1/8(土)でしたか…1/9(日)から「まん延防止等重点措置」がスタートの福山市ですから、「また、水呑交流館図書室も休館になるのかも…」との、こんな危惧もありますから、急いで交流館図書室に出掛けましたGONsanです。
が、今のところ、交流館会議室の利用は、1/9~1/31間は不可ですけど、図書室の休館は予定されていない…との事でした。が、前回のように、予告なく、いきなり図書室休館も予測されますので、取り急ぎ、葉室麟の作品なら何でもイィ…と、5冊ばかり手に貸出を依頼。
我が家に帰り、改めて5冊の書籍を確認し、さて、どれから読もうかと…と、手にしましたのが「実朝の首」でありました(^.-)☆
1/9(日)からは、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も始まりますし、丁度イィからと読書開始となりました。
そして、何日か要し読み終えましたけど、う~ん、源実朝の首は、史実では、何処に、誰により、何の為に持ち去られましたのでしょうねぇ~分かりません。読み終えましても、不思議と言えば不思議です。
WEB上で、「源実朝」を検索しますと、こんな記載が…
◆源 実朝
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
源 実朝(みなもと の さねとも、實朝)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。
歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。
・出生
建久3年(1192年)8月9日巳の刻、鎌倉で生まれる。幼名は千幡。父は鎌倉幕府を開いた源頼朝、母はその正妻の北条政子。乳母は政子の妹の阿波局、大弐局ら御所女房が介添する。千幡は若公として誕生から多くの儀式で祝われる。12月5日、頼朝は千幡を抱いて御家人の前に現れると、「みな意を一つにして将来を守護せよ」と述べ面々に千幡を抱かせる。建久10年(1199年)に父が薨去し、兄の頼家が将軍職を継ぐ。
・将軍就任
建仁3年(1203年)9月、比企能員の変により頼家は将軍職を失い伊豆国に追われる。母の政子らは朝廷に対して9月1日に頼家が死去したという虚偽の報告を行い、千幡への家督継承の許可を求めた。これを受けた朝廷は7日に千幡を従五位下征夷大将軍に補任した。10月8日、北条時政邸において12歳で元服し、後鳥羽院の命名により、実朝と称した。儀式に参じた御家人は大江広元、小山朝政、安達景盛、和田義盛ら百余名で、理髪は祖父の北条時政、加冠は門葉筆頭の平賀義信が行った。24日にはかつて父の務めた右兵衛佐に任じられる。翌年、兄の頼家は北条氏の刺客により暗殺された。
元久元年(1204年)12月、京より後鳥羽の寵臣坊門信清の娘であり、後鳥羽のいとこに当たる信子を正室に迎える。「吾妻鏡」によれば、正室ははじめ足利義兼の娘が考えられていたが、実朝は許容せず使者を京に発し妻を求めた。しかし実朝はまだ幼く、この決定は実際は時政と政子の妥協の産物とする説もある。元久2年(1205年)1月5日に正五位下に叙され、29日には加賀介を兼ね右近衛権中将に任じられる。
-- 中略 --
・最期
建保5年(1217年)6月20日、園城寺で学んでいた公暁が鎌倉に帰着し、政子の命により鶴岡八幡宮の別当に就く。この年、右大将の地位を巡って西園寺公経と大炊御門師経が争い、公経が後鳥羽上皇の怒りを買った際に実朝が遠縁である公経のために取りなした。上皇は内心これを快く思わず、実朝と上皇の間に隙が生じたまま改善されなかったとする見方がある。
建保6年(1218年)1月13日、権大納言に任ぜられる。2月10日、実朝は右大将への任官を求め使者を京に遣わすが、やはり必ず左大将を求めよと命を改める。右大将はかつて父が補任された職で、左大将はその上位である。同月、政子が病がちな実朝の平癒を願って熊野を参詣。政子は京で後鳥羽上皇の乳母の卿局(藤原兼子)と対面したが、『愚管抄』によればこの際に実朝の後継として後鳥羽上皇の皇子を東下させることを政子が卿局に相談した。卿局は養育していた頼仁親王を推して、2人の間で約束が交わされたという。3月16日、実朝は左近衛大将と左馬寮御監を兼ねる。10月9日、内大臣を兼ね、12月2日、九条良輔の薨去により右大臣へ転ずる。武士としては初めての右大臣であった。21日、昇任を祝う翌年の鶴岡八幡宮拝賀のため、装束や車などが後鳥羽上皇より贈られる。26日、随兵の沙汰を行う。
