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 民家と民家の間の石畳の参道を上って行きますと、参道沿いの右手の山門に、武士の顔が描かれました大きなノレンが…
 山門傍らには、『白象侍図 KAI 素材:布地・アクリル絵具・墨』説明が(^-^)

 ◆明圓寺

 --- 9月26日 17:17 https://www.facebook.com/tomomyoenji/posts/2362858390511853 ---

 鞆の浦 浄土真宗 明円寺(真宗大谷派・東本願寺)
 「TOMONOURA de ART」の作品を展示。今年は山門にKAIさん(岡山市)の作品があります。
 この作品を見てどのようなことを感じますか?三百年前の本堂と、新しい作品を感じて下さい。

 ◆松江山宝泉院明圓寺(しょうこうざん ほうせんいん みょうえんじ)

 --- http://www.myoenji.com/ ---

 当山は浄土真宗の寺院で、真宗大谷派(東本願寺)の末寺です。正式には、松江山 宝泉院 明圓寺 といいます。
 鞆の浦の中心を抜け、石畳を上ると明圓寺はあります。
 現在は鞆の浦にありますが、天文年間(1532~1554年)山田村に創建されたと伝えられています。
 元は天台宗でしたが、2代目が山南 光照寺の明光上人に化導され、歴仁元年(1238年)に真宗に改宗しました。
 文明年代末期(1486年頃)山田村の豪族から日蓮宗に改宗を迫られましたが改宗せず、室町末期(1570~1580年)に鞆の浦に移転しました。
 石山合戦の時「進者往生極楽 退者無間地獄」と書かれた薄黄色の手織り木綿の旗を掲げ、石山本願寺に駆けつけました。その功績により本願寺12代教如上人から「松江山明圓寺」という寺号をいただきました。
 その後、鞆の地で多くの御門徒さんとともに長い時を歩んでまいりました。御念仏の道場として常に荘厳され、御同行の薫りのする場所へ是非お参りください。

 ・明圓寺の鐘楼

 明圓寺には江戸時代初め寛永21年(1644)に作られた鐘と珍しい袴型(はかまがた)の鐘楼(しょうろう)(鐘(かね)がつられている建物)があります。
 江戸初期に作られた鐘は、外国船の来船で騒がしくなった幕末と大東亜戦争の時に、その多くが供出されました。
 しかし、幸いにも明圓寺の鐘は御先祖方の御尽力で残りました。そのため私たちは江戸時代初めの音を今も聞くことができます。鐘をつきながら祖先の方々の思いを聞いてみたいと思います。
 また、この鐘は朝鮮鐘の形式も取り入れられているので貴重とされています。この鐘は除夜の鐘のとき皆さんも突くことができます。

 ・住職:松江長親(まつえ ながちか)

 昭和48年に鞆の地で生まれました。小学校4年生の冬に父が亡くなり、それから母と二人きりの生活。高校から京都に行き、25歳で住職になりました。まだまだ若いので元気に走りまわっています。
 現在、妻と長男・長女・母の5人家族です。

 ◆明圓寺

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12649/ ---

 承久年間、沼隈郡山田村に建立された小坊が元とされています。当初は天台宗を奉じていましたが、1238(歴仁元)年、山南村光照寺の明光上人の導きで真宗に改宗しました。鞆の浦への移転は文明年間、山田村の領主に日蓮宗への改宗を迫られ、これを拒否した直後のことです。戦国時代末期にあった織田信長と本願寺の戦い(石山合戦)では、住職の長存が備後門徒を集め、「進者往生極楽、退者無間地獄」の旗を掲げて奮戦し、その後は東本願寺設立にも尽力しました。「松江山明圓寺」の寺号はこれらの功績により、教如上人から授けられたものです。

 ・鞆の浦に根を張る、生きたお寺
 開祖親鸞聖人存命の頃から一貫して念仏の教えを説き、権力にも膝を屈さず、地域の門徒と共に歩んで来たこのお寺は、今も人々に教えを説き、悲喜を共にし、安心の源であり続けています。鞆の浦の諸寺の中で、最大の檀家数を持つとも言われる明圓寺。お墓の数も膨大で、明治時代に活躍し、フランス人ボクサーとの異種格闘戦でも勝利した力士「鞆の平」もこのお寺に眠っているとか。
 ◇海を臨む墓地に、今日も南無阿弥陀仏の名号が響く

 ・鞆の浦に二つだけ、江戸初期の梵鐘
 明圓寺の梵鐘は、鞆奉行萩野新右衛門らの寄進によって1644(寛永21)年に作られました。この時代に作られた鐘は、江戸末期と第二次大戦時の二度の金属供出でほとんどが失われ、鞆の浦でも残っているのはここと、阿彌陀寺の二箇所だけです。朝鮮鐘の形式が取り入れられた江戸初期の貴重な鐘。大晦日には除夜の鐘としてつくことができるそうです。
 ◇腰袴式の優美な鐘楼が、境内に気品を添えて―

 ◆明円寺(福山市)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 明円寺(みょうえんじ)は、広島県福山市にある真宗大谷派の寺院。山号は松江山。本尊は阿弥陀如来。

 ・歴史
 承久年間、沼隈郡山田村に建立された小坊が始まりとされる。当初は天台宗であったが、暦仁元年(1238年)山南村(現・福山市沼隈町)光照寺の明光の導きで浄土真宗に改宗。文明年間、山田村領主から日蓮宗への改宗を迫られたが改宗を拒み、鞆の浦に移転した。石山合戦時は、10代住職長存が備後門徒を集め、「進者往生極楽、退者無間地獄」の旗を掲げて奮戦し、東本願寺設立にも尽力した。その功績により本願寺12代教如から「松江山明円寺」の寺号を賜った。

 …と、WEB上で検索しますと、こんな「明円寺」であります(^.-)☆
 「白象侍図」の制作者・KAIsanも検索しますと、

 ◆KAI:岡山市

 アーティスト名:KAI
 時代劇や歌舞伎、ブラックミュージックなどから影響を受けた作品を多く発表。展覧会だけでなく、ウォールアートの制作や、イベントポスターなどのイラストも手掛ける。
 ・経歴 -- <1994年>1994年生まれ 岡山市在住、<2003年~>活動開始 以来、毎年展覧会を開催‬

 …と、こんな記載がありましたネ。
 それでは、山門の作品を潜って、境内を拝見です(^-^)//"

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