ダンプ等の工事用車輌が上から降りて来ますと離合は出来ませんから、リーダーは事前に工事施工会社と連絡を取っておられ、工事用車輌との遭遇はありません。
滝山城跡上り口付近には、特に駐車場はありませんから、走行可能な所まで上がり路上駐車のようですネ。
工事現場進入口からもぅ少し先に進んだ所に、これも工事用に造られましたものでしょうか…チョットしたスペースがありまして、ここでUターンし、バックでもぅ少し上がり路上駐車。
そして下車ですけど、右は崖、左は樹木と雑草が生い茂り、下車しますにもままならない状況での路上駐車でありました(^-^;
その際に初めて気付きましたけど、本日の参加者は9名の方々のようでした。四川ダム駐車場での10数名は、他のグループの方々も含んでいましたようですねぇ(^-^)
それでは、標高392mの山頂部の尾根に構築されていました城郭跡に向かって探訪スタートです(^.-)☆
駐車場所から少し歩いて進みますと、樹木に囲まれました中に民家が…もぅどなたも住んではおられないのでしょうねぇ~
「四川滝山城跡」をWEB上で検索してみますと、こんな記載がありました。
◆志川滝山城
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
志川滝山城(しかわたきやまじょう)は、戦国時代に備後国(現在の広島県福山市)にあった日本の城(山城)。
・概要
志川滝山城は戦国時代に備後国で一大勢力を誇っていた国人「宮氏」によって築かれたといわれ、神辺平野の北部、芦田川水系四川の水源地に近い急峻な山中に位置している。城郭は標高392mの山頂部の尾根に構築されたもので、神辺平野を一望できる位置にある。曲輪は山の山頂部を削平した長大な主郭を中心に周囲に帯郭、腰郭を配置し、更に東側には3条の堀切で隔てた出丸とも呼べる曲輪があり、この西端には櫓台が配されている。しかし、西側はなだらかな斜面であるにも関わらず明確な防御施設が設けられず、この城の弱点となっており、実際、志川滝山城はこの部分から攻められて落城している。
・歴史
江戸時代後期の地誌『西備名区』によると、志川滝山城は山野の戸屋ケ丸城主宮三郎義兼が明応元年(1462年)に築城し、以後3代にわたって居城としたとされる。天文21年(1552年)、中国地方の覇権を掌握しようとした毛利氏が備後国へ侵攻すると、尼子氏傘下であった宮氏は志川滝山城に篭城し、「志川滝山合戦」が勃発した。
江戸中期の軍記物語「陰徳太平記」によると、合戦は7月23日に行われ、籠城する宮光音以下380人に対し毛利元就は3,800の兵で押し寄せ、1日で落城したという。宮光音は備中国に逃亡し、この結果、毛利氏は備後南部を勢力下に置くことになった。
・現状
志川滝山城跡の南側にある渓谷には現在四川ダムが設置されており、当ダムの貯水湖は滅亡した当城にちなみ「城山湖」と名づけられた。なお四川ダムまでは大きな道路が整備されているが、そこから直接城跡に行くのは急峻な崖であり難しく、さらに上流の大谷池(明治期の貯水池)の土手に行きそこから目指すしかない。
◆志川滝山城跡(福山市加茂町北山)
--- http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/taguti_teacher/012/index.html ---
福山市の中心から、国道182号線を北へ約30分、車は吉備高原に刻まれた加茂の谷あいに入る。ここでさらに道を山野方面にとると、やがて加茂町大字粟根に至る。備後宮氏最後の拠点となった志川(四川)滝山城跡は、ここからさらに西に入った、四川谷の最奥部に存在する。現在、城の麓に「四川ダム」が建設され、ダム湖の名称は滝山城に因んで「城山湖」と命名された。
城は、吉備高原の南縁の溺れ谷に望む尾根の突端部を利用して築かれたもので、標高395mの山頂部に南北3段からなる本丸を築き、東南に張り出したほぼ同じ高さの尾根上に4段からなる出丸を配している。主郭背後の尾根上と、主郭と東南の曲輪群の間には堀切が見られる。本丸と出丸に挟まれた東側のくぼ地には石垣で構築された井戸曲輪が残り、本丸西の断崖面には城名の起こりとなった、降雨後のみに流れ落ちる枯れ滝がある。
江戸時代の郷土史書『西備名区』によると、滝山城は、山野村(現福山市山野町)戸屋ケ丸城主であった宮三郎義兼が明応元年(一四九二)に築き、越後入道光音、常陸守光寄と三代にわたって居城としたという。義兼の系譜は明らかではないが、山野は室町時代初期、宮氏の有力な一族宮次郎右衛門尉氏兼が領しており(『山内首藤家文書』八三号)、氏兼を祖とする宮彦次郎家の惣領かその一門に連なる者であろう。
この城が攻防の舞台となったのは、天文二十一年(一五五二)夏のことだ。前年九月の大内義隆滅亡後の混乱した政情のなかで、同年四月、時の将軍足利義輝は、出雲の尼子晴久を備後など八カ国の守護職に任命し、中国地方の安定勢力と認めた。これによって尼子の勢力は再び中国山脈を超えて備後に南下し、庄原の山内氏をはじめ、これに応ずる者が現れた。なかでも宮入道光音を盟主とした宮一族は、一族を糾合して備北から南下し、滝山城に拠って宮氏再興の旗を挙げた。宮氏は、天文年間、尼子氏に味方して大内、毛利氏の攻撃を受け、備後南部でほとんど勢力を失っており、この機会に失地を回復しようとした。
