アート作品の傍らには、大伴旅人の歌碑が…そして、説明板には、こんな記載が…
◆大伴旅人「鞆の浦亡妻挽歌」三首の内の一首
万葉集巻三-四四八番歌
天平2年(730)12月、太宰府の長官だった大伴旅人は、大納言兼任となって都に上る途中、「鞆の浦のむろの木」を詠った三首の歌を残した。その三首目がこの歌で、他の二首の歌碑は対潮楼の崖下と歴史民俗資料館の前庭に建っている。
「磯の上にしっかり根を張って立つむろの木よ。太宰府へ下る時、私は妻や息子といっしょにお前を見たのだ。しかし、その妻はもうこの世にはいない。私の愛する妻が今どこにいるのか尋ねたら、お前は私に教えてくれるだろうか。」
こう、むろの木に問い掛ける旅人は、神亀5年(728)の初め太宰府に下ったが、まもなく妻を亡くし悲嘆にくれた。一方、奈良の都では、翌神亀6年2月の長屋王の変によって、光明皇后が誕生し、藤原氏の全盛時代を迎えようとしていた。
子息 家持を伴い、亡き妻の思いを胸に帰京した旅人は、翌天平3年(731)7月、萩の花を気に掛けながら、静かに67年の生涯を閉じた。
--- 2010年4月27日 鞆の浦ロータリークラブ創立40周年記念 ---
境内を見廻しておりますと、う~ん、先ほど法要を執り行っておられます所が本堂かと思っていましたら、本堂は、こちらでありました(^.-)☆
本堂前には、こんな案内板も。
◆医王寺
桃林山慈眼院医王寺は、平安時代の弘法大師の開基と伝えられる真言宗の寺院です。本尊は木造薬師如来立像で県の重要文化財に指定されています。慶長年間(1600年頃)福島正則が藩主となり、鞆城代大崎玄蕃藩がこれを再興しました。現存する鐘楼は1642年(寛永19年)福山藩主水野勝成の建立、本堂は1685年(貞享2年)四代水野勝種の再建したものと伝えられています。ここから15分ばかり登った所にある太子殿からの展望はすばらしいものです。1826年オランダ商館長の随行医師シーボルトはツツジや松などの観察のためにこの小径を登り、植物・昆虫をを採取しました。
…と、こんな医王寺の経緯が。
鐘楼から眺望します瀬戸内の景観…何度眼にしましても実にイィものであります。鐘楼下の崖淵には、女性お二人がノンビリと過ごしておられます。
先客がおられましたようです。気付きませんでしたけど(^-^)//"
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