの神社とか忠魂碑を訪れますと、こんな砲弾をよく眼にします。こんな砲弾は、何を意味しますのでしょうねぇ~
WEB上で検索してみましたら、うん、うん、こんな理由があるようですねぇ(^.-)☆
◆神社や忠魂碑にある砲弾について
--- http://ki43.on.coocan.jp/hodan/hodan01.htm ---
日清戦役・日露戦役は、発展途上国だった日本が、かろうじて勝利した自衛戦争だった。国民すべてが一丸となり国難に立ち向かったのである。
日清戦で手に入れたた戦利品は、講和後に組織された「陸軍戦利品整理委員会」によって区分され、必要のないものは参考品・記念品として各方面に献納または払い下げられた。
民間への下附品目では砲弾が最も多く、約8,700個が下附された。整理委員会から各府県に一括して送付され、それを府県知事が管内の各施設に分与するという段取りで行われた。おおむね神社、仏閣、学校、役場、博物館といったところ。
日露戦のあとでは、明治39年に陸軍だけで「戦利兵器奉納ノ記」という文書とともに23,170箇所の神社などに砲弾が配付されている。
それこそ「坂の上の雲」を目指していたころの日本が、外国の植民地にされないため、国民が一枚岩となって国難に打ち勝った記念品として各所に置かれたのである。
これに加えて海軍からのものや、その後の皇室の御成婚記念や御大典、各事変の記念に下附された砲弾は相当な数にのぼり、日本中のすべての神社に置かれていても不思議ではないほどの数量が下附された。
ところが、今ではほとんどが姿を消している。その原因に、まず、大東亜戦での金属類回収令がある。さらに、敗戦でやってきた占領軍の命令や、彼らの目から隠すため処分されたものも多い。
したがって、現在かろうじて残っている砲弾は、日本の存亡の危機を一丸となって乗り越えたという民族の記憶を残しているうえに、その後の受難も切りぬけてきた貴重な記念品なのである。
「爆発のおそれがある」と通報騒ぎもあるが、陸軍、海軍が国難を克服した感激を国民と共有しようと民間に配付したもので、民間との親密な繋がりが目的なのだから爆発でもしたら、逆効果である。
それでも心配なら、調査してもらって安全を確かめ、廃棄処分することなく今のまま保存していただきたいと切に願う。
せっかく100年以上もの間、先人の思いを伝えてきたものなのだから。
日本全国に「忠魂碑」「忠霊碑」「表忠碑」「招魂碑」などの名前で多くの碑が建っている。
古くは明治初年からあったというが、日露戦役以降のものが多い。戦没者の顕彰・慰霊を目的としたものであるが、従軍記念あるいは戦勝記念などの碑もある。大東亜戦までに各地に多くの忠魂碑、記念碑が建設された。
そして敗戦。
占領軍は「連合国に対する日本の脅威を除去する」ため容赦ない日本破壊政策を展開。その一環の神道指令で、忠魂碑の類いは建立を禁じられたばかりか、既存の多くが撤去されてしまった。
昭和27年4月28日、対日講和条約が発効し、連合国の日本占領は終了、日本は主権を回復した。
GHQの廃止に伴い、神道指令をはじめとする指令・覚書もすべてが効力を失った。
そこで、戦友や遺族、自治体による碑再建の動きが全国的に広がった。撤去したと見せかけて地中などに隠していた例が多く、これらは復活した。さらに再建のみならず、多くの忠魂碑が新たに建設された。
占領下で抑圧され、じっと耐え忍んできていた民族の感情が一気に爆発した形であった。
忠魂碑の傍らに砲や砲弾、機雷や魚雷などが記念品として備え付けられている場合がある。中には砲身や魚雷が忠魂碑そのものになっていたりもする。敗戦・占領下にあって、これらを残すことは、碑よりも困難であったと思われる。
さて、以下はそういう砲弾である。おおむね戦利品か、忠魂碑などの建設の際、陸海軍から廃兵器として下付されたものである。記録から素性が判ったものもあるが、由来の判らないものも多い。どなたか教示していただければ感謝感激である。
また、ご近所に現存しているものがあれば、ぜひお知らせください。
…と、こんな記載がありましたけど、ふ~ん、そぅでしたか(^-^)//"
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