宮氏の挙兵に対し、安芸の毛利元就は、芸備の国人衆に激を飛ばして、大軍を備後南部に向けた。合戦は、七月二十三日に行なわれ、篭城将士の奮闘も空しく、城は陥って光音は備中に逃走した(『陰徳太平記』巻十八など)。『毛利家文書』二九三号などによると、高所を占める城方は、さかんに飛礫を用いて抵抗したが、この城の弱点となっていた「尾首(西北峰続き)」の城壁を突破されると、持ちこたえられず、一挙に勝敗が決まったようだ。
(主要参考文献)『福山市史』上巻、田口義之『備後の山城と戦国武士』、備陽史探訪の会刊『山城探訪』
◆志川滝山城跡(福山市加茂町北山)
--- https://bingo-history.net/archives/1596 ---
神辺平野の北縁は、吉備高原の山波が急傾斜で平野部に落ち込み、高原に水源を持つ小河川によって侵食された幾つもの谷筋によって形成されている。戦国時代、備後宮氏と安芸毛利氏の雌雄を懸けた決戦が行われた志川滝山城は、こうした吉備高原から流れ出た小河川の一つ、加茂川流域に開けた加茂町の平野から、更に西に分かれた同町四川の谷合の一番奥まった所に位置する。
城は、この四川谷の最奥部の、谷筋を二分するように東南に突出した標高三九二メートルの尾根を大規模な堀切によって独立させ、その東の山頂部を削平して山城としたもので、地理的には神辺平野の中心部からは隔絶した位置にあるが、山頂部からは南側の山波越しに神辺から更に福山方面を見通すことが出来、「備後外郡」と呼ばれた備後の山間部から備後南部の平野部への進出拠点としては絶好の位置を占めている。
山城としての志川滝山城は、地形によって大きく東西二つの部分に分かれる。後世の本丸に当たるのは西側の曲輪群で、標高三九二メートルの山頂を削平して南北一〇〇メートルに達する長大な曲輪を築き、更にそれを守るように周囲に一段切り下げて幅五~一〇メートルの帯曲輪をめぐらせている。山頂からは鞍部を隔てて東方に尾根が突出し、この部分に東側の曲輪群が設けられている。その中心は尾根上を削平した、東西約八〇メートルの曲輪で、幅最大一〇メートルを測り、東に二段の腰曲輪、西端には長径一八メートルの櫓台を築き、防備を固めている。
以上の城郭要部を守るために築かれたのが、西側に続く尾根筋を断ち切った大堀切である。ただし、加工の痕跡はそれほど明瞭ではなく、この城の唯一つの弱点となっており、後に述べるように天文二一年七月の合戦で毛利勢が攻め寄せたのもこの方面からであった。なお、堀切は東側曲輪群と西側曲輪群を隔てる鞍部にも認められるが、加工の度合いは低く、曲輪の切岸が不明瞭な点と相俟って、全体的に未完成の印象を与える。このこともこれだけの天険を擁しながら城側があっけなく敗れた要因の一つであろう。
『西備名区』等の郷土史書によると、この地に初めて城を築いたのは、山野の戸屋ケ丸城にいた宮三郎義兼という者で、明応元年(一四六二)のこととしている。しかし、この城を一躍有名にしたのは、言うまでもなく、この地が天文二一年(一五五二)七月の所謂「志川滝山合戦」の舞台となったからである。
志川滝山合戦は、南北朝時代以来、備南に勢力を持った宮氏と、安芸の毛利氏とが神辺平野の覇権をめぐって争った戦いで、これを大きな視野でとらえれば、出雲の戦国大名尼子氏と、大内義隆を殺し、大内氏の実権を握った陶氏、及びその与党の毛利氏が、備後南部の支配権をめぐって争った一連の合戦の一部である。すなわち、天文一八年(一五四九)九月の神辺城の陥落によって備後南部の足場を失った尼子氏は、天文二一年(一五五二)四月、将軍義輝より備後など八ケ国の守護職を与えられると、再び中国山脈を越えて南下の姿勢を示し、これに同じく毛利氏の圧迫によって備南での地位を失いつつあった宮氏が、入道光音を盟主に応じ、この合戦となったものである。
その初動は、同年六月には始まっていたようである。同月七日、陶晴賢は芸備の国人衆に充てて、「備後境目動之儀」について、江良丹後守を上使として派遣したから、元就と相談して出兵するよう指令を発している(閥閲録一〇四)。「備後境目」とは国境の意ではなく、強敵尼子氏の勢力圏との接点を指していることは言うまでもない。そして、翌七月、備後に出兵した毛利元就は、同月二十三日、一気に総攻撃を決行して、宮氏の籠る当城を落とした。当日の城攻めは、城の「尾首」、すなわち、先に述べた当城の弱点、西方尾根続きから行われたようで、元就が家臣に与えた感状にも「尾首構際に至り」という言葉が見られる(閥閲録一二八等)。しかし、毛利方も二二六人に達する戦死傷者を出しており、城方の抵抗もかなり激しかったことを窺わせる(毛利家文書二九三号等)。
城跡を訪ねるには、バス利用だと井笠バスの山野・加茂方面行きに乗車し、「四川別れ」で下車する。ここからは自分の足が頼りである。四川の谷を登って行くと、前方に険しい山肌を見せる山が迫って来る。これが志川滝山城跡である。正面からの登りは危険で、一旦突き当たりの大谷池の土手へ出て、西方から城跡を目指す。
…と、こんな歴史のあります『志川滝山城跡』であります(^-^)//"
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