◆早毛利稲荷神社
--- 2008-11-23 00:19:47 https://ameblo.jp/shimakaze2002/entry-12549085702.html ---
鞆城址、今の福山市鞆の浦歴史民俗資料館の裏手にひっそりと鎮座する社があります。早毛利神社です。
この神社に関しては縁起・沿革等はよく分かりません。
これはあくまでも私の推測ですが、この神社の名前は、戦国時代に鞆を支配下に置く毛利氏が築城した際に、お城の鎮守社として造営されたのではないかと思います。
今の社殿は、基礎は古いものの建物は昭和のものだと思います。子供の頃、社の中に入ったことがありますが、その時に祭壇に立派な(古代の神獣鏡のような)鏡があったのを今でもはっきり覚えています。
城山にひっそりと鎮座する早毛利神社、その存在は毛利氏が鞆を支配した450年前の足跡のひとつかもしれません。
…と、こんな記述もWEB上にありましたけど、詳しい事は分かりませんようですネ(^-^)
◆鞆城
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
鞆城(ともじょう)は、備後国鞆(現在の広島県福山市鞆町後地)にあった日本の城。福山市指定史跡に指定されている。
・概略
鞆は古代から潮待ちの港として栄え、軍事的にも枢要の地であった。そのため南北朝時代には港湾施設の近くに大可島城が築かれていたが、市街部に城は存在しなかった。なお、建武3年(1336年)には多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏が京に上る途中、この地で京の光厳天皇より新田義貞追討の院宣を受領しており、足利氏にとって縁起の良い土地であった。
鞆城の前身となるのが天文22年(1553年)頃に毛利元就の命により備後地方の豪族である渡辺氏が市街中心部の丘陵に築いた鞆要害である。鞆要害は尼子氏への抑えとして築かれたもので、その規模・構造はよく分っていないが、城域は発掘調査の結果などから概ね鞆の浦歴史民俗資料館一帯であったと推定されている。天正4年(1576年)には京都を追われた足利義昭が毛利氏の庇護の下、この鞆要害で亡命政権(いわゆる「鞆幕府」)を樹立した。幕府としての実態は伴っていなかったというのが定説ではあるものの、藤田達生は義昭が鞆にありながらも歴代将軍と同様に一貫して京都五山をはじめとする幕府管轄下にある禅宗寺院に対して住持任命の辞令である公帖を発給していた事実などを挙げて「室町幕府の身分秩序や武家儀礼は形骸化しつつも、大名権力とは異なる上級政治勢力として存続」していたとしている(「歴史」参照)。
江戸時代に入ると安芸備後を与えられた福島正則により鞆要害の築城が開始され、鞆城と呼ばれるようになった。鞆城は丘陵部の本丸を中心に二の丸、三の丸が囲み、その城域は、南は鞆港、東は福禅寺、北は沼名前神社の参道まで達する大規模なものであった。この時、3層3階の天守も建てられたといわれている。築城は慶長14年(1609年)まで続けられたが、瀬戸内海の中央で戦略的にも枢要な鞆において大きな築城は徳川家康の嫌疑がかかり廃城とされ、福島氏の移封後はその後、西国鎮衛の役目で備後福山に配された水野勝成により福山藩が誕生し、鞆城跡には鞆奉行所が置かれた。
鞆城跡の一角には、「宮城道雄」の像も…宮城道雄と言いますと、「春の海」が有名ですネ。
◆春の海
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
春の海(はるのうみ)は、日本の箏曲家であり作曲家の宮城道雄が作曲した箏曲。ヴァイオリン版も知られるが、本来は箏と尺八の二重奏である。新日本音楽を代表する楽曲である。日本では、小学校における音楽の観賞用教材として指定されているほか、特に正月には、テレビ・ラジオ番組や商業施設等でBGMとして使用されているため、今日では正月をイメージする代表的な曲の一つとして知られている。
・曲の特徴
1930年の歌会始の勅題「海辺の巖」にちなみ、歌会始前の昭和4年(1929年)末に作曲された。宮城は曲のモチーフとして、大正6年(1917年)上京する際に航路で旅した瀬戸内海をイメージして描いている(随筆「『春の海』のことなど」より)。8歳で失明する前に祖父母に育てられて住んでいた瀬戸内の景勝地、福山市の鞆の浦の美しい風景が目に焼きついたのをイメージして描いている、という説は誤り。宮城道雄は幼少の頃に鞆の浦で過ごしたことはなく、初めて鞆に来たのは昭和23年8月のことであった(随筆「鞆の津」より)。
