右下 誠sanのアート作品を拝見後には、今度は、常夜灯方向を眺望です。
正面山側に医王寺も眼に入ります。医王寺太子殿をカメラのズームを効かせて捜してみますけど、う~ん、分かりません(^-^;
それでは、圓福寺から退散ですけど、石段を下りようとしますと、傍らに『市史跡 伝桑原一族墓地』と刻まれた石標が…うん、うん、この塀裏に石塔が存在しましたネ。
WEB上で、『市史跡 伝桑原一族墓地』を検索しますと、こんな記載がありました(^.-)☆
◆大可島城跡(おおがしまじょうあと) 附 伝桑原一族墓地
--- https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/bunka/64168.html ---
・市指定史跡 昭和39年(1964年)3月31日指定
ここは南北朝時代鞆争奪の古戦場で、現在は陸続きとなり円福寺が建てられているが、かつては島であり、そこに大可島城があった。
康永元年(1342年)、伊予の南朝軍は西国に勢力をのばそうとして、新田義貞の弟脇屋義助を大将として迎えたが病死したため、北朝軍に伊予川之江城を攻められ苦境に立った。南朝軍は金谷経氏を大将として土居、得能氏らが川之江に援助に向ったが、途中北朝側の備後勢と燧灘で遭遇し大合戦となり、折からの風で鞆方向に流された。そこで鞆を攻撃し占領、大可島を詰城として拠点を構えた。これに対して北朝側は鞆の小松寺に陣し、激戦十余日に及んだが、南朝軍は本拠川之江城危うしの報に、備後服部の桑原重信を残し伊予に引き返した。北軍は桑原氏を滅ぼし鞆は再び北朝側に帰した。世にいう鞆合戦の城跡で、城地にある石塔は桑原一族の墓と伝えられている。
それと、圓福寺に隣接(南側)しますこの敷地は、何なんでしょうネ…庭園のようにも見えますし、建物跡のようにも…
圓福寺隣接の民有地なのでしょうけど、以前にはどんな建物が建っていましたのでしょうねぇ~
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