石垣を横目に福山駅北口にヤッて来まして、ここからは石段を上がり筋鉄御門・伏見櫓方向へ向かいます。筋鉄御門は工事中で通れませんから伏見櫓の左側(西側)を歩行です。
◆福山城(福山城博物館パンフより)
元和5年(1619)徳川譜代の臣、水野勝成が備後10万石の領主となり、ここ福山に城を築いてから福山の城下町としての歴史は始まりました。その後、水野氏5代、代わって松平氏1代、阿部氏10代と廃藩置県にいたるまで、福山城が藩治の中心となったのです。明治6年廃城となり、天守閣、伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿を除いて、ほとんど取り壊されました。しかも、昭和20年の戦災により、天守閣と御湯殿を焼失しましたが、昭和41年秋に市制50周年記念事業として、天守閣と御湯殿、月見櫓が復原されました。幸い焼失を免れた伏見櫓、筋鉄御門は昔日の姿を止め国の重要文化財に指定され、城地は国の史跡として保存されています。福山城は近世築城の最後のものとしてその完成された築城術の粋を誇るもので、全国城郭中屈指の名城としてたたえられていました。
◆伏見櫓【国重要文化財】
三層三階の隅櫓、本瓦葺。京都伏見城・松の丸にあったものを水野勝成の福山城築城に当たって、徳川二代将軍秀忠が移築させたものである。伏見城の城郭建築の遺構としては希有のもので、白壁三重の豪華な姿に桃山時代の気風がうかがわれる。
また、二階梁より京都伏見城からの移築を表す刻印が発見されており、その価値を更に高めている。
筋鉄御門と同じく戦災を免れており、現在国重要文化財に指定されている。
・国重要文化財
※ 内部非公開(但し例年11月3日文化の日(祝)のみ公開)
◆福山城伏見櫓(ふくやまじょうふしみやぐら)
この櫓は元和8年(1622年)城主水野勝成の福山城築城にあたり、将軍徳川秀忠が伏見城の一部移築させたという。昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やぐら」とあるのが発見され、移築の伝えが正しいことが明らかになった。
櫓は初層と二層は同じ平面の柱割で、東西方向に棟を付け、さらにその上に下層よりやや小さい三層を載せ、南北棟の入母屋造りの屋根としている。内部は階段を付け、床板敷き、小屋梁天井とし、外部は東・西・南に多くの窓を開いている。北を正面に建てられている。これらの構造や手法は、城郭研究史上初期の様式を残す、慶長年代の建物の典型として貴重である。また、伏見城の確かな遺構としてきわめて価値の高いものである。
◆伏見櫓
伏見櫓は1601年(慶長6年)前後に建てられたと推定される伏見城松の丸の東櫓を1620年(元和6年)に移築したものです。
これは1953年(昭和28年)に行われた解体修理の際に2階の梁から「松ノ丸ノ東やくら」との墨書が発見されたことにより移築が裏付けられています。
城内側に窓がほとんどないのは、城主の居館である本丸御殿を見おろすことがないようにと考えられたからです。
伏見櫓は天守を除けば熊本城の宇土櫓と並び、現存する最古の櫓のひとつで、国の重要文化財に指定されています。
3重3階で初重と2重は「総二階造」といわれる同規模の構造を持ち、その上に独立した構造の小さな望楼部を乗せる慶長初期の建築様式を残した望楼型の櫓となっています。壁仕上げは白漆喰総塗籠で長押形を施している。桁行は8間(約15m)あり、並の城郭であれば天守に相当する規模を持っています。
なお、豊臣秀吉が築いた伏見城の遺構と説明されることもありますが、豊臣時代の櫓は「関ケ原の戦い」の前哨戦である「伏見城の戦い」で焼失しており、建築様式の面からも徳川家康の建てた伏見城の遺構と考えるべきです。
また伏見櫓は2004年(平成16年)10月20日、台風23号の強風により、鯱や瓦が落下するなどの被害がありましたが、2005年(平成17年)3月~11月にかけて漆喰の補修なども含めた修理が行われました。
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