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 チョッと眼を引きます建物が二つばかり(^-^)
 これを横目に、
惣堂明神社の東側の平坦な畑に足利義昭の御殿があったと言われています場所に到着です。

 ◆足利義昭居館跡(御殿畑)

 津之郷町本谷にあり、惣堂明神社の東の平坦な畑に足利義昭の御殿があったといわれている。標高34mの丘陵にあり、山陽道や神島を望むことができる。
 足利義昭は毛利氏を頼って天正4年(1576年)2月より鞆に居住していたが、田邉寺の伝承によると天正13年(1585年)12月に津之郷に到着、御殿畑に住まいし、豊臣秀吉が九州下向中、田邊寺で義昭と対面している。対面の日は『九州御動座記』によると天正15年(1587年)3月12日である。
 徳川幽斉が同年7月17日津之郷の御殿で義昭に会って一泊している。義昭は同年10月に大阪に帰着している。

 --- 津之郷学区まちづくり推進委員会 ---

 そして、
惣堂明神社に上がります。
 石段上がり口の左脇には、二つの案内板が存在しまして、これには、こんな記載がありました(^.-)☆

 ◆惣堂明神社(そうどうみょうじんじゃ)

 祭神は猿田彦神・室町15代将軍 足利義昭夫妻を祀る。
 創建を記録したものはないが、旧津之郷村では三島明神社とともに中心的な神社である。
 明治21年(1888年)台風の被害を受け再建された記録の棟木と神官が再建を願い出た古文書がある。
 寛延2年(1749年)正月吉日建立の折れた鳥居が保管されているが、台風との関わりはわからない。
 明治29年(1896年)に鳥居は再建されている。
 北口参道の鳥居は昭和3年(1928年)に建立されたものと思われる。
 「鐵登長平」が明治32年(1889年)勧進元で興行した「大相撲の奉納額」と若者が力比べをする「力石」
 が二個ある。

 
--- 津之郷学区まちづくり推進委員会 ---

 ◆津之郷惣堂ひんよう踊り

 -- (福山市指定無形民俗文化財) --

 この踊りは、土屋半兵衛が寬政6年(1794年)に当地に広めたと言われている。
 ひんよう踊りは、「花踊り」とも「きりこ踊り」とも呼ばれ、旧沼隈郡内の津之郷・赤坂・神村・本郷を中心に旧暦8月14日か15日の宵に氏神様の境内で豊作に感謝して踊られたもので、今日まで各地で伝承されている。
 津之郷の場合は、現在秋祭りに惣堂神社で行われている。基本的には本郷町のひんよう踊り(県無民)と共通するところが多いが、踊りの構成・服装・歌詞などに多少の違いがある。内側に羽織・着物(かっては紋付・袴)を着、梵天を持った男性、外側に音頭取り(二人)、拍子取り(二人)、太鼓打ち(一人~二人)とキリコを持つ踊り子(児童)が取り囲む。キリコは伝八笠に多角形の行燈を付け、さらに
行燈上に笹を付け、梅・桜を模した花で飾る。これを踊り子の頭の上に載せ、笠の周囲に木綿白布を垂らし頭を隠す。キリコを頭に戴く形式は古い形で、江戸時代の「御門状答書」の付図と同じで、本郷のひんようと異なる。
 ゆっくりとしたテンポの音頭に合わせ、緩やかな動作で踊る素朴な踊りである。

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津之郷学区まちづくり推進委員会 ---

 ◆中世の津郷(津之郷)

 --- 当日、備陽史探訪の会より貰った資料より ---

 今回探訪する広島県福山市津之郷町は、鎌倉時代から室町時代には、郷分町、山手町、赤坂町を含めた地域として「
津郷」と呼ばれていました。
 史料には、嘉元4年(1306)の「昭慶門院御領目録」(竹内文平氏旧蔵文書)に「津本郷」。明徳4年(1393)4月7日付け「備後国御領所注文」(細川文書)に、守護領所として「津郷領家職・公文職」。文明3年(1471)6月16日「西国寺不断経修行勧進井上銭帳」(西国寺文書)に「津郷観音寺」と書かれています。
 山手町に所在する山手銀山城を中心とした勢力の範囲内に推定でき、小森館の横山氏は、山手杉原氏出身とされる杉原盛重の重臣として史実に登場します。
 天正10年の織田信長が本能寺の変で倒れた頃、足利義昭は御座所を鞆から津之郷に移しました。このことは、極端な言い方をすれば、津之郷に幕府が置かれていたともいえるのではないでしょうか。

 ◆足利義昭

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当日、備陽史探訪の会より貰った資料より ---

 室町幕府15代将軍。天文6年(1537)11月3日、室町幕府12代将軍足利義晴の次男として生まれる。母は近衛家の女。天文11年(1542)11月20日に奈良興福寺一条院に入室。僧となる。兄の室町幕府13大将軍足利義輝が松永久秀などの襲撃を受け自害した永禄8年(1565)7月、興福寺を脱出。諸国の大名に幕府再興のための支援を求めた。
 これに応えた織田信長と共に永禄11年(1568)9月26日に入洛し、10月18日征夷大将軍となる。
 元亀4年(1573)織田信長と対立し、都を追われ紀州に逃れる。天正4年(1576)2月8日突如として毛利氏の領国内の備後鞆に動座、小松寺に入る。
 鞆において諸国の大名に呼び掛け、織田信長包囲陣を形成し、一時的に信長を窮地に陥れるが、及ばず徐々に毛利氏も対織田戦において劣勢となる。沖家とよばれる能島村上氏の不穏な動きや、来島村上氏の織田方への寝返りなど、海に面した鞆の防衛体制の貧弱さを不安視した義昭は、最終的に少し内陸の津郷を望み御座所を移した。
 天正15年(1587)3月12日赤坂町で豊臣秀吉と対面。その後帰洛し、天正16年(1588)正月13日、従三位・征夷大将軍権大納言である足利義昭は出家。昌山と号し、准三宮の宣下を受ける。慶長2年(1597)9月8日大坂曾根崎にて没。

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