福山市人権平和資料館から退散時に、希望者に配布された何枚かの資料の中に、「アメリカ軍資料に見る福山空襲」がありましたけど、仲々興味深い内容でありました。
この資料に眼を通しておりましたら、ローカル都市・福山が、何で夜間に大空襲を受けましたのか、少し理解出来ましたような…
この資料には、こんな記載が…
◆目標となった理由
・川西航空機の部品組み立て工場(三菱電機福山製作所)がある。
・およそ1~1.5平方マイルの住宅密集地域がある。
・陸軍歩兵第41聯隊がある。
・日本の5大染料工場の一つである帝国染料工場と多くの小規模工場がある。
◆作戦任務第321号は、当初、昼間の爆撃が計画されていたが、出撃時に事故があり滑走路が使用出来なくなったため、夜間爆撃に変更された。
◇日本に対する攻撃が主として夜間の低高度からの焼夷弾攻撃になった理由
・日本の家屋は木造が多く、焼夷弾攻撃がきわめて有効である。
・日本軍には優秀な夜間戦闘機がない。したがって、低高度からの爆撃が可能である。
・低高度は風が弱く、レーダー照準が鮮明で、可能ならば目視により正確に投弾できる。
・低高度飛行は燃料消費が少なく、より多くの焼夷弾(1機当り平均6トン)を積むことができるので、効果的な打撃を与え得る。
…との事であります。
ふ~ん、そうでありましたか…この大空襲により色んなモノが破壊され消滅してしまいましたけど、う~ん、せめて福山城は火災焼失から免れて欲しかったですねぇ~
当時の密集地域の73.3%が破壊されました大空襲でしたのですから、そぅもいきませんが…
何もかも失ってしまいます悲惨な戦争…世界各地で未だに行われておりますけど、国際連合は、「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準」として『世界人権宣言』を交付しております。この宣言通り、言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏の無い世界の到来を、切に望みたいものであります。
今回の「ピースウォーク」に参加の機会を得まして、少しだけ「世界平和」に眼が向きましたGONsanなのであります。
それと、「歩兵第41連隊」ですか…この跡地には、GONsanが幼少時には、国立病院…広島大学福山分校…が、ありましたような…
◆歩兵第41連隊
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
歩兵第41連隊(ほへいだい41れんたい、歩兵第四十一聯隊)は、大日本帝国陸軍にあった連隊のひとつ。
・沿革
1896年(明治29年)- 深安郡(福山町)、(現在の福山市)に連隊本部を設置、12月までに第3大隊の編成が完了
1898年(明治31年)3月24日 - 軍旗拝受
1904年(明治37年)- 日露戦争に従軍
1907年(明治40年)11月 - 第5師団から第17師団に所属変更
1908年(明治41年)7月20日 - 深安郡野上村の新兵営に移転[1]。
1925年(大正14年)5月1日 - 宇垣軍縮により第17師団が廃止のため第5師団に所属変更
1937年(昭和12年)- 蒙チョウ作戦に参加
1938年(昭和13年)5月 - 徐州会戦に参加、その後バイアス湾上陸作戦に参加
1939年(昭和14年)- 山東省における匪賊討伐作戦、その後大連に移るも直ぐに華南に移動
1940年(昭和15年)9月 - 仏印進駐
1941年(昭和16年)第5師団は第25軍に加入しマレー作戦の準備を開始
11月15日 - 上海を出港
12月08日 - シンゴラに上陸
12月12日 - ジットラ線を突破
1942年(昭和17年)
1月11日 - クアラルンプールを占領
2月 - シンガポール入城
3月 - フィリピンパナイ島へ移動、ミンダナオ島平定作戦に参加
7月 - 南海支隊に編入されポートモレスビー作戦に参加
8月 - ラバウル経由でニューギニア島に上陸、オーエンスタンレー山脈超えを目指すが激戦の末に全滅寸前にまで追い込まれる
1943年(昭和18年)8月 - 第5師団から第30師団に所属変更
1944年(昭和19年) - ミンダナオ島からレイテ島に上陸、アメリカ軍と激戦を繰り広げる
1945年(昭和20年)1月 - カンキポット山地で自活態勢に入る
7月15日頃 - 連隊長が軍旗を奉焼し、自決したと言われる
・備考
歩兵第41連隊が玉砕したとされるフィリピンのタクロバン市と連隊本部のあった福山市とは、その縁によって姉妹都市提携がなされている。
大岡昇平の『レイテ戦記』では、陣地構築も怠って容易に敵の進出を許し「ほとんど戦っていなかった」と酷評されているが、アメリカ陸軍第1騎兵師団戦史には「脊梁山脈での戦闘は、レイテ作戦においては特筆すべき勝利となった。険しく深い密林地帯が広がり、雨と泥でぬかるんだ地形にも負けずによく敢闘した」と第41連隊との激しい戦闘があったことを伺わせる記述があり、福山市議が現地で行った発掘調査では山中に布陣していたことを伺わせる遺物が発見されている。
レイテ島カンギポット山付近で自活自戦した他の部隊と同様、歩兵第41連隊の終末の模様も明らかでない。昭和20年5月一杯はビリヤバ付近で戦闘し、その後カルブゴス山方面に移動したが、6月中旬頃には連隊の生存者は約80名となり、半数は患者で行動不能、残る半数も辛うじて行動できるという状況だったと言われる。
7月5日に重傷を負い米軍に収容された佐々木寬平大尉(連隊砲中隊長)の証言によれば、最後の連隊長である炭谷鷹義大佐が同日まで生存していたことは確実であり、その後、7月15日頃に連隊長は軍旗を奉焼し、自決したとの伝聞がある。
福山市に居残っていた兵士は、8月6日に広島市へ原子爆弾投下を受けて救援に向ったが、残留放射能による二次被爆によって犠牲者も出た。また施設自体も8月8日の福山大空襲の被害を受けた。
第41連隊の連隊本部跡には、戦後バラ公園が設置されたほか、兵舎を利用して広島大学福山分校が開校した。大学の東広島市移転後は緑町公園となっている。また敷地跡にあるJA福山市の敷地内に連隊跡を示す記念碑が建立され、記念碑の脇には司令部の門も保存されている。また連隊の慰霊碑は備後護国神社敷地内に建立されている。
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