建保7年(1219年)1月27日、雪が二尺ほど積もる日に八幡宮拝賀を迎えた。夜になり神拝を終え退出の最中、「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われ実朝は落命した。享年28(満26歳没)。公暁は次に源仲章を切り殺したが、『愚管抄』によるとこれは北条義時と誤ったものだという。『吾妻鏡』によれば、義時は御所を発し八幡宮の楼門に至ると体調の不良を訴え、太刀持ちを仲章に譲ったとある。一方で『愚管抄』によれば、義時は実朝の命により、太刀を捧げて中門に留まっており、儀式の行われた本宮には同行しなかったとある。実朝の首は持ち去られ、公暁は食事の間も手放さなかったという。同日、公暁は討手に誅された。
『吾妻鏡』によると、予見が有ったのか、出発の際に大江広元は涙を流し「成人後は未だ泣く事を知らず。しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。これ只事に非ず。御束帯の下に腹巻を着け給うべし」と述べたが、仲章は「大臣大将に昇る人に未だその例は有らず」と答え止めた。また整髪を行う者に記念と称して髪を一本与えている。庭の梅を見て詠んだと伝わる辞世の和歌は、「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」で「禁忌の和歌」と評される。落命の場は八幡宮の石段とも石橋ともいわれ、また大銀杏に公暁が隠れていたとも伝わる。『承久記』によると、一の太刀は笏に合わせたが、次の太刀で切られ、最期は「広元やある」と述べ落命したという。
公暁による暗殺については、実朝を除こうとした「黒幕」によって実朝が父(頼家)の敵であると吹き込まれた為だとする説がある。ただし、その黒幕の正体については北条義時、三浦義村、北条・三浦ら鎌倉御家人の共謀、後鳥羽上皇など諸説ある。
またそれらの背後関係よりも、公暁個人が野心家で実朝の跡目としての将軍就任を狙ったところにこの事件の最も大きな要因を求める見解もある。
28日、妻は落餝し御家人百余名が出家する。『吾妻鏡』によると亡骸は勝長寿院に葬られたが首は見つからず、代わりに記念に与えた髪を入棺したとあるが、『愚管抄』には首は岡山の雪の中から見つかったとある。実朝には子が無かったため、彼の死によって源氏将軍および源頼信から続く河内源氏直系棟梁の血筋は断絶した。
…と、こんな「源 実朝」でありますけど、史実では、公暁によって暗殺され、奪われた首が見つかったという記述はどこにもありません。
当時の、この事件に登場します人物は、比類の無い個性の強い方々ばかりで、大変な時代でしたのでしょうねぇ~
Wikipediaには、「『愚管抄』には首は岡山の雪の中から見つかったとある…」との記載がありますけど、これにはGONsanも、根拠はありませんけど、ひょっとしたらそうなのかも…とも思ってしまいます(^.-)☆
…と、言いますのも、職場の異動で転々としておりましたGONsanで、一時期、岡山市に暮らしておりまして、休日にはワン公連れてあちこち出掛けておりました。
そんな際に、熊山町(多分、現在では赤磐市)を走行していましたら、『足利義政の供養塔ならびに御台所富子の墓(常念寺客殿の裏)--熊山町教育委員会--』の案内表示板が眼に入りましたから、「んっ!?」のGONsanでありました。
で、案内表示に従って向かってみますと、自性院常念寺に、室町幕府第8代将軍・足利義政の御台所・日野富子の墓と、足利義政の供養塔が存在しましたから、もぅビックリのGONsanでありました。
何でまた、こんな地に、御台所・日野富子の墓と、足利義政の供養塔が存在しましたのか、その理由は忘れてしまいましたけど、時代は異なりましても、こんな経緯がありますだけに、実朝の首が「『愚管抄』には首は岡山の雪の中から見つかったとある」の記述には、何故か頷いてしまいますGONsanなのであります。
何にも根拠は無いのですけどネ(^-^)//"
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