箏とヴァイオリンによる二重奏のレコードの発売は、フランスの有名な女性ヴァイオリニストであったルネ・シュメーの来日に遡る。昭和7年(1932年)、シュメーが東京を訪れた際、演奏披露された宮城の『春の海』をとりわけ気に入り、自身もヴァイオリンで演奏するべく宮城へ申し入れた。シュメーは、滞在先の帝国ホテルで尺八のパートをヴァイオリンへ変更する編曲を独自で行った。一晩で仕上げたという彼女の才能と熱意に宮城は感銘を受けつつ、彼女と奏じたところ、宮城も言葉は通じないが音楽家として曲全体の符合を確信する。これにより2人の公開演奏が決まり、宮城の箏とシュメーのヴァイオリンによる二重奏での『春の海』が日比谷公会堂で演奏された。この宮城とシュメーによる『春の海』は、後に改めて日本で録音され、日本、アメリカ合衆国、フランスでレコード発売された。これが契機となり、日本国内のみでなく国外の人々にも認知され、また親しまれる曲となった。ギドン・クレーメルが来日時に吉野直子と共演した際、この例に倣って演奏・録音した。
『春の海』は、江戸時代までの近世邦楽ではないが、現代においても日本の正月をイメージさせる曲として定着しており、その広がりから日本的な景色を強く印象付ける伝統的な楽曲とされる。
・初演
『春の海』の初演は、1929年末に作曲者である宮城と尺八演奏家の吉田晴風により日比谷公会堂で行われた。事実上の初演は1929年末であるが、宮城は随筆『夢の姿』で何よりも歌会始めの勅題に因んだものであるから、本当の初演は翌年の春としていると述べている。
・著名な演奏
1932年、東京の日比谷公会堂でのフランスの女性ヴァイオリニストのルネ・シュメーと宮城の演奏による『春の海』。
戦後から1960年までの期間で、シュメーとの協演盤が20万枚、吉田晴風との協演盤が3万枚、春の海を収録したLP『宮城道雄名曲選集』は3万3,000枚、EPが5万4,000枚、このうち日本国外への輸出分が1万枚近くあり、ロングヒットを続けている。
1968年、日本のエレキバンド井上宗孝とシャープファイブが『春の海』を演奏した。オルガンで尺八、エレキギターで箏をイメージさせる演奏でアルバム『春の海』に収録された。同年、[日本コロムビア]のLP売上1位を獲得している。
クラブDJアーティストであるDJ OSHOWが、『春の海』をサンプリングした『踊ル皿』という曲を発表している。
ドカンと一発60分!・みごろ!たべごろ!笑いごろ!(伊東四朗と小松政夫が母子になるコント「ツンツク親子」で本曲を口ずさんだ)
ハンニバル・ライジング - 本作のヒロインである紫夫人(Lady Murasaki)が琴で春の海を奏でるシーンがある。オールスター爆笑ものまね紅白歌合戦!! - 番組冒頭、「正月特別番組」の表示が出された画面のBGMに使用。
◆宮城道雄は、今も鞆の浦から「春の海」を眺めている
--- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12655/ ---
鞆の浦民俗資料館の前庭には、作曲家・箏曲家として名高い宮城道雄の像があります。1929年に発表した「春の海」で世界的にも評価された宮城道雄ですが、この曲は、父親の故郷であり、自身が幼少期を過ごした鞆の浦を思って創作したと言われています。宮城道雄は8歳で失明しており、光を失う以前に見た鞆の浦の海が、永遠の原風景として心に刻み込まれていたのでしょう。
◇宮城道雄の像―幼少期の追憶と共に
…と、こんな「春の海」であります。
そして、のどかな瀬戸内を臨めます崖淵には、「佐藤 徹」sanのアート作品『青い春の夢中』の展示が…
◆青い春の夢中
佐藤 徹
素材:鉄・プラスティック・ビニール
◆佐藤 徹 / サトウ トオル
広島県福山市に生まれる。名古屋芸術大学大学院を卒業。
・展覧会歴--日本彫刻会 会員、愛知県作家団体(石田清発足)創彫会 会員
・鞆の浦deアート運営委員
・広島市中区 三親電材 本店ビル内エントランスに大型作品「誠実・奉仕・躍進」
・福山市 双葉電機本社前にブロンズ作品「喜働」社内にもその他作品展示
・社会活動--日本彫刻展、創彫会彫刻展、Metal Works34th、鞆の浦deアート、愛知県-東山動植物園、緑の中の彫刻展、ルクシアタふくやま
…と、web上にはこんな記載がありました(^-^)//"
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