01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
07-720-555

 本日午後は、福山市役所鞆支所で、衆院選の期日前投票となりましたGONsanです(^.-)☆
 本庁に出掛けましてもイィのですけど、鞆支所の方が時間的に早く済みますので、ここ近年は、大概、鞆支所で期日前投票を済ませていますGONsanなのであります。
 ここですと、投票後には建物3階屋上で、真ん前の仙酔島・弁天島の景観を楽しめますし(^_^)v
 …と言う訳で、サッサと衆院選挙・最高裁裁判官国民審査を終えますと、投票記念カードを貰いエレベーターで屋上へ(^-^)

 屋上には先客が3名ばかり(^-^)
 GONsan同様に、投票を終え瀬戸内の眺望を楽しんでおられますのかも…
 面前の弁天島に眼を向けますと、丁度、「平成いろは丸」が航行中でありました(^.-)☆

 ◆平成いろは丸

 --- http://www.ryoma-den.com/shiryou/irohamaru.html ---

 ・坂本龍馬が率いる海援隊が乗り込んだ蒸気船「いろは丸」を模した船「平成いろは丸」。船内は落ち着いたレトロ調で龍馬ゆかりの地としての紹介パネル記念写真コーナーや子どもがさわって楽しめるコーナーもあります。
 ・坂本龍馬の率いる海援隊が乗り込んだ蒸気船「いろは丸」を模して造られた市営渡船。船内は落ち着いたレトロ調になっており、仙酔島まで約5分の船旅を楽しめる。
 ・かつて坂本龍馬率いる海援隊が乗り込んだ蒸気船「いろは丸」を再現した市営渡船。県道22号線沿いの渡船乗り場と周囲6kmほどの離島・仙酔島を繋いでいる。乗船時間は約5分のため、龍馬ゆかりの地として船内に設置された紹介パネルや記念写真コーナーなどを見ているうちにあっという間に到着。日中は1時間に3本のペースで運航しており、週末や連休中などは多くの観光客でにぎわう。

 ◆いろは丸沈没・事件

 いろは丸は江戸時代末期、いわゆる幕末に伊予国大洲藩(現在の愛媛県大洲市)が所有していた西洋式の長さ三十間、幅三間、深さ二間、四十五馬力、百六十トン、三本マストを備えた蒸気船。
 1862年イギリス・バーミンガムで建造、アピソ号と命名される。
 1866年6月大洲藩郡中奉行であった国島六左衛門が長崎において、龍馬の勧めによりオランダ人商人ボードインから42,500両で購入したというのが通説でしたが、大洲藩が「いろは丸」を購入した時のポルトガル語の契約書が見つかったことが2010年4月23日に愛媛県大洲市によって発表され、覆りました。
 発表によると、ポルトガル人領事・ロウレイロより購入したものだと判明。4万メキシコ・パタカ、10,000両相当で購入したようです。
 また衝突した時に支払いが済んでいなかったとの一説もありましたが、購入時に全額支払い済みであることもわかりました。契約書のサイズは縦は約30cm、横は約40cmだそうです。購入時に船名を「いろは丸」とすることを大洲藩が宣言しました。
 しかし、藩に購入についての許可を得ていなかった国島は責任を取り12月24日切腹。
 最初の航海で瀬戸内海、備讃瀬戸の六島(現在の岡山県笠岡市)で紀州藩の明光丸(887トン)と衝突し、近くの鞆港(現在の広島県福山市)に曳航しようとしたが、浸水のため宇治島沖で沈没した。

 ★いろは丸沈没事件とはどういう事件だったのか…

 「いろは丸」は海援隊が借用するまでの間は、赤地に白の蛇の目の紋旗を掲げて、数回に亘り海運業としての航海を行ったが、其の運用には菅野覚兵衛や、渡辺剛八、橋本久太夫、腰越次郎と云った亀山社中の同志があたっていた。
 こうして、「いろは丸」と亀山社中、そして海援隊は深い係わりを持つことになったのである。
 慶応3年4月23日午後11時頃、いろは丸は最初の航海で瀬戸内海の備中・六島沖を航行中、紀州和歌山藩船・明光丸と衝突し沈没。
 明光丸は紀州和歌山藩が、15万5,000ドルかけてイギリスから購入した、150馬力、880トン、鉄製内車(スクリュー推進)型蒸気船である。積載量は160トンあり、いろは丸の実に6倍近い巨船でありました。
 明光丸は一度いろは丸に衝突した後、あわてて後退し、またもや前進して二度にわたり衝突したといいます。
 いろは丸は自力航行不可能となり、坂本龍馬率いる海援隊乗組員が明光丸に乗り移った後、備中・宇治島沖で沈没しました。

 ★賠償の交渉

 その後は、55万石の紀州藩を相手に、海援隊は坂本龍馬をはじめ、総掛りで賠償の交渉にあたったそうです。
 お互いに航海日誌を提出し、衝突の原因と、責任について激しい攻防戦が行われたといいます。その後、交渉に土佐藩の後藤象二郎が加わり、事は土佐藩と紀州藩の事件に発展しました。
 最終的には土佐藩参政・後藤象二郎と、紀州藩勘定奉行・茂田一次郎とのトップ会談に持ち込まれ、遂に紀州藩は賠償金の支払に同意したのである。
 この決着の裏には、坂本龍馬や岩崎弥太郎の決死の根回しや、対応が実を結んだ物であることは見逃してはならない。
 龍馬の政治力、交渉力、広範囲な人脈を駆使した、傑出した戦いの勝利であった。